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剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.20(07:00) 253

**畠山一族

**畠山重忠の家族

    重忠の妻妾で判っているのは、北条時政の娘と足立遠元の娘である。
  重忠と一緒に死んだ小次郎重秀は、その時二十三歳で遠元の娘が母であった。

  六郎重保は実朝の室を京都まで迎えに行ったりしているので、どうも嫡子のようだ。 時政の娘が生んだ子で間違いない。
  六郎という呼び名は六番目の子となるのだがどうもはっきりしないが、年齢は、京都に一緒に行った政範が十六歳という事から、どうも重秀より若かったと考えられる。  歳が下でも母の出自が良ければ嫡子とするのがこの頃の例である。 他に男子二名、女子一名等が見えるがよくわからない。

    重忠夫人、時政の娘は、その後 足利義兼の次男・岩松義純に嫁し、畠山三郎泰国を生んでいる。  義兼も時政の娘を夫人としていて、北条とは親しい関係にあったと思われるので、この点からも北条氏が武蔵国を掌握しようといていた事が窺える。 この畠山の子孫が後に足利幕府の管領となるのである。

**二俣川の戦い

   幕府の重臣で文武両道に輝く畠山重忠は、北条時政とその妻牧の方姦計にはめられ、謀反人に仕立て上げられ、元久元年(1205)6月、帷子川の鶴ヶ峰に着いた、重忠はここで初めて自分が謀反人にされている事を知るが、平服の重忠は130余騎で、帷子川の南(万騎が原)で待ち受けていた北条義時率いる総勢一万騎を超える大軍と四時間に及ぶ死闘の末、42歳の生涯を終えた。

   現在の鶴ヶ峰本町(二俣川合戦地)に薬王寺という曹洞宗の寺院がある。  境内には重忠はじめ、討ち死にした一族郎党130余騎が祀られる霊堂があり、金箔の位牌が残される。 付近には郎党が祀られる「六つ塚」があり、塚の周辺には供養の畠山地蔵が建てられている。

**陰謀の真相

   牧の方の陰謀に時政が加担していたらしいという風評が飛ぶと、即座に北条政子は弟義時、三浦義村、結城朝光らに命じて、時政の名越邸に居住する将軍実朝の身柄を迎え出させ、義時の大蔵邸に移させた。 
  この処置は、時政・牧の方両人の陰謀という噂が事実であった事を裏書きするものであった。  少なくとも、尼将軍北条政子が父時政を信じてはいず、弟の義時を信じているという事を示していた。

   その直後、執権時政の名越邸に詰めていた御家人の姿が名越邸から消えたという。  時政の政治生命は断たれ、翌日には執権職を辞し、鎌倉をはなれ伊豆北条に引退した。

   代わって北条義時が執権の座に就いた。  この時には、義時・時房兄弟が父時政、義母牧の方の畠山重忠謀殺の命に強硬に反対したものの、心ならずも父の下知に従ったのだという風評が、すでに鎌倉中に流布されていた。
 重忠の戦死後、並み居る御家人たちの前で義時が時政に報告した言葉が、諸人の胸に甦った。  重忠の首を陣頭で見た時、義時の目に涙が見えたという噂も付け加えられていた。 そして尼将軍政子が将軍実朝身柄を義時に預けた事は、時政の陰謀に義時が加担していなかった事を示していた。


   時政の執権職辞任、義時の執権職就任は、御家人たちになんの不審も抱かせる事無く実現された。   やがて、京都に向け平賀朝雅追討の討手が差向けられ、武蔵守の職は空席になった。 

   二年後の承元元年(1207)正月、義時の弟、北条時房が武蔵守に就任し、北条氏の武蔵侵攻は完了した。
  北条氏一族としては、時政の政治生命ひとつを犠牲にする事によって、武蔵一国を手中に収めたのである。
北条時政公墓所 (伊豆の国市・願成就院)
北条時政公墓所(願成就院)
畠山一族を祀る薬王寺 (横浜旭区・鶴ヶ峰)
薬王寺・一族祀り
畠山重忠公・首塚 (横浜旭区・鶴ヶ峰)
重忠公・首塚

(了)

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.15(07:00) 252

**畠山一族

**畠山重忠の評価

   畠山重忠は剛勇にして武略に富み、囚人となった後も、自ら清廉潔白、誠実二心なしと称し、よく礼節を重んじた。  また聡明叡智・思慮周密、音曲の才もあったという。  また風流を解し、神を敬っては、武州御嶽に自筆の願文を添えて太刀を奉納し、仏を崇っては、法然上人に帰依、畠山に満福寺を再興し、秩父に総持寺を創建したと伝えられ、鎌倉武士の典型と称される人物である。

