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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.30(07:00) 100

**東アジア世界の動向

**三別抄と日本

この三別抄の抵抗が、モンゴルの日本攻撃を大幅に遅らせるものであり、モンゴル軍を疲弊させたものであった。  しかも、それだけではなく、没落以前に三別抄は、日本(京都朝廷)との連携を模索していた。

1271年(文永八年)、鎌倉幕府の使者が、西園寺実兼(sanekane)のもとに「高麗牒状」 を届けた。 実兼は、幕府との連絡役である関東申次の地位にあった。  この牒状は、後嵯峨院の評定にかけられ、貴族たちがその解釈や対応について議論を繰り広げた。

この「高麗牒状」 の内容については、研究者の調査から三別抄からもたらされた牒状である事が判っている 「珍島に遷都する」 という文言があり、日本側にモンゴル軍への抵抗の為の援助を求めたものである。

また、モンゴル・高麗の軍事的動向等について、日本に情報をも提供している。 そして恒常的な外交関係を結ぶ意図も含んでいた。 さらに、日本からの使者派遣を要請している。
この様に三別抄は、日本との間に対等・平等の国交を求めていた。  しかし、日本の朝廷では、この提案を理解する事が出来ずに、「不審」 としてかたずけ、まともな対応をしなかった。

一方で、鎌倉の幕府は、九州に所領を持つ御家人に対して、九州に下向して、守護の指揮下で異国防衛に対処するよう命じている。  これが現状での、三別抄の働きかけに対する幕府の唯一の対応であった。 そして三別抄の反乱は終息し、文永の役を迎える事になる。

**アジアの「元寇」

高麗に対する様に、モンゴルの侵攻は厳しいものであった。  同様な侵攻を、モンゴルのは各地で繰り広げていた。  その点で「元寇」 は日本特有の攻撃ではありませんでした。 むしろ、日本の受けた被害は、他の地域に比べ小さいものであった。

モンゴルが侵攻した国々を列挙すると、雲南・南宋・ベトナム・ミヤンマー・タイ・台湾・沖縄・ジャワ・サハリンなどである。
このうち南宋に対して、フビライは執拗に攻撃を続けた。南宋の攻撃は、すでにオゴデイとモンケの時代に二度試みて二度とも失敗していた。

まず南宋を孤立させる作戦として、東方で高麗に、西南方でベトナムに重点を置いて攻撃した。  1261年(弘長元年)ベトナム国王を冊封(sakuhou)し、行政官を置いた。

フビライは漢人部隊と蒙漢混成の特殊部隊を編成し、1274年(文永11年)南宋への大侵攻が始まった。  南宋側も軍馬13万・戦艦2500艘を保有していたが、寄せ集めの軍にすぎず、全軍壊滅。  南宋の首都・臨安は無血開城した。

南宋を攻略した後、インドネシア方面と日本が主要な標的となった。 1280年(弘安三年)、日本征討の為の機関として征東行省を置くが、同時にビルマ攻撃を開始した。さらにベトナムでは傀儡政権を作り上げた。  フビライは、1294年の死に至るまで、三度の日本遠征を計画したが、南宋の故地で反モンゴル蜂起が起こり、インドシナ方面の戦況が泥沼した為、実現しなかった。

**モンゴル国書到来

1266年(文永三年)八月、日本との通商を求めるモンゴル皇帝フビライの国書を携えた、二人の使者が日本に向かって出発した。  正使はモンゴル人の黒的(kokuteki)、副使は漢人で殷弘(inkou)という。  彼らが高麗の都・江都(kando)に到着したのは、三ヵ月後のこと。  高麗に日本までの道案内をさせる為である。  しかし、この第一回目の遣使一行は巨済島(kojiedo)までは渡ったものの、遥か対馬を望んだだけで引き返している。  理由は、風波の荒さに危険を感じたから言うのであるが、こうしたモンゴル使者の消極的な行動の背後に、高麗の宰相・李蔵用の巧みな働きかけがあったことは見逃せない。

高麗王から二回目の使者が大宰府に着いたのは、1267年(文永四年)11月、フビライの国書は翌年正月に鎌倉に到着、さらに二月初めには朝廷にもたらされているが、評定の結果は、返書を送らない事、緒寺社に異国降伏の祈祷を命じる事などであった。この様に返書を返さないで黙殺するという朝廷の方針は、フビライの国書から、「通商」 ではなく「侵略」 を読み解いていた幕府の方針に従ったものであった。

当時、モンゴルについての情報が、日本からの入宋僧・宋からの来日僧・日宋間の貿易商人など、モンゴルに圧迫を受けていた南宋側を通じてもたらされた情報によるものであろう。  幕府の指導者にとってモンゴルと云えば、南宋と同じく侵略者・征服者に他ならなかった。

