FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.13(07:00) 111

**弘安の役

**日本軍の奮戦

炎が燃え上がると、他の軍船の反応は早かった。  各兵船ごとに船首・船尾・両船側などにかがり火が燃やされて、周囲の海面を照らし出して夜討ちを封じるとともに、各船相互に助け合えるように、兵船と兵船とを鎖でつなぎ合わせた。
この為経永(tunenaga)に続いて河野六郎道有(mitiari)が夜襲を敢行した時には、すでに奇襲にはならなかった。  それでもその夜、博多湾の海上では、あちこちに火の手が上がった。  夜襲から諸将が帰ってくると、浜辺で凱歌が挙がった。 夜が白みかけるまで、夜襲は続き、日本軍の優勢のうちに終わった。

翌日は、両軍ともに機を覗いながら、互いに睨み合っていたが、合戦は無かった。
しかし、日本側では、志賀島・能古島が占領されているのが、気がかりになっていた。  その志賀島と能古島の奪還作戦が敢行されたのである。  干上がった「海の中道」 を通って志賀島に攻め込んだのは、大友頼泰(yoriyasu)の郎党30騎だった。  しかし、敵方の防戦に、結局は撃退された。

海上を能古島目指した日本軍については、途中で敵戦団に阻止されて能古島には到達できなかったと思われる。  激戦が続く中鎮西武士の間で、九州の武士ばかりが戦っている、関東の武士も戦ったらというささやきが聞こえてきた。
時宗がかねてから気にしていた不和が起こりそうだった。  しかし、翌日には安達泰盛の子盛宗(morimune)の出撃が、合戦に転機をもたらした。  この攻撃に合わせるように東路軍の各船が一斉に錨を上げて、博多湾外に出て行ったのである。

この東路軍の退却は、かつては日本軍の激しい抵抗に手を焼いて、東路軍が退却したのだと思われていたが、現在では真相が判明している。  東路軍内に疫病が流行し、すでに病死が3,000人に及んでいた様だ。   東路軍の兵士は、三十五日間も海上にいたのである。

東路軍が博多湾を出て行った理由は、補給を求めての事だった。  そして壱岐島を目指した。  江南軍との合流を図ったのである。

**神風意識の萌芽

六月、壱岐島付近の海上で、東路軍の軍会議が行われた。  壱岐島で合流し博多を攻撃する予定であった江南軍と合流できなかったからである。  都元帥の忻都(kinto)、右副元帥の洪茶丘(kou・sakiyuu)は、撤退帰国を主張した。  しかし、左副元帥の金方慶(kin・houkei)は何も言わなかった。

かって洪茶丘は、金方慶が蒙古に謀反を起そうとしていると訴えた事があり、洪茶丘へ強い憎悪を持っていたと思われる。  会議の決定は帰国となった。   しかし、この時江南軍からの使船が到着し、 「大宰府の西方、平戸にて会合せん」 と伝達してきた。

江南軍は、出撃前から兵糧の積み込みが遅れたり、都元帥が重病になり、代わって右副元帥の阿塔海(a・toukai)が都元帥に就任するなどで出撃が遅れていた。  この為兵船3,500艘、兵員十万という江南軍の出撃は十日以上の遅れとなった。

江南軍と連絡が付いた東路軍は、その指示に従って、日本の攻撃をかわしつつ肥前国・鷹島に向かって移動しつつあった。 一方の江南軍は、やや西方の平戸島の東北方の海上に集結しつつあった。 そして七月上旬には合流したようだ。

蒙古軍の上陸作戦が開始された・・・・・。  しかし日本軍の松浦党がすでに防備を固めており、さらに薩摩の御家人を率いた島津長久(nagahisa)が馳せ参じ、交戦し、東路軍の上陸作戦は失敗に終わった。
一方、江南軍は三方から鷹島に上陸作戦を敢行したが、松浦党を中心とした日本軍がこれを撃退し、江南軍の上陸作戦も失敗に終わった。  さらに両軍ともに日本軍の逆襲に備えて各船を鎖でつなぎ、甲板と甲板との間に厚板を敷いた。

七月三十日の夜、九州方面を大暴風雨が襲った。  翌日には京都でも暴風雨があったというので、台風だったかもしれません。
翌朝、東路・江南両軍の兵船の大部分は、すでに転覆していた。  各船が鎖で結ばれていたからなおさら風雨に弱かったのかも知れない。 近くの岩礁や小島に多数の敵兵が避難していた。  風雨が凪ぐのを待って日本軍は、兵船数百艘で、一大掃討作戦を展開。・・・この作戦は三日間続いたという。   多数の兵士が死亡し、生け捕られ博多に護送され、斬首された。  だが、将領たちは全員生還したとされる。


