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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.28(18:35) 16

⁂流人・頼朝

平治元年(1159)、12月 数百の軍兵が後白河上皇の御所三条殿を襲い、上皇の身柄を拘束した、同時に上皇の寵臣藤原信西(sinzei)の居所を襲撃し、信西は襲撃を事前に予知していて脱出したが逃亡途中で討たれてしまった。  (平治物語)
平治の乱と呼ばれるこの事件の発端を成したあの兵らは、藤原信頼・源義朝(yositomo)(頼朝・父)に率いられていた。  保元の乱の時は、崇徳上皇方を倒した後白河天皇(当時)方に、義朝は平清盛と共に付き、勝利したが、源家は義朝の父為義(tameyosi)と弟たちが崇徳上皇側に付いた為、天皇の命で義朝の手によって処刑され、その結果源家全体の権威は大幅に減退した。
一方、清盛の方は一気に上昇気流に乗って中央政界に進出しようという機運に恵まれた。  そこで義朝は、後白河上皇の近臣信西(sinzei)が清盛とも近いことから、信西のライバルである信頼(藤原)を支援し、まず上皇を抑えてから信西を倒し、その勢いで清盛を圧倒しようと考え、清盛が紀伊の熊野神社に参詣に行った隙をついて作戦を実行した。
この時義朝麾下として戦った兵は、義朝の子、悪源太義平(yosihira)・朝長・頼朝、他に一族の叔父義高・弟義盛(行家)・従弟重成・平賀義宣(yosinobu)がおり、 郎党として関東武士の波多野義道・三浦義澄・山内首藤俊道・同俊綱・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総介広常らであり、 他に常陸・上野の武士も加わっていた。 関東以外に近江・尾張・三河・信濃・甲斐の武士の名も見えていて、義朝の武家棟梁としての地盤が東国にあることをよく示している。    (平治物語)
緒戦は信頼・義朝の筋書きどうりに進行したが、清盛の素早い反撃にあった、清盛は直ちに都に返して、信頼・義朝の軍勢を破り、後白河上皇の身を取り戻した。  一方敗れた信頼は、六条河原で斬首された。
義朝は本拠の鎌倉に戻って再起をはかろうとしたが、尾張国で郎党の鎌田正清と長田忠致に裏切られ謀殺されてしまった。また息子の義平(yosihira)(嫡男)は一旦北陸方面に落ちるように命じられたが、清盛を討つべく秘かに京に戻って機会を狙っていた。しかし平家方に発見され奮闘したが、六条河原で斬首された(20歳)。  さらに次男朝長(tomonaga)は父の命で信濃に落ち、甲斐・信濃の武士をまとめて再起するよう発ったが、戦での傷が悪化して父の許に戻り、激怒した義朝の手で殺されたという。
坂東三十三観音霊場第一番札所・・・幕府が開かれる500年以前からある「杉本寺」
杉本寺・本堂
杉本寺・参道

一方、三男頼朝は13歳で初陣したが、父の敗戦でやはり東国に落ちる途中、関ヶ原辺りで追手に捕えられ六波羅の清盛の許に捕えられた、そして兄義平と同じ運命となる処、清盛の継母池の禅尼(ikenozenni)が、 頼朝が早世した我が子家盛(iemri)に似ていると聞いて、清盛の長男・重盛を通じて頼朝の助命を嘆願、伊豆蛭ヶ小島に流され、土地の国衙在庁、伊藤祐親(suketika)・北条時政の監視する処となった。 次回に続く

丙申・庚子・甲寅
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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.24(19:10) 15

*海のもののふ

*三浦水軍(続)

