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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.31(07:00) 85

**禅宗への帰依

**道元との出会い

*ここで予定を変更して、時頼が禅の教えに関心を持つきっかけとなった道元・兀庵の二人の禅僧との出会いについてレポートします。

時頼と交流のあった禅僧というと、既に触れたように、建長寺の創建という大事業との関係から、建長寺開山に迎えられた蘭渓道隆の存在が目立つようである。

しかしながら実は、時頼が最初に本格的な禅に触れるきっかけとなったのは、曹洞宗の祖である道元(dougen)との出会いであった。 蘭渓道隆の来日の翌年にあたる宝治元年(1247)、越前永平寺を発って鎌倉へ行き、「檀那・俗弟子の為に説法」 したのち、翌年永平寺に戻っている。   道元四十八歳、六か月程の滞在であった。

道元はかつて 「仏法興隆のために関東へ下向すべきだ」 と勧められたとき 「もし仏法を学ぶ意思があれば、山川を超えても自ら来るべきで、意思のない者にこちらから出向いて説いても無駄だ」 として断っており、鎌倉行きは本意ではなかったようだ

道元の鎌倉行きの主な動機は、永平寺の檀那である波多野義重(yosisige)の依頼に応えたものと見られる。  義重は幕府の御家人で、当時鎌倉に居住していた。・・・・一説に道元は時頼の招きによって鎌倉へ赴いたという説もあるが、道元自身の記録に時頼招請の事実が全く見られず、権勢を嫌う道元の立場からも、時頼の招きは考えにくい。

さて、時頼は直接鎌倉に招いたわけではなかったが、名高い禅僧の鎌倉滞在を知り、その教えを求め受け入れられ、道元は菩薩戒(bosatukai)を授けたという、時頼の他にも、多くの僧侶・俗人が道元から戒を受けた。  さらに時頼は、道元の為に寺院を創建するので鎌倉に留まるようにと要請したが、道元は 「越前の小寺院(永平寺)にも檀那があり、大事にしたい」 と固く辞退したという。

道元との面談で、時頼は具体的にどのような教えを乞うたのだろうか、・・・後の時代の記録に道元が時頼に、「世に異変があれば、天下を捨てよ」と勧めたという話が伝わる。    おそらく時頼は、幕府の主導権を巡って起こる政争を鎮めるためにはどのような心掛けが必要かを、道元に尋ねたのであろう。  それに対する道元の答えは、 「権力者の地位に執着するな」 というようなものであった。  時頼が道元から禅の教えを学んだ一例だが、断片的伝承からはよくわからないが、禅の教えに関心を持つきっかけとなったことは確かであろう。
臨済宗・建長寺派本山  建長寺三門
建長寺・山門
建長寺創建以前・山之内刑場址 (現建長寺・塔頭回春院付近)
建長寺・刑場址
塔頭・回春院 全景
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**兀庵普寧(gotutan・funei)の来日

蘭渓に続いて時頼に大きな影響を与えた禅僧に、兀庵普寧がいる。  文応元年(1260)、64歳で中国より日本に渡った。 まず博多・聖福寺にはいり、暫くして京都・東福寺へ移り、さらに兀庵の評判を聞いた時頼によって、鎌倉建長寺に迎えられた。

時頼が兀庵普寧を鎌倉に招いた背景には、禅の修行が進むにつれて、時頼が蘭渓の指導に満足しなくなってきたという事情があったらしい。   (蘭渓との確執)

来日の翌々年、弘長二年(1262)に蘭渓は建長寺を去って京都建仁寺の住職となり、替わって兀庵が建長寺住持となった。  この後も、時頼は兀庵の許を訪れて教えを受け、兀庵も時頼の仏教に対する態度を高く評価している。   (仏教者・北条時頼)

時頼は兀庵普寧の指導により、この年の十月十六日の朝、悟りを得る。 兀庵の 「天下に道はただ一つであり、聖人の心もただ一つである」 という助言を受けて、時頼は、 『森羅万象、山河大地のすべてが、自己とは区別ない一体のものだ」 と語り、悟りの境地に達して全身から汗を流した。  時頼は、 「二十一年の間、朝夕望み続けて来たことを、この一瞬にすべて手に入れた」と感涙を浮かべ、九回礼拝を重ねている。  兀庵は仏前に焼香して、時頼に法を嗣ぐ者と認めた。、