詳報が朝廷に入ったのは、閏七月十一日。    中納言勘解由小路兼仲(kanenaka)の「勘仲記」 に、

去んぬる朔日、大風、動き、かの賊船、多く漂没す。 誅戮ならびに正慮は数千人。  ・・・中略 ・・・  この度の事、神鑑、明らかなり   

とありますが、すでにこの時点で「神風」 という意識があったことが判ります。

文永・弘安の役・・・終わり  (次回へ)
スポンサーサイト




鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.09(07:00) 110

**弘安の役
**日本軍の奮戦

弘安三年(1280)八月、大都のフビライの面前で、日本遠征軍の序列と基本戦略が策定された。  遠征軍は、大きく二軍に分かれていた。
高麗の合浦から出撃する東路軍と、中国・江南から出撃する江南軍とである。  東路軍の都元帥は、文永の役と同じく蒙古人の忻都(kinto)、右副元帥は高麗人の洪茶丘(kou・sakiyuu)、左副元帥は高麗人の金方慶(kin・houkei)。 蒙古人、旧北宋系の漢人、高麗人等合計四万、兵船は900艘。  

江南軍の都元帥は蒙古人の阿刺菅(arakan)、右副元帥も蒙古人の阿塔海(atahai)、佐副元帥は旧南宋の将軍范文虎(hanbunko)。  旧南宋兵十万、兵船は3500艘。

両軍は翌年五月に出撃し、壱岐島で合流し、全軍で一気に博多を攻撃すると決まった。  もちろん軍事機密で、一般には知らされなかった。  ところが日本側の情報収集の能力は意外にも優れていた。  攻撃の前年十二月に、時宗は次のような下知を、豊後国守護の大友頼泰(yoriyasu)に下している。

蒙古の異賊ら、明年四月中、襲来すべしと云々。  早々と分担の所に向い、厳密に用心を致すべし。  なお御家人ら、自身の宿意をさしはさみ、天下の大難を還り見ざる事の無きよう、充分に配慮すべし。

蒙古側の予定は「明年五月」 であった。  時宗の下知では、「明年四月」 であった。  この一か月のズレは、時宗がサバを読んだのであろう。  一か月遅れたら大変な事になるが、一か月早いのであれば問題はないからである。
いずれにしても時宗は、蒙古の関する情報を、早くから入手していたのである。  

時宗、フビライ共に不安を覚えていたのは、内部分裂であった。   無学祖元が時宗に次のように語っている。

本年の春・夏の間、博多が騒擾せんも、一風、わずかに起こり、万艦、掃蕩せん

先に時宗も大友頼泰に対して、「不和の事無く同心すべし」 と云い送っているが、同じことをフビライも気にしていたのである。  日本側では現地出身者と東国の武者、蒙古側では蒙古人・漢人・南宋人・高麗人、そして女真族など、それぞれ混成軍だった。

五月、東路軍は合浦を出撃したが、江南軍の出撃は遅れていた(元帥・阿刺管の発病)。  五月二十一日、東路軍の一部である高麗兵が、対馬に上陸した。  上陸地点は峰町佐賀の大明神ノ浦に比定される。    
高麗軍は日本側に降伏を迫ったが、日本側は降伏するはずは無く合戦となった。  高麗軍は朗将等若干が戦死したが、やがて日本軍は敗れて山中に逃げ込んだ。

二十六日、東路軍は対馬を去って、壱岐島・勝本に向かった。  壱岐島では合戦は無かった。  対馬の狼煙台の通報で、島民たちは山中に避難していた。   対馬・壱岐、そして大宰府と狼煙で伝わった警報は、やがて六波羅探題館に入った。

異国の兵船500余艘、対馬沖に襲来せり

急報は鎌倉に入り、朝廷にも伝わった。   六月に入り、東路軍が、博多湾に侵入した。  再度博多湾は、蒙古の兵船で埋め尽くされた。  しかし、すぐには上陸してこなかった。

玄海島・志賀島・能古島は、すでに占領されていたが、住民は本土に疎開していたから、人的被害は無かった。   九州の武士たちが割り当てられていた守備範囲は、石築地築造を分担した地域と同じであった。  全軍の指揮を執る小弐景資(kagesuke)は、博多地区に本陣を置いていた。

