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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.27(07:49) 69

**前将軍の送還

**三浦氏との協調

時頼は直ちに反対派を攻撃することは差し控えた。   鎌倉の住民たちは、合戦が起こりそうな情勢を察知して、財産・家財道具を避難し始めた。  時頼は得宗被官らに命じて鎌倉中の辻々を警備強化、交通上の要所を自らの兵で固めた。

夜半になって、武士たちが甲冑をつけ旗を掲げて走り回り、御所あるいは時頼邸に駆け付けた。 「名越光時の謀反が発覚した」 という噂が飛び交った。  うわさが広がったのは、おそらくは時頼方の情報操作によるもので、謀反の首謀者が光時であるとの認識を示し、頼経と分断することで、結束を乱そうとしたと思われる。

翌日になっても、相変わらず鎌倉は騒然としていた、特に時頼邸の警護は厳重で、甲冑を付けた兵士が屋敷の四方を固めた。  御所を監視下に置くだけでなく、時頼自身の防御も完全に固められた。   もはや、勝敗は明らかであった。
一方、名越光時は前夜から御所に詰めていたが、明け方になって、異変を知り家臣に呼び出され、急いで御所を退出し自邸に戻ったとありますが、このとき、御所を包囲していた時頼方は、光時を拘束できたはずであったが、あえて見逃した様だ。   時頼は、事を荒立てて合戦にならないよう、できる限り穏便な措置をとったのでしょう。・・・・ (吾妻鑑)

名越邸を包囲しつつ、光時が自主的に投降してくるように仕向け、直接・間接に圧力をかけたものと思われます。  此のあたりも、決定的な衝突を嫌い、より慎重に事を進めようとする時頼流の気配りが感じられる。  結果、光時は御所に戻る事も出来ず、味方の軍勢を動かすこともできず、ついに罪を認め出家し、切り落とした髪を差し出したと言う。 (吾妻鑑)

今回の事件は、時頼を追討する計画に賛同した者たちが起請文に連署して結束を誓い、その張本人は名越一族であるという、専らの噂であった。   しかし、この噂が出るや否や、光時の弟時章(tokiaki)・時長(tokinaga)・時兼(tokikane),らは、野心はないと時頼に陳謝し許しを願っていたので、時頼もその言い分を認め、罪に問いませんでした。   おそらくは、名越一族との正面からの衝突を回避するため、時頼側の根回しと思われる。

同じ弟のうち、時幸(tokiyuki)はこの日、出家している。  光時と同じく強硬な反対派に属していた。  時幸の出家は病気の為と 「吾妻鑑」 は記している、その後死亡した際の記事にも、特に死因を記していない。  しかし、その後 「自害した」 との噂が広まった、反時頼派の中心人物であったため追い詰められての自害と見た方が自然であろう。   「吾妻鑑」 が時幸の謀反荷担に触れないのは、できるだけ事件の範囲を最小限にとどめ、時幸の死を不名誉な事と記録されないよう、時頼の配慮が窺える。
つまり、幕府の公式見解としては、あくまで時幸の出家・死去は病気によるもので、名越氏の叛逆は頼経側近の光時一人の暴走によるとの見解だ。

名越氏も一枚岩ではなく、謀反の罪を光時や同調する時幸に押し付けて一族の危機を切り抜けようとした動きもあったのである。

**体制立て直し

騒動が一段落した頃、時頼邸で寄合が開かれた、参加者は時頼の他、北条政村(masamura)・金沢(北条)実時(sanetoki)・安達義景(yosikage)で、時頼政権の最中枢のメンバーだ。    事件の事後処理、とりわけ頼経の扱いや、反対派の主力でありながら今回は動きを見せなかった三浦氏への対応等が話し合われたのであろう。

暫くして、謀反人に対する処分が公表された。   名越光時は越後国所領をほとんど没収したうえで、伊豆への流罪。千葉秀胤は上総へ追放。  (吾妻鑑)
但し、光時は 「伊豆国の江間宅に赴く」 とあり、伊豆江間郷の北条氏の邸宅で謹慎という事であり、秀胤についても上総は自己の本拠地である。  したがって、意外に寛大な処分とみる。   新政権を発足させたばかりの時頼が、できるだけ対立を避け、事態を早期に終息させようとした結果であろう。

