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頼朝後の三浦氏

2016.12.30(19:59) 24

**再興と没落

*将軍頼経と宿老義村

嘉禄二年(1226)1月、三寅改め頼綱は将軍宣下を受けた。  鎌倉幕府第四代将軍の誕生である。    頼経は種軍宣下を待っていたかのように、北条氏に距離を置き、三浦氏への接近を始める・・・・・いくら将軍といえ、まだ八歳の子供である、自分の意思であるわけはない、おそらく三浦氏からの働きかけによるものであろう、三浦氏のこうした行動を黙認してきたのも宿老筆頭と云うこともあって、執権泰時も一応三浦氏を重んずるという方針を換えなかった事もある。
前年に続き義村は正月三日目の「椀飯」沙汰役を務めた事が将軍頼経との距離を接近させたようだ。  その後何かにつけ外出の機会があれば帰りは三浦の館への立ち寄りを望んだという。
頼経が御所の馬場殿に出て流鏑馬(yabusame)や遠笠懸(toukasakake)を見物した際に、頼経の所望で義村や武藤資頼(sukeyori)ら「宿老」が射芸を披露し、座興を盛り上げたようだ。  この席には執権泰時の姿もあったようだが、「宿老の類」も加わっての射的の儀が行われた。 宿老の中に義村の子泰村(yasumura)の名も見える。
この様な例は、宿老がもはや幕政から遠ざけられ(義村・泰村父子は評定衆である)将軍や執権に対する奉仕を勤める役割のみを担ったことを意味し、幕府体制の変化の一面を見ることが出来る。
鎌倉幕府執権邸跡・・・現宝戒寺 (鎌倉市・小町)
宝戒寺

このように義村の頃までは、三浦介の地位と権限は、やや規制を受けながらもほぼ安泰と云えるものであるが、次の泰村の代になると三浦惣領家存立の基盤である三浦介をはじめ、宿老・評定衆という地位が危うくなるのである。

*宝治合戦

延応元年(1239)12月、宿老・三浦義村が死去した。  享年は不明であるが、源平内乱の頃からその名が現れるので70歳は超えていたであろう。  (吾妻鑑)
執権・北条泰時自ら弔問に訪れたことと、将軍頼経が使者を送ったことも記している。
義村の死は三浦一族の歴史にも、また鎌倉幕府政治にとっても一つの変画が予想される。  義村の後を継いだ次男の泰村は、父の死の前年に評定衆に加えられており、すでに幕府内で重きをなしつつあったが、重要な群議には呼ばれなかった代わりに、泰時邸で開かれた酒宴には、他の評定衆幹部を差し置いて招かれるなど、その活動または北条氏との関係は不安定なものがあった。

執権泰時が在位十九年の仁治三年(1242)、60歳で死去。 孫の経時(tunetoki)が第四代執権に就任したが、泰村は変わりなく評定衆を勤めていたが、このころから評定衆による評議の在り方ににも変化が見え、評定衆の下にいる奉行人の「内評定」で案件処理を行う傾向が出てきている。 すなわち幕府の合議体勢が一層得宗主催の「寄合」へと進みつつあることがみられる。 したがって評定衆とはいえ、泰村の幕府内の位置はますます不安定になってしまった。
寛元四年(1246)3月執権経時が突然執権の座を弟の時頼(tokiyori)に譲り、同年4月に33歳の若さで死去してしまった。時期を同じくして将軍頼経と結託した北条一族の名越光時(nagoe・mitutoki)が、時頼打倒の行動を起そうとしたが、事前に時頼側に察知され反乱は成功しなかった。 光時は越後守を罷免された上伊豆配流が決定し、将軍経時も京都へ強制送還された。
この事件を通して三浦一族は、泰村の弟で前将軍の寵臣であった光村(mitumura)が深くかかわっていたが、光村自身もまた泰村ら兄弟にも何の咎めもなく、時頼邸における「神秘沙汰」に泰村も加わっている。

*神秘沙汰・・・・・北条政村・北条実時・安達義景が参会

要するに、三浦泰村にもいろいろ疑念はあるが加えておこうという判断だ、しかし当時六波羅探題を勤めていた泰時の弟の重時(sigetoki)を鎌倉に呼び戻したいという時頼の意見を、泰村が即座に反対したことで、泰村と時頼の関係はかなり微妙になったと考えられる。  (吾妻鑑)
しかるにこのような泰村の尊大な態度は、周囲の人々の批判の的となり、やがて泰村の惣領家が幕府内で孤立せざるを得ない状況を招くことになる。   いわゆる「宝治合戦」への道のりになる。

