FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.28(20:00) 32

**幕府内部の対立

*鎌倉幕府の実質的な主導者へ

比企氏を滅ぼした北条時政は,十二歳の千幡丸を将軍とし家督を継がせました。そして三代将軍・源実朝を名乗りました。   時政は、大江広元と並んで幕府政所の別当に就任、初代執権(situken)となったのです。

比企氏を滅ぼした北条時政は、将軍実朝を名越邸に預かり、後見人として鎌倉幕府を主導しました。  この政権は、将軍の生母として強い権限を持つ北条政子との間に信用関係が成り立っていて初めて安定する政権でした。しかし、時政の正室牧氏と北条政子・義時との間は北条氏の嫡子に関しての争いがあった。
源頼朝の腹心として政権運営を学んできた義時なのか、正室の子政範(masanori)なのかは、微妙な所がありました。    義時の本領が北条氏邸跡から見て狩野川の対岸にある江間であることから、義時は早くから分家を興していた可能性高いと思う、しかし時政と牧氏の間に出来た政範が早世したのです。

 同じような時期に、武蔵の御家人・畠山重忠(sigetada)に謀反の嫌疑をかけて攻め滅ぼした二俣川合戦が起こりました。
この事件は、武蔵国の統治をめぐる北条時政・平賀朝雅(tomomasa)と畠山重忠との意見対立に、愛児政範を亡くした牧の方の妄執が重なって、本来ならそこまで発展する可能性が低かった争いが大きくなった事件と思われる。
事件後、北条時政は畠山重忠を滅ぼす必要があったのかという北条義時・北条時房(tokifusa)・三浦義村の強い譴責にあい、妻と共に伊豆・北条に引退して出家を遂げました。

*執権・北条義時の誕生

時政が失脚した後、北条義時が家督を継いで執権に就任。   和歌好きの三代将軍実朝は温和で、義時を叔父として遇したので、将軍と執権との仲は良かった。 二人の間に尼将軍北条政子がいた事も、幕府に安定をもたらした。
義時の政治の基調は、東国武家政権の安定強化でした。 また義時は、父時政とは反対に、源平の合戦では西国遠征にも従軍して多くの東国武士たちと苦難を分かち合っていた。 その様なこともあって、義時の政治は多くの幕府御家人の支持を受けていたので、幕府は安定していた。

駿河以西の東海道の宿駅に、夜昼の別なく御家人を結番勤務させて、旅人の安全を図った。  また諸国の守護地頭に命じて、諸街道に宿駅の設置を命じたりもしている。

武家の首都としての鎌倉の整備、地頭御家人の権益の保全など、義時の政治は頼朝政治によく似ています。 しかし頼朝に見られる京都への妥協的態度は、義時には乏しかった。 義時は頼朝政治の一番弟子ではあったが、ある意味で師の頼朝を超えていたかも知れません。

大倉御所から離れた名越に住んでいた時政とは違って、義時は御所に近い小町に居を構えた(現・宝戒寺)将軍の近くに住んで積極的に頼朝政治を学ぼうとする意欲の表れかも知れません。
鎌倉幕府執権小町亭跡 (現・宝戒寺)・・・萩の寺として知られる  (鎌倉市・小町)
北条氏・執権邸跡

*北条義時・女性関係と子供たち

こうして義時は、頼朝政治を眼前に学んだのであるが、女性関係でも頼朝を見習ったらしい。  義時の女性関係も、決して少なくはなかったらしい。
嫡男・金剛丸(のち泰時)(yasutoki)を生んだ幕府女官・阿波の局(awanotubone)は、直後に亡くなっている。 以降の史料が無く、実家なども不明である。  次の相手は比企朝宗(tomomune)の娘姫ノ前(himenomae)で、これまた女官であった。  この女性がなかなかの美女で、義時が二年にわたって艶書を送ったが、なびく気配は無かったらしい。  これを見た頼朝が仲介に立って、 「生涯、離別を致すべからず」 という起請文を義時にかかせた上で、二人を結婚させたと云う。  義時30歳。
そして建久四年(1193)に次男朝時(tomotoki)、翌年に三男重時(sigetoki)が生まれる。それぞれ、名越流、極楽寺流の初代となる。
しかし頼朝の死の前後の頃から、北条氏と比企氏との間に対立が生じ、この間の姫ノ前の消息が全く判らない。  次に義時の妾になっていた伊佐朝政(tomomasa)の娘が、四男有時を生んだ伊具流である。
元久二年(1205)、伊賀朝光(tomomitu)の娘伊賀ノ方(iganokata)が、五男・政村(masamura)を生み、次に六男実泰(saneyasu)が生まれる。 それぞれ、常盤流・金沢流を称す。  その他の系図によっては何名かの男子の名がみえるが判然としない。

