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*「吾妻鑑」*

2017.05.30(07:26) 62

**吾妻鑑が語りたかったこと・・・

**結びつき

令旨と頼朝と時政の結びつきとは、正当性のシンボルと、東国に下ってきた武士の長者の貴種(kisiyu)と東国の豪族的武士の三っの合体に他ならない。 その何れを欠いても、幕府は成立しなかったであろう。 令旨抜きであったならば、すでに頼朝と時政の出会いは存在した。  頼朝抜きでは、東国の源氏に宛てられた令旨の効果はない。  時政抜きでは、頼朝の現実的根拠はない。
この三っの結びつきに、幕府の成立をみた 「吾妻鑑」 の編纂者の見る目は、幕府成立の秘密を良く見抜いているというべきであろう。  だが令旨と頼朝の二つはともかく、他の豪族ではなく、時政がそれらと結びついている点に 「吾妻鑑」 の意図が浮かび上がる。 さらに時政から始めなければならない必然性は無いし、 他の豪族であっても可能性はあったと思われる。  頼朝は挙兵にいったんは成功したが、石橋山で敗れ、以後東国の豪族の許を経廻りながら、鎌倉に入っています。
その豪族とは三浦・千葉・上総・秩父等の諸氏である。  「吾妻鑑」 の記述は、その中で頼朝の器量が認められる事によって、東国の主に成長していったと云う様に描かれているのだが、他の諸豪族のそれぞれにとっても、令旨を携えた頼朝との出会いは重要な意味を持っていたはずである。

〇 吾、源家累代の家人として幸いにも貴種再興の秋(toki)に逢うなり、  (三浦氏)
〇 源家中絶の跡を興せし給ふの条、感涙眼を遮る、言語の及ぶ所に非ず、  (千葉氏)
〇 其の形勢、高峻の相無くんば、直ちに討ち取り平家に献ずべし、殆ど人主の体に叶うなり、これによりて忽ち害心を変ず、(上総氏)   

この様に 「吾妻鑑」 に記された頼朝との接触の情況は、仮にそれぞれの豪族が後に滅ぼされることなく、幕府内に置いて実権を有することが出来たならば、それぞれの 「吾妻鑑」 の始まりとして意識された事でありましょう。

元々東国の豪族が都から下ってくる貴種を迎えることは広く行われてきた。 これ以前に頼朝の父義朝を房総半島に迎えたのは上総氏である。  義朝が下総国相馬御厨(mikuriya)を襲撃したとき、その後ろ盾は上総常時(tunetoki)が行ったという、また義朝が相模の大庭御厨に乱入した際、義朝は 「上総曹司」 と呼ばれていたと云う。
やがてその義朝を鎌倉に迎えたのは三浦氏である。 義朝は鎌倉亀ヶ谷(kamegayatu)に居館を構え(現・寿福寺)、三浦氏の娘との間に長子「鎌倉悪源太」義平(yosihira)を儲けている。 この義平は、武蔵国大蔵館に住んだ叔父の義賢(yosikata)(義朝・弟)を討ったが、義賢もまた武蔵国秩父氏に迎えられていたのである。
義朝の居館跡・現扇ヶ谷・・・寿福寺参道
寿福寺・参道

これは東国の豪族の 「家」 が、貴種との結びつきで起こされた事と良く関係している。  頼朝の挙兵から南関東への進出は、多くの家々を生み出す効果があったと。 家とは何よりも意識の問題であり、その意識に媒介された結合の問題である。 関東の家々は都から下ってきた貴種の動きに触発されて生まれ、またその家々が連合して貴種を擁して作り上げたのが幕府という 「武家」 の権力なのです。

後の承久元年(1219)正月、将軍実朝は鶴岡の社頭で暗殺されたが、その後継者として皇族将軍の下向を要請した使者は、 「宿老の御家人」 が連署する奏状を携えていた。  その弐年後に起きた承久の乱では、討幕の宣旨に抗して、幕府は東国十五ヵ国の 「家々の長」 に対して出陣する様に触れている。
明らかに幕府は東国の家々の集団からなっていたのであり、頼朝の初期には南関東の家々だったものが、東国十五ヵ国の家々へと広がり発展してきたわけである。

「吾妻鑑」 は、その家々の中でも中心に位置したのが北条氏であると主張している。  良く知られているように将軍家の関係者と共に、北条氏についても 「北条殿」 「北条主」 「江間殿」 など敬称を付けているのはその一端である。 そして幕府の端緒を、以仁王の令旨を時政が頼朝と共に披くことに求めたのであった。  幕府は東国の家々を代表する北条氏と、令旨を帯した 「将軍」 頼朝とともに始まったというのが、 「吾妻鑑」 の語りたかったことではないでしょうか。・・・・    次回に続く

