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鎌倉北条氏

2017.03.31(07:00) 47

**幕政の転換

*蘭渓道隆(rankei・douriyuu)の活動

時頼が道元に帰依しなかったのは、同じころ、蘭渓道隆が鎌倉にいたからだったかも知れない。 蘭渓道隆は、中国南宋の禅僧だった。寛元四年に来日して暫く博多に滞在した。  その後上洛して、泉涌寺の来迎院に寄寓した。この時時頼に招かれたのである。
鎌倉に入った道隆は、暫く寿福寺に滞在。  しかし宝治元年寿福寺が全焼した後しばらくどこにいたかは不明であったが、その後時頼は道隆を大船郷の常楽寺の住持に任じた。
臨済宗・粟舩山常楽寺三門(鎌倉市・大船)
常楽寺・山門
常楽禅寺

直後、時頼は同寺に梵鐘を寄進した。 後に建長寺・円覚寺の梵鐘と合わせて「鎌倉三名鐘」と謳われる。

そして建長元年(1249)小袋坂の地獄谷で整地の工事が始まった。刑場であった谷間を平坦にして刑死人の地蔵堂を移転した。建長寺造営の為だった。建長寺が落成したのは建長五年11月、巨福山建長興国禅寺である。  本尊は地蔵菩薩、開基は時頼、そして開山は蘭渓道隆である。

鎌倉幕府にとっての宗教改革は、これで完了した。  幕府の宗教は、専修臨済禅と決まったのである。 日蓮や一遍の登場は、遅すぎたのです。

建長寺には、いくつか注目すべき点がある。  最澄(saitiyou)が延暦四年に建立した延暦寺、藤原義房が貞観四年に命名した貞観寺、建仁二年に源頼家(鎌倉・二代将軍)が着工を命じた建仁寺などと共に、元号を寺名とする数少ない寺院の一つという事です。

また建長興国禅寺の「興国」の二文字に、強烈な国家意識が感じられる。文歴元年(1234)以来、蒙古と国境を接するようになった南宋では、強い国家意識が育っていたが、これが道隆を通じて日本にもたらされていたと、観ることができる。
建長寺・三解脱門に「建長興国禅寺」の文字が見える。
建長寺三門・サクラ

*御家人の窮乏

中小の御家人の中には、所領所職などを質入れして失い、所領を持たない無足の御家人もあらわれている。 ある国の御家人は、次のように記しています。 「当国の御家人、もと30余人。今、わずかに残るところ14人なり」  軍事政権としての鎌倉幕府は、まことに由々しき事態に直面していました。  次回に続く

丁酉・甲辰・丁巳




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鎌倉北条氏

2017.03.27(08:30) 46

**幕政の転換

*評定衆メンバーの変化

乱(合戦)のあと、五代将軍九条頼嗣(yoritugu)の御所での役職者も、乱直後に、大きく変えられた。
三浦氏とその与党の面々、多く戦死して、その欠を生じたるが故なり。 と、公式に発表された。  しかし、新加の家を精選したのが小侍所別当の金沢実時(sanetoki)だったので、将軍近侍の諸役を北条方の諸家で固められたという事だった。
宝治合戦で妻の実家・三浦氏に付き頼朝法華堂で自刃大江広元四男・季光の墓(雪ノ下)
DSCN2690.jpg
 
*小侍所別当・・・・・幕府の機関。御家人が将軍に近侍する宿直や供奉を管轄する長官。

鶴岡八幡宮の別当も、定親から隆弁(riyuben)に替えられた。  さらに京都でも久我通光(kuga・mititeru)(公卿)が、太政大臣を辞任している。 久我通光・定親は土御門道親(mititika)の子で、三浦泰村室の兄弟だったのである。

宝治合戦から1か月ほどたったころ、京都から帰ってきた極楽寺流北条重時sigetoki)が、幕府連署に就任。  彼が住んだのは、若宮大路東側の北端だった。いずれにしても三浦泰村の意向を配慮しなくても良くなっていた。


評定衆のメンバーや北条一門の占める割合なども、大きく変化した。  寛元四年の宮騒動の前は、評定衆の総数は21人だったが、騒動後に、後藤基綱(mototuna)・狩野為佐(tamesuke)・千葉秀胤(hidetane)・町野康持(yasumoti)の四人が罷免されて、総数は17人になった。
そのうち北条一門は、北条政村(masamura)・朝直(tomonao)(大仏)・資時(suketoki)(時房・三男)の3人で、騒動後も人数は減らず変化はなかった。

