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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.29(07:22) 77

**皇族将軍の下向

**宗尊鎌倉到着と頼嗣上洛

宗尊親王の下向が朝廷で正式に決定された。  かねてからの予定どうりに宗尊は京都を出発鎌倉へ向かった。 一方、将軍の座を追われることになった九条頼経は御所を出て北条時盛(tokimori)の佐助の邸宅に移った。

いよいよ宗尊は鎌倉に到着し、時頼邸に入った。  しばらくは時頼邸の寝殿が将軍御所として使用されることになったのです。 程なく頼嗣が京都に向かって出発していった。 幼くして将軍の座に就いた頼嗣も、14歳になっていた。  (吾妻鑑)

参考・・・皇室関係系図(88代・後嵯峨天皇)~①天皇・・・□幕府将軍
DSCN3112.jpg

京都では宗尊親王を征夷大将軍に任命するという宣旨が出されていた。 直ちに宣旨の写しが六波羅から鎌倉に送られ、鎌倉に到着、時頼と重時がこれを閲覧している。 

追って、朝廷の使者が宣旨の原本を鎌倉に届け、名実ともに、征夷大将軍が誕生したのです。  (吾妻鑑)

**御家人の保護

主題を変えて、時頼の在任中の重要な諸政策についてレポート・解釈していく事にしたい。
まずは御家人保護政策の代表的なものとされる、京都大番役(oobanyaku)の改革について、・・すでに経時(実兄)の時に、幕府はそれまで大番役の御家人が篝屋(kagariya)勤務を兼ねていたのを廃位し、在京人に専ら行わせるようにしている。

*篝屋・・・・ 鎌倉時代  京・鎌倉の辻々に篝火を焚いて警固に当たった武士の詰所。
*在京人・・・・六波羅探題の指揮下にある京都常駐の御家人

この措置には、在京人の人員構成がこのころには充実してきたため、京都に慣れた在京人に担当させ治安維持の効果を上げようとする目的があったと考える。 同時に諸国から京に上る大番役の御家人の、負担軽減につながる措置だったと言える。

幕府は新たに大番役の当番表を作成し、主に関東の有力御家人に対して一番から二十三番までの順番を割り当て、三か月づつ勤めるように定めた。  之より以前の分暦元年(1234)の史料から、番役は六か月となっているので、今回の大番役改革によって勤務期間が六か月から三か月に減らされ御家人の負担は半減したと見られてきた。
 (吾妻鑑)

確かにそうした側面があることは否定できないが、この時の改革は、宝治合戦で多くの御家人が滅亡してしまい欠員が生じたことに対する事が主目的であった。  実は、前年に大番役は一時規模を縮小して、関東武士の勤務を停止し、畿内の武士のみで賄っていた。   したがって、関東の御家人にとっては負担の復活という面もあり、単純に御家人の負担軽減という事にはならず、むしろ負担の均等化と言った方が良いと思われる。

**検断機構の整備

次に時頼政権期の検断(警察)機構について検証します。   宗尊親王の下向後、山賊・海賊・夜討ち・強盗などの重罪人逮捕について、地頭の下にいる地頭代・沙汰人(satanin)も動員し近隣と協力して対処させたり、陸奥大道の夜討ち・強盗を、地頭・沙汰人・住人を組織して取り締まらせたり、検断機構を縦に横に組織して行ったという。

大番役の改革は、こうした一連の動きの中の一つであり、もともと軍事・警察を専門とする御家人(地頭)の責務が、より強く求められるようになったともいえる。   次回に続く

丁酉・戊申・丁巳
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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.25(07:00) 76

**皇族将軍の下向

**足利泰氏(yasuuji)の出家

得宗被官・諏訪盛重(morisige)の周囲であわただしい動きがあり、夜半に武装した兵が時頼邸の門前に集結するという騒ぎがあったが、一旦は鎮まったようだ。  程なくして足利泰氏(yasuuji)が自ら、幕府に無断で出家する「自由出家」 の罪を犯したことを申告してきた。 自由出家は罪であるので、所領の埴生荘は没収されて、金沢実時(sanetoki)に与えられた。 泰氏は、 「自分は時頼の親類であり、父義氏(yosiuji)は幕府の長老であるから、所領没収は許してほしい」と嘆願したが、許されなかった。   (吾妻鑑)