丁酉・丙午・丁巳
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*「吾妻鑑」*

2017.05.26(05:59) 61

**吾妻鑑とその特徴

**東国の幕府 ・ 幕府の東国

鎌倉幕府は治承四年の挙兵時から政治的主張の強い集団だった。  まず以仁王の令旨(riyouji)を利用して東国一帯の支配権を主張していた。  さらに寿永二年(1183)の十月宣旨では東国支配権を獲得している。  これは藤原秀衡の陸奥・出羽両国の支配を併合するもので、 「御舘は奥六郡の主」 「予は東海道惣官」 というのが、当時頼朝の認識であったと思われる。   (吾妻鑑)

*御館(mitati)・・・・・御舘(oyakata)の意。藤原秀衡の事。

頼朝が容易に上洛できなかったのは、奥州藤原氏の脅威があったからだといわれ、頼朝の上洛は藤原氏の滅亡によって実現した。元々幕府の基盤であった関東(東国)は、院政期を通じて京都の政権と奥州世界とのはざまにあった。  その地に源氏の貴種(kisiyu)たちが下向しては、関東の武士団に擁されながら、死闘を繰り返していました。  まさに頼朝もそうした一貴種にすぎなかった。  その中で頼朝が権力を築いていく過程で模範としたのが、清盛であり、奥州藤原氏であったと思われる。 

その後。この二つの権力を征服することによって、それぞれの権力が築いてきた権力・権限を掌中に収め、幕府の権力基盤にしたのです。  藤原氏の所領と平氏の所領を得て、その地に地頭(jitou)をおいて、関東御家人を任じたのはその表れである。


鎌倉幕府の支配領域としての東国の範囲は、頼朝が挙兵して鎌倉に入った段階では、伊豆・相模・武蔵と房総三ヵ国の南関東。 平氏を富士川の合戦で破り、次に常陸の佐竹氏を破って鎌倉に戻った時点で、駿河・常陸・下野を含めてほぼ関東全域にいたった。  (吾妻鑑)

**十月宣旨

それまでは以仁王令旨を根拠に東海・東山・北陸三道の支配権を主張してきた頼朝は、義仲(木曾)が平氏を西に退けた後を受け、朝廷との接触によって、これら三道の支配権を公認させたのである。
その内容は、頼朝の力により東国の荘園・公領を元の様に安堵するというもので、朝廷の支配権を認めつつも別次元の所で東国の支配権を確立したのであった。  (十月宣旨について)

幕府は、限定された固有の領域としての東国に独自の世界を作り上げていきました。  文治元年(1185)、平氏が滅びた時、平氏追討の為派遣した東国の武士が許しを得ずに勝手に任官した事で頼朝は激怒し、無断任官した者の墨俣(尾張・信濃)以東への帰京禁止令を出している。   彼らを 「駘馬の道草喰い」 と罵倒した頼朝は、もしも禁を犯せば断罪に処すとしている。    (吾妻鑑)

**常陸と親鸞

東国と云っても一様ではない。  鎌倉幕府の固有の領域としての東国十五か国の内では、鎌倉とその周辺の駿河・伊豆・相模・武蔵の東海道四ヵ国が東国の中心地を形成しており、さらに周辺諸国の一角に、親鸞の赴いた常陸国がある。
どうも鎌倉時代の常陸は特別な国であったらしい。  親鸞がここに住んだだけではない。 奈良西大寺にあった律宗の忍性(ninsiyou)が最初に下って根拠地としたのがここの三村寺(mimuradera)である。 一遍(itupen)が鎌倉に入る前に布教を試みたのも常陸である。 他にも日蓮宗・禅宗も入り、常陸は鎌倉と並んで新仏教のすべてがそろって盛んな布教を行った土地である。
親鸞が常陸を選んだのは、親鸞の個人的事情もさることながら、政治的条件が大きな意味を持っていた。  陸奥は幕府の直轄地としての色彩が強く、北条氏によって独自の支配が行われており、下総は幕府創設以来の豪族千葉氏の支配が成されていることを考えると、常陸のみが、鎌倉の政権と直結しない独自性を保ち幕府体制から比較的に自由な国となっていた訳である。

