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鎌倉北条氏

2017.04.28(08:31) 54

**強権の代償

**滅亡への道

北条貞時政権は、北条氏本家主導の総与党体制で政権運営にあたろうとしました。  この政権は、得宗貞時に比肩しうる実力者がいないため、北条氏本家の家長である得宗の力がもっとも強くなった時期と考えられています。しかし、全体的にみると北条氏の巨大化や都市鎌倉の繁栄は進みましたが、幕府を支える御家人の疲弊も並行して進んでいました。
鎌倉幕府が衰弱していった理由は、いくつかあります。  その第一は、在国していた中小規模の領主の経済的な疲弊です。 鎌倉中期に本格化した年貢代銭納の進展がその大きな要因となったようだ。
平安時代には米・絹・雑物・特産品が年貢として設定されていたが、鎌倉中期には米・特産品以外の物の銭納化が進んだ事、納入地で必要な員数が揃っている事が求められたので、国衙領(kokugariyou)や荘園で生産される物資の流通と租税の納入が切り離されたことです。
その結果、大都市や地方都市とその周辺の市、湊、川津での年貢の売買が盛んにおこなわれ、生産の増大を目指していた荘園の経営から生産と市場での売買の双方に巧みな領地の経営が求められるようになっていきました。これは、荘園の年貢を受け取る側から見れば、米の価格が上がれば銭の価値が下がる相殺の関係が成立しているので、米・銭を共に年貢として受け入れる事で年貢総額の平準化がなされています。
大規模な領主であれば、どこかの荘園で銭の相場が高くても、他の荘園で安ければ、全体で相殺することが出来ます。 しかし、中小の御家人はそうはゆきません銭の相場の変動による損失を全面的に被る危険性があります。 これが、鎌倉中期以降に中小御家人が没落する大きな要因の一つとなっていくのです。

**対元戦争の負担

元との講和が成されていない為、戦時体制を解けませんでした。  そのため、元寇の経費に見合う恩賞が与えられていない上に、異国警固の番役は継続されるため、御家人の負担は増すことになる。 

御家人の経済力の格差を拡大する貨幣経済への移行、対元戦争の軍事負担の継続、気候変動による生産力の不安定化は、元寇後の鎌倉幕府が抱えた大きな課題となっていくのです。  


一方で、北条氏は巨大化を続けました。北条氏が全国に持つ領地から送られてくる年貢を管理する事は大きなビジネスチャンスであり、一族を拡大して行ったり、資産を留保する有力な被官が生まれました。鎌倉幕府の御家人と北条氏の被官を兼務することによって領地を増やしていく人々も現れました。  また、御家人の身分を持たなくても北条氏の被官となることは出来たので、北条氏は商業や流通に通じた有能な人材を登用することが出来ました。

鎌倉幕府は御家人制を堅持しょうとして時代遅れの組織となって行きましたが、北条氏は時代の変化に合わせて成長し、繫栄を続けたのです。
当時の雰囲気を残す・朝夷奈切通し・三景
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朝夷奈・切通し
次回に続く

丁酉・乙巳・乙酉
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鎌倉北条氏

2017.04.24(06:56) 53

**強権の代償

**弘安徳政

晩年の時宗がもっとも心を労したのは、妻の兄・安達泰盛の権勢だったかもしれません。  引付衆・評定衆・引付頭人・越訴(otuso)奉行・恩沢(ontaku)奉行から、北条一門に限られていた陸奥守に任じられていた。 弘安六年には一族から評定衆・引付衆ともに二名ずつで、泰盛の子宗景(munekage)は、引付衆を一年足らずで、わずか二十五歳で評定衆に昇格しています。
安達一族の勢力伸長は、そのまま北条一門の勢力後退でした。  時政、義時、泰時、(時氏)、経時、時頼と、歴代が営々として築いてきた北条氏得宗家の勢力が、いまや崩れかかっていた。  弘安四年、それまでの六年間、連署を置かなかった時宗が、極楽寺流北条重時の七男・兼時(kanetoki)を連署に任じた。 ついに疲労を感ずるようになっていたのでしょうか?・・・