  「吾妻鑑」などの記事をすべて信ずれば、従来の評価は当然重忠に与えられるべきものであった。 しかも現在のわれわれには、具体的事例が真実であるか、創作であるかを検討する手段がほとんどない。
  問題はそういう話や記録が伝えられていたこと、「吾妻鑑」などの編者が、それを書き記した点にある。  素直に読む限り、重忠の話は良い面ばかりが書かれている。 これは一体どういうう事なのか、と思わざるを得ない。

   重忠の美談が伝わった理由について考える・・・・・。北条氏は重忠を謀殺した後、武蔵国を掌握した。
  甲斐の国に入ったら武田信玄の悪口を言うべからず、という。 三河の吉良では吉良上野介、近江の彦根では井伊直弼、薩迄の西郷隆盛のように、武蔵における重忠の声望は絶大なものがあったのであろう。  北条氏は重忠の謀殺は絶対に必要であったのだが、武蔵国を得るためには、重忠が悪かったとすることは出来なかったのではないか。 重忠を悪く言っては、武蔵の人心を得る事は出来なかった。  武蔵のみでなく、当時の世間一般の人心をも得る事も難しかったのであろう。
  実朝も後に、「重忠、元より過ちなくして誅を蒙る」と言っている。   それで重忠は事実無根の事で謀殺されたのだ、仕掛けたのは平賀朝雅と牧の方、それに動かせられた時政である。 義時は極力弁護したが、牧の方の圧力でやむなくたったのである、という筋にしたのではないかと思われる。
   研究者の考え方では、義時弁護の曲筆といった説が多く見られるが、それは「吾妻鑑」の編集者の曲筆ではなく、編纂を始める以前よりの通説として伝わったとする方が自然である・・・。 と考えられている。

   「吾妻鑑」は「鏡」でである。  おのずから教訓を含む、美談佳話を多く挿話としているのは良く知られている事である。  重忠の場合、囚人となったのち起請文を断った話でも、最後の二俣川の時でも、梶原景時が罷免された時のような行動をせず、逆に戒めているのは、もっと教訓的な意味を放つのである。  重忠は筋を通して危険・困難をもあえて逃げないかによって、人間の価値が決まるという・・・・。
  かくて重忠の美談には人心を鼓舞するものがある。
鎌倉風景・三題    瑞泉寺・芙蓉 (台風の後)
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瑞泉寺参道

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.10(07:00) 251

**畠山一族

**重忠はなぜ謀殺された?

    畠山重忠も平賀朝雅も北条時政の婿であるが、妻同士の姉妹はは腹違いであった。 それで、仲が悪くて讒言でもあったのであろうか。
  重忠は弓矢にかけては無双の仁、剛勇で知られ、当将軍実朝の守護の人である。 北条時政・牧の方にとっては忠直な重忠は邪魔であるから滅ぼしてしまえと思って、重成を語っておびき出し謀殺したという説。 つまり、牧の方が実朝を除いて娘婿の平賀朝雅(源氏門葉)を将軍とする事の弊害となるので殺したという考え方である。

   この説は、暫くして実朝を除こうとした牧の方の陰謀が発覚し、結局時政は入道して伊豆に隠居し、牧の方は自殺、朝政は殺害されるという事件が起きたのであるからこの考え方はまともで、北条氏の野望を達成するためには、忠直な重忠がいては邪魔である、とするものである。

   しかし、源氏守護の武将は重忠だけなのか。   三浦氏、千葉氏、葛西氏、足利氏、小山氏、結城氏、安達氏らの諸氏はいかに・・・・。時政の婿である重忠が、この時点で滅ぼされなければならなかったのであろうか・・。

    前述したと思うが武蔵国は平家の知行国であった。  一の谷の戦い迄、武蔵守・知章(平氏)が治める平家の知行国で、実質的に治承四年(1180)には一時的に頼朝がこれを没収していた。
  そして、正式には元暦元年(1184)の徐目で、平賀義信(門葉)が頼朝の推挙によって武蔵守に任ぜられた。

   平賀義信は少なくとも建久六年(1195)までは武蔵守であった。  ついで正治二年(1200)に武蔵守朝政と見えるのは平賀朝雅(善信子息)の事であろう、以後散見しつつ元久元年(1204)に、武蔵前守朝雅とあるので、これ以前に更迭されたのであろう。  次に武蔵守が明らかになるのは、承久元年(1204)に補せられた北条時房である。