以後、1271年(文永八年)九月、までに五回目の使者が到着し、フビライの日本遠征計画が着実に具体化しつつあった。  先述した三別抄から京都朝廷にもたらされたモンゴルによる日本攻撃の情報は、この時期と考えている。    次回へ

訂正・・・・モンゴル帝国皇帝 「フビライ」 を 「クビライ」 と記していました。 以後、 「フビライ」 に統一します。

丁酉・辛亥・庚寅
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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.26(07:00) 99

**東アジア世界の動向

**モンゴルの高麗侵攻

モンゴルは、高麗に対して侵攻を繰り返した。
当時、高麗には、崔氏(tiesi)による武人政権が成立していた。  高麗とモンゴルの接触は、1218年、モンゴル軍に追われた金朝治下の契丹人(kitutan)の高麗進入を機に始まった。

高麗は、これを平安南道の江東城に追い詰めたが、その際にモンゴル軍との共同作戦を展開これを陥落せしめた。 この様な親密な関係から、高麗・モンゴル関係はスタートしたが、しだいに両者の関係は険悪なものになっていく。

1225年、モンゴルの使者が高麗からの貢物を受け取り帰国の途中、何者かに襲われるという事件が起きた。  これを契機に、モンゴル軍は、1231年から侵攻を開始し、高麗の首都開京(kegiyon)を包囲した。  これ以後、1259年までに六次にわって侵攻を続けた。 その結果、高麗全土が蹂躙され、モンゴル軍が通過した地方はいづれも廃墟と化した。

これに対して、崔氏政権を中心に高麗側は、激しい抵抗運動を続けた。  1232年、都を開京から江華島(kanhando)に移して、抵抗の方針を明らかにした。  この遷都は、海上の戦闘に不慣れなモンゴル軍の弱点を突いたものであった。

抗戦の中心となったのは、崔氏政権の中央軍組織の三別抄(sanbetusiyou)、地方人民が各地で組織した軍隊・郡県別抄であった。  三別抄は、戦時に臨時に勇猛な者を選抜し組織した軍隊であり、単なる崔氏の家兵ではなく、高麗の支配者たる彼らの公的軍隊であり、当時殆ど形骸化していた伝統的な王朝軍に代る、高麗の中央軍であった。

モンゴルの兵火は、高麗時代の文化所産の多くを焼失してしまったが、中でも符仁寺(fuinsa)に所蔵された大蔵経(daizoukiyou)版木も焼失した。 崔氏は、モンゴル軍の退散祈願のために、その復元をを行い、大蔵経版木八万枚に及んだ。現在、海印寺(heinsa)に保管されている。

その後、フビライは、従来の武力征服から融和策に転じ、高麗の独立を認めた。

**三別抄の抵抗

高麗王・元宗は、モンゴルとの臣従関係によって政治的地位の回復を図った。 そして、江華島を出て、モンゴルとの交渉を進め、首都を開京に戻そうとした。 抵抗の拠点であった江華島から、都を開京に戻すことは、高麗側の完全な屈服を意味していた。

いよいよ環都は、実行の運びとなった。  しかし、1270年、三別抄が環都に反対し、反乱に立ち上がった。 反抗的態度を示す三別抄に対して、元宗は解散を命じて、その名簿を取り上げた。 しかし、三別抄は命令を拒否して、反蒙古を号して一斉に蜂起した。

三別抄は元宗の弟・承化侯温(sunhaoon)を国王に擁立した。 官府を置き、それぞれに人員を配置した。  モンゴルに屈服した旧国王、旧政府を否認し新政権の樹立を目指すものであった。
その為には、モンゴル・元宗側の根拠地に近い江華島では、本拠にふさわしくなかった。そこで、江華島を捨て船に分乗して南下、全羅道の珍島(tindo)に移り、この地を根拠地に定めた。

モンゴル・高麗軍は再三珍島を攻めたが、その都度撃退されている。  三別抄は、1271年その勢力は頂点に達した。 全羅道を制圧したのみならず、慶尚道南岸地域を奪い、慶尚・全羅二道の貢納物の輸送路を押さえた。

しかし、それ以降モンゴル軍の攻勢が本格化すると、形勢は逆転する。  モンゴル・高麗連合軍は珍島を攻略した。  国王・承化侯温は連合軍によって殺され、残党は済州島に逃れた。

三別抄の衰退が、どうして急速に進んだかは良く解っていないが、三別抄は決して反モンゴルという立場の一枚岩では無く、矛盾をはらむものであった。 親モンゴル勢力の台頭こそ、三別抄の没落の原因だと研究者は指摘する。

一方、モンゴル・高麗連合軍の攻撃を前に、日本との連携を画策した為に、三別抄は兵力を分散して、珍島からはるか東方の金州(慶尚道)沿海に留めていた。  この戦力分散が没落の原因の一つだと推測されている。

