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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.16(06:40) 89

**臨終往生

**絵巻に見る時頼往生

「業鏡」 は生前の行いを映し出す鏡、「担然」 は広々としている様子の事。
実は、この遺言は時頼のオリジナルではなく、宋の禅僧・笑翁妙湛(miyoutan)の遺言の「七十二年」 の語を「三十七年」 に変えたものであった。  時頼は笑翁の遺言を借りて、自己の心境を現わしたのである、これは勉強熱心な時頼らしい引用と思う。

ところで、鎌倉後期成立とされる「法然上人絵伝」 には「吾妻鑑」とは少し異なる時頼往生の場面が描かれている。  この場面は得宗被官・諏訪入道蓮仏(renbutu)が、法然の孫弟子にあたる敬西房信瑞(sinzui)に宛てた書状に基づくという。 時頼が阿弥陀如来の画像を架けその前で合掌して往生したという点では「吾妻鑑」と異なるものの、袈裟を付け椅子に座して禅僧風の往生をしたという事は「法然上人絵伝」でも前提となっており、内容は同様と考える。  時頼の信仰の多様性から考えて、禅宗に帰依しつつも往生の際に阿弥陀仏の画像を架けても不思議はないとする。
北条時頼公・墓所  鎌倉明月院内   (鎌倉市・山之内)  最明寺跡
北条時頼墓

事実として時頼往生の姿がどうであったかは確定することは出来ない。「絵伝」 の絵も、後世の想像図ではある。ただ、既に見たように、時頼の信仰にも阿弥陀信仰は含まれており、あり得ない事ではない。

**御家人たちの出家

「吾妻鑑」による、時頼往生時の、周囲の反応が記されている。  まず、北条(名越)時章(tokiaki)・安達頼景(yorikage)・武藤景頼(kageyori)・二階堂行氏(yukiuji)・安達時盛(tokimori)らは、悲しみのあまり出家した。  その他出家する御家人は数知れず、みな出勤停止の処分を受けた。

「吾妻鑑」 は幕府の公的な歴史書であるから、多少の誇張はあるかもしれないが、御家人たちが競って出家しようとした事は事実であろう。  ただ、純粋に故人の死を哀しむ気持ちに加えて、得宗政権への忠誠を表明しようとする政治的思惑が潜んでいた可能性も否定できない。

**葬儀と追悼

時頼の葬儀が行われた後、「時頼の死去により御家人が出家しないように命令が下っていたが、命令に背いて出家する者が多く有るという。  出家した御家人を調べて報告するように」 という幕府の命令が、諸国の守護に出されている。   (吾妻鑑)

時頼の死を悼む動きが、諸国の御家人たちの間に広がっていた事が解る。 生真面目で勤勉で少々煙たい存在ではあったが、幕府首脳部や御家人たちにとって時頼は信頼のおける人物であったようだ。

強力な庇護者を失った禅僧たちも、時頼の死を惜しんだ。  精力的な政治家にして、熱心な仏教信仰者であった時頼の死は、人々に大きな衝撃を与えたのであった。

**妻と子

時頼の妻子については既に言及した部分もあるが、少し詳しく調べてみた。   一人目の正妻は、延応元年(1239)に結婚した毛利季光(suemitu)の娘である。  季光が宝治合戦で三浦方に付いたため、離縁された。 子があったかどうかは不明。

二人目の正妻は、建長元年(1249)に結婚した北条重時(sigetoki)の娘で、時宗・宗政・女子の母親である。  この女性は時頼の死後出家して「葛西殿」(kasaidono)と呼ばれるようになり、叡尊・忍性に帰依する一方、摂津・多田荘や駿河富士郡などの領主として豊富な財力を持ち、日中貿易にも関与したらしい。  85歳で亡くなっている。 

次に子供たちと、側室について見てみよう。    
宝治二年(1248)に生まれたのが、三郎時輔(tokisuke)である。  幼名は宝寿。母は、将軍家に仕えた讃岐の局という側室の女性で、時輔の死後は出家して「妙音」 と名乗った。  時輔は、文永三年より六波羅探題南方を勤めるが、得宗を継いだ弟の時宗に対する謀反を疑われ、文永九年に誅殺された。  25歳

二番目の男子が、太郎時宗、幼名・正寿である。 建長三年(1251)の生まれ、母は正妻重時の娘である。 周知のように、時頼のあと連署・執権を勤め、元寇の侵略を阻止、弘安七年(1284)に34歳で病死した。

