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鎌倉北条氏

2017.02.25(07:21) 39

**幕政改革

*嫡孫経時・時頼

泰時、嫡男時氏の早世によって、執権・泰時の後継は孫の経時(tunetoki)に引き継がれた。
泰時の孫、男子三人は時氏夫人・松下禅尼(安達景盛・娘)によって育てられ、 賢夫人として名の高い婦人に育てられたのだから、経時・時頼・為時の男子・三兄弟は立派に育っていた。 しかし祖父泰時の目には、嫡孫経時(tunetoki)は心許なく感じられていたらしい。  この経時に比して次弟時頼は、泰時のお気に入りだったようだ。  

泰時が政治家として多くの仁政を行ったことは、よく知られています。 「寛喜の大飢饉」 の際には、御家人たちに贅沢を禁じ、自分が守護を兼任していた伊豆・駿河の両国では、非常時米の放出賑給を行った。
貞永元年、勧進阿闍梨往阿弥(ouami)が鎌倉東海岸に和賀江島(wagaejima)の築港の許可を申請したとき、許可を与えた上にその事業に多大な後援を与え、物資流通の拡大を図った。

更に、鎌倉東北隅の朝夷奈口を拡幅して弟・実泰の武蔵六浦荘と結び、西北隅の小袋坂口を整備して山内荘との交通をスムースにした。 鎌倉への物資の流れを円滑にするという向きもありますが、泰時の狙いは 「いざ鎌倉」 というときに備えての軍事的な道路の整備だったと考えています。

又、泰時の政治で特徴的だったのは、京都朝廷に対する不干渉であった。  承久の乱の勝利者だったのだから、武力を背景にして圧力をかけて幕権の伸張を図ることもできたはずだが、泰時はそれをしなかった。

嘉禎二年(1236)、12月 執権・北条泰時が若宮大路新御所の北隣に自邸を新造して移る。 この泰時の鎌倉邸は横大路と若宮大路とを二辺とする地にあり鶴岡八幡宮の門前に位置していた者と思われます。  周辺には多くの御家人らが家屋を構えたという。
鎌倉幕府最後の御所 「若宮大路幕府御所」 (鎌倉市・小町)
若宮大路
大蔵御所の後11年間幕府が置かれた宇都宮辻子御所跡
宇都宮辻

仁治元年(1240)正月、連署の北条時房没すると、以降泰時は連署を置く事は無かった。  泰時の自信のほどを窺うことが出来ます。

*泰時の死

しかし同年三月、泰時自身も身罷った。  法名観阿(kana) 60歳   かつて頼朝の死を書かなかった 「吾妻鑑」 は、この時も泰時の死をは書かなかった。  京都在住の平 経高(tunetaka)の 「平戸記」 (heikoki)によると、五日ほど前から発作を起こしており、死の当日にはかなりの高熱を発し、何人も寄せ付けず。辛苦悩乱して、そのまま絶えたと記されている。・・・・・・
直後、京都では泰時の死は後鳥羽上皇の怨霊云々という事が、公家たちの間で囁かれたそうだ。 そして鎌倉でも、死に臨んで出家した泰時に殉じて、御家人たち50人ほどが出家した。 名越朝時だけは出家せずにいたそうです。  事情は判然としないが、泰時の死の前後、名越流北条氏をめぐって、何事か、「吾妻鑑」も書かなかった事実が隠されている。
泰時の墓は粟船御堂、今の常楽寺にある。  次回に続く

丁酉・癸卯・癸未
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鎌倉北条氏

2017.02.21(08:15) 38

**長期安定政権へ

*貞永式目の制定

大きな後ろ盾二人をを失った泰時が、 叔父時房に援助を求めた感があるのが、執権複数制である。 六波羅探題南方だった時房を鎌倉に呼んで、連署にしたのです。

同じころ、将軍御所の移転という事が幕閣で問題になっていた。  大蔵御所は三度火災に遭い、三度再建されたものだが、大分手狭になっていた様だ。
頼朝の頃からの宿将は多く死んで、今は二代目、三代目に代替りしています。 さらに鎌倉自体が武家の都として、大きく発展しています。  その様な事情やら目的が絡んで、まず御所の移転が検討された。場所は若宮大路に面した宇都宮辻子(utunomiyazusi)です。

