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鎌倉幕府の歴史書

2018.02.08(07:00) 126

**「吾妻鑑」・「鎌倉北条氏」

  *吾妻鑑が伝えた「鎌倉北条氏」・まとめ

  鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」 は鎌倉北条氏あるいはそれに近い人たちによって編纂された考えられています。   編纂された時期は13世紀中頃~14世紀初頭と言われています。   原本は未発見である。

現在私たちが観られるのは数系統ある「写本」またはその写しである。  (該当ヵ所参照)

 先祖の系譜すら明らかでない伊豆の土豪的武士団・北条氏は、婿に取った流人頼朝が鎌倉幕府の創始者となった事から、武家政権の権力の座を目指すレースへの参加資格を獲得した。

北条氏の庶子北条(江間)義時(yositoki)は気付いた時には戦いの渦中に身を置いていた。  頼朝没後に始まる熾烈な御家人間抗争は剥き出しの権力闘争以外のなにものではなく、義時は押し寄せる災難を振りはいながら戦い続けた。
結果として義時は勝ち続け義時の地位は押し上げられていった。  父や義母すらも打倒し、多くの人々を殺害し、義時はこの抗争の勝利者となった。  さらに承久の乱に勝利したのである。

追討宣旨を蒙りながらも、勝利した義時は後鳥羽上皇以下、三上皇を配流し天皇を廃位するという空前絶後の処置を断行する。
これもまた現実の権力闘争の結果であった。    この結果は義時に頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を与え、義時の直系である北条氏得宗(tokusou)を鎌倉幕府の支配者たらしむ正統性の源泉となった。

頼朝没後の内部抗争は、源氏将軍家断絶という結末をもたらした。  これによって源氏将軍家の世襲という道は閉ざされ、将軍家を摂関家・藤原氏、さらに皇族へと変遷させていった。

その事は、将軍に代って幕府の政務をとる執権という役職を生み出した。   将軍と執権は幕府の権力を巡って対立を繰り返したが、やがて執権を世襲する北条氏の家督「得宗」 (tokusou)が、将軍を装飾的な存在に祀り上げ、幕府の実権を握るに至ったのです。

この様な政治体制が倫理化され、正当性が完全に付与されたのは、義時の玄孫・時宗(tokimune)の時代になってからである。 
時宗は生まれながらの得宗なるがゆえに、蒙古帝国と対峙する運命を背負ったのである。

父祖が築き上げた得宗への権力集中を成し遂げ、「将軍権力代行者」 となった時宗は、自身の権力を保証し、自己の必勝を確信させてくれる拠り所となる倫理を求めた。  すなわち、北条得宗家は、鎌倉将軍の「御後見」として幕府と天下を支配したのである。 (つじつまを合わせる事)

「鎌倉北条氏は、なぜ将軍に成らなかったのか?」という質問に答えるならば、北条得宗家は将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、又成りたくもなかったのではあるまいか。?

だが、時宗によって完成され頂点に達した得宗権力は、自身の死によって形骸化の道を歩みだし、以後の鎌倉政権は迷走と混乱の果てに沈滞に陥り、やがて瓦解の時を迎えました。



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2018.02.04(07:00) 125

**「曽我物語」と「吾妻鑑」

  成立年代は共に鎌倉末期。   一方は曽我兄弟の敵討ちを題材にした物語、もう一方は鎌倉幕府を取材した実録である。
このように同時代に創作、編纂された歴史書であるが、「曽我物語」は「吾妻鑑」の前史を記述すると共に、将軍頼朝のほぼ全時代を物語っている。  さらに幕府成立時代の「吾妻鑑」には記述の無い事柄までを語っている。
 「吾妻鑑」の欠落を補う事が出来るのだが、はたしてこの二つの作品は全く別々に作られたものなのか疑問が残る。

「曽我物語」について見てみよう、全十巻のうち第一巻は日本国の始まりを記して、平氏の流れ、源氏の流れを述べて、頼朝の時代となった事を語り、次いで伊豆国伊東氏一族の内紛を述べて、曽我兄弟の敵討ちの発端となった事件を描いている。