時頼は相当熱心に禅に帰依していたが、禅に何を求めていたかについては、諸説がある。
禅に含まれる儒教的な教養(治世者の道徳)の習得が目的だったとする説が主流だ。
それに対して、為政者としての資質修養の為に禅を受容したが、禅僧の教えに接する中で自己の悟りの獲得と一致させていくようになったと見られる。

それに対し、時頼の禅の修行は、結果的に儒教的修養に役立ったが、自身の心の平安回復が本来の目的であったと主張する研究者もある。
時頼の何事にも全力を注ぎ込む性格から考えて、儒教的教養と、精神の平安としての禅の悟りと、双方を供に求めていたのではないだろうか。   中でも、やはり心の平安を求める気持ちの方が勝っていたように感じるが・・・・・・。     次回に続く

丁酉・己酉・庚寅
⇒鎌倉幕府五代執権・北条時頼の続きを読む
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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.27(08:38) 84

**蘭渓道隆と建長寺

**建長寺建立に着手

建長元年(1249)、時頼は本格的な禅宗寺院である建長寺の建立に着手し、蘭渓を開山と定めた。  建長寺の場所は、鎌倉と武蔵方面との出入り口である小袋坂(巨福呂坂)に位置する境界の地で、もともとは刑場であり、地蔵菩薩が安置されていた。

建長五年(1252)11月、建長寺の主だった堂が完成し、落慶供養が行われた。 蘭渓が導師を勤めた。 仏殿には丈六の地蔵菩薩像が本尊としてまつられ、周囲には千体の地蔵菩薩像が安置された。供養願文は藤原茂範(jsigenori)が草案をまとめ、時頼が清書した。

建長寺の創建は、当時から日本における禅宗興隆の一大画期と位置付けられ、「時頼が建長寺を建立した事で、中国の僧も多数やってきて寺院は中国語が飛び交う中国の寺院ようだった。 禅宗の隆盛は全て時頼おかげである、と当時の人々は時頼を栄西(eisai)の生まれ変わりだとも賞賛した。

*栄西(eisai)・・・・日本臨済宗の祖 幕府の庇護を受け寿福寺・京都建仁寺の開山となる。

蘭渓は、建長寺に中国(宗)の禅院方式をそのまま導入し、法語や規則を与えて厳格な禅風を起した。 「大覚禅師・法語規則」が伝わり、細やかな生活の規則が定められた。

*大覚禅師・法語規則・・・・建長寺に現存(国宝)

鎌倉・瑞泉寺   2017・盛夏
鎌倉・瑞泉寺
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ただし、建長寺の建立によって時頼(幕府)が、従来依存してきた天台・真言などの仏教と決別したわけではなく、禅と天台・真言が別の存在意義を持って、役割分担をしながら存続したのである。

弘長二年(1262)、蘭渓道隆は建長寺を離れて京都・建仁寺の住職となり、替わって兀庵普寧(goxtutan・funei)が建長寺住職となった

蘭渓は文永二年(1265)には山之内で時頼の三回忌法要の導師を勤めているので、それ以前には鎌倉に帰っていたことになる。 建仁寺住職を三年勤めて退き、建長寺に戻ったものであろう。 (吾妻鑑)

時頼最後の時、蘭渓はまだ鎌倉に帰っていなかったことになるが、時頼の生涯に大きな影響を与えた人物である。 次回に続く

丁酉・己酉・丙戌

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.23(12:47) 83

**蘭渓道隆と建長寺

**蘭渓道隆の来日

宗教が現代よりもはるかに大きな意味を持っていた中世の中においても、時頼の仏教に対する帰依の深さは桁外れであったと指摘されている。   時頼の信仰は、仏教・神道にわたって内容が極めて幅広かったと伝わる。

日本禅宗史上、さらには日本文化史上でも大きな画期になり、また時頼の生涯にも大きな影響を与えることになったのが中国の禅僧・蘭渓道隆(rankeidouriyuu)の来日である。