女性運に恵まれたとは言い難い義時だが、子息には恵まれたといってよいだろう。 嫡男・泰時は執権政治の確立者であり、次男朝時・三男重時なども、出色の人物だったようだ。

*泉親衛の乱

小事件が起きた。   甘縄の千葉館に投じていた僧・阿静房安念(ajiyoubou・annen)を千葉介成胤(sigetane)が捕えて義時の許に突き出したのが、事の発端だ。
安念の白状で、事件が判明した。信濃の住人・泉親衛(tikahira)ら130人もの武士が、前将軍頼家の遺児千手丸の将軍擁立を図っていたのである。 安念は与党の一人青栗七郎の弟である千葉介成胤を味方に引き入れようと試みたが失敗したようだ。
陰謀が判明すると、幕府の追捕の手は早かった。  すぐに諸国に早馬が飛び、各地で与党の面々が捕えられ鎌倉に送られた。
信濃・上野の武士が多く、木曾の残党が中心だったようだ。 
      次回に続く

丁酉・壬寅・乙卯
スポンサーサイト




鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.24(16:40) 31

**幕府内部の対立

*比企能員(hiki・yosikazu)

それから、三年位は平穏な時が過ぎた。  しかし時政にとっての敵が次第に力を増し、その地位を脅かし始めたのです。 武蔵比企郡の大豪族比企能員(hiki・yosikazu)である。
頼朝生存中は、時政はその岳父という事で、鎌倉殿御外戚だった。  そして今、その地位に比企能員が付いたのである。つまり、能員の娘若狭局(wakasanotubone)は、すでに頼家の一子一幡丸(itimanmaru)を生んでいた。
源頼家嫡子・一幡丸袖塚 (鎌倉市・大町 日蓮宗妙本寺境内)
一幡君・袖塚
比企氏一族・・墓所 (鎌倉市・大町  日蓮宗・妙本寺墓所)
比企一族・墓所

この間、時政は着々と手を討った。 子の北条時房(義時の弟)を、頼家の近習の中に送り込こんだ。
また、嫡孫北条泰時(yasutoki)を三浦義村の娘と結婚させたのもそれだ、三浦半島に精鋭を擁する三浦党と、手をむすんだのである。直後に、三浦義村が土佐国守護に任じられたのは、時政からの引き出物だったのでしょうか・・・・・。

頼家の側でも時政の陰謀に気づかないでもなかった。 しかし情報が正確でなかったようで、時政は頼家を廃立して、かわりに阿野全成(zenjiyou)(頼朝・異母弟)の擁立を画策してると、誤解したようである。
何れにしても頼家は、先手を打った。 建仁三年(1203)5月、突然、阿野全成を召し取り、翌日には殺害したのです。  頼家としては、これで陰謀を粉砕出来たと思ったかも知れません。
しかし、時政が頼家の代わりに考えていたのは、全成ではなかった。 弟の千幡丸(実朝)だったのだから、全成を殺されても影響は全くなかった。 時政は好機の到来を待ったのです。
同年九月、比企氏の乱が起こります。(時政の待ったのはこれです)  比企氏の乱は、比企能員が北条時政に招かれて名越邸(nagoetei)で暗殺された後、北条氏が小御所(一幡の御所)に籠る比企氏を攻め滅ぼした事件をいいます。幕府の記録 「吾妻鑑」は北条政子が比企氏の謀反を宣言して討伐したと記録されている。一方天台座主慈円の歴史書 「愚管抄」 は時政が私兵を率いて攻め滅ぼしたと記録しています。
比企氏を滅ぼした軍勢を反乱鎮圧と見るかクーデターと見るかでは、解釈が全く違います。  何れにしても、比企氏の乱で支持勢力を解体された頼家は出家に追い込まれ、源家将軍主導の政治体制は終わった。次回に続く

丁酉・壬寅・辛亥

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.20(10:17) 30

**幕府内部の対立

*御家人の反感

いずれにしても急速に成りあがった北条氏に対して、一般御家人の反感は小さいものではなかった。 とにかく御家人たちの反感は無視できぬまでなっていた・・・・・・・・。

鎌倉幕府は日本最初の武家政権だと、よく言われます。  確かに東国武士が一致して平氏と戦い樹立したものだが、内実はそれほど簡単ではない。
源平合戦を戦って幕府を樹立するには、東国武士は大きく貢献した。しかし彼らには、法律を作ったり文書を作成したりする能力は、全く欠けていた。  ですから大江広元、三善善信、大中臣秋家など、下級の貴族たちが京都から下向してきたのです。  京都では下級であったから、かえって実務は練達していた。