この後に続く謀反発覚事件や将軍頼嗣(yoritugu)の更迭という流れから見れば、足利泰氏は時頼打倒の陰謀に関与していたと考えられ、状況の不利を悟っていち早く手を打ち、出家したものと考える。  (建長三年・了行の陰謀事件)

**皇族将軍下向の要請

建長四年、二階堂行方(yukikata)と武藤景頼(kageyori)が、鎌倉から京都に向かった。 これは、「源将軍頼嗣を解任し、後嵯峨上皇の皇子一宮(宗尊親王)か三宮(後の亀山天皇)のどちらかを、新たな将軍として下向させてほしい」 と、時頼と重時が上皇に申請するための使者であった。  申請の手紙は時頼自らが作成・署名し、重時のみが署名に加わったもので、他の者は一切知らされていなかったという。  (吾妻鑑)
極秘中の極秘事項を、時頼がほぼ独断で決行したのである。

同時期の京都では九条道家(mitiie)が60歳で亡くなった。   息子の頼経を再び将軍に戻して朝廷内での勢力を挽回しようとした計画が失敗に終わった結果の死去ではないかと想像する。

時頼の要請を受け、上皇側では御所での討議が続けて行われ、11歳の一宮(宗尊親王)と3歳の三宮のどちらが良いかを幕府に尋ねることになった。 早々に鎌倉に使者が送られ、幕府内での検討の結果、宗尊親王(一宮)に決定したのである。

これ等の情勢からは、何としても皇族将軍を実現したい、との時頼たちの熱意が伝わってくる。  かって北条政子が皇族将軍を望んだ時には、後鳥羽上皇に 「どうして日本を二つに割る様なことをするものか」と一蹴された経緯がある。   以来皇族将軍の下向は幕府の長年の願いであった。

しかし、このころには幕府による軍事の支えによって院政が守られるという体制が定着しており、後嵯峨上皇と幕府の関係も良好なものであった。 幕府の方針も穏やかであり、上皇は特に問題にすることもなく皇子を関東に下す決断をしたのであろう。

宗尊(munetaka)親王は、後嵯峨上皇と平棟基(munemoto)の娘棟子(touko)の間に生まれた。  すでに、上皇と西園寺実氏(saneuji)の娘(大宮院)との間に生まれ、宗尊より年下である後深草天皇が即位しており、宗尊が即位する可能性はなかった。  そのため 「親王が天皇になれない以上は、関東に下って将軍になる事ほどよい事はない」とされ、宗尊親王の下向は京都の人々に受け入れられた。

そして、在位中の後深草天皇と兄弟の関係にある宗尊親王をトップに戴くことになれば、幕府や東国の地位は格段に上がることになる。
北条時政(初代執権)菩提寺・願成就院 (静岡・伊豆の国市)
願成就院山門(伊豆の国市)
北条時政公・墓所(伊豆の国市・願成就院)
北条時政公墓所(願成就院)
頼朝・挙兵の碑(伊豆の国市)
源頼朝挙兵の碑
次回に続く

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.21(07:00) 75

**皇族将軍の下向

**長男時輔の誕生

時頼に長男が誕生した。  母は将軍家に仕えた女性で、時頼の側室である。子供は 「宝寿」 と名づけられた。  のちに時利(tokitosi)と名乗り、さらに時輔(tokisuke)と改名する人物である。   (吾妻鑑)
正妻としては毛利利光の娘がいたが、前年の宝治合戦で利光が三浦方に付いたため、離別されたようだ。 
時輔の母に戻って、「讃岐の局」と呼ばれた女性である。  出雲国横田荘地頭の三処〈mitokoro〉氏の出身で、時頼没後は出家して、 「妙音」 と名乗り、時輔が二月騒動で追討されてからは、横田荘岩屋寺で余生を過ごしたという。

