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鎌倉北条氏

2017.05.10(06:01) 57

**南北朝動乱

**気付いた御家人たち

鎌倉幕府の変質に御家人たちが気付いた時、鎌倉幕府、そして特権的支配層に明日は無かったのです・・・・・。  
鎌倉幕府は、平安期におよそ三百年にわたり、殺し合い、潰し合いを繰り返しながら成長してきた東国の武士たちが、大同団結を果たすことによって作り上げた我が国最初の本格的な武家の政権でありました。

結集した東国武士団の軍事力を原動力に、鎌倉幕府は王朝と戦い、王朝から領域と諸権限を次第に奪取し、承久三年(1221)の戦いに勝利し、王朝を圧倒しました。

ところが、命を懸けて鎌倉幕府を作り・育て・守った東国武士たちの子孫である鎌倉後期の御家人の大半は、幕府の変質、特権的支配層の幕府支配によって、政権中枢から排除されてしまう。  その一方で、鎌倉番役・京都大番役・異国警固番役や各種の造営事業などの軍事的・経済的負担はかれらに課せられ続けたのです。

加えて、西国を統治すべき王朝は、承久の乱の敗北により鎌倉時代を通じて統治能力を急激に衰退させていきました。 これは王朝によって処理されるべき西国の問題に対し、王朝側が幕府の介入を要請する結果をもたらした。
「武家政権」 「東国政権」 という鎌倉幕府の本質からすれば、西国の問題は本来係る必要のない、重要度の低い事でありました。  一般に幕府が将来の皇位継承問題に介入したとされる「文保の御和談」も、幕府が争う両皇統に「話し合い」を呼びかけたにすぎません。  しかしながら、後期鎌倉幕府政権は西国の諸問題に振り回され、その解決のために御家人への動員を繰り返す事となったのです。  「軍事権門」という、もう一つの側面こそ鎌倉幕府が西国の問題に介入せざるを得なかった要因である。

鎌倉幕府は、体力的には東国の地方政権以上のものではありませんでした。  にもかかわらず、国家の治安を一手に引き受ける軍事権門として自己を規定してしまった為、能力を超えて対蒙古戦争を含めた西国の問題に介入せざるを得なかった。 現実としては東国政権にすぎなかった鎌倉幕府自身が、言わば身の程知らずの権門体制論者であったのかも知れない

源平合戦は、東国に於いて平安後期以来の抗争の結果、所領分割の行き詰った武家社会において、各武士団間に合ったそれまでの秩序を一旦ご破算とし、新たな秩序を構築するための、極端ではあるが「一斉殺し合い」であったと言うことが出来る。 すなわち、源平合戦期の武士団は、頼朝に味方するか、戦うかの選択を迫られ、その結果、勝者が敗者の遺産を総取りにして再分割し、それ以上の戦いを停止するために構築されたものこそ、幕府=御家人制という秩序であった。

だが、百五十年余年の歴史を経た結果、鎌倉幕府・御家人制は内外に大きな矛盾を抱え込んでしまう。  武士階級そのものを御家人と非御家人に分裂させてしまった上に、御家人内部では支配層と被支配層の分裂をもたらす。  結果、特に西国では「無足」と呼ばれる没落御家人が発生し、東国の御家人たちは幕府が西国の諸問題に対応するために、充分な見返り(御恩)を与えられぬまま、軍事的・経済的な負担(奉公)のみを強いられる。

鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱に事実上始まる南北朝の動乱は、武士たちにとっては新しい武家社会の秩序を構築するための、二度目の、熾烈な戦いであった。
無敵であった鎌倉幕府は、元弘三年(1333)五月、東日本を中心とする武士の総攻撃を受け滅亡したのである。

北条高時と共に東勝寺に自刃した主な人物は、北条氏では金沢貞顕(sadaaki)、常葉範貞(norisada),大仏家時(ietoki)。 外様に安達時顕(tokiaki)。  御内人に長崎円喜(enki)、諏訪直性(jikisiyou)。  幕府滅亡は、北条氏の滅亡ではなく、特権支配層の滅亡であったと考える。・・・・・  終り