成立したばかりの幕府には、東国武士と京下貴族とが混在する集団であった。  また時政を中心とする伊豆武士団と三浦党中心の相模武士団の間にもすでに隠微な対立があった。 そのほかにも、様々な対立があったに違いない。
しかし、頼朝がいる間は、その存在が大きな重石となって、御家人間の対立が表面化することはなかった。  正治二年(1199)正月、その頼朝が死亡したのです。  二代目を継いだ頼家(yoriie)は、育ちが良すぎて、重石の役など果たせるわけがなかった。

頼朝は頼家の後見に梶原景時・比企能員を据えたので、北条氏は頼家政権に対して存亡をかけた権力闘争を仕掛ける必要がありました。将軍・頼家の周囲は梶原景時・比企能員・小笠原長経(nagatune)・糟屋有季(aritosi)と云った腹心たちで固められた。 北条氏では時政の末子時房(tokifusa)が側近に加わるのみでした。  本流から外された北条氏は、頼家の弟千幡(後の実朝)の擁立を目指して反主流派を形成し、頼家政権から外された三浦義村・結城朝光・足立景盛(kagemori)・平賀朝雅(tomomasa)と云った幕府草創に尽くした重臣を味方につけた。

果たして、鎌倉は騒がしくなった。最初の標的は意外にも二代将軍頼家であった。  頼朝の専制的支配には黙って服従してきた御家人たちが、13人の宿老会議を組織して、頼家の権力の一部を取り上げたのです。  (13人宿老メンバーは以前既述したのでここでは省略する)

注目すべきは、北条時政・義時父子が含まれていることです。 因みに時政は、かつて京都守護を任じてからは、今まで幕府の要職に就任したことがありませんでした。 それが今度は幕府の役職に初めて就任したのです。
鎌倉での波乱の第二弾は、頼家の側からの反撃でした。  頼朝の流人時代からの近侍安達一族を、頼家が追討しようとしたが、母の政子が体を張って諌めたので、事は未然に終わった。

*梶原景時

当時、侍所次官に任じていた景時は、頼朝の信頼が厚かったが、頼朝が没した後、他の御家人たちからの弾劾状が大江広元を通じて頼家に提出された、御家人66名のなかに、北条父子の名は無かった。
頼家に諮問された景時は、一言の抗弁もせず退出し、暫く相模一之宮の所領に引退したが、翌年正月、一族を率いて上洛するところを、駿河清見ヶ原で討手に捕われて続滅したと「吾妻鑑」には書かれています。
梶原景時公没800年忌供養塔(鎌倉市・梶原御霊神社)
梶原景時・供養塔
梶原景時を祀る・御霊神社  (鎌倉市・梶原)
梶原・御霊神社


しかし、京都の公卿九条兼実(kanezane)の 「玉葉」 には、全く違うことが記されています。 御家人の間に頼家を倒して弟千幡丸(実朝)の擁立を図る陰謀があり、これを察知した景時が頼家に報告したが信用されず、逆に鎌倉を追放されて続滅したと云うのである。
「吾妻鑑」・「玉葉」と、いづれが真実なのか、・・・何れにしても13人の宿老会議、安達氏追悼事件、そして梶原事件に共通していることは、頼家と御家人の間に対立が有ったことが見てとれます。
この対立を利用して裏で暗躍したのが、時政であったと考えています。 それは、やがて頼家を伊豆修善寺に追放して千幡丸を三代将軍に擁立したのは、まさに時政であった。

*時政の台頭

鎌倉幕府には、椀飯という風習があった。 (詳細は以前記述した)
正治二年(1200)の元旦の椀飯役を勤めたのは、時政だった。 つまりは頼朝生存中は鎌倉殿御外戚という事で、一般御家人の例外にあった時政が、頼朝が死亡したことで御家人の列に落ちたが、それでも御家人の中でのナンバーワンの位置を与えられたという事である。
同時に、時政は遠江守(toutouminokami)に任じられた。 これは准門葉(jiyunmonyou)に叙せられたのです。  時政の外孫・頼家は、時政を一般御家人とは別格の鎌倉殿御外戚という立場から引きずりおろしたが、生母政子の思惑を考慮に入れてか、一般御家人中でのナンバーワンで准門葉という地位を与えたという事でしょう。
しかし、頼家と対立した御家人たちの最先峰となっていたのが時政だったのである。 次回に続く 

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.16(18:11) 29

**鎌倉北条氏の草創

*北条氏・分裂?