さかのぼってみれば、頼朝が挙兵し、鎌倉幕府を樹立する行動に、常陸の人々は乗り遅れた感があります。  常陸・奥郡を勢力範囲とする佐竹氏、國府を中心に治めた常陸平氏等の有力武士団は挙兵に参加しなかった。   この影響は長く続き、幕府成立後常陸国内に地頭が派遣され、あたかも幕府の植民地のような状態に置かれ、在地住人は抑え込まれた。 一方、その分違った発展の方向を目指すことになったのであろう。

元々都から見ても常陸国は、特別な位置にあった。  東海道の果ての地であり、武神として鹿島社が祭られ、王城鎮護の神とされていた。  田積四万町は陸奥国に次いでの大国であり、親王任国とされた。  中・下級貴族はこの常陸の受領(zuriyou)となる事を望んだ様だ。  また流刑の国としても知られ、不遇な貴族が流され、都の文化をもたらした所でもある。

*親王任国・・・・・親王が国守として赴任。(その制度)
*受領・・・・・平安時代・地方行政官筆頭者

東国に生まれた幕府は、北条得宗家を中心とした幕府に変化し、自らを 「公方」 (kubou)と称するようになっていた。  朝廷の独占していた 「公」 を、幕府が公然と名乗るようになったのである。 それは幕府固有の領域・鎌倉において、或は二度の元寇との激戦地九州に於いて、特に主張されるに至った。  (吾妻鑑)

この東国からの新たな自己主張と共に、 「吾妻鑑」 が編纂されされるに至ったと考えられています。  幕府にも自らの歴史を顧みる時代が到来したのである。   しかしながらまだ鎌倉は活力にあふれれいた時代、まさにその様な時に 「吾妻鑑」 が作られたのです。  次回に続く
鎌倉時代初期・刑場址  (鎌倉・山之内)(現・建長寺裏山)
建長寺・刑場址
建長寺・塔頭  回春院      刑場址付近
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建長寺・三解脱門・・・建長興国禅寺
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丁酉・丙午・癸丑

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*「吾妻鑑」*

2017.05.22(06:07) 60

**吾妻鑑とその特徴

*記事の特徴

 「吾妻鑑」 の記事は、貴族の日記と同じく和風漢文で書かれている。  一例として頼朝が政子を鎌倉に迎えて、鶴岡八幡宮を浜から移したときの記事を、原文と訳文を列記します。

治承四年十月・・・。
十一日庚寅。 卯刻。 御台所入御鎌倉。 景義奉迎之。 去夜自伊豆国阿岐戸郷。 雖令到着給。 依日次不宣。 止宿稲瀬河辺民居給云々。

治承四年十月・・・。
十二日辛卯。 快晴。 寅剋。 為崇祖宗。 点小林郷之北山。 構宮廟。 被奉遷鶴岡宮於此所。 以専光坊暫為別当職。 令景義執行宮寺事。

〇 十一日庚寅。 卯剋、 御台所、 鎌倉に入御し、 景義、 之を迎へ奉る。 去夜、 伊豆国阿岐戸郷より到着せしめ給ふと雖も、 日次、 宜しからざるに依り、 稲瀬河辺の民居止宿し給ふと云々。
〇 十二日辛卯。 快晴。 寅剋。 祖宗を崇めんがため、小林郷の北山を点じ、 宮廟を構へ、 鶴岡宮を此の所に遷し奉る。 専光坊を以て暫く別当職と為し、 景義をして宮寺の事を執行せしむ。


*景義・・・・・大庭景義・鎌倉初期の御家人(大庭景親兄弟)
*稲瀬河・・・・・由比ヶ浜に流れ込む河川。
*小林郷北山・・・・・現・八幡宮若宮
稲瀬川・石塔 (鎌倉市・由比ヶ浜) 治承四年、御台所・政子鎌倉入の記述あり。
稲瀬川石塔
元八幡宮本殿及び石塔(鎌倉・由比ヶ浜)
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元八幡・石塔

この様にその日、その日ごとの干支と天候、時刻を記し、当日に起きた事を記しているが、天候や時刻などは記さない場合も多い。
これは原資料の違いに基ずくと思われる。  また一連の事件はそれぞれに起きた日に分割して記され、同じ日に違った内容の記事がある場合には、多くは 「今日」 という形で続けて記している。