*二月騒動・・・・北条家の内紛、名越時章・教時を殺害、同時に時宗の異母兄で六波羅探題南方の時輔を一連の騒動に連座したかどで討伐した事件。

時輔は側室の子であるから、時頼の跡継ぎになる事はないのであるが、それでも時頼は安産の祈願をしたり、有力な得宗被官諏訪盛重(morisige)を任命したり、それなりに目をかけている。  確かに正妻の子である時宗(tokimune)や宗政(munemasa)の誕生したときに比べると、 「吾妻鑑」 の記事は極めて簡単ではある。 しかし、烏帽子親や婚姻相手の選定・官位の授与などを見ると、得宗家庶子としては相応な待遇であり、時輔が不当に差別されているとは言えないという評価だ。  身分不相応にならぬよう、時頼は時輔をも大事に扱っていた様だ。

幕府は宝治合戦の恩賞として新たに地頭となった者たちに対して、本所・国司・領家への年貢をきちんと収め、住民に臨時の課税を行わないようにと指令した。 宝治合戦で多くの御家人が滅亡した結果、諸国の荘園・国衙領で地頭が交代となり、年貢などを巡るトラブルが頻発したのである。  合戦の影響は二年近くたったこの時点でも、まだ残っていた。

**重時娘との結婚

建長元年の末ごろに、時頼は正妻として重時の娘を迎えたと推定される。 時頼は二十三歳、重時娘は十七歳、のちの時宗らの母である。  また、同年には建長寺の建立も始められている。

建長三年前半における時頼個人にとって二大事件は、嫡子時宗(tokimune)の誕生である。 次の得宗の誕生という事もあっての事であろうが、五月までの 「吾妻鑑」 の時頼関連記事は、出産関係の記事で多くが占められている。

五月には、安達氏の邸宅の一角、松下禅尼(時頼母)の甘縄邸(amanawatei)に産所が置かれ、産婦はここに移された。  十五日の午後6時ごろ、男子の誕生である。  正妻の長男、つまり時頼の正統な後継者として得宗の地位を継承することになるのである。 この男子こそが、正寿丸(siyoujiyumaru)、後の時宗であった。  正寿丸の 「正」 は正嫡を意味し、生まれながらの 「得宗」 であった。
鎌倉・初夏の花々(鎌倉・七月初旬)
鎌中公・半夏生

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海蔵寺・半夏生
次回に続く

丁酉・戊申・己酉



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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.17(07:05) 74

**新体制のスタート

**時頼を支えるメンバー

宝治合戦の結果、三浦・千葉といった反時頼派の主力は没落した。  最大の危機を乗り切った時頼は、いよいよ本格的な政権運営を新たにスタートさせた。

早速、時頼は寄合を開き、「公家の事を特に尊敬する様に」 と決議した。  参加者は時頼の他に、北条政村(常盤)、金沢実時(sanetoki),安達義景(yosikage),と得宗被官・諏訪盛重(morisige)であった。 (吾妻鑑)

いずれも、宮騒動直後の寄合にも参加していた顔ぶれで、当時21歳の時頼を支える最重要メンバーであった。   政村は43歳になる北条一門の有力者、実時は24歳で時頼と年齢も近く、経時の相談相手も務めたパートナー的存在、義景は言うまでもなく時頼の叔父で、外戚安達氏の当主である。

この時に定められた「公家のこと」 とは、何らかの具体的な政策を示すものではないが、時頼が幕府の代表者として公家(朝廷)を重んじて政権を運営していくことを宣言したものであり、時頼政権の本格的なスタートに際しての決意表明のようなものだと思う。

さて 「吾妻鑑」 に次のような記述がある、頼朝の月忌にあたる日に、時頼は恒例仏事の為に頼朝の法華堂を参詣し、非常に盛大な仏事となったという。   幕府創設者の墳墓である法華堂の参詣は、泰時に倣って執権時頼も幕府を担うものとしての自覚をもって始めたものであったが、僅か三か月前に三浦義村・光村以下多くの武士を攻め滅ぼした現場であり、この時の参詣は時頼にとって複雑な心境であったはずである。  盛大な仏事も、合戦の死者に対する鎮魂の意味合いがあったのではないか・・・。   (仏教者の一面)
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**朝廷との交渉