四朗・宗政は建長五年1253)の生まれ、幼名は福寿、母は時宗と同じで、正妻の子である為、時頼によって時輔より上位に位置付けられた。 小侍所別当、評定衆、引付頭人、筑後守護、長門守護などを勤めた。 また文永の役に参戦、負傷している。29歳病死

以下、 五郎宗時・六郎政頼、七郎宗頼、系図類に見える人物で「吾妻鑑」等の史料には登場しない。  時厳(jigon)は僧侶

以上、五代執権・北条時頼編 25回分まで進みました、・・・・終りです。ご愛読ありがとうございました。

丁酉・庚戊・丙午
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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.12(06:08) 88

**臨終往生

*「吾妻鑑」 による臨終の様子

叡尊の下向に鎌倉が沸き返った翌年、弘長三年(1262)は、文字通り波乱の年となった。 八月豪雨と共に大風が吹き、御所や鎌倉中の民家に大きな被害が出た。  由比ヶ浜(和賀江島)に着岸していた数十艘の船が、破損し、漂流して沈没した。 (吾妻鑑)
日本最古の築港とされる・和賀江島跡  (鎌倉市・材木座)
DSCN2900.jpg
和賀江島から稲村ケ崎・江の島を望む (対岸・稲村ケ崎)
DSCN2902.jpg
かねてより幕府が準備を進めていた将軍・宗尊親王の上洛が、大風による農作物被害への負担軽減させることが必要となった為、延期になった。    (吾妻鑑)
さらに、この月の末に由比ヶ浜では沈没する船や、打ち寄せられた死人が無数に見られた。 九州方面から年貢を運搬してきた船のうち、60艘が伊豆の海を漂流した。  (吾妻鑑)

宗尊親王の上洛延期が決まった八月二十五日、時頼の病気回復の為に、時頼邸(山之内最明寺の別邸)で大般若経の真読が行われた事が 「吾妻鑑」 に記されている。 「吾妻鑑」はこの年の三月に信州・善光寺に土地を寄進した記事以降の時頼に関する記事が無い・・・。あるいはすでに体調を崩していたのかもしれない。

十一月になって時頼の病気の悪化を示唆する記事が登場する。  病気回復のための様々な祈祷が行われた。というものである。
まず、この日に等身大の千手観音菩薩が供養された。  この日以前に作り始めたはずであるから、時頼の発病もこの日よりかなり前、という事になる。

「吾妻鑑」 によれば、延命護摩法要が行われ、北条義政(yosimasa)が等身薬師如来像を作らせ供養し、像を携えた供養僧が三島社に参籠するために出発したと記している。

しかし、祈祷の甲斐なく、十九日には危篤に陥り、最明寺に付属する北亭に移ることを望んだという。 心静かに臨終を迎える為と云われる。 被官の尾藤太景氏(takauji)と宿屋左衛門尉に命じて、見舞いを禁止させた。 翌朝時頼は最明寺北亭に移ったが、前日の命令を二人が固く守った為、誠に静かであった。 看病のため近侍する7人の被官の他は、誰も出入りしなかった。

十一月二十一日、戊刻(午後8時頃)、時頼は最明寺北亭で臨終を迎えた。  (37歳)であった。
「吾妻鑑」が伝える臨終の様子は、次のようである。  時頼は、袈裟を着て椅子に上り、座禅をし、少しも動揺する気配を見せず、「業鏡高く懸ぐ三十七年一槌に打砕して、大道端担然たり 」 という遺偈(遺言)を唱えて亡くなった。    次回に続く

**次回は最終回の予定・・・・・・そして次のテーマは北条時宗の予定です。

丁酉・庚戊・壬寅

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.08(06:30) 87

**叡尊の下向と律

**北条(金沢)実時・関東下向を要請

銅像大仏の完成が真近に迫った弘長元年(1261)10月、見阿弥陀仏(ken・a)という律僧が金沢実時(sanetoki)の使者が叡尊を訪れ、 「一切経を西大寺と武蔵・称名寺に寄付するので、関東に下向してほしい」 という書状を持参した。  叡尊は多忙を理由に断り寄付も辞退したが、下向の有無をに関わらず寄進します、という事で後日西大寺に一切経が届いた。

さらに、12月、関東に下っていた叡尊の弟子の定舜(jiyousixyun)が関東から上ってきて、実時の言葉を伝えたが、それによると時頼も実時に同心して、叡尊の下向を望んでいる旨の言葉だった。