第二・三巻は、伊豆に流された頼朝が伊東から北条に移り、やがて鎌倉に入り関東の主となるまでを詳しく描いている。    第二巻の終りの部分で、頼朝と時政の接触があり、続く第三巻の全体で時政と頼朝が如何に結びついて、どの様に天下統一を成し遂げたかが描かれている。
まさにこれは、頼朝挙兵前史を正面から扱ったもので、「吾妻鑑」 の欠落部分を補完するものである。


四巻以後になると、曽我兄弟が工藤祐経(suketune)を敵と狙う中、三原・那須・富士野の狩場での関東の武士集団の活躍する姿が鮮やかに描かれ、そうした武士団の交流が描かれている。

さらに興味深いのは、曽我兄弟の成長と共に、鎌倉幕府が成長し、その成長に合わせて「曽我物語」 の記述も膨らんでゆく構成である。
兄弟の足取りは、上野・下野へと広がり、やがて富士野に勢揃いする武士は四ヵ国のほか、安房・上総・下総・常陸・下野・上野・信濃の御家人(豪族)たちである。

「曽我物語」と「吾妻鑑」との緊密な関係が明らかになってきた、「曽我物語」と「吾妻鑑」とは、北条氏を共通の基盤としているのである。
「曽我物語」もまた、北条氏の側から構想された物語の様だ・・・・・・・。

一方「吾妻鑑」の編纂にも金沢北条氏周辺の関係が関わった可能性がある事は、既にレポート済みである。
金沢氏は北条氏一門きっての文人武士であり、学問に精通する金沢実時(sanetoki)から顕時(akitoki)・貞顕(sadaaki)と続く文人一族が「吾妻鑑」を編纂する立場に近い・・・・・・。 
編纂に関わる記事が金沢氏周辺と結びつく。    同時代に創作された「曽我物語」も北条氏周辺の構想となるとその関連性は・・・・・・・・・・・。
金沢(北条)実時公・墓所  (横浜市金沢区・称名寺)
金沢実時墓
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金沢明時公・禎顕公墓所  (称名寺内・金沢氏邸宅跡)
金沢顕時・貞顕墓

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2018.01.31(07:00) 123

**「吾妻鑑」の構想

  鎌倉幕府と呼ばれる新しい政権が誕生した。   その政権を理解するうえで注目すべき歴史書が「吾妻鑑」 だ。
「吾妻鑑」は治承四年、以仁王(motihitoou)の令旨が下されたところから始まっている。

その以仁王の令旨が伊豆国・北条館に源行家(yukiie)によって持ち込まれた、その席に北条時政(tokimasa)が同席していた事から始まる。
北条時政公・墓所    (伊豆の国市・願成就院)
北条時政公墓所(願成就院)

「令旨」 「頼朝」 「時政」 の結びつきは、正当性のシンボルと、東国に下ってきた貴種と、東国の豪族的武士の三者の組み合わせが、結合したものであって、何れを欠いても、鎌倉幕府は成立しなかったと考えられている。
しかし、令旨と頼朝はともかく、他の豪族ではなく時政がそれらと結びついている点に「吾妻鑑」 の意図がうかがえる。   北条時政から始まらなくてはならない必然性はないと思うが、・・・・他の豪族ではならなかったのだろうか。

挙兵は一旦は成功した。・・・・しかし、間もなく石橋山で敗れている。  以後その地の豪族に助けられながら房州にさらに武蔵を経て鎌倉に到着している。  その豪族とは土肥・三浦・千葉・上総・秩父の諸氏である。
土肥氏一族・墓所   (静岡湯ヶ原・成願寺)
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「吾妻鑑」 の中で頼朝の器量が認められる処となり、東国の主に成長していったように記述されているのだが、他の豪族の其々にとっても、令旨を帯した頼朝との出会いは重要な意味を持っていたはずである。


●  吾、源家累代の家人也、幸いにも貴種再興の時に逢うなり・・・・・。  (三浦氏)・(三浦大介)
● 源家中絶の跡を興せし給うの条、感涙眼を遮る、言語の及ぶ所に非ず・・・・・。 (千葉氏)
● その形勢,高峻の相(sou)無くんば、直ちに討ち取り平家に献ずべし・・・・・。 (上総氏)

