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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.28(07:00) 92

**鎌倉幕政の転換

**執権政治への移行

初期の執権・北条義時(yositoki)(時政次男)には、さほどの権力があったわけではなかった。  むしろ源氏三代の 「将軍独裁制」 に抑え込まれていた一般御家人が、重石がなくなったので、次第に台頭してきたのである。

その様な意味で、四代将軍・九条頼経(yoritune)が鎌倉に入部してから二年間は、 「執権政治」 とはいうものの有力御家人たちの寄合所帯に過ぎないものであった。
この間、義時は、幼い将軍頼経を自館に住まわせて、 自分は 「将軍家の政務ノ代官」 という立場を以て辛うじて権威を保持するだけの存在だった。

ところが承久三年(1221)五月、承久の乱が起った。 この時の後鳥羽上皇(gotoba)の討幕の院宣が、 「早々と陸奥守平義時朝臣の身を追悼せしむべし」 と、義時一人を名指ししており、しかも鎌倉幕府方が圧倒的な強さで京都朝廷側を破り去ったことから、幕閣における義時の地位は、飛躍的に上昇し強化された。 それ以降の鎌倉幕府の運営は、執権義時が主導すようになった。

承久の乱に勝利したことによる結果は、それだけの事では終わらなかった。 京都朝廷と鎌倉幕府との立場が逆転してしまったのです。  乱以前は、天下の政治は京都朝廷で、幕府は軍事警察という方面だけを担当していた。
乱後、幕府は天下の政治をも担当することになったのです。

**執権政治の完成

嘉禄元年(1225)、義時の嫡男・北条泰時(yasutoki)が評定衆制度を創始して、合議制という柱を立て、貞永元年(1232)には、関東御成敗式目51条(貞永式目)を制定して、 「法治主義」 という柱をも立てたのである。 

以降の 「執権政治」 は、合議制と法治主義とで成り立つことになった。 言わば 「法律に従って話し合いで」 という事である。

承久の乱で敗れて隠岐の島に配流されていた後鳥羽上皇の赦免を、京都朝廷が幕府に求めてきたことがある。 この時幕府の執権・北条泰時は、「家人(幕府御家人)ら、一同に計る」として、これを拒絶している。
執権泰時は、自分の個人的判断で決定回答したのではなく、御家人たちの意向に従って動いたのである。 これがこの時期の執権であった。決して専制的権力者ではなかった。 御家人たちの代表者というのが、 「執権政治」 での執権の地位であった。

嘉禄元年、四代将軍九条頼経(yoritune)は、新造なった宇都宮辻子御所に入った。  このことは、画期的な事であった。  源氏将軍三代は、大倉御所に居住していた。  頼朝法華堂の南側の地で、現在は清泉小学校がになっている。
宇都宮辻子御所址 (鎌倉市・小町)
宇都宮辻子御所

頼経は、当初大蔵御所近くの北条義時館に住んでいた。現在の別れ道付近である。  何れにしても今までの将軍居所は、鎌倉の東北側、金沢街道に面していた。  それが、若宮大路東側に移ったのである。

四代将軍頼経の居所が移ったという事は、それだけの事ではなかった。それまでの鎌倉では町反歩制という農村的丈量が用いられてきた。 それが、丈尺制と戸主制(henusi)という都市型の単位に代ったのである。

ここに鎌倉は、これまでの農・漁村的な地域であったのだが、ついに本格的な都市に成長することになる。 「執権政治」 が完成したことを、まさに象徴しているかのようであった。

「執権政治」 を完成させた北条泰時〈三代)は、仁治三年(1242)6月、六十歳で亡くなった。 泰時の二人の息子、時氏(tokiuji)・時実(tokizane)は、すでに没していた。  家督と執権はは、故時氏の嫡男北条経時(tunetoki)が嗣立した。 十九歳だった。 次回へ

鎌倉・秋の佇まい三点・・・・・宝戒寺・海蔵寺・円覚寺
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丁酉・庚戊・戊牛
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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.24(07:00) 91