嘉禄元年(1225)12月、新築なった新御所に、将軍頼経(yoritune)が引き移った。  儀式は略儀ではあったが、陰陽道など成すべきことは全てなされた。
その翌日には、新御所で重大な会議が開かれ、泰時が幕閣の重臣11人を評定衆に指名して、史上初めての評定衆会議を開いた。 11名の詳細は以前既述したしたので省略します。

さきに叔父時房を連署にして両執権という双頭政治を開いた泰時が、重要幕政に合議制を取り入れると同時に、重臣たちの協力が得られるような体制にしたのである。  それからの数年間、鎌倉は平穏でした。 巷の重要な処に石塔が建てられたのも、此の頃だったかも知れない。 「塔の辻」と呼ばれる。

推定される「塔の辻」は次のようになる。

〇 東北隅は、横大路に小町大路と西御門小路とが交差する筋替橋の橋詰。
〇 東南隅は、小町大路と東大路とが交差する本八幡か、荒居閻魔堂の前。
〇 西南隅は、長谷大路と武蔵大路とが交差する六地蔵の前。
〇 西北隅は、武蔵大路に横大路とが交差する寿福寺門前。
その後、鎌倉中の範囲は西方に発展したので 「塔の辻」 も西に移動する、小袋坂道に沿って、建長寺門前、浄智寺門前、円覚寺白鷺池際も、 「塔の辻」 という事になる。


そして貞永元年(1232)8月、泰時の政治に、魂が入った。  「関東御成敗式目五十一ヵ条」 、俗に貞永式目と呼ばれる法律が制定施行されました。 頼朝以来の先例と鎌倉武士社会での道理とが、その骨幹となっている。
こうして泰時の政治は、執権政治として結実した。  先に導入した評定衆制という合議制と、今回制定した貞永式目による法治主義とを二本の柱とした法律に従った政治を目指しました。

一門に対して泰時は、故義時の法名・得宗を持ち出し、幕閣では 「右大将(頼朝)家ノ先例」 を振りかざしている。 一門に対しては家令職の創設と家法の制定、幕閣では評定衆と貞永式目である。

ここに私たちは、泰時の立場が、一門に対しても幕閣においても決して強固なものではなかった事に気が付くのです。 執権泰時の立場が弱かったからこそ、執権政治が確立したのです。
その執権の職に、泰時は十八年間も在職したのです。 その時期(期間)、合戦も陰謀も姿を潜めて、世情は平和だった。


中世鎌倉の遺産 「やぐら」 群、二階堂・覚園寺裏山一帯に177穴が確認できる。
(岩に五輪塔や仏様・梵字等が直接彫り込まれています)

百八やぐら
DSCN2604.jpg

*貞永式目の詳細については別の機会に紹介します。

*泰時の子供たち

泰時は家庭運には恵まれなかったたことが知られています。
建仁二年(1202)八月、頼朝生前の下知に従って、三浦義村の娘と結婚し、翌年には長男時氏(tokiuji)が生まれた。 泰時21歳。 続いて生まれた娘は、のちに足利義氏(yosiuji)室になる。 しかし、結婚後十年位で離婚しています。

建暦二年(1212)、泰時の後妻安保実員(sanekazu)の娘が、次男時実(tokizane)を生んでいる。 安保ノ方が生んだ娘は、三浦泰村(yasumura)(三浦義村・嫡男)に嫁している。  また連署時房の子・大仏流北条朝直(tomonao)室も、泰時の娘だ。

嘉禄三年(1227)6月、事件が起きた。 若者たちが斬り合って、泰時次男・時実(tokizane)が斬られて死亡するという事件だ。 下手人は得宗被官の高橋次郎で、ただちに腰越で斬首された。
*事件後、高橋の周囲に被害が及ばなかった事から、どうやら非は時実側にあったようだ。・・・・

更に大事が起きていた、六波羅探題北方として在京していた嫡男時氏(tokiuji)は、病という事で鎌倉に帰っていたが、二十八歳という若さで死んだのである。
すでに安達景盛(kagemori)の娘を妻にしていた時氏には、経時(tunetoki)、時頼(tokiyori)、時定(tokisada)のほか、四人の娘もあった。 夫時氏に先立たれた安達ノ方は、鎌倉・甘縄の実家に戻って松下禅尼(matusitaozenni)と名乗った。
次回に続く