衣笠城主・三浦大介公戦没の地     (横須賀市・衣笠)
三浦大介戦没地

 「吾妻鑑」 に記された頼朝との接触の情況は、もしそれぞれの豪族が後に滅ぼされる事無く、幕府内に於いて実権を有する立場に有ったとすれば、其々の豪族における「吾妻鑑」が存在したと推測される。

元来東国の豪族が都から下ってくる貴種を迎える事は広く行われてきた。   頼朝の父義朝(yositomo)を房総半島に迎えたのは上総氏であった。   義朝が下総国・相馬御厨(mikuriya)に乱入した時、その後ろには上総常時(tunetoki)がいたと云う、また義朝が相模国・大庭御厨に乱入した時、義朝は「上総曹司」 と呼ばれていた。  その後、相模国・鎌倉に迎えたのが三浦氏である。

*相馬御厨・大庭御厨・・・・何れも平安時代後期・伊勢神宮に帰する領地。   (地元豪族が管理)

鎌倉・亀ヶ谷に居館を構えた義朝(頼朝父)は、三浦氏との娘との間に「鎌倉・悪源太」 義平(yosihira)を設けた。
東国の豪族の「家」 が都の「貴種」 との結びつきで、起こされた事と良く関係していよう。   北条の家も頼朝を迎えた時に始まるのである。

頼朝の挙兵から南関東への進出は、多くの家々を生み出す効果があった。   またその家々が連合して貴種を擁して作り上げたものが幕府と云う「武家」 の権力なのであろう。
初期の幕府は南関東の家々だったものが、東国15ヵ国へと広がり発展してきたのだ。

 「吾妻鑑」 は、その家々の中心的存在に位置したのが北条氏であると主張している。
これまで、良く知られているように将軍家の関係者と共に、北条氏についても「北条殿」 ・「北条主」 ・「江間殿」 等の敬称を付けて現わされている。
鎌倉幕府は東国の家々を代表する北条氏と、令旨を帯した「将軍」 頼朝と共に成立したというのが「吾妻鑑」の主張だろう。 次回へ

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2018.01.27(07:00) 122

**「吾妻鑑」の欠巻  (Ⅱ)

 「吾妻鑑」に欠巻がある事は既にレポートしたが、もう少し詳しく調べてみる事にした。
まずは将軍・頼朝の死亡記事の欠落から・・・・・・。
武家政治を開き、鎌倉幕府の初代将軍として活躍した源頼朝は、京都の資料によると正治元年(1199)正月五十三歳で死亡している。  死因は相模川の橋供養に臨んだ帰途、落馬した事が原因で死亡したことになっている。  これは、  「吾妻鑑」 建暦二年(1212)二月条の記事によるもので、死後13年後の記事である。
源頼朝の法華堂跡   (鎌倉・雪の下)
頼朝・法華堂

建久七年(1196)正月から正治元年(1199)正月までの3年1か月間の記事が無く、頼朝死亡の翌日から再び記事が表れる。
幕府における頼朝の存在から考えると、当然記載されているべき将軍の死亡記事が「吾妻鑑」 に無いのかは、素人目にも不自然であるが・・・。

現存の写本の体歳から考えると、巻45(建長七年・1255)の様に1巻分の記事が脱落(紛失)してしまった場合とは異なり、巻15(建久六年条)・・巻16(正治元年条)となっており、建久七年正月~正治元年正月条は原本に在ったものが写本の時点で脱落したものではなく、明らかに原本が無かったことになる。

建久三年(1192)に後白河法皇が崩じて院政の中心が失われ、名実ともに廟堂の首班となった九条家(兼実)は、頼朝の為に征夷大将軍の宣下を取り計らった。   これは頼朝が望んでいたにも関わらず、後白河法皇の勅裁が下りなかった為である。

建久六年(1195)頼朝は奈良東大寺再興の落慶供養に臨むため、二度目の上洛を行った。 頼朝と朝廷・九条兼実が両軸となってその全盛を誇っていた。    兼実は既に女(娘)任子を入内させていたが、頼朝も丹後の局(tango)に接近・連携し大姫入内運動をしたような見解が最近承認されつつある。 (結果的に大姫の入内は実現しなかった)
一方、故後白河法皇の近臣たちは土御門通親(mititika)を中心に権勢回復策を進めていた。