北条時宗が亡くなった後、安達泰盛は弘安徳政と呼ばれる新制を発布し、鎌倉幕府を新たな体制に導こうとしました。  元寇を戦った鎮西の人々の保護と、現地に駐留していることの可能な体制の整備、鎮西で戦った本所一円地住人が望む御家人登録の実現など、元との戦争の継続を睨んだいくつかの対策がこれに盛り込まれていた。 しかし、矢継ぎ早に発布される新制が現地を混乱させた事など、改革を急ぎすぎた気配があります。
特に、九州での御家人追加登録は対元対策としては正しいとしても、辛うじて御家人の地位にしがみついている中堅層以下の御家人からの不評を買うことになりました。 「蒙古襲来絵詞」 で有名な竹崎季長(suenaga)を見ればわかるように、鎌倉中期には貧窮した御家人が多く見られました。

安達泰盛は、貧窮する御家人が、実際には土地の売却や質入れ契約なのに、親子の契約を結んで譲与したという書類を作成して権利の移転を行う偽装の親子契約(養子)を禁止しています。(追加法)
一方で、非御家人や一般の人々が相伝(相続)・請所(経営委託)・沽券(購入)・質権(質流れ)と称して関東御領を経営している者が多く、その一覧を提出するよう守護に命じています。

幕府が成立して百年もたつと御家人と関東御公事を賦課された御家人の領地との間にズレが生じてきたのです。 安達泰盛の改革は、方向としては間違っていなかったのですが、元寇の負担を間接的に受ける形になった御家人を置き去りにしたところに問題があったようです。


弘安八年(1285)、十一月の霜月騒動で安達泰盛とその与党を滅ぼした平頼綱(yorituna)(得宗家・内管領)は、御家人の地位保証を第一に行いました。  弘安十年には、祖父母が鎌倉幕府から下文を賜っていれば、知行する土地が無くても御家人としての身分を保証するとの法を定めています。  また異国警固の番役を負担する御家人たちに対しても、小弐経資・大友頼泰・宇都宮通房・渋谷重郷の合議による、訴訟を受理するか否かを判断する鎮西談議所が置かれ、九州で起きた問題については博多で第一段階の判断をする体制を維持しました。

平頼綱は得宗家の家政を運営した能吏だけに、眼前の問題を処理する能力は高く、安達泰盛が指導した体制の良い部分を継承する柔軟性を持っていました。 しかし、頼綱は御家人の疲弊という現状を打破するための政策を打ち出すことが出来ませんでした。 力によって逆らうものを抑えつける強権的な政権運営へと傾斜し、人望を失っていきました。


やがて、得宗・北条貞時(sadatoki)(時宗嫡男)は内管領・平頼綱を更迭し、攻め滅ぼしました。 そして自らが政権を主導する専制体制を築き上げました。  (平禅門の乱)
しかし、霜月騒動と平禅門(heizenmon)の乱で幕府を代表する派閥が共につぶれたため、得宗・貞時は、北条師時(morotoki)・北条宗方(munekata)・北条時村(tokimura)といった一門で人材を埋めるることになりました。  安達泰盛の支持派に見られていた金沢北条氏三代の北条顕時(akitoki)もこの時に復帰しています。

八幡宮・一の鳥居から本殿を望む
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和賀江島から江の島を望む  右・稲村ケ崎
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名越・切通し
名越・切通し
次回に続く

丁酉・乙巳・辛巳

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鎌倉北条氏

2017.04.20(07:32) 52

**全盛時代の到来

**文永の役

元との戦いに備えた幕府は、九州に領地を持つ御家人に、領地に降って駐留することを命じました。  また、鎮西奉行と大宰府小弐を兼務する小弐資能(sukeyosi)は,現場で戦争の準備を進める重要な立場に立つことになりました

文永の役(1274)で、元は高麗軍を主力とした軍事船団を派遣し、日本の戦法や戦力を調査しました。 この戦争は略奪が目的だったようで、博多の街を荒らして、略奪しただけで引き上げています。  日本軍が元軍を撃退したのか、元軍の戦略が一撃離脱だったのかは、研究者によって判断が分かれるところです。 私は後者と考えます。