宝治合戦(三浦氏の乱)自体については、ここでは三浦氏の追い落としを狙った時頼が安達景盛(kagemori)・義景(yosikage)父子と組んで起こし、三浦氏側も孤立していたとはいえ、一族・親類を集結して戦ったが敗れてしまった事件と考える。  時頼の狙いは一つ、宿老三浦氏の排除にあったことは疑いない。
開幕以来三浦氏は宿老筆頭として並み居る御家人に対する影響力は大きかったし、何よりも宿老たる地位は鎌倉殿を支えることを期待されてきた。  だが、時頼の狙いは他にもあったようだ、おそらく相模国を実質支配する三浦介の地位と権限を奪い取る事、そして武蔵国と並んで北条得宗家の地域支配の基盤に据えようとしたのではなかろうか・・・・ 終り。    

*次回より、主テーマ 「鎌倉北条氏」 を解析・レポートするです予定です。

丙申・辛丑・丙戌





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頼朝後の三浦氏

2016.12.27(07:27) 23

**再興と没落

*承久の乱

承久三年五月、 討幕の決意を固めた後鳥羽上皇は「北条義時・追討宣旨」を五幾七道に発し、軍の招集を命じた。  その中には三浦義村の弟で在京中の胤義(taneyosi)も加わっていた。 鎌倉では政子が御家人らを集め、安達景盛を介して下知を伝えた。 詳細は次の機会に。
要するに頼朝以来の源家の恩を忘れるなに尽きるが、「逆臣」と名指しされた三浦胤義の兄義村の心境は計り知れない・・・・・・。この後義時館で久方ぶりに軍評定が開かれた。
参会者は時房・泰時・広元・義村・景盛であった。 議論の大勢は足柄・箱根の二関を固め上皇軍を迎撃すっると云う意見であったが、広元が幕府軍の上洛を主張して譲らず、義時は両案を尼将軍・政子の許に提示し、結局政子の裁定で上洛案が採用された。
戦いは幕府軍の勝利で終わり、上洛軍司令官を務めた時房と泰時は六波羅館に入って戦後処理を行った。   間もなく義時の指示を携えた使者が到着し、早々に六波羅の両者に加え三浦義村・毛利季光(suemitu)(広元の子)の四者会談が行われている。
上皇方に対する断罪は極めて厳しく、後鳥羽・順徳・土御門三上皇の配流、近臣の斬首・配流等が決定された。  近臣の中には西面の武士に登用されていた鎌倉御家人も多く含まれていた。
そして、幕府は政子・義時・広元の指揮の下で危機を克服し、かえって幕府の存在を確固とすることに成功した。  そしてこの承久の乱は、幕府体制のなかでの三浦氏の位置にも変化をもたらした。   三浦一族の中で義村の弟胤義が上皇方についてしまい、東寺に立籠った胤義を三浦・佐原の兵が攻撃するという一族同士討ちと云う事態を招いてしまったが、政子らの義村に対する評価はそれで減ずることなく、むしろ義時館における群議や六波羅館の評議に義村を列席させるというように、この戦いを契機に三浦氏の力を重視する気配が生じた。 その気配が警戒の念を含んだものであるとしても、三浦氏にとっては幕府における宿老の地位への復活の兆しが見えてきたことを意味する。

*執権泰時と評定衆義村

承久の乱に勝利した幕府の全国支配は揺るぎないものとなり、政治を主導する政子・義時・広元の協調体制は盤石の重みを持つ様になったが、それも長くは続かなかった。  まず元仁元年(1224)、6月に義時が病の為62歳で死去した。  政子は直ちに泰時と時房を京都から呼び戻している。
尼将軍・政子は二人に「軍営の後見を成し、武家の事を施行すべし」と申し渡し、それまで行っていた政治への関与をやめて泰時と時房に一任することを宣言したことになる。  しかし、政子は「尼将軍」としての役割を止めるわけにはいかなかった、義時の死後彼の後妻である伊賀氏(igasi)が兄弟らと計らって、女婿一条(藤原)實雅(sanemasa)を将軍にたて、自分の子(政村)を執権に立てようと謀議を進めていた、どうもこの謀議に政村の烏帽子親の義村が加わっていたらしい・・・・・。  この事態を打開する為、政子は自ら義村邸に赴き、いまや泰時こそ「関東棟梁」に相応しい人物であることを力説、政村を諌めてほしいと申し入れたのである。  政子の迫力に圧倒されたかのように、義村は泰時擁立を約束したようだ。
第三代執権・北条泰時公菩提寺・・・粟舟山・常楽寺山門  (鎌倉市・大船)
常楽寺・山門
こうして政子の確固たる措置により、伊賀氏兄弟の策謀は失敗に終わり、義村以下の宿老も泰時に忠誠を誓うという事で、執権・泰時の地位は安泰であったが、翌年6月に広元が7月に政子が死去するという自体に動揺し、幕府(執権)政治を主導してきた義時の死と共に大きな衝撃であったに違いない。  もちろん幕府関係者の間にも動揺は広がったと思われるが、しかし、ここで後世優れた政治家と評される(以前にも記述)泰時の手腕が遺憾なく発揮されることになる。
執権泰時の施策の原点は、頼家の代の初めに設けられた13人の「談合」衆による合議態勢への復帰であろう、彼の最も重要な施策は「評定衆」による政務処理である。  その最初のメンバーは・・・・・。