**鎌倉幕政の転換

**源氏将軍の独裁制

源平合戦が始まった頃、源頼朝は東国武士に担ぎ出されただけの存在だった。  石橋山合戦で敗北、山中を逃げ回った頼朝は、消沈しその立場は極めて不安定な弱いものであった。 しかし、その直後、頼朝は急速に成長する。 敗北から一か月後、隅田川の頼朝の本陣に二万騎を率いて、上総介広常(hirotune)が参陣した。  すると頼朝は、「今頃になっての遅参、不審在り。 しばらく外にあって、沙汰を待て」 として、長時間広常を待たせて、ついに広常を心服させたのは、この時の事である。

頼朝は、その後もますます政治的に成長していった。  寿永二年(1183)暮れ、京都に駐屯していた木曾義仲〈yosinaka〉勢の乱暴振りに困った後白河法皇(gosirakawa)は、再三頼朝の上洛を促した。  法皇の再度の上洛要請に頼朝も、そろそろ源平合戦に決着をつける必要を感じていた。    (西国出撃論)

しかし、この出撃論に反対したのが参陣に遅れた上総介広常であった、彼は東国割拠論を主張していたのである。    (東国割拠論)
頼朝が主張した西国出撃論を、広常は多くの御家人たちのいるところで、堂々と批判したのである。 直後、頼朝の意を受けた梶原景時(kagetoki)によって広常は誅殺された。

またたく間に東国割拠論は鳴りをひそめ、西国出撃論がこれに取って代わった。  源範頼(noriyori)・(頼朝弟)・義経を将とした幕府軍が、出撃上洛していった。

その後も頼朝の方針に盾ついた者たちに対する誅殺事件は、二度、三度と続いた。  甲斐源氏の一条忠頼(tadayori)、同じく安田義定(yosisada)、義資(yosisuke)父子らである。  その延長線上に、叔父の源行家(yukiie)、弟の義経(yositune)などがあった。

こうして頼朝に盾突くような者は、幕府御家人のうちには一人もいなくなった。 かつて頼朝は、東国武士たちに担がれた存在だった。 その頼朝は今や東国武士たちを、しっかりと掌中に収めていた。鎌倉幕府の最初の政治形態である 「源氏将軍独裁制」 が、ここに現出したのです。
鎌倉・鶴岡八幡宮本殿
八幡宮本殿
八幡宮・一の鳥居から本殿を望む
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ここで注意しておきたいのは、頼朝の頃の 「将軍独裁制」 では、御家人たちが頼朝を畏怖していただけではなかったという事である。 「分け隔ての無い」 「身近な」 「親密な」 主従関係が成立していたと思われるのです

また、次のような逸話も残される。  病気になった御家人加藤次景廉(kagekado)を、見舞った事。  伊豆以来の御家人安達盛長(morinaga)の館を頼朝・北条政子夫妻が訪れたのは一度や二度ではなかった。  主だった御家人たちと共に、由比ヶ浜で流鏑馬(yabusame)などをした事。 三浦の海辺では舟遊びに興じた事もある。
頼朝時代の 「将軍独裁制」 は威勢厳粛、理非断決という強さと共に、御家人たちとの間の相互の信頼が、根底にあったと考えられる。

次に二代将軍源頼家(yoriie)、三代実朝(sanetomo)の時代もまだ 「将軍独裁制」 は踏襲された。  御家人たちとの信頼関係は薄れてはいるが、独裁権力は握っていた。  
頼朝・頼家・実朝と続いた源氏将軍三代の間、鎌倉幕府の政治形態は、基本的に 「将軍独裁制」 だったと言うことが出来る。 そしてこの間、頼家の時期に宿老13人の会議が成立している事、実朝の時期に執権・北条義時(yositoki)の権力が強化しつつあった事の二点は、次の「執権政治」 の萌芽として見るべきかも知れない。

しかし、承久元年(1219)正月二十七日、将軍実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、四代将軍として京都から九条頼経(yoritune)が鎌倉に入部した時、事態は急転した。  僅か三歳の頼経に独裁的権力を振るう事など不可能だったからである。  こうして鎌倉幕府の最初の政治形態であった 「将軍独裁制」 は崩れ、幕を下ろした。 代わって成立したのは 「執権政治」 だった。     次回へ