時頼の意向が、評定衆を通じて強く幕政に反映される様になり、その時頼の意向を決定するのに大きく貢献したのが、寄合衆(yoriaisiyuu)だった。
かつて畠山重忠討伐の事件では、北条時政・義時・時房の三人が、会議を開いている。  その家族会議が、その後、「神秘の御沙汰」と云う、謎めいた秘密の会になり、やがては寄合衆という形に発展してゆく。
その「寄合」 と云う言葉が「吾妻鑑」に初見されるのが、宮騒動後の寛元四年(1246)6月10日条だった。

*北条氏専制の確立

いずれにしても、宝治合戦が終わると、幕閣の様相は大きく変化していた。  すべての要職は北条氏に抑えられており、時頼に楯突く状況ではなくなっていた。この様な状況の下で時頼は幕政改革に乗り出したのです。 幕政改革は既に兄経時が始めた事であったが、時頼が最初に手を付けたのは意外な方向であった。 宝治合戦終戦二か月後、時頼は曹洞禅の開祖・道元(dougen)を鎌倉に招いたのです。
世上の目は、白衣舎(biyakuesiya)に集まった。  道元が三浦泰村室の兄であることも、関心が生じた一因だったかも知れない。 しかし大きかったのは、時の権力者時頼が、道元の曹洞禅を受容するか否かだった。

*白衣舎・・・・・・・・道元が鎌倉で住居した館名、 現在の名越辺りを比定。

ちなみに、九世紀中葉、比叡山延暦寺(山門)から園城寺(onjiyouji)(三井寺・寺門)が自立すると、山門と寺門との間で、対立抗争が展開されるようになる。 源氏と平氏間の抗争では、山門は平家側、寺門は源氏方だった。
必然的に鎌倉幕府の宗教は、寺門派という事になった。 幕府立の官寺である鶴岡八幡宮寺の別当は、鎌倉時代十七代のうち、10人までは寺門出身だった。 同宮寺・二十五坊の初代供僧は、寺門出身が15人、東寺出身が6人、そして山門出身はわずか4人だった。  それも着任はかなり遅れたという。
5代執権・北条時頼創建 鎌倉五山第一位、臨済宗・建長寺山門
建長寺・山門
このような時に、時頼が曹洞禅の道元に傾倒しているかに見えたのである。 世上がこれに注目したのも、当然であった。 しかも時頼は、やがて道元から菩薩戒(bosatukai)を受けたのである。 世上はどよめんばかりであった。 しかし時頼の道元への傾倒も、そこまでだった。ただただ、只管打坐(sikandaza)を説くだけの道元は、まだ若かった時頼には合わなかったらしい。鎌倉滞在約半年道元は鎌倉を去った。

*只管打坐・・・・・ただひたすらに座禅をすること。       次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.03.23(07:00) 45

**得宗専制の確立

*宝治合戦(houji・kaxtusenn)

宝治元年6月5日、未明、北条、三浦両氏の軍兵がにらみ合った筋替橋を、時頼の使者が泰村館に向かった。

「貴殿を誅殺すべきの気、我になし、日頃のごとく、異心あるべからず。」

和睦の使者だった。そのうえ、時頼自筆の起請文も、これに付いていた。これにすっかり安心した泰村は、直ぐに手勢を解こうとした。
その時、安達義景(yosikage)・泰盛(yasumori)父子の軍勢が、泰村館を襲撃してたのです、当然のことながら、三浦勢も応戦して出た。すでに合戦開始とみた時頼は、金沢実時(sanetoki)に将軍御所の警固を命じ、弟時定(tokisada)を大将軍に任じて、三浦勢を攻撃した。

泰村館の三浦勢も良く戦ったが、隣の人家に火をかけられると、折からの南風に、入ってきた煙にいぶり出され、頼朝法華堂に楯籠った。 永福寺の総門に陣取った弟三浦光村が、法華堂に籠った兄泰村と合流しようとして法華堂に向かった時には、極めてすさまじいものだった。群がる北条方の軍勢に切り込み間を走り抜けたのである。
三浦一族が最後に楯籠った源頼朝法華堂(鎌倉市・雪ノ下)
頼朝・法華堂

