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鎌倉幕府八代執権北条時宗

2017.10.06(06:59) 94

**時頼から時宗へ

**時宗誕生

建長三年(1251)五月、甘縄の安達館では、再び安産の祈祷が始められた。  安達館は時頼正室の御産所だった。  安達館が御産所に選ばれたのは、時頼の生母松下禅尼の実家であったからである。  夫北条時氏(tokiuji)の死後、禅尼は実家に戻っていたのである。

五月十四日。申ノ刻(午後三時~五時)、俄かに正室は産気づいたのである。 医師の丹波時長(tokinaga)、陰陽師の主殿助(tonomonosuke)泰房、驗者(kenza)の清尊僧都(souzu)等がすでに控えていた。
そして酉ノ刻に入ったが生まれる気配はなかった。  酉ノ刻が終わるころ法印隆弁(riyuuben)が入り、加持を始めた。  その功徳は明らかだった。  すぐに正室は、若君を生みました。    (吾妻鑑)


*驗者・・・・修験者、加持・祈祷を行う者

*法印隆弁・・・・鎌倉中期、天台宗寺門派の僧侶

安達館の内外で、喜悦の声が上がった。 正室の実父重時(sigetoki)をはじめ、幕府の重臣や得宗被官の主だった面々が、皆集まってきていたのである。  鎌倉中が期待している中で、やがて北条時宗となる赤子が生まれた。 幼名・正寿丸と名付けられた。
現在、鎌倉の甘縄神明社の境内に、「時宗・産湯の井」 がある。   甘縄の安達館は、同社の隣に位置していたと思われる。

**帝王学

得宗専制という幕府体制の下では、出家していようがいまいが、とにかく時頼は帝王だったのである。  北条得宗家は、代々、執権を出す事になっている家系、 つまり、執権家だから、将軍になることは出来ない。 しかし政治権力の上では、将軍を凌ぐ力を持っていたのである。 そして今、その執権という地位には、得宗家ではない極楽寺流という傍系の長時(nagatoki)が、臨時に中継ぎ役として在任している。  やがて時頼の跡を嗣ぐ正寿丸が、その執権職をも嗣立しなければならない。
この様な事から帝王時頼は、出家した直後の康元二年(1257)初頭の頃から、次代の帝王になるはずの正寿丸に対して、帝王学の教育を始めることになる。

正寿丸に対する帝王学の教育は、反面では時利(時輔)に対する反帝王学、或は家臣学とでも言うべき教育でもあった。 兄ではあったが側室の子であった時利、正室が生んだ弟正寿丸に臣従することを、学ばなければならなかったのである。
時利も、その教育を、既に受け始めていた。
元服したとき、長男でありながら「相模三郎」 という名乗りを与えられたのは、それである。

康元二年(1257)二月、正寿丸も元服した。  場所は執権館でも北条館でもなく、将軍御所であった。 烏帽子親も一般御家人ではなく、六代将軍宗孝親王(munetaka)だった。
そして与えられた名乗りと実名は、「相模太郎時宗」 だった。 将軍宗尊親王の「宗」 が偏諱(heni)された上に、「相模の守だった時頼の太郎(正嫡・家督)」 であることが、天下に公表されたのである。

正元二年(1260)正月の将軍の御行始め行列では、時宗と時利との差は、更に開いていた。  共に将軍のすぐ後を行く十三人のうちだったが、時宗は筆頭の位置にあり、時利は十一番であった。

この頃までの時宗に対する帝王学の教育は、基本的には弓馬と学問であり、時宗に対して自分の地位の高さを自覚させるのが、中心的な狙いであったように思われる。  金沢文庫を創設する金沢実時(sanetoki)の下にあって、将軍と接触する機会の多い小侍所の所司になれば、多くの経験が積める事になる。  また実時は、時宗の政治学の師の役を与えられたのである。

弘長元年(1261)四月、時宗は十一歳で結婚した。  妻は安達泰盛(yasumori)の妹・堀内殿。 十歳であった。
泰盛・堀内殿兄妹の父安達義景は、建長五年に死亡しており、生まれて一年も経っていなかった堀内殿は、以降二十一歳も年長の兄泰盛に育てられた。 兄とは言っても、実質的に泰盛は、堀内殿の父のような存在であった。  そして、時頼の生母(時宗祖母)の松下禅尼は、泰盛の父義景の妹だった。  安達氏は二代にわたって得宗家の外戚という関係となり、安達泰盛の勢力伸張は、この頃から本格化していく。    次回へ