時頼は、六波羅探題時代の経験も豊富な連署・重時の助けを借りつつ、朝廷との交渉もぬかりなく行っていった。  使者として大曽禰長泰(nagayasu)・二階堂行泰(yukiyasu)を500騎ほどの兵を付けて京都へ向かわせた。  早々に関東申次をへて後嵯峨上皇のもとを訪れ、「徳政をおこなわれるように」 ということや、三浦泰村が所有していた肥前神崎荘や筑前宗像社を上皇に寄進する事などを申し入れた。  「徳政」 の具体的内容は不明であるが、おそらくは評定制度の定着と公正な人事などが主なものであったろう。

その後、幕府の移転計画が中止となった記事に注目する。  この御所は、嘉禎二年(1236)に泰時の主導で新造された第一期若宮大路御所(宇津宮辻子御所)である。 時頼によって移転は決定されていたが、なぜか急遽計画が中止された。その理由は連署に就任した重時が御所移転に消極的であったからという。
この一件から、 「当時の幕府の主導権は連署重時が握っており、執権時頼はナンバー・ツーの存在にすぎなかった」という考察もある。   ナンバー・ツーにすぎないとまで言えるかどうかは別として、周囲の意見にいちいち真剣に耳を傾ける律儀な性格の時頼が、政務運営に於いて一門の長老重時の意向を最大限尊重しようとしていたことは疑いなく、その結果が御所移転計画の中止であった。

年が替わった宝治二年(1248)正月、幕府恒例の 「椀飯」 が行われ、時頼が沙汰人(幹事)を勤めた。  すでに述べたように正月一日~三日の沙汰人が幕府内の地位の順位に相当することが指摘される。  動乱を乗り越えた新年、改めて時頼が幕府の№・ワンであることが確認されたと云えよう。

さらに時頼は、二階堂・永福寺の修理を指示した。   永福寺は、源頼朝が義経・藤原泰衡(yasuhira)以下の奥州合戦の戦死者の霊を慰めるために、平泉の寺院を模して創建されたとされる。  (吾妻鑑)
この時の永福寺修理も、宝治合戦の犠牲者を供養すると同時に、三浦氏に勝利したことを内外に宣言する意味もあったのであろう。  
復元・永福寺基壇 (鎌倉市・二階堂)  
永福寺跡・石塔
永福寺跡復元図
永福寺・復元基壇
 次回に続く

丁酉・戊申・乙巳

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.13(07:00) 73

**合戦の集結

**政権基盤の強化

鎌倉の合戦が終結した翌日、三浦方の有力与党であった一族の一掃が行われた。  まずは上総を本拠としていた上総秀胤(hidetane)である。 秀胤は、泰村の妹婿でもあり、光村と共に前将軍派としての動きを見せており、先の寛元の政変では評定衆を罷免され、上総に引きこもっていた。  時頼は、この秀胤の討伐を一族の大須賀胤氏(taneuji)に命じた。

そして、常陸では、三浦泰村の妹婿関政泰(masayasu)の郎党が小栗重信(sigenobu)と合戦し、関の郎党が敗れ居館に火を放っている。  この他にも、毛利季光に同意した咎により毛利忠成(tadanari)が評定衆を罷免されている。

寄合の座に於いて、合戦による自殺者・討死者の氏名が明らかにされた。  それによれば、自殺・討死等は三浦泰村を筆頭に108人の名が、存亡不審の者として、三浦家村(iemura)(義村・四男)の名が、生慮の輩として、三浦胤村(tanemura)(泰村・異母弟)以下7人の名が、逐電の者として3人の名が記載された。

こうして宝治合戦は終結した。  これにより最大勢力であった三浦氏とその与党は一掃され、評定衆や鶴岡別当にも改善が行われ、幕府政治は執権・北条時頼のもと安達氏等親時頼派によって固められ、その後の得宗専制政治と呼ばれる政治体制の一歩が築かれた。

