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名執権・北条泰時

2016.10.26(19:16) 9

将軍御所の移転

大倉の御所、三度火災に遭いその都度再建されたものだが、手狭になっていたようです。 また、この御所では上総介広常・一条忠頼・安田義資など、ここで殺害されたものも多い。頼朝以来の武将も多く亡くなり、代替わりし、鎌倉自体が武家の都として、大きく発展していたのです。

大蔵幕府跡旧跡・石塔
大倉幕府跡石塔

移転した新御所(宇津宮辻子)に於いて、幕閣の重臣11人を評定衆に指名し、史上初めての評定衆会議を開いた。

*評定衆11人・・・・・中原師員・三浦義村・二階堂行村・中条家長・三善康俊・二階堂行盛・三善倫重・後藤基綱・ 三善康連・佐藤業時・斎藤長定。

先に、叔父・時房を連署(rensiyo)にして、両執権制という双頭政治を開いた泰時だが、重要幕政に合議制を取り入れると同時に重臣たちの協力を得られるようにしたのだ。
それからの数年間、鎌倉は平穏で、政治的にも安定していた。

関東御成敗式目51か条・・・・(武家政権の自立)

鎌倉武家政権樹立に大きな役割を果たした執権・北条義時が急逝し、承久の乱後も京・六波羅に留まり戦後処理にあたっていた泰時は鎌倉に戻り執権に就任。42歳
新執権に就任した泰時は式目制定の準備 (明法動の目安に目を通す等)をし、また承久の乱後、激増する訴訟に対して円滑にかつ公平に裁決を下せるように、その準拠となる法典の成文化の必要性を強く認識し、その制定が急がれた。
新しく新補地頭が広く設置され幕府の勢力が伸展し、その支配領域が拡大するに伴って、各地に公家と武士、もしくは御家人同志による所領紛争が激増している。
これらの紛争を円滑かつ公平な裁許を下すためには、判決の基準となる法律の成文化が必要とされ、全国政権としての武家政権にとっても、政分法の制定が強く求められたのである。

問注所跡・旧跡石塔 (鎌倉・御成町)
問注所石塔

裁許橋 (佐助川)・(問注所付近)(御成町)
裁許橋

執権就任から八年後の貞永元年(1232)、泰時は「貞永式目」の起草を太田康連(yasutura)等に命じ、式目制定に着手した。
着手以来、八十日余りで鎌倉幕府の基本法である「貞永式目」は完成されたのです。短時間での完成である。  また式目の末尾に理非の判断については、ただ道理の押すところを思いのままに申し立てること、評定における決定は、全員の連帯責任と、神仏に誓っている。   「吾妻鑑」

日本最初の武家法である貞永式目が制定・公布されたが、この式目を幕府はどの様に位置付けたのであろうか・・・。 この日以降の裁許には、必ずこの式目が運用されるよう定められた事が知られる。    「吾妻鑑」
式目は、決して律令格式(公家法)がいささかも影響を受けるものではなく、式目が公家法と明確に区別されるべき事を強く主張している。
泰時が六波羅探題として京都赴任中の弟・重時への書状の中で、朝廷・公家社会を強く意識していた事が伺える。  式目の制定は武家法の公家法からの独立を意味するものであろう。
次回に続く

丙申・己亥・乙酉

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名執権・北条泰時

2016.10.22(14:28) 8

北条氏所領の拡大

京方に加わった公卿・武士らの所領は幕府に没収され、恩賞として配分された。
ちなみに源平合戦で得た没官領は約500ヵ所、承久の乱で没収された京方の所領は3000にも及んだという、東国の武将たちは恩賞を甘受した。