丁酉・癸卯・己卯

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鎌倉北条氏

2017.02.17(12:30) 37

**長期安定政権へ

*北条氏の分流

この時期の北条一族の男子だけを系図で数えてみると、すでに時政~義時~泰時と代を重ねてきて、30人を超す大家族になっている。 それぞれの館や所領の地名を冠して、全体として分流の傾向が顕著である。

泰時の弟たちからは、名越(nagoe)、極楽寺、亀谷(kamegayatu)、伊具が現れ、その子の代には江間(ema)、金沢(kanezawa)、が生ずる。  叔父時房の系統からは、佐助、大仏(osaragi)、が分流する。      これからさらに阿蘇、赤橋、淡河、尾張、常葉、塩田、桜田、普恩寺、瓜連、東漸寺、分流していくのも、さほど遠い事ではない。

++北条氏・伊具流・・・・・義時の四男・有時の流れ、側室の所生で病弱、家格は低く、幕府要職経験者は少ない。

このように一族分流の傾向が濃くなっていた時、これを全体としてまとめ上げて北条一族として結束させ、三浦、安達、足利などの大豪族たちと力を拮抗させて行くのが、北条氏三代目惣領としての泰時の責務だった。

遺領配分で弟妹たちに多くを与えたのも、政村に厳しい処置をしなかったのも、泰時の立場が弱かったからだし、また泰時がその立場を強化しようとした現れでもあった。
北条泰時公菩提寺・臨済宗建長寺派 常楽寺参道  (鎌倉市・大船)
常楽禅寺

*家令職設置と家法制定

泰時は立場の強化の手始めに、家令職を創設した。伊賀ノ方事件がほぼ終結した元仁元年(1224)、被官の尾藤左近将監景綱(kagetuna)を初代・家令に任じたのです。 因みに北鎌倉の尾藤ヶ谷は、彼の館の地であろう。

++尾藤ヶ谷・・・・・浄智寺門前・横須賀線踏切内を鎌倉方面に入った谷戸付近に比定。

北条氏の家令職は、その後、二代目の平左衛門尉盛綱(morituna)のあと、複数制となり執事と呼ばれるようになると、その筆頭が内管領(naikanrei)という事になる。 鎌倉末期に権力を振るった長崎円喜がこれに中る。

家令職創設に続いて泰時が行ったのは、北条氏の家法の制定だった。  貞永式目より先であったから、これこそ 「日本最初の武家法」 になる筈であったが、残念ながら現存していない。  以降、随時に付け加えられ、やがて御内法令と呼ばれるようになる。

こうして泰時は、家令の創設と家法の制定とによって、北条一門に対する惣領としての権力の強化を図ったのであるが、同時に北条氏の惣領家に宗教的・精神的な権威性を付与する策に、着手していたらしい。
北条氏の惣領を亡父義時の法名である 「得宗」 と呼び、 その系統を 「得宗家」 、その所領を 「得宗領」 と呼んで、北条一門庶氏家と区別することによって、一定の権威性の確立を図ったのです。

鎌倉北条氏ということになれば、 初代は時政になるわけだが、泰時が時政を初代と仰がなかったのは、牧ノ方事件などで時政の名には汚点があると思ったのであろう。  反して義時の名には、輝かしい承久の乱の勝利者というイメージがあり、北条一門はもちろん、一般御家人に至るまで、賞賛の対象にするのに、相応しかったからであろう。

家督を嗣立した直後、一門庶家に強い態度をとれなかった泰時は、当然のことながら執権就任の直後には、幕府御家人に対しても強い態度はとれなかった。

*政子の死

その泰時の立場がさらに弱まったのは、執権就任の翌年の嘉禄元年(1225)、でした。 6月に大江広元が亡くなり、7月に北条政子が死んだのである。  背後から支えていた人物二人を、泰時は同時に失ったのである。   北条政子69歳・・・・・法名・・・安養院如実。 (勝長壽院御堂御所にて火葬)
鎌倉五山第三位・臨済宗建長寺派 壽福寺墓地  北条政子之墓
政子墓・寿福寺
浄土宗・祇園山安養院田代寺  本堂裏手・北条政子供養塔 (毎年ツツジが美しい)左手 の小さい塔
北条政子・供養墓
頼朝の妻として幕府御家人から奉られ、源氏将軍家と北条氏とを密接に結びつけ、ひいては北条氏の幕閣における地位をもたらしただけでなく、幕府の重大事に際しては、しばしば尼将軍として、簾中に聴政した権威ある存在でした。 その政子が死んだのである。             次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.02.13(15:27) 36