丁酉・庚戊・甲寅

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.21(19:00) 90

**源平合戦

**貨幣経済との戦い

鎌倉幕府は、源平合戦の最中に誕生した。  必然的に鎌倉と鎌倉幕府とには、源平合戦の影響が種々残された。
若宮大路の段葛は、妻北条政子の安産を祈って頼朝が築かせたものと言われ、確かに鎌倉幕府の公的記録である「吾妻鑑」には、その様に記されている。  しかし最近の発掘調査では、段葛の西側は、東側より60cm~90cm程低く、西側は湿原地だったことが判っている。
段葛が築かれたのは、源平合戦最中の養和二年(1182)3月だった。  まだ平家側の軍勢が鎌倉に進入してくる危険も考えられる時期であった。 頼朝は万一に備えて平家側が陣取るに違いない段葛の西側を、東側から射易いように低くし、動きにくいように泥湿地を残したと云われる。   つまり、段葛は一種の軍事的防衛線であった。 鶴岡八幡宮の参道というのは,まさに偽装にすぎない事になる。
段葛石塔 (鶴岡八幡宮参道・二の鳥居付近)
段葛
二の鳥居付近  現在の段葛はここから始まる。(初期には下馬付近までと)?
二の鳥居
この様に、鎌倉と鎌倉幕府とには源平合戦の影響はまだ残っていたのです。   
その源平合戦の本質を巡って、これまで数多くの考えが提示されてきている。  まず、源氏と平氏の戦い、次に東国と西国の戦い、さらに騎兵と水軍の戦い、曰く武士と公家の戦い、また源氏の平氏に対する復讐戦、或は武士政権樹立のための合戦等の説である。

しかし、平家側に源氏一族の信太義広(yosihiro)(頼朝叔父)等がいた以上に、頼朝軍には三浦・畠山・梶原・北条・千葉・上総等々、平家の支族が参加していた。  さらに西国がすべて平家側だったわけではなく、河野通信(mitinobu)・臼杵惟隆(koretaka)・緒方惟栄(korehide)・佐賀惟慈(koresige)ら西国武士で、源氏方に付いた者もあり、大庭・俣野・伊東・長尾ら東国武士でありながら平家側に味方した者もある。
また源氏方は騎馬が主体だったとしても、水軍が無かったわけではない。 三浦水軍・北条水軍などもあり、壇ノ浦海戦では、三浦水軍が源氏軍の先頭に立っている。

また源平合戦のある一面の指摘として、貨幣を巡る問題を挙げる研究者もある。 源平合戦には、貨幣経済の可否をめぐる合戦という一面が有ったのではないかと思われるのである。

六波羅平氏政権を樹立した平清盛(kiyomori)が、南宋で使われていた宋銭を、大量に日本に持ち込んだ事はあまり知らされていない。  しかし、清盛は宋銭を大量に持ち込んでおり、それがもたらした影響は極めて大きかった。  頼朝が挙兵して源平合戦が始まる前年の治承三年(1179)、京都では身分の高きも低きも、 「銭の戦い」 にかかり、みな銭を欲しがったようだ。  これは畿内近国にそれほど多く多量の宋銭が普及したことを示している。

治承三年に西国に普及していた宋銭も、東国にはまだ伝っていなかった。むしろ東国では、銭に対する拒絶反応があったのではないかとすら思われる。   その翌年に源平合戦が始まっていることは、このことを暗示しているのではなかろうか。
つまり貨幣経済という面から見ると、源平合戦は後進の東国が貨幣経済に反対し、これに賛成する先進の西国を、暴力的に退けたという構図が見える。

いずれにしても源氏将軍三代の間は、東国に宋銭は入らなかった。  古代以来の自給自足の経済が原則で、若干の物々交換が行われる程度が、東国では一般的であった。

しかし、源平合戦後、平家側から得た五百余ヵ所の所領はほとんど西国であった。  これらを論功行賞された東国武士が、西国に出向く機会も増え、当然のことながら西国での習慣が流入したと思われる。

この様な状況が、銭の便利さを認識させた。  京都や鎌倉に行くにも、銭さえ持っていれば、何でもできた。 平常から年貢として所領で吸い上げた米や布は、銭に換えておく方が良かった。  こうして銭は、次第に東国にも普及していく。    次回へ

丁酉・庚戊・辛亥

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.16(06:40) 89

**臨終往生

**絵巻に見る時頼往生

「業鏡」 は生前の行いを映し出す鏡、「担然」 は広々としている様子の事。
実は、この遺言は時頼のオリジナルではなく、宋の禅僧・笑翁妙湛(miyoutan)の遺言の「七十二年」 の語を「三十七年」 に変えたものであった。  時頼は笑翁の遺言を借りて、自己の心境を現わしたのである、これは勉強熱心な時頼らしい引用と思う。

