FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2018.01.07(07:00) 117

**霜月騒動

弘安七年(1284)4月、泰盛と頼綱の対立を押さえてきた時宗の死は、政治権力の主導権を巡っての対立が激化するきっかけとなり、泰盛の政治改革の失敗を契機に、ついに弘安八年(1285)11月、鎌倉幕府の政治史上画期的事件と云われる「霜月騒動」 が起こった。

翌年には、互いに自身の立場を主張、貞時(若い執権)に讒言し合ったという。    そうした中泰盛の嫡男宗景(munekage)が、曾祖父の景盛(kagemori)は実は右大将源頼朝の子であると主張し、その事を理由に源姓に改姓したと云う。   頼綱はこれをとらえ、「宗景は謀反を起し自分が将軍になろうとしていると、貞時に訴えた」 事が知られる。

これによれば、安達氏が少なからず現将軍にとって代わろうとする意志があった事を推測させる。 これに関して頼朝が所持していた名剣「鬢切」・(binkiri)を安達泰盛が密かに所蔵していた事が伝わる。
安達氏が日頃からいかに源家将軍に深い関心を寄せていたかを思わせる事柄である。

一方、頼綱の言葉巧みな訴えは、若い執権貞時の心を動かし、貞時が泰盛誅殺を許可した為、頼綱の動きは早く、軍勢指揮権のある侍所所司の地位を利用して、軍勢を整え始めた。

弘安八年(1285)11月、鎌倉中に異変が起こったようだ。・・・・・不穏な動きを感じた泰盛が、貞時館に向かった時に、御内人たちの襲撃を受けた事から衝突が起こり死傷者がでた。    これをきっかけにして戦火は鎌倉中に拡大し、将軍御所も炎上するという激戦になったが、午後には泰盛方が敗れ、泰盛以下嫡男宗景・弟長景・時景ら安達一族は、そのほとんどが討滅された。

*この事件は、11月。霜月にに生じたので、普通、霜月騒動、或は弘安合戦、秋田城介の乱と呼ばれる

この事件で、権勢を誇った安達泰盛は、弘安の改革に反発した平頼綱を中心とする御内人勢力に滅ぼされて五十五歳の生涯を終えるが、事件に関連して泰盛と共に滅ぼされたのは、どの様な人々であったか検証した。

安達一族の他、安達氏同族の大曽禰宗長(munenaga)、泰盛の母の実家甲斐源氏小笠原氏や足利(吉良)満氏(mituuji)、三浦氏一族の佐原頼連(yoritura)、さらに引付衆の二階堂行景(yukikage)や武藤景泰(kageyasu)、大江泰広(yasuhiro)・盛広(morihiro)らの大江一族、そのほか田中・小早川・天野・伊賀などそうそうたる有力御家人の名が連なっている。   その他の御家人を含め合わせると500余人が討伐されたり、自害した。

通説は、大多数の御家人が泰盛派に付いたと思われ、霜月騒動は泰盛を代表とする御家人層と、頼綱を代表とする御内人層との対立であると考えられてきた。・・・・・当然、この中には泰盛を深く信頼していた泰盛派の御家人も多くいたに違いない。  しかし近年、通説に対し、それだけの御家人が泰盛派であるならば、騒動の勝敗は逆転していたのではとの疑問が出ている。

弘安の改革は、御家人層を分裂させたこともあり、御内人代表の頼綱に味方した御家人もいたと考えられ、大多数の御家人が泰盛派とすることには問題がある。   御内人の代表頼綱に味方した御家人も多数いた事が、泰盛派が滅ぼされた要因と見るべきだろう。

この事件は、鎌倉で起こった事件にとどまらず、戦火は全国に及んでおり、特に九州では激しい戦いが行われた。  騒動の余波は全国に波及した点から見ると、泰盛の権勢はなかなか強大であり、泰盛がかなりの外様御家人から支持を得ていた事が推測される。
事件後の鎌倉では、北条一門で評定衆の金沢顕時(akitoki)が、泰盛に連座していた事から下総国に流された。 他に宇都宮景綱(kagetuna)、長井時秀(tokihide)など計五人の評定衆と七人の引付衆が排除された。