北条泰時に戻って、先に進めよう、実朝暗殺の直後、小町館(現・宝戒寺)(執権邸)を父・義時より譲り受けていた。 義時は大倉館(現・岐れ道)に移り、子息たちを鎌倉中の要所要所に配置した。   次男・朝時は祖父時政の名越館に。  三浦半島と杉本寺とを結ぶ三浦道ほぼ中央(釈迦堂口)に位置する(違う解釈も)要衝である。朝時の系統が名越流を称するのはこの名越館に由来。
鎌倉の西稲村ケ崎から鎌倉に入る道は、奈良時代以来の東海道である。  この地に館を構えたのは三男・重時です。この重時館が極楽寺となる。この系統が極楽寺流となり、 隣接する山の内荘(北鎌倉・大船)には、義時・泰時直属の郎党が守り、その東北に六浦荘(横浜市・金沢区)には六男・実泰が館を構え、金沢流という。 鎌倉の入り口は子息たちによって固められた。
北条重時の極楽寺・山門(鎌倉・極楽寺)
極楽寺・三門
北鎌倉・円覚寺山門(鎌倉・山之内)
円覚寺山門

執権政治の確立

北条氏の地位を鎌倉幕府に強固に据え付けた執権、従四下前陸奥守北条小四郎平義時は没した。  62歳   法名・安養院殿得宗禅門。
「吾妻鑑」の記述では、最後に息を引き取るまで南無阿弥陀仏と唱名し続け、縛印を結んでいたと云う。  「誠にこれ順次の往生と云うべきか」 としているが・・・・・。

義時が没すると、直ぐに京都の六波羅探題・嫡男泰時、弟時房に、伝達された。  父が没して四日後の深夜、泰時は京都を出立したが、鎌倉に着いたのは九日目の午後だった。 途中、伊豆北条に立ち寄って、若干の兵を伴ったのである。 鎌倉の稲瀬川から泰時館までは、徒歩でも30分ほどの距離である。 それでも泰時は、その夜由比ヶ浜で一泊している。
稲瀬川・石塔 (鎌倉・由比ヶ浜)

稲瀬川石塔

遅れて京都を発った時房も到着。 また下野足利荘から泰時に呼ばれた女婿の足利義氏も、由比ヶ浜に着いていた。ともに若干の兵を率いていた。翌日、時房・足利義氏と共に鎌倉に入った泰時は、ようやく自館に入った。 若宮大路東側北端の泰時館の郭内には、すでに腹心・郎党が召し出されていた。
尼将軍政子が泰時に、「早く家督を継ぎて、執権たるべし」と命じたが、泰時は時期尚早として、大江広元に相談している、家督と執権職を継承するのに、ためらいがあったと思われる。 父・義時後妻の伊賀の方の陰謀を察知していたのだ。それは弟・北条政村の擁立であったが、政子の説得で、烏帽子親の三浦義村を始め諸将が執権・泰時を認め、事は決した。
しかし、遺領配分で弟たちに多くを与え、政村に厳しい処置をしなかったのも、まだ泰時の立場が弱かったからだし、また泰時がその立場を強化する為であった。
この様な状況で泰時が行ったのが、家令職の創設であった。  被官の尾藤景綱(kagetuna)を初代の家令(karei)・(後の内管領)に任じた。 この職制創設に続き泰時が行ったのは、北条氏家法の制定だった。「家務ノ条々」と云われるが、残念ながら現存しないそうだ、貞永の式目より先だから「日本最初の武家法」になるはずだった。
北条一門に対する惣領としての権力の強化を図ったのだ、加えて惣領家に宗教的・精神的な権威性を得る策に着手したと考えられる。  北条氏の惣領を亡父・義時の法名である「得宗」(tokusou)と呼び、その系統を「得宗家」、所領を「得宗領」とし、一門の庶子家と区別した。    次回に続く

丙申・己亥・辛巳

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名執権・北条泰時

2016.10.17(16:52) 7

建保元年(1213)五月、和田義盛とその一族が、険悪な関係にあった、北条氏打倒を目指して挙兵した。 (和田合戦)
義盛の軍勢は将軍御所、北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りによって討ち取られ、合戦後、北条義時は従来の政所別当のほか、義盛に代わって侍所別当も兼任。
和田一族・墓所>(鎌倉・和田塚)
和田一族墓所
和田塚ガイド