   ようやく武蔵国が北条氏の手に入ったのである。  北条氏は武蔵の国をガッチリ掌握したいと考えていたと思われ、武蔵国の国務を、北条氏嫡流である得宗の地位と不可分に結びついて、離れる事は無かったと推定される。   

   武蔵国の豪族は、先に河越重頼が殺害され、ついで比企能員が謀殺され、残るは重忠であった。 重代のの豪族を一掃しなければ、本当の掌握は出来ない。  時政にせよ、朝雅にせよ、あるいは義時でさえも、折あらば重忠を打倒しようと考えたとしても不思議はないのである。  さらに頼朝にしても武蔵国は掌握したかった筈である。
  それは恐らく鎌倉を防衛する為の戦略的意義を持つからであろう。

   義時は頼朝の感化を非常に強く受けた形跡があり、 義時こそが武蔵国を取りたかったのだとさえいえるのである。  しかも頼朝は、ともかく重忠の正直・忠誠を受け入れる地位にいた。   北条氏は違うのである。主従と同輩との違いである。  そこにはどうしても重忠を倒さなければならぬ要因があったと思われる。

   京都で重保と朝雅が口論したというのも、そのあたりが原因でなかったか?とさえ思う。  稲毛重成が誅殺されるのも、時政の一貫した方針であったのであろう。

   時政としては、実朝が結婚して一人前となる前に、つまり権力が自分にあるうちに、武蔵国の邪魔者を一掃したいと考えたのであろう。 この時強引に重忠謀殺の段取りをつけたと考えられる。

   牧の方が自分の娘と先妻の娘とを差別し、重忠を滅ぼそうとした事は、おそらく正しい推測と考える。 しかし、その讒言が効果を生ずるには、時政の行動が必要であった・・・。  この時すでに重忠一族の命運は風前の灯であった・・・・・・。
鎌倉御家人・足利貞氏(尊氏父)墓  (臨済宗・浄妙寺)(鎌倉五山第・四位)
足利貞氏墓
鎌倉幕府・初代御所・・大倉御所東・西門跡  (鎌倉市・西御門)
東御門
西御門

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.05(07:00) 250

**畠山一族

**二俣川合戦

  待ち構えた重忠の軍勢に北条軍が襲い掛かった。  足立景盛以下の北条軍は数万騎と考えられるが、激戦は四時間余りに及んだという。 恐らく攻撃軍は重忠に同情するところがあって、果敢な攻撃を控えたのであろう・・・。
  もし数万騎が本気で戦ったら、戦場となった二俣川のような地形の所では、いかに戦っても百三十騎位の畠山勢は一瞬にして撃破されたに違いない・・・。  しかし、敵の矢が重忠に命中し、重忠は首級を取られた。   42歳であった。
  この時をもって、重秀以下も自殺し、二俣川の流れに鮮血を染めて一族は滅んだのである。

    元久二年(1205)6月23日、 義時以下の軍勢が鎌倉に帰還、時政に戦況の報告がなされ義時は、重忠の弟や親類は大方他所にいて二俣川には僅か百騎余りでしたから、謀反を企てたとは「嘘」でした。 と報告している。   
  重忠は無実の讒言で殺されたので、非常に残念である。  年来一緒に過ごした仲間なので誠に悔しい・・・。時政は一言も無かったという。

 その後、同族の稲毛重成の一族が、三浦義村によって誅殺される事件が起こった。(吾)

  二俣川合戦の起こりは全く重成の奸謀によるものとされた。 平賀朝雅が重忠に遺恨があり、牧の方に諫言したので、時政が重成と語らい・・・、鎌倉に変事が起きたと通報し、二俣川で重忠は非業の死を遂げたのである。
    


   義時が重忠に同情的だったのは理解できるのだが、その後の展開がいささか不自然さが残る・・・・・。 
  事件後、相談相手としていた姉の北条政子が、重忠の所領を勲功のあった者に与えている事、更に政子に仕えた女房たちにも亡卒の遺領を与えている。  無実と知っての事ならば、重忠の遺族らに所領を安堵させるべきなのに、義時はこの件を諌めた形跡はない。   