さらに翌年二月に、再び見阿(ken・a)が実時の書状を叡尊の許に持参し、それには時頼も仏法を興隆し自ら受戒するためにも下向を願うと記されており、やむを得ず叡尊は了解したのである。
先に実時の言葉を伝えた定舜は、実時の発願で中国に渡り、一切経を得て帰国した人物でもあり、叡尊下向以前にすでに金沢氏が西大寺流律宗に帰依していた事は確実とみられる。

また、叡尊の一番弟子忍性(ninsiyou)も、建長四年(1251)に関東に赴いて、常陸の三村寺(mimuraji)を拠点に活動し、さらに弘長元年(1261)には鎌倉の新清凉寺釈迦堂を新たな拠点として獲得していた。

*新清凉寺・・・・扇ヶ谷海蔵寺付近の谷戸にあったが、現在廃寺となっている。

忍性らを通じて師叡尊の高名を聞いた実時らが叡尊を招こうとし、時頼もそれに賛同したと考えられる。
弘長二年(1262)二月、62歳の叡尊は、弟子の定舜(jiyousiyun)・盛遍(jiyouhen)・性如(siyouniyo)・性海(siyoukai)らを従えて奈良を出発した。以後の一行の様子は、弟子性海の旅行記「関東往還記」 に詳しい。

「関東往還記」 の時頼関係の記述を中心にリポートする。   
鎌倉に到着した叡尊は、西御門の天野景村(kagemura)の屋敷に落ち着いた。 夜になって実時が訪れ、「出家はしないが、自分を弟子に加えてほしい。 また、時頼も御下向を大変喜んでいる」と伝えて帰った。 

*天野景村・・・・実時の母方の叔父

大蔵御所・西御門(nisimikado) 鎌倉・西御門
西御門

暫くして、亀ヶ谷(kamegayatu)の清凉寺釈迦堂に移り、早速同所で梵網布薩(bonmou・fusatu)という仏教儀礼がおこなわれ、叡尊の説法を実時一族とともに時頼の妻(重時の娘)が傾聴した。

月が替わった三月、時頼本人から実時を介して叡尊に逢いたい旨伝えられたが、叡尊は「しばらく、日をおいて、特に急がずお会いしたい」 との返事であった。 十日程して時頼は 「対面したいが、自分から出向くとなると警備が面倒ですし、気軽に私宅にお招きするのも恐れ多く、どうしたらよいか困り果てています」 という言葉を、実時が伝えています。  遠回しながらも催促するような時頼のメッセ―ジに、叡尊も押し切られた格好で 「一人の為に出向くのは本意ではないが、なかなか難しい状況なので、今回は特別に出向きましょう」 と返答した。
そして、この日の夕刻に時頼の別荘内にあった最明寺を訪ね、数時間にわたって時頼と対談し、深夜になって帰宿。

*最明寺(saimiyouji)・・・・時頼が出家準備の為に建立した寺院。 (現・明月院)

明月院・方丈 (鎌倉・アジサイ寺)    (鎌倉・山之内)
明月院・方丈

数か月後、時頼の使者が叡尊のもとへ来て、「戒を受けたいので、明日参上したいと存じます。もし都合が悪ければ、都合の良い日をお知らせください。また、受戒の時にはお布施を治めると世間では云われていますが、本当はどうなのですか」 と伝えた。
これに対して、 「布施の事は広く言われていますが、私の教えにはないことで、誤まった説です」 と回答している。

この間のやり取りや対談を通じて時頼はすっかり叡尊に心酔してしまったらしく、将軍の御前で 「叡尊の人徳と素晴らしい行いは、尋常ではありません」とあれこれ賞賛したので、、人々はますます競って叡尊の許に集まったという。

叡尊の下向と時頼をはじめとする幕府有力者の帰依をきっかけに、関東での西大寺流律宗の活動は飛躍的に盛んとなり、、やがては極楽寺に拠点を移した忍性がその中核を担っていくのであるが、それは時頼没後の事である。

時頼が叡尊に帰依したのは、偶然にも幼名が 「戒」 寿であった事に象徴されるように、時頼には律のような禁欲的側面の強い教えが性にあったのかもしれない。 しかしながら、叡尊から戒を受けようと思ったのは単にそれだけではなかったようである。
後に叡尊が語ったところによると、「関東で最明寺の禅門(時頼)に逢った時、 斎戒を受けたのも理を明らかにするためです」 と言われた。
この人は禅の修行をして常に悟りを得ようとしているので、この様な言葉があったのであろう・・・・・・。