和田合戦
三代将軍実朝の頃、頼朝以来の旧臣といえば北条氏を除いて、和田義盛・三浦義村位のものであるが、御家人の最長老で人望の有る義盛は義時にとって目障りな存在であった。
とくに義時がい意のままに操っている将軍実朝の信頼が厚いことが気になっていた。
建保元年(1213)2月、泉親衛(izumi・tikahira)の事件に関与、多数の計画加担者の中に義盛の子や甥も含まれていたことから、その処遇を巡って北条氏と激しく対立することになる。
和田義盛とその一族が、険悪な関係にあった北条氏打倒を目指して挙兵する。  義盛の軍勢は将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りもあって、翌日には敗戦した。
その結果、幕府の侍所・政所の両別当を兼任したことは前にも述べた、案外に目立たなかったのは、相模・山の内荘(北鎌倉)と武蔵・六浦荘(横浜市・金沢区)とを義時が手に入れた事である。  ともに隣接していたので、いざという時には、何時でも自軍を鎌倉に投入できる事になった。

実朝・暗殺
しかし、和田合戦後の数年間、比較的平和だった・・・・・。
承久元年(1219)正月、将軍実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に詣で、先の将軍頼家の遺児で八幡宮別当になっていた公暁(kugiyou)に暗殺されたのである。 そのあと公暁自身も討たれ、源家(源氏)将軍家は三代で断絶したことになる。
右大臣拝賀式に将軍の御剣役・義時も参列するはずであったが、体調不良のため源仲章(nakaaki)と交代して退出したと「吾妻鑑」に記されている。 その仲章も、同時に殺害された。
実朝の背後を歩いていた仲章が、義時と間違って斬られたと信じられていた。  しかし、後世では、公暁の陰謀を事前に察知した義時が、体調不良を装って、御剣役を辞したのだと解釈されたり、さらには義時は公暁をそそのかした事件の黒幕とさえ思われたりもした。
覚園寺・薬師堂(前身・大倉薬師堂)
覚園寺・薬師堂
同年二月、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を将軍として下向させることを申請するが拒否され、次に左大臣藤原道家の子三寅(mitora)が頼朝の遠縁にあたることにより、将軍の後継として鎌倉に下向した。

承久の乱
承久三年(1221)5月、事件が起きた、後鳥羽上皇が院宣を発して、全国に討幕を発した。承久の乱です。  鎌倉の幕府は若干の動揺をしたが、専守防衛か、上洛出撃かである。  大江広元・三善義信らの意見が採択され、三道からの出撃・上洛が決定した。それに先立ち、尼将軍政子が御家人らを集めて熱弁を振るった事は歴史に残る名演説とされる。
「承久の乱」は、天皇家を敵とした戦いだった。しかし、幕府軍は迎撃に出た京方を撃破し、一か月程で勝利した。
戦後処置を行うため北条泰時は、六波羅探題として、叔父の北条時房と共に上洛し義時の指示に従って業務を遂行した。愈々泰時の登場である。 次回に続く。

平成二十八年・丙申‣己亥・丁丑

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名執権・北条泰時

2016.10.13(14:03) 6

鎌倉幕府三代執権・北条泰時は、名執権であったといわれる、筆者も同感である。・・・・
しかし、祖父・北条時政から三代執権・泰時まで順調に執権職が継承されたわけではない。
初代の時政、石橋山の合戦では一時行方不明になるなど目立った功績を挙げていない、時政がその手腕を発揮するのはその政治的手腕ではなかろうか?。
源行家・義経の離反に対して、頼朝は自ら大軍を率いて上洛して事に当たることに決し、駿河・喜瀬川に至ったが、行家・義経敗戦の報に接し、鎌倉に戻った。  しかし、関東勢は続々と入京し、北条時政も千騎を率いて入洛した。                 時政は権中納言・吉田経房と会談、五幾・山陰・山陽・南海・西海諸国を分譲、荘園・公領の区別なく段五升の徴収権を付与されたと云う。
 (玉葉)
鎌倉・北条氏(三つ鱗‣家紋)
龍のウロコ・三つ鱗>
龍神神社ウロコ(藤沢市・江の島)
龍宮

円覚寺・舎利殿三つ鱗紋瓦(北鎌倉)