**長期安定政権へ

*執権・北条泰時誕生

義時の死の知らせは早馬にて京都に知らせるべく立った。 三日目には京着して、六波羅探題だった嫡男泰時(yasutoki)、弟時房(tokifusa)に次第を通報した。
翌日丑の刻(午前二時)に泰時は京都を出立したが、鎌倉(由比ヶ浜)に着いたのは九日目の羊ノ刻(午後二時)だった。途中、伊豆北条に立ち寄って、若干の兵を伴ったようだ。  由比ヶ浜から鎌倉泰時館までは、徒歩でも30分ほどの距離である。 それでも泰時は、その夜は由比ヶ浜で一泊している。
泰時らが宿泊したと思われる由比ヶ浜・稲瀬川付近 (鎌倉の入り口)
稲瀬川石塔

直後に、京都を立った時房も、由比ヶ浜に到着した。  また下野足利荘から泰時に呼ばれた女婿の足利義氏(yosiuji)も、由比ヶ浜に着いた。ともに若干の兵を率いていた。
翌日、時房・足利義氏と共に鎌倉に入った泰時は、ようやく自館に入った。若宮大路東側北端の泰時館の郭内には、すでに腹心の関実忠(sanetada)、尾藤景綱(kagetuna)の宅があったが、さらに平盛綱(morituna)、安東光成(mitunari)、万年右馬允(umanojiyou)、南条時員(tokikazu)等の郎党も、召し出されていた。

泰時館に入った泰時に尼将軍・北条政子は 「早く家督を継ぎて、執権たるべし」 と命じたが、泰時は時期尚早として大江広元に相談をかけている。 泰時は自分が家督と執権職とを継承することに、かなりのためらいがあったのである。

*伊賀氏ノ変

いずれにしても泰時は、義時後妻伊賀ノ方の陰謀を察知していたのです。 彼女は実家の兄弟伊賀光宗(mitumune)・朝行(tomoyuki)・光重(mitusige)等と図り、所生の子政村(masamura)を北条氏の家督と執権にたて、さらに女婿の一条実雅(sanemasa)を将軍に擁立しようとしたらしい。
その伊賀ノ方が尤も頼みにしたのは、政村の烏帽子親の三浦政村(masamura)の兵だった。

それからの約1か月間、鎌倉中は不気味に鎮まりかえっていた。 伊賀氏三兄弟や政村が西御門の三浦館を訪れたり、岐れ道の故義時館で伊賀ノ方を中心に兄弟が密談したりしており、伊賀光宗館の周辺を武装した兵が徘徊するようなことがあり、緊張感は増していた。
西御門・三浦館付近 (鎌倉市・西御門)
西御門

こうした中、尼種軍・北条政子が介入した。・・・・・深夜、女官一人を伴って三浦館を訪れ、義村を説得して三浦党を陰謀の与党から外したのです。まさに鮮やかでした。   頼みにしていた三浦党に逃げられては、伊賀方も手の出しようが無かった。
三浦館を訪れた政子は、数日後に追いうちの一手をはなった。 三浦義村、小山朝政(tomomasa)、結城朝光(tomomitu)など宿老諸将を泰時館に呼び集め、幼い将軍頼経(yoritune)を抱いて現れるて、泰時の執権就任を認めさせた。
これで、事は決した。それからひと月余りの間、伊賀方の抵抗が続いたが、所詮勝敗は決していた。