京・六波羅探題の北条重時(sigetoki)㋨許に鎌倉から安達泰盛(yasumori)が使者として上洛し、九条頼経の上洛を報告した。  泰盛は安達義景(yosikage)の子であるが、今回の上洛は 「重時の使者」 と表現されており、泰盛と重時の密接な関係がうかがわれる。  そもそもこの政変は安達義景(yosikage)の仕掛けで始まったもので、騒動の始まりと終わりに安達親子が登場する事から、安達氏がこの政変を主導したとみられ、重時もこれに連携したということになる。
北条時頼公菩提寺・鎌倉明月院方丈  (鎌倉市・山之内)
明月院・方丈
明月院やぐら  (鎌倉市・山之内)
明月院・やぐら
次回に続く

丁酉・丁未・乙酉
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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.23(06:20) 68

**政治の表舞台へ

*執権就任

経時の後継の執権に就いて、経時子息に継がせるという選択肢もあり得たが、長男・隆時(takatoki)は6歳、次男・頼助3歳という事で、あえて経時自身が弟の時頼を強く推したと推測する。

前将軍頼経を中心とする勢力と対抗するには、幼少の執権を一門や側近が補佐するという体制では危うい、という判断であろう。  同時に恐れたのは北条氏一門でありながら得宗家に対抗する勢力を持ち、のちに時頼に叛くことになる名越光時(mitutoki)の存在である。  経時の死後に次期執権を決めようとすれば、幼少の経時の子息を退けて、光時が執権の座に就くこともあり得たと考えられ、得宗側が先手を打って時頼への執権継承を将軍命令という形で強行突破したのであろう。

素早い執権交替が成功したとみえ、時頼の執権着任後には、目立った反発の動きは無かったが、新執権を取り巻く権力状況は、兄の場合と同様、厳しいものであった。  執権を補佐すべき連署は、時頼の執権就任時にも置くことは出来ませんでした。  また、政権当初の評定衆の構成を検証すると、評定衆21名のうち反時頼派が8名を占めていた。  具体的に、毛利(大江)季光(suemitu),海東(大江)忠成(tadanari),三浦泰村(yasumura)、後藤基綱(mototuna),狩野為佐(tamesuke)、三浦光村(mitumura)、千葉秀胤(hidetane)、町野(三善)康持〈yasumoti)、等である。

さらに、評定衆以外の反時頼派の急先鋒としては、北条氏庶流の名越光時(mitutoki)がいた。    幕府の正月行事である 「椀飯」(ouban)において、幕府内の高位者の中に位置する名越氏の祖・朝時(tomotoki)がおり、名越氏が執権・連署・六波羅探題の重職に就かなかったのは、家格が低かったからではなく、むしろ得宗家に匹敵する格の高さによるという評価がある。

名越朝時は寛元三年(1245)に死去しており、その後は子息の光時が継いでいた。  当主光時が加賀・能登・越中・佐渡・大隅の守護を、弟の時章(tokiaki)が筑後・肥後の守護を歴任しており、名越氏は地方にも侮りがたい基盤を築いていたという。

その様な名越氏が、時頼の執権就任に不満を覚えるのも当然であろう、名越氏は時政(tokimasa)以来の名越邸を相続する自分たちの系統こそが嫡流だと主張し、光時こそが次の執権に就くべきとの考えがあったのである。

以上の様に、執権時頼に反発る人々は、北条一門の名越氏と三浦・千葉・後藤の有力御家人層、大江・三善の有力官僚層を含む、一大勢力であった。  そして、彼らがよりどころとしたのが二十年近く将軍を勤め、将軍職を追われながらも鎌倉に居座り続けている九条頼経であった。

執権就任直後こそ、何事も起こらなかったものの、経時が死去するとたちまち不穏な動きが見え始めた。  没後二十日を過ぎた頃、鎌倉の中心部が騒がしくなり、甲冑を付けた武士たちが街中にあふれた。   「吾妻鑑」 の当日の条には、関東周辺の御家人が続々と鎌倉に駆け付け、その数は数万騎と記され、連日の騒動が一向に収まらない、と記している。

**前将軍・頼経、名越光時の陰謀

寛元四年(1246)五月に入って、ついに前将軍・九条頼経と名越光時を中心とする時頼排除の陰謀が発覚し、あわや合戦という状況になった。  頼経の側近であった光時は事あるごとに参じて謀叛を勧めた、という噂が鎌倉中に流れ 「北条氏の本流は自分であり自分こそが執権となろう」 と企て、頼経も味方したが、事前に発覚してしまった。