禅を中心としつつも、様々な仏教の教えに耳を傾け、この世で何が正しいかを見極め、精神の平穏を回復しょうと努力していたのであろう。  
次回に続く

丁酉・庚戌・戊戌

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.04(06:58) 86

**浄土と鎌倉大仏

**浄光明寺・大仏の建立

時頼は、日蓮が強く批判した念仏の教え(浄土教)をも受け入れた。  鎌倉・扇ヶ谷(oogigayatu)の浄光明寺の創建に関わったとみられることは、その一例である。  浄光明寺は建長三年(1251)に北条長時(nagatoki)の発願により、浄土宗・真阿(sina)を開山に招いて創建されたと伝わる。  (鎌倉市史)

しかし、創建に関わる浄明寺文書に「本願主」として長時と時頼の名が記されており、建長三年当時には長時が京・六波羅探題在任中であった事などから、創建に関わる実務を行ったのは執権時頼であったことが考えられる。

時頼が浄土教を中心とする寺院を建立していることは、当時の多くの武士と同様に、念仏信仰(阿弥陀信仰)をも持ち合わせていた事を意味している。  現在は材木座にある浄土宗・光明寺についても、時頼の関与が伝わっている。 浄土宗鎮西派の関東における一大拠点であった。

鎌倉における浄土信仰という事になると、鎌倉大仏に触れなければ為らないでしょう。
「吾妻鑑」 によれば、建長四年(1251)八月に鎌倉深沢において金銅・八丈の釈迦如来像を鋳造し始めたという記述がある。  鎌倉大仏は、不明な点が多く非常に謎の多い大仏である。
この記事もその一つで、現存する露座の大仏は阿弥陀如来像であるが、記事では 「釈迦如来」 とされている。この不一致をどう解釈するかについてはいろいろな説がありますが、基本的には建長四年に鋳造され、この大仏が現存する「阿弥陀仏」であるという説が主流である。

実は、銅像の大仏が作られる前、木造の大仏が存在していた。 この木造は大仏嘉禎四年(1238)3月に工事が始められ、寛元元年(1243)6月に完成している。  (吾妻鑑)

木造大仏も銅像と同じ阿弥陀如来像であったとみられ、創建の発案は北条泰時(yasutoki)(三代執権)と考えられる。  同時に浄光(jiyoukou)という念仏僧の勧進活動を幕府が後押しをした記録が残る。 何れにせよ幕府が関与していた事は間違いない。

木造大仏を原型として、同じ場所に銅像大仏が建立されたと考えられるが、正確な完成時期は不明である。 文応元年(1261)から文永元年(1264)の間とみられている。 この大仏の建立を推進たのは北条時頼であろう。泰時の代の大仏を継承したという側面もあるが、時頼自身に阿弥陀信仰がなければ、大仏建立のような大事業を行う事は無かったであろう。  また、並行して進んでいた建長寺の造営も、幕府による国家支配を守護する仏教拠点という性格を持っていたのであろうと考える。
露座の鎌倉大仏 (阿弥陀如来像)  鎌倉市・長谷(深沢)
鎌倉大仏
大仏建屋・礎石  鎌倉大仏は露座ではなかった・・・・・
大仏建屋礎石
律僧・忍性経営(桑ヶ谷療養所・悲田院)跡 (鎌倉・長谷)   ・現長谷大仏付近・
桑原ヶ谷療養所

銅像大仏の完成を弘長二年(1262)と想定するとともに、前後して奈良・西大寺の律僧・叡尊(eisonn)が鎌倉に下向している事に注目する。   大仏は西大寺系律宗と時頼政権との一体化の象徴と見ている。 研究者の意見も大筋で同じようだ。
大仏と律宗が密接な関係にあったことは、建立に関して技術者の動員という面からも十分想定できる。

*律僧・忍性(ninsiyou)・・・・西大寺・叡尊の弟子、鎌倉に於ける社会救済活動(橋・道路・井戸)等の土木事業、貧民救済の為の施設の運営を行う。(極楽寺の住持)

次回に続く

丁酉・庚戊・甲午

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.31(07:00) 85

**禅宗への帰依

**道元との出会い

*ここで予定を変更して、時頼が禅の教えに関心を持つきっかけとなった道元・兀庵の二人の禅僧との出会いについてレポートします。

時頼と交流のあった禅僧というと、既に触れたように、建長寺の創建という大事業との関係から、建長寺開山に迎えられた蘭渓道隆の存在が目立つようである。

しかしながら実は、時頼が最初に本格的な禅に触れるきっかけとなったのは、曹洞宗の祖である道元(dougen)との出会いであった。 蘭渓道隆の来日の翌年にあたる宝治元年(1247)、越前永平寺を発って鎌倉へ行き、「檀那・俗弟子の為に説法」 したのち、翌年永平寺に戻っている。   道元四十八歳、六か月程の滞在であった。