頼朝は、時政を舅殿として上席に置いたが、重く用いませんでした。  一方、頼朝と政子はオシドリ夫婦の親密さがあり、 義時は 「家子専一」(ienokoseniti) と評される腹心の筆頭でした。

北条氏が全面的に信用できない状況にある為、 頼朝は嫡子頼家の乳母夫(menoto)や後見と云った重要な役割を乳母比企尼(hikini)の一族と縁者に託すことになるのです。

日蓮宗・妙本寺祖師堂  鎌倉幕府御家人・比企能員邸跡(二天門より)
妙本寺・祖始堂

*北条氏勢力の伸長

分裂したかに見えた北条氏であったが、時政は鎌倉に戻っていた。しかし、この時期の時政の政治的な基盤は、鎌倉殿御外戚と云う立場だけでした。  その立場は、時政に与党拡大の好機を与えたらしい・・・・・・。
下野国の足利義兼(yosikane)・武蔵国の畠山重忠(sigetada)・下野国の宇都宮頼綱(yorituna)など、名だたる東国の大豪族たちが、この前後に、時政の娘と結婚していたのです。  これに対して義時は、頼朝に近侍する事に徹していたようだ。 「義時は穏便の者なり」 と頼朝に信頼されていたのです。
因みに義時は、この時期、伊豆江間郷(伊豆長岡町江間)を領して、江間小四郎と名乗っていた様だ、時政の先妻の子でしたので、後妻の牧の方を憚って、別家独立することとになっていたのかもしれない。  時政の子女たちも先妻系と後妻系との別があり、ゆるい対抗関係があった様だ。

*平氏滅亡

寿永二年(1183)、に入ると、事態は急速に動き出した。  野木宮(nogimiya)合戦、倶利伽羅峠(kurikaratouge)の合戦、平氏の都落ち、木曾義仲の入京と続き、元暦元年(1184)木曾義仲の敗死、一の谷合戦、そして文治元年(1185)には屋島・壇ノ浦と合戦が続き、平氏は西海に滅亡した。
この間、時政は戦場に立つ事は無かった。  しかし義時は源範頼(noriyori)(頼朝・弟)に従って西海に赴き、筑前国芦屋浦での敵前上陸で戦功をあげ、頼朝から感状を受けている。
頼朝・腰掛石  (湯河原町・城願寺境内)
伝・頼朝腰掛石

この後、義経・行家(yukiie)の叛逆事件が起きると、時政の出番だった。  外交折衝の才能を買われて初代の京都守護に任じられると、千騎の兵を率いて上洛した。
京都に着いた時政はたちまちその才能を発揮した。 直ちに義経・行家追討の院宣を後白河上皇に要求した。 さらに全国に守護・地頭を設置することを認めさせ、さらに地頭が反別五升の兵糧米を得ることまで、許可させたのです。

続いて朝廷にいた反幕的公暁の解任、代わって親幕的な公卿の登用、すでに頼朝が獲得していた関東御分国八か国に加えて豊後国を加える等、鮮やかな活躍でした。  もちろん頼朝の指示・協力があってのことだが、これだけ朝廷から引き出しておきながら、朝廷から憎まれなかったという、まさに時政らしい・・・・・。 京都での任を果たして下向しようとしたとき、公卿たちがそれを惜しんだという。
しかし、抜群の功を挙げて帰った時政に、何らの恩賞も与えられなかった。 幕府の要職にも登用されなかった。 因みに頼朝は、清和源氏の血統で主だった者には、関東御分国のうちの国の国司に任じ、これを御門葉(gomonyou)と称して、源姓呼称を許した。

**御門葉**

〇 源 範頼 (noriyori)  (三河守)
〇 大内惟義(koreyosi)  (相模守)
〇 山名義範(yosinori)  (伊豆守)
〇 伏見広剛(hirotuna)  (駿河守)
〇 足利義兼(yosikane)  (上総介)
〇 平賀義信(yosinobu)  (武蔵守)
〇 安田義定(yosisada)  (越後守)
〇 加賀美遠光(enkou)   (信濃守)

**准門葉**

〇 毛呂季光(tisimtu)   (豊後守)
〇 結城朝光〈tomomitu〉 (上野介)
〇 一条能保〈kazuyasu) (隠岐守)
〇 大江広元        (因幡介)
〇 下河辺行平      ( ?  )
幕閣の要人たちが相当の地位を頼朝から拝領していた時、一人時政だけは、それに漏れている、陰謀家で野心家である事を、警戒されていたのであろう。  次回に続く