出来事は鎌倉が中心となって記されており、遠方で起きた事件も情報が鎌倉にもたらされた場合には、その鎌倉に伝わり、鎌倉で処理されたりしたときにかけて記されている。

人名の記載は、基本的には官位がある場合にはその官位で記される。  頼朝の場合で言えば、兵衛佐(hiyouenosuke)であったことからその唐名(toumiyou)である 「武衛」 や 「前武衛」 、二位で叙された後には 「二位」 「二品」 などと記され、敬語によってその行動が語られている。  さらに頼朝の兄弟や源氏の一門などは官職か、さもなければ実名の後に 「主」 (nusi)がつけられた。
ある記事では、義経は検非違使(kebiisi)の左衛門少尉(saemonnosiyoujiyou)である。 「廷尉」 (teii)と記されたり、 「義経主」 と記されたりしている。

ただし北条氏の場合、時政に官職が無かった時には 「北条殿」 と記し、その子らには、実名や苗字に 「主」 を付している。 「吾妻鑑」 は北条氏に特別な記載をとっている。   次回に続く

丁酉・丙午・己酉

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*「吾妻鑑」*

2017.05.18(07:22) 59

**吾妻鑑とその特徴

**成立時期と編纂の意図

「吾妻鑑」 の編纂については二段階編纂説が定説であった、源氏三代の将軍記は文永年間(1270年前半)に成立、それ以後の将軍記は正応三年(1290)から嘉元二年(1304)の頃に成立したという説です。
しかし、最近の研究では 「吾妻鑑」 に収録された多くの文書を、編纂者たちが入手した時期を探った研究で、永仁の徳政令の発布の時期と関連するものが多く、従って成立は永仁五年(1297)以降に絞られています。 すなわち1300年の前後、第二段階の中に比定されます。

編纂者が誰であるかは明らかではありませんが、幕府の中枢部にあった北条氏の一門である金沢氏とその周辺であろうことが推定されています。 それと共に幕府機構の門注所を担ってきた三善氏(miyosi)の関与が注目される。

編纂された時期には御家人の家の内部では所領を巡る争いが激化しており、そのことが 「吾妻鑑の」 編纂と大きな関係があったと考えられ、幕府を形成しその後の執権政治を担ってきた御家人達の間には、この時期に動揺が始まっており、そこで彼らの家の形成された歴史を遡って探る事で、家の立て直しを計ったり、改めて朝廷に対して幕府がいかなるものかを問う意図などもあって編纂されたと考えられています。

「吾妻鑑」 は、鎌倉幕府の始まりを、京都で出された平氏を討てとの以仁王(motihitoou)の令旨が伊豆の北条館にもたらされ、源頼朝・北条時政(tokimasa)の手によって開かれる場面に求めています。  「吾妻鑑」 治承四年(1180)四月二十七日条から。

**高倉宮令旨。 今日到着于前武衛伊豆国北条館。 八条院蔵人行家所持来也。 武衛装束水干。 先奉遙拝男山方之後。 謹令披閲之給。   (中略) ここに上総介平朝臣五代孫北条四朗時政主者。 当国豪傑也。 以武衛為聟君。 専顕無二忠節。 因玆。 最前招彼主。 令披令旨給。

・・・「吾妻鑑・現代語訳」・・・
高倉宮の令旨、今日、先武衛、伊豆国北条の館に到着す。  八条院蔵人行家の持ち来る所なり。 武衛(頼朝)、水干を装束き、先ず男山の方を遙拝し奉るの後、謹んで披閲せしめ給う。 (中略)  ここに上総介平直方朝臣五代の孫北条四朗時政主は、当国の豪傑なり。 武衛を以て聟君と為し、専ら無二の忠節を顕はす。 玆に因り、最前に彼の主を招き、令旨を披かしめ給う。

*水干・・・・・この時代の男子が身に着けた簡素な衣装。
*男山・・・・・京都・石清水八幡宮

以仁王・令旨に象徴される朝廷の権威と頼朝という武士の長者、さらに時政に代表される東国の武士団、これらの三者の結びつきによって鎌倉幕府が始まった、というのが 「吾妻鑑」 の考える幕府成立の端緒と考えられています。
京・石清水八幡宮一の鳥居
石清水八幡宮
本殿
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**編纂の方法と資料は・・・?

