FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.27(14:00) 107

**文永の役

**壱岐・対馬

文永十一年(1274)十月五日午後、対馬西方の海上は、蒙古の軍船がひしめいていた。  午後四時ごろ対馬二島の中心で、国府のある下県島(simoagata)の佐須浦に数艘の軍船が接岸すると、1000人ほどの兵が上陸してきた。

すでに前回の来島で偵察を終えていた趙良弼(riyouhitu)の情報に沿っての行動と思われた。  午後六時、急報を受けた対馬・地頭宗資国(sukekuni)は、八十騎ほどを集め、松明を照らしての強行軍だった。 資国は、朝鮮語の話せる使者を送ったが、矢を射かけられ問答無用の戦争となった。  しかし、多勢に無勢である。 応戦はしたものの敢闘は長くは続かなかった。

一方、博多では、急使が出発し、京都・六波羅探題北方の赤橋義宗(yosimune)は急使を鎌倉に発すると同時に朝廷にも報告している。  翌日には亀山上皇の御前で評定があった。  博多湾の防備がさらに固められた様だ。

蒙古との戦いは、すべてが異様であった。  とにかく面食らう事ばかりだった。  蒙古兵は名乗りも聞かず、集団戦法だった。  名乗りを上げようとしたときには、蒙古兵に包囲されていた。 蒙古兵は、大部分が歩兵だったため騎馬の鎌倉武士が相手にしないと、馬の脚を攻撃し、落馬させ、多数で襲い掛かった。  歩兵集団の背後には騎馬の将校が居て、銅鑼や太鼓を鳴らしては、包囲、攻撃、或は退却などの指揮をしていた。

武器の点からも、蒙古軍の物は珍奇だった。  蒙古兵は長槍を持っていたが、鎌倉武士には槍は無かった。  また毒矢を使うという事も、鎌倉武士は行わなかった。  僅かな矢傷と思っていると、やがて全身に毒が回ってきた、そして特に鎌倉武士が手を焼いたのは、「てつはう(鉄砲)」 であった。

大きな鉄丸に火薬が詰められていて、これに点火して投げられ、金属製の筒から発射された。   直接的な殺傷効果は無かったようだが、爆発したときの爆発音は鎌倉武士を驚かせたのみならず、馬を驚かせ多くの武士が落馬したようだ。 落馬したところを敵の歩兵に殺された。慣れない戦を強いられた鎌倉武士は劣勢を余儀なくされた。

日本軍は、とにかく劣勢であった。  軽快な蒙古兵に比べて鎌倉武士の大鎧が重く、2時間くらいの合戦で疲れ果てていた。  夕刻になって、日本軍は大宰府に向かって総退却した。  途中の水城(mizuki)は長さ1㎞ほどもある。  かって天智三年(664)唐・新羅の攻撃に備えて天智天皇が造らせた土塁である。  日本軍は「水城に立籠って、大宰府を守らん」 という方針だったと思われる。  とにかく敗色濃厚だ、しかし蒙古軍は、日が暮れると軍船に引き上げていった。 日本軍の実力が判明し、夜戦を避けたのであろう。

その夜、猛烈な暴風雨が博多湾を襲った。 蒙古の軍船の多くは難破した。 乗っていた蒙古兵の大部分が溺死した。 戦死した者13,000人以上、船員などを含めた蒙古勢は46,000人、約3割が死んだ。 しかし、幹部の指揮官は大方無事であった。   この時期、十一月中旬の玄界灘では、強風は珍しくない。  後に神風と呼ばれることになるが、この強風は台風ではなかったと思われる。

蒙古軍は自分の意思で帰国したという・・・・・。   蒙古が派遣した兵士の数は、26,000人で、この勢力では日本を征服できないとの判断で、この「文永の役」 は威力偵察でしかなく、日本軍の戦闘能力を判定するという目的を達したので、蒙古側の判断で帰国したという説もある。
京都・西芳寺参拝

苔寺
西芳寺
西芳寺5
次回へ

丁酉・壬子・戊午
スポンサーサイト




鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.23(07:00) 106

**蒙古来襲と幕府の対応

**元寇前夜

後嵯峨上皇が五十三歳で崩御、大覚寺統の亀山天皇が即位、天皇の親政が始まった。  陰謀の与党が期待していた事だった。しかし、時輔はすでに誅殺されている。  同じころ趙良弼(riyouhitu)と張鐸(tiyoutaku)が再び来日。  五度目の牒状を持参したと思われる。
しかし朝廷では、議論は無かった・・・・・。  二月騒動の結果、国論は時宗の決定した通り返牒せずで一致していた。  同じころ鎌倉で異例の人事があった。  時宗の同母弟の宗政(munemasa)が、僅か二十歳という若さで、しかも引付を経験することなく、評定衆に抜擢されたのである。   二月騒動後の幕閣を、補強するのが狙いであった。