三浦一族の頼朝軍への到着が遅れているのは、海路を取った場合は波風に悩まされているか、或は陸路の場合は、近道を試みてかえって苦労しているためであろうというもので、挙兵に際して三浦一族の参軍に期待する事の大きかった頼朝の心境を代弁している記事である。    (吾妻鑑)
さらに、三浦氏が海路を船でやってくる可能性を記しているのは、「源平盛衰記」の記事と符合する。 そして300騎が分乗する船の数は、一隻当たり10騎として約30隻は必要となる。
次に水軍存在の傍証を、源平内乱最終戦である壇ノ浦海戦直前の三浦義澄の行動が「吾妻鑑」の文治元年(1185)3月22日条に、記されている。
義経が周防国大島の津で諸将を集めて作戦会議を催した際、義澄も参加していること、その時の義経の命で義澄は門司関から壇ノ浦奥津辺まで進出していることが知られるが、進出地点がいずれも海上交通に関係のある地点である事などから、この間の移動は全て船に依ったものと考えてよいでしょう。
三浦一族・関連地名 (庶子家名字の地)
三浦氏・諸氏家

三浦義澄(yosizumi)は本国を出発した時点で海路をとって西下したと考えられ、彼は単独ではなく相当数の兵船(水軍)と共に行動していたと考えても良いでしょう。
本国における一族の配置を見てみましょう。  三浦一族の主な者の配置を上記地図を参照しながら勧めます。   そのうちいくつかの家系は、海辺近くを本拠とし、それぞれ海城と云うべき要害を構えていたのである。
そもそも惣領家の衣笠城の位置も、現在は内陸になっているが、源平内乱の頃は現在の平作川が入江状になっていたので、城は西北辺近くに置かれた海城(kaijiyou)という見方も考えられる。
「源平盛衰記」の記事に三浦一族は衣笠城より出陣したような表現があり、城のすぐ東には義澄の弟十郎義連(yositura)の本拠・佐原城があった。  ここも入江部の西岸に位置し、近くの森崎辺は船着川(funatukikawa)と呼ばれていたし、城郭も佐原城をはじめ大矢部城(ooyabejiyou)・沼田城(nutajiyou)が連なっているところでもあり、これら諸城も海城と見ることが出来る。
一方、相模湾に面した半島西岸には、南から北へまず義明五男義秀(yosihide)が名字とする長井(nagai)があり、その近くの荒崎に城山がある。 さらに芦名・一色・鐙摺(abuzuri)、と沿岸部に連なり、規模は小さいとはいえ入江を持ち、それを見下ろすことのできる丘陵先端部に城館(jiyoukan)を構えていた。 中世初期には三浦氏の保有する舟船を、そうした海の要害地に分散、配置していた可能性があり、さらにそうした舟船の集積はとくに戦時に於いて数の増強が行われたものと想像される。源平内乱に於ける数度の海上戦に三浦水軍が加わった事を明らかにする確証はないが、たとえば壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏側として参戦した3000余りの船団の一翼を三浦水軍が担っていた可能性は十分にあると思われるが・・・・・。
次回に続く

丙申・庚子・庚戌

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.20(21:26) 14

*海のもののふ

古代の主要な官道である東海道が相模国から東京湾を経て房総に至るという事はよく知られている事だが、それでは具体的にどのあたりを通っていたのだろうか、前出の石井進先生の著書から引用させていただきます。
まず相模側であるが、鎌倉郡との境小坪から鐙摺(abuzuri)(葉山町)を経て田浦(横須賀市)~大津(同じ)~走水(同じ)に至るルートが比定される。 しかし走水付近は港として不適であったと考えています。
そうすると、次の推測は小坪から一色(葉山町)を経て平作川左岸沿いに浦賀(横須賀市)に出るルートがある。 浦賀は鎌倉時代の初め頃には重要な湊として使われていたと思われ、地形的にも港湾施設を置くのに条件が整っており、東海道の水駅所在地に適している。
*水駅・・・・・・官道に置かれた渡し船の駅

さらに、第三案として小坪から西海岸の芦名(横須賀市)を経て衣笠(同じ)佐原(同じ)を通り久里浜に至るルートもある。このルートも古東海道に比定できるのではないか・・・・・。芦名・衣笠・佐原には平安時代以降三浦氏の本宗並びに有力支族が配されていたことが重要視される。
古東海道・鎌倉の入り口「稲村ケ崎」より江の島を望む
稲村から江の島