〇 中原師員(morokazu) (吏僚)
〇 三浦義村        (宿老)
〇 二階堂行村(yukimura) (吏僚)
〇 中条家長(ienaga)   (宿老)
〇 三善康俊(yasutosi) (吏僚)
〇 二階堂行盛(yukimori)(吏僚)
〇 矢野倫重(mitisige)  (吏僚)
〇 後藤基綱〈mototuna) (御家人)
〇 三善康連(yasutura)  (吏僚)
〇 佐藤業時〈naritoki〉  (吏僚)
〇 斎藤長定(nagasada) (御家人)    以上11名


こうしてみると、あの「十三人会議」体制とは随分違っている。例えばメンバーの中に北条一族は誰も入っていないし、宿老はわずか二人、御家人二人を加えても武士は4人にすぎず残りの七名は政所や問注所の幹部である。  評定衆の権限は単なる「談合」ではなく、政務に関する裁断権を持ったこと、従って真の意味で合議が制度化したことになる。 また北条一族は泰時が執権、時房が連署として、評定衆を指導する立場に付いたのであって、いわゆる執権政治はこれで確立したと言われる。
新執権・北条泰時公墓誌・・・・・臨済宗建長寺派・常楽寺  (鎌倉市・大船)
泰時公‣墓石

新執権・北条泰時は宿老の地位を復活させ、とりわけ三浦義村を重用しようとしたと考えられるのである。彼の宿老義村重視の姿勢は、彼の妻が義村の娘であったつながりも大きいが、頼朝時代の宿老義澄(義村・父)の働きぶりと、義村が三浦介として相模を実質支配していることを十分に理解していたからであろう。  そして、まさしく椀飯の地位も上がったと「吾妻鑑」に記述が残る。

貞永元年(1232)八月、執権・北条泰時は武士のための法典である「御成敗式目」を制定した。
三浦義村は「御成敗式目」の制定に際して評定衆次席として起請文に署判。  義村は泰時の執権在任中は常に評定衆としては中原師員に次ぐ位置を占め、泰時と時房が出席するような重要な会議には必ず参加していたようだ。
しかるに義村は宿老としての重みが増すにつれて、幕府政治運営の責任の一端担う評定衆らしからぬ態度をとるようになる。自分の息子たち(泰村(yasumura)・家村(iemura)・資村(sukemura)・胤村(tanemua))の行動にも目に余るものが目立ち、「吾妻鑑」もやや厳しく、「傍若無人の沙汰人耳目を驚かす」とのべている。  今ひとつは、この時期の三浦一族が、将軍頼経に接近して近臣御家人として重用されるようになった事も背景にあると思われるが、このことが結局幕府内での三浦氏の孤立と惣領家の没落を招く原因となったのであろう。・・・              次回に続く

丙申・辛丑・癸未

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頼朝後の三浦氏

2016.12.22(17:12) 22

**再興と没落

*建保合戦(和田氏の乱)

幕府は三代将軍実朝の時代に、大きな二つの事件を経験した。  建保元年(1213)の建保合戦(和田氏の乱)と承久元年(1219)の将軍実朝暗殺事件です。前者は北条氏の圧力から抜け出したくなった実朝が、和田義盛を抱き込んで反北条の態度を示すようになったので、義時が三浦義村の協力を取り付けたうえで義盛を挑発し反乱を誘発、これを鎮圧した事件であり、後者はその様な将軍実朝を排除し、代わりに新たな調教可能な将軍を置くために義時が仕組んだ陰謀事件と云われる。
和田一族墓所  (鎌倉市・由比ヶ浜)・・・和田塚ガイド
和田一族墓所
和田塚ガイド
この二つに事件で際立つことは、義時・広元協調路線の事件処理の鮮やかさと、反対に義村が北条氏の云うがままに扱われた哀れな姿でした。   「和田氏の乱」と後世呼ばれてしまった行動は、翌日には、義時・広元の連判状が武蔵など近国の御家人宛に発せられ、義盛方の武士で戦場から離れ国内に隠れる者がいた場合即刻討ち取る事が指示された。