   しかも義時は、重忠を謀殺する時は、時政の意見に結果的に同調しながら、 平賀朝雅を謀殺する時には、時政をも失脚させている。
  このように、義時の二俣川合戦以降の行動に矛盾をを感じるが・・・・、「吾妻鑑」の編者が強いて義時を弁護しているように見えるが・・・・・・・。
  「吾妻鑑」の記述が北条氏の為に曲筆している事は他にも多く認められるらしい・・・・。
安達景盛邸旧跡・・・・・鎌倉長谷・甘縄神明社付近
安達盛長邸
北条義時法華堂跡・・・・頼朝公墓の東側の位置
義時・法華堂跡
畠山重忠終焉の地碑・・・・・・(横浜市旭区二俣川)
畠山重忠終焉の地

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.30(07:00) 249

**畠山一族

**二俣川合戦

   北条時政は、重忠を滅ぼす計画を実行に移した。   
  同族の稲毛重成の招きに応じた、畠山重保は鎌倉に入った。

  北条時政は既に畠山親子を誅殺する企てを、子息の義時・時房に打ち明けていた。  時政がこの計画を決意したのは、重保から中傷を受けた平賀朝雅からの「讒訴」 を、時政の妻牧の方が時政に伝えたからだという。   (吾妻鑑)

  稲毛重成は重忠の従兄弟であり、畠山流の一員として重忠親子とつながりを持っていた事は疑いない。  畠山重保が重成に招かれて武蔵から鎌倉にやってきたのは、彼らが実際に一族として活動していた事を示している。  しかし、以前にも述べたが重成・榛名重朝ら小山田有重の子息たちは、重忠とは微妙な関係にあったと考えている。  重成・重朝は、重忠と異なり頼朝の側近くに仕えており、彼らもそのような待遇を望んでいた節がある。  したがって、重成・重朝兄弟と重忠一党との間には、親近感と緊張感が併存していたと思われるのである。
  時政は両者のこのような関係を知っており、重成を味方に引き込んだのであろう。  重忠親子を誅殺した後に残る秩父平氏嫡流の有力者は、小山田有重の子息たちである。  重成は、重忠誅殺後に秩父平氏嫡流の族長になる事を望んで、時政の誘いに応じたと考えられ、利害が一致したのである。

   さて、計画を打ち明けられた子息義時・時房は、時政の考えに強く反対した。  
 彼らは、畠山重忠は右大将軍に忠直であった。 又、比企氏との合戦には味方に忠節を尽くしてくれた、我々との礼を重んじたからです。 しかし、何の憤懣があって叛逆を企むのでしょうか・・・・・。 
もし、度々の勲功をお捨てになり、粗忽に誅殺したならば、後悔するでしょう・・・。と反対の態度を示し別れている。 

   その後、義時の屋敷に時政の後妻 牧の方の使者が訪れ義時を説得している。  どのような説得をしたかは不明であるが、その後事態は大きく動き出したのである。  (吾妻鑑6月21条)

   まず畠山重保が謀反の知らせを受け郎党三人を率い由比ヶ浜に向かったところで、三浦義村の郎従佐久間太郎らに囲まれ、殺害されてしまった。      (謀殺である)
  三浦義村は、重忠親子が誅殺されるという情報を得て迅速に動き、重保を殺した。  義村は二十五年前、秩父平氏嫡流に率いられた軍勢に祖父三浦義明を殺害された恨みを晴らしたかったのである。

   この情勢に畠山重忠が鎌倉に入るという情報に幕府の意思が決定された。  北条義時が大手の大将軍として進発した。  北条時房は、重忠の退路を断つべく、武蔵府中と水力交通の要衝である関戸(多摩市)方面を固める大将軍として進発した。

   畠山重忠は鶴ヶ峰の麓に陣を張った。  従った者たちは、次男小次郎重秀、郎従の本田近常・榛沢成清以下の134騎であった。  この時、弟の長野重清は信濃国に、澁口重宗は陸奥国に居り、重忠の子息と側近によって軍勢が構成されていたと思われる。
  重忠はこの陣中で、当日の朝重保が誅殺された事を知り、また幕府軍が襲来することを知った。  側近たちは軍勢の多さに、本所に籠っての籠城戦を進言したが、重忠は陰謀の企みを怖れ、又、この様な推察を受ける事を恥じ、後進の戒めとしたと思われる。
武蔵国・二俣川
二俣川由来の地
鎌倉古道・二俣川付近  (中の道)
鎌倉古道・中ノ道
武蔵国・二俣川古戦場跡   (横浜旭区・二俣川)
二俣川合戦古戦場跡
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