相模側の水駅が浦賀または久里浜辺りにあったとして、対岸の房総側の水駅所在地をどこに比定出来るだろうか。・・・・
最近の研究で、鎌倉時代初めごろの相模と房総の海上交通について当時の潮流分布の研究から、三浦氏の本拠地であった三浦半島から金田氏の本拠地であった上総国金田郷に向かうには東京湾口から湾内の金田海岸の方向に流れる潮流を利用すると短時間で渡海することが出来る。  金田といえば、上総介広常の弟で、三浦義明の女婿でもある頼次(yoritugu)の名字の地であるから、水駅管理、および相模側水駅との連携という点からも好都合の地であったと思われる。

他にも比定地はある、現在の富津市金谷で東京湾口を結ぶ最短距離にあり、現在も久里浜~金谷間に東京湾フェリーが運航している。   この地に注目する理由は、中世後期にここに金谷城が置かれていた事で、おそらく中世後期に遡ってもこの地は東京湾海上交通の要衝となっていたと考えられる。

*海上交通と国衙

令制の官道(東海道など七道)には、原則として30里(16㌔m)ごとに1駅が置かれ、各駅には管理者である駅長がいた。 駅の機能は都と地方との間を上下する公使の為に駅馬を提供する事であり、この駅馬事体の管轄は国衙の権限であった。 前記で述べた水駅にも同じように数隻の船が置かれ、国司の管轄下にあったとみてよい。 すなわち東海道の相模から房総への渡海の為に設けられた、相模側久里浜、安房側湊・金谷それぞれ相模国衙と安房国衙の管轄下にあったと考えている。 具体的に言えば前者は三浦郡を支配する三浦介、後者は安房国衙の有力在庁安西氏の管轄となる。
鎌倉三浦氏祖・三浦大介義明戦没地 (横須賀市大矢部・薬王寺)
三浦大介戦没地

*三浦水軍

一般に水軍とは、瀬戸内海の村上水軍のような島を本拠地にして、主に海上で軍事活動(海賊行為も)を行う武士団か、もしくは陸上に根拠地をもつ武士団が抱える水上部隊を指す。  三浦水軍は後者にあたるが、「海のもののふ」と言われる三浦氏が水軍を保有していたことは充分推察出来る。  
国衙在庁として管轄下にあった渡海用の船などは、戦時には兵船に転用できたはずである。   三浦氏も介として管轄していた船の他にも、日常的に多数の船を保有していたと思われ、それは三浦水軍と呼んで差し支えないほどの規模と機能をもっていたと思われる。

挙兵直後、三浦軍は、伊豆から相模に進出を図る頼朝に合流する為、三浦軍は船で衣笠城から出発したが、暴風のため引き返し、翌日改めて陸路で出直し、合戦に間に合わなかったのです。   次回に続く

丙申・庚子・丙午

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.16(19:36) 13

中村氏

相模武士としては三浦氏とかなり良い関係にあった中村氏は、五代前の村岡良文から出た同族で中村宗平(nakamura・souhei)の娘が大住郡岡崎を領していた三浦義継の子(義明の弟)義実(yosizane)と婚姻関係を結ぶことによって緊密な関係が出来ていた。
後年、和田合戦の時に、和田義盛側に付いた義実の孫実忠(sanetada)に味方して土肥・土屋の面々も参戦し、一族郎党数十人が戦死しているほど両氏にとって意義のある事だったのでしょう。
相模武士の祖・村岡一族館旧蹟石塔  (藤沢市・宮前)
村岡一族館跡
次に中村氏と相模国衙との関係を「吾妻鑑」の一説から紹介しておきましょう。 文治二年(1186)6月1日条から・・・この記事は相模国内の人々が、疲弊して農作もままならぬ状況にあることを哀れんだ頼朝が、国内の主だった百姓に米一人当たり一斗を給付したというもので、頼朝の仁政を強調する内容になっているが、この業務に実際に携わったのが三浦義澄(yosizumi)と中村宗平の二人であったことは、業務の内容からして両名がそれ以前から相模国衙の雑事を分掌していたことを物語る。
中村氏と三浦氏の連携関係は、波多野氏を南北から封じ込めようとの意図の下で成立したのであるが、中村氏と波多野氏の直接的な対立は記録にない、・・・・・しかし両氏の確執は根が深かった様だ、治承四年の頼朝挙兵前後の波多野氏の複雑微妙な行動と、その後の中村氏の波多野氏領内における動向にみられる。  すなわち頼朝は挙兵をするにあたって、使者を相模武士らに遣わし協力の約諾を取り付けたが、波多野義常(yositune)と山内首藤経俊(siyutou・tunetosi)は頼朝の引きに応じなかったようだ。
石橋山で敗れた頼朝は房洲に逃れ、体制を建て直し鎌倉に入部したあと、(詳細は後述する)頼朝は波多野義常に討手を差し向けると義常は戦わずして自殺してしまった。
これらの事実から読み取れることは中村氏は日頃波多野氏の領域で自領に近い松田郷に関心があり、頼朝の対する義常の反抗を理由に、松田郷の領有を頼朝に願い出て、それを認められていたのではないか・・・・、逆に義常が頼朝に従わなかった理由の一つに、これらの対応に不満を持っていたのではないか・・・。
以上のように三浦氏と連携する中村氏と波多野氏との関係は対立含みであったが、三浦氏との関係はどうであったのでしょうか。