*鶴岡別当・・・・鶴岡・八幡宮寺内の組織

しかし、宝治合戦という事件の推移を見ても、 「吾妻鑑」 を読む限り、事件自体は三浦氏の勢力に恐れを抱く安達氏による攻撃であり、 決して北条氏対三浦氏ではなかった事が解る。  そして、執権時頼は、安達・三浦両者の間に割って入り、調整を果たそうとする役割を担ったようだ。  先代・経時の急死によって執権となった時頼にとって寛元の政変と宝治合戦は、極めて苦い経験となったのであろう。

宝治元年(1247)、北条重時(極楽寺)が連署に就任。  重時は長らく務めた京・六波羅探題を辞し、都から下向。  7月に鎌倉に到着。 北条泰時ゆかりの故北条経時の小町上宅を居所とした。 執権時頼は重時を、仁治元年(1240)の北条時房の死去以来置かれていなかった連署に就けて、政権基盤の強化をはかる。 11月には重時邸に評定所・小侍所が設置される。 (吾妻鑑)

*連署・・・・鎌倉幕府の職名、執権の補佐役・北条氏一門が就任し、幕府の発給する文書に執権と共に署判した。
*小侍所・・・・鎌倉幕府の機関、御家人が将軍に近侍する宿直や供奉等を管轄した。
2017・初夏の花々(扇ヶ谷・海蔵寺)・・・・凌霄花
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2017・初夏の花々 (扇ヶ谷・海蔵寺) 桔梗
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2017・初夏の花々 (扇ヶ谷・海蔵寺)  半夏生
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次回に続く

丁酉・戊申・辛丑

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.09(07:00) 72

**宝治合戦

**三浦氏との対決を決断

不穏な動きはもはや隠せない所まで来ていた。  時頼が泰村亭に送った使者からの報告に、弓数十張,矢・鎧を収めた唐櫃棹が目撃されてた。  更に近国の御家人が集まって時頼邸の警固に当たった。 その中で佐原盛連(morituna)の子息たちが、三浦一族であるが同意はしていないと時頼の許に赴いており、三浦一族も一枚岩でない様子が見える。

*佐原盛連・・・・佐原義連(yositura)の子。 妻の矢部禅尼は北条泰時の元妻で時氏(tokiuj)の母

佐原義連の墓 (横須賀市・佐原)
佐原義連墓
佐原氏菩提寺・万願寺(横須賀市・佐原)
佐原・満願寺

しかし、時頼は家令(執事)を使者にして、泰村に対して討伐の意思がない旨の誓詞を遣わした。  時頼は最後まで和平の道を探っていたものと見られる。     これに対し泰村も喜悦して返答している。  泰村も時頼同様、和平の道を探していたのであろう。

しかし、 この時頼の行為に対して安達一族が過敏に反応した。  覚地〈景盛)が義景(yosikage)・泰盛(yasumori)を呼び、 このままでは三浦がひとり驕りを極め、安達氏の立場が危うくなると叱責した。

これが安達氏による三浦氏攻撃の号令となったのです。  泰盛らは、一族・軍士らを率いて甘縄の舘を出て八幡宮の門前で出陣の声を上げた。  この期に及んで時頼も三浦攻めを決め、金沢実時(sanetoki)に幕府・御所を警固させ、北条時定(tikisada)・(時頼・弟)を大手の大将軍とした。

三浦方もこれに対し、郎党らを辻々に置き、矢石を放つなど応戦した。 また御家人らも身命を忘れて戦っている。 こうして開戦の火蓋が切られた中で、毛利季光(tosimitu)が三浦方に加わった。 妻が泰村の妹という関係があり、妻に押し切られる形で最終的には三浦方へと傾いたのであった。

やがて泰村らは頼朝法華堂に籠った。一方光村は永福寺(youfukuji)に籠って応戦しようとの思いがあったが、泰村の頼朝の御影の前で最期を迎えたいとの意志に沿い、永福寺 を出て法華堂に向かった。
源頼朝・法華堂跡石塔(鎌倉市・雪ノ下)
頼朝・法華堂

法華堂に集まった三浦一族は、頼朝の御影の前に整列し、往事を談じたり最後の述懐に及び、専修念仏者であった毛利季光によって法事讃が行われ、泰村以下宗たる輩276名、都合500余名が自殺した。