円覚寺・舎利殿葺き瓦

後世には、この事件が、幕府の守護・地頭の設置を朝廷が勅許したことと解釈された。
時政以下に諸国荘公の兵糧米徴収と田地知行認められたのは、軍事態勢を展開する用意であった。   このように鎌倉殿の意思を朝廷に伝える代官の役を以て朝廷との交渉を行う重要な立場にあり、朝廷側・九条兼実等との交渉に中ったと思われる。

その後の奥州合戦・頼朝の上洛では大した活躍は無く、生治元年(1199)正月、頼朝が死去、嫡子頼家が二代将軍となる、しかし、頼家が正式に征夷大将軍に任じられるのは建仁二年(1202)のことになる。
北条政子が頼家の訴訟親裁を停止し、北条時政・大江広元ら⁂宿老13人の合議による採決とした。


宿老13  *北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政、以上13名

宿老の筆頭にあるとはいえ、将軍の妻は比企能員の娘でありその権勢拡大を恐れた時政は能員を倒すため頼家の一子一幡を巻き添えにし、さらに頼家をも将軍の地位から追って伊豆・修善寺に幽閉しています。
時政は新たに将軍・実朝を立てたが、大江広元と並んで政所の別当に就任し、幕府の実権を掌握、複数の宿老を代表し「執権」と称した。
後世から見れば、下知状に署判を加える執権の地位を世襲したことが北条氏の権力基盤となったように見えるが、下知状に署判を加える地位が初代の時政からその子義時に順調に引き継がれたわけではない。それは、時政は義時によって追放されたのである、幕府・重鎮の武蔵の守・畠山重忠との争いを「鎌倉に異変あり」と呼びだし、途中万騎の軍勢で待ち伏せ謀殺してしまった。
元久二年(1205)、畠山重忠を滅ぼした事件をめぐって時政は政子・義時らと対立し、時政とその後妻・牧氏は伊豆に追放された。
時政の失脚は、実の子政子・義時によって実行されてしまった。頼朝の舅という立場で、源氏という貴種を100㌫支え、源氏再興を成した功労者は時政であろう、三浦氏・畠山氏の様な強力な軍事力を持たない北条氏にとって将軍の舅という立場を利用し、深謀遠慮の政治力に頼り、力を増したライバル御家人たちを謀略の上、排除してきたのでしょう。
そうした時政の政策に、政子・義時は反発したとおもわれる。
     次回に続く

平成二十八年・丙申・己亥・壬申

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執権・北条泰時

2016.10.10(21:58) 5

これまでの記事で、鎌倉時代・都市・町のの成立を大まかに記述してきました、これからは筆者の興味の向くまま一貫性のない歴史解釈をできる限り脱線しないように、進めたいと考えています。
北条泰時公菩提寺・常楽寺(鎌倉市・大船)
常楽寺・山門
泰時公・墳墓
北条泰時墓



*鎌倉幕府最強の政治家

貞応三年(1224)六月、執権・北条義時が急死し、承久の乱以来六波羅に駐在していた子息泰時は直ちに鎌倉に下向し、執権に就任した

泰時の母は義時の正妻ではない。 安房の局と呼ばれる官女であったが、その出自はわからない、義時には前後二人の正妻がいた。はじめの正妻は比企朝宗の娘で姫前(himenomae)であった、二人の間にと朝時・重時(極楽寺)が生まれたが、比企の乱で比企一族が滅びたことにより、二人は離別した。
義時は間もなく伊賀朝光の娘と再婚し、政村(常盤)・実泰(金沢)をもうけた。・・・・・泰時の名はまだ出てこない。
義時の死後、一条実雅を将軍に頂き、政村を執権とする動きがあった。  伊賀氏の娘婿を将軍に立て、実子を執権とする計画であった。
しかし、尼将軍政子はこの計画を粉砕し、三浦義村が政村を支持する動きを牽制し、泰時を強力に支持した。

政子が三寅(九条頼経)を抱いて泰時邸に入り、重臣たちをそこに召し寄せることによって、事は決した。  泰時の執権就任を強力に支持した政子であるが、一年後の嘉禄元年(1225)七月に享年69歳で亡くなった。
政子と共に泰時を支持してきた大江広元も政子に先んじて78歳で亡くなっていた。  政子の危篤により京・六波羅から東下していた時房(泰時・叔父)の帰洛をとどめて、執権の職務を補佐させることにした。
執権泰時を補佐する時房の役職は、下知状等に執権に並んで署判を加えることから「連署」と呼ばれるようになるが、執権と連署は基本的には同格であり、両者を合わせて「両執権」とよぶこともある。