珍島の敗北で、三別抄は一層反モンゴルの姿勢を明確にした。  反乱軍はしばらくなりを潜めていた、その間にモンゴル・高麗の使者は、相次いで日本に渡り、モンゴルへの招諭を求めている。   その後、1273年にモンゴル・高麗・漢・連合軍の総攻撃に敗れ、三年余り続いた三別抄の反乱は終息した。  次回へ

丁酉・辛亥・丙戌

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.22(07:00) 98

**東アジア世界の動向

今回、都合により北条時宗(日本)の周辺、モンゴル・高麗の動向についてレポートします。(2回程度の予定)



**モンゴル帝国の成立

十三世紀は、大きな転換点となる世紀であった。 それは、ユーラシア大陸に忽然とモンゴル帝国が出現した事による。
そこで、モンゴル台頭の歴史を要約してみる。

*チンギス・カンの登場

13世紀初め、モンゴルという遊牧集団が、モンゴル高原の東北部に、急速に台頭してきた。  この集団の長が、テムジンである。
彼は、僅か三年の間に、ゴビの北に割拠するトルコ・モンゴル系の放牧集団を統合していった。 そして、部族長の集会であるクリルタイで推薦を受け、1206年、チンギス・カンと名乗った。      
(頼朝の鎌倉幕府成立とほぼ同時期)

こうして、「モンゴル・ウルス」 が成立した。 モンゴル語のウルスとは、血縁関係にって形成された部族集団と、その遊牧圏をさし、更には国そのものを指す。 ウルスは、集団にウエイトを置いた言葉で、領土が固定した国家ではなく、人間集団が動いてしまえば、ウルス(国)も動いてしまうという類の国家である。

チンギスは、千人隊を基本とし、機動力に富む強力な騎馬軍団を組織した。  彼は中国・金朝を征服したのを始めイラン全土を支配、更に南ロシア、インドまでの侵攻を計った。 この様に各地への遠征に明け暮れ、支配領域を拡大したチンギスは、1226年から第五次西夏遠征を決行の途中、六盤山南麓の清水河の野営地で、その生涯を閉じた。

**ウルスの拡大

チンギスの死後、その末子のトルイが国政を代行した。 1229年、チンギスの第三子のオゴデイが即位し、トルイの強力のもと金朝攻撃を再開した。  トルイ軍は西側から京兆〈現・西安)を陥落させ、1234年トルイ軍に協力した南宋軍の攻撃を受けて、ついに金朝は滅亡した。

オゴデイは、1234年、クリルタイを招集して、南宋遠征とキプチャク・ル―スィ遠征の東西二大遠征を発表する。  そしてオルコン河の上流平原に新都カラコルムが造られた。 そこを起点とする駅伝制も整備されると共に、モンゴル皇帝を示す「カアン」 という新称号を創始した。

1236年から西方遠征が開始され、チンギス・カンの孫であるバトゥが指揮した。 西に広がる草原の制圧が目標であった。  さらにロシア・ヨーロッパ方面まで侵攻し、ハンガリー草原を制圧した。

四代目のカーンとして、1251年モンケが正式に即位した。 トゥルイの子、チンギスカンの孫。モンケは、財政行政上、帝国を三大地域に区切り、総督府を設置した。  東方については、弟のフビライを総司令官とした。 一方、西方にはフレグを派遣。  こうしてモンゴル帝国は、ユーラシアの東西にまたがる文字通りの世界史上空前の大帝国となった。

**フビライのクーデター

1259年、四川州に遠征中のモンケが陣営で急逝した。 諸王・諸将の多くがモンケ本隊にいた事したため、モンゴル本土には、末弟のアリク・ブケだけが駐在していた。  そのアクリとの間で、五年にわたってフビライは帝位継承の戦いを続けたが、1260年諸郡に集結を呼びかけ、自派のクリルタイを開催し、フビライが即位した。 この時四十六歳であった

アリク・ブケも、モンケの葬儀とクリルタイの開催を呼びかけ、多数派工作を続けた。   名文上では、アリク・ブケが正統の大カーンであった。  以後、両軍のにらみ合いが続いたが、フビライの多数派工作がなり、フビライによって、新型の国家が建設された。

それは、中央ユーラシアの遊牧国家の伝統と中華世界の中華帝国の方式を合体させたうえ、さらに海域世界をも取り込んで、政治・経済の緩やかなシステムを出現させたと言える。  それは、後に見る南宋の吸収で、ほぼ完成された姿を見せるようになる。

フビライは、新たな首都として大都(現在の北京)を建設した。 それは、カラコルム(上都)とを結ぶ内陸の交通路だけでなく、海域との結びつきも考慮された。  大都には、積水潬という都市内港がつくられ、運河によって上海・泉州・広州などの港湾都市とも直接結びついた。