それにしても、多勢に無勢だった。  やがて三浦一族は、頼朝法華堂自刃し始めた。  共に自刃したのは毛利季光(tosimitu)・宇都宮時綱(tokituna)・春日部実景(sanekage)・関政泰(masayasu)等の武将276人、郎党などを含めると総勢500余人だった。「宝治合戦」あるいは三浦氏ノ乱と呼ばれた。
「宝治合戦」に敗れた三浦一族が眠るやぐら ・頼朝法華堂近く。(鎌倉市・雪ノ下)
DSCN2686.jpg

頼朝が挙兵してから、すでに90年が過ぎ鎌倉の御家人社会も大きく変わった。 もはや梶原、比企、畠山、和田というような大物は居ない、いままた大族三浦氏が滅び去った。

大江広元(hrooto)の子孫では、嫡系の毛利季光が頼朝法華堂で自刃しており、庶系の長井泰秀(yasuhide)がとってかわった。 三善善信の系統でも、嫡系の町野流は、庶系の太田流に取って代わられている。
大族三浦氏の惣領家は滅び去って,庶子家だった佐原流の盛時(moritoki)が三浦介を継承したが、得宗被官に成り下がっていた。  次回に続く

丁酉・甲辰・己酉

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鎌倉北条氏

2017.03.19(07:44) 44

**得宗専制の確立

*前将軍・頼経派の追放

三浦泰村が戦わないと見極めた時頼は、頼経派を次々に処分していった。  後藤基綱、狩野為佐、千葉秀胤は、評定衆を罷免された。 町野康持(yasumoti)は、評定衆、問注所執事の両職を罷免された。 また、名越光時は伊豆江間郡に流された。 やがて前将軍九条頼経は鎌倉を追放、京に戻っていった。
幕府・門柱所石塔 (鎌倉市・御成町)
問注所石塔
この事件は、宮騒動あるいは名越氏事件、また寛元ノ乱ともいう。 いずれにしても兄経時が手を焼いた九条頼経を、執権就任後わずか百日余りの時頼が、京都に追放したのである。 ときに時頼は弱冠ニ十歳だったという。
いままで反抗的だった名越氏を懲罰した事で、一門庶家に対する得宗の支配権が確立した。 大族の三浦氏が屈服したことが示すように、御家人社会における北条氏の指導的地位も強固なものになったのです。

しかし、時頼のとった戦術が心理的なもので、本当に三浦氏が屈服し、時頼の勝利に疑問を抱く者もいた。 はたして泰村の弟光村(mitumura)はかつて公暁(kugixyou)の弟子だった駒若丸である。

*公暁・・・・・三代将軍源実朝を八幡宮での右大臣拝賀の日に暗殺した、八幡宮寺・別当

前将軍九条頼経が鎌倉から追放されたとき、三浦光村は京都まで追従しています。 六波羅で頼経と別れるときに 「構えて今一度、鎌倉中に迎え奉らんと欲す」と語ったという。
この状況で、時頼は三浦泰村(yasumura)に相談し、現在京都六波羅探題北方である極楽寺流北条重時(sigetoki)を鎌倉に呼び寄せ「連署」にしたいと持ち掛けたが、泰村は即座に拒絶したという。 そのはずでこの人事は政治力の強化と同時に、軍事力の増強をも狙ったものであるからだ。
これで重時の連署就任は、実現しなかった。 宮騒動では勝利したものの、三浦党は時頼でも無視できない存在だったのである。
しかし、時頼にとって三浦党は危険な存在だったかは疑問が残る、そうであれば、北条重時の連署就任人事等を相談したりするだろうか・・・・。


*連署・・・・・・鎌倉幕府の職名。執権の補佐役。北条氏一門が就任し、幕府の発給する文書に執権と共に署判する。

次に時頼が打った手は、北条氏歴代のお家芸あるいは常套手段ともいうべきもので、敵中に味方を造るか、或は見方を送り込むものである。 いま時頼が目を付けたのは、佐原流三浦盛時(moritoki)だった。 時頼の父時氏(tokiuji)を生んだ泰時の先妻矢部尼(yabeni)は、泰時と離婚した後、佐原流三浦盛連(moritura)に再嫁して生んだのが、盛時兄弟だった。 このような血縁関係もあって、時頼が差し伸べたスカウトの手に、盛時は乗ってきた。
その年の暮れ、盛時は時頼に臣従して得宗被官となり、時頼から得宗領陸奥国糠部郡五戸郷(nukanobu・gonohe)の地頭代に補任されたのである。