霜月騒動の結果、泰盛派勢力は没落し、北条氏得宗とこれを支える御内人勢力によって行われる得宗専制政治の体制が確立された。  その後御内人代表の頼綱に依って幕府の実権は約七年間にわたって掌握された。          (内管領の専権)

時宗の死後約十年の間に、泰盛が滅び、頼綱も滅び去って、時宗の時代に権勢を有した実力者のほとんどが消え去った。   その後、得宗専制体制の完成を目指して、得宗・貞時の新しい政治が始動したのです。   

鎌倉幕府八代執権・北条時宗公・廟所   円覚寺・佛日庵      
DSCN3342.jpg
鎌倉・北条氏家紋 三つ鱗鬼瓦  (前代・円覚寺方丈)×2   
DSCN3349.jpg
円覚寺方丈・白槇〈ビャクシン)    創建当初?
DSCN3348.jpg
円覚寺・舎利殿(国宝)・特別御朱印
DSCN3341.jpg


 終り

戊戌・甲寅・乙亥
スポンサーサイト




鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2018.01.03(07:00) 116

***明けましておめでとうございます。  今年も宜しくお願い申し上げます。    mituuroko***

**弘安徳政

幕府は貞時(九代)が執権についていた。  その後、外様と御内の対立が激化し霜月騒動に至る間、幕府は貞時の外祖父という立場から、安達泰盛が主導して「弘安の徳政」 と呼ばれた政治改革を断行した。

時宗の死後半年もたたずに、改革の綱領ともいうべき新式目三十八ヵ条が制定された。   制定者は安達泰盛と推定されるが、泰盛は時宗没後の政治的動揺に対処することを主眼に制定したのであろう。 

その内容だが、鎮西九国社領の売買の停止、鎮西九国の名主への御下文の発給、諸国国分寺一宮の興行、越訴奉行の設置等、政策的要素が多い。   これらの政策を実現するための具体的法令が次々に立法化されたのである。

新式目制定の目的について、研究者は前半十八ヵ条と後半二十ヵ条は奏上対象を異にしており、前半は得宗・北条貞時(sadatoki)、後半は将軍・源惟泰(koreyasu)を奏上対象とし、「得宗の地位を将軍に準じるものとして法的・公的に確立するとともに、将軍権威を再確認する事にあった」 との新たな見解を示され、さらに、安達泰盛の構想した政治体制は、源氏将軍の下で北条氏得宗が実権を掌握する体制であったと推定している。  

さて、安達泰盛が目指した弘安の徳政改革は多方面にわたるが、(1)一宮・国分寺興行令 (2) 関東御領興行令 (3) 悪党禁止令 (4) 倹約令  等10項目で、他に臨時の公事は御家人に課税してはならない、鎌倉を始め寺社の修造を行うなどの政策も発令されたとし、御家人を保護するものであるとされた。

モンゴル襲来を契機にこれまで弱体であった西国の本所一円地(honsixyo・itienti)に対する支配を強化させ、飛躍的に拡大した幕府の権限をどう定着させるかにあったからである。  具体的のは、戦闘に加わった九州の非御家人と寺社への恩賞問題の対応であったと考えられる。  

そのため幕府は、三人の引付奉行を九州に派遣し、九州の有力御家人大友頼泰(yoriyasu)等と組み合わせ「徳政御使」 として任務を実行させた。

対モンゴル戦に擁した戦費の調達の為に売却・質入れされた神領をすべて無償で神社が取り戻すというもので、モンゴル襲来時の祈祷という行為への恩賞の意味を持つものであり、関東下文により安堵するというものであった。  また、その時に新たに幕府の支配下に入った本所一円地住人たちの戦闘への恩賞の意味をもつものであった。   これにより幕府は、彼らの恩賞要求に応じながら、主従制──人的支配を拡大し、鎌倉政権の基盤を御家人のみならず、すべての武士階級へと拡大しようとしたのであろう。

こうした政策に端的に示されるように、泰盛が主導した弘安の徳政は、モンゴル襲来という脅威ののもとで、東国御家人中心の政権に過ぎなかった鎌倉幕府を、全国統治権力へと発展させる事をめざしたものと思われる。   しかし、こうした御家人制の拡大は旧御家人層の反発を招き、御家人層の分裂をもたらした。
さらに泰盛が主導した政治改革は、御内人、御家人の両方からの反発に逢って、ついに挫折し、泰盛の理想とした政策は実現しなかった。    次回へ
鶴岡八幡宮・一の鳥居  (鎌倉・由比ヶ浜)~本殿
DSCN2886.jpg
一の鳥居~本殿
DSCN2888.jpg
八幡宮・若宮大路~本殿
DSCN2885.jpg