この戦闘の後、日本は報復のための異族征伐(高麗遠征)と異国警固の二本立ての戦争計画を立案しました。  北条実政(sanemasa)・(時宗・弟)は、異族征伐の将軍に任命され、大軍を率いて博多に下った。  その後高麗遠征は中止された、肥後国守護代として駐留することになりました。
さらに、元との戦いは朝廷・幕府を合わせての挙国体制を取ることになりました。朝廷は鎮護国家の祈祷を担う権門社寺や諸国一之宮などに異国降伏の祈祷を依頼し、盛大な祈祷を行いました。  鎌倉でも、鶴岡八幡宮を中心に異国降伏の祈祷が行われました。
八幡宮・一の鳥居(鎌倉市・由比ヶ浜)・(向海岸)
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八幡宮・二の鳥居(鎌倉市・雪ノ下)・段葛方面
二の鳥居
八幡宮・三の鳥居(鎌倉市・雪ノ下)
三の鳥居

戦争は日本と元との間の国家間のものとなる為、幕府は朝廷の許可を得て本所一円地住人に対しても軍勢催促を行う権限を獲得しました。  その結果、朝廷と幕府双方の現地担当として書類を取り扱う事の出来る小弐資能(sukeyosi)に仕事が集中していきました。

*本所一円地住人・・・・・(御家人以外の住人)

元との戦争という非常事態の中、幕府は巨大な非常大権を手中に収めたのです。

弘安の役(1282)で辛うじて元軍を退けた鎌倉幕府は、軍事を担当する権門武家として体面を保つことが出来ました。 しかし、その後の政治的な展開を見ると、この勝利が大きな代償を払うものであったことが次第に明らかになっていきます。

**勝利の代償

元との戦いは、終わりなき戦争でした。 日本は文永・弘安の役を守り抜いたものの、元の皇帝は日本遠征の意思を捨ててはいませんでした。 さらに、第三次遠征の準備を進めていました。 そのため幕府も戦時体制を説くことが出来ず、鎮西の御家人と本所一円地住人の異国警固の体制が継続された。 当然、その駐留経費の負担も継続されました。

弘安五年(1282)、執権・北条時宗が蒙古襲来の戦没者供養のため、鎌倉山之内に円覚寺を建立する。 開山は無学祖元(mugaku・sogen)。  翌年に寺領として尾張国富田荘(名古屋市)を寄進し手厚い保護を与えた。(円覚寺文書)

二年後の弘安七年北条時宗が亡くなると、鎌倉幕府は得宗家の外戚安達泰盛(yasumori)と、得宗・北条貞時(adatoki)の乳母夫・平頼綱(yorituna)の対立が顕在化してきた。  この対立は文永九年頃から表面化していましたが、得宗・時宗の求心力と元の外圧によって抑え込まれていました。
時宗の死が、鎌倉幕府の権力闘争に対する歯止めを外すことになったのです。次回に続く

丁酉・乙巳・丁丑

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鎌倉北条氏

2017.04.16(07:03) 51

**全盛時代の到来

*元寇がもたらしたもの

文永五年(1268)正月、元の国書を携えた潘阜(hanfu)が博多に到着した。
太宰小弐(dazaisiyouni)と鎮西奉行を兼ねた小弐資能(sukeyosi)は、国書を鎌倉に転送しました。  国書を受け取った幕府は評定を開いて議論し、使者を上洛させ、朝廷の判断を仰ぐことにしました。
亀山院の評定は結論を出せませんでした。 その中で、近衛基平(motohira)・(公卿)等が返牒に及ばずと強硬に主張したと伝えられる。

*小弐資能(siyouni・sukeyosi)・・・・・・北九州の御家人

結局、朝廷は国書に対して回答しないことを決定し、幕府はこの決定を受けて、讃岐国など西国の守護に対して警戒態勢を取る様に通達した。

要領を得ない対応をされた藩阜は、帰国して日本は意思決定できないでいると報告されました。  元(genn)の皇帝は日本の煮え切らない態度に苛立ち、日本が元と南宋との対立に関与しないように再度、使者を派遣することを決定した。