ところで、鎌倉後期成立とされる「法然上人絵伝」 には「吾妻鑑」とは少し異なる時頼往生の場面が描かれている。  この場面は得宗被官・諏訪入道蓮仏(renbutu)が、法然の孫弟子にあたる敬西房信瑞(sinzui)に宛てた書状に基づくという。 時頼が阿弥陀如来の画像を架けその前で合掌して往生したという点では「吾妻鑑」と異なるものの、袈裟を付け椅子に座して禅僧風の往生をしたという事は「法然上人絵伝」でも前提となっており、内容は同様と考える。  時頼の信仰の多様性から考えて、禅宗に帰依しつつも往生の際に阿弥陀仏の画像を架けても不思議はないとする。
北条時頼公・墓所  鎌倉明月院内   (鎌倉市・山之内)  最明寺跡
北条時頼墓

事実として時頼往生の姿がどうであったかは確定することは出来ない。「絵伝」 の絵も、後世の想像図ではある。ただ、既に見たように、時頼の信仰にも阿弥陀信仰は含まれており、あり得ない事ではない。

**御家人たちの出家

「吾妻鑑」による、時頼往生時の、周囲の反応が記されている。  まず、北条(名越)時章(tokiaki)・安達頼景(yorikage)・武藤景頼(kageyori)・二階堂行氏(yukiuji)・安達時盛(tokimori)らは、悲しみのあまり出家した。  その他出家する御家人は数知れず、みな出勤停止の処分を受けた。

「吾妻鑑」 は幕府の公的な歴史書であるから、多少の誇張はあるかもしれないが、御家人たちが競って出家しようとした事は事実であろう。  ただ、純粋に故人の死を哀しむ気持ちに加えて、得宗政権への忠誠を表明しようとする政治的思惑が潜んでいた可能性も否定できない。

**葬儀と追悼

時頼の葬儀が行われた後、「時頼の死去により御家人が出家しないように命令が下っていたが、命令に背いて出家する者が多く有るという。  出家した御家人を調べて報告するように」 という幕府の命令が、諸国の守護に出されている。   (吾妻鑑)

時頼の死を悼む動きが、諸国の御家人たちの間に広がっていた事が解る。 生真面目で勤勉で少々煙たい存在ではあったが、幕府首脳部や御家人たちにとって時頼は信頼のおける人物であったようだ。

強力な庇護者を失った禅僧たちも、時頼の死を惜しんだ。  精力的な政治家にして、熱心な仏教信仰者であった時頼の死は、人々に大きな衝撃を与えたのであった。

**妻と子

時頼の妻子については既に言及した部分もあるが、少し詳しく調べてみた。   一人目の正妻は、延応元年(1239)に結婚した毛利季光(suemitu)の娘である。  季光が宝治合戦で三浦方に付いたため、離縁された。 子があったかどうかは不明。

二人目の正妻は、建長元年(1249)に結婚した北条重時(sigetoki)の娘で、時宗・宗政・女子の母親である。  この女性は時頼の死後出家して「葛西殿」(kasaidono)と呼ばれるようになり、叡尊・忍性に帰依する一方、摂津・多田荘や駿河富士郡などの領主として豊富な財力を持ち、日中貿易にも関与したらしい。  85歳で亡くなっている。 

次に子供たちと、側室について見てみよう。    
宝治二年(1248)に生まれたのが、三郎時輔(tokisuke)である。  幼名は宝寿。母は、将軍家に仕えた讃岐の局という側室の女性で、時輔の死後は出家して「妙音」 と名乗った。  時輔は、文永三年より六波羅探題南方を勤めるが、得宗を継いだ弟の時宗に対する謀反を疑われ、文永九年に誅殺された。  25歳

二番目の男子が、太郎時宗、幼名・正寿である。 建長三年(1251)の生まれ、母は正妻重時の娘である。 周知のように、時頼のあと連署・執権を勤め、元寇の侵略を阻止、弘安七年(1284)に34歳で病死した。