戊戌・甲寅・乙未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.29(07:00) 115

**得宗専制体制への移行期・・

その時宗が執権であった時期の幕政は、執権政治から得宗専制体制への移行期にあたり、執権・連署が評定衆を主導して、評定所に於いて幕府の重要事項を合議決定するという形態が行われなくなり、時宗の私邸に於いて行われる寄合(yoriai)の席で、政務が決定されるようになった。

「吾妻鑑」 の文永三年(1266)6月20日条によれば、「相州(時宗)の御亭に於いて神秘の沙汰あり。相州・左京亮(政村)・越後守実時・秋田城介(安達泰盛)会合す。 他の者参加に及ばず」 とあり、後に寄合衆に発展する得宗私邸での重要秘密会議が開かれ将軍宗尊(munetaka)親王廃立を審議した際、寄合に泰盛が北条一門の北条政村・金沢実時と共に出席していることが知られ、泰盛が得宗権力の中枢に関わる活動をしていることは注目されよう。

宗尊親王も10歳で六代将軍に迎えられ在職10年に及んだ頃、御家人たちとの主従関係も緊密化し、次第に彼を中心とする政治勢力が形成されていたのである。  四代将軍九条頼経(yoritune)の時もそうであったが、名越氏等を中心とする宗尊親王将軍派の勢力が、得宗家に対抗する政治勢力となりつつあり、得宗時宗を脅かす危険性を持っていた事から将軍宗尊は追放されたのであろう。・・・・

この後、宗尊親王の子で僅か三歳の維康親王(koreyasu)が将軍に就任したが、それ以後の将軍も将軍としての権力を行使できず、将軍は権力を持てない名目上の存在と化して、将軍権力は得宗が掌握し、得宗が事実上の将軍になったといわれる。

宗尊親王追放後まもない時期に、得宗権力は、安定してきたと考えられる。   泰盛が、宗尊親王追放を審議する寄合に参加している状況からして、泰盛は一般御家人の代表といわれる一方で、得宗権力の推進者の立場であったと思われ、平頼綱とは、得宗権力のが確立し始めるまでは共存していたが、以降対立の方向を強めたように思わる。

さらに、泰盛の政治的立場は、将軍の側近であったと同時に得宗家とも親密な関係を保っていた事がうかがえる。  将軍と得宗という二つの権威は、泰盛にとって相反するものでは無かったのであり、それぞれ必要な権威であった想定される。

**泰盛と平頼綱(yorituna)

得宗の被官である御内人が、着実に勢力を伸ばしていた。  御内人の勢力が強まると、一般の御家人は、御内に対して外様と呼ばれるようになり、御内と外様の対立は激化していった。   此の御内勢力の代表が、内管領(utikanrei)の平頼綱であった。
得宗私邸での寄合に頼綱が安達泰盛と共に会合している記録が残っている。

評定衆に代る寄合の席に、得宗被官の代表者が参加し、強い発言力を持って政治的主張を展開する状況は、頼綱の権勢が強大化した事を意味する。  一方、外様の中心人物である泰盛は、時宗の外戚として権勢をふるっていたのである。


安達泰盛が、御家人の誇りをもって幕府の実権を握り、御内人勢力の政治的進出を阻止しようとする方針は、頼綱側の強い反発を招いた。  特に、従来、北条氏が世襲してきた陸奥守に泰盛が任官し、北条氏と同格となりうる権勢を幕府内に形成しつつある状況に、強い危機感を覚えたようだ
こうした御内人の危機感・反発を巧に利用したのが平頼綱であった。 次回へ

円覚寺・仏牙舎利殿石塔 (鎌倉・山之内)
佛牙舎利殿・石塔a>
仏牙舎利殿(国宝建築物)  (鎌倉・山之内)
舎利殿
円覚寺・正続院・禅堂  (鎌倉・山之内)
正続院(禅堂)