*実朝暗殺事件

次の実朝暗殺事件の際は、義時・広元両名は表立った動きはしていない、事件後京都から後鳥羽上皇の使者が鎌倉に到着、実朝死去の悔みを伝える傍ら、摂津国長江・倉橋両庄の地頭職の改補を要求してきた、幕府としての対応はどの様になったのか・・・・。
尼将軍政子の許に義時・時房・泰時の北条一族と広元が集まり善後策を協議した。    その結果、時房が1000騎を率いて上洛し、上皇側に圧力をかけつつ次期将軍候補として皇子の鎌倉下向を要求したのです。
この間の三浦義村と云うと、「和田氏の乱」では義時と結んで、一族の長老義盛を敗死に追いやり、後に「三浦の犬は友を食らう」などと噂される始末である。   実朝暗殺事件の際も、下手人公暁(kugiyou)(頼家の子)が義村を頼ろうとした為途中で殺し後に、義村黒幕説や裏切り説などの不名誉な評価を下されることになる。
さらに実朝の死のあと、幕府の真価を問われる事件がおきた。  「承久の乱」である。 実朝の急死で幕府が混乱する事を見越した後鳥羽上皇は、寵愛する亀菊に与えた摂津国・長江、倉橋二庄の地頭職停止を幕府に送ったが、幕府はあっさりと拒否する。幕府が要求した皇族将軍の下向を拒絶することで対抗し、その後は武力での討幕を計画する。
一方幕府は皇族将軍を諦め、頼朝とも関係のある九条道家の子(三寅)を鎌倉に迎え、将軍宣下があるまで北条政子が後見することにした。  これで政子・義時・広元三者による政治体制が出来上がった。   この体制は二年後に幕府存亡の危機に直面することになる。    次回に続く

丙申・辛丑・戊寅

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頼朝後の三浦氏

2016.12.19(08:33) 21

**再興と没落

*北条氏台頭

頼朝の死により絶対的な調停者(頼朝)を失うことになり、幕府内での地位を保つためには、頼朝以後も鎌倉殿(将軍)を自家勢力圏の手中にしておくこと、さらに地域支配の基盤を持つことが政略の基盤になったと思われる。 そして、その地域支配を獲得するには、現にその地域を支配している者を取り込むか排除するしかない。 北条氏が末代まで重要な支配基盤としたのは相模と武蔵の二国であるが、前者については当面三浦介惣領家との同盟、後者については有力御家人比企・畠山氏の排除と武蔵守・平賀朝雅(tomomasa)の取り込みに成功(後に排除)、結局武蔵については承元元年(1207)北条時房(tokifusa)(時政・子)が武蔵守に就任した時点で事実上の国守となっている。
北条政子・供養塔・・浄土宗安養院(鎌倉市・大町)   安養院は政子の法名
北条政子・供養墓
尼将軍・北条政子墓・・(鎌倉五山三位・寿福寺)・・鎌倉市・扇ヶ谷
政子墓・寿福寺


病に倒れた頼家に、妻の父能員が、相続をめぐって対立していた時政追討を進言した。 頼家は病床に能員を呼び、追討の事を話したが、たまたま障子一枚隔てた隣室にいた政子が二人の密談を聞き、父時政に急報した。 通報を受けた時政は、直ちに広元邸に向かい、二人は善後策を協議したが、最終的に広元は時政に措置を一任した。 そこで時政は能員を自邸に呼び出し謀殺した。 同時に政子の指令によって義時以下の兵が能員邸を襲い、頼家の子一幡(itiman)や能員の嫡子らを殺害してしまった。    (吾妻鑑)
当時頼家は広元邸で療養していたという説があり、これが事実とすれば「吾妻鑑」のように、頼家と能員の密談を政子が聞いたという不自然な設定をする必要がなく、広元がそれを聞きつけ時政に知らせ、両者が会談したという事になり、その後の二人の緊密な連携からみて説得力がある。    (愚管抄)

この事件に関して、三浦氏はどの様に動いたのであろうか。 三浦介義村(yosimura)と和田義盛・常盛父子らが、 能員邸に派遣された軍兵に加わった事、事件後、姻戚と思われる能員を救援する行動を一切取らなかったのである。  三年前に義澄と長老・義実が相次いで死去した三浦氏にとって、ここは下手に動けない、命取りになるやもしれないという事であろう。 終始時政・政子の主導に従っている。    (吾妻鑑)
こうして時政は、広元・義盛らの支持を取り付けた上で、武蔵を本拠とする能員を滅ぼし、次期鎌倉殿の千幡(実朝)の外孫の地位を確実にした。 次の北条氏の標的となったのは、これも武蔵の有力武士・秩父党畠山重忠(sigetada)だ。 その重忠排除のきっかけは、子の重保(sigeyasu)が京都在任中に前武蔵守・平賀朝雅(tomomasa)と口論したことが発端で、牧の方(朝雅は女婿)が時政に訴え、反対する義時・時房を抑え、まず重保を討たせ、ついで鎌倉に進軍してきた重忠を武蔵・二俣川(futamatagawa)に迎え撃って、一族郎党134騎を討ってしまったのである。     (吾妻鑑)
この際の三浦一族の動向も、頼朝時代に宿老を四人も輩出した勢いは殆ど感じられなかった。  現実を見てみよう、まず、元久二年2月に、重保が稲毛重成(sigenari)に鎌倉に呼び出され、時政の命により由比ヶ浜でだまし討ちにされた、討ったのは事もあろうに三浦義村である。 さらに重忠迎撃軍の大手軍大将に北条義時(時政・子)の麾下として義村・胤義兄弟が従い、和田義盛は時房と共に関戸大将軍に任じられた。   (吾妻鑑)