*永らく愛読いただき有難うございました。     鎌倉北条氏の鎌倉幕府支配から滅亡までを、専門歴史書をレポートしながら自分の解釈を加えました。・・・・・・次回~の予定   「吾妻鑑」のレポートを考えています、金沢北条氏編纂と云われる鎌倉幕府の歴史書です。
「吾妻鑑」通読教本・・・・建久六年~正治元年条
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建久五年正月八日・安達盛長邸(甘縄)を訪問。  九日、御弓始の射手順が記される。

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鎌倉北条氏・系図
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丁酉・丙午・丁酉
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鎌倉北条氏

2017.05.06(07:10) 56

**滅亡

**連署・金沢貞顕(sadaaki)執権就任

正中三年(1326)三月、北条高時の病は重篤であると判断され、北条家の首脳部は高時の長子邦時(kunitoki)が家督を継ぐか、高時の弟泰家(yasuie)が家督を継ぐかで内紛が起こり、抗争に発展しました。  (嘉暦騒動)
泰家と邦時では得宗の後見となる外戚・乳母夫が変わるので、どちらが家督を継ぐかによって得宗家の権力構成が変わる為です。  高時の長子・邦時を推す一派は、邦時が成人して執権に就任するまでの中継ぎとして連署・金沢貞顕(sadaaki)の執権就任を求めました。
この一派には、長崎高綱(takatuna)・長崎高光(takamitu)・五大院宗繁(munesige)等の高時政権を支えた能吏や側近が集まっています。北条泰家支持派は、邦時が家督を継ぐと外戚の地位を失う安達氏が中心にいました。
両派の対立は、高時が出家を遂げた正中三年(1326)、三月から表面化しており、金沢貞顕(sadaaki)は高時と共に出家を遂げる考えでした。長崎高綱から若君(邦時)の扶持役を務めるよう依頼され、執権就任を承諾しました。  しかし、三月十六日に十五代執権に就任したものの、泰家支持派から貞顕(sadaaki)暗殺の噂が流れたため、金沢北条氏の滅亡を怖れ、引退を宣言、二十六日に出家してしまいました。

この顛末をみた北条氏一門の人々は次の執権はリスクの高い損な役回りであることに気づき、執権・連署に次ぐ序列にある引付一番頭・赤橋守時(moritoki)が覚悟を決めて就任するまでの一か月間、幕府は執権・連署不在という権力の空白を生じました。

後醍醐天皇の二度目の陰謀計画が露見した元徳三年(1331)四月、鎌倉幕府は日野俊基(tosimoto)・円観(enkan)・文観(bunkan)以下の後醍醐天皇の側近を捕縛し、内乱を未然に防ぎました。  これで収まれば良かったのですが、長崎高綱・高資以下の北条高時側近と長崎高瀬以下の邦時の側近との間で権力抗争が起こりました。  この事件は長崎氏内部の軋轢が根底にあるのですが、幕府が弱体化していることを対外的に示してしまいました。 この内輪もめが後醍醐天皇に立ち直るきっかけを与えることになり、八月の後醍醐天皇の挙兵(元弘の乱)へと繋がります。
後醍醐天皇・側近 日野俊基墓所(鎌倉市・葛原ヶ岡神社)
日野俊基墓所
鎌倉幕府最後の攻防戦場・化粧坂
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化粧坂切通し
化粧坂切通し~
北条高時の出家によって崩れた幕府の均衡は、最後まで回復する事は無かったのです。
九月、鎌倉幕府は、後醍醐天皇の挙兵を鎮圧するため、大仏貞直(sadanao)・金沢貞冬(sadafuyu)・足利高氏(takauji)などを大将軍とし、長崎高貞を御内御使とした上洛軍を派遣。・・・・・・後醍醐天皇譲位の手続きを取る為の使節として安達高景・二階堂氏を京都に派遣を同時に行っている。