上総介氏・千葉氏

千葉・三浦両氏の連携を示す記事が「吾妻鑑」治承4年6月27日から見える。       
京都大番役の為在京していた三浦義澄(yosizumi)と千葉胤頼(taneyori)の二人が、帰国の途中、伊豆北条館の頼朝に謁し三人は余人を交えず会談している。  京都で以仁王(motihitoou)の挙兵が失敗したあと、自身の進退について決断を迫られていた頼朝は、二人と緊迫する京都情勢について話し合ったと想像されるが、それとは別に注目されるのは、義澄・胤頼の両人が、大番役完了後、帰国に至る間、行動を共にしていた点で、そこに三浦・千葉両氏の日頃の連携ぶりを見て取れる。

上総介氏・千葉氏と三浦氏との関係は、陸路は武蔵国、海路は東京湾を挟んでかなり隔たっていたにもかかわらず,意外に緊密であった。  まず上総介氏とは広常の代に弟頼次の妻として三浦義明の娘を迎えるという絆を結んでおり、この強い絆は治承四年八月の頼朝挙兵直後に生じた衣笠合戦において遺憾なく現れているのである。
衣笠合戦・古戦場跡(横須賀市・衣笠)
衣笠城址

石橋山合戦に直接参戦出来なかった三浦武士団の主力は、帰途鎌倉の西、小坪で追てきた武蔵国秩父党と一戦を交えこれを撃退したあと衣笠城に再び秩父党の来襲を受け、奮戦及ばず衣笠城は落城してしまった。  当主義明は城にて自害。  子供達は義明の命で頼朝のいる安房に向かった。
義明は、頼朝の勝利を信じて疑わ無かった様だ、「生き延びて頼朝と会ってから全力を尽くして戦え」と言い残したという。
沈着冷静な雄将三浦義明の判断には、平家の衰運から察して、頼朝の勝利を確信していたのです。
頼朝が勢力を回復して勝利し後は、関東一円の武将たちが頼朝に服属していった。こうした周辺の変化を察知した武蔵周辺の武士達は頼朝に降伏、こうした状況は政治的に効果が大きかったらしく、鎌倉に本拠を構えた。  次回に続く

丙申・庚子・壬寅

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.12(21:59) 12

*三浦氏と関東武士

三浦氏は相模国三浦郡に本拠を置く武士集団であるが、姻戚関係を含めた勢力範囲は、ほぼ南関東を覆っていた。  具体的には、東は房総の上総(上総介氏)・安房(安西氏)・・・西は相模大住郡(岡崎氏・土屋氏)・・・北は武蔵(畠山氏・横山党)の諸地域・諸氏である。
こうした関係とは裏腹に、相模武士である鎌倉党や波多野氏とは、必ずしも円滑な関係にあったとは言えないのである。これら周辺諸氏との様様な関係が、三浦氏一族のみならず関係の諸氏、また鎌倉幕府に結集した関東武士全般の動向に多大な影響を与えたことは、まぎれもない事実です。