もう少し具体的に事件の動きを 「吾妻鑑」 から追ってみると、五月二十二日の寅の刻(午前四時頃)、時頼の叔父安達義景(yosikage)の甘縄の屋敷周辺が騒々しくなり、騒ぎがさらに広がった。  時頼方の主要人物・義景が、反時頼方との合戦に備えて兵を集めたか、更に先制攻撃を仕掛けようとして策動したかである。   何れにせよ義景は、反対派に対して断固たる態度に出るようにと、自らの行動をも示しつつ時頼に決断を迫ったのであろう。
北条時政名越邸の 「名越」 切通し・切岸がハイキングコースの中に残る。
名越・切通し
名越・大切岸
名越切通し
次回に続く

丁酉・丁未・辛巳

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.19(06:54) 67

**政治の表舞台へ

*頼経の発病

寛元二年(1244)、九条頼嗣(yoritugu)・(鎌倉幕府、五代将軍)の将軍就任に伴い、経時と時頼も頼嗣の周辺で活動する様になった。  京都から将軍任命の宣旨が鎌倉に届き、経時が御所に持参した。  しかし、経時に対面してこれを受け取ったのは前将軍の頼経(yoritune)であった。   (吾妻鑑)

将軍辞任後も、頼経は 「大殿」 という尊称で呼ばれ自由に活動していた様だ。  依然として求心力を持つ人物として健在であった。   この年に、頼経に近い三浦光村(mitumura)と千葉秀胤(hidetane)が新たに評定衆に加えられたのは、反執権派の巻き返しと思われる。

これに対して、経時の次の手は、将軍頼嗣に自らの妹を嫁入りさせることであった。  寛元三年(1245)7月、「檜皮姫」(hiwadahime)は、供の武士たちに護られながら頼嗣の御所へ入った。  檜皮姫は十六歳、頼嗣はまだ、七歳であった。  この日は暦の上では縁起の良くない日和であったが、あえて強行した。      (吾妻鑑)
経時が、余計な妨害が入らないうちにと、この計画を急いだ事が覗える。  この結婚によって、北条氏は頼嗣の外戚となり、現状の将軍後見役という立場を獲得したのです。

経時が、檜皮姫の嫁入りを急いだ理由の一つには、自分の体の不調、という事もあったかも知れません。  この前後、経時は再三体調を崩している。 「黄疸」 を発症した記録も残る。    (吾妻鑑)
経時は、病床で妹の嫁入りの成り行きを案じていたという事になる。  この様な病状が危険な状態だという情報が京都にも伝わっていた。

この間、時頼はこれといって目立った活動をしていない。  経時を気遣いながらも、自らに与えられた仕事を丹念に勤めていた様だ。  唯一注目されるのは、由比ヶ浜に建てられた八幡宮の大鳥居を検分した事。  八幡宮の浜の大鳥居は、鎌倉の出入り口を象徴する重要なランドマークであり、その検分役は執権経時がふさわしいが、病み上がりという事で時頼が名代となって勤めている。   (吾妻鑑)
鶴岡八幡宮・一の鳥居 (鎌倉市・由比ヶ浜)
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鶴岡八幡宮・当初の一の鳥居跡  (鎌倉市・由比ヶ浜)一の鳥居跡

体調が思わしくない経時が、自分に万一の事があった場合には、実直で信頼できる弟・時頼に後を託したいと、意識し始めた事を示したものであろう。   なお翌寛元四年(1246)正月、前将軍と将軍の親子が時頼邸を訪問しているが、 これは経時の代役というわけではない。

同年三月、経時は深刻な病状に陥り、治療や死後の冥福を祈る 「逆修」 の仏事などが行われた。  また経時邸で 「神秘の御沙汰」 と呼ばれる重大な秘密会議が開かれた。       (吾妻鑑)

*逆修・・・・生前にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行う事。

*神秘の御沙汰・・・・北条氏嫡流の当主である得宗の私邸で開かれた秘密会議。 一門の主だった者など、少人数で行われ、やがて幕府の重要な政策決定機関としtの寄合となっていった。

この会議は、のちには 「寄合」 とも呼ばれ、得宗とその周辺のごく身近な人々によって構成される私的な会合でありながら、実質的には幕府の最高意思決定機関となる会議で、この時初めて史料上に姿を現したのである。