この段階まで三浦泰村は、この様な世情の動揺が自分に関係しているとは、思っていなかったのでしょう。  泰村がそれに気が付いたのは、出家して覚智入道(kakuti)となっていた安達景盛(kagemori)が、高野山を下山して鎌倉に戻ってくると、早々に時頼館を訪れ、満座の御家人たちの前で、子の義景(yosikage)孫の泰盛(yasumori)を叱ったのである。
「三浦の一党、今部門に秀で、傍若無人なり。 やがては、景盛等が子孫に危機が及ばんなり、もっと思慮を回らすべきところ、義景といい泰盛と云い、危機感が足りないうえ武備もないのは、奇怪である」   つまりは三浦党の打倒を、景盛は説いたのである。  
ところが直後、時頼の使者が三浦館を訪れ、泰村の次男で九歳だった駒石丸を、養子に欲しいと言ってきたのである。こういう申し入れをするからには、時頼に三浦氏打倒の意図などある筈がない。泰村が快諾したのは、もちろんである。 

このような申し入れは時頼が 「和平」 を装う謀略という意見もあるが、この時点で三浦泰村も執権時頼も全く戦う意思など無かったのでは無かろうか。 どの様な事かと言えば、生母・松下禅尼の父安達景盛が、大族・三浦一族の兵力の台頭を怖れた、安達氏と三浦氏の権力闘争だったと云う見方が正しかったのではなかろうか、時頼はこの流れに乗ってしまっただけなのだ。 しかし、二人の思惑とは別の流れが動き出し始めたのです。

いよいよ、将軍御所と時頼館の防備が、厳重になされた。武蔵・相模・伊豆・駿河などの得宗被官が、時頼館の四面を防備した。また泰村館との境にある筋替橋際には、防壁として雑役の車が横倒しにされた。これに対応して、泰村館でも軍備が整えられた。一触即発の緊迫した雰囲気が、鎌倉中を覆った。
筋替橋・石塔  (鎌倉市・雪ノ下)
筋替橋跡

次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.03.15(09:01) 43

**得宗専制の確立

*北条時頼の執権就任と名越氏の反発

北条時頼が得宗家を嗣立して、幕府執権に就任したことは、名越流(nagoeriyuu)北条光時(mitutoki)の強い反感を招いたらしい。  光時は名越流こそが、北条氏の本流・惣領家だと信じていたからである。 その様な光時の考えも、必ずしも故の無い事ではありませんでした。
義時の後を嗣立した泰時の生母阿波局(awanotubone)は、実家も不明で、義時の正妻だった否かも不明である。 だから泰時自身も、家督を嗣立するに際して、若干の躊躇があったことは先述した。

それに反して義時の次男だった名越朝時(tomotoki)の生母姫ノ前(himenomae)は、武蔵国の大豪族比企朝宗(tomomune)の娘で、れっきとした義時の正妻でした。  そして、時政の鎌倉での住まいだった名越館を、時政ー義時ー朝時という順で伝領してきている。 その様な継承で、本来名越流が北条一門の嫡流という意識が光時の中に有ったと思われます。
幕府執権邸跡・現宝戒寺の三つ鱗紋
DSCN2678.jpg
前将軍頼嗣派には、この名越光時を筆頭にして、頼経の近侍藤原定員(sadakazu)・定範(sadanori)父子や、後藤基綱(motutuna)、狩野為佐(tamesuke)千葉秀胤(hidetane)などの評定衆に、問注所執事の三善康持(yasumoti)らの名があります。

当然の事ながら、すでに時頼は事態を察知しており、完全武装の兵士が鎌倉中を巡廻警備し、明け方まで続いた。 このような事が数日間続き、そして近国の御家人たちまで馳せ集まってきて、鎌倉中を馳せ違い、駆け抜けた。

北条時頼(tokiyori)の母松下禅尼の兄・安達義景(yosikage)の甘縄館の周辺でも同じようなことが起こった。  いずれの騒動も、時頼方が前将軍派に対して、威嚇の行動を行ったものと思われます。 時頼方の兵力を見せつける心理的な作戦であろう。

*宮騒動(miyasoudou)

寛元四年(1246)5月、名越光時が前将軍頼経館に入ったのを見届けると、突如、渋谷一族などの得宗被官軍に頼経館を包囲させ、外部との連絡を遮断した。  表面的には、前将軍に対する謀反のようだった。  事実、時頼のとった行動は、まさに謀反以外ではなかった。   しかし、時頼には、立派な口実があったのです。
「我が庶族の名越光時、我に逆臣を抱く事、既に露見セり。  我北条一門の惣領として、光時の野心を抑えんとす」   
決して前将軍に対する謀反ではないと、したのである。
一夜が明けると、すでに前将軍派の劣勢は明らかになり、頼経の側近藤原定員(sadakazu)が頼経館を出て、時頼館に向かおうとしたが、時頼側近の被官たちが、厳重に押し留めた。  この時頼の厳しい態度で、決着がついた。
名越光時、時幸(tokiyuki)兄弟は出家して、降伏した。  頼経の近侍藤原定員は、安達義景の預り囚人(mesiyuudo)となる。