一方、内陸アジアの交通網と商業網はモンゴル政権のもとで一層組織化・体系化されていた。  こうして海陸双方を通じて人・ものがユーラシア大陸を循環していくネットワークが形成されたのである。 次回へ

丁酉・辛亥・壬午

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.18(07:00) 97

**時宗・権力の確立

**将軍との確執

文永二年(1265)正月元旦、恒例の椀飯(ouban)役、時宗が務めた。  連署でありながら、15歳の時宗が年長の執権政村(masamura)を差し置いて、幕閣で第一番の要人であることを、内外に闡明にしたのである。

その元旦、事前に天文道の博士たちから、「その日、日蝕あるべし」と、予言されていた。  当日、実際には雨だったので、日蝕は正現しなかった。 例年出座している将軍宗尊親王(munetaka)の出座は無かった。

「正現せずとも、本日は日蝕なり。 将軍家の御尊体を露わにさるれば、必ずや不吉な事あるべし」  将軍側近の京下りの公卿たちが、そう言って将軍の出座を止めたと伝わる。 将軍は欠席したが、椀飯は強行された。

「正月三が日の椀飯は、右大将(頼朝)家の御時より以来、幕府恒例の公式行事たるなり。 たかが正現もせぬ日蝕の故に、棄破せらるべからず」    時宗たちは、こう主張したのである。  その勢いに押されたのか、将軍側近の大納言・土御門顕方(akikata)は、「必ず出席する」と云ってきたが、結局は欠席であった。


文永二年は、元旦早々から将軍と時宗の確執が表面化した。   将軍が 「毎年の年頭、初度の評定衆の会合には、(評定始め)という幕府恒例の儀式在り。 本年の元旦には幕府恒例の儀式と称して、日蝕なのに椀飯を強行す。 なれば(評定始め)も、他日に正式に行われるべし」 とクレームが付けられたのである。 将軍側からのしっぺ返しであった。
何らかの理由で評定衆の会合が中止になっていたのか・・・・?
後日、麗々しく評定始めが行われた。 将軍の言い分を、時宗たちは受け入れたのである。 

名越流北条氏は、かつて宮騒動などでは、反得宗の前将軍九条頼経方だった。  当主北条教時(noritoki)自身も、現将軍宗尊親王の近侍であった。 将軍御所では御格子番・昼番衆・廂番衆・御鞠衆などを歴任し、御鞠奉行に任じられている。 また官職も、刑部少輔から中務權大輔に昇任している。   教時の地位は、すべて将軍から与えられたものだった。 時宗の得宗家が与えたのは、引付衆だけであった。  しかし時宗はこの年将軍派の一角を懐柔すべく教時を評定衆に登用したのである。  しかし、教時が将軍派から得宗派に転向するか否かは、この程度の事ではまだ心許なかった。

**庶兄時輔

文永二年三月、六波羅探題北方の時茂(tokisige)、南方の時輔の二人は連署して、尾張守二階堂行有(yukiari)に宛てて「六波羅御教書」 を発した。  その末尾の部分は、次のようになっていた。  問題は内容ではなく、その文書の発行者に京都・六波羅探題北方・南方が連署していた事だ。  二階堂行有は尾張守で、時茂は左近将監だから、共に官職は従五位下であった。 しかし、時輔は、無位無官だった。 文書にある裏花押とは時輔の謙譲の態度を示すというよりは、行有や時茂のような有官者に対して、自分は無位無官だから 「私は貴殿方の名前が記されているのと同じ表面に、書判出来る身分ではない」と言っている訳で、極めて卑屈な、屈辱的なものであった。  しかし、これが、京都での時輔の立場であった。

後嵯峨上皇を首班とする当時の京都朝廷でも、さすがに見兼ねたのか、或は時輔の立場が過度に低すぎて、交渉しにくかったのか、この年の四月、時輔は叙爵して従五位下になり、同日式部丞に任じられた。   鎌倉にいた時宗たちが、認めた上での叙爵と任官であろう。

京都朝廷に対して幕府を代表する役職の時輔が無位無官では幕府の体面に関わると、時宗たちが考えたのかも知れない。 執権政村と連署時宗とが連署した、六波羅に御教書を書き送っているが、その文面の宛名には、時輔は明らかに「相模式部大夫殿」 と記されている。 時輔の叙爵と任官とを、時宗たちは追認したことになる。

しかし、一方では時輔の叙爵任官の後、時宗の同母弟の宗政(munemasa)が従五位下の右近将監になっている。  異母兄の時輔と、均衡を図ろうとしたのである。  時輔の叙爵任官を、時宗たちが快くは思っていなかったことが、ここに示される。

時輔は、ようやく従五位下の式部丞になり、署名する時には、「式部太夫」 と書ける身分になったのだが、六波羅探題という立場で発した御教書には、「散位」 (sanni)と書判している。