「吾妻鑑」 の編纂の材料としては、朝廷に仕えていた文士が鎌倉に下ってきて幕府の奉行人となった結果、彼らが記していた日記がまず挙げられる。 幕府の政所に関わった大江氏や二階堂氏、清原氏、門柱所に仕えた三善氏等が記していた日記です。

続いてそれらの奉行人の家に残された文書や記録も挙げられます。 朝廷から届いた文書や武士が提出した文書など、 また裁判に関係して提出された文書の数々がある。

次に、歌人の藤原定家の日記 「明月記」 が引用されている事が解っています。  将軍実朝の時代には京の文化が多く取り入れましたが、その時代の都の情勢や動きを記している 「明月記」 が用いられた事は当然だと思われます。 「明月記」 と同じ内容の記事が記載されていても不自然ではない。

 「明月記」 は定家から為家を経て為相(tamesuke)へと伝えられたが、為相は所領争いなどで鎌倉に滞在する事が多く、その訴訟の関係上からと、和歌や蹴鞠の関係からも幕府の奉行人との接触があって、この時期に編纂者が入手したことが考えられます。

日記といえば、源平の争乱期、幕府の動きを多く記す朝廷の有力貴族の日記 「玉葉」 「吉記」 などもあるが、これらを 「吾妻鑑」 が材料として引用した形跡は見当たらない。  奉行人らには入手困難な書籍だったと考えられる。  他に軍記物語である 「平家物語」 や 「承久記」 なども引用した跡は見つからない。

扨て編纂は将軍ごとに担当者が定められて行われたものと考えられていますが、 しばし、将軍末期の記事が欠けたり、曖昧な記事が多く見られるが、その事によるものであり、 「吾妻鑑」 は未完成であったといえよう。 それもあってか誤りも在る様だ、年次を間違えて記事を入れる、切り貼りの誤りが多く見られます。また、三月と五月、三年と五年などの張り間違い等もあるので要注意です。  次回に続く

丁酉・丙午・乙巳

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*「吾妻鑑」*

2017.05.14(15:43) 58

**吾妻鑑とその特徴

**どのような書物か・・・

「吾妻鑑」は鎌倉幕府将軍の年代記という形の歴史書として編纂されたものです。  治承四年(1180)四月九日条の、東国の武士に挙兵を促す以仁王(motihitoou)の令旨(riyouji)が出されたという記事に始まって、文永三年(1266)七月二十日条の、鎌倉を追われた前将軍宗尊(munetaka)親王が京都に戻ったところで終わっている。,

これまでの歴史書と云えば、「古事記」や「日本書紀」に始まって、西国の朝廷中心の歴史を記したもが中心であったが、「吾妻鑑」は東国に生まれた武家政権の歴史を綴っている点が大きな特徴である。そのため鎌倉幕府の動きや東国の情勢を始め、朝幕関係や武士の在り方などを探るうえで基本資料となっています。  

「吾妻鑑」には、武家政権がどの様に形成され、展開されていったのかが記されていることから、多くの関心をもって読まれてきた。 徳川家康が好んで読んだ事は良く知られていますが、同じ関心によるのでしょう。
武家政権は武士たちの日常の動きの中から形成されてきたが、頼朝はその武士たちをまとめて、如何に朝廷から自立した政権を築いていったのか、その腐心した様をそこから窺い知ることが出来き、さらに鎌倉を中心とした東国に生まれた社会や文化の在り方もうかがえる。

また度重なる合戦の記事や幕府の御所でのエピソードは、武士たちが如何に行動してきたのかを雄弁に伝えています。
特に源平合戦や義経の動きについて詳しく記し、続く奥州の藤原氏との合戦についてても詳しい。  これは幕府が武士の集合体であることからして、この点への関心の強さに基づくものだが、これらの記事は合戦の記録を記した右筆(yuusitu)や軍奉行の記録・報告、合戦に従軍した武士たちが軍忠(軍功)を求めての訴えやそこからの聞き取りなどに基づくものと考えられ、信頼度は比較的高いと思われる。
なかでも頼朝が奥州の平泉に進駐したときの記事は、奥州藤原氏を考えるうえで基本となる貴重な資料となっている。

尚、  現代の日本社会につながる習慣や政治の運営の在り方が、実はこの時代に生まれたものであることが、 「吾妻鑑」 の 記述から伺えます。  幕府の政治は、将軍の 「独裁」 に基づく体制から、武士たちの 「談合」 による政治へと大きく転換していったのであり、その点を 「吾妻鑑」 は詳しく記している。  評定、寄合、談合など、御家人たちが整えてきた政治運営の方式は今日の日本の政治の在り方につながっていることが良く判ります。


** 「吾妻鑑」 の記事は、貴族の日記と同じく 「和風漢文」 で記されているので、通読はなかなか難しい。  しかし、有難いことに現代語訳の 「吾妻鑑」 が出版されており、今回の記事はこの書籍を参考にレポートを進めます。

次回に続く          丁酉・丙午・辛丑

**本編・予告**

治承四年(1180)庚子(kanoene)

