**得宗専制の確立
*宝治合戦(houji・kaxtusenn)
宝治元年6月5日、未明、北条、三浦両氏の軍兵がにらみ合った筋替橋を、時頼の使者が泰村館に向かった。
「貴殿を誅殺すべきの気、我になし、日頃のごとく、異心あるべからず。」
和睦の使者だった。そのうえ、時頼自筆の起請文も、これに付いていた。これにすっかり安心した泰村は、直ぐに手勢を解こうとした。
その時、安達義景(yosikage)・泰盛(yasumori)父子の軍勢が、泰村館を襲撃してたのです、当然のことながら、三浦勢も応戦して出た。すでに合戦開始とみた時頼は、金沢実時(sanetoki)に将軍御所の警固を命じ、弟時定(tokisada)を大将軍に任じて、三浦勢を攻撃した。
泰村館の三浦勢も良く戦ったが、隣の人家に火をかけられると、折からの南風に、入ってきた煙にいぶり出され、頼朝法華堂に楯籠った。 永福寺の総門に陣取った弟三浦光村が、法華堂に籠った兄泰村と合流しようとして法華堂に向かった時には、極めてすさまじいものだった。群がる北条方の軍勢に切り込み間を走り抜けたのである。
三浦一族が最後に楯籠った源頼朝法華堂(鎌倉市・雪ノ下)
それにしても、多勢に無勢だった。 やがて三浦一族は、頼朝法華堂自刃し始めた。 共に自刃したのは毛利季光(tosimitu)・宇都宮時綱(tokituna)・春日部実景(sanekage)・関政泰(masayasu)等の武将276人、郎党などを含めると総勢500余人だった。「宝治合戦」あるいは三浦氏ノ乱と呼ばれた。
「宝治合戦」に敗れた三浦一族が眠るやぐら ・頼朝法華堂近く。(鎌倉市・雪ノ下)
頼朝が挙兵してから、すでに90年が過ぎ鎌倉の御家人社会も大きく変わった。 もはや梶原、比企、畠山、和田というような大物は居ない、いままた大族三浦氏が滅び去った。
大江広元(hrooto)の子孫では、嫡系の毛利季光が頼朝法華堂で自刃しており、庶系の長井泰秀(yasuhide)がとってかわった。 三善善信の系統でも、嫡系の町野流は、庶系の太田流に取って代わられている。
大族三浦氏の惣領家は滅び去って,庶子家だった佐原流の盛時(moritoki)が三浦介を継承したが、得宗被官に成り下がっていた。 次回に続く
丁酉・甲辰・己酉
*宝治合戦(houji・kaxtusenn)
宝治元年6月5日、未明、北条、三浦両氏の軍兵がにらみ合った筋替橋を、時頼の使者が泰村館に向かった。
「貴殿を誅殺すべきの気、我になし、日頃のごとく、異心あるべからず。」
和睦の使者だった。そのうえ、時頼自筆の起請文も、これに付いていた。これにすっかり安心した泰村は、直ぐに手勢を解こうとした。
その時、安達義景(yosikage)・泰盛(yasumori)父子の軍勢が、泰村館を襲撃してたのです、当然のことながら、三浦勢も応戦して出た。すでに合戦開始とみた時頼は、金沢実時(sanetoki)に将軍御所の警固を命じ、弟時定(tokisada)を大将軍に任じて、三浦勢を攻撃した。
泰村館の三浦勢も良く戦ったが、隣の人家に火をかけられると、折からの南風に、入ってきた煙にいぶり出され、頼朝法華堂に楯籠った。 永福寺の総門に陣取った弟三浦光村が、法華堂に籠った兄泰村と合流しようとして法華堂に向かった時には、極めてすさまじいものだった。群がる北条方の軍勢に切り込み間を走り抜けたのである。
三浦一族が最後に楯籠った源頼朝法華堂(鎌倉市・雪ノ下)
それにしても、多勢に無勢だった。 やがて三浦一族は、頼朝法華堂自刃し始めた。 共に自刃したのは毛利季光(tosimitu)・宇都宮時綱(tokituna)・春日部実景(sanekage)・関政泰(masayasu)等の武将276人、郎党などを含めると総勢500余人だった。「宝治合戦」あるいは三浦氏ノ乱と呼ばれた。
「宝治合戦」に敗れた三浦一族が眠るやぐら ・頼朝法華堂近く。(鎌倉市・雪ノ下)
頼朝が挙兵してから、すでに90年が過ぎ鎌倉の御家人社会も大きく変わった。 もはや梶原、比企、畠山、和田というような大物は居ない、いままた大族三浦氏が滅び去った。
大江広元(hrooto)の子孫では、嫡系の毛利季光が頼朝法華堂で自刃しており、庶系の長井泰秀(yasuhide)がとってかわった。 三善善信の系統でも、嫡系の町野流は、庶系の太田流に取って代わられている。
大族三浦氏の惣領家は滅び去って,庶子家だった佐原流の盛時(moritoki)が三浦介を継承したが、得宗被官に成り下がっていた。 次回に続く
丁酉・甲辰・己酉
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