やがて将軍に擬せられていた一条実雅は、京都に追却され、次いで越前に配流となり、当所で死亡した。
問題は、北条政村(masamura)の処置でした。  泰時に代わって家督と執権とに擬せられたのですから、処置は厳しいものになる筈であったが、案に相違して咎め無しの処分であった。
三浦義村が政村をかばって 「政村殿、まったく逆心なきか」 と弁護したという。・・・・・いずれにしても、伊賀ノ方事件は終わった。
その事件の結果、いくつかの事が明らかになった。 うちの1点は、頼朝後室の尼将軍・北条政子が、大きな権威となっていたという事、更に重大なのは、泰時の地位が、決して強固ではなかった事です。

時政、義時と続いてきたので、執権職は北条氏の家督が就任するものと、世人も認めるようにはなっていた しかし北条氏の家督が嫡男泰時だとまでは、受け取られてはいなかったのです。 政子に執権就任を命ぜられた時、泰時自身にためらいがあったことは先述したとうりである。

*義時遺領の配分

義時遺領は粗方、兄弟姉妹に配分された、惣領の泰時は殆ど相続しなかった。 不審に思った政子も心配したが、泰時は、泰時なりに計算があった。  遺領配分を弟・妹たちに多くしたのは、弟・妹にゴマをすらねばならなかったほど、泰時の立場が弱かったからだと思われ、その様な配分になったのでしょう・・・。 次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.02.09(16:29) 35

**長期安定政権へ

*承久の乱

承久三年五月、大事件が起きた。  後鳥羽上皇が院宣を発して、全国に討幕を命じたのである。
このことが鎌倉に伝わるや、幕閣は若干動揺したようだ。 専守防衛か、上洛出撃かで意見が分かれたが、大江広元・三善善信(yosinobu)らの意見が採択され、尼将軍・政子が御家人らを集めて熱弁を振るった。 三道からの出撃・上洛と決した。

東海道軍の指揮は、和田合戦で手腕が認められた嫡男泰時と弟時房、 北陸道軍の指揮は次男朝時、東山道軍は武田、結城、小笠原、小山など混成軍だった。
このとき、わずか十八騎で最初に鎌倉を出撃した泰時は、一騎で戻り父義時に尋ねた。 「後鳥羽上皇が、自ら先頭に立っていたら、我らは如何すべきや」 天皇家を敵として戦うことの不安を、口にしたのである。  これに対して義時は、 「その時は、兜を脱ぎ、弦を斬って降伏すべし。 上皇が都におわして軍兵ばかりを差し向けらるれば、最後の一兵になるまでも、戦うべし」 と答えたたという。
鎌倉幕府三代執権・北条泰時公墓 (鎌倉市大船・臨済宗建長寺派・常楽寺)
北条泰時墓

とにかく承久の乱は天皇家を敵とした戦いだった。 しかし、幕府軍は途中で迎撃に出た京方を随所で撃破し、上皇が討幕を命じてから一か月後には、京都に攻め入り勝利した。

*六波羅探題・戦後処理

直後、北条泰時・時房が六波羅探題として、京都に駐在する事になった。  遠く鎌倉の義時からの指示に従って、二人は戦後処理を行う命令を受けた。
後鳥羽上皇は、出家して隠岐に流され土御門(tutimokado)・順徳(jiyuntoku)両上皇もそれぞれ土佐・佐渡に流された。 仲恭天皇(tiyukiyou)は廃され、後堀川(gohorikawa)天皇が即位した。  その父後高倉院(gotakakurain)が院政を布くことになった。

京方に加わった公卿・武士たちの所領は幕府に没収され、御家人たちに恩賞として配分された。  因みに、かつて五年間の源平合戦での平氏没官領は、約500ヵ所余りであったが、30日間のこの戦いで没収された京方与党の所領は3000ヵ所に及ぶ、 東国武将たちの間では、恩賞ブームに沸いたようだ。 しかし義時自身は、一国も自領にはしなかったという。

義時は、実朝暗殺事件の直後、小町館(宝戒寺)を泰時に譲って、自分は大蔵館(岐れ道)に移っている。 これに前後して、子息たちを鎌倉中の要所要所に配置する街造りを実践した。

次男朝時は、かつて祖父・時政の名越館に住んだ。  三浦半島と杉本寺を結ぶ三浦道のほぼ中央(釈迦堂口)に位置する要衝である。  朝時とその系統が名越流(nagoe)を称するのは、この名越館の故です。

