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近世都市への転換

2020.08.10(08:00) 316

**小田原藩

**大久保氏による領内経営

   戦禍に見舞われた小田原の城付領のうち、酒匂川左岸地域に検地が実施される。 家康が関東各地で実施した徳川系検地の一環として、忠世の家臣が検地奉行となって行われた。
  この検地は秀吉の太閤検地とは違う特色が見られる。  それまでは、大規模な経営を行う複数の百姓の住む荘・郷が、核となる百姓経営毎に村切りされ、各村ごとに一人の名主(庄屋)が置かれるようになった。  名主の呼称は後北条時代から見られるが、荘・郷単位の年貢を請け負うような大庄屋は廃止され、一村の年貢請負に責任を持つ近世的な名主村請制が採用された。 後北条氏の家臣のうち在地性の強い地侍層は、これを機に土着し土豪百姓として名主となったものも多い。
 一言で村請制といっても、戦国期と近世とでは本質が全く異なる。 また、検地帳にはそれまでの貫高に代えて石高表記が使われ、田畑の名請けがなされたように兵農分離も一定程度進められたが、隷属関係を示す分付記載や門屋も少なからず見られた。そうした隷属関係がこの地方から完全に見受けられなくなるのは約100年の時間を要することになる。

   さて、小田原城下の支配は当初、家康配下の加々爪政尚や江戸の町奉行と小田原の「地奉行」を兼務する板倉勝重が管轄しており、城付領村からの年貢米徴収など蔵米管理は徳川直轄地同様に代官頭伊那忠次が担当していた・。しかし、それも文禄元年(1592)頃から忠世の重臣(家老)へ順次引き継がれていく。 それと合わせて、大口(南足柄市)の土手普請など足柄平野を流れる酒匂川の治水事業にも着手したと考えられている。

   家康のもと戦国時代を生き抜いた忠世は小田原で没し、自ら開基となった大久寺に葬られた。 忠世亡き後、遺領を継いだ忠隣の代にも酒匂川の治水事業は継続された。それまで暴れ川であった酒匂川の本流を足柄平野の中央部に固定する為、班目村(南足柄市)から延びる大口土手を完成させた。 この、土手普請と並行して新川(酒匂堤)の開削も進められた。 金手村(大井町)から酒匂川本流の水を分けて、酒匂川東部の十三ヵ村を潤す用水路である。

   ところで、小田原の城主(藩主)の居所は二の丸屋形でであり、本丸御殿は徳川将軍家の陣所であった。
  文禄の役(朝鮮出兵)に際して江戸を出発した家康は、途中小田原に着陣、肥前名護屋に向かい、翌年の帰路でも小田原城本丸に入城している。  石田三成方との決戦(関ケ原合戦)に向かうに際しても家康は、小田原に着陣し、西上していく。 この時は、秀忠に従軍し上田城真田攻めに加わった忠隣に嫡男忠常が小田原城で家康を出迎えている。 すべからく小田原城本丸は徳川氏の本陣として機能しており、その性格は江戸期を通じて変わらない。
小田原城・早川口付近
早川口
旧東海道・風祭付近
DSCN5502.jpg
大久保忠世菩提寺
大久保一族菩提寺

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近世都市への転換

2020.08.05(07:00) 315

**小田原藩

**初代城主

   小田原合戦の終盤、天正十八年(1590)6月までには、関東・奥両惣無事の責任者とされた徳川家康の関東への国替えは決まっていたとされる。 秀吉の腹づもりとしては当然の流れである。
 北条氏が降伏し、小田原城に入った秀吉から家康の江戸移封が公表され、併せて家康の重臣大久保忠世が小田原城主に指名された。 その際、忠世は家康から城周の所領四万石を預り、さらに秀吉から五千石を加増された。 直後、忠世の嫡子大久保忠隣も武蔵・羽生領(二万石)を拝領したので、親子で計六万五千石を領有する事になった。

   大久保氏は三河時代より松平家に仕える古参の家臣で、碧海郡上和田郷(岡崎市)を本貫の地とする。忠世は忠員の嫡男として生まれ、天文十五年、渡河原の戦いで初陣を飾り、弘治元年(1555)、松平竹千代(家康)の手勢が今川義元軍の先鋒として蟹江城(蟹江町)を攻略した際の戦攻者「蟹江の七本槍」には忠員ほかその子忠世・忠佐ら大久保一族が名を連ねた。

   その後、家康は西三河の一向一揆を相手に苦戦するが、これを平定し、三河に於いて大名としての地位を確立する。 さらに、今川氏の去った遠江国を武田氏と奪い合う状況の中、居城を岡崎から浜松へと移した。その後、武田氏が滅亡し、駿河・信濃・甲斐を含めた五ヶ国を領有することになる。