この時の上洛軍は、後醍醐天皇の笠置城や楠木正成(masasige)の赤坂城などの宮方の諸勢力を鎮圧し、後醍醐天皇から光厳天皇(kougon)への譲位も行われ、治安の回復に成功しました。
しかし、楠木正成の二度目の挙兵に始まる第二次内乱は、上洛した幕府軍も連年の遠征に疲労が重なり意気上がらず、正慶二年(1333)、五月に六波羅探題・鎮西探題が相次いで攻め滅ばされました。   幕府最後の戦いは、後醍醐天皇の宮方と幕府との戦いというよりも、後醍醐天皇を擁する反北条氏勢力と北条氏を中心とした幕府首脳部とそれを支持する持明院統諸勢力との戦いとなり、北条氏が力尽きて滅ばされる形になりました。
 次回に続く

丁酉・丙午・癸巳

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鎌倉北条氏

2017.05.02(07:43) 55

**滅亡への道

**北条高時と金沢(北条)顕時(akitoki)の政治

正和五年(1316)、鎌倉幕府を主導した最後の得宗となる北条高時が執権に就任しました。  次席の執権である連署(rensiyo)には老練な金沢顕時が留任し、高時の後見には得宗家の宿老・長崎高綱(takatuna)と外戚・安達氏の惣領安達時顕(tokiaki)が付きました。 この四人の協調体制が高時政権の基盤となりました。

北条高時の最大の弱点は病弱だったことで、金沢貞顕(sadaaki)・(顕時・嫡男)の書状から、貞顕と長崎高綱が高時の病状に一喜一憂していることが見てとれる。
この政権は高時に強いリーダーシップを期待出来ないため、前政権・父貞時の政策を先例として踏襲する先例主義で運営していくことを基本としました。そのため、安達泰盛や平頼綱が盛んに新法を発布して実力を示そうとしたのとは対照的に、表面上は現状維持を掲げながら、法令の解釈や運用の上では、実際に行いたい事に合致する先例を探し出して適用する柔軟な手法で政権運営を行いました。  社会の変動に対して、法令の改正ではなく、法令の運用で対応する手法は、無駄な労力を使わない省力的な政権運用でした。


北条高時自身は、暴君ではなく、周囲の人々から愛された虚弱な人でした。  北条高時を暴君としてイメージ付けてしまったのは、後醍醐天皇側の論調で鎌倉末期を記録した「太平記」の喧伝だと考えます。  彼が暴君でないことは、 「金沢文庫古文書」に残る金沢北条氏と称名寺の僧侶たちの書状から明らかです。  しかし、北条高時を中心とした政権の首脳部が鎌倉幕府の衰退を止められなかったのは事実で、組織を潰してしまった責任はあるでしょう。


北条高時政権が処理できなかった問題は、第一に、鎌倉や北条氏を中心とした政権中枢部への富の一極集中が進む中で、時代の変化に対応できない御家人の零落を止められなかった事です。  この事は、鎌倉は空前の繁栄を迎える一方で、冷害の被害を受けやすくなってきた東北地方が陥った内乱状態を解消できなかったことです。 「金沢文庫古文書」 の中にも、金沢貞顕(sadaaki)の従兄弟・顕瑜が知行する陸奥国の年貢滞納が問題となった時に、幕府の政所は政所賦課分を強制的に徴収しようとします。 地方は飢えても、定められた公事は徴収しようとするのが、幕府の官僚機構でした。

陸奥国の疲弊が進む中で、得宗家の有力被官・津軽安藤氏は家の存続をかけた縮小再編の問題で嫡流争いが納まらなくなり、異文化の蝦夷をも巻き込んだ内乱に発展させてしまった。鎌倉幕府は鎮圧軍を派遣して、これを収めましたが、陸奥国の治安の回復までは出来ませんでした。  東北の争乱は、幕府の統治能力の低下を外部に示す結果となりました。

第二の問題は、天皇家の皇位継承問題が泥沼の状態に陥り、それぞれの勢力が鎌倉幕府を味方につけようとした権力抗争に巻き込まれたときに、断固とした判断を下せなかった事です。  京都の政治問題は、本質的には大覚寺統が自分で処理すべき問題であり、持明院統も自力で大覚寺統に対抗する強さを持っていれば、幕府は無関係でいられた問題だった。