四月小(siyou)
九日、辛卯(kanoto u)。 入道源三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。  しかし、自分一人の力ではとても願いを遂げることは難しいので、この日、子息を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王(motihitoou)がお住いの、三条高倉の御所に密かに参上した。 

「源頼朝を始めとする源氏に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになってほしい。」 と申し述べると、王は、藤原宗信(munenobu)に命じて令旨を下された。  そこで在京中の陸奥十郎義盛(源・行家)に 「この令旨を携えて東国に降り、まず頼朝に見せた後、他の源氏に伝えるように、」とよくよく仰せられた。

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鎌倉北条氏

2017.05.10(06:01) 57

**南北朝動乱

**気付いた御家人たち

鎌倉幕府の変質に御家人たちが気付いた時、鎌倉幕府、そして特権的支配層に明日は無かったのです・・・・・。  
鎌倉幕府は、平安期におよそ三百年にわたり、殺し合い、潰し合いを繰り返しながら成長してきた東国の武士たちが、大同団結を果たすことによって作り上げた我が国最初の本格的な武家の政権でありました。

結集した東国武士団の軍事力を原動力に、鎌倉幕府は王朝と戦い、王朝から領域と諸権限を次第に奪取し、承久三年(1221)の戦いに勝利し、王朝を圧倒しました。

ところが、命を懸けて鎌倉幕府を作り・育て・守った東国武士たちの子孫である鎌倉後期の御家人の大半は、幕府の変質、特権的支配層の幕府支配によって、政権中枢から排除されてしまう。  その一方で、鎌倉番役・京都大番役・異国警固番役や各種の造営事業などの軍事的・経済的負担はかれらに課せられ続けたのです。

加えて、西国を統治すべき王朝は、承久の乱の敗北により鎌倉時代を通じて統治能力を急激に衰退させていきました。 これは王朝によって処理されるべき西国の問題に対し、王朝側が幕府の介入を要請する結果をもたらした。
「武家政権」 「東国政権」 という鎌倉幕府の本質からすれば、西国の問題は本来係る必要のない、重要度の低い事でありました。  一般に幕府が将来の皇位継承問題に介入したとされる「文保の御和談」も、幕府が争う両皇統に「話し合い」を呼びかけたにすぎません。  しかしながら、後期鎌倉幕府政権は西国の諸問題に振り回され、その解決のために御家人への動員を繰り返す事となったのです。  「軍事権門」という、もう一つの側面こそ鎌倉幕府が西国の問題に介入せざるを得なかった要因である。

鎌倉幕府は、体力的には東国の地方政権以上のものではありませんでした。  にもかかわらず、国家の治安を一手に引き受ける軍事権門として自己を規定してしまった為、能力を超えて対蒙古戦争を含めた西国の問題に介入せざるを得なかった。 現実としては東国政権にすぎなかった鎌倉幕府自身が、言わば身の程知らずの権門体制論者であったのかも知れない

源平合戦は、東国に於いて平安後期以来の抗争の結果、所領分割の行き詰った武家社会において、各武士団間に合ったそれまでの秩序を一旦ご破算とし、新たな秩序を構築するための、極端ではあるが「一斉殺し合い」であったと言うことが出来る。 すなわち、源平合戦期の武士団は、頼朝に味方するか、戦うかの選択を迫られ、その結果、勝者が敗者の遺産を総取りにして再分割し、それ以上の戦いを停止するために構築されたものこそ、幕府=御家人制という秩序であった。

だが、百五十年余年の歴史を経た結果、鎌倉幕府・御家人制は内外に大きな矛盾を抱え込んでしまう。  武士階級そのものを御家人と非御家人に分裂させてしまった上に、御家人内部では支配層と被支配層の分裂をもたらす。  結果、特に西国では「無足」と呼ばれる没落御家人が発生し、東国の御家人たちは幕府が西国の諸問題に対応するために、充分な見返り(御恩)を与えられぬまま、軍事的・経済的な負担(奉公)のみを強いられる。

鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱に事実上始まる南北朝の動乱は、武士たちにとっては新しい武家社会の秩序を構築するための、二度目の、熾烈な戦いであった。
無敵であった鎌倉幕府は、元弘三年(1333)五月、東日本を中心とする武士の総攻撃を受け滅亡したのである。