*鎌倉党
三浦郡に隣接する鎌倉郡に本拠を置いた鎌倉党は、三浦氏にとって最も因縁の有る武士集団である。    「相武の武士団」・石井進先生著の系図によれば、桓武平氏高望王曾孫の世代で、相模国・鎌倉郡に定着した家系が三流あり、二系から後の梶原・大庭・長尾氏らが派生しており、一方で忠通の系統で為通・為継と続く三浦の系統は、いづれも「権大夫」「大夫」「権守(頭)」を称していることで、いづれも国衙関係者の称号であり、忠通の系統は長男為通も含め、早い時期に相模国衙の在庁職を手中にし、その権限を背景にその影響力は三浦郡・鎌倉郡・高座郡・大住郡まで発展している。
桓武平氏系図(藤沢市・渡内二伝寺石板より)
桓武平氏・系図
鎌倉党と三浦氏との関係は鎌倉党の内部が必ずしも一枚岩でなかった事もあって、複雑な様相を呈していたが、両者の間の同盟と対立の関係は、後に幕府が置かれ中世都市として発展する鎌倉の地を巡って、鮮明に現れてきている。
最近の発掘調査で現在の御成小学校から古来郡衙が置かれていたことが判明する木片等が発掘され、東海道が由比ヶ浜沿いに通っていたことなどから、鎌倉郡の中心的な小都市として発展していたと考えられるが、十一世紀後半に平直方(taira・naokata)が源頼義に鎌倉の地を譲ったとされて以来、武家棟梁清和源氏の関東における拠点となっていたと思われる。
鎌倉郡衙跡‣(現・鎌倉市立御成小学校・正門)
鎌倉・御成小

ところが、それ以前に鎌倉郡に土着した鎌倉党の内、権五郎景正の家系のものは、東海道沿いに鎌倉郷にまで勢力を伸ばし、後にその勢力圏は大庭氏(oobasi)が継承したと思われる。   古東海道が鎌倉郷に入る辺りに、景正(kagemasa)を祭る御霊神社が鎮座している。  また頼朝が鎌倉入りした直後に源頼義が創建した由井若宮を、由井から小林郷に移す事が決定したが、その奉行人に大庭景義が指名されている。
つまり、鎌倉党大庭氏は名字の地である高座郡大庭御厨の南西部から鎌倉郷に至る間の東海道地域を押さえていたと想像されます。

これに対して三浦氏の方は、本拠地三浦郡から北方に進出し、後に都市鎌倉の有力な外港となる武蔵国久良岐郡(kurakigun)六浦から朝夷奈を越えて鎌倉郡に至る六浦道沿いの地域を手中に収めるようになり、義明の代にはこの地域はおおよそ嫡子・義宗(和田義盛の父)に譲られていたものと思われる。
このように三浦氏が鎌倉党の縄張りにも等しい鎌倉郡に進出できた理由の一つは、頼義以来鎌倉郷に利害を持つようになった清和源氏の後ろ楯があったからであろう。
相武武士団・三浦氏による若き義朝の養育そして鎌倉館の造営も、そうした清和源氏と三浦氏の鎌倉をめぐる緊密な関係を表している。 こうした清和源氏・三浦氏連合の鎌倉郷への進出は、鎌倉党・大庭氏との利害の対立を生んでしまったのだ。
天養年間に起こった大庭御厨乱入事件の背景にも、上記のような両者の利害の対立があったことは充分考えられる。  さらに、大庭御厨事件当時、大庭氏の内部で景宗・景親(kagetika)親子と景義(kageyoi)との間に対応の相違が生じ、後者が源頼朝・三浦義明連合に妥協的な態度をとった結果、鎌倉については大庭氏の権益は景義が掌握し、義朝・義明側との勢力均衡がたもたれた。
後に源頼朝によって起こされた鎌倉幕府の警察機能を担った侍所の首脳として別当・和田義盛、 次官・梶原景時が並んで任命され、大庭景義が鶴岡八幡遷宮の奉行を認められ、ここでも均衡状態は保たれた。  次回に続く