*北条時房・・・・父・北条時政、政子・異母兄・・・・・泰時の叔父

嘉禄元年(1225)j十二月、執権・連署と共に幕府の政務や訴訟にあたる評定衆11人が選ばれ、最初の評定が行われた。 また将軍御所の勤番制が復活、鎌倉番役と云われ、 この勤番は東国の御家人に、所領高によって勤番期間が割り当てられ、将軍御所の警備に当たった。

*評定衆・・・中原師員(morokazu)・三浦義村・二階堂行村・中条家長・三善康俊・二階堂行盛・三善倫重(norisige)・後藤基綱・三善康蓮(yasutura)・佐藤業時(naritoki)・斎藤長定、  以上11名

泰時・時房は幕府の求心力を高めるために、実朝の後継者として鎌倉に招いていた三寅を正式に鎌倉殿として推戴することを考えていた。  すでに八歳となっていた三寅は鎌倉・宇津宮辻子(utunomiyazusi)に新造された御所に移り元服して「頼経」を名乗り、嘉禄二年・正月、正五位下・右近衛少将に叙任され、征夷大将軍に補せられた。同時に鎌倉幕府第四代将軍となる。    摂関家将軍の誕生である。

平成二十八年・丙申・己亥・戊辰
         (続)

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古都・鎌倉の成り立ち

2016.10.03(19:39) 4

奈良時代

奈良に都があった八世紀初め、相模の国府は海老名(ebina)や平塚に在ったといわれ、国分寺・国分尼寺も建てられ、地方政治の中心地になる。  鎌倉郷は、相模国・国司の支配下にあり、租税を徴収されていた。
「古事記」にも鎌倉の地名が残されているそうだ。・・・また日本最古の歌集「万葉集」にも鎌倉の地名が出てくる。
昭和六十年代に行われた発掘調査によって、鎌倉市御成町(onari)の御成小学校の敷地内から「天平五年(733)」の年号が書かれた木簡や、奈良・平安時代の役所である「官衙」(kanga)・(鎌倉郡衙)の跡が発見されました.。   また、この時代に建立されたと伝わる寺社に、長谷の「甘縄神明神社」、二階堂の「杉本寺」がある。 鎌倉では最古と伝承される。
天台宗・杉本寺(下馬観音)・(鎌倉・二階堂)本堂
杉本寺・本堂

平安時代

初期の鎌倉については「倭名類聚抄」に、鎌倉郡は、沼浜・鎌倉‣埼立・(sakitate)・荏草(egaya)・梶原・尺度(sakado)・大島という七つの郷から成ると記されている。
鎌倉幕府の記録書「吾妻鑑」には山の内荘の名も見える。 荘園を示す地名が出てくることは、鎌倉郡の中に公領の他、私領もあったと推測される。
平氏一族である鎌倉権五郎景政が、先祖からの土地である大庭(ooba)の地(現在の藤沢・茅ヶ崎・鎌倉の一部)を伊勢大神宮に寄進した記録が残る。「天養記」
この時期に建立されたのが材木座の由井若宮(元八幡)。  その他伝承を持つ寺社は、手広の青蓮寺・坂の下の御霊神社・二階堂の荏柄天神等があげられる。
荏柄天神・石塔(二階堂・鎌倉青年団)
荏柄天神社・石塔


源氏と鎌倉との関りはこの頃に始まる、源頼義は、相模の守として東国に下り、前九年の役で奥州・安部氏を討伐した。 その役に臨んで源氏の氏神である京都石清水八幡宮に武運を祈願して勝利したので、康平六年(1063)に鎌倉・由井郷に石清水八幡宮を勧請し、社殿(由井若宮)を造営した。頼義の子義家(八幡太郎)は、永保元年(1081)に社殿の修理を行った、これによって鎌倉と源氏の縁はさらに深まり、鎌倉は源氏の本拠地となっていった。