   小田原を任された忠世は当初、元北条家臣山角氏の屋敷に住居しながら、早速小田原城の修築に取り掛った。入生田など早川筋や久野などから石材を調達して本丸廻、内・外堀などの石垣普請に取り掛った。 それは、伊豆石を搬入しての江戸城の築城にも先立つものであった。 後年、稲葉氏が建造する外堀の切り石による石垣の下から発見された、玉石積の石垣がその一部と考えられる。  北条氏の堀(障子堀)と土塁を防御の基本とする小田原城は、その戦国期の城域をベースに、石垣造りの近世的な城郭へと変貌を遂げる事になった。

   二重櫓のの天守が後北条時代よりあったと推定されているが、忠世、ないしは忠隣の時代、その上に石垣を伴った三重の天守を築いた可能性がある。  昭和になって現在の天守を築造するため天守台を掘り下げた際に、その下から古い野面積の天守台石垣が発見されており、その事を推測せしめる。 また、小田原城の本丸御殿は北条時代の物を当初家康も御殿として利用したようだ。
  だが、北条時代よりそのまま小田原城にそのまま現存する生き証人は本丸七本松の一本(クロマツ)のほか、二の丸のイヌマキ、ビャクシンたち巨木だけである。
初代小田原城城主・大久保忠世公墓所・・・・・小田原・大久寺
大久保一族・墓所
大久保一族菩提寺・大久寺
大久保一族菩提寺
伝・城門礎石・・・・・・小田原城内
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戦国北条氏・五代

2020.07.30(08:00) 314

**戦国大名・北条一族

**関東制覇を目前に北条氏滅亡


   秀吉は、氏直が当主であったものの、家康の娘婿である事から助命し、代わりに最高実力者の父氏政、御一家衆を代表して氏照、家臣を代表して松田憲秀・大道寺政繁を切腹させることで、帳尻を合わせた。

  その後、小田原城の接収が開始され、家康の軍勢が入場し、家康自身も入城した。 この後、北条領国は家康に継承されることになった。  氏政が家康の陣所に移り、氏政の助命も嘆願されたが、実現されず、氏政・氏照は切腹を遂げた。

   助命された氏直は、高野山に追放される事が決まり、戦国大名北条氏は滅亡を遂げた。  そしてそれは同時に、羽柴秀吉による天下統一の完成でもあった。 北条氏は、初代宗瑞が戦国の幕開けに相応しく登場してきたのに対応する様に、最後は戦国の幕引きに合わせて、その歴史を閉じることになった。 いわば北条氏は、戦国時代の幕開けと幕引きの両方に密接に関わっていたのであり、また戦国時代を象徴する戦国大名であったと言えよう。

  高野山に追放となった氏直は、天正十九年(1591)、舅の家康らを通じて秀吉への身上の取り成しをを求め,赦免がなされ、大阪への移住を命ぜられた。  そして、大阪城に出仕し、秀吉に拝謁して、正式に秀吉から赦免され、あわせて知行一万石を拝領した。
 氏直は、ここに秀吉の旗本家臣として再出発を果たしのである。  拝謁の際には、翌年に予定されている朝鮮への従軍を命じられている。  しかし、氏直はその後疱瘡を患い、そのまま回復する事無く死去した。享年30歳。  嗣子が無かったため、叔父氏規の嫡子氏盛による家名相続が認められた。
五代氏直代

戦国大名北条氏五代終わり

     ● 最後まで愛読いただき有難う御座います。 昨年暮れにスタートしました、今回のテーマ「戦国大名北条氏・五代」は、もう少しスピーディーな展開でレポートする予定でしたが、種々・色々のエピソードはなかなか捨てがたく、中々まとまりのない展開で、長くなりました。 北条氏は徳川氏との関係で家名は存続しました事は、最終回でレポートしました。
 次回からは、「戦国大名北条氏」が拠点とした小田原城は秀吉によって無血開城しました。 城は無傷で残ったのです。 
 そこで、その辺りのレポートを予定(8月)しています。

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戦国北条氏・五代

2020.07.25(09:00) 313

**戦国大名・北条一族

**運命の小田原合戦

   北条氏は、十二月後半から、領国内の家臣・他国衆を小田原城に入城させ、或は各地に配備して、防衛体制の整備が完了した。  秀吉軍は、天正十八年(1590)2月から各大名が出陣、3月に入って秀吉本隊が京都を出陣した。   同じ頃、伊豆三島及び伊豆・駿河国境の喜瀬川で、徳川家康・織田信雄・羽柴秀次らとの間で戦闘が行われ、小田原合戦の幕が切って降ろされた。

   三月下旬に秀吉が駿河三枚橋城(沼津市)に着陣すると、羽柴軍による本格的な侵攻が開始され、山中城が即日に落城した。  家康軍の先陣が箱根に進み、翌日には秀吉も箱根峠に進んだ。  
  さらに、家康軍は小田原城付近まで進撃し、秀吉は湯本の早雲寺に本陣を据えた。 そして、同月中旬頃には小田原城包囲陣が完成し、小田原城攻防戦は、籠城戦となった。  

   他方、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北陸道軍は、三月ろに信濃・上野国境の碓氷峠に達し、北条軍と戦闘があり、この方面でも合戦が開始された。 また、浅野長吉や家康配下の軍勢からなる東海道軍の別働隊が小田原から東進して、相模玉縄城(鎌倉市)、武蔵江戸城(千代田区)、下総・上総の諸城を攻略し、さらに武蔵に転進した。 