ススキの江の島・他二点
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鎌倉幕府八代執権北条時宗

2017.10.02(07:00) 93

**鎌倉幕政の転換

**将軍派と執権派の対立

何れにしても幕府は、全体として 「鎌倉時代中・末期の社会変動」 に対応を迫られ苦悩し、その中から幕府は二つに割れてゆくことになる。・・・・

将軍に権力を付与して 「将軍独裁制 」を復活させ、その権力によって 「社会の大変動 」を強圧的に抑え込もうと考えたのが、ひとつ 「将軍派 」だった。 いささか反動的だったと言えるかも知れない。
これに対して執権の権力を強化して、 「社会の大変動 」に柔軟に対応して行こうというのが、一方の 「執権派 」だった。 「将軍派 」が反動的というなら、「執権派 」は進歩的だったとも言えるかも知れない。 二派の対立は、様々な要因が絡まって、極めて複雑な様相を呈し始めた。

三代執権・泰時の執権在任十八年の間に、鎌倉幕閣には新しい政治勢力が成立し、次第に台頭しつつあった。 大仏流(osaragi)・佐助流(sasuke)・極楽寺流(gokurakuji)・金沢流(kanazawa)などのいわゆる北条一門である。 諸国の守護や幕閣の評定衆や各種の奉行などに就任して、侮る事の出来ない勢力になっていた。 そして義時➡泰時➡(時氏)➡経時と続く北条本宗流を 「得宗(tokusou)」 と仰ぎ、その得宗経時を中心として、「執権派 」を形成したのです。

これに対抗したのが、「将軍派」 だった。 反北条一門で結集した 「将軍派」 は当然の結果として一般御家人から成り立っていた。  その中心になっていたのは、一般御家人の代表格の地位にあった三浦泰村(yasumura)だった。   三浦氏は相模国内のみならず、東国きっての大豪族であった。
三浦氏居城衣笠城本丸跡 (横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
衣笠城址
こうした両派の対立は、将軍九条頼経対執権北条経時、三浦一族対北条一門という構図になったが、それだけではなかった。  三浦泰村の伯母と結婚していた上総・下総両国の豪族、千葉介秀胤(hidetane)は三浦方、「将軍派」だった。 泰村の妹を妻にした常陸国の豪族・関政泰(masayasu)も「将軍派」だった。  しかし、安達義景(yosikage)・泰盛(yasumori)父子は一般御家人に属するが「執権派」 だった、義景の妹、松下禅尼が、経時の生母だったからである。

また北条一門でありながら 「将軍派」 になった者もある。 泰時の次弟・朝時(tomotoki)の子名越流、北条光時(mitutoki)である。  得宗家が北条一門への支配を強化しつつある事に、反発していたのである。 もっとも微妙であったのが、故大江広元(hiromoto)の四男、毛利季光(suemitu)の去就であった。 妻は泰村の妹だったが、娘は経時の弟北条時頼と、まだ泰時が生きている時期に、すでに結婚していたのである。  なお大江広元の嫡孫長井泰秀(yasuhide)は、早くから 「執権派 」だった。

こうした状況の中、対立は膠着状態となった。寛元四年四月一日執権経時が突然、発病し二十三歳という若さで死んだのです。
新しい得宗は弟・北条時頼、二十歳の若年ではあったが、果敢であった。  得宗家の家督を嗣立すると、北条一門で宿老格の北条政村(masamura)、金沢流北条実時(sanetoki)に、生母松下禅尼の弟安達義景(yosikage)を自館に集め密談した。   (吾妻鑑)

後の寄合(yoriai)という家族会議で常設の重要会議になっていくのである。  「宮騒動・寛元の乱 」は機先を制した時頼の作戦が功を奏し「執権派 」が勝利した。  さらに、宿敵三浦氏との対決「宝治合戦 」については前章・五代執権・北条時頼に詳しい。     次回へ