兼実が期待をかけた女「中宮・任子」 の妊娠・出産は皇女であったのに対し、「後宮・桂子」 ・(土御門通親の女)は第一皇子を生んだ。   これに勢力を得た通親は後白河の寵妃・丹後局等と謀り、兼実の排除策を講じ、建久七年(1196) 関白・九条兼実 を解任したのである。  同時に弟の太政大臣・兼房や天台座主慈円(jienn)の地位も奪った。    

建久八年(1197)に譲位の事を幕府へ通告し、その不賛成を廃して準備を進め、翌九年正月に土御門天皇が誕生したのである。
この様な時期に頼朝は三度目の上洛を計画し、朝幕間の諸問題打開を図るべく準備をしたが、その途中での事故(?)であり、目的を達することなくの死亡である。 「吾妻鑑」の欠落時期にあたる建久七年から正治元年正月の頼朝の死に至る三年一か月間は幕府は、最大の危機に直面していたわけである。   「吾妻鑑」の編纂者が、この時期を故意に記述しなかったのか、記述できなかったのか、或は編纂後に何等かの理由で削除したのか、そして頼朝の死因は何であったのか、真相は謎のままである。
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2018.01.23(07:00) 121

**「吾妻鑑」 の写本

「吾妻鑑」 は和風の漢文で書かれた鎌倉幕府の記録で、治承四年(1180)の源頼政(yorimasa)の挙兵から文永三年(1266)の将軍宗尊親王(munetaka)の帰洛までの87年間を記録した歴史書である。
幕府や武士の家に伝わる文書記録・公家の日記等が原史料だ。   その様な史料を月日を追って編纂したものです。   しかし、87年のうちの10年に及ぶ欠巻がある事は既にレポート済である。

 「吾妻鑑」 の原本は現存しないが、写本、木版本、研究書などの形で伝来され現在に至っています。 

●  写本 
   
〇  吉川家伝来(kitukawake)で大永二年(1522)書写の奥書を持つ・・「吉川家本」 (重要文化財・岩国市の吉川重喜蔵)
〇  小田原北条氏伝来と云われる・・「北条本」 (内閣文庫蔵)
〇  前田家伝来で僅か一巻(寿永三年~元暦元年・1184) 改元年、ではあるが、最古の写本とされる「前田家本」 (重要    文化財・尊経閣文庫蔵・鎌倉時代末写)
〇  「島津家本」 (原本紛失)
〇  毛利家伝来と伝える「毛利家本」 


など数種類の古写本が現存するが、いずれも金沢文庫伝来本・関西伝来本が典拠とされている。

1   紙本墨書      吾妻鑑    51冊    内閣文庫所蔵  
  
  本書は北条本の原本である。  金沢文庫本を応永11年(1404)に書写した古写本ををもと写したと考えられるもので、書写年代は文亀年間(1501~1503)と推定されている。   (伝) 小田原北条氏に伝来したもので、秀吉の小田原攻めの時に北条氏より黒田孝高に贈られ、それが黒田長政によって徳川秀忠に献上されたものと伝わる。
以後の木版本はみなこの北条本が典拠。

2   重要文化財   紙本墨書   吾妻鑑   1巻    尊経閣文庫所蔵

  本書は僅かに1巻、紙数24枚(寿永三年四月八日~十二月十六日)のみが、残される。
「吾妻鑑」の現存最古の写本とされる。   本巻は仁和寺・心連院旧蔵で、紙背は霊山実厳僧正作の山密往来である。   奥書に応永13年(1406)書写とある。

3    重要文化財    紙本墨書    吾妻鑑    抄録1冊   尊経閣文庫所蔵

  本書は吾妻鑑の抄録で文治三年(1187)から嘉禄二年(1226)までの記事の中から40数日間を抜き出したものである。 記事の半数は弓・狩猟に関するもので、他に曽我兄弟の仇討の記事などもある。   包紙に文治以来記録と書かれている、しかし不明な点が多かったが、前田綱紀公によって「吾妻鑑」の抄録であることが突き止められた。
現在では室町時代の写本と伝わる。

4   重要美術品   紙本墨書   吾妻鑑寛元二年記断簡  1軸   称名寺所蔵     (金沢文庫保管)