*源頼義(minamoto・yoriyosi)・・・・頼朝から六代上る祖。

十二世紀半ばの天養年間、源頼朝の父である、義朝(yositomo)が亀ヶ谷、現在の扇ヶ谷・寿福寺の辺りに住んでいたといわれる。
臨済宗・寿福寺参道(鎌倉五山第三位)・(扇ヶ谷)
DSCN1938.jpg

*鎌倉時代

父・義朝が平氏に敗れ、伊豆に流れていた頼朝は治承四年(1180)挙兵したが石橋山の合戦でもろくも平氏に敗れ房総に逃れた。それでも房総半島で勢力を整え、武蔵でさらに兵力を加え鎌倉に入り、大倉に屋敷を構えた。  現在は清泉小学校が、その地である。
建久三年(1192)頼朝は、征夷大将軍となり、鎌倉を武家政治の中心地とした。
頼朝が幕府を開く地として鎌倉を選んだ理由は、古来、源氏との深いつながりがのある土地であったこと、一方が海に開けて三方を山で囲まれた城壁に囲まれたような、防御に適した地形であったことなどが考えられている。
頼朝はまず由井郷にあった若宮を移し、鶴岡八幡宮を町の中心に据え、若宮大路をはじめ、小路などの区画整備に着手。
侍所(samuraidokoro)・公文所(kumonjiyo)・問注所(montiyujiyo)等を置き、要所要所に御家人の館を配した。
また、杉本寺や荏柄天神など寺社再建に力を注ぎ、勝長寿院、永福寺などを建立し先祖や戦没者の供養を大切にした。

建久十年(1199)に頼朝が亡くなると、頼家が跡を継ぐ(二代将軍)が、母北条政子や北条時政に実権を握られてしまう。
さらに、将軍職を追われ、伊豆に幽閉されてしまう。 実権は三代将軍・実朝に移るが、傀儡政権である。  執権・北条時政や母政子に操られた。
健保七年(1219)正月鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式で行われた直後、頼家の子で、甥の公卿(kugiyou)に殺害され、源氏の将軍は三代で絶えた。
その結果武士の名門源家は伊豆の下級武士・平時政に舅という立場を利用して政権を奪われたのである。  尼将軍と呼ばれた北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとするが失敗し、頼朝の遠縁である藤原頼経を将軍に据える。 その後、「承久の乱」に勝利した鎌倉幕府の基盤は強固なものとなる。
元仁元年(1224)、義時の子泰時が三代・執権となり、幕府を大倉から宇津宮辻子(utumiyazusi)に移した。
その後に、御成敗式目(貞永式目)を制定し、和賀江島を築港し、大仏を建立、朝夷奈切通しを開通するなど鎌倉の整備は孫の五代執権北条時頼まで引き継がれる。

平成二十八年・丙申・己亥・乙丑

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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鎌倉の石塔について

2016.10.03(12:50) 3

鎌倉幕府が初めに置いた政庁跡 大倉幕府跡石塔 北条氏・執権邸跡石塔 鎌倉北条が代々政を行った執権邸跡 (現宝戒寺) 鎌倉の街の至る所に様様な形態で残存している石塔が多くあります、その中でも大正初期から昭和初期にかけて鎌倉の文化遺産を市民や観光客に解りやすく紹介するため、市内の「大倉幕府跡」などに史跡案内の石碑を建てる活動を行い、およそ八十基が鎌倉青年団によって建立された石塔に注目する。 さて、このブログでは鎌倉青年団が大正期から昭和初期に渡って建立してきた石塔から、古都鎌倉の歴史・旧跡・景観・寺院・神社・文化・行事等を紹介して行きたいと考えています。 ぜひ訪問いただき古都鎌倉の雰囲気を感じて頂きたいと思います。・・・・     平成28年・丙申・己亥・戊午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


2016年10月
  1. 名執権・北条泰時(10/26)
  2. 名執権・北条泰時(10/22)
  3. 名執権・北条泰時(10/17)
  4. 名執権・北条泰時(10/13)
  5. 執権・北条泰時(10/10)
  6. 古都・鎌倉の成り立ち(10/03)
  7. 鎌倉の石塔について(10/03)