鎌倉の西北で隣接する山内荘(yamanouti)(北鎌倉・大船)には、義時・泰時直属の郎党が住んでいた。 次に東北に隣接する六浦荘(mutura)(横浜市・金沢)には、六男・実泰(saneyasu)が住んだ。 後に金沢文庫が成立するので、この系統を金沢流という。
北条泰時の孫になる北条時頼の創建・臨済宗建長寺・山門 (鎌倉五山の第一位の禅寺)(鎌倉市・山之内)
建長寺・山門

こうして和田合戦、承久の乱に勝利して幕府の基礎を築いた義時は、息子たちを要所要所に配置して用心を怠らなかったが、彼の敵は別の所にもいたらしい。・・・・・・・

*北条義時の死

元仁元年(1224)6月、北条氏の地位を鎌倉幕府に強固に据え付けた執権、従四位下前陸奥守北条小四郎平義時は死んだ。六十二歳。

法名を安養寺殿得宗禅門と号すると、「吾妻鑑」 によれば、息を引き取るまで南無阿弥陀仏と唱名し続け、最後は胸の上に両手で外縛印を結んでいたと記している。
死因は、「日頃の脚気の上、霍乱(kakuran),計会す」 とある。   平安・鎌倉時代に多かった脚気は、白米の食べすぎではなく、粗食が原因の蛋白質と脂肪の欠乏であった。  そして霍乱も日射病ではなく、猛烈な腹痛、下痢、嘔吐などを催す急性胃腸炎のことらしい。・・・・
とすれば、「吾妻鑑」に記されたような端然とした往生は、不自然な表現であるが、・・・・。  藤原定家の「明月記」等に義時は、妻伊賀ノ方に殺された様な記述もあるようだ。  次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.02.05(09:30) 34

**長期安定政権へ

*執権・連署

この事件の後、三代将軍実朝の母北条政子と政所の執事北条義時が鎌倉幕府を主導する長期安定政権が成立します。
この政権は、建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛とそれに味方した横山介時兼(tokikane)以下の坂東の御家人たちを滅ぼし、相模・武蔵国で独立勢力として残ろうとした武士たちを一掃した。

鎌倉幕府の首脳部の中で、京都から下ってきた文官・源氏一門・北条氏は諸太夫の社会階層に属し、国守や寮の長官などの官職を任じていた。 侍所別当和田義盛のみ、三浦氏の分家と云う家柄から左衛門尉の官職にとどまっていたので、上総介への推挙を希望しました。これは、侍の身分から諸太夫の身分への昇格を希望したものでしたが、北条政子によって拒否されました。
北条氏と和田氏との間に明確な身分の相違があることを見せつけられた和田義盛が不満を抱いたところに、北条氏は泉親衛事件で和田氏を挑発し、和田合戦へと追い込んだのです。
和田氏を滅ぼした北条義時は政所別当と侍所別当を兼務し、侍所の所司に義時の被官を任命したことで鎌倉幕府最大の勢力であることを示しました。  しかし、義時の立場は将軍源実朝とその母君北条政子に仕える官僚組織の主導者で、執事の地位を超えたものではありませんでした。 時政・義時を執権に数えるようになったのは後代の事です。

*実朝暗殺

和田合戦後、実朝の表情が憂鬱になっていた、官位の昇進を望んだのである。    さらに大船(oofune)の建造を宋人・陳和卿(tinnakei)に命じたりしたが、しかし造営した船は動く事は無かった・・・・・。

承久元年(1219)正月、右大臣拝賀の為鶴岡八幡宮に詣でた将軍実朝が、頼家の遺児で同宮別当になっていた公暁(kugiyou)に暗殺されたのである。 直後、公暁自身も討たれたので、源氏将軍家は三代で断絶したことになる。  この時義時は、御剣役として供奉していたが、直前に心神違例して、源仲章(nakaaki)に交替して退出したと、「吾妻鑑」 に記されています。  その仲章も、実朝と共に斬られて亡くなっている。
実朝・仲章暗殺の現場となった鶴岡八幡宮本殿下
八幡宮本殿