元の国書が到来したことに危機を感じた鎌倉幕府は、文永五年(1268)三月、執権・北条政村と連署・北条時宗(tokimune)・(十八歳)を入れ替える異例の人事を行いました。 幕府の職制で、執権は将軍に次ぐ地位にあり、執権を辞めるときは、引退するか、出家をする時でした。 連署への降格は、この北条政村の一例のみです。
北条時宗菩提寺・臨済宗円覚寺派本山・鎌倉五山第二位・円覚寺山門
円覚寺山門
円覚寺・三門
円覚寺三門
円覚寺・正続院禅堂

正続院(禅堂)
鎌倉幕府が組織を挙げて元と戦うためには、北条氏本家の家長が執権として指揮する必要があったのでしょう。


*二月騒動

文永九年(1272)二月、北条氏の本家は、六波羅探題南方・北条時輔(tokisuke)・(時宗異母兄)と分家の名越時章(tokiaki)‣教時(noritoki)兄弟を攻め滅ぼしています。
北条時頼は時宗を嫡子に定めていましたが、時輔の有能なのが知られてくると一族の結束を乱す存在になると考えたのでしょう。また、名越教時が文永三年に前将軍・宗尊親王(munetakasinnnou)を京都に送り返したときに、それを阻止しょうと鎌倉中で威嚇行動を行った事も、本家から監視される要因になりました。 しかし、討伐の対象を名越時章まで広げた事には異論があり、安達泰盛(yasumori)の強硬な批判に遭って名越時章討伐を行った得宗被官が一転して罪人になる悲惨な事件も起きました。
無実とはされたものの、名越時章の肥後国守護職は没収されて安達氏に与えられ、名越氏はこの事件を最後に北条一門の中の反主流という立場を失うことになりました。  これによって、北条時宗主導の鎌倉幕府は総与党体制となったのです。  次回に続く

丁酉・乙巳・癸酉

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鎌倉北条氏

2017.04.12(07:00) 50

**全盛時代の到来

*得宗専制

宝治合戦によって三浦氏と鎌倉幕府草創以来の坂東の御家人が数多く没落し、北条とその姻戚安達氏(adatisi)が一人勝ちする結果に終わりました。 宝治合戦以後、鎌倉を舞台とした大きな政変は無くなり、巨大化した北条氏が鎌倉幕府を主導する 「北条氏の平和」 と呼んでも良い安定した時代に入りました。
この政治体制は、北条氏本家の家長が幕府を主導する事から 「得宗専制」 と呼ばれています。

巨大化した北条氏は、北条家の意思決定を行う会議として寄合(yoriai)を組織し、北条氏一門・北条氏を支持する有力御家人や幕府の高官、北條家の被官の有力者の合議によって得宗家の意思決定を計りました。
北条氏とその支持勢力が多数派を占める幕府では、幕府の方針について検討する会議評定は多数派の北条氏の意見が優先され、担当者による現実的な部分修正といった現場の意見を尊重する調整が行われる程度のものとなった。
しかし、幕府の公式見解は、幕府の公文書や評定の結果を整理した事書(kotogaki)といった書類として対外的に示されるため、寄合の追認にすぎない評定であっても制度として形式を踏まなければなりませんでした。
この体制で政権運営が行われた五代執権・北条時頼・六代執権北条長時(極楽寺)・七代執権北条政村(常盤)の時代が、戦争のない繁栄の時代となるのです。


**北条実時と金沢北条氏の成立

ここで、レポートを金沢北条氏の成立と成長に移します。
金沢北条氏は、二代執権・北条義時(yositoki)の子実泰(saneyasu)が武蔵国・六浦庄(muturanosiyou)を相続したことに始まります。 六浦庄は武家の都鎌倉の東に隣接する荘園で、鎌倉の防衛拠点である事、鎌倉で消費する物資を陸揚げする六浦津を領内に持つ事、六浦津と鎌倉とを結ぶ六浦道が通っている事など、鎌倉の後背地として重要な荘園でした。 金沢北条氏は、この重要な荘園を管理する仕事を任されたのです。
六浦道を整備‣朝夷奈切通しを開通
朝夷奈・切通し
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北条実泰(saneyasu)は、六浦庄蒲里谷郷(kamariyagou)に館を構えました。 北側から山越えをして鎌倉に入る白山道を抑える要害となる処です。 三代執権北条泰時は、仁治二年(1241)、朝夷奈切通しを改修し、六浦津と鎌倉を結ぶ六浦道の輸送力を高めました。  それに伴い、北条実時(実泰・子)は本拠地を釜利谷(kamariya)から金沢に移し、金沢郷を館と菩提寺と城郭を集めた複合区画として整備しました。
北条実時の金沢郷開発により、六浦庄は港湾地帯の六浦津と金沢郷の二つの拠点を持つ様になりました。