*散位・・・・位階はあるが、官職は無い。

「式部丞」 という官職を得ていた時輔は、この時点で「式部丞」 ではなくなっていたことになる。  自主的に時輔が辞任したのか、辞任する様に強制されたのか、それとも朝廷から官職だけ剥奪されたのかは不明である。 しかし、これ以降時輔は死ぬまで六波羅探題南方であったが、この間、発せられた十余通の御教書の時輔の書判は、つねに「散位」 であった。 死ぬまで時輔は、無冠だった事になる。

ところで、さらに不可解なのは、時宗が時輔に宛てて出した御教書では、つねに宛名が「相模式部太夫殿」 だったのである。 時宗は、時輔の式部丞辞任を、あくまでも認めないとしているかのようであった。 何れにしても以降、時輔は「散位」 と自署して、自分が無冠である事を、他に誇示し続ける。  これに対し時宗は、つねに時輔を「相模式部太夫殿」 と書いて時輔の式部丞辞任の関して感知していないという立場をとり続けたのである。

鎌倉幕府の記録書「吾妻鑑」には、時頼の死後、時輔は一度も登場していない。 六波羅探題南方として、時輔が鎌倉に報告書を送っても「吾妻鑑」はこれを完全に無視している。  対立と反目、時宗が苛めたのか、時輔が拗ねたのかは、今となっては謎である。     次回へ

鎌倉・七切通し(朝夷奈)  三点
切通し・石塔
朝夷奈切通し
朝比奈側

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.14(07:00) 96

**権力の確立

**人事異動

文永元年(1264)4月、六代将軍・宗尊親王(munetaka)に、一子が生まれた。 後の惟康王(koreyasu)である。
生母は故近衛兼経(kanetune)の姫・宰子(saisi)、時頼の猶子だった女性である。

同じころ、一番引付の頭人だった大仏流・北条朝直(tomonao)が死んだ。59歳だった。 義時の弟時房の四男で、北条一門では元老格の存在だった。  六月には後任の人事が発令され、二番引付の頭人だった名越流・北条時章(tokiaki)が繰り上がった。
次に三番頭人の金沢実時(sanetoki)が二番頭人に、そして平の評定衆だった安達泰盛(yasumori)が、三番頭人に昇格した。  この頃から安達泰盛は急速に昇進を遂げてゆく。
妹が時宗の妻だった事と関係があるだろう・・・。 まだ14歳ではあったが、得宗である時宗の威権は、かなりのものであったと思われる。

この人事異動の直後、執権・長時(nagatoki)が病に倒れた。  その後執権を辞して出家した。  八月に入り、執権の後任に、これまで連署であった北条政村(masamura)が就任した。 北条一門中での元老格の存在で、老練な政治家でもあり、今まで次席の執権だったことから、誰にも異論のない人事であった。 しかし、政村が執権に昇格したあと、欠員となった連署には、十四歳の時宗が就任したのである。 そのような中前執権の長時が死亡した。35歳の若さであった。

これを世上は、どの様に観たのか、時宗の庶兄時輔(tokisuke)の反応は、どうにも気になる。   これまでの幕閣の中枢は、若き執権長時を、老練な連署の政村が、補佐してきた。  それが今逆転したのである。 政務に熟達している政村が執権で、これを補佐すべき連署は、若年未熟の時宗という事になったのである。 果たしてうまくいくのでしょうか?

一方、この人事を時宗が政務の実際を政村から学習するためのものだったとする研究者もある。  この解釈に従うと、連署の時宗には実権は無かったという事になるが、本当だろうか・・・・・。何れにしても新人事があってから以降の一か月間、 鎌倉中に不穏な気配が漂ったらしい・・・・。

不穏な気配が次第に以上に昂ぶりつつあった頃、 追加の人事が発令された。
意外なことに時宗の庶兄時輔(tokisuke)が、六波羅探題南方(minamikata)に起用されたのである。  かつて頼朝が幕府の京都出張所という形で設置した京都守護は、承久の乱後、六波羅探題と職名を変えて、その職務も拡大された。

公表はされなかったが、六波羅探題には、京都朝廷が承久の乱のような事件を起こさないよう監視する任務もあった。  通常は北方(kitakata)と南方との二人制であり、共に北条一門から選任された。  北方は、この頃まで極楽寺流が独占し、南方よりは上位とされていた。
極楽寺流・北条氏菩提寺   極楽寺本堂 (鎌倉・極楽寺)
極楽寺・本堂
極楽寺・山門     開基北条重時   開山忍性
極楽寺・山門
極楽寺・三門