道元はかつて 「仏法興隆のために関東へ下向すべきだ」 と勧められたとき 「もし仏法を学ぶ意思があれば、山川を超えても自ら来るべきで、意思のない者にこちらから出向いて説いても無駄だ」 として断っており、鎌倉行きは本意ではなかったようだ

道元の鎌倉行きの主な動機は、永平寺の檀那である波多野義重(yosisige)の依頼に応えたものと見られる。  義重は幕府の御家人で、当時鎌倉に居住していた。・・・・一説に道元は時頼の招きによって鎌倉へ赴いたという説もあるが、道元自身の記録に時頼招請の事実が全く見られず、権勢を嫌う道元の立場からも、時頼の招きは考えにくい。

さて、時頼は直接鎌倉に招いたわけではなかったが、名高い禅僧の鎌倉滞在を知り、その教えを求め受け入れられ、道元は菩薩戒(bosatukai)を授けたという、時頼の他にも、多くの僧侶・俗人が道元から戒を受けた。  さらに時頼は、道元の為に寺院を創建するので鎌倉に留まるようにと要請したが、道元は 「越前の小寺院(永平寺)にも檀那があり、大事にしたい」 と固く辞退したという。

道元との面談で、時頼は具体的にどのような教えを乞うたのだろうか、・・・後の時代の記録に道元が時頼に、「世に異変があれば、天下を捨てよ」と勧めたという話が伝わる。    おそらく時頼は、幕府の主導権を巡って起こる政争を鎮めるためにはどのような心掛けが必要かを、道元に尋ねたのであろう。  それに対する道元の答えは、 「権力者の地位に執着するな」 というようなものであった。  時頼が道元から禅の教えを学んだ一例だが、断片的伝承からはよくわからないが、禅の教えに関心を持つきっかけとなったことは確かであろう。
臨済宗・建長寺派本山  建長寺三門
建長寺・山門
建長寺創建以前・山之内刑場址 (現建長寺・塔頭回春院付近)
建長寺・刑場址
塔頭・回春院 全景
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**兀庵普寧(gotutan・funei)の来日

蘭渓に続いて時頼に大きな影響を与えた禅僧に、兀庵普寧がいる。  文応元年(1260)、64歳で中国より日本に渡った。 まず博多・聖福寺にはいり、暫くして京都・東福寺へ移り、さらに兀庵の評判を聞いた時頼によって、鎌倉建長寺に迎えられた。

時頼が兀庵普寧を鎌倉に招いた背景には、禅の修行が進むにつれて、時頼が蘭渓の指導に満足しなくなってきたという事情があったらしい。   (蘭渓との確執)

来日の翌々年、弘長二年(1262)に蘭渓は建長寺を去って京都建仁寺の住職となり、替わって兀庵が建長寺住持となった。  この後も、時頼は兀庵の許を訪れて教えを受け、兀庵も時頼の仏教に対する態度を高く評価している。   (仏教者・北条時頼)

時頼は兀庵普寧の指導により、この年の十月十六日の朝、悟りを得る。 兀庵の 「天下に道はただ一つであり、聖人の心もただ一つである」 という助言を受けて、時頼は、 『森羅万象、山河大地のすべてが、自己とは区別ない一体のものだ」 と語り、悟りの境地に達して全身から汗を流した。  時頼は、 「二十一年の間、朝夕望み続けて来たことを、この一瞬にすべて手に入れた」と感涙を浮かべ、九回礼拝を重ねている。  兀庵は仏前に焼香して、時頼に法を嗣ぐ者と認めた。、

時頼は相当熱心に禅に帰依していたが、禅に何を求めていたかについては、諸説がある。
禅に含まれる儒教的な教養(治世者の道徳)の習得が目的だったとする説が主流だ。
それに対して、為政者としての資質修養の為に禅を受容したが、禅僧の教えに接する中で自己の悟りの獲得と一致させていくようになったと見られる。

それに対し、時頼の禅の修行は、結果的に儒教的修養に役立ったが、自身の心の平安回復が本来の目的であったと主張する研究者もある。
時頼の何事にも全力を注ぎ込む性格から考えて、儒教的教養と、精神の平安としての禅の悟りと、双方を供に求めていたのではないだろうか。   中でも、やはり心の平安を求める気持ちの方が勝っていたように感じるが・・・・・・。     次回に続く

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