蘭渓道隆は、時頼が執権に就任した寛元四年(1246)に、中国(南宋)から渡ってきた。  南宋の嘉定二年(1213)の生まれであるから、来日当時は34歳であった。 十三歳で出家、臨済宗松源派の無明慧性(mumiyou・esiyou)から禅の奥義を授けられた。

宝治二年(1248)、蘭渓道隆の寿福寺滞在を聞いた時頼は、蘭渓を粟舩(awafune)・(大船)の常楽寺の住持に迎えた。
常楽寺は、もとは北条泰時(3代執権)が妻の母の菩提を弔うために退耕行勇(taikou・giyouyuu)を開山に招いて建てた寺で、密教と浄土を兼ねた寺院であったとみられる。

常楽寺の残る鐘銘によれば、泰時の墳墓のある寺でもあり、「座禅の空観を催すに足る」と記され、蘭渓が迎えられたときには既に禅院としての性格を備えていたことが解る。

*退耕行勇・・・・鎌倉時代前期の僧、栄西に師事し臨済宗を修める。後に東大寺大勧進職(3代)。

臨済宗・建長寺派 粟舩山常楽寺・参道・山門  (鎌倉市大船) .常楽禅寺
常楽寺・山門

時頼は、公務の合間を見ては常楽寺の蘭渓を訪ね、禅の教えを学んだようだ。  前年には道元(dougen)と面会して禅の教えを受けており、禅に興味を持った時頼が、禅の本場である宋から渡ってきた蘭渓に本格的な禅の教えを学ぼうとし、厚く保護したのである。

政務に精力を傾ける一方で、蘭渓からは全力で禅の教えを吸収しようとしたらしく、蘭渓も時頼の立場を理解し高く評価している。 「大檀那(時頼)は、自己のすべてを傾けて道徳を実行し、忠心から国政を行っている。本来菩薩の身でありながら人間界に現れ、身分の高いものとして大権を掌握している。 世を救おうとする思いは海のように深く、民を養おうとする心は山のように固い。仏教を厚く敬い、皇室を永く保とうとする」と述べ、ベタ褒めである。
次回に続く

*今回記事の更新が遅れました。

丁酉・己酉・壬午

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.18(07:00) 82

**出家・その後の政権

**新執権・北条長時

新しく執権となった長時は、時頼を長年補佐した北条重時の次男であったが、兄・為時(tametoki)に替わって家督を継いだ人物である。 六波羅探題を経て、この年の六月に評定衆になっていた。 執権に就任した時点で二十七歳であった。

「吾妻鑑」 から執権としての長時の顕著な活動を窺うことは出来ないが、在任中に発給された文書などから推察して、長時が、執権として忠実に事務処理を決裁していたことが解るという。

時頼は、権力欲が少なく、着実に事務処理を行う事の出来る人物、将来の時宗の権力継承に関して障害とならないような人物を、後継の執権に選んだのであった。

ところで、 時頼の「道崇」(dousuu))という法号は、後世に大きな影響を与えた。  時頼以前の得宗の法号は、義時(yositoki)が「観海」(kankai)、泰時(yasutoki)が「観阿」(kana)、経時(tunetoki)が「安楽」(anraku)であったのに対して、時頼以後は時宗(tokimune)が「道杲」、貞時が「崇演」、高時(takatoki)が「崇鑑」で、何れも時頼の法号の一字をとっっている。
また、もともとは義時の号であったとされる「得宗」(tokusou)の語は、実は「徳崇」(tokusuu)で、時頼が義時を顕彰するために贈った禅宗系の追号(oigou)ではないかと推測されている。

文応元年(1260)、嫡男・北条時宗が小侍所の別当に任命された。  小侍所は、将軍御所警固や外出の際の供などを差配する部署である。 小侍所における時宗の活動を記した史料はないが、別当の北条(金沢)実時(sanetoki)と並んで政務を執行しているので、おそらくは別当の補佐のような役割だったようだ。   時宗は十歳、実時は三十七歳であったから、時頼の意向により時宗が政務見習のために小侍所に入った事は明らかである。