会議の結果、執権の職が経時から時頼に譲られることになった。  この人事は、経時の命が明日をも知れぬ状態であるうえ、経時の二人の息子が幼少である事から、様々な混乱を防ぐため、将軍頼嗣の御命令という形をとって行われたが、実際には経時の意思によるものという。  (吾妻鑑)

だが、上記 「吾妻鑑」 の記述に、幼少の将軍の命令で執権交代が混乱なく治まった様に記されたり、経時の意見が優先したような記述があるが、どうも不自然さが気になる。  そもそもこの重大事が秘密会議で決定されたことから、執権交替に何か裏があったような疑問が残る。

さらに、頼経らと連携するような動きを見せた経時の行動を阻止するために、強引に経時を引退させて自ら執権の座に就いたという説もある。 しかしながら、この時点の時頼は強力な指導力を発揮できるような立場にはなく、少なくとも執権交代を自らが主導したとは考えにくい。  時頼は秘密会議の決定に同意し、執権時頼が誕生したのである。   時頼20歳。    次回に続く

丁酉・丁未・丁丑

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.15(07:38) 66

**時頼は期待されていなかった?・・・・・

*北条経時・執権就任(第四代)

執権就任と共に経時は祖父泰時の保持していた得宗領相続しており、他に幾つかの寺社領に対する安堵状を発給しています。  (仁治三年・鎌倉遺文)

若き執権経時を支えるべき連署の職は、六波羅探題の重時が適任であったとみられるが、彼に代わる探題が見当たらなかったのか、・・・将軍周辺に形成されつつあった反執権勢力の抵抗があったのか、連署不在のまま政権はスタートした。

政権運営の中枢である評定衆は当時18名で、北条氏からは政村(常盤)、有時(泰時・弟)、朝直(大仏流)、資時(時房・三男)の4名が名を連ね、経時の母方の叔父安達義景と共に経時を支える体制が出来た。

しかし、有時は病の為ほとんど評定に参加しなかったので、経時を支える存在としての意義はなかった。  その代わり、経時の妻の父にあたる宇都宮泰綱(yasutuna)が評定衆に加わった。  また、法曹官僚の清原満定(mitusada)、は、実務経験の豊富な事務官であるが、得宗家に近い立場の人物であった事が解っている。 (関東評定衆伝)

これに対して、のちに反執権勢力として退けられる毛利(大江)利光、三浦泰村、後藤基綱(mototuna)、狩野為佐(tamesuke)、町野(三善)康持(yasumoti)らも同時に評定衆として在任中であった。  毛利利光は時頼の妻の父でもあったから、この時点で単純に反執権派とみなすことは出来ないが、経時を巡る政治状況はなかなかきわどいものであった。

これと前後して、経時は正五位下に昇進している。  それと共に佐近衛将監から、前執権泰時が就いていた武蔵守に就任、執権にふさわしい位階・官職を順調に獲得していった。

扨て、執権就任後の経時は、何度かにわたって、訴訟制度の改革を計っている。  まず寛元元年(1243)、問注所での判決草案作成について、重要案件は二ヵ月、中程度は一ヵ月、小案件は二十日と、それぞれの期限を定めている。   (吾妻鑑)

次に、評定衆を三グループに分け、それぞれ月に五日ずつ会議日定めて訴訟を担当することにした。  これはおそらく、従来の全員参加の評定では欠席が多かったために、裁判の迅速・正確を期する為の改革であった。  後の時頼の時代にスタートする引付制のさきがけとなる様な制度とみなせる。

経時の執権在任中最大の政治的事件は、何といっても、寛元二年(1244)の、将軍九条頼経の更迭である。  頼経は建保七年(1219)にわずか二歳で鎌倉に下り、嘉禄二年(1226)に九歳で将軍に就任してから十八年が経っていた。  この間、将軍頼経の周辺には北条庶流の名越光時(mitutoki)や有力御家人三浦光村(mitumura)などの側近集団が形成され、北条氏嫡流の執権勢力と対抗する様になっていたのである。

頼嗣(yoritugu)・(九条頼経の子)の元服が経時の主導で行われ、非常に急いで将軍任命が申請された事などから、頼経の将軍更迭は、彼の政治的影響力を怖れた経時によって強制されたとみられる。  経時は、反対勢力となった将軍側近勢力を解体するため、中心にいる頼経を将軍の座から引きずりおろしたのである。