  本書は断簡七葉から成る巻子装の資料でで、「吾妻鑑断簡」 の題箋が付されており、古くは「吾妻鑑」の断簡であると考えられていたが、現在では前三葉が「二条教定卿記」 の寛元二年(1244)の断簡とされ、後四葉は藤原頼嗣が覚書(oboegaki)風に書き留めた「藤原頼嗣元服行始等書簡」である事が査定されている。   
筆跡も前後では異なっており、明らかに別のものと判断された。   「吾妻鑑」編纂時に補助的な史料として使われたのではと考えられている。   (鎌倉時代) 

5   (参考資料)   重要文化財    紙本墨書   建治三年記  1巻    前田家尊経閣文庫所蔵

   建治三年記は鎌倉幕府の問注所執事・三善康有(yasuari)の記した日記で、その職務に関係している幕府の重要な記録が伝わる。  特に建治三年(1277)は文永・弘安両役のほぼ中間にあたり、この日記にも緊迫した国際情勢の一端が覗える。
尊経閣本は金沢文庫に伝わったもので、三善康有が抄録した建治三年日記の原本に当たるものである。   したがって「吾妻鑑」 断筆後の鎌倉時代研究の基礎的な資料となるものとされる。

●  木版本

 江戸幕府は慶長十年(1605)に北条本を底本として「吾妻鑑」 を木活字で刊行した。    その後次第に校訂が加えられ、四種類の版本が神奈川県立博物館に所蔵されている。

〇  「慶長古活字本」・・・・・慶長10年(1605)刊     25冊

  同本は慶長10年に徳川家康が西笑承兌(seisiyou・siyoudai)・(相国寺92世住持で家康の政治顧問)に命じて木活字で刊行したもの。  本文には「吾妻鑑」 とあるが、表紙では「東鑑」 と中国風に改めている。
木活字を組んだものなので、刷りの濃淡やずれがみられる。

〇  「寛永木版本」  (初版) (再販)・・・・・寛永3年(1626)刊    25冊

  寛永本は慶長版を校訂して木版で刊行したもので、仮名や訓点が付けられている。    初版・再版本ともに巻末に林羅山(razan)の奥書がある。

〇  「寛文木版本」・・・・・寛文元年(1661)刊   25冊

  寛文本は寛永本を基にして刊行したもので、巻末には承兌や羅山の奥書を載せている。   内容に大差はないが、前三版に比較して紙質・刷り共に粗雑である。

「吾妻鑑」・ 版本には以上四種の他に寛文八年(1668)の平仮名版84冊がある。  これは、徳川家綱の命によって北条本を基にして、仮名本に訳したもので内閣文庫所蔵の物はその原本である。   巻末に「東鑑全部改丁仮名・・総合八十一冊也   他目録弐冊」 とあり、版行して世に流布させた。

●  研究書

  「吾妻鑑」 は武家の記録として重要な資料であったので、江戸時代以来多くの研究が為されている。  徳川家康が「吾妻鑑」に多大な関心を示したことは、良く知られている。  徳川三代に仕え幕政の中枢に関与した林羅山(razan)は、慶長12年に家康の命に奉じて「東鑑綱要」 を著した。
吾妻鑑を精読して記事の重要なものを抜き出して目録としたものである。  その子、鷲峯(siyuuhou)も研究を続け慶安四年(1651)に酒井忠勝(tadakatu)の求めに応じて「東鑑末記」 を著した。   これは「吾妻鑑」 断筆以降の文永三年(1266)から鎌倉幕府滅亡直前の元弘元年(1333)までの歴史を、仮名交じり文で著したものである。  
近年に「吾妻鑑」を研究した学者に大塚嘉樹(yosiki)がいる。  「東鑑別注」等を著し吾妻鑑全般にわたる注釈評論を加えているが、編纂時期について泰時・時頼時代と考証し、編纂者が北条氏の為に曲筆している事などを指摘している事は注目される。     次回へ
鶴岡八幡宮・一之鳥居   (鎌倉・由比ヶ浜)
一の鳥居
かいひん荘   (鎌倉・稲瀬川)
かいひん荘
2018・稲村の富士     (鎌倉・稲村ケ崎)
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