翌日、時頼館では時頼と北条一門の元老政村(masamura)(常盤)・金沢実時(sanetoki)・叔父の安達義景の四人が、何を話し合ったは不明だが、前将軍の背後にいた三浦泰村(yasumura)の動きが気になっていたことは間違いない。  並行して三浦泰村が弟の家村(iemura)を使者として、時頼館に差し向けた。 しかし、時頼は家村に逢わなかった。被官の諏訪盛重(morisige)を介して交渉したようだ。  強硬的な態度を示す事によって、三浦党との交渉を有利に進め和睦を図ったのである。
北条一門金沢実時・墓所 (横浜市金沢区六浦・真言律宗・称名寺)
DSCN2377.jpg
次回に続く

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鎌倉北条氏

2017.03.11(18:01) 41

**幕政改革

*将軍の改替

対抗勢力が目的とするとするものは、もちろん将軍権力の強化だった。  つまり反執権政治という事であり、具体的には得宗家打倒という事だ。

寛元二年四月、頼経の子6歳の頼嗣(yoritugu)の元服の式が行われると、突然、頼経本人の発意という形で、将軍職の頼嗣への譲与という事が披露された。 もちろん経時の内々の強要があったことは、疑いもない。

次に、追いかけるように経時の次の手が打たれた。  妹檜皮姫(hiwadahime)と新将軍・九条頼嗣(yoritugu)との結婚である。
新郎は7歳、新婦は16歳です。  経時は、得宗被官たちに厳重に警固させたうえで、密々の内に強行したのです、これは北条得宗家にとって、大きな勝利であった。

かつて四代将軍頼経は、二代頼家(yoriie)の姫、竹ノ御所を妻にしていた。  つまり北条政子の孫娘の婿という事で、北条氏とは血縁関係があった。 ところが竹ノ御所が32歳で亡くなると、得宗家は将軍との血縁関係を、持たないことになっていたのです。
そして今経時は、妹檜皮姫(hiwadahime)を新将軍の許の送り込むことによって、五代将軍の義兄という立場を維持したのである。 まさに大勝利である。

*前将軍頼経(yoritune)の存在

しかし、経時(tunetoki)の勝利もそこまでであった。前将軍となった頼経は、 「大殿」 と称して一定の権威を持ったまま、鎌倉を離れなかったのです。 もちろん側近集団も、以前のように頼経を支持して、相変わらず反得宗の姿勢を崩さなかった。

こうして前将軍派と執権側とが対立している中、経時夫妻が病気になったのです。 病状は一進一退を繰り返したが、まず経時室が死んだ。二十五歳  「吾妻鑑は十五歳の記述」。の若さ である。下野国の豪族、宇都宮泰綱(yasutuna)の娘だった。
その半年後、経時の病状が悪化した。 執権館で、「神秘の御沙汰」が開かれたました。後に寄合衆(yoriaisixyuu)と呼ばれることになるが、北条一門の主だった少数のみの秘密会議である。 この時のメンバーは明らかではありませんが、次の執権について話し合われたのでしょう。・・・
この「寄合」で得宗家の家督と執権職とは、弟の時頼(tokiyori)が嗣立すると、その場で決定したようだ。
経時の二人の息子はまだ幼く、前将軍派と対決するには時頼が相応しいと判断されたのでしょう。  経時は出家して蓮華寺殿安楽禅門と法名し、身罷った。 二十三歳。 「吾妻鑑は三十三歳」記述。  笹目山麓に葬られたが、現在は光明寺に墳墓はある。
それにしても若い経時夫妻の相次いでの死には、何かを感じさせるものがある。 経時は武道に優れたスポーツマンであったようだし、何かの陰謀があったのかもしれません。 いずれにしても経時は、死因にしても、墓所にしてもとにかく謎の人物である。彼の執権在任は、四年間でしかなかった。
鎌倉幕府・重要御家人比企能員邸跡・・日蓮宗・妙本寺境内
妙本寺・二天門
妙本寺・祖師堂
妙本寺・日蓮像