寛元二年(1244)四月、九条頼嗣(6歳)を将軍に任命するとの宣旨が朝廷より下された。  同時に従五位上・右少将に任じられた。    (吾妻鑑)
北鎌倉・明月院、東慶寺の花々
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次回に続く

丁酉・丁未・癸酉

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.11(06:30) 65

**時頼は期待されていなかった?・・・

***おしらせ・・・「吾妻鑑」 暫く休みます。***

**父の死と祖父の養育

時頼誕生の翌年、安貞二年(1228)、父時氏(tokiuji)は、若狭国の守護に任じられた。 北条氏が若狭の守護に任じられるのはこの時氏が最初であり、以後文永七年(1270)ごろまでは、基本的には六波羅探題北方が兼任する慣例となったという。  もちろんこの人事は、執権泰時の強い意向が働いているとみる。・・・・時氏にかける期待の大きさがうかがえる。

*北条時氏・・・・執権・北条泰時・嫡男

寛喜二年(1230)、時氏は六年勤めた六波羅探題の任を終えて鎌倉に下向した。  時氏と交代に北条重時が六波羅探題に赴任するために鎌倉を出立している。 重時は泰時の弟(時氏の叔父)で、当時三十三歳。  小侍所別当を長く勤め、その政治的手腕を買われての起用である。

ところが、時氏は鎌倉到着後ほどなくして発病、長旅の疲れか解らないが、そのまま重体に陥り、死に至っている。  自分の後継者と決めていた息子を若くして失い、泰時は大変な嘆き様で、泰時の岳父であり幕府の有力者でもある三浦義村が 「諫言」 するありさまであったという。
さて、時氏の死後、時頼らの母(安達景盛の娘)は出家して、「松下禅尼」 と呼ばれるようになる。   経時(tunetoki)・(時頼兄)、時頼兄弟は母松下禅尼と祖父泰時に育てられるようになった。

**経時・元服

文暦三年(1234)三月五日に、三歳年上の兄・経時が、十一歳で元服をしている。経時の元服は将軍・九条頼経(yoritune)の御所で行われ、理髪を北条時房(tokifusa)が、加冠を将軍自らがつとめ、 「北条弥四郎経時」 と名乗ることになった。  (吾妻鑑)

*理髪・・・・童髪から成人髪に結いなおす役目。  奈良時代頃から

「弥四郎」という仮名(kemiyou)は経時が四男であったからではなく、北条時政・義時二代の仮名 「四朗」 を意識してのもので、北条氏嫡流としての正当性を示そうとする泰時の意思と思われる。
こうして執権泰時の後継予定者として武家社会にデビューした経時は、小侍所別当に任命される。   小侍所は、将軍御所の番役や将軍外出の供奉役の人選などをつかさどる役所で、別当はその長官である。  11歳の経時に、幕府政務の見習いをさせようという泰時の配慮であったのであろう。   (吾妻鑑)
更に経時は嘉禎三年佐近衛将監に任じられ、従五位下に昇進した。

*佐近衛将監(sakonoe・siyougen)・・・・将軍警護の長官

**時頼元服

嘉禎三年(1237)四月二十二日に元服、11歳であった。  時頼の元服は、泰時(祖父)の屋敷に将軍頼経を迎えて行われた。 泰時は、この日将軍を迎えるために屋敷内に新しく檜皮葺きの御所を建てるという力の入れようであった。  理髪は三浦義村、加冠は将軍頼経で、 「北条五郎時頼」 と名乗ることになった。    (吾妻鑑)
幕府第五代執権・北条時頼の建立  臨済宗・建長興国禅寺 (鎌倉市・山之内)
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執権・北条時頼公・墓所  (鎌倉市・山之内  明月院)
北条時頼墓
一見すると、将軍が加冠を勤めている点で兄経時と同等の待遇を受けているようであるが、場所は経時は将軍御所、時頼は泰時邸という具合に異なっている。  さらに 「五郎」 という仮名は 「弥四郎」 経時の弟であることからつけられたもので、本家の家督を継ぐ立場ではない。  時頼はあくまでも庶子であり、この時点で兄経時との差は歴然としていた。

暦仁元年(1238)九月、佐兵衛少尉に任じられ、始めての官職を得ている。 正七位上に相当する官職である。    (鎌倉年代記)