実朝の後ろを歩いていた仲章が、義時だと誤解されて斬られたのだと云われる。  しかし後世では、公暁の陰謀を事前に察知した義時が心神違例を装って、御剣役を辞退したのだと解釈されたり、義時が公暁をそそのかした事件の黒幕とまで言われました。
より信憑性のある 「愚管抄」 (gukansiyou) では、門をくぐろうとしたとき、実朝が義時に、「中門にとどまれ」 と命じたので、義時は、一時ほども中門にとどまっていたのである。

後の義時の子孫たちが 「吾妻鑑」 を編纂したとき、先祖の哀れな姿を書くにあたり、心神違例などと曲筆したため、かえって誤解され黒幕説まで生んでしまったと、思われます。

次の将軍の候補として河内源氏の一族は否定され、新しい鎌倉殿として摂関家のひとつ九条家から九条道家(mitiie)の子頼経(yoritune)を迎えることになりました。 それに伴って、源家将軍一族の粛清が行われ、駿河国で阿野時元(tokimoto)(頼家の甥)が謀反の嫌疑をかけられ自害,京都では仁和寺の僧・禅曉(zengiyou)(頼家の子)が東山で誅殺され、最後に残った貞曉(jiyougiyou)(頼朝の子)も自ら目をつぶして謀反の意思がないことを示した。

将軍家が武家の棟梁である源家から、摂関家の分家となる摂家将軍に交代したことにより、鎌倉幕府に大きな変化が起こります。源家将軍と御家人たちとの間には、武家の棟梁と家人と云う主従関係がありました。しかし、将軍家が摂関家となると、将軍家が戦場に出て合戦をしたり、鷹狩り(軍事演習)を行ったりという事が無くなり、人々のつながりは将軍御所の儀式等が中心となりました。

将軍家と共に鎌倉に入った廷臣(teisinn)や僧侶・陰陽師は、鎌倉の将軍御所に摂関家の儀礼と禁忌(kinki)を導入し、将軍家と御家人との関係は組織の命令系統による上下関係という官僚制の原理が強くなりました。 鎌倉幕府の中の人のつながりが、主従関係にもとずく人の関係から、組織運営のための官僚制的な秩序が中心に切り替わっていくと、文書による政務の運営が中心になっていきました。

北条氏が将軍家の命令を受けて政務を執行する執権・連署(situken)・(rensiyo)といった役職を整備したのも、将軍家の制度上の後見人として鎌倉幕府を主導する行政上の地位を明確にするためでした。 摂関家出身の将軍家は、鎌倉幕府を守護する神仏との交感(koukan)や神事・仏事といった宗教儀礼の主催者の役割が強くなり、神聖な存在に昇華していく方向に向かいました。

今日の政務に相当する世俗の仕事や軍事や凶事は執権・連署が代理として行う仕事となり、北条氏に委ねられました。 将軍家が神事・仏事・儀礼と云った政事(maturigoto)を分担し,執権北条氏が世俗の事を分担する政治体制が執権政治なのです。
鎌倉八幡宮・二の鳥居・・・・・段葛石塔
二の鳥居
段葛
次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.02.01(15:35) 33

**幕府内部の対立

*義盛・挙兵

与党として捕えられたうちに、和田義直(yosinao)義重(yosisige)の兄弟と和田胤長(tanenaga)もあった。 源平合戦以来の勇将和田義盛(yosimori)の子と甥である。  将軍実朝の信頼が厚かった和田義盛の一族が、実朝の廃立を図る陰謀の与党だったというのも、全く不自然であるが?・・・・・。
和田一族戦没地 (鎌倉市・由比ヶ浜)・・・・江ノ電・和田塚駅下車
和田塚ガイド
もしかしたら、泉親衛(tikahira)の陰謀と云うのは、北条義時の画策した陰謀だったのかもしれません。
当時義盛は上総国伊北荘(ihoku)にいた。 急を知ると鎌倉に戻り、将軍実朝に面謁し、積年の勲功を申し立て、二子の赦免を乞うた。これはすぐに許された。 しかし残る甥・和田胤長の赦免は許されなかった。
 