丁酉・壬寅・癸卯

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.12(17:10) 28

**鎌倉北条氏の草創

*安房上陸・軍勢の再興

頼朝一行は安房国猟島〈riyousima〉(鋸南町竜島)に上陸した。  先着した時政たちが、一行を出迎えた。  先に本拠の衣笠城(横須賀市・衣笠町)を攻め落とされていた三浦党も出迎えの中にあった。 挙兵当初から期待されていた三浦党との合流が、やっと果たされたのである。 これを機に、頼朝の軍の再興が始まったのです。

半月が経ち、ようやく軍勢の再編が成った。  上総権介広常(hirotune)や畠山重忠(sigetada)の参戦で、東国の主だった武将が相次いで参戦を表明したからだ。 頼朝は本軍を率いて房総半島西岸を北上し、兵を糾合しつつ武蔵・相模鎌倉を経て、京都から攻め下ってくる平氏勢を、駿河国で迎撃するためだ。・・・・・

頼朝本軍の安房出撃に先立って、時政・義時父子は甲斐国に向かった。 甲斐源氏武田党を説いて、駿河国で予定される平氏との合戦に参加させるのが、父子に与えられた使命だった。 その合戦(富士河)では、武田党が、源氏軍の主力でした。使者としての責任を時政は充分に果たしたのです。 この時、時政は外交折衝に優れた才能があることを頼朝に認められたのです。

頼朝は富士河の合戦に大勝した後、武田信義(nobuyosi)が駿河を、同じく武田党の安田義定(yosisada)が遠江(toutoumi)をそれぞれ占拠するのを黙認した。そして背後の常陸・佐竹党を退け、11月には鎌倉に再入部ています。

*時政の位置

この間、富士河の合戦には、もちろん時政も参加していた。  しかし前線に出た形跡はない。 さらに佐竹攻めには参加せず、鎌倉に留まっていたようだ。  とにかく時政は兵力が乏しかったようで、富士河以降5年間の平氏との合戦に一度も参戦していない。
鎌倉北条氏・系図
DSCN2480.jpg
〇数字は歴代・執権      不鮮明はご諒承ください、手造りの系図です。

常陸・佐竹の討伐以降、鎌倉では建築ブームであった。 頼朝の御家人となった武士たちが、それぞれ館の建築を始めたのです。
舅時政が自館と定めたのは、三浦道の中央、釈迦堂ヶ谷(siyakadougayatu)と呼ばれる谷の上部だった。  きわめて用心堅固な造りだったようだ。  何よりも重要なのは、地理上の位置でした。 三浦党の長兄・杉本義宗(yosimune)は、杉本寺の裏山に城を築き、今は三浦党の鎌倉での牙城となっている。  三浦半島と城を結ぶのが三浦道で、時政館はその中央に位置していたのだ。

北条時政は頼朝の義父と云う事から、山木攻め以来の行動の数々が重なって、いつの間にか伊豆武士団の棟梁的立場と成っていたようだ。
そして今、頼朝が鎌倉に本拠を置くや、時政をはじめとして伊豆武士団の武将たちが、鎌倉に館を持つ様になった。 これに対抗したのが、相模武士団の棟梁・三浦義澄(yosizumi)です。

戦略的な意味を持つ時政の 「名越邸」 に対して、義時の 「小町亭」 には、その様な意味はなかった。 頼朝の 「大倉御所」 に近接しているというだけが、目立つ程度である。(現在の宝戒寺の地)
この間、源平の戦は、膠着状態となっていた。 西国は凶作で兵糧米が足りない状況にあり、平氏は兵を送り出せなかった。一方東国源氏は、武都鎌倉の建設で多忙であった。

*亀の前

このような時期に、あの有名な事件が起きた。   寿永元年(1182)、11月時政の後妻牧の方が、先妻の娘政子に、そっと囁いた。  

「頼朝殿、良橋太郎入道の息女、亀の前を寵愛して、伏見広綱殿の飯島邸に預け居れり」     

頼朝が浮気していることを、密告したのです。 怒ったのは政子で、ただちに牧野方の父大岡宗親(munetika)を呼んで、広綱の飯島邸を襲わせたのです。 亀の前は危うく広綱に助け出され、三浦党の大多和義久の鐙摺亭(abuzuritei)に逃げ込んだのです。

今度は頼朝が怒る番だ。 自分に非があるので政子に怒りを返すわけにはいかず、大多和義久の鐙摺亭に大岡宗親を召し出すと、宗親の髻を切り捨てたのです。・・・・・これに反発したのは時政だ、自分の後妻の父・大岡宗親が髪を切られては・・・・・。
時政は直ちに名越亭をかたずけて、伊豆に引き上げてしまったのです。


