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鎌倉北条氏

2017.01.04(21:29) 27


**鎌倉北条氏の草創

*(続)山木館夜討ち

山木攻めに際して、頼朝と時政の間に亀裂があることが、早くも露呈した。 それまでの作戦では大道の牛鍬大路(usiikuwa・ooji)を攻めることになっていたが、突然、時政が 「牛鍬大路は、往来が多く目立つので、蛭島路を通るべし」 と提案したのである。 当然、主導権を握ろうとしての発言であった。  これに対して頼朝はすぐに反発 「今夜の一挙は、失敗は許されない、閑路は通らない、ただ大道を攻める」 これで、事は決した。  時政の主導権獲得の意図は一蹴されたのある。
頼朝挙兵の第一戦、山木攻めは、どうにか勝利に終わった。 しかし挙兵から三日たっても、頼みの相模三浦党は、到着が遅れている。  頼朝は伊豆国を出て、相模国に向かった。三浦党との合流を図るためだ。

*石橋山

酒匂川の対岸まで三浦党は進んだが、台風の為渡岸出来ずにいた。  頼朝軍は部将47人で総勢300騎、対する平氏側の大庭景親(kagetika)は3000騎、さらに追尾してきた伊藤祐親勢300騎からの挟撃に遭い、奮戦したが完敗である。
石橋山(小田原市・石橋)で完敗した頼朝は、背後の山に逃げ込み、大庭勢の追跡を避け4,5日間・・・・・、場所が土肥実平(sanehira)の所領内だったので、実平が主導権をにぎり匿ったり、 実平の妻が秘かに弁当などを届けて世話をしている。
頼朝の箱根山行をサポートした地元武士・土肥実平菩提寺・城願寺 (神奈川県・湯ヶ原町)
城願寺・本堂

この間、時政の長男三郎宗時は、時政・四朗義時とは別行動をしていた。 いずれか一方が生き残るため、危機の分散を図ったと思われる。そして宗時は、平井郷(静岡県・函南町平井)のあたりで、伊東祐親勢に討ち取られている。   そして、時政と次男小四郎義時とは、湯坂峠を経て甲斐国をめざし、甲斐源氏・武田党を頼った。
やがて大庭景親は、頼朝追跡をあきらめて、相模三浦半島に向かった。  頼朝に呼応した三浦党を攻撃するためだ。

*安房国へ

大庭勢が立ち去ると、頼朝たちも箱根山中から出た。  一方時政・義時親子たちは土肥郷岩の浦(真名鶴町・岩)で乗船して海路安房国を目指した。  頼朝一行も土肥郷真鶴崎で乗船して海路・安房を目指したが、その翌日の事だったようだ。 この説話は 「七騎落ち」 とされ城願寺境内に七人の武将像を安置したお堂が建立されている。

*七騎武将・・・・・安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・源頼朝・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱    の7名

湯ヶ原町・城願寺  七騎堂  (神奈川県・湯ヶ原町)
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頼朝一行と時政たちとは、完全に別行動だった。  乗船地も別なら、乗船した日も別だったのである。   先に時政の長男宗時と次男義時との別行動を、危機の分散と解釈したが、頼朝一行と時政たちとの別行動も、やはり分散を図ったのだろうか?・・。 次回に続く

丁酉・壬寅・丁酉

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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