*次回から本題となる 「時頼から時宗への権力移譲 」です。  父時頼が幕府五代執権、嫡男時宗はなぜ八代執権 になるのか?・・・なぞはこれから。  
       
丁酉・辛亥・壬戌

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.28(07:00) 92

**鎌倉幕政の転換

**執権政治への移行

初期の執権・北条義時(yositoki)(時政次男)には、さほどの権力があったわけではなかった。  むしろ源氏三代の 「将軍独裁制」 に抑え込まれていた一般御家人が、重石がなくなったので、次第に台頭してきたのである。

その様な意味で、四代将軍・九条頼経(yoritune)が鎌倉に入部してから二年間は、 「執権政治」 とはいうものの有力御家人たちの寄合所帯に過ぎないものであった。
この間、義時は、幼い将軍頼経を自館に住まわせて、 自分は 「将軍家の政務ノ代官」 という立場を以て辛うじて権威を保持するだけの存在だった。

ところが承久三年(1221)五月、承久の乱が起った。 この時の後鳥羽上皇(gotoba)の討幕の院宣が、 「早々と陸奥守平義時朝臣の身を追悼せしむべし」 と、義時一人を名指ししており、しかも鎌倉幕府方が圧倒的な強さで京都朝廷側を破り去ったことから、幕閣における義時の地位は、飛躍的に上昇し強化された。 それ以降の鎌倉幕府の運営は、執権義時が主導すようになった。

承久の乱に勝利したことによる結果は、それだけの事では終わらなかった。 京都朝廷と鎌倉幕府との立場が逆転してしまったのです。  乱以前は、天下の政治は京都朝廷で、幕府は軍事警察という方面だけを担当していた。
乱後、幕府は天下の政治をも担当することになったのです。

**執権政治の完成

嘉禄元年(1225)、義時の嫡男・北条泰時(yasutoki)が評定衆制度を創始して、合議制という柱を立て、貞永元年(1232)には、関東御成敗式目51条(貞永式目)を制定して、 「法治主義」 という柱をも立てたのである。 

以降の 「執権政治」 は、合議制と法治主義とで成り立つことになった。 言わば 「法律に従って話し合いで」 という事である。

承久の乱で敗れて隠岐の島に配流されていた後鳥羽上皇の赦免を、京都朝廷が幕府に求めてきたことがある。 この時幕府の執権・北条泰時は、「家人(幕府御家人)ら、一同に計る」として、これを拒絶している。
執権泰時は、自分の個人的判断で決定回答したのではなく、御家人たちの意向に従って動いたのである。 これがこの時期の執権であった。決して専制的権力者ではなかった。 御家人たちの代表者というのが、 「執権政治」 での執権の地位であった。

嘉禄元年、四代将軍九条頼経(yoritune)は、新造なった宇都宮辻子御所に入った。  このことは、画期的な事であった。  源氏将軍三代は、大倉御所に居住していた。  頼朝法華堂の南側の地で、現在は清泉小学校がになっている。
宇都宮辻子御所址 (鎌倉市・小町)
宇都宮辻子御所

頼経は、当初大蔵御所近くの北条義時館に住んでいた。現在の別れ道付近である。  何れにしても今までの将軍居所は、鎌倉の東北側、金沢街道に面していた。  それが、若宮大路東側に移ったのである。

四代将軍頼経の居所が移ったという事は、それだけの事ではなかった。それまでの鎌倉では町反歩制という農村的丈量が用いられてきた。 それが、丈尺制と戸主制(henusi)という都市型の単位に代ったのである。

ここに鎌倉は、これまでの農・漁村的な地域であったのだが、ついに本格的な都市に成長することになる。 「執権政治」 が完成したことを、まさに象徴しているかのようであった。

「執権政治」 を完成させた北条泰時〈三代)は、仁治三年(1242)6月、六十歳で亡くなった。 泰時の二人の息子、時氏(tokiuji)・時実(tokizane)は、すでに没していた。  家督と執権はは、故時氏の嫡男北条経時(tunetoki)が嗣立した。 十九歳だった。 次回へ

鎌倉・秋の佇まい三点・・・・・宝戒寺・海蔵寺・円覚寺
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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.24(07:00) 91