頼朝の愛妻亀の前を巡る問題で、北条時政が頼朝と喧嘩別れして伊豆国に引き上げてしまう政治的スキャンダルに発展した。 頼朝側から見て、北条氏はこの時に頼朝の側を離れなかった政子・義時と伊豆に帰った時政・牧方(時政正室)の二つのグループに分かれたと見てよいだろう。 頼朝が信頼を置いたのは、前者のみです。次回に続く

丁酉・壬寅・己亥

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.06(15:53) 26


**鎌倉北条氏の草創

*流人頼朝

平治の乱の直後、頼朝は14歳で伊豆国に流された。  以降十余年間は、ほぼ読経三昧の日々だったらしい。 
しかし二十代も末になってきた頃、流人の頼朝にも変化が生じ、伊豆国久須美荘の領主伊東祐親(suketika)の三女、八重と恋仲になったのである。   八重の兄・伊東祐清(sukekiyo)が、二人の間を取り持ったらしい。・・・・祐清は頼朝の乳母 比企尼(hikinoama)の女婿で、義母比企尼の命で頼朝に近侍していたのです。
頼朝の子・千鶴丸が生まれて間もなく、八重の父・伊東祐親が京都大番から帰郷したのである。  まだ平氏全盛の時代である、平氏の聞こえを憚った祐親は、千鶴丸を狩野川に沈め、八重はは伊豆江間郷の江間小四郎の許に嫁に出してしまう。 そして祐親は、頼朝を殺そうとまで考えていたようだ。
そのような頼朝は、伊豆西岸寄りの北条時政館に逃げ込んだ。 時政自身は在京中で、頼朝が頼りにしたのは、時政の嫡男宗時(munetoki)だった考えられる。    (吾妻鑑)

江間小四郎・・・・・・北条時政三男・・北条義時(伊豆時代に江間姓を名乗る説がある。)…三代執権泰時も?

時政館で傷心の日々を送る頼朝の前に現れたのは、時政の長女北条政子です。  治承元年に(1177)に頼朝31歳、政子21歳で結婚・・・やがて一の姫が生まれた。 薄幸の姫、大姫の誕生である。   大姫の誕生という事になれば、狭い伊豆国の事である。 たちまち噂は広まり、在京中の時政の耳にも入ったらしい。まだまだ平氏全盛の時代だ、先の伊東祐親と同様、時政も平氏の聞こえを憚り、・・・二人の間を割いて政子を館内に閉じ込めたという。この時政子は、まさに政子らしさを発揮、時政館を抜け出して、頼朝の許に奔ったのである。 後年、政子自身が、次のように語っている。

「君、流人として豆州におわす頃、吾に芳契(houkei)ありといえども、北条殿(時政)、時宣を怖れ潜かに引き籠められる。 しかるに、なおも君に和順して、暗夜に迷い深雨を凌ぎ、君の所にいたる。」

平安公卿の姫君にはない強さが、東国武士の娘政子にはあった。 この政子の強さが時政を押しまくり、ついに二人の結婚を時政に認めさせてしまったのです。

鎌倉時代後期・墓所(やぐら群)・・・まんだら堂やぐら群(神奈川県・逗子市)
DSCN2286.jpg
DSCN2292.jpg


安元元年(1175)、の頃は平氏の全盛には一点の翳りもなかった。しかし治承元年(1177)、6月には鹿ケ谷(sisigatani)の変があり、すでに反平氏の動きが始まっていた。  もともと東海道沿いの国府近くにいた時政である、京都政界の様相にも詳しかったと思われます。  そして最近の上京で、自ら京都の様子は見聞してきたばかりだ。  いわば娘政子の結婚事件を契機として、秘かに頼朝に一身をかける決心をしたのかもしれない。
鎌倉北条氏興隆の端緒となる頼朝・政子の運命の芳契には、その基礎に時政の野望が秘められていたのかもしれない。

*山木館夜討ち

頼朝の挙兵は、治承四年(1180)8月17日子の刻(午前零時)山木兼隆(kanetaka)館の夜討ちだった。
五月に以仁王(motihitoou)、源頼政(yorimasa)、伊豆守仲綱(nakatuna)らが宇治川で戦死した直後、平時忠が知行国主となった伊豆国で、兼隆は目代に登用されていた。
この時頼朝は、時政館に留まっていた。  北条一族の惣領や在庁官人の工藤茂光(motimitu)を差し置いて、時政が山木攻めの指揮を執ったという。 頼朝の義父と云う立場が、尊重された様だ。 次回に続く