一方、南方は仁治三年(1242)、佐助流北条時盛(tokimori)が辞任してから以降、23年間も欠員だった。  要は南方はいなくても、六波羅探題の政務に支障はないばかりに南方は低く見られていた。  その様な南方に23年ぶりに任じられたのが、北条時輔であった。 北条一門の本宗である得宗家の一員である時輔が、北条庶家である極楽寺流・北条時茂(tokisige)の下位にあると、世に示されたのである。

一方で、時輔は鎌倉から追放されて、京都で時茂の監視下に置かれたとも、世上は見たかもしれない。 時宗は次男でありながら得宗家の家督を嗣ぎ、今は幕府の連署にも就任している。  その時宗から庶兄の時輔は、目の上の瘤として疎まれ、遠く京都の閑職に左遷されたことは明らかであった。   次回へ

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.10(07:00) 95

**時頼から時宗へ

**時頼時代の終焉

弘長元年(1261)11月、極楽寺流・北条重時(sigetoki)が死んだ。 64歳

その直後から「吾妻鑑」は、欠落が多くなる。  時宗が従五位下の佐馬権頭(samanogonnokami)に叙爵した事すら、記述されていない。  そして弘長二年(1262)に至っては一年分がそっくり欠落しているのである。  この年、鎌倉で何事かが起こった事は間違いない。 暗に裏付けているのは、弘長二年に書かれた「国分忠俊所領譲状案」と言う一種の譲渡状が残されている。 この書状によれば、肥前国朽井村(佐賀県大和町)の領主国分忠俊は、「鎌倉にひそめく事あって召され候の間、生命、存命し難きによりて」 所領を嫡子に譲与して、鎌倉に旅立った。 死を覚悟して忠俊は、鎌倉に向かったのである。
鎌倉には「ひそめく事」 が、あったからである。 忠俊のその後については、一切わからない。

「吾妻鑑」 が書かなかった弘長二年に鎌倉で起きた主な事件は、他の資料などから引用した。
〇  三月二十七日、金沢実時(sanetoki)の招きで、奈良西大寺律宗の中心人物だった叡尊(eison)が鎌倉に来ている。 麾下の石工集団を伴ってきたらしく、前年に鎌倉に先着していた良観房忍性(ninsiyou)の指揮下、故重時の山荘が極楽寺に改造されていた。  極楽寺は、単なる寺ではなく、鎌倉の西南隅の出入り口で、軍事的に重要な防御機能を備えていた。
極楽寺坂切通し・石塔  (忍性によって開通)
極楽寺坂
長谷・桑ヶ谷療養所跡石塔 (忍性によるハンセン病療養所)   (鎌倉市・長谷)
桑原ヶ谷療養所

〇  四月七日、時宗の庶兄時輔(tokisuke)の烏帽子親だった足利利頼(tosiyori)・(もと利氏)が、23歳という若さで死んでいる。死亡の状況などは不明。 嫡男家時(ietoki)が家督を継いだが、歴代の足利氏の当主が、得宗家から偏諱(henki)を受けなかったのは、この家時ただ一人である。

*偏諱・・・・将軍などが、臣下や元服する親族に自分の名から一字を与える事

これ等の事件から、鎌倉の「ひそめく事」 と関係があったかは解らない。
弘長三年に入ると、「吾妻鑑」の記述は再開された。 しかし、再開後目立つ記事は幕閣の要人たちの相次ぐ死である。 幕閣の重臣たちの間で、世代の交代が進行しているかのようだった。
いままで時頼の政治を補佐していた人々が、次々に消えていったのである。  時頼から時宗へへの代替わりを、まさに暗示しているかのようだった。 そして、この時期時頼自身も病気であった。 加持祈祷が繰り返されたが、あまり効果は上がらなかった。

弘長三年(1263)11月23日、戌の刻(午後八時)、ついに時頼は死んだ。 この死については前述したが再度・・・・・。
袈裟衣を着て縄床に上がり、座禅して少しの動揺の気配なく、終焉の際には又手して印を結び、口に詩経を唱えて即身成仏の様相を呈していたという。

時頼の遺言は、中国南宋の禅僧・笑翁妙湛の詩経を、下敷きにしていたと言われる。 時頼が大陸の情報に通じていた事は良く知られており、おそらくは蒙古が南宋に迫っていた事も、当然、知っていたに違いない。

時頼が死んで、予定通りに時宗が家督を嗣立した。  北条家得宗家の代替わりである。 しかし、形式的には時頼が執権を辞して出家した時、すでに家督は時宗に譲られていたのである。  まだ時宗が若年で、時頼が死なずに済んだので、時頼は得宗時宗の権限を、代わりに行使してきただけだったのである。

つまり時宗は、時頼が出家した時から、既に得宗だった。 だから時頼の死後も、幕閣に問題は生じなかった。  また、その地位を狙う者が現れる余地が全くありませんでした。
このことは、見方によっては異常な事であった。  これまでの得宗の代替わりの際には、必ず事件があったからである。 今回は何も起こらなかった。  執権は北条長時(nagatoki)、連署は北条政村(masamura)、小侍所別当は北条実時(sanetoki)、そして当の時宗も、もと通りの小侍所所司だった。