弘長元年(1261)、時頼は、将軍の鶴岡八幡宮参詣の御供に関して、子息の序列を定めた。  それによると、時宗(tokimune)・宗政(munemasa)・時輔(tokisuke)・宗頼(muneyori)の順であった。 (吾妻鑑)
年齢順では長子・時輔を、正妻の子時宗・宗政の下に位置付け、後継者争いが起きないように時宗の優位性を強調した。

**得宗専制への傾斜

時頼の政権期には「得宗」への権力集中という動きも見られる。 寄合という得宗を中心とする私的な会議が出現したこともその兆候の一つであるが、時頼期の寄合は、親族と側近被官のみから構成される得宗家の私的会議にとどまっていた。
一例として、その私的会議で、皇族将軍の下向の申請が、評定による会議を省略して時頼と重時の独断専決で進められた事があげられる。

康元元年(1256)に連署重時、執権時頼が相次いで辞職したものの、その後の椀飯(ouban)沙汰人は首位時頼・二位重時で、幕府内の実力者の地位はもはや執権・連署という職名に依存しない体制となったという。
この時事実上、政権を政村・長時に譲って出家したが出家の後もすべての政務を取り仕切ったようだ。
鶴岡八幡宮・源氏池のハス
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こうした得宗専制への傾斜は、先に見た時頼政権の御家人保護政策と矛盾するようにも見える。  専制の進展に伴って発生する下からの抵抗を押さえるための懐柔策として御家人保護立法が与えられたと考える。  一方、御家人保護政策と北条氏による要職の独占によって御家人を北条被官化し、得宗を頂点として幕府をタテに編成替えしたのが得宗専制の本質であったようだ。

しかし、何れにせよ幕府の根幹を支える御家人をしっかりと幕府に結び付けようとする意図があった事は確かである。   次回に続く

次回からの予告

〇  1・・・蘭渓道隆と建長寺
〇  2・・・浄土と大仏
〇  3・・・叡尊の下向と律
〇  4・・・臨終往生

丁酉・己酉・丁丑

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.14(07:00) 81

**出家・その後の政権

**山之内の整備

泰時政権ほどではないが、時頼政権のもとで、都市鎌倉のインフラ整備は行われていた。  例えば、建長二年(1250)には、鎌倉から山之内及び六浦に抜ける(切通し)の再整備が行われてる。  (吾妻鑑)

その山之内は、鎌倉の西北の外側に位置し、山之内荘という得宗領の荘園であった。  山ノ内には既に義時・泰時の別荘が置かれていたが、時頼の代には建長寺が創建され、時頼が最明寺(saimiyouji)・(現・明月院)という持仏堂を伴う別荘を構え、その周辺には時宗・宗政らの別荘も置かれるようになり、急速に重要度が増している。

建長二年(1250)、山之内本郷(横浜市・栄区)にある証菩提寺(siyoubodaiji)の修理再建が幕府によって決定された。 本郷は、建長寺よりさらに北側に位置するが、山之内荘の本来の中心地区と見られる。  証菩提寺再建は、山之内荘の領主でもある時頼の主導で進められたとみられる。

以上の事例から、山之内と鎌倉を結ぶ道路の改修が行われたのは、両者が密接なつながりを持っており、山之内地区の整備に時頼が力を入れていたからと思われる。  山之内と鎌倉は、行政区画としては分かれていても、連続する都市となっていたといえる。

*・・・現本郷は、横浜市・栄区の中心地区として繁栄・・・・・現山之内は、JR北鎌倉駅周辺で、建長寺・円覚寺をはじめ臨済宗の大寺院が居並ぶ宗教都市となっている。


**執権交代

康元元年(1256)、30歳となった時頼に大きな環境の変化が訪れた。    時頼を支え続けた北条重時(sigetoki)が、 八年間在職した連署を辞任し、出家した。 法名「観覚」であった。   (吾妻鑑)

重時に代わって北条政村(masamura)が連署に任命された。   政村は泰時・重時らの異母弟で、かつての陰謀事件に巻き込まれかけたが、泰時の恩情によって処罰をも免がれていた。  この為、以後の政村は得宗家に忠実な政治姿勢をとり、評定衆・引付頭人などを勤め、寄合のメンバーにも加えれていた。