東国から馳せ参じた武士がその麾下にあった。  戦闘の展開如何では危険な場所に向かう事になっているから、いわば予備隊のようだった。

そして、日本軍の夜討ちが展開された。  先陣を切ったのは筑後の草野次郎経永(tunenaga)だった。  郎党らと小舟に分乗し、知り尽くしている塩の流れに乗って、夜討ちをかけ高麗船に乗り移った。  油断していた高麗兵と戦闘になり、これを破り、船に火を放って凱陣してきたのである。
次回へ
八代執権・北条時宗公菩提寺・鎌倉・円覚寺山門
円覚寺山門
円覚寺遠景(横須賀線)

丁酉・癸丑・庚午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.05(07:00) 109

**弘安の役

**専守防衛の徹底

積極攻勢論が棚上げされると、代わって浮上してきたのが専守防衛論だった。
具体的には博多湾の沿岸に沿って、要害石築地(isituiji)・(元寇防塁)を築くことである。  九州の九か国に、それぞれ分担する地域が、次のように割り当てられた。

〇  香椎地区・・・・・豊後国
〇  筥崎地区・・・・・肥前国のち薩摩国
〇  博多地区・・・・・筑前・筑後両国
〇  姪浜地区・・・・・肥前国
〇  生ノ松原・・・・・豊前国
〇  青木横浜・・・・・豊前国
〇  今津地区・・・・・日向・大隅両国


分担地区を割り当てられた各国は、これをさらに細分化して、その工事を御家人に割り当てた。  その基準は、所領一町に付き一尺、一反に付き一寸だった。  こうして遅くとも建治三年(1277)頃には、博多湾の沿岸地帯に要害石築地が完成した。

積極攻勢論が棚上げになり、専守防衛論に決定したという事は、北条一門の勢力が大きく後退し、代わって安達泰盛を代表とする外様御家人の勢力が大きくなってきた事を示す。
泰盛の子宗景(munekage)が検非違使の判官になったのも、その一例である。  そして泰盛自身は幕府の御恩奉行に就任、その権限には御家人の朝官推挙権まで含まれていた。
しかし、泰盛は、気を緩める事は出来なかった。

北条一門の勢力が後退した後、その穴を埋めるかたちで得宗被官勢力の代表、 内管領(naikanrei)の平頼綱(yorituna)が台頭してきたからである。  頼綱は、時宗の一子貞時(sadatoki)の乳母夫(menoto)でもあった。

専守防衛論政策が進む中、弘安二年には、対馬に異国船が来着した。  蒙古に降伏した南宋から、日本に降伏を勧めるため使節を送ってきたのである。  幕府は一行を博多に送って斬刑にしている。  すでに日・蒙間に和親などある筈が無かった。

この時期、無学祖元(mugaku・sogenn)が、時宗に招かれ日本に来ている。   祖元は「臨刃偈」(rinjinge)で知られる。
それは、蒙古兵が中国雁山の能仁寺に乱入した時、一人端然と座し、微動だにせず、兵が剣を振り上げて首を斬ろうとした瞬間、偈を唱え、、これを聞いた兵が感心して斬るのを止めそのまま立ち去ったという挿話として日本にも伝わっていた。  祖元の来日は、二度目の国難に立ち向かう時宗に、精神的に、大きな力を与えることになった。  反蒙古という形で、強い愛国心と決断力とを、祖元は時宗に与えたのである。

西国に飛び領地を持つ東国武士に、西国移住を奨励或は命令することは、文永の役以前から行われていた。  しかし、二度目の国難が迫る中、専守防衛論に立つ幕府の命令は、更に強化された。

博多湾近辺に東国武士が駐屯するようになったが、中には勝手に出撃して高麗の沿岸を襲う輩が出始めた。   これを「高麗史」は、「倭賊」・(wazoku)と呼んだ。   しかし、この襲撃は略奪、放火、殺人等は少なく、高麗側の損害は軽微であった。   「倭賊」の狙いは、明らかに偵察であり、情報収集であったと思われる。 次回へ               
日蓮上人・立正安国論撰述の地  鎌倉・安国論寺 (鎌倉・名越)の銀杏
DSCN2279.jpg
中世・鎌倉時代の墓(武士・貴族) 鎌倉では「やぐら」と呼ばれる (鎌倉・名越)
DSCN2286.jpg
現在発掘調査中
DSCN2289.jpg