北条(金沢)貞顕(sadaaki)菩提寺・金沢・称名寺
山門
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三門
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本堂
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庭園・唐橋
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北条高時政権は、鎌倉幕府の中で大きな政変を起こさずに統治を行ったので、穏やかな政権運営が行われたと考えてよいでしょう。しかし、外部の要因に大きく揺さぶられ、幕府の衰退をを止められなかったことは事実であろう。 次回に続く

丁酉・丙午・乙丑

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鎌倉北条氏

2017.04.28(08:31) 54

**強権の代償

**滅亡への道

北条貞時政権は、北条氏本家主導の総与党体制で政権運営にあたろうとしました。  この政権は、得宗貞時に比肩しうる実力者がいないため、北条氏本家の家長である得宗の力がもっとも強くなった時期と考えられています。しかし、全体的にみると北条氏の巨大化や都市鎌倉の繁栄は進みましたが、幕府を支える御家人の疲弊も並行して進んでいました。
鎌倉幕府が衰弱していった理由は、いくつかあります。  その第一は、在国していた中小規模の領主の経済的な疲弊です。 鎌倉中期に本格化した年貢代銭納の進展がその大きな要因となったようだ。
平安時代には米・絹・雑物・特産品が年貢として設定されていたが、鎌倉中期には米・特産品以外の物の銭納化が進んだ事、納入地で必要な員数が揃っている事が求められたので、国衙領(kokugariyou)や荘園で生産される物資の流通と租税の納入が切り離されたことです。
その結果、大都市や地方都市とその周辺の市、湊、川津での年貢の売買が盛んにおこなわれ、生産の増大を目指していた荘園の経営から生産と市場での売買の双方に巧みな領地の経営が求められるようになっていきました。これは、荘園の年貢を受け取る側から見れば、米の価格が上がれば銭の価値が下がる相殺の関係が成立しているので、米・銭を共に年貢として受け入れる事で年貢総額の平準化がなされています。
大規模な領主であれば、どこかの荘園で銭の相場が高くても、他の荘園で安ければ、全体で相殺することが出来ます。 しかし、中小の御家人はそうはゆきません銭の相場の変動による損失を全面的に被る危険性があります。 これが、鎌倉中期以降に中小御家人が没落する大きな要因の一つとなっていくのです。

**対元戦争の負担

元との講和が成されていない為、戦時体制を解けませんでした。  そのため、元寇の経費に見合う恩賞が与えられていない上に、異国警固の番役は継続されるため、御家人の負担は増すことになる。 

御家人の経済力の格差を拡大する貨幣経済への移行、対元戦争の軍事負担の継続、気候変動による生産力の不安定化は、元寇後の鎌倉幕府が抱えた大きな課題となっていくのです。  


一方で、北条氏は巨大化を続けました。北条氏が全国に持つ領地から送られてくる年貢を管理する事は大きなビジネスチャンスであり、一族を拡大して行ったり、資産を留保する有力な被官が生まれました。鎌倉幕府の御家人と北条氏の被官を兼務することによって領地を増やしていく人々も現れました。  また、御家人の身分を持たなくても北条氏の被官となることは出来たので、北条氏は商業や流通に通じた有能な人材を登用することが出来ました。

鎌倉幕府は御家人制を堅持しょうとして時代遅れの組織となって行きましたが、北条氏は時代の変化に合わせて成長し、繫栄を続けたのです。
当時の雰囲気を残す・朝夷奈切通し・三景
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朝夷奈・切通し
次回に続く