この間、博多まで来ていた、趙良弼は、もう強く返牒を要求する事は無かった。  そして年が改まった文永十年(1273)に帰国した。  高麗から元都に帰着し、すぐに日本の君臣の爵号、州郡の名数、風俗等について、フビライに報告した。  趙の二度目の渡航が、和親の返牒を得るのが目的だったとすると、今回の渡航は失敗したことになり、フビライは激怒するはずだった。  ところが、「汝の二度の日本渡航は成功であった」 と激賞している。 趙の二度目の渡航は、日本の内情を探知するのが目的だった。 既にフビライは、完全に日本遠征を決意していたのである。

実際、趙良弼が日本を偵察していたころ、フビライは日本遠征の準備に狂奔していた。   具体的には、良港獲得の狙いもあって、南宋占領に努めていたのである。
文永五年(1268)には既に攻撃を受けており、五年間も南宋が耐えてこられたのは、堅固な囲壁都市であった事と、重要だったことは守備兵のすべてが、守将・呂文煥(bunkan)を信頼していた事であった。

その囲壁都市(襄陽・jiyouyou)が最初に包囲された時、呂文煥は自分の妻子を差し出し、城内の兵糧の温存を図ったという。
しかし、文永十年、城の前面にフビライは巨大な投石器、回々砲(hui・huihou)を据付、この攻撃によって城は陥落寸前になっていた。  呂文煥は西湖対岸の南宋宰相・買以道(kaijidou)の許に、兵糧を求める使者を何度も発したが、援軍は無かった。
宰相に見捨てられた城内は日ごとに飢えていった。  この時フビライの書状が、城内に送られ、内容は 降伏を求める文書であった。  ついに呂文煥は降伏し城は陥落した。  この時、すでに惨殺されているとばかり思っていた妻子たちが、フビライの命によって生きていることを知った呂文煥らは感激した。 さらに、自分たちを見捨てた南宋の政府を見限り、フビライの南宋攻略作戦に協力を申し出た。

しかし、フビライにはまだ問題が残っていた、三別抄である。   南宋攻略よりも先に攻略しておかなくてはならなかった。 文永十年四月、 兵船160艘、兵員一万余で攻撃、鎮圧が完了した。  これで日本に通ずる朝鮮海峡は、安全となった。  日本遠征の準備は整ったのである。

文永十一年正月、フビライの命令が高麗に下った。   造船命令である。 僅か三か月の間に、大船300艘・軽疾舟300艘・給水舟300艘の計900艘の建造であった。
工匠・人夫とで35,000人が動員された、もちろん突貫工事で、手抜き工事であった。

その頃、日本では北条政村が連署を退き出家していたが、69歳で亡くなっている。   後任の連署として極楽寺流・北条重時(sigetoki)の六男・北条義政(yosimasa)が就任した。  だが、この連署就任まで、実に60日間かかっている、何事かが、幕閣にあったと思われるが良くわからない。

さらに、京都では亀山天皇が第一皇子の世仁親王(yohito)に皇位を譲った。 第91代の後宇多天皇(gouda)である。  亀山天皇親政が院政に代わっただけだから、本質的に変わりはない。 しかし、大覚寺統が二代続く事が問題であった。
持明院統の後深草天皇(gofukakusa)は怒りのあまり、出家して「上皇」 と言う尊号も返付し、護衛の随身も辞退すると言い出したのである。   国難を目前にして、天皇家は二つに割れてしまった。

同じ頃、高麗にいた洪茶丘(kou・sakiyuu)らに、「七月をもって日本を征すべし」 というフビライの命令が下達された。 フビライの命令では二万六千の兵をもって攻撃せよ・・・であった。
一方、高麗は、水手梶取や漕夫・雑役など、7000人を提供。  蒙古から来た者を含めると、これらの非戦闘員だけでも二万人を超えていたと思われる。

続いて指揮官の序列も、通達された。   全軍の総司令官にあたる都元帥には、蒙古人の忻都(kinto)・(モンゴルの武将)が指名された。  続く右副元帥は、高麗人の洪茶丘、左副元帥は北宋人の劉復亨。 その他に高麗が提供した6,000の別働隊で編成された。   予定より三か月遅れだが、三種合計で900艘の建造が済み、出撃準備が整ったことがフビライに報告された。

高麗王・元宗の死などによって、実際に遠征軍が合浦(gatupo)を出撃したのは、十月三日だった。   すでに日本列島は、台風の季節を過ぎたはずだったが・・・・・・。

西芳寺にて般若心経一巻・(写経)してきました
DSCN3399.jpg
西芳寺・庭園 ・・・・・・
DSCN3391.jpg
西芳寺4
DSCN3395.jpg

次回へ

丁酉・壬子・甲寅

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.19(07:00) 105

**蒙古来襲と幕府の対応

**二月騒動

三別抄の牒使が去った後、入れ違いに到着したのが蒙古・高麗の使者(趙良弼・riyouhitu)だった。  文永八年(1271)九月、一行百余名が、筑前・今津浜に着岸した。   使者は、弥四郎という日本人を伴い大宰府に出頭した。