丁酉・癸丑・丙寅

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.01(07:00) 108

**弘安の役

**攻勢か防衛か・・・・・

文永の役に対する幕府側の最初の対応は、既に蒙古勢が博多湾から去った頃だった。
幕府はこの事実を知らず、安芸国守護・武田信時(nobutoki)に安芸国の防備を命じた。  危機が迫っていた九州防衛に向かわせなかった点が注目される。 北九州を占領した蒙古勢が本州に侵入して来る事に備えたのである。 瀬戸内海を東進すれば天皇家のいる京都はすでに目前だったからである。
同時に、これまでは幕府の指揮下にには無かった 「本所領家一円地の住人」 を糾合しようとした点も重要である。

*「本所領家一円地の住人」・・・・非御家人であって、鎌倉殿と直接主従関係のない武士の事

蒙古軍撤退後も現地の警戒態勢は、ゆるむ事は無かった。

同時期の南宋は滅亡の寸前にあった。  蒙古軍の総攻撃が始まったのである。 この攻撃に並行してフビライは、日本に向けて使節を送っている。
文永の役で敗れたとは、当然思っていなかった。  正使は礼部侍郎の杜世忠(to・seitiyuu)、副使は兵部朗中の何文著(ka・buntiyo)だった。  二月には南宋の首都臨安(rinan)が陥落している。  三百年続いた宋帝国が滅亡したのだ。

その様な状況下、杜世忠一行が到着した。  しかし博多ではなかった。  意外にも長門国・室津(murotu)だった。
まだ戦火の余尽が残る博多を避けたものと思われる。  しかし、蒙古に対する怒りや憎しみは、室津でもでも強かった。 一向はすぐに捕らえられ次々と斬殺された。 しかし、主だった五人と水夫数人が殺されずに、鎌倉に送られた。

弘安三年(1280)、時宗は、蒙古の攻撃対象と予想される国々の守護の更迭を行っている。
〇  肥前国・・・少弐資能➡北条為時
〇  豊前国・・・少弐資能➡金沢(北条)実時
〇  筑後国・・・大友頼泰➡北条宗政
〇  周防国・・・長井泰重➡北条宗頼
〇  播磨国・・・小山宗長➡北条時宗
〇  備中国・・・長井泰重➡北条時宗
〇  越前国・・・後藤基頼➡吉良満氏
〇  伯耆国・・・不明  ➡芦名頼連
〇  肥後国・・・不明  ➡安達泰盛

時頼本人を含め、北条一門が多く進出していることが注目される。  鎌倉からの下知がいち早く細部にまで浸透するようにと考えての処置だったのであろう。

文永の役の終了直後、今後の対応を巡って幕閣では、蒙古の再度の襲来を待っているより、逆に高麗を攻めようという積極攻撃論が台頭していた。   金沢実時・塩田義政ら北条一門の主張である。

これに反対したのが、専守防衛論を主張した外様御家人代表の安達泰盛らだった。  しかし、建治元年(1275)11月、攻撃論が勝った。  実時の三男・実政(sanemasa)が異賊征伐軍の指揮を執り、鎌倉を発って九州に向かったのである。
西海の諸国に水手梶取や兵船および兵員の調査が下知され、これに参陣する御家人の番役が免除されることになった。  さらに実政は名目上の指揮者で、実際は少弐経資(tunesuke)が指揮を執ることも内定した。

朝廷側は反対したが、久しく空席であった六波羅探題南方に佐助流北条時国(tokikuni)が任じられ、朝廷の反対論を封じ込めようとした。  翌年には時宗の弟・宗頼(muneyori)が初代の長門探題として着任している。   周防・長門の守護でもある金沢実政が高麗に出陣した後、その背後の兵站を守るという意味もあったと思われる。

この様に高麗遠征が具体化しつつあった時、先頭に立ってこれを主張していた金沢実時(sanetoki)が53歳で死んだ。  途端に積極攻勢論は、棚上げとなった。  そして熱心な攻勢論者だった赤橋義宗(yosimune)は、六波羅探題北方の任を解かれて鎌倉に帰っている。  専守防衛論を主張する安達泰盛の弟・時盛(tokimori)や塩田義政(yosimasa)も熱心な攻勢論者だったが、出家している。