四朗・宗政は建長五年1253)の生まれ、幼名は福寿、母は時宗と同じで、正妻の子である為、時頼によって時輔より上位に位置付けられた。 小侍所別当、評定衆、引付頭人、筑後守護、長門守護などを勤めた。 また文永の役に参戦、負傷している。29歳病死

以下、 五郎宗時・六郎政頼、七郎宗頼、系図類に見える人物で「吾妻鑑」等の史料には登場しない。  時厳(jigon)は僧侶

以上、五代執権・北条時頼編 25回分まで進みました、・・・・終りです。ご愛読ありがとうございました。

丁酉・庚戊・丙午

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.12(06:08) 88

**臨終往生

*「吾妻鑑」 による臨終の様子

叡尊の下向に鎌倉が沸き返った翌年、弘長三年(1262)は、文字通り波乱の年となった。 八月豪雨と共に大風が吹き、御所や鎌倉中の民家に大きな被害が出た。  由比ヶ浜(和賀江島)に着岸していた数十艘の船が、破損し、漂流して沈没した。 (吾妻鑑)
日本最古の築港とされる・和賀江島跡  (鎌倉市・材木座)
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和賀江島から稲村ケ崎・江の島を望む (対岸・稲村ケ崎)
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かねてより幕府が準備を進めていた将軍・宗尊親王の上洛が、大風による農作物被害への負担軽減させることが必要となった為、延期になった。    (吾妻鑑)
さらに、この月の末に由比ヶ浜では沈没する船や、打ち寄せられた死人が無数に見られた。 九州方面から年貢を運搬してきた船のうち、60艘が伊豆の海を漂流した。  (吾妻鑑)

宗尊親王の上洛延期が決まった八月二十五日、時頼の病気回復の為に、時頼邸(山之内最明寺の別邸)で大般若経の真読が行われた事が 「吾妻鑑」 に記されている。 「吾妻鑑」はこの年の三月に信州・善光寺に土地を寄進した記事以降の時頼に関する記事が無い・・・。あるいはすでに体調を崩していたのかもしれない。

十一月になって時頼の病気の悪化を示唆する記事が登場する。  病気回復のための様々な祈祷が行われた。というものである。
まず、この日に等身大の千手観音菩薩が供養された。  この日以前に作り始めたはずであるから、時頼の発病もこの日よりかなり前、という事になる。

「吾妻鑑」 によれば、延命護摩法要が行われ、北条義政(yosimasa)が等身薬師如来像を作らせ供養し、像を携えた供養僧が三島社に参籠するために出発したと記している。

しかし、祈祷の甲斐なく、十九日には危篤に陥り、最明寺に付属する北亭に移ることを望んだという。 心静かに臨終を迎える為と云われる。 被官の尾藤太景氏(takauji)と宿屋左衛門尉に命じて、見舞いを禁止させた。 翌朝時頼は最明寺北亭に移ったが、前日の命令を二人が固く守った為、誠に静かであった。 看病のため近侍する7人の被官の他は、誰も出入りしなかった。

十一月二十一日、戊刻(午後8時頃)、時頼は最明寺北亭で臨終を迎えた。  (37歳)であった。
「吾妻鑑」が伝える臨終の様子は、次のようである。  時頼は、袈裟を着て椅子に上り、座禅をし、少しも動揺する気配を見せず、「業鏡高く懸ぐ三十七年一槌に打砕して、大道端担然たり 」 という遺偈(遺言)を唱えて亡くなった。    次回に続く

**次回は最終回の予定・・・・・・そして次のテーマは北条時宗の予定です。

丁酉・庚戊・壬寅

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.08(06:30) 87

**叡尊の下向と律

**北条(金沢)実時・関東下向を要請

銅像大仏の完成が真近に迫った弘長元年(1261)10月、見阿弥陀仏(ken・a)という律僧が金沢実時(sanetoki)の使者が叡尊を訪れ、 「一切経を西大寺と武蔵・称名寺に寄付するので、関東に下向してほしい」 という書状を持参した。  叡尊は多忙を理由に断り寄付も辞退したが、下向の有無をに関わらず寄進します、という事で後日西大寺に一切経が届いた。

さらに、12月、関東に下っていた叡尊の弟子の定舜(jiyousixyun)が関東から上ってきて、実時の言葉を伝えたが、それによると時頼も実時に同心して、叡尊の下向を望んでいる旨の言葉だった。