次回に続く

丁酉・甲辰・丁酉


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鎌倉北条氏

2017.03.03(09:10) 42

**鎌倉の石塔R ・・・お休みのお知らせ

*いつも訪問いただき有難うございます。 記事の更新、1週間程度お休みします。 再開致しましたらまた訪問お願い致します。

            2017・03・03                  鎌倉の石塔R  管理人    mituuroko


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鎌倉北条氏

2017.03.01(09:12) 40

**幕政改革

*お金の話

この時期の公卿にとって 「天下」 とは京都とその周辺の事である。  そして 「銭」 とは、平清盛が中国南宋から大量に輸入した宋銭の事である。  
京都や畿内で、身分の高きも低きも、皆が宋銭を欲しがるようになったというのであり、畿内近国で貨幣経済が始まったという事です。
もちろん東国では、まだ物々交換でした、だから源平合戦は、貨幣経済を主張する平家=畿内と、これに反対する源氏=東国との戦いだったという一面を持っている。
貨幣経済反対の源氏が勝ったのだから、源氏将軍三代のころは、まだ貨幣は東国に普及はしなかった。 しかし貨幣は便利である。
こうして貨幣経済という荒波は次第に東国に迫ってきた。 これが鎌倉を通過したのは、執権泰時の時期だったらしい。・・・
一方、平安末期から、様々な形で農業技術の進歩が見られた。 役畜の飼育、品種の改良の他、重要だったのは、鉄製農具の普及であった。

このような動きは、宋銭の普及と相まって、世の中を大きく変化させた。 年貢の銭納化、金融業者の発生、運送業の成立、等の発達です。
何よりも京都大番役、鎌倉番役、などを勤仕する為、貨幣の必要に迫られた御家人の中には、所領を質草にして失う無足化が目立つようになる。この他の社会不安の増大と相まって、山賊、海賊などから、やがて悪党も動き出す。

泰時十八年間の施政の末期は、手工業規制、銭貨禁令、惣領と庶氏の同格令、そして悪党禁令などが頻発され始めた時期と一致する。  世の中は、大きく変わりつつあったのである。  「鎌倉中」 ・末期の社会変動と評価する研究者もある。

*北条経時・執権となる

この社会変動に幕府が直面せざるを得なかった時、執権の座に着いたのが北条経時(tunetoki)です。(第四代執権)
仁治三年(1242)6月泰時の死後を継いで幕府執権に就任したとき、経時は十九歳だった。 すでに左近大夫将監でしたが、翌年には大仏(北条)朝直(tomonao)を武蔵守から遠江守に移して、自ら武蔵守に就任。

執権就任から八か月後の寛元元年(1243)二月、13人の評定衆を三番(班)に分け、番ごとの出勤日を定め効率を良くしている。 これまで10人以上の評定衆全員が一堂に会しての評議だったのを、三番に分けたのだから、その能率の良さは数段上がった。評定日も前もって判っているわけだから、欠席や流会もほとんどなく、会議や訴訟は迅速化した。

幕府第五代執権・北条時頼創建 「臨済宗・建長寺」 山門と見事な桜
建長寺三門・サクラ
建長寺‣サクラ
訴論沙汰日結審制と裁許状作成事務の合理化とによって、泰時の晩年以来懸案となっていた訴訟関係の渋滞を、経時は一挙に解決しようとしたのである。
訴論沙汰日結番制は、やがて、北条時頼によって引付衆(hiitukesiyuu)の設置という形で継承される。 また再審越訴制(otuso)はのちに北条時宗が越訴奉行を創設する事につながる。

このように見ると経時の政治は、まさに 「幕政改革の開始」 と見ることが出来る。 その政治は、武都鎌倉の市制にも及んだが、経時が手を焼いたは、将軍九条頼経(yoritune)の問題でした。

わずか二歳で四代将軍に就いた頼経(yoritune)も、既に27歳になっていた、北条氏の庶家・名越光時(mitutoki)・時章(tokiaki)兄弟や三浦氏の庶家の三浦光村(mitumura)や側近集団を擁して、北条得宗家に対する対抗勢力の観を成していた。    次回に続く

丁酉・甲辰・丁亥

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2017年03月
  1. 鎌倉北条氏(03/31)
  2. 鎌倉北条氏(03/27)
  3. 鎌倉北条氏(03/23)
  4. 鎌倉北条氏(03/19)
  5. 鎌倉北条氏(03/15)
  6. 鎌倉北条氏(03/11)
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