*陰謀事件(伊賀氏の乱)・・・・義時の死後、実母伊賀氏が泰時を排除して政村を執権につけようとしたもの。

兄重時の後任として連署になった時、政村は52歳になっており、一門の長老格という立場にあった。 時頼としては、大いに信頼できる人物を起用したと言える。

当時流行していた赤斑痩(はしか)に宗尊親王(munetaka)がかかり、時頼も、さらに時頼の幼女も同じ病気にかかったようだ。ほどなくして宗尊親王も時頼も回復、治癒したが、時頼の娘は祈祷の甲斐もなく亡くなった。(吾妻鑑)

しかし、この年の十一月またしても時頼は赤痢にかかってしまう。 暫くは小康状態を保っていたが、この機会をとらえて時頼は、ついに執権職・武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の邸宅(幕府・執権邸)などを北条長時(nagatoki)・(重時嫡男)に譲った。
鎌倉幕府・執権邸跡・現宝戒寺 (鎌倉・雪ノ下)
北条氏・執権邸跡石塔
宝戒寺・参道
宝戒寺

本来なら嫡子・時宗に譲るべきであったが、まだ六歳と幼少であったため、「眼代」(代理人)として暫く譲ったのである。そして、翌日には最明寺で出家した。 ときに、三十歳であった

出家の戒師は蘭渓道隆、法名は「覚了坊道崇」(dousuu)であった。 (吾妻鑑)

直前の二度の病気や近親者の死去は、時頼に引退・出家のきっかけを与えたが、それはあくまできっかけに過ぎなかった。 すでに七月以前に出家の準備として最明寺を建立していた事からも、病気以前に時頼が引退・出家を計画していたことは明らかである。

しかし、実際には執権引退後も時頼は幕府の実権を握り続けるので、執権の交替は形式的なものであった。  時頼の真の目的は、幼少の嫡子時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現する事にあったのである。

時頼は、朝廷における「院政」と同じ状況を作り出そうとしていたという事になる。 ただ、引退・出家して政治的な緊張から逃れ、より自由に禅の修行に取り組みたいという気持ちも多少は有ったかも知れない。 (仏教者としての顔)  次回に続く

丁酉・己酉・癸酉

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.10(07:00) 80

**時頼政権の諸政策

**撫民思想と重時の影響

そもそもこの様な鎌倉時代の撫民思想の淵源には、浄土信仰を基にする人間第一主義があったという。  浄土教を深く信仰していた北条重時(sigetoki)こそが、「撫民」の真の提唱者ではないか、と推定されている。

重時の影響を強く受けていたと思われる時頼が、その主張に耳を傾けて政策に取り入れいったことは、当然在り得た事と考える。 時頼が質素倹約を心掛けていたことも、よく知られるところだ。

有名な「徒然草」の段に、時頼の母松下禅尼(matusitazenni)の障子張りのエピソードは、時頼の倹約精神が母の強い影響を受けていたものを示すものである。 「相模守時頼の母は」で始まるこの段は、建長五年(1253)に没する安達義景(yosikage)が登場する事から、時頼の執権時代の話と推定される。

時頼の母松下禅尼(安達景盛の娘)は、時頼成長後は安達氏の別邸内に住んでいたと思われるが、ある日安達氏が時頼を招待することがあって、禅尼自らが敗れた障子の切り貼りをしていた。それを見ていた安達氏の当主で禅尼の兄である義景が、「丸ごと張り替えた方が簡単に出来るし、見栄えもするだろうに」といったところ、禅尼は「今日はわざとこうしているのです。 破れたところを修繕して使い続けるものだという事を、若い人に見せて、心がけてもらいたいのです」と答えたという。

「世を治める道は、倹約を基本とする。禅尼は、女性ながら聖人の心に通じている。天下の政治を取り仕切る人を子に持つだけあって、本当に傑出した人物」と評した。  (吉田兼好)

時頼の政権が過差(kasa)・(贅沢)を禁じる様な政策をとったのは、商工業、特に貨幣の浸透に伴う贅沢を警戒した為であった。
それは御家人の保護と一体のもので、中小御家人が所領を質に入れ米銭を借りる様な事態を防ぐためには、贅沢を禁じ、酒の販売を禁じ、物価を強制的に下げさせるなど、強権を駆使せざるを得なかったのでしょう。