他の有力御家人も時政・義時の命令のままに動いているので、三浦一族のみを批判するのも酷だが、それにしても重忠は三浦義明の娘を妻としているだけに残念だ。  どうもこのころの三浦氏は、比企能員謀殺の時と同じく宿老家の誇りを捨て去ったように見える。
かつての宿老筆頭と位置づけられた勢いは何処へやら、義澄の後継者義村も宿老義盛もおしなべて北条氏と広元の協調関係を支援するという役回りに甘んじて見えるのだが、三浦介として相模一国を事実上支配している点で、さすが北条氏もそこまで手を伸ばすことは時期尚早と判断した様だ。  ちなみにこの時期下総の千葉成胤(naritane)(常胤・孫)・下野の小山朝政の両宿老ともに、守護の地位を認められているのである。
おそらく三浦・千葉・小山三氏の守護職というよりは、各国に対する宿老の支配を牽制するためにとられた措置で、北条氏が主導し、広元が奉行人となった事が実相であろう。     それにしても、宿老家・三浦氏はこの先どの様に再興するのか?・・・・・北条氏と大江広元の協調体制はどの様に変化していくのでしょうか。・・・・・・ 次回に続く

丙申・辛丑・乙亥

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頼朝後の三浦氏

2016.12.14(15:09) 20

**再興と没落

*十三人合議制

正治元年(1199)・1・13、幕府初代将軍源頼朝が死去した。   彼の優れた調整能力によって均衡を保っていた宿老(代表格・三浦氏)・頼朝の後見(北条時政)・吏僚(首脳大江広元)の関係は、頼朝に代わる調停者の不在が原因となって、大きくバランスを崩すことになる。
頼朝の死の直後、嫡男・頼家は18歳で家督を継承、当時としては充分な年齢で張り切ってスタート、 鎌倉殿の威厳を発揮し出したのである、 ところが2月にスタートした鎌倉殿の職権と訴訟に関する直断を4月には幕府幹部によって停止され、 幹部13人による「談合」で取り計らうという決定を下してしまったのである。

*13人合議制メンバー   (吾妻鑑)  

〇  北条時政  62歳  伊豆  頼朝岳父(後見)
〇  北条義時  37歳  伊豆  時政継男(継承)
〇  大江広元  52歳  京都  政所別当
〇  三善善信  60歳  京都  問注所執事
〇  中原親能  57歳  京都  公事奉行人、京都守護
〇  三浦義澄  73歳  相模  宿老・三浦介
〇  八田知家  不詳   常陸  宿老・常陸守護
〇  和田義盛  53歳  相模  三浦氏・同族 宿老・侍所別当
〇  比企能員  不詳  安房   宿老・信濃守護 頼家乳母夫
〇  安達盛長  65歳  武蔵  宿老・上野奉行人・三河守護
〇  足立遠元  不詳  武蔵  宿老
〇  梶原景時  不詳  相模  宿老  鎌倉党・侍所次官
〇  二階堂行政 不詳 京都  政所令          以上13名


「合議」のメンバー構成は、宿老7名、吏僚4名、頼家後見2名である。
頼朝の死によって深刻な危機感を持ったのが北条時政です、時政が幕府内で高い地位を取り得たのは、頼朝の妻政子の実家であり、彼の後見であったからであって、武士としては三浦氏のような宿老御家人とは桁違いに見劣りがするし、立つ基盤がなかったのです。
後年北条一族が、武蔵国と相模国の支配を重視する理由が、時政なりに自身が地域支配という面で弱点があると自覚していたからと考える。
次に「吾妻鑑」の史料から当時の力関係を示す、「椀飯」(ouban)の記事(正治二年・1200年)に、
一日   北条時政
三日   三浦義澄
四日   大江広元
五日   八田知家
と記されている。 これだけ見れば、幕府内の位置は後見・宿老・吏僚の順となるが、  その他の椀飯は、二日に千葉常胤(宿老)、六日に大内惟義(門葉)、七日に小山朝政(宿老)、八日に結城朝光(頼朝寵臣)、となっていて、数の上では宿老が多い。

この年まで三浦氏は数の上で北条氏と拮抗していたが、この年の椀飯を最後の奉公として、三浦義澄が死去、建仁三年(1203)年に比企能員が北条氏によって謀殺され、結局三浦氏は幕府政治の合議体制から早めに脱落してしまう。
幕府・宿老  比企一族墓所・・日蓮宗・妙本寺  (鎌倉市・大町)
比企一族・墓所
日蓮上人・祖師堂(二天門)  幕府・宿老比企氏邸跡 (鎌倉市・大町)
妙本寺・二天門