鎌倉幕閣の体制は、時頼が生きていた時と完全に同じで、何の変化もなかった。 とにかく天下は太平であった。 事件らしい事件は、ついに起こらなかった。 まさに奇跡のようであった、或は何事かが起こっていたのかも知れない。 しかし未然のうちに抑えられたので、幕閣の重臣たちがひた隠しに隠したのかも知れない。    次回へ

丁酉・辛亥・庚午

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時宗への権力移譲 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
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鎌倉幕府八代執権北条時宗

2017.10.06(06:59) 94

**時頼から時宗へ

**時宗誕生

建長三年(1251)五月、甘縄の安達館では、再び安産の祈祷が始められた。  安達館は時頼正室の御産所だった。  安達館が御産所に選ばれたのは、時頼の生母松下禅尼の実家であったからである。  夫北条時氏(tokiuji)の死後、禅尼は実家に戻っていたのである。

五月十四日。申ノ刻(午後三時~五時)、俄かに正室は産気づいたのである。 医師の丹波時長(tokinaga)、陰陽師の主殿助(tonomonosuke)泰房、驗者(kenza)の清尊僧都(souzu)等がすでに控えていた。
そして酉ノ刻に入ったが生まれる気配はなかった。  酉ノ刻が終わるころ法印隆弁(riyuuben)が入り、加持を始めた。  その功徳は明らかだった。  すぐに正室は、若君を生みました。    (吾妻鑑)


*驗者・・・・修験者、加持・祈祷を行う者

*法印隆弁・・・・鎌倉中期、天台宗寺門派の僧侶

安達館の内外で、喜悦の声が上がった。 正室の実父重時(sigetoki)をはじめ、幕府の重臣や得宗被官の主だった面々が、皆集まってきていたのである。  鎌倉中が期待している中で、やがて北条時宗となる赤子が生まれた。 幼名・正寿丸と名付けられた。
現在、鎌倉の甘縄神明社の境内に、「時宗・産湯の井」 がある。   甘縄の安達館は、同社の隣に位置していたと思われる。

**帝王学

得宗専制という幕府体制の下では、出家していようがいまいが、とにかく時頼は帝王だったのである。  北条得宗家は、代々、執権を出す事になっている家系、 つまり、執権家だから、将軍になることは出来ない。 しかし政治権力の上では、将軍を凌ぐ力を持っていたのである。 そして今、その執権という地位には、得宗家ではない極楽寺流という傍系の長時(nagatoki)が、臨時に中継ぎ役として在任している。  やがて時頼の跡を嗣ぐ正寿丸が、その執権職をも嗣立しなければならない。
この様な事から帝王時頼は、出家した直後の康元二年(1257)初頭の頃から、次代の帝王になるはずの正寿丸に対して、帝王学の教育を始めることになる。

正寿丸に対する帝王学の教育は、反面では時利(時輔)に対する反帝王学、或は家臣学とでも言うべき教育でもあった。 兄ではあったが側室の子であった時利、正室が生んだ弟正寿丸に臣従することを、学ばなければならなかったのである。
時利も、その教育を、既に受け始めていた。
元服したとき、長男でありながら「相模三郎」 という名乗りを与えられたのは、それである。

康元二年(1257)二月、正寿丸も元服した。  場所は執権館でも北条館でもなく、将軍御所であった。 烏帽子親も一般御家人ではなく、六代将軍宗孝親王(munetaka)だった。
そして与えられた名乗りと実名は、「相模太郎時宗」 だった。 将軍宗尊親王の「宗」 が偏諱(heni)された上に、「相模の守だった時頼の太郎(正嫡・家督)」 であることが、天下に公表されたのである。

正元二年(1260)正月の将軍の御行始め行列では、時宗と時利との差は、更に開いていた。  共に将軍のすぐ後を行く十三人のうちだったが、時宗は筆頭の位置にあり、時利は十一番であった。

この頃までの時宗に対する帝王学の教育は、基本的には弓馬と学問であり、時宗に対して自分の地位の高さを自覚させるのが、中心的な狙いであったように思われる。  金沢文庫を創設する金沢実時(sanetoki)の下にあって、将軍と接触する機会の多い小侍所の所司になれば、多くの経験が積める事になる。  また実時は、時宗の政治学の師の役を与えられたのである。