丙申・庚子・戊戌

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.09(17:30) 11

後三年の役は、前九年の役で源頼義(yoriyosi)を支援した清原氏の内紛を、陸奥守・源義家(yosiie)・(八幡太郎)が介入し、一方の当事者清原(藤原)清衡(kiyohira)を助けて、かれを清原氏の後継者に据えることに成功すると云う兵乱。
この時の陸奥守・源義家の家人(郎党)として相模国住人・鎌倉権五郎景正・三浦平太郎為継(tametugu)の他山内首藤氏の名も見える。

寛治元年(1087)の金沢柵攻防戦で、義家軍は数万騎の勢力と、前代をはるかに凌ぐ勢力であった。  参戦した鎌倉権五郎景正や三浦平太郎為継は、「聞こえたかき武者」として知られ、地元では勇名をとどろかせていた「つわもの」として伝わる。
つまり、義家の代で清和源氏は真に武家棟梁と云われる存在となったのであり、彼の四代後の頼朝が東国武士を中核とする政権=鎌倉幕府を樹立する直接の基を築いたと云うべきであろう。

*三浦氏と清和源氏

三浦氏はどの代で相模国の「つわもの」になったのか、そしていつ頃、何がきっかけになって武家棟梁たる清和源氏に結びついたのか、という点を検証したい。
まず、為継の父とされる為通の注記に「三浦平太夫・長門守・従五位下」康平六年(1063)に源頼義より相模国三浦郷を宛行われ、衣笠山城を築き館を構え、はじめて三浦氏と称した。
注・別解釈在り
三浦氏居城・衣笠城本丸址石塔(横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
三浦氏祖・村岡五郎良文公墓所(藤沢市・渡内、二伝寺裏山)DSCN1735.jpg

少し複雑になるが、三浦氏は、桓武平氏・高望王(takamotiou)の子孫で、村岡氏祖・良文の孫にあたる千葉氏祖・忠常と同族の間柄にある。
三浦義明は、三浦氏祖・為通から三代目で相模介義継の子である。  義明の弟には、岡崎氏祖・義実らがいる。  子には杉本氏祖・義宗、三浦義澄(yosizumi)、佐原義連(yositura)と秩父(畠山)重能の妻になった娘がいる。 その娘は畠山重忠の母である。
少々進みすぎ、清和源氏との関わりに戻ります、三浦為継の子相模守・義継(yositugu)の世代になると、源氏との関係は義家の子義親(yositika)の世代に清和源氏が東国に養った地方の兵との主従関係は消滅したとは考えられないが、ほとんど活動を都にうつしていたし、折しも政治情勢は摂関家を押さえた院(上皇)の実権が強まり、清和源氏に代わり伊勢平氏が、院政の常備軍である北面の武士の筆頭として頭角を現しつつあった。武家棟梁としての清和源氏の存在感が薄くなったのは事実である。 
しかるに、源為義(頼朝・祖父)の武家棟梁たる重みの低下と裏腹に、子の義朝は若いころは東国に根拠を置いて、その地の武士たちとの主従関係の再構築を試みていた。

三浦義継(yositugu)と源義朝(yositomo)の二人が同時に歴史上に名を連ねるのは、有名な大庭御厨(ooba・mikuriya)「乱入事件」においてである。  すなわち、義朝が大庭御厨の一部「鵠沼郷」は自分の支配する鎌倉郷に入ると称し俣野川を越えて御厨内に乱入したとされる。 この「乱入に」相模国田所目代や在庁官人など国衙関係者を動員すると同時に義朝の家人・郎党を始め三浦義継、同義明、中村宗平、和田助弘等、所従千余騎が御厨内に乱入したとされる。
義朝に関する情報として、鎌倉・扇谷の現在の壽福寺あたりに居住し、「上総曹司」と称し国衙関係者を動かせる立場にあった事です。
三浦氏と清和源氏との濃密な関係は、義継の子義明の世代に一段と顕著になる。
十二世紀後半、都では保元の乱(1156)、平治の乱(1159)と二度にわたって大きな兵乱が起きた・・・・。   兵乱を題材にした 「平治物語」の中に 「義朝の嫡子・悪源太義平は母方の祖父三浦の許にあったが、都に騒乱事件が起きるや、急ぎ上京す」 とあるように義明と義朝は姻戚関係にあったと思われます。    
(清和源氏系図)    (悪源太・義平は源頼朝の異母兄)