丁酉・癸丑・庚寅

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.25(07:00) 114

**安達泰盛の政治活動

安達泰盛は、寛喜三年(1231)、安達義景(yusikage)の三男として生まれた。  泰盛の出自である安達氏は、泰盛の曾祖父藤九郎盛長(toukurou・morinaga)。鎌倉の甘縄神明神社前に安達盛長邸跡がある。
安達盛長邸
この甘縄が安達氏の拠点であった。   頼朝の乳母比企尼(hikini)の娘を妻とした関係で、幕府創業以前から頼朝に仕えた功臣であり、また信任を得ていた有力御家人であった。
祖父景盛(kagemori)・父義景(yosikage)は、北条氏の執権政治の確立に力を尽くし、宝治元年(1247)の宝治(houji)合戦では北条時頼と結んでライバル三浦氏討滅の正面に立ち、時頼政権の確立に貢献するとともに、自家勢力を大きく躍進させた。

その為、幕府内で安達氏に対抗する勢力を持つ御家人は見られなくなった。

*安達景盛・・・・源実朝の死を悲しみ、高野山で出家し高野入道と呼ばれた

こうした父祖の権勢を受け継いだ泰盛は、十七歳の時、父祖と共に宝治合戦(houji)に参加したが、政治活動の最初は、宝治二年(1248)に番帳丼御文清書役を務めたのがその始まりと言われる。
また早くから将軍・頼嗣の近習となり、建長五年(1253)六月、父の死後、安達一族の惣領となった。  その後引付衆に加えられ、父の跡を受けて武門の名誉とされる秋田城介に任じられ、康元元年(1256)には五番引付頭人兼評定衆に列し、以後長くこの地位にあった。
さらに文永元年(1264)十月から同四年(1256)四月まで、金沢(北条)実時と共に越訴奉行(oxtuso)を兼務した。

安達泰盛の政治活動で注目される点の一つは「吾妻鑑」 によると、泰盛は近習・格子番・廂衆(hisasisixyuu)などの将軍側近の一員としてしばしば名を連ね、鶴岡社参などの将軍の外出には常に供奉するなど、将軍の側近としての活動である。

またモンゴル襲来の際、肥後国の御家人・竹崎季長(suenaga)が、自らの戦闘活動を描かせた「蒙古襲来絵詞」 によると、建治元年(1275)、季長が恩賞獲得の為鎌倉へ出訴した時、幕府で恩賞奉行にあったのは安達泰盛であり、季長などの行賞に当たっていることが知られる。
この時の、季長の訴えが泰盛に認可され、勲功の賞として肥後国海東郷の地頭に任ずるという将軍下文と馬まで賜った様子が覗え、無足の御家人に対する泰盛の人間的な一面を知ることが出来る。

*無足の御家人・・・・様々な理由で所領を失った御家人

御恩奉行は、幕府でも重要な職で、実質的な権勢を握りうる地位にあり、泰盛がこの職を勤めていた事から見て、幕府における泰盛の実力者としての位置がうかがい知れよう。  

しかし一方において、泰盛は北条氏得宗家との姻戚を通じて得宗権力の中枢に関わる活動をしている事も注目しておく必要があろう。
そもそも安達氏の勢力が強固なものになった理由として、安達氏が、代々得宗家との密接な婚姻関係で結ばれていた事があげられる。  父義景(yosikage)の妹で泰盛の叔母にあたる松下禅尼(matusita・zenni)は、北条泰時の嫡男・時氏(tokiuji)に嫁して経時(tunetoki)(4代執権)・時頼(tokiyori)(5代執権)らの母であり、泰盛の妹堀内殿(horiuti)が時宗の正室となり貞時(sadatoki)を生んでいる。  安達氏が、いかに北条氏とのつながりが深いか理解できよう。


*松下禅尼・・・・執権時頼を甘縄邸に迎えた際、自ら障子の切り貼りをして倹約を教えたという挿話は有名 (徒然草)

*堀内殿・・・・父義景の死後は、泰盛の養女となった。 覚山尼(gakusanni)と称し、縁切寺として有名な鎌倉東慶寺の開基として知られる

鎌倉東慶寺・5代住職 用堂尼(後醍醐天皇皇女)・墓所・・・・東慶寺
五代用堂尼墓
東慶寺・本堂裏の岩絡み (毎年6月上旬に開花)  (鎌倉・山之内)
DSCN3058.jpg
次回へ