「十三人合議制」とは言っても、談合衆が一堂に会して評議をしたわけではない。 メンバーの中には在京中の中原親能がいたし、最高齢の義澄は正治二年に死去、同年梶原景時も御家人たちから糾弾され戦死、その後安達盛長も死去して、頼家の代で「談合衆」は八人に減っている。  実際の談合は時政・広元・善信の三者協議と云う形になっていた。
頼家時代の「十三人合議制」は13名でスタートしたが、早いうちに後見北条氏と吏僚大江広元・三善善信だけの評議体となり、やがて時政(義時)と広元との協議体制に移行するのであって、いわゆる執権政治はこの様にして成立したと思われる。
つぎに、この執権政治期に、頼朝時代の宿老たち、或は彼らの二世はどうしたのか、義澄の跡を継いで三浦介となった義村について見ていきたい。      次回に続く

丙申・辛丑・庚午

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.12.10(17:33) 19

**初期幕府政治と三浦氏

*頼朝時代の合議制

鎌倉幕府草創者の源頼朝は「独裁者」のイメージが強い。  彼が武家棟梁清和源氏の嫡流という「貴種」として、御家人らの上に君臨し、また御家人達も彼に絶対的忠誠を当然のことと感じていたことも事実であろう。  京都神護寺に伝わる頼朝像と考えられる坐像の、凛として寄せつけぬ姿が、頼朝=独裁者説を決定づけていると思われる。

*宿老

初期の宿老メンバーを記して置くと、                                                            1・千葉常胤(tunetane)(下総)                                                               2・上総介広常(hirotune)(上総)                                                              3・三浦義澄(yosizumi)(相模)                                                               4・土肥実平(sanehira)(相模・中村氏)                                                          5・小山朝政(tomomasa)(下野)                                                              6・三善善信(yosinobu)(問注所・執事)
7・岡崎義実(yosizane)(相模・三浦氏)
8・足立遠元(toomoto)(武蔵) 
9・安達盛長(morinaga)(武蔵)


言うまでもなく記してきた9名だけが宿老であったわけではなく、大将軍・八田知家(tomoie)(常陸)・・比企能員(hiki・yosikazu)(武蔵)・・宇佐美實政(sanemasa)(伊豆)・・畠山重忠(武蔵・秩父党)(大手軍先陣)・・和田義盛(相模・三浦氏)(侍所別当)・・梶原景時(相模・鎌倉党)(侍所次官)・・大江広元(hiromoto)(政所別当)等も宿老と同等に位置していたと思われる。
初期・鎌倉幕府重臣・大江広元邸旧跡
大江広元邸跡

こうした宿老メンバーを見ると、武士では、東国の有力家系を代表する人物がほぼもれなく名を連ねていることが解る。  
頼朝時代の幕府政治が、宿老御家人である東国の有力武士と吏僚首脳、および頼朝の後見である北条氏という三者の幹部が頼朝の「独裁政治」を支えていたのである。
以上、三者による合議の内容を「吾妻鑑」等からみてみると、宿老の名がみえる記事に同一人物の登場する頻度の多い宿老は三浦義澄・千葉常胤・足立遠元等が頻繁に登場する、単純な言い方をすれば初期頼朝時代の合議は、義澄・常胤あたりが代表格の宿老であったと思われる。

*椀飯奉仕(ouban・housi)

椀飯とは正月とか慶賀の折に、家臣が主君に酒食を奉仕し、武器武具の類を献上するという儀式であり、この時代には幕府における御家人の位置付け(席次)を現わすものとしてかなり重要視されていたようだ。
頼朝時代の椀飯で特筆される例が、建久二年(1191)、正月の椀飯で、一日が千葉常胤。 二日が三浦義澄。 三日が小山朝政。 五日に宇都宮朝綱の順に奉仕された。

ちなみに二日の義澄の椀飯を「吾妻鑑」の記述から再現してみます。  二日、辛亥、御椀飯・三浦介義澄の沙汰、御剣を持参す。  御弓箭、岡崎四朗義実,御行謄(mukabaki)、和田三郎宗実、砂金、三浦義連、鷲羽(wasinoha)、比企能員、御馬、三浦義村、太郎景連など三浦氏一族挙げての奉仕の様子がうかがえます。