金沢北条氏二代北条実時は、北条泰時から嫡孫・経時(tunetoki))の腹心として抜擢され、小侍所別当として将軍御所に出仕する御家人の管理をする仕事に就いていました。
侍所は幕府に所蔵する御家人を管理する役所、小侍所(koamuradokor)はその中から将軍御所に出仕して仕事をする御家人を選抜して管理する役所です。
小侍所の成立によって、御家人は将軍御所に出仕する小侍所簡衆(fudasiyuu)と一般の御家人の二階層に分かれました。

先の宮騒動で,実時は将軍御所に集まった御家人を率いて大殿九条頼経(yoritune)の支持勢力を封鎖して分断する重要な役割を果たしました。

急遽、兄の跡を継いだ五代執権時頼は、前政権の人材をほぼそのまま踏襲した。    実時は、執権・時頼が始めた寄合衆に選ばれ、腹心として活動を始めました。
北条時頼の信頼できる側近として、引付衆・評定衆・引付頭人と順当に昇進し、金沢北条氏を一門の中でも重臣に列する家に昇格させました。

北条実時は、鎌倉の西御門(nisimikado)と甘縄(amanawa)に館を持っていました。  鎌倉の館は災害に弱く、実時は京都の公家や官人に倣って、本拠地の金沢に館と文庫を構え, 鎌倉の館には仕事に必要な書物を置くようにしました。
金沢文庫は金沢館の文庫(ふみくら)という意味で、仕事で使う書類や典籍は金沢館の文庫に納められた原本から写本や写しを作り、鎌倉の館に置かれたと思われます。
収集されたものには、漢籍、政務に必要な日記、記録、次第書、家政の運用に必要な書類や古文書、歴代家長の嗜好によって集められた書物群などが納められた。
金沢北条氏は、実朝の時代から裕福で知られた家だったようだ、書物を一冊づつ集めるのではなく、交渉してまとめて収集する傾向がありました。  この傾向は、称名寺の聖教にも見られ、時に珍品が混在したようだ。
次回に続く

丁酉・乙巳・己巳

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2017.04.08(09:00) 49

**幕政の転換

*引付衆の創設

農民政策の次に時頼は幕府組織の充実を考えていました。  引付衆(hikitusixyuu)の創設です。
建長元年(1249)、15人の評定衆の内から、北条一門の三人を選んで、三番編成の引付衆の各頭人に任じた。 まず泰時の四弟北条政村(masamura)、時房の四男・大仏朝直(tomonao)、時房の三男・資時(suketoki)である。
その後、二階堂、大曾根、小弐など官僚クラスの御家人から引付衆を選抜任命して、各頭人の下に配属させた。
各番の引付衆は頭人の下で会議を開き、担当案件に関する結論の原案を作成すると、それを頭人が評定衆会議に提出するのである。訴訟などの迅速化が、計られた。

*時頼の子孫

宝治合戦は、時頼の私生活にも一つの転換を迫った。  時頼は十三歳で毛利季光の娘を妻に迎えている。 ところが九年後の宝治合戦に、季光は三浦側に付き戦死しています。 事実上、時頼は妻の父を攻め殺した事になります。正確な処は判りませんが、離縁になったようだ。
その後、時頼に長男が生まれた。  幼名宝寿丸(houjiyumaru)。後の時輔(tokisuke)である。 生母は「時頼の妾」で、三河局と呼ばれた。幕府の女官だったらしい、正確な記録が無い。
何れにしても宝寿丸はあまり歓迎されなかったらしい。  乳人(menoto)に任命された諏訪盛重(morisige)が、固く辞退しているからである。