さらに翌年二月に、再び見阿(ken・a)が実時の書状を叡尊の許に持参し、それには時頼も仏法を興隆し自ら受戒するためにも下向を願うと記されており、やむを得ず叡尊は了解したのである。
先に実時の言葉を伝えた定舜は、実時の発願で中国に渡り、一切経を得て帰国した人物でもあり、叡尊下向以前にすでに金沢氏が西大寺流律宗に帰依していた事は確実とみられる。

また、叡尊の一番弟子忍性(ninsiyou)も、建長四年(1251)に関東に赴いて、常陸の三村寺(mimuraji)を拠点に活動し、さらに弘長元年(1261)には鎌倉の新清凉寺釈迦堂を新たな拠点として獲得していた。

*新清凉寺・・・・扇ヶ谷海蔵寺付近の谷戸にあったが、現在廃寺となっている。

忍性らを通じて師叡尊の高名を聞いた実時らが叡尊を招こうとし、時頼もそれに賛同したと考えられる。
弘長二年(1262)二月、62歳の叡尊は、弟子の定舜(jiyousiyun)・盛遍(jiyouhen)・性如(siyouniyo)・性海(siyoukai)らを従えて奈良を出発した。以後の一行の様子は、弟子性海の旅行記「関東往還記」 に詳しい。

「関東往還記」 の時頼関係の記述を中心にリポートする。   
鎌倉に到着した叡尊は、西御門の天野景村(kagemura)の屋敷に落ち着いた。 夜になって実時が訪れ、「出家はしないが、自分を弟子に加えてほしい。 また、時頼も御下向を大変喜んでいる」と伝えて帰った。 

*天野景村・・・・実時の母方の叔父

大蔵御所・西御門(nisimikado) 鎌倉・西御門
西御門

暫くして、亀ヶ谷(kamegayatu)の清凉寺釈迦堂に移り、早速同所で梵網布薩(bonmou・fusatu)という仏教儀礼がおこなわれ、叡尊の説法を実時一族とともに時頼の妻(重時の娘)が傾聴した。

月が替わった三月、時頼本人から実時を介して叡尊に逢いたい旨伝えられたが、叡尊は「しばらく、日をおいて、特に急がずお会いしたい」 との返事であった。 十日程して時頼は 「対面したいが、自分から出向くとなると警備が面倒ですし、気軽に私宅にお招きするのも恐れ多く、どうしたらよいか困り果てています」 という言葉を、実時が伝えています。  遠回しながらも催促するような時頼のメッセ―ジに、叡尊も押し切られた格好で 「一人の為に出向くのは本意ではないが、なかなか難しい状況なので、今回は特別に出向きましょう」 と返答した。
そして、この日の夕刻に時頼の別荘内にあった最明寺を訪ね、数時間にわたって時頼と対談し、深夜になって帰宿。

*最明寺(saimiyouji)・・・・時頼が出家準備の為に建立した寺院。 (現・明月院)

明月院・方丈 (鎌倉・アジサイ寺)    (鎌倉・山之内)
明月院・方丈

数か月後、時頼の使者が叡尊のもとへ来て、「戒を受けたいので、明日参上したいと存じます。もし都合が悪ければ、都合の良い日をお知らせください。また、受戒の時にはお布施を治めると世間では云われていますが、本当はどうなのですか」 と伝えた。
これに対して、 「布施の事は広く言われていますが、私の教えにはないことで、誤まった説です」 と回答している。

この間のやり取りや対談を通じて時頼はすっかり叡尊に心酔してしまったらしく、将軍の御前で 「叡尊の人徳と素晴らしい行いは、尋常ではありません」とあれこれ賞賛したので、、人々はますます競って叡尊の許に集まったという。

叡尊の下向と時頼をはじめとする幕府有力者の帰依をきっかけに、関東での西大寺流律宗の活動は飛躍的に盛んとなり、、やがては極楽寺に拠点を移した忍性がその中核を担っていくのであるが、それは時頼没後の事である。

時頼が叡尊に帰依したのは、偶然にも幼名が 「戒」 寿であった事に象徴されるように、時頼には律のような禁欲的側面の強い教えが性にあったのかもしれない。 しかしながら、叡尊から戒を受けようと思ったのは単にそれだけではなかったようである。
後に叡尊が語ったところによると、「関東で最明寺の禅門(時頼)に逢った時、 斎戒を受けたのも理を明らかにするためです」 と言われた。
この人は禅の修行をして常に悟りを得ようとしているので、この様な言葉があったのであろう・・・・・・。