*御剣・御弓箭・御行謄・砂金・鷲羽・御馬は・・・椀飯儀式の献上品リストと順序を示す。

頼朝乳母・比企尼の甥、比企能員邸跡(宿老)・・・・三浦氏女婿? 
比企能員邸跡・石塔

今タイトルの主題である三浦一族について整理すると、まず宿老としては惣領家(souriyoue)の義澄が千葉常胤と並んで当初から筆頭格ともいうべき位置にいたほか、義澄の叔父・岡崎義実と甥にあたる和田義盛(侍所別当)、それに女婿と思われる比企能員がそれぞれ宿老として重きを成していたのである。
頼朝時代の宿老御家人は、東国の有力武士の家系を代表する人物がなっていたのであるが、同族で四人というのは三浦氏以外にはなく、鎌倉幕府内での三浦一族の存在感は傑出していたと言ってよいだろう。
特に義澄は治承四年(1180),頼朝挙兵直後から、軍略に関して頼朝の諮問に答え、ある時は頼朝が指示した方針に反対意見を述べたりする一方、内乱後期には自ら西国に赴き、壇ノ浦の戦いには、海戦の不得手な源氏軍にあって「海のもののふ」の本領を発揮して味方を勝利に導いた。
内乱が終わって幕府が安定してくると、頼朝の岳父・北条時政や公文所別当大江広元の動向あが目立つようになるが、三浦一族では和田義盛が侍所別当という幕府の中枢部局に任じられ、義澄も相変わらず頼朝の信任厚く、上席を占めている。  また奥州討伐や上洛の際の頼朝の直衛隊に必ず義澄の姿があったと云う。
この様に義澄ら三浦一族の者が、宿老として幕府内に高い地位を占めることが出来た訳は、何といっても三浦氏が源家譜代の家人であり、頼朝の父義朝(yositom)が三浦義明の女婿であったとされるほど近い関係にあったからで、また三浦一族の抱える武士団の規模が群を抜いていたからだ。
宿老・三浦義澄、頼朝の後見北条時政,幕府官僚・大江広元の三者を、鎌倉殿・頼朝がバランスを取りながら自分の裁断権を行使する、これが頼朝の「独裁政治」と言われる実相でった。  この様な意味で、鎌倉幕府が武家政権といわれるのは、三浦氏に代表される地方武士特に国衙在庁関係者の政治感覚で運営されたからであろう。・・・・・
次回に続く      次回、頼朝後の三浦氏に続きます。

丙申・辛丑・丙寅

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.12.06(20:13) 18

*続・頼朝挙兵 

三浦氏にとっては、隣接する鎌倉郡・高座郡を領する鎌倉党では大庭景親(kagetika)が力を増し三浦氏とは国衙在庁レベルでの親交があったと思われる兄の大庭景義(kageyosi)の存在感が薄れてしまった事、三浦義澄(yosizumi)の岳父である伊藤佑親(suketika)が在庁の立場で平家に対し律儀に忠節を尽くしたり、武蔵秩父党の最有力者で義明の女婿の畠山重忠(sigetada)が、一族の河越氏が平家に付いたため党内での地位が逆転してしまっていた。 周囲の状況はかなり不利な状況になったことは確かである。、
この様な状況を打開するため、三浦氏は源家再興を期待したのであろうが、それは即平家打倒というより、現実的な平家方国司や武士との紛争調停を調停する役どころを期待したようだ。  こうした調停者という立場を一般武士が武家棟梁に期待するのは、源頼義・義家(八幡太郎)以来の伝統と言えるだろう。
挙兵直後の頼朝が調停者の役どころを早速実行したのだ。   治承四年(1180)、挙兵直後、三浦一族の内岡崎義実(yosizane)・義忠父子は初戦から参加して居るのに対して、義明・義澄ら本隊は海路、陸路とも難航して頼朝に合流することが出来ず、やむなく衣笠城に引いたが、秩父党の襲撃を受け落城、義明討ち死にという事態を迎えた。
この年10月に畠山重忠(sigetada)・河越重頼(sigeyori)・江戸重長ら秩父党の主だった者が頼朝に帰服を求めてきたときに、頼朝は三浦一族をなだめ説得しています、兄弟らにとっては憤懣やるかたないことではあるが、長い目で見て武蔵国衙を握る秩父党との連携関係は、三浦氏が以前から希求していた事であり、双方にとって利益になる事になる。  (吾妻鑑)
さらに、関東武士が頼朝に調停者の立場を期待していた事柄を一つ、富士川の戦に勝利した頼朝が、追撃戦を主張したが、常胤(千葉)・義澄(三浦)・広常(上総介)らはそれを諌め、常陸の佐竹氏を討つべしとと進言。  頼朝はそれに従ったという。  (吾妻鑑)
この地域は頼朝挙兵以前から、常陸や房総の源家方武士と佐竹氏との間に確執があったので、常胤らはまず佐竹氏との問題を解決する必要があったのでしょう。  

*論功行賞

平家の正規軍に勝利した頼朝は10月23日に相模国府(大磯町)に入り、最初の論功行賞を行った。  そして、北条時政・千葉常胤・三浦義澄・上総介広常・和田義盛といった面々が本領を安堵され、或は新恩に浴した。   ここで頼朝は後に鎌倉殿と云われるようになる武家棟梁としての源家の再興を正式に宣言したのである。
和賀江島から江の島を望む(鎌倉市・材木座)
和賀江島から江の島