北条高時と共に東勝寺に自刃した主な人物は、北条氏では金沢貞顕(sadaaki)、常葉範貞(norisada),大仏家時(ietoki)。 外様に安達時顕(tokiaki)。  御内人に長崎円喜(enki)、諏訪直性(jikisiyou)。  幕府滅亡は、北条氏の滅亡ではなく、特権支配層の滅亡であったと考える。・・・・・  終り


*永らく愛読いただき有難うございました。     鎌倉北条氏の鎌倉幕府支配から滅亡までを、専門歴史書をレポートしながら自分の解釈を加えました。・・・・・・次回~の予定   「吾妻鑑」のレポートを考えています、金沢北条氏編纂と云われる鎌倉幕府の歴史書です。
「吾妻鑑」通読教本・・・・建久六年~正治元年条
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建久五年正月八日・安達盛長邸(甘縄)を訪問。  九日、御弓始の射手順が記される。

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鎌倉北条氏・系図
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丁酉・丙午・丁酉

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興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(2) | [EDIT]
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鎌倉北条氏

2017.05.06(07:10) 56

**滅亡

**連署・金沢貞顕(sadaaki)執権就任

正中三年(1326)三月、北条高時の病は重篤であると判断され、北条家の首脳部は高時の長子邦時(kunitoki)が家督を継ぐか、高時の弟泰家(yasuie)が家督を継ぐかで内紛が起こり、抗争に発展しました。  (嘉暦騒動)
泰家と邦時では得宗の後見となる外戚・乳母夫が変わるので、どちらが家督を継ぐかによって得宗家の権力構成が変わる為です。  高時の長子・邦時を推す一派は、邦時が成人して執権に就任するまでの中継ぎとして連署・金沢貞顕(sadaaki)の執権就任を求めました。
この一派には、長崎高綱(takatuna)・長崎高光(takamitu)・五大院宗繁(munesige)等の高時政権を支えた能吏や側近が集まっています。北条泰家支持派は、邦時が家督を継ぐと外戚の地位を失う安達氏が中心にいました。
両派の対立は、高時が出家を遂げた正中三年(1326)、三月から表面化しており、金沢貞顕(sadaaki)は高時と共に出家を遂げる考えでした。長崎高綱から若君(邦時)の扶持役を務めるよう依頼され、執権就任を承諾しました。  しかし、三月十六日に十五代執権に就任したものの、泰家支持派から貞顕(sadaaki)暗殺の噂が流れたため、金沢北条氏の滅亡を怖れ、引退を宣言、二十六日に出家してしまいました。

この顛末をみた北条氏一門の人々は次の執権はリスクの高い損な役回りであることに気づき、執権・連署に次ぐ序列にある引付一番頭・赤橋守時(moritoki)が覚悟を決めて就任するまでの一か月間、幕府は執権・連署不在という権力の空白を生じました。

後醍醐天皇の二度目の陰謀計画が露見した元徳三年(1331)四月、鎌倉幕府は日野俊基(tosimoto)・円観(enkan)・文観(bunkan)以下の後醍醐天皇の側近を捕縛し、内乱を未然に防ぎました。  これで収まれば良かったのですが、長崎高綱・高資以下の北条高時側近と長崎高瀬以下の邦時の側近との間で権力抗争が起こりました。  この事件は長崎氏内部の軋轢が根底にあるのですが、幕府が弱体化していることを対外的に示してしまいました。 この内輪もめが後醍醐天皇に立ち直るきっかけを与えることになり、八月の後醍醐天皇の挙兵(元弘の乱)へと繋がります。
後醍醐天皇・側近 日野俊基墓所(鎌倉市・葛原ヶ岡神社)
日野俊基墓所
鎌倉幕府最後の攻防戦場・化粧坂
DSCN2880.jpg
化粧坂切通し
化粧坂切通し~
北条高時の出家によって崩れた幕府の均衡は、最後まで回復する事は無かったのです。
九月、鎌倉幕府は、後醍醐天皇の挙兵を鎮圧するため、大仏貞直(sadanao)・金沢貞冬(sadafuyu)・足利高氏(takauji)などを大将軍とし、長崎高貞を御内御使とした上洛軍を派遣。・・・・・・後醍醐天皇譲位の手続きを取る為の使節として安達高景・二階堂氏を京都に派遣を同時に行っている。