同じ時期、兄経時は評定衆に加えられ、従五位上の位を朝廷より得ている。 祖父・泰時が従五位上となったのは三十七歳だから、かなり早い昇進である。  これは祖父泰時自らの健康に対し、不安を覚え後継者経時の地位の確立をかなり強引に推し進めたものと思われる。

**兄経時の治世

仁治三年五月、執権北条泰時は病の為出家した。  泰時の家来50人ほどが後を追って出家し、日頃から疎遠な仲と噂されていた弟の名越朝時(tomotoki)も出家して世間を驚かせたという。   しかし、出家後も病状は回復せず、六月十五日に死去した。
この年は 「吾妻鑑」 の記事が欠落しているので幕府側の詳しい記録は残っていないが、京都公家の日記に、泰時の死についての伝聞記事が残されている。  泰時の臨終は高熱に苦しんだという。

泰時の死に伴って、翌日には孫の経時が執権となった。  十九歳である、経時の執権就任に際して、北条一族の内部の争い、つまり名越氏等の有力な庶流との間に執権職を巡る争いが無かったかどうか、正確な処は判らない。 先にも触れたが泰時出家の翌日に名越朝時が出家したことは、おそらくこの様なことを想定したうえでの行動かと考えたい。  また京・六波羅探題の北条重時も鎌倉に下向し不穏な動きを治めたものと思われる。   次回に続く

丁酉・丁未・己巳

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*「吾妻鑑」*

2017.06.07(06:12) 64

**「吾妻鑑」 欠落部の謎

**将軍の継承・得宗=執権の継承

頼朝将軍記の終わっている建久六年(1195)、の重要事件には、三月に東大寺大仏殿の落慶供養の為の頼朝上洛がある。  その上洛を以て頼朝将軍記は終わったと考えられる。   そこでこの上洛の意味を考えると、東大寺の供養を済ませた後、嫡子頼家の参内を記述しています。  鎌倉には既に頼家の厩も出来上がっている。  上洛は頼朝の後継者として、頼家を朝廷に披露し、認知させる機会だったのである。

頼朝の死後、将軍は頼家に継承された。 「吾妻鑑」 が将軍の継承について詳しく既述したのは当然にだが、更に得宗=執権の継承についても詳細に記述している。
元久二年(1205)、北条時政の後妻・牧之方は次期将軍を巡って陰謀を廻らし、朝雅(tomomasa)を将軍とすべく図ったが、尼御台所の意見で実朝を義時邸に匿った。

これは尼御台所(政子)の力によって時政から義時に執権の座が継承されたことを物語っています。 更に義時から泰時への継承も、義時の跡を継いで 「関東の棟梁たるべきは、武州なり」 と指示したのは政子の力によるものであった。
こうして執権は北条氏の家督に血統として継承されてゆく体制が整えられ、康元元年(1256)、には時頼は子の時宗(tokimune)の代官として執権を北条長時(nagatoki)に譲ったのであった。  ここに直系の系統に継承される得宗=執権家の揺るぎない位置が確立するのである。
血統によって伝えられる得宗家に対して、将軍家の方では血統の継承は二代で終わっている。  頼家に次いで三代将軍となった実朝は、頼家が頼朝の 「遺跡」 を継いで将軍となったのとは違い、 「関東長者」 として将軍宣下を受けている。 血統によるものではなかった。  その後の藤氏(藤原)将軍は頼経・頼嗣(yoritugu)の二代で終り、宗尊・維康(koreyasu)の親王将軍も二代で終わっている。  得宗家は血統に継承されるという観念こそ、 「吾妻鑑」 のもう一つの大きな主張であったと思われます。

** 「吾妻鑑」 の成立

 「吾妻鑑」 は果たして最初から 「吾妻鑑」 と呼ばれていたのでしょうか。・・・・・一体、「鏡」 と称される歴史書は 「大鏡」 に始まって南北朝期の 「増鏡」 にいたるまで、すべて和文体であるのに、 「吾妻鑑」 のみ和風の漢文体であるのはどうしてでしょうか。

鎌倉末期にはこうした記録は、一般的に 「記」 と呼ばれたが、他に 「抄」 と呼ばれることもあった。 しかし 「吾妻鑑」 の記事はあまりにも詳細で、集成的なので、やはり 「記」 と見た方が実態に近いと思われる。
それでは上の字はどうであったのか。・・・・・金沢文庫の文書中に記述された、「鎌倉治記」 という書物がそれではないかという説が有望である。   もちろん、 「鎌倉治記」 が 「吾妻鑑」 だという確証はないのですが、その可能性は高いといわれている。