鎌倉幕府が主君鎌倉殿と御家人との間の主従関係を軸として成り立つ軍事政権として、今まさに幕府の基礎が歴史上出現したのである。   しかるに強調したいことは、最初に論功行賞が行われた場所が相模国府であること、頼朝が義澄の「三浦介」を安堵していたのである。 「介」は本来律令法で定められた国司次官の地位であり、頼朝がその地位を私的に安堵したことは、それ以後頼朝と家人の関係を律令法を超えた新しい法の下に置くことを頼朝主従が認めたことを意味するのである。
相模国についていえば、国主は頼朝であり、彼の代官として三浦介義澄が正式に就任したことを意味するのであるが、後に関東御分国(gobungoku)と云われた伊豆・上総・下総・武蔵などの諸国についても適用されていたのある。 こうして頼朝による国衙在庁支配が、在庁官人である御家人武士を介して行われていくようになり、それら頼朝の実効支配の及ぶ諸国が、幕府の中核的な政治基盤となったのである。 次回に続く

丙申・辛丑・壬戌

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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.12.02(20:33) 17

*頼朝挙兵

平治の乱を義朝と共に戦った関東武士たちは、その後どうしたであろうか。
義朝が近江・瀬田辺りを落ちているころ、同道した波多野・三浦・熊谷・足立・上総介・等に暇を取らせ関東へ下らせた。この中に三浦義澄の名もあるが、想像であるが、彼は三浦氏と縁の深い義平(義朝・嫡男)と行動を共にしたいと願い出たと思われるが、義朝には義平を平家方の手薄な北陸に逃がし、再起を図らせるという構想がすでにできていたと思われ、それを認めなかったと思われます。
三浦義澄はじめ前記の関東武士たちは、本拠地に戻って間もなく、主君義朝・義平・朝長親子の死と、頼朝の伊豆配流という知らせを聞くことになる。  
鎌倉幕府開府当初・三浦氏当主  三浦義澄公墓所(横須賀市)
三浦義澄公・墓所

棟梁清和源氏の没落は、関東武士の生き方にも大きな影響を与えた。  平治の乱には参戦しなかったと思われる相模鎌倉党では、義朝ー三浦ラインに近かった大庭景義(kageyosi)に代わって、弟の景親(kagetika)が鎌倉党を引き継いだ。  武蔵・秩父党でも、惣領の畠山氏が落ち目になり代わって河越氏が惣領権を獲得したようだ。   三浦氏にしても平家の催促に応じて、番役を勤仕しなければならなかった。
伊豆流人時代の頼朝はは源家再興・平氏打倒を胸中に秘めて雌伏していたのか、源家再興など念頭になく念仏三昧の日々を過ごしていたのか・・・、いくつかの説があるが、ここでは雌伏20年説を取りたい、その根拠は流人でありながら京都情勢、特に平家の動向に関心を払っていた事や、伊豆や相模の武士らと狩猟などを通じての交流を続けていた事等である。
一方で、伊豆や相模・房総等の武士の方が頼朝に寄せる思いはどの様なものだったかを考えてみたい。   まず思い起こすのが以前にも記した三浦大介義明の言葉 「吾れ源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋に逢うなり」 に代表される思い,と思われるが如何・・・・・・。 また、これと似たような言葉は千葉介常胤(tunetane)の言葉にもある。「常胤の心中、領状さらに異議なし、源家中絶の跡を興さしめるの条、感涙眼を遮り、言葉の及ぶ所に在らざるなり。」
先の義明の言葉と云いこの常胤と云い、彼ら源家累代の家人をもって任じる武士たちは、頼朝に対し源家再興を心から期待していたのである。  流人時代の頼朝が武士たちと狩猟を通じての交流を持っていたと述べたが、おそらくはその様な機会に、頼朝は義明や常胤に代表されるような源家家人の熱い思いを意識していたに違いない。
石橋山合戦の後、衣笠城攻防戦で戦死・三浦大介義明 菩提寺‣満昌寺(横須賀市)
三浦義明公・菩提寺

三浦義明公(義澄・父)墓所  (満昌寺・横須賀市)
三浦義明公・墓所

義明らが源家再興切実に願ったのは何故であろうか。
平家にあらずば人にあらず、といった風潮になった世に源家累代の家人たちは平家の催促により番役勤仕のため上京する負担を負った。さらに迷惑に感じた事は、平家の国守・目代や平家被官になっていた武士たちの日常的な圧力ではなかろうか・・・。   次回に続く

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2016年12月
  1. 頼朝後の三浦氏(12/30)
  2. 頼朝後の三浦氏(12/27)
  3. 頼朝後の三浦氏(12/22)
  4. 頼朝後の三浦氏(12/19)
  5. 頼朝後の三浦氏(12/14)
  6. 鎌倉幕府と宿老三浦氏(12/10)
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