源義朝(yositomo)が「上総曹司」と呼ばれていた事についてであるが、義朝と上総国とを直接結びつける事は出来ないが、本人が直接関係ないとすると、母方の祖父・藤原忠清が上総の関係者かと思われるが確証はない。 ところが、幼い頃の義朝がある時期上総国内に住んでいた可能性があると考えられいる。  それは義朝が父為義(tameyosi)から安房国丸御厨を譲られていた可能性と上総介広常と三浦義明の間の密接な関係が存在するからだが・・・・。

これまでのように見てくると、三浦氏と清和源氏は、他の関東武士と比べても格段に固いきずなで結ばれていると言えるでしょう。
両者の間に婚姻関係があったとすれば、それは頼義室(太郎義家母)の父平直方(taira・nakta)以来であり、 後年三浦氏のライバルとなる伊豆の北条氏は、頼朝の世代でようやく、しかも偶然に清和源氏との婚姻関係が成立するのみである。  このような三浦氏と武家棟梁家と濃密な関係は、三浦氏が周辺の有力武士と同盟と対立の関係をとり結びながら中央武士へと発展して行く上で大きな意味を持つたのである。
      次回に続く

丙申・庚子・乙未

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名執権・北条泰時

2016.11.03(21:14) 10

式目は今日も現存する・・・・・?。

式目は全五十一条からなり、武士にも解りやすいように平易な言葉で書かれていることも特徴のひとつである。「吾妻鑑」には、全五十一条の記載はありませんが、しかし、式目は今日も現存するそうです。(写本と思いますが・・・)
原本を見たことがありませんが、式目関係の史料集からその主な内容について触れておきたい。  以前にも記したが、新法不遡及の原則を規定している。

一・ニ条・・・・・神社・仏閣の修理と祭祀(saisi),仏事の励行を規定。
三・四条・・・・・守護の職務・警察権限の規定。

五条・・・・・・・・地頭の年貢滞納に関する処分規定
六条・・・・・・・・幕府と朝廷・本所との裁判管轄規定
七条・・・・・・・・不易の法(fuekinohou)と呼ばれ、頼朝から実朝、北条政子の時代に幕府から与えられた所領は、旧知行者が訴訟 を提起しても改められないと云う規定

八条・・・・・・・・知行年記法で、二十年を越えて継続して知行してきた所領は、知行するに至った事情の如何を問わず、知行権を保障するという規定で、7・8条どちらも御家人の所領保護を原則としており、律令・公家法に対する武家法の独自性を強く示すものである。
九条~十五条・・刑法に関する規定  (詳細は省略)
十六条~二十七条・・民事訴訟・御家人層の親子・夫婦・兄弟関係
二十八条~三十一条・裁判制度・訴訟手続に関する規定  以下五十一条に至るまで各種の規定が配置されている。  土地関係の規定が多く、武士社会の生活の中から作り出されただけに、極めて実際的・現実的。 
式目追加・・・・・時代の経過に伴って、式目の不備を補充・修正する法令を発布する。  追加法は750か条に及び、実際に運用された式目によって、東国の鎌倉幕府が政権を担当して、独自の武家政権を担ったのでしょう。  

 貞永元年(1232)八月、執権北条泰時が、武士の為の法典である「御成敗式目」を制定,施行。
まお泰時は六波羅探題として京都に赴任中の弟重時に書状を送り、この式目は公平な裁判を行うために、武士社会の慣習であるどうりに基づいて作成されていること、あくまで武士の便宣の為のものであり、これにより律令の規定が変更される事は無いと述べている。
   

  こうして泰時の政治は、執権政治として結実した。
先に導入した評定衆制という合議制と、貞永式目による法治主義とを二本の柱とした政治で、「法律に従って話し合いで」 と云う訳です。 
他に泰時の仕事と云えば、「和賀江嶋」の築港  (現存する日本最古の築港遺跡)。  巨福呂坂(kobukurosaka)切通しの整備・
朝夷奈切通しの開通。  鎌倉大仏の建立。 等々、鎌倉幕府の基礎を成した名執権と評価しますが、如何でしょうか。・・終り

丙申・庚子・己丑    

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2016年11月
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