この時の上洛軍は、後醍醐天皇の笠置城や楠木正成(masasige)の赤坂城などの宮方の諸勢力を鎮圧し、後醍醐天皇から光厳天皇(kougon)への譲位も行われ、治安の回復に成功しました。
しかし、楠木正成の二度目の挙兵に始まる第二次内乱は、上洛した幕府軍も連年の遠征に疲労が重なり意気上がらず、正慶二年(1333)、五月に六波羅探題・鎮西探題が相次いで攻め滅ばされました。   幕府最後の戦いは、後醍醐天皇の宮方と幕府との戦いというよりも、後醍醐天皇を擁する反北条氏勢力と北条氏を中心とした幕府首脳部とそれを支持する持明院統諸勢力との戦いとなり、北条氏が力尽きて滅ばされる形になりました。
 次回に続く

丁酉・丙午・癸巳

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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鎌倉北条氏

2017.05.02(07:43) 55

**滅亡への道

**北条高時と金沢(北条)顕時(akitoki)の政治

正和五年(1316)、鎌倉幕府を主導した最後の得宗となる北条高時が執権に就任しました。  次席の執権である連署(rensiyo)には老練な金沢顕時が留任し、高時の後見には得宗家の宿老・長崎高綱(takatuna)と外戚・安達氏の惣領安達時顕(tokiaki)が付きました。 この四人の協調体制が高時政権の基盤となりました。

北条高時の最大の弱点は病弱だったことで、金沢貞顕(sadaaki)・(顕時・嫡男)の書状から、貞顕と長崎高綱が高時の病状に一喜一憂していることが見てとれる。
この政権は高時に強いリーダーシップを期待出来ないため、前政権・父貞時の政策を先例として踏襲する先例主義で運営していくことを基本としました。そのため、安達泰盛や平頼綱が盛んに新法を発布して実力を示そうとしたのとは対照的に、表面上は現状維持を掲げながら、法令の解釈や運用の上では、実際に行いたい事に合致する先例を探し出して適用する柔軟な手法で政権運営を行いました。  社会の変動に対して、法令の改正ではなく、法令の運用で対応する手法は、無駄な労力を使わない省力的な政権運用でした。


北条高時自身は、暴君ではなく、周囲の人々から愛された虚弱な人でした。  北条高時を暴君としてイメージ付けてしまったのは、後醍醐天皇側の論調で鎌倉末期を記録した「太平記」の喧伝だと考えます。  彼が暴君でないことは、 「金沢文庫古文書」に残る金沢北条氏と称名寺の僧侶たちの書状から明らかです。  しかし、北条高時を中心とした政権の首脳部が鎌倉幕府の衰退を止められなかったのは事実で、組織を潰してしまった責任はあるでしょう。


北条高時政権が処理できなかった問題は、第一に、鎌倉や北条氏を中心とした政権中枢部への富の一極集中が進む中で、時代の変化に対応できない御家人の零落を止められなかった事です。  この事は、鎌倉は空前の繁栄を迎える一方で、冷害の被害を受けやすくなってきた東北地方が陥った内乱状態を解消できなかったことです。 「金沢文庫古文書」 の中にも、金沢貞顕(sadaaki)の従兄弟・顕瑜が知行する陸奥国の年貢滞納が問題となった時に、幕府の政所は政所賦課分を強制的に徴収しようとします。 地方は飢えても、定められた公事は徴収しようとするのが、幕府の官僚機構でした。

陸奥国の疲弊が進む中で、得宗家の有力被官・津軽安藤氏は家の存続をかけた縮小再編の問題で嫡流争いが納まらなくなり、異文化の蝦夷をも巻き込んだ内乱に発展させてしまった。鎌倉幕府は鎮圧軍を派遣して、これを収めましたが、陸奥国の治安の回復までは出来ませんでした。  東北の争乱は、幕府の統治能力の低下を外部に示す結果となりました。

第二の問題は、天皇家の皇位継承問題が泥沼の状態に陥り、それぞれの勢力が鎌倉幕府を味方につけようとした権力抗争に巻き込まれたときに、断固とした判断を下せなかった事です。  京都の政治問題は、本質的には大覚寺統が自分で処理すべき問題であり、持明院統も自力で大覚寺統に対抗する強さを持っていれば、幕府は無関係でいられた問題だった。

北条(金沢)貞顕(sadaaki)菩提寺・金沢・称名寺
山門
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三門
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本堂
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庭園・唐橋
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北条高時政権は、鎌倉幕府の中で大きな政変を起こさずに統治を行ったので、穏やかな政権運営が行われたと考えてよいでしょう。しかし、外部の要因に大きく揺さぶられ、幕府の衰退をを止められなかったことは事実であろう。 次回に続く

丁酉・丙午・乙丑

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2017年05月
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