弘長元年(1261)四月、時宗は十一歳で結婚した。  妻は安達泰盛(yasumori)の妹・堀内殿。 十歳であった。
泰盛・堀内殿兄妹の父安達義景は、建長五年に死亡しており、生まれて一年も経っていなかった堀内殿は、以降二十一歳も年長の兄泰盛に育てられた。 兄とは言っても、実質的に泰盛は、堀内殿の父のような存在であった。  そして、時頼の生母(時宗祖母)の松下禅尼は、泰盛の父義景の妹だった。  安達氏は二代にわたって得宗家の外戚という関係となり、安達泰盛の勢力伸張は、この頃から本格化していく。    次回へ

ススキの江の島・他二点
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丁酉・辛亥・丙寅

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鎌倉幕府八代執権北条時宗

2017.10.02(07:00) 93

**鎌倉幕政の転換

**将軍派と執権派の対立

何れにしても幕府は、全体として 「鎌倉時代中・末期の社会変動」 に対応を迫られ苦悩し、その中から幕府は二つに割れてゆくことになる。・・・・

将軍に権力を付与して 「将軍独裁制 」を復活させ、その権力によって 「社会の大変動 」を強圧的に抑え込もうと考えたのが、ひとつ 「将軍派 」だった。 いささか反動的だったと言えるかも知れない。
これに対して執権の権力を強化して、 「社会の大変動 」に柔軟に対応して行こうというのが、一方の 「執権派 」だった。 「将軍派 」が反動的というなら、「執権派 」は進歩的だったとも言えるかも知れない。 二派の対立は、様々な要因が絡まって、極めて複雑な様相を呈し始めた。

三代執権・泰時の執権在任十八年の間に、鎌倉幕閣には新しい政治勢力が成立し、次第に台頭しつつあった。 大仏流(osaragi)・佐助流(sasuke)・極楽寺流(gokurakuji)・金沢流(kanazawa)などのいわゆる北条一門である。 諸国の守護や幕閣の評定衆や各種の奉行などに就任して、侮る事の出来ない勢力になっていた。 そして義時➡泰時➡(時氏)➡経時と続く北条本宗流を 「得宗(tokusou)」 と仰ぎ、その得宗経時を中心として、「執権派 」を形成したのです。

これに対抗したのが、「将軍派」 だった。 反北条一門で結集した 「将軍派」 は当然の結果として一般御家人から成り立っていた。  その中心になっていたのは、一般御家人の代表格の地位にあった三浦泰村(yasumura)だった。   三浦氏は相模国内のみならず、東国きっての大豪族であった。
三浦氏居城衣笠城本丸跡 (横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
衣笠城址
こうした両派の対立は、将軍九条頼経対執権北条経時、三浦一族対北条一門という構図になったが、それだけではなかった。  三浦泰村の伯母と結婚していた上総・下総両国の豪族、千葉介秀胤(hidetane)は三浦方、「将軍派」だった。 泰村の妹を妻にした常陸国の豪族・関政泰(masayasu)も「将軍派」だった。  しかし、安達義景(yosikage)・泰盛(yasumori)父子は一般御家人に属するが「執権派」 だった、義景の妹、松下禅尼が、経時の生母だったからである。

また北条一門でありながら 「将軍派」 になった者もある。 泰時の次弟・朝時(tomotoki)の子名越流、北条光時(mitutoki)である。  得宗家が北条一門への支配を強化しつつある事に、反発していたのである。 もっとも微妙であったのが、故大江広元(hiromoto)の四男、毛利季光(suemitu)の去就であった。 妻は泰村の妹だったが、娘は経時の弟北条時頼と、まだ泰時が生きている時期に、すでに結婚していたのである。  なお大江広元の嫡孫長井泰秀(yasuhide)は、早くから 「執権派 」だった。

こうした状況の中、対立は膠着状態となった。寛元四年四月一日執権経時が突然、発病し二十三歳という若さで死んだのです。
新しい得宗は弟・北条時頼、二十歳の若年ではあったが、果敢であった。  得宗家の家督を嗣立すると、北条一門で宿老格の北条政村(masamura)、金沢流北条実時(sanetoki)に、生母松下禅尼の弟安達義景(yosikage)を自館に集め密談した。   (吾妻鑑)

後の寄合(yoriai)という家族会議で常設の重要会議になっていくのである。  「宮騒動・寛元の乱 」は機先を制した時頼の作戦が功を奏し「執権派 」が勝利した。  さらに、宿敵三浦氏との対決「宝治合戦 」については前章・五代執権・北条時頼に詳しい。     次回へ

*次回から本題となる 「時頼から時宗への権力移譲 」です。  父時頼が幕府五代執権、嫡男時宗はなぜ八代執権 になるのか?・・・なぞはこれから。  
       
丁酉・辛亥・壬戌

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2017年10月
  1. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(10/30)
  2. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(10/26)
  3. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(10/22)
  4. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(10/18)
  5. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(10/14)
  6. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(10/10)
  7. 鎌倉幕府八代執権北条時宗(10/06)
  8. 鎌倉幕府八代執権北条時宗(10/02)