それと共に 「吾妻鑑」 が金沢北条氏の周辺で編纂されたと推測されている。(既記述)   金沢氏は北条一門きっての文人武士として知られています。 宗尊将軍と共に下向してきた儒者の清原教隆(noritaka)から学問を学んだ金沢実時(sanetoki)、その子顕時(akitoki)は清原俊隆(tositaka)に師事し、浄土・禅宗をおさめている。

*宗尊将軍・・・・鎌倉幕府六代将軍 ・ 御嵯峨天皇第二皇子
*清原教隆・・・・鎌倉時代の儒学者 ・ 金沢実時の師

「吾妻鑑」 の編纂を行う時、金沢氏に親しい長井泰秀(yasuhide)氏の手元にあった「関東治記」 ・「六代勝事記」・他の鎌倉初期以来の記録や文書の目録は大いに役立ったはずである。  また「吾妻鑑」 には「広元伝説」ともいうべきものがあったことは良く知られているが、或るいはそれらも長井氏を経て 「吾妻鑑」 の中に入ったかも知れない。

*長井泰秀・・・・大江広元・孫

幕府・初代政所別当  大江広元邸旧跡
大江広元邸跡
大江広元・墓所  (鎌倉市・雪ノ下)DSCN2691.jpg


かくして、「吾妻鑑」 の編纂関係の記事の多くは金沢氏の周辺へと結びついていくが、さらにこうした形式の奉行人の日記と同じような日記で、 「吾妻鑑」 が編纂されたのであろうと推測される 「建治三年記」 や 「永仁三年記」 も、金沢氏の文庫の所蔵になっている。
以上から 「吾妻鑑」 は、おそらく十三世紀末頃に金沢氏の手によって編纂された可能性は高いとみる。   次回に続く

丁酉・丁未・乙卯

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*「吾妻鑑」*

2017.06.03(07:18) 63

**「吾妻鑑」欠落部の謎

**重大事件との関係・・・

「吾妻鑑」 は完本ではなく、途中、十二年間分かけている。  しかも頼朝と朝廷との接触があった寿永二年(1183)、頼朝の死につながる落馬のあった建久九年(1198)、  北条泰時(yasutoki)の亡くなった仁治三年(1242)、など、きわめて重要な事件が起きた年に限ってその欠落が目立つ。  そこにある種の作為の存在を見出しているのが、これまでの研究である。

北条氏執権政治の統治者の立場からする真実の歪曲、美化あるいは隠蔽という 「吾妻鑑」 の編者にとっての至上の要請の前に、これらの年の叙述は難しく困難を極め、完成する事が出来なかったと思われます。

欠落部分には叙述困難な重要事件が存在したのであろう、上記のような指摘は大変に興味深い。 しかし、「吾妻鑑」の実録指向からすればからすれば、重大事件はその事件なりに淡々と叙述すればよいのであって、叙述困難というほどの事でもないようにも思う。
たとえば頼家を追い落とす事件については詳細に語っており、実朝暗殺事件も記している。 陰謀があったのではないかとされる北条義時の死も、或は三浦氏を滅ぼした宝治合戦についても、考えてみれば叙述困難と云えなくもないが、しっかりと記している。

そうすると、欠落は散失によると考えられるが、ただ建久七年(1196)からの三年間が欠落しているのまで偶然として処理しにくい、建久九年はともかく、七年、八年はさして重要な事件は無く、またほかにはこの様にまとまっつて欠落する事は無い。 しかもこれが頼朝の将軍年代の最後の三年分である点で、何らかの偶然とかたずける訳にはいかない。

「吾妻鑑」 が未完成の作品である事が前提となっている。   しかし、この作品を 「完成品」 として考えてみて、そのうえであえて三年分をわざわざ作らなかったという考え方もある、つまり最初から三年分は構想されなかったという可能性もある。
北条によつて追い落とされた源頼家の一子・一幡袖塚 (鎌倉市・大町  妙本寺)一幡君・袖塚
源頼家婦人・若狭局実家 比企能員邸跡石塔&一族の墓
比企能員邸跡・石塔
比企一族・墓所
次回に続く

丁酉・丁未・辛酉

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2017年06月
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