丁酉・乙巳・乙酉

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鎌倉北条氏

2017.04.24(06:56) 53

**強権の代償

**弘安徳政

晩年の時宗がもっとも心を労したのは、妻の兄・安達泰盛の権勢だったかもしれません。  引付衆・評定衆・引付頭人・越訴(otuso)奉行・恩沢(ontaku)奉行から、北条一門に限られていた陸奥守に任じられていた。 弘安六年には一族から評定衆・引付衆ともに二名ずつで、泰盛の子宗景(munekage)は、引付衆を一年足らずで、わずか二十五歳で評定衆に昇格しています。
安達一族の勢力伸長は、そのまま北条一門の勢力後退でした。  時政、義時、泰時、(時氏)、経時、時頼と、歴代が営々として築いてきた北条氏得宗家の勢力が、いまや崩れかかっていた。  弘安四年、それまでの六年間、連署を置かなかった時宗が、極楽寺流北条重時の七男・兼時(kanetoki)を連署に任じた。 ついに疲労を感ずるようになっていたのでしょうか?・・・

北条時宗が亡くなった後、安達泰盛は弘安徳政と呼ばれる新制を発布し、鎌倉幕府を新たな体制に導こうとしました。  元寇を戦った鎮西の人々の保護と、現地に駐留していることの可能な体制の整備、鎮西で戦った本所一円地住人が望む御家人登録の実現など、元との戦争の継続を睨んだいくつかの対策がこれに盛り込まれていた。 しかし、矢継ぎ早に発布される新制が現地を混乱させた事など、改革を急ぎすぎた気配があります。
特に、九州での御家人追加登録は対元対策としては正しいとしても、辛うじて御家人の地位にしがみついている中堅層以下の御家人からの不評を買うことになりました。 「蒙古襲来絵詞」 で有名な竹崎季長(suenaga)を見ればわかるように、鎌倉中期には貧窮した御家人が多く見られました。

安達泰盛は、貧窮する御家人が、実際には土地の売却や質入れ契約なのに、親子の契約を結んで譲与したという書類を作成して権利の移転を行う偽装の親子契約(養子)を禁止しています。(追加法)
一方で、非御家人や一般の人々が相伝(相続)・請所(経営委託)・沽券(購入)・質権(質流れ)と称して関東御領を経営している者が多く、その一覧を提出するよう守護に命じています。

幕府が成立して百年もたつと御家人と関東御公事を賦課された御家人の領地との間にズレが生じてきたのです。 安達泰盛の改革は、方向としては間違っていなかったのですが、元寇の負担を間接的に受ける形になった御家人を置き去りにしたところに問題があったようです。


弘安八年(1285)、十一月の霜月騒動で安達泰盛とその与党を滅ぼした平頼綱(yorituna)(得宗家・内管領)は、御家人の地位保証を第一に行いました。  弘安十年には、祖父母が鎌倉幕府から下文を賜っていれば、知行する土地が無くても御家人としての身分を保証するとの法を定めています。  また異国警固の番役を負担する御家人たちに対しても、小弐経資・大友頼泰・宇都宮通房・渋谷重郷の合議による、訴訟を受理するか否かを判断する鎮西談議所が置かれ、九州で起きた問題については博多で第一段階の判断をする体制を維持しました。

平頼綱は得宗家の家政を運営した能吏だけに、眼前の問題を処理する能力は高く、安達泰盛が指導した体制の良い部分を継承する柔軟性を持っていました。 しかし、頼綱は御家人の疲弊という現状を打破するための政策を打ち出すことが出来ませんでした。 力によって逆らうものを抑えつける強権的な政権運営へと傾斜し、人望を失っていきました。


やがて、得宗・北条貞時(sadatoki)(時宗嫡男)は内管領・平頼綱を更迭し、攻め滅ぼしました。 そして自らが政権を主導する専制体制を築き上げました。  (平禅門の乱)
しかし、霜月騒動と平禅門(heizenmon)の乱で幕府を代表する派閥が共につぶれたため、得宗・貞時は、北条師時(morotoki)・北条宗方(munekata)・北条時村(tokimura)といった一門で人材を埋めるることになりました。  安達泰盛の支持派に見られていた金沢北条氏三代の北条顕時(akitoki)もこの時に復帰しています。

八幡宮・一の鳥居から本殿を望む
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和賀江島から江の島を望む  右・稲村ケ崎
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名越・切通し
名越・切通し
次回に続く

丁酉・乙巳・辛巳

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  1. 鎌倉北条氏(05/10)
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