政策として過差の禁止には、時頼個人の志向や、御家人の保護という観点のほかにも、伝統的な政権の在り方を時頼政権が受け継いだという面があった。 過差禁止令そのものは、既に平安時代から繰り返し朝廷によって出されてきていた。 そして、その多くは、「新制」と呼ばれる複数の禁止条例からなる法令の形で出された。
また、過差禁止を含む新制は天変地異を除くために行う「徳政」の一環として出されたものであり、当初公家の新制を取り次ぐだけであった幕府も独自に新制を出すようになったのである。
夏の鎌倉・瑞泉寺の風景(鎌倉・二階堂)
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時頼の御家人保護政策や撫民政策によって、御家人や名主クラスの有力百姓の不安定さは一時的に解消されたが、一般の商工業者・金融業者・下層の百姓などは時頼の「撫民」の対象とはなっていなかった。  結局、時頼の目は、幕府を支えるべき御家人(地頭)達に向けられており、御家人のあるべき姿として撫民が求められ、また彼らの生活基盤を脅かさない限りにおいての「撫民」が行われたのである。  質素倹約の奨励もまた、御家人の経済的安定に直結していた。 それを脅かすような経済活動は、強権的に抑制される運命にあったのである。      次回に続く

丁酉・己酉・己巳

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.06(07:28) 79

**時頼政権の諸政策

**撫民と倹約

時頼の政権は、 「撫民」 (bumin),つまり民衆の生活安定を大事にする事を強調していた。  例えば、建長元年(1249)に、陸奥国好島荘(yosinosima)預所を勤める伊賀光宗に対して、幕府から年貢の絹の量を二百疋から百五十疋に減額する決定が伝達されている。 事は、その表れであろう。

*一疋・・・・織物の長さを表す単位。 反物二反分の長さ

地頭が一元的に支配している所領においても、名主(miyousiyu)から訴えがあれば、事情によっては幕府で採決を行うことを決めている。  地頭支配地について名主・百姓が訴訟を起こした場合、もし彼らに過失が無ければ、開発した土地のついては権利を認めるように定めている。  (吾妻鑑)

おそらく両者は、一連の法であって、前者における「事情」について、後者で詳しく定めたものと見られる。 地頭(御家人)の支配下にある庶民が、地頭の頭越しに幕府に訴え出て権利を主張する、いわば直訴の道を開いたものと言える。

諸国の雑人は地頭の紹介状、鎌倉中の雑人は地主の紹介状が無ければ、幕府に直接訴えることは出来ないと定め、問注所と政所に通達した。  (吾妻鑑)
問注所・政所に伝えられたのは、問注所が諸国の雑人を、政所が鎌倉中の雑人訴訟をそれぞれ担当する機関だったからである。
幕府機関・問注所跡 (かまくら・御成)
問注所石塔
付近を流れる佐助川に架かる裁許橋(鎌倉・御成)
佐助川
裁許橋

地頭が、自分を訴える様な訴訟の紹介状を書くことはありえないので、ここで想定されているのは雑人同志の訴訟であろう・・・。
雑人が訴訟を起こすことを認めつつも、地頭・地主(御家人)が絡まない雑人同志の紛争は、出来る限り居住地の支配者である御家人(地頭・地主)に対処させようという事である。


幕府評定で、「百姓が地頭を訴えた訴訟に関して、百姓に誤りが無ければ妻子・所従(奴隷)・資財・収穫物などについては返却し、田地や住宅については地頭が責任を以て百姓に与えるように」と定めた。 (吾妻鑑)

以上の事から、時頼政権は、雑人が御家人(地頭)の不当な行為を訴える様な雑人訴訟については幕府が直接取り上げる事を保証するかわりに、雑人どうしの訴訟についてはむしろ制限を加えて省力化を図っていたことが解る。 よって、雑人訴訟の重視は、撫民政策の一つではあるが、一面では雑人を通じて御家人の勝手な行動を牽制しているようにも見える。