丁酉・壬寅・癸巳

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.04(21:29) 27


**鎌倉北条氏の草創

*(続)山木館夜討ち

山木攻めに際して、頼朝と時政の間に亀裂があることが、早くも露呈した。 それまでの作戦では大道の牛鍬大路(usiikuwa・ooji)を攻めることになっていたが、突然、時政が 「牛鍬大路は、往来が多く目立つので、蛭島路を通るべし」 と提案したのである。 当然、主導権を握ろうとしての発言であった。  これに対して頼朝はすぐに反発 「今夜の一挙は、失敗は許されない、閑路は通らない、ただ大道を攻める」 これで、事は決した。  時政の主導権獲得の意図は一蹴されたのある。
頼朝挙兵の第一戦、山木攻めは、どうにか勝利に終わった。 しかし挙兵から三日たっても、頼みの相模三浦党は、到着が遅れている。  頼朝は伊豆国を出て、相模国に向かった。三浦党との合流を図るためだ。

*石橋山

酒匂川の対岸まで三浦党は進んだが、台風の為渡岸出来ずにいた。  頼朝軍は部将47人で総勢300騎、対する平氏側の大庭景親(kagetika)は3000騎、さらに追尾してきた伊藤祐親勢300騎からの挟撃に遭い、奮戦したが完敗である。
石橋山(小田原市・石橋)で完敗した頼朝は、背後の山に逃げ込み、大庭勢の追跡を避け4,5日間・・・・・、場所が土肥実平(sanehira)の所領内だったので、実平が主導権をにぎり匿ったり、 実平の妻が秘かに弁当などを届けて世話をしている。
頼朝の箱根山行をサポートした地元武士・土肥実平菩提寺・城願寺 (神奈川県・湯ヶ原町)
城願寺・本堂

この間、時政の長男三郎宗時は、時政・四朗義時とは別行動をしていた。 いずれか一方が生き残るため、危機の分散を図ったと思われる。そして宗時は、平井郷(静岡県・函南町平井)のあたりで、伊東祐親勢に討ち取られている。   そして、時政と次男小四郎義時とは、湯坂峠を経て甲斐国をめざし、甲斐源氏・武田党を頼った。
やがて大庭景親は、頼朝追跡をあきらめて、相模三浦半島に向かった。  頼朝に呼応した三浦党を攻撃するためだ。

*安房国へ

大庭勢が立ち去ると、頼朝たちも箱根山中から出た。  一方時政・義時親子たちは土肥郷岩の浦(真名鶴町・岩)で乗船して海路安房国を目指した。  頼朝一行も土肥郷真鶴崎で乗船して海路・安房を目指したが、その翌日の事だったようだ。 この説話は 「七騎落ち」 とされ城願寺境内に七人の武将像を安置したお堂が建立されている。

*七騎武将・・・・・安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・源頼朝・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱    の7名

湯ヶ原町・城願寺  七騎堂  (神奈川県・湯ヶ原町)
DSCN1084.jpg

頼朝一行と時政たちとは、完全に別行動だった。  乗船地も別なら、乗船した日も別だったのである。   先に時政の長男宗時と次男義時との別行動を、危機の分散と解釈したが、頼朝一行と時政たちとの別行動も、やはり分散を図ったのだろうか?・・。 次回に続く

丁酉・壬寅・丁酉


鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


再興と没落 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.02(10:27) 25

**鎌倉北条氏の草創

*伊豆国・北条

鎌倉幕府を主導した執権北条氏は、北条介を通称とした伊豆国在庁官人の家を継承することで成立した。  北条氏の本拠地は、静岡県伊豆の国市寺家(条里制・北条)にある守山中世史跡群のひとつ、史跡北条氏邸跡がその場所と考えられています。
この遺跡は12世紀中期から使われた痕跡があり、仮に1150年(久安六年)の建設とすると、北条時政は13歳、北条政子は誕生の7年前のなる。  そのため、北条氏がこの土地に進出したのは、時政の祖父或は父ともいわれる時家(tokiie)(北条)の時代と考えられている。  この館跡は狩野川東岸にあり、洪水被害を想定した位置だと考えられている。伊豆国府の置かれた三島から南側に延びた下田街道沿いに10㌔ほどの距離ににあり街道と河岸に睨みを利かせた交通の要地であった。
伊豆国在庁北条介の婿として下ってきた時家が、本拠地を構えるには好適な場所であったという事が出来る。