   そして、六月下旬までには、武蔵の北条方諸城は攻略され、さらには韮山城、津久井城も開城して、北条方の需要拠点は軒並み攻略され、本城小田原城のみが残された。
  小田原城は、四月中旬から籠城を強いられていた。 秀吉はそれ以前に向かい城として石垣山城(小田原市)の構築を進め、五月中旬には石垣が竣工している。 その後、六月下旬には建築物も完成をみて、同地に本陣を構えた。

*石橋山城・・・・羽柴秀吉一夜城

   一方の北条氏は、周辺の戦況も悪化の一方を辿っていたため、氏直は羽柴方との和睦を本格的に模索しはじめた。  仲介は徳川家康と織田信雄が務めた。   信雄の家臣岡本利世が、氏直側近の垪和豊繁の手引きによって城内に入り、氏直と対面している。  その後、信雄の家臣滝川雄利と秀吉の家臣黒田孝高が使者として城内に派遣された。
 その後、氏直は仲介者の勧告に従って秀吉への「出頭」に「同意」し、手筈を整えた。  数日後には、ついに氏直は弟氏房と共に城を出て、滝川の神所に投降した。 そこで氏直は、滝川・黒田を通して秀吉に対し、自らの切腹と引き換えに城兵の助命を嘆願した。 秀吉はこの申し出に「神妙」と感嘆しながらも、徹底抗戦した城兵をすべて助命する「法度」はないことを理由に、合戦の責任を氏政・氏照・松田憲秀・大道寺政繁の四人に負わせて、彼らに切腹を命じた。
秀吉・小田原合戦時最初の本陣・・湯本早雲寺
早雲禅寺
小田原城から一夜城を望む
小田原城~一夜城
北条氏政・氏照兄弟の墓  JR小田原駅付近
北条氏政・氏照墓

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戦国北条氏・五代

2020.07.20(08:00) 312

**戦国大名・北条一族

**羽柴秀吉との全面対決

   氏規の上洛・出仕をうけ、秀吉は続いて氏政・氏直父子のいずれか一人の上洛・出仕を要請し、これに対し北条氏は、上洛の交換条件として沼田領問題の解決を要求した。
 本来この問題は、天正十年の徳川氏との同盟に際し、北条氏が上野の領有権を獲得し、自力によって帰属を図るべきものだった。

   秀吉も、この北条氏の要求については「事を左右に寄せ」たものと認識しつつも、北条氏の上洛・出仕を優先させて、徳川氏・真田氏に沼田領の割譲を指示する事にした。 秀吉は、北条氏が自力で沼田領を経略できなかった経緯を踏まえて、北条氏には同領のうち三分二のみを割譲し、残る三分一は真田氏にそのまま安堵し、北条氏に割譲した三分にに相当する替地は家康から与えると裁定した。

   天正十七年(1589)六月、氏直はその内容に「具に得心」した旨と、この了承をうけて十二月に父氏政が上洛する旨を秀吉に言上した。  秀吉は北条氏の返答を受けて、上使を派遣して沼田領の割譲を実行、七月に請け取りがなされた。 その後、沼田領支配は氏邦に委ねられ、氏邦は重臣猪俣邦憲を沼田城の城主として置いた。
 沼田領引き渡しにより、いよいよ氏政の上洛が政治的焦点となった。  ところが十月になって、沼田城主の猪俣邦憲が、真田氏に留保されていた利根川対岸の名胡桃城(群馬・水上町)を攻略するという事件が発生した。

   この報は、直ちに真田昌幸や徳川家康から秀吉のもとにもたらされ、秀吉はこれを沼田領問題の裁定に対する重大な違約行為ととらえた。   立腹した秀吉は、氏政の年内上洛が実現されなければ、来春に北条氏を追討すること、氏政の上洛が実現したとしても、名胡桃城攻略の張本人の成敗が無ければ、北条氏を赦免しない事などを周辺緒大名に表明した。
  十一月になると、北条に対し俗に宣戦布告状と称される条書を送付し、討伐の意思を示した。

   秀吉の強硬な態度に接した氏直は、来春の氏政の上洛の意思を伝えるとともに、氏政が上洛した後にそのまま抑留されるとの噂があるが配慮願いたい旨の要求し、名胡桃城については北条氏は奪取していないと弁明している。
  こうした北条氏の対応を、秀吉は上洛・出仕の拒否、沼田領問題裁定に対する否認として認識し、早くも十二月には諸大名に対して、北条氏追討の陣触を発した。 一方、北条氏もこれを受けて、秀吉との対戦を決意して、領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への参陣を命令し、羽柴軍迎撃の為の態勢を取っていった。 ここに至って、北条氏は秀吉との全面的対決に突入していく。
小田原城箱根口・城門跡
小田原城箱根口
現在至る城下町「薬舗」
小田原宿薬舗
現在に至る城下町「まるう蒲鉾」店
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