**鎌倉幕政の転換

**源氏将軍の独裁制

源平合戦が始まった頃、源頼朝は東国武士に担ぎ出されただけの存在だった。  石橋山合戦で敗北、山中を逃げ回った頼朝は、消沈しその立場は極めて不安定な弱いものであった。 しかし、その直後、頼朝は急速に成長する。 敗北から一か月後、隅田川の頼朝の本陣に二万騎を率いて、上総介広常(hirotune)が参陣した。  すると頼朝は、「今頃になっての遅参、不審在り。 しばらく外にあって、沙汰を待て」 として、長時間広常を待たせて、ついに広常を心服させたのは、この時の事である。

頼朝は、その後もますます政治的に成長していった。  寿永二年(1183)暮れ、京都に駐屯していた木曾義仲〈yosinaka〉勢の乱暴振りに困った後白河法皇(gosirakawa)は、再三頼朝の上洛を促した。  法皇の再度の上洛要請に頼朝も、そろそろ源平合戦に決着をつける必要を感じていた。    (西国出撃論)

しかし、この出撃論に反対したのが参陣に遅れた上総介広常であった、彼は東国割拠論を主張していたのである。    (東国割拠論)
頼朝が主張した西国出撃論を、広常は多くの御家人たちのいるところで、堂々と批判したのである。 直後、頼朝の意を受けた梶原景時(kagetoki)によって広常は誅殺された。

またたく間に東国割拠論は鳴りをひそめ、西国出撃論がこれに取って代わった。  源範頼(noriyori)・(頼朝弟)・義経を将とした幕府軍が、出撃上洛していった。

その後も頼朝の方針に盾ついた者たちに対する誅殺事件は、二度、三度と続いた。  甲斐源氏の一条忠頼(tadayori)、同じく安田義定(yosisada)、義資(yosisuke)父子らである。  その延長線上に、叔父の源行家(yukiie)、弟の義経(yositune)などがあった。

こうして頼朝に盾突くような者は、幕府御家人のうちには一人もいなくなった。 かつて頼朝は、東国武士たちに担がれた存在だった。 その頼朝は今や東国武士たちを、しっかりと掌中に収めていた。鎌倉幕府の最初の政治形態である 「源氏将軍独裁制」 が、ここに現出したのです。
鎌倉・鶴岡八幡宮本殿
八幡宮本殿
八幡宮・一の鳥居から本殿を望む
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ここで注意しておきたいのは、頼朝の頃の 「将軍独裁制」 では、御家人たちが頼朝を畏怖していただけではなかったという事である。 「分け隔ての無い」 「身近な」 「親密な」 主従関係が成立していたと思われるのです

また、次のような逸話も残される。  病気になった御家人加藤次景廉(kagekado)を、見舞った事。  伊豆以来の御家人安達盛長(morinaga)の館を頼朝・北条政子夫妻が訪れたのは一度や二度ではなかった。  主だった御家人たちと共に、由比ヶ浜で流鏑馬(yabusame)などをした事。 三浦の海辺では舟遊びに興じた事もある。
頼朝時代の 「将軍独裁制」 は威勢厳粛、理非断決という強さと共に、御家人たちとの間の相互の信頼が、根底にあったと考えられる。

次に二代将軍源頼家(yoriie)、三代実朝(sanetomo)の時代もまだ 「将軍独裁制」 は踏襲された。  御家人たちとの信頼関係は薄れてはいるが、独裁権力は握っていた。  
頼朝・頼家・実朝と続いた源氏将軍三代の間、鎌倉幕府の政治形態は、基本的に 「将軍独裁制」 だったと言うことが出来る。 そしてこの間、頼家の時期に宿老13人の会議が成立している事、実朝の時期に執権・北条義時(yositoki)の権力が強化しつつあった事の二点は、次の「執権政治」 の萌芽として見るべきかも知れない。

しかし、承久元年(1219)正月二十七日、将軍実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、四代将軍として京都から九条頼経(yoritune)が鎌倉に入部した時、事態は急転した。  僅か三歳の頼経に独裁的権力を振るう事など不可能だったからである。  こうして鎌倉幕府の最初の政治形態であった 「将軍独裁制」 は崩れ、幕を下ろした。 代わって成立したのは 「執権政治」 だった。     次回へ