幕府内の対立について、少々記しておこう、相模武士団の代表である三浦氏と、伊豆武士団の棟梁的存在となった北条氏との間に、少なからず対立があったことは、先述してありますが、・・・三浦氏では義澄(yosizumi)から義村(yosimura)、そして北条氏では時政から義時と、それぞれ代はかわっていたが、この暗黙の対立は続いていた。
三浦一族の中からは、和田一族の自立化が進んでいた。 和田義盛が侍所別当に任じられて、三浦義村を含む幕府御家人全体の管理権を握ったことが、原因だったかもしれない。  いずれにしても三浦義村と和田義盛との間にも、若干の隙間が生じていたらしい。    これに目を付けたのが、義時である。  和田胤長が泉親衛事件に連累していたことを知ると、これを機に義盛の挑発を図ったのである。

鎌倉武士の社会では、罪があって没収された所領は、同族に返付されるのが慣習だった。  だから義盛は、没収された胤長館(荏柄天神前)の返付を実朝に願い出た。 これはすぐに許されて返付された館に、義盛は郎党を住まわせた。
直後、実朝の許可は撤回され、旧胤長館は義時に与えられた。   またまた恥辱を蒙った義盛は、やがて綿密な作戦計画を立てた。 その眼目は義時を倒す事であって、将軍実朝に対する謀反ではないという事だった。 むしろ将軍の身柄を和田側で握っておけば、これに抵抗する北条軍こそが、謀反人という事になる。  日和見をしている一般御家人も、和田側に味方するはずだ。
挙兵は、5月3日と決まった。  その日の早朝、義盛の妻の実家、武蔵横山荘(八王子市)の横山党が、秘かに鎌倉入り、義時館と大倉御所との間に布陣する。 義時を御所に入れない作戦だ。
幕府が最初に造営した御所・・大倉御所跡 (鎌倉市・雪ノ下3)
大倉幕府跡石塔



一方、与党の三浦義村は、自館から東に向かい、北御門から御所に入って、将軍実朝の身柄を自軍側に擁する作戦だ。すべては順調に進んだかに見えたが、ここで裏切りが発覚・・・・・・。

三浦義村が裏切って、すべてを義時に知らせていたのす。 義時は5月3日に横山党が鎌倉に攻め入ることを承知し、前日の内に開戦と決め、自分は大倉御所に入り、嫡男泰時の軍に和田館を攻めさせ、和田勢をおびき出し、和田勢が御所に攻撃をかけるように仕向けたのである。
いずれにしても和田勢は、義時の作戦どおりに動いた。  義時が御所に詰めているのですから、御所を攻めざるを得なかったのです。   しかしその一挙で、和田勢が反乱軍になったのです。

それにしても和田勢は強かった。  義盛の三男・朝比奈義秀(yosihide)は、勇猛でした。  攻撃に転ずるや御所に攻め込み義時が御所に隠れているものと思い込み、御所内に火を放つ攻撃を行った。
しかし、義時は、すでに将軍実朝を擁して、大江広元と共に頼朝法華堂に難を逃れていた。 和田勢は将軍の身柄を確保するのに失敗したのです。 これで事は決した。 形成を見極めていた一般御家人たちも、一気に北条方に加わってきた。

一夜が明けた5月3日、寅の刻(午前4時)ころ、当初の作戦どおりに横山党が鎌倉に入ったが、形勢は逆転しておりなす術はなかった。  それでも和田勢は横山党の来援で士気も回復し、再度攻撃に出ようとした。
しかし、大江広元・義時連署の軍勢催促状が、武蔵国などにも発せられ、これに応じた御家人たち鎌倉入りした。 多勢に無勢だった。 やがて和田勢は由比ヶ浜に追い詰められ、現在の和田塚周辺で敗れた。
その結果、北条氏の獲得した成果は、極めて大きかった。

*北条氏が獲得したもの

直接的には大族三浦氏の勢力を二分して、その一方を打倒したという事です。  また和田義盛の職であった侍所別当に、義時が就任したという事も大きかった。  幕府の三官衙のうち、義時は政所・侍所の両別当職を得たのである。
案外目立たなかったのは、山之内荘(北鎌倉)と六浦荘(横浜市・金沢区)とを義時が手に入れた事です。 ともに鎌倉に隣接していたので 「いざ鎌倉」 という時に自軍を投入出来る位置にあったからです。 次回に続く

丁酉・癸卯・己未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2017年02月
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