丁酉・癸丑・丙戌

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.21(07:00) 113

**北条時宗の死

モンゴル襲来という難局は、武士たちの奮闘と大暴風によって乗り切ることが出来たが、時宗はなおも三度目の襲来を予想し、警備体制は緩めなかった。  一方で幕府は、戦後の恩賞問題に追われていた。  武士を戦場に駆りたてるのが恩賞であってみれば、戦功に応じた恩賞を与える必要があり、公平さを欠かさぬよう厳密に審議が続けられていた。

この時期、幕府の首脳部にあって、慎重にこの恩賞問題を主導していたのは、時宗の舅に当たり、時宗政権下での最大の実力者・安達泰盛であったと思われます。

時宗の時代は、鎌倉幕府政治の流れからいえば、執権政治から北条氏の得宗(北条氏嫡流家の当主)が権力を持つ得宗専制体制が確立された時期と言われる。
その為この時期は、得宗の被官(家臣)である御内人(miutibito)が、得宗権力を背景にその勢力を拡大していた。  時宗政権下ににおいて、得宗時宗を支えた御内人の代表が、平頼綱(yorituna)であり、頼綱もまた安達泰盛(yasumori)と並び大きな権勢を有していたのである。

泰盛と頼綱は、それぞれ得宗の外戚、御内という立場で、宗尊親王(munetaka)の追放後、時宗が目指す得宗権力が確立されるまでは、ある程度同一の歩調をとっていたように思われるが、しかし、その後得宗権力が確立されたころから次第に対立の方向を強めていったようだ。

安達泰盛が、この平頼綱と幕政の主導権を巡って対立しつつ、恩賞問題や新たな政治改革に取り組んでいた弘安五年(1282)ころ、禅宗に心酔していた時宗は、中国からの渡来僧・無学祖元(mugaku・sogen)の為に円覚寺(engakuji)の建立に力を注いでいた。  十二月に円覚寺は完成し、時宗は祖元を開山として迎えた。

国内外にわたって難問題を抱えていた時宗は、このころ、そうした場所で座禅をすることで、心の平穏を保っていたのかも知れない。
円覚寺・禅道場  「居士林」
禅道場・居士林
円覚寺・国宝舎利殿山門
舎利殿・門

その時宗が、弘安七年(1284)三月末に突然倒れ、4~5日、床に就いたきり神仏の加護もむなしく。四月四日に34歳の若さで多事多難な生涯を閉じた。  父時頼よりも三歳若死にであり、その死因も不明であるが、その背景には、僅か18歳にして執権になって以来、外敵の重圧や繰り返される北条氏一門の陰謀と誅殺、幕閣内の対立が激しく繰り広げられる状況の中で、時宗の心身は共に疲れ切っていたのではなかろうか?。

何れにしても、二十年にわたり鎌倉幕府政権の頂点に立ち、かつ北条氏の最盛期を果敢に生き抜いた時宗の突然の死は、幕府はもちろん朝廷にも大きな衝撃を与えた事と思われる。  朝廷は時宗の死による「天下触穢」・(siyokue)を30日間として、諸社の祭礼を中止し、また4か月に及ぶ殺生禁断を定めたという。

幕府では外戚安達泰盛を始め、評定衆・引付衆など重職にある者の大半が出家して弔ったという。  大きな衝撃を受けながらも、幕府政界では時宗死後の政局に向けて、泰盛を中心に早速対策が講じられた。    時宗には十四歳になる嫡子貞時(sadatoki)がいたが、様々な思惑がある中で、七月七日に泰盛の外孫にあたる貞時が順調に執権を継いだ。   この為、泰盛の権勢がさらに高まったことは言うまでもない。

それから約1年半、幕府の政治は、年若い得宗・執権の貞時を擁し、幕府の最有力者安達泰盛の主導の下で、弘安徳政と呼ばれる画期的な政治改革が行われた。      次回はこの政治改革についてレポートします。

丁酉・癸丑・壬午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
時宗の政治その後
  1. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(01/07)
  2. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(01/03)
  3. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/29)
  4. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/25)
  5. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(12/21)
次のページ
次のページ