*法事讃・・・・声明行の事

その後、時頼は京・六波羅の北条重時のもとへ使者を遣わして事の次第を報告した。  三浦泰村が挙兵したので時頼が将軍頼嗣の許に駆け付け討手を遣わした所、三時(6時間)ばかりで決着がつき、泰村以下三浦一族はみな誅された。  (吾妻鑑)

朝廷には、事件は三浦泰村の反乱として報告された様である。  合戦は?・・・朝から夕刻までに及び、安達方・北条方の勝利で終息。     次回に続く

丁酉・戊申・丁酉

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.05(06:23) 71

**宝治合戦への道

**三浦氏と安達氏の対立

先の政変で安達義景(yosikage)に背中を押されるように名越光時(mitutoki)らを排除しながらも、結局は名越一族を攻め滅ぼすことなく、できるだけ穏便に決着を図った時頼である。   今回も時頼は、安達氏の圧力を感じながらも、何とか武力による討伐を回避し、双方の顔を立てようと努力したようだ。  慎重といえば慎重であるが、優柔不断ともとれる時頼の態度である。

おそらくは、頼朝挙兵以来の功臣三浦氏と安達氏の何方も傷つけることなく、幕府の政権運営をまとめたかった、真面目で気配りの人時頼の本音だったのではなかろうか。
三浦一族・家臣の墓 (鎌倉・来迎寺・・・材木座)
来迎寺・三浦氏


合戦への不安が募る中、北条経時(兄)(tunetoki)の一周忌の法要が営まれた。  時頼や松下禅尼(母)等が参列し、多くの人が集まったという。  (吾妻鑑)  北条一門の結束が改めて確認されたものと思われる。

出家して高野山にいた安達景盛(kagemori)が事態の行方が気になり鎌倉・甘縄の屋敷に戻っていた。   そして、連日のように時頼のもとを訪れて、長時間にわたって談合したという。  しかし、時頼の態度は煮え切らない・・・・・。

**安達景盛の開戦要請

三浦氏に対して強く出ない時頼にしびれを切らせた景盛は、三浦を討てと説得したが、何とか合戦を回避したい時頼との間で、話は平行線に終わったのであろう。 高ぶった気持ちのおさまらない景盛は、子の義景(yosikage)と孫の泰盛(yasumori)に対して 「三浦一族は今や武勇を誇り、傍若無人の勢いである。 このまま時を過ごせば、我ら安達の子孫は三浦に遠く及ばないことになろう。  ここが思案のしどころであるのに義景といい、泰盛といい、現状に甘んじていて、合戦の備えを怠るとは、何たることか」 と厳しく叱責したという。

将軍頼嗣の妻で時頼の妹でもある檜皮姫(hiwadahime)が、病死した。(18歳)   檜皮姫の死で頼嗣と時頼の縁は薄まったが、これ以後も将軍としての頼嗣の育成に力を注いでいる。  妹の喪に服する為、時頼はこの日より、三浦泰村の屋敷に寄宿するという行動に出た。  (吾妻鑑)

時頼がよりによって泰村邸に住まいを移したのは、三浦氏を信頼していることを行動で示し、相手の警戒心を解こうとしたものであろう。  しかし、事態は時頼の思うようには進まなかった。

時頼が滞在中の泰村邸では、三浦一族の者が群集していたが、一人として時頼に挨拶しなかった、何事か準備する様子で出会った。  夜になると甲冑を付ける様な気配が聞こえ、「最近聞こえてくる謀反の噂は、特に信用していなかったが、どうやら本当らしい」として、急いで泰村邸を出て、自宅に戻った。(なんとなく、悠長?)  泰村はあわてて、内々に詫びを入れたという。  (吾妻鑑)

鎧の音の件は事実かどうかは不明であるが、とにかく時頼が安達氏をはじめとする周囲の言葉を聞き入れ、三浦氏と対決する道を選択した事は確かである。
三浦氏・本拠地 衣笠城址  (横須賀市・衣笠)
衣笠城址
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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.01(07:51) 70

**前将軍の送還

**三浦氏の動向

時頼打倒計画の背後にいた前将軍・九条頼経は、事件が一段落したのちに、京へ上洛することになった。 時に頼経29歳、一人残される将軍頼嗣は8歳であった。   京都で頼経に仕える者として十二人が同行、道中の供として十五人の御家人が付き従った。  その他僧侶・陰陽師数名が同行した。   (吾妻鑑)