禅を中心としつつも、様々な仏教の教えに耳を傾け、この世で何が正しいかを見極め、精神の平穏を回復しょうと努力していたのであろう。  
次回に続く

丁酉・庚戌・戊戌

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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.04(06:58) 86

**浄土と鎌倉大仏

**浄光明寺・大仏の建立

時頼は、日蓮が強く批判した念仏の教え(浄土教)をも受け入れた。  鎌倉・扇ヶ谷(oogigayatu)の浄光明寺の創建に関わったとみられることは、その一例である。  浄光明寺は建長三年(1251)に北条長時(nagatoki)の発願により、浄土宗・真阿(sina)を開山に招いて創建されたと伝わる。  (鎌倉市史)

しかし、創建に関わる浄明寺文書に「本願主」として長時と時頼の名が記されており、建長三年当時には長時が京・六波羅探題在任中であった事などから、創建に関わる実務を行ったのは執権時頼であったことが考えられる。

時頼が浄土教を中心とする寺院を建立していることは、当時の多くの武士と同様に、念仏信仰(阿弥陀信仰)をも持ち合わせていた事を意味している。  現在は材木座にある浄土宗・光明寺についても、時頼の関与が伝わっている。 浄土宗鎮西派の関東における一大拠点であった。

鎌倉における浄土信仰という事になると、鎌倉大仏に触れなければ為らないでしょう。
「吾妻鑑」 によれば、建長四年(1251)八月に鎌倉深沢において金銅・八丈の釈迦如来像を鋳造し始めたという記述がある。  鎌倉大仏は、不明な点が多く非常に謎の多い大仏である。
この記事もその一つで、現存する露座の大仏は阿弥陀如来像であるが、記事では 「釈迦如来」 とされている。この不一致をどう解釈するかについてはいろいろな説がありますが、基本的には建長四年に鋳造され、この大仏が現存する「阿弥陀仏」であるという説が主流である。

実は、銅像の大仏が作られる前、木造の大仏が存在していた。 この木造は大仏嘉禎四年(1238)3月に工事が始められ、寛元元年(1243)6月に完成している。  (吾妻鑑)

木造大仏も銅像と同じ阿弥陀如来像であったとみられ、創建の発案は北条泰時(yasutoki)(三代執権)と考えられる。  同時に浄光(jiyoukou)という念仏僧の勧進活動を幕府が後押しをした記録が残る。 何れにせよ幕府が関与していた事は間違いない。

木造大仏を原型として、同じ場所に銅像大仏が建立されたと考えられるが、正確な完成時期は不明である。 文応元年(1261)から文永元年(1264)の間とみられている。 この大仏の建立を推進たのは北条時頼であろう。泰時の代の大仏を継承したという側面もあるが、時頼自身に阿弥陀信仰がなければ、大仏建立のような大事業を行う事は無かったであろう。  また、並行して進んでいた建長寺の造営も、幕府による国家支配を守護する仏教拠点という性格を持っていたのであろうと考える。
露座の鎌倉大仏 (阿弥陀如来像)  鎌倉市・長谷(深沢)
鎌倉大仏
大仏建屋・礎石  鎌倉大仏は露座ではなかった・・・・・
大仏建屋礎石
律僧・忍性経営(桑ヶ谷療養所・悲田院)跡 (鎌倉・長谷)   ・現長谷大仏付近・
桑原ヶ谷療養所

銅像大仏の完成を弘長二年(1262)と想定するとともに、前後して奈良・西大寺の律僧・叡尊(eisonn)が鎌倉に下向している事に注目する。   大仏は西大寺系律宗と時頼政権との一体化の象徴と見ている。 研究者の意見も大筋で同じようだ。
大仏と律宗が密接な関係にあったことは、建立に関して技術者の動員という面からも十分想定できる。

*律僧・忍性(ninsiyou)・・・・西大寺・叡尊の弟子、鎌倉に於ける社会救済活動(橋・道路・井戸)等の土木事業、貧民救済の為の施設の運営を行う。(極楽寺の住持)

次回に続く

丁酉・庚戊・甲午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2017年09月
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