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.21(19:00) 90

**源平合戦

**貨幣経済との戦い

鎌倉幕府は、源平合戦の最中に誕生した。  必然的に鎌倉と鎌倉幕府とには、源平合戦の影響が種々残された。
若宮大路の段葛は、妻北条政子の安産を祈って頼朝が築かせたものと言われ、確かに鎌倉幕府の公的記録である「吾妻鑑」には、その様に記されている。  しかし最近の発掘調査では、段葛の西側は、東側より60cm~90cm程低く、西側は湿原地だったことが判っている。
段葛が築かれたのは、源平合戦最中の養和二年(1182)3月だった。  まだ平家側の軍勢が鎌倉に進入してくる危険も考えられる時期であった。 頼朝は万一に備えて平家側が陣取るに違いない段葛の西側を、東側から射易いように低くし、動きにくいように泥湿地を残したと云われる。   つまり、段葛は一種の軍事的防衛線であった。 鶴岡八幡宮の参道というのは,まさに偽装にすぎない事になる。
段葛石塔 (鶴岡八幡宮参道・二の鳥居付近)
段葛
二の鳥居付近  現在の段葛はここから始まる。(初期には下馬付近までと)?
二の鳥居
この様に、鎌倉と鎌倉幕府とには源平合戦の影響はまだ残っていたのです。   
その源平合戦の本質を巡って、これまで数多くの考えが提示されてきている。  まず、源氏と平氏の戦い、次に東国と西国の戦い、さらに騎兵と水軍の戦い、曰く武士と公家の戦い、また源氏の平氏に対する復讐戦、或は武士政権樹立のための合戦等の説である。

しかし、平家側に源氏一族の信太義広(yosihiro)(頼朝叔父)等がいた以上に、頼朝軍には三浦・畠山・梶原・北条・千葉・上総等々、平家の支族が参加していた。  さらに西国がすべて平家側だったわけではなく、河野通信(mitinobu)・臼杵惟隆(koretaka)・緒方惟栄(korehide)・佐賀惟慈(koresige)ら西国武士で、源氏方に付いた者もあり、大庭・俣野・伊東・長尾ら東国武士でありながら平家側に味方した者もある。
また源氏方は騎馬が主体だったとしても、水軍が無かったわけではない。 三浦水軍・北条水軍などもあり、壇ノ浦海戦では、三浦水軍が源氏軍の先頭に立っている。

また源平合戦のある一面の指摘として、貨幣を巡る問題を挙げる研究者もある。 源平合戦には、貨幣経済の可否をめぐる合戦という一面が有ったのではないかと思われるのである。

六波羅平氏政権を樹立した平清盛(kiyomori)が、南宋で使われていた宋銭を、大量に日本に持ち込んだ事はあまり知らされていない。  しかし、清盛は宋銭を大量に持ち込んでおり、それがもたらした影響は極めて大きかった。  頼朝が挙兵して源平合戦が始まる前年の治承三年(1179)、京都では身分の高きも低きも、 「銭の戦い」 にかかり、みな銭を欲しがったようだ。  これは畿内近国にそれほど多く多量の宋銭が普及したことを示している。

治承三年に西国に普及していた宋銭も、東国にはまだ伝っていなかった。むしろ東国では、銭に対する拒絶反応があったのではないかとすら思われる。   その翌年に源平合戦が始まっていることは、このことを暗示しているのではなかろうか。
つまり貨幣経済という面から見ると、源平合戦は後進の東国が貨幣経済に反対し、これに賛成する先進の西国を、暴力的に退けたという構図が見える。

いずれにしても源氏将軍三代の間は、東国に宋銭は入らなかった。  古代以来の自給自足の経済が原則で、若干の物々交換が行われる程度が、東国では一般的であった。

しかし、源平合戦後、平家側から得た五百余ヵ所の所領はほとんど西国であった。  これらを論功行賞された東国武士が、西国に出向く機会も増え、当然のことながら西国での習慣が流入したと思われる。

この様な状況が、銭の便利さを認識させた。  京都や鎌倉に行くにも、銭さえ持っていれば、何でもできた。 平常から年貢として所領で吸い上げた米や布は、銭に換えておく方が良かった。  こうして銭は、次第に東国にも普及していく。    次回へ

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鎌倉中・末期の社会変動
  1. 鎌倉幕府八代執権北条時宗(10/06)
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