供の御家人十五人の中には、頼経とつながりが深く今回の政変で評定衆を解任されたばかりの後藤基綱(mototuna)・狩野為佐や、同じく頼経の側近で後に時頼に反旗を翻す三浦光村(mitumura)も含まれていた。  敢えてこのような人選をしたのも時頼の気配りの表れであろうか。  十五人の筆頭に挙げられているのが北条時定(tokisada)・(時房の子)で、彼の妻は時頼の妹であるから、時頼とは義兄弟という事になる。  この時定が時頼の名代、いわば時頼が付けた目付け役として道中を取り仕切ったのであろう。

北条時定をはじめ、頼経上洛の供をした御家人たちが鎌倉に帰着した。  その報告書によれば、三浦光村(mitumura)だけは頼経の側に残って数時間を過ごしたとある。・・・・・二十数年間お側に仕えたので互に名残がつきなかったようである。  その後光村が人々に 「必ずやもう一度、鎌倉に迎え入れたい」 と語ったという。  (吾妻鑑)

**北条重時の連署就任?

時頼にとっては気の抜けない状況が続いており、時頼は三浦泰村を招き、世情の動きを相談した。  その中で時頼は六波羅探題の北条重時を鎌倉に呼び寄せ幕府・連署への就任を打診した。   しかし、泰村は即座に拒否、重時の連署は実現しなかった。

重時(極楽寺・北条)は、時頼が一族の中で誰よりも信頼している人物で、政治的な経験も豊富であった。  彼を連署にすれば、時頼政権は盤石となるが、得宗家に対抗して勢力を保持したい三浦氏としては、重時の連署就任は避けたかったのではないか。・・・・・

その様な状況の中で時頼のとった政策は、将軍頼嗣をシンボルとする新体制造りにまい進していった。  更に時頼は朝廷に働きかけ、頼嗣は従四位下の位に就いた。  (吾妻鑑)

これも、幕府の頂点に立つ者にふさわしい身分的な飾りを整えようと働きかけた結果であろう。 人心を安定させるために、貴い身分である将軍頼嗣をトップに頂くという形式は尊重しつつ、 時頼が積極的に御家人の掌握に勤めていたことが解る。

**合戦の予兆

さて、時氏と泰村の妻(泰時の娘)が、相次いで早世し、さらに安達景盛の娘を母とする時頼が執権の地位に就いたことで、事態は大きく変わった。 時頼の外戚(母方の親戚)である安達氏は、本来であれば得宗家に次ぐ序列が与えられるべきであったが、三浦泰村は時氏の外戚として保持した特権的地位を安達氏に譲らず、依然として幕府に重臣として振る舞い続けたのである。これが安達氏には面白くなかったのである。

この頃、時頼本人は三浦氏に対してどのように考えていたのであろうか。・・・・どうも煮え切らない。  三浦氏が、先の寛元の政変(宮騒動)の時に反時頼側であった事は、宝治合戦で光村が残した最後の言葉に 「頼経様の代に、道家様の内々の仰せに従って行動に移っていれば執権の座を得られたのに、兄泰村が躊躇した為に、一族滅亡するに至った」 とあること。   (吾妻鑑) からも、間違いはない。

九条頼経を京都に追放した時に三浦光村が 「頼経を再びお迎えしたい」 と語ったように、三浦氏が頼経に心を寄せていて、何れ頼経を迎えそのもとで政権(執権)を担当することを狙っていたことは容易に推測できる。 更に重時の連署就任にも反対した三浦泰村が、表向きは従いながらも一貫して反時頼派であることは明白である。   したがって、安達氏と三浦氏が衝突することになれば、ただちに時頼派と親頼経派の合戦となる事が予想された。
源頼朝・法華堂跡 (鎌倉市・西御門)
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宝治合戦で時頼に滅ぼされた三浦泰村以下一族の墓 (鎌倉・西御門)
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次回に続く

丁酉・戊申・己丑

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2017年07月
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