時宗は、妻・堀内殿(horiutidono)の兄・安達泰盛の主張に従ったことになる・・・・・。
次回へ
安達泰盛・曾祖父盛長邸旧跡 (鎌倉・甘縄) 現・甘縄神明宮
安達盛長邸
北条時宗・産湯の井戸 (鎌倉・甘縄神明宮内)
時宗産湯井戸

丁酉・癸丑・壬戌

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.27(14:00) 107

**文永の役

**壱岐・対馬

文永十一年(1274)十月五日午後、対馬西方の海上は、蒙古の軍船がひしめいていた。  午後四時ごろ対馬二島の中心で、国府のある下県島(simoagata)の佐須浦に数艘の軍船が接岸すると、1000人ほどの兵が上陸してきた。

すでに前回の来島で偵察を終えていた趙良弼(riyouhitu)の情報に沿っての行動と思われた。  午後六時、急報を受けた対馬・地頭宗資国(sukekuni)は、八十騎ほどを集め、松明を照らしての強行軍だった。 資国は、朝鮮語の話せる使者を送ったが、矢を射かけられ問答無用の戦争となった。  しかし、多勢に無勢である。 応戦はしたものの敢闘は長くは続かなかった。

一方、博多では、急使が出発し、京都・六波羅探題北方の赤橋義宗(yosimune)は急使を鎌倉に発すると同時に朝廷にも報告している。  翌日には亀山上皇の御前で評定があった。  博多湾の防備がさらに固められた様だ。

蒙古との戦いは、すべてが異様であった。  とにかく面食らう事ばかりだった。  蒙古兵は名乗りも聞かず、集団戦法だった。  名乗りを上げようとしたときには、蒙古兵に包囲されていた。 蒙古兵は、大部分が歩兵だったため騎馬の鎌倉武士が相手にしないと、馬の脚を攻撃し、落馬させ、多数で襲い掛かった。  歩兵集団の背後には騎馬の将校が居て、銅鑼や太鼓を鳴らしては、包囲、攻撃、或は退却などの指揮をしていた。

武器の点からも、蒙古軍の物は珍奇だった。  蒙古兵は長槍を持っていたが、鎌倉武士には槍は無かった。  また毒矢を使うという事も、鎌倉武士は行わなかった。  僅かな矢傷と思っていると、やがて全身に毒が回ってきた、そして特に鎌倉武士が手を焼いたのは、「てつはう(鉄砲)」 であった。

大きな鉄丸に火薬が詰められていて、これに点火して投げられ、金属製の筒から発射された。   直接的な殺傷効果は無かったようだが、爆発したときの爆発音は鎌倉武士を驚かせたのみならず、馬を驚かせ多くの武士が落馬したようだ。 落馬したところを敵の歩兵に殺された。慣れない戦を強いられた鎌倉武士は劣勢を余儀なくされた。

日本軍は、とにかく劣勢であった。  軽快な蒙古兵に比べて鎌倉武士の大鎧が重く、2時間くらいの合戦で疲れ果てていた。  夕刻になって、日本軍は大宰府に向かって総退却した。  途中の水城(mizuki)は長さ1㎞ほどもある。  かって天智三年(664)唐・新羅の攻撃に備えて天智天皇が造らせた土塁である。  日本軍は「水城に立籠って、大宰府を守らん」 という方針だったと思われる。  とにかく敗色濃厚だ、しかし蒙古軍は、日が暮れると軍船に引き上げていった。 日本軍の実力が判明し、夜戦を避けたのであろう。

その夜、猛烈な暴風雨が博多湾を襲った。 蒙古の軍船の多くは難破した。 乗っていた蒙古兵の大部分が溺死した。 戦死した者13,000人以上、船員などを含めた蒙古勢は46,000人、約3割が死んだ。 しかし、幹部の指揮官は大方無事であった。   この時期、十一月中旬の玄界灘では、強風は珍しくない。  後に神風と呼ばれることになるが、この強風は台風ではなかったと思われる。

蒙古軍は自分の意思で帰国したという・・・・・。   蒙古が派遣した兵士の数は、26,000人で、この勢力では日本を征服できないとの判断で、この「文永の役」 は威力偵察でしかなく、日本軍の戦闘能力を判定するという目的を達したので、蒙古側の判断で帰国したという説もある。
京都・西芳寺参拝

苔寺
西芳寺
西芳寺5
次回へ

丁酉・壬子・戊午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
文永・弘安の役
  1. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/13)
  2. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/09)
  3. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/05)
  4. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/01)
  5. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/27)
次のページ
次のページ