北条氏の先祖については「吾妻鑑」等に記された上総介平直方(taira・naokata)の子孫とする説と、「平家物語」が伝える平維衛の子孫時家が伊豆国在庁北条介の娘婿となって伊豆国に入ったという説がある。   平直方は、鎌倉に拠点を構え平忠常の乱鎮圧に努めたが、忠常の降伏を認めず滅ぼそうとしたために更迭された剛直な武人です。 後任の源頼信(yorinobu)は忠常の降伏を認め鎮圧の名声を得ましたが、直方の娘を嫡子・頼義の正室に迎える気配りを見せている。 二人の間に誕生した嫡孫義家(八幡太郎)が直方から譲られた鎌倉館が、奥州12年合戦(前九年・後三年の役)で河内源氏の拠点となるのです。

河内源氏・鎌倉館跡・・・現・鎌倉五山第三位  臨済宗建長寺派・寿福寺参道   (鎌倉市・扇ヶ谷)
寿福寺・参道

「吾妻鑑」や鎌倉中期以降に成立した北条系図は、源氏と鎌倉の関係をここに求めていますが、直方(naokata)から時政に至る歴代が明確でない事、傍証がない処に問題があります。一方、平惟衛の末流である時家が伊豆国在庁北条介の娘婿になったと伝えます。この系譜は、北条氏の先祖を伊勢や大和の周辺で勢力を蓄えた伊勢平氏の庶流と説きます。  平時家に関する近年の研究は、大和源氏との婚姻関係が見えることから、鎌倉中期以降に見られるようになった北条氏の系図が伝承したと考えられる。 北条時家の伊豆国下向の時期と、史跡北条氏邸跡の使用が始まった時期がほぼ重なる事も、後者の可能性が高い。

*頼朝と北条氏

北条氏は、北条政子が頼朝の夫人となった事によって、鎌倉幕府の中で将軍家の家族という格付を得ました。 平治の乱で罪人となった頼朝はの不幸中の幸いは、伊豆国が源頼政(yorimasa)の知行国だったことです。頼政は武家源氏の棟梁を自認していましたし、伊豆国国衙の有力在庁・工藤介茂光(motimitu)も頼政の家人なので、流人頼朝の行動に寛容な態度を示した。 頼朝を監視する立場に立った伊東氏や北条氏も、頼政と工藤介の意向考えれば、頼朝を粗略には出来ませんでした。
北条時政が平氏の内裏大番役の為二上洛して京都の情勢を見聞し、「時勢を怖れ」頼朝と雅子の婚姻に反対したのは、平氏一門が後白河院政との厳しい情勢にあった治承元年(1176)、頃と考える。
治承四年(1180)5月に以仁王と源頼政が挙兵に失敗して討ち死にした後、平氏政権は源頼政(yorimasa)の孫有綱(arituna)を捕えるために大庭景親(kagetika)を相模に戻しています。 頼朝と時政は、以仁王令旨を受け取っていた事から、謀反人与党と見なされて討たれることを怖れ、挙兵に踏み切ったとされる。

しかし、平氏政権は、20年も前に伊豆国に流罪とした頼朝の存在など忘れていました。  頼朝の山木館夜襲は完全に虚を突いた奇襲だったので成功したが、父・義朝(yositomo)の勢力圏 相模・武蔵への進出をかけた石橋山合戦(isibasiyamakatusenn)では、態勢を整えた大庭景親(kagetika)・伊東祐親(suketika)の軍勢に挟撃され大敗し、工藤介茂光(sigemitu)や北条宗時(時政嫡男)が戦死するなど大きな痛手を受けてしまった。
石橋山で敗れた頼朝を房総に導いた土肥一族墓所  (神奈川・湯河原町・城願寺)
土肥一族・墓所

 頼朝は房総半島に渡って三浦氏や千葉氏を中核に勢力を盛り返し、上総介広常や畠山重忠(sigetada)が参加した事で坂東の大勢を決した後、10月には鎌倉入りし、鎌倉を本拠地と定めます。 

ここまでは鎌倉入りするまでの概略ですが、北条氏が頼朝の鎌倉幕府成立にどの様に係ったのか 「伊豆国・北条」 の時代から検証・レポートします。  (長くなりそうです、気長にお付き合い願います)    

次回に続く    

丁酉・壬寅・己丑          

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
2017年01月
  1. 鎌倉北条氏(01/28)
  2. 鎌倉北条氏(01/24)
  3. 鎌倉北条氏(01/20)
  4. 鎌倉北条氏(01/16)
  5. 鎌倉北条氏(01/12)
  6. 鎌倉北条氏(01/06)
  7. 鎌倉北条氏(01/04)
  8. 鎌倉北条氏(01/02)