これと正反対だったのが、次男・正寿丸(siyoujiyumaru)・後の時宗(tokimune)です。  生母は時頼の正室で、連署の重時(sigetoki)・(極楽寺)の娘だったからであろう。 続いて正室は、福寿丸(fukujiyumaru)・後の宗政(munemasa)を生んでいる。
何れにしても時頼は、庶腹の時輔(tokisuke)には苛酷で、正室が生んだ時宗(tokimune)・宗政(munemasa)を偏愛した。 時宗が生まれる前に時輔は三男とされ、生母と共に時頼の小町館(現・宝戒寺)から追却されています。 そして時宗・宗政の為には、二人の幼名にちなんで、聖福寺までが建てられている。

*先日 4月4日時宗公の毎歳忌(円覚寺・仏日庵)に参拝してきました。  天候に恵まれ気持ちの良い半日でした。

 *北条時宗公菩提寺仏日庵DSCN2874.jpg
毎歳忌に参列された御家人たち  (許可なしにupしましたお許しを)
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カイドウが咲き始めました  (鎌倉市・臨済宗海蔵寺)DSCN2882.jpg

次回に続く

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2017.04.04(07:30) 48

**幕政の転換

*御家人の負担軽減

因みに鎌倉武士の社会では、毎年八月一日には、「八朔」(hatusaku)と称して相互に贈り物をやり取りし、御家人から将軍に対しても贈り物をする習慣があったようだ。 それが宝治合戦後に禁止された。 しかし、将軍に対する贈り物は執権だけがすることになった様だ。これは御家人救済の一策であったと思われます。

その後、京都大番役の期間が半減する措置が取られた。  かつて平清盛が三年間とした役、頼朝が半年間としたものを、更に時頼は三か月に短縮した。  同時に時頼は、大番役を勤仕する御家人たちを、23番(班)に編成した。 この措置の効果は、極めて大きかった。個々の御家人にしてみれば、5年9か月ごとに三か月の勤番という事になり、その負担は、格段の軽減になった筈である。

同じ時期に、将軍御所の新築移転という事が、幕閣で討議されたが、沙汰闇になったという、御家人たちに負担をかけまいという配慮が、根底にあったと思われます。  さらに寒中の的調が中止された。

*寒中的調・・・・・正月に行われた弓技大会。

しかし時頼の施政は、御家人たちを甘やかすだけのものではなかった。  将軍近侍の御家人の6番(班)編成の名簿が発表された中で、諸人が目を引いたのは、末尾に記された次のような通達でした。  「故なき不参が三度に及べば、罪科たるべし」と通達であった。

鎌倉の市制についても、時頼は配慮を払っていた。  宝治合戦直後に、鎌倉中の各保の奉行人に命じて、各保に流入している浮浪人を退去させたのは、その一例である。  ”鎌倉に行けば、何とかなる” とばかりに、鎌倉に流入してくるものが多かったのである。
次いで、鎌倉中の至る所にあった小町屋(商店街)が、次の7ヵ所に限定された。

*限定商店街・・・・・  大町・小町・米町・亀ヶ谷ノ辻・和賀江・大倉ノ辻・気和飛坂山上(化粧坂上)の7ヵ所

続いて、鎌倉中の諸小路に軒を差し出す事を禁じ、道幅を狭くしないようにと、下知された。また公定価格なども定められたが、この政策はどうやら失敗に終わったらしい。

鎌倉中・大町八雲神社
八雲神社・大町
鎌倉中・大町と小町の境・夷堂橋・石塔
夷堂橋・石塔

*北条時頼の撫民政策

農民に対する施策も、時頼は忘れていなかった。  その基本は撫民だった。
地頭が全権力を握っている地であっても、名主の主張に理があれば、その訴訟を受理したのです。  さらに、諸国の守護・地頭に対して、過分な年貢の取り立てを禁止する指令を出している。

*撫民政策・・・・・農民に対する融和政策     

次回に続く

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2017年04月
  1. 鎌倉北条氏(04/28)
  2. 鎌倉北条氏(04/24)
  3. 鎌倉北条氏(04/20)
  4. 鎌倉北条氏(04/16)
  5. 鎌倉北条氏(04/12)
  6. 鎌倉北条氏(04/08)
  7. 鎌倉北条氏(04/04)