*雑人・・・・一般庶民・百姓のこと

また、明らかに庶民の立場を守るための「撫民」の法令も出されている。  諸国の地頭代に対して出された十三か条の法令には、「撫民」の語が頻繁に現れる。  地頭代は地頭の代官として実際に現地で庶民の支配を担当する者たちである。  法令の内容は、「山賊・海賊などの重罪についても、証拠が無く容疑だけで逮捕し、拷問によって白状させて処刑してはならない」、「殺人・傷害の犯人は、本人だけを罰して、家族・親類を処罰してはならない」、「窃盗犯の家族・親類を罰してはならない」、これに叛くのは 「撫民の法」 を否定するものである、「牛・馬の窃盗は重罪に処すべきだが、『寛宥の儀』によって拘禁にとどめる、 地頭の中には民の些細な争いを咎めて処罰する者があるというが、今後は「撫民の計らい」につとめ、農業の推進を奨励した。

*寛宥の儀・・・・鎌倉時代・・・飢饉後の特殊な時代に合法化された法令

この十三か条の法令は、全体として警察活動の名目で庶民の生活を脅かす地頭・地頭代の行為を禁止する法令と云える。
時頼の政権は、御家人たちに対して、「政道」を体現し「撫民」の計らいをなす統治者である事を求めた。  次回に続く

丁酉・己酉・乙丑

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.02(09:09) 78

**時頼政権の諸政策

**引付制の創設

御家人保護政策のもう一つの大きな柱と考えられるのが、建長元年(1249)の引付(hikituke)制度の設置である。  引付は、評定の下に置かれた新たな裁判機関である。  これは裁判の迅速化が目的で、人心を安定させ新執権時頼への心服を得る方策の一つとして訴訟制度の改革が行われた。  

引付設置の前年、宝治二年(1248)、幕府は評定衆北条資時(suketoki)の担当する訴訟の処理が遅れ気味であることについて、戒告を与えている。  裁判機関の問注所の奉行人のなかに、職務怠慢の輩が多く、評定の場で訴訟について質問があってもろくに答えられない者があって審議が停滞するような事もあり、その様な者は解雇の対象になった。   (吾妻鑑)
公正・迅速な裁判を目指す時頼政権の姿勢がすでに見られたのである。

評定衆のうち北条正村(masamura)を一番引付の頭人、北条朝直(tomonao)を二番頭人、北条資時(suketoki)を三番頭人に任命した。  これによって、引付が誕生したのである。    頭人の下で訴訟を担当する引付衆に、二階堂行方(yukikata)・二階堂行泰(yukiyasu)・二階堂行綱(yukituna)・大曾根長泰(nagayasu)・武藤景頼(kageyori)の五人が任命された。

引付衆の基本的な構成は番ごとに責任者である頭人、その下に数名の評定衆、引付衆、奉行人が配置されるという構成であった。 また、引付の職務内容は、幕府裁判の中でも御家人相互間の訴訟や、荘園領主と御家人間の訴訟を審理することにあった。  御家人が関わる裁判の迅速で正確な進行が図られたわけで、この措置によって御家人たちの信頼が時頼に集まったことは確かである。

北条氏一門と側近によって構成された引付を、評定と重層的に組織することによって、時頼は執権の権力基盤の外延を広げたという。 また、引付には設置直後から、御家人訴訟以外にも寺院や祈祷関係などの職務もあったという。 引付設置については、単純に御家人保護のみで解釈することは出来ない。

**裁判の迅速化と公正化

引付設置後も、様々な形で裁判の迅速化と公正の維持が図られた。  引付での文書審査において善悪が明確な場合は、被告・原告の対決という手続きを省略することが決定した。  同時に引付は午前10時には業務を開始する事、頭人以下の役人は遅刻をしないように命じ、審理報告書と共に担当役人の出欠表の提出を命じられた。  この時代としては随分と細かいところまで指示が出されているものだと感じられるが、役人たるものは誠心誠意、真面目に裁判に取り組むべきであるという、時頼の意思によるものであろう。
まんだら堂・やぐら群  古都鎌倉特有の法華堂・墓 (逗子市)
まんだら堂
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裁判にあたっては御成敗式目の規定に従って判決を下し、不公平が生じないようにせよと、引付・門柱所・政所に指令が出されている。  (吾妻鑑)  次回に続く

丁酉・己酉・辛酉

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2017年08月
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