この時期、三別抄はまだ猛威を振るっており、その危険を犯して渡航してきただけに使者(趙)の決意は固かった。
牒状の引き渡しを迫る少弐資能(sukeyosi)・経資(tunesuke)父子に対して、  「日本国王並びに大将軍に直接に謁見を遂げ、我良弼、自ら牒状を献ぜん」 
と主張して、牒状を渡すことは無かった。  交渉は難航した。  だが良弼は牒状を渡すために来たのだから、渡さないわけにはいかず、 牒状の正文は渡せないが、写しだけを少弐氏に渡すことで交渉は成立した。

「この写し、汝、別人に渡す事あらば、我汝を斬るべし。  また汝、強いて我より正文を奪わんとせば、我この処に於いて、まさに自刃すべし」

と記された趙良弼の決意を示す書状が、添えられていた。

京都でも、議論が始まっていたが、返牒論が次第に優勢になっていく。  外国人に京都まで来られては迷惑だったからである。
原案を検討して、返牒文を決定した。   同時に京都周辺の大寺社に、異国降伏の祈祷が命じられた。 亀山天皇自身も、石清水八幡宮に行幸している。

京都・石清水八幡宮
石清水八幡宮
DSCN1348.jpg

直後に、鎌倉から早馬が京都に走りこんできた。  京都朝廷が、 「返牒あるべし」 と決定した事を知った時宗が、すぐに 「返牒のこと、しかるべからず」 と、言ってきたのである。  これで一挙に朝廷側は「返牒せず」に決定せざるを得なかった。  しかし鎌倉では、まだ朝廷側を信頼していなかった。  直ちに極楽寺流北条長時の子、赤橋義宗(yosimune)が、六波羅探題北方に任じられた。
京都には、六波羅探題南方として、時宗の兄北条時輔(tokisuke)がいる。  しかし時輔は、幕府の意向が 「返牒せず」 だと知っていながら、朝議が 「返牒する」 と決定されたのを阻止できなかった。 また阻止しようとはしなかったと、時宗に思われたのである。
つまりは、「時輔殿は、信頼できず」 という事になった訳である。  因みに六波羅探題は、北方が上位で、二十四歳になっていた時輔は、十九歳の義宗の下位に置かれる事になったのである。

趙良弼(使者)は十二月に入ると返牒を諦め帰っていった。
一方、時宗は、蒙古の襲来必死とみていた。  九州では少弐経資・大友頼泰(yoriyasu)の二人が、それぞれ分担する守備範囲を、さらに細分して管国の御家人たちに配分していた。 そして博多湾沿岸の防衛体制が整った。

しかし、水際防衛、異国撃壤という強硬意見の時宗に対して、蒙古が和親を求めているだけなので、これに応ずるべきという反対派もいた。  だが幕閣で基本政策が確固として打ち立てられていたので、反対派も反対論を口に出しては言えなくなっていた。 いきおい反対論は、陰謀とみなされた。

この陰謀は、和親返牒論の公卿数人が京都では北条時輔を推し立て、鎌倉では名越流北条教時(noritoki)を与党に加えようとする計画だと思われた。
陰謀の計画は、幕府に従順だった後嵯峨上皇の病状が悪化しているいま崩御という事になれば、大覚寺統の亀山天皇の親政となる。  その亀山天皇は、豪胆で自分の意志を貫く強硬派なので、当然、幕府の指示には従わず朝議は和親返牒を強行する事になるだろう。
もちろん時宗は、反対するだろうが、それこそ好機である。  違勅の咎という事で時宗を責め、天下の武士を糾合して鎌倉を攻めれば、得宗専制に反対している武士たちが、全国で挙兵すだろう・・・という妄想に近い策であるが、案外その様な事だったのかも知れない。

文永九年(1272)二月、陰謀は露見した。  時宗は素早かった。   討手の兵が鎌倉・名越の北条教時の館を急襲した、防戦の準備もなく教時はその場で誅殺された。  また、たまたまその場に滞在した兄・時章(tokiakira)が、誤殺されてしまった。  直後間違えて時章を殺してしまった大蔵頼季(yorisue)ら五人は、斬首されている。

直後、鎌倉からの早馬が京都に発った。  六波羅探題北方の赤橋義宗に、時輔誅殺の下知が下ったのである。  早馬は二月十五日の早朝、北方館に奔入した。  義宗の下知が緒方に下った。  北方館と南方館とは背中合わせで隣接している。  当然北方館での動きは南方館に筒抜けである。  この為、午後二時ごろ義宗勢が南館を攻撃した時、手痛い反撃を受けることになった。  しかし、所詮は、多勢に無勢だった。  時輔麾下も善戦したが、束の間の事だった。     (二月騒動)
東寺・講堂・・・弘法大師の立体曼荼羅を拝観してきました
DSCN3368.jpg
東寺・五重塔  (今年のT・ⅤCM東寺編)
東寺
次回へ

丁酉・壬子・庚戌

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.15(07:00) 104

**蒙古の牒状と朝鮮半島情勢

**三別抄(sanbetusiyou)の乱

同じ頃、高麗では、重大な決定がなされていた。  江都から開京(現開城)に還都することになった。  三十年もの間、蒙古に蹂躙された高麗では、王族たちが難を避けるため、首都を開京から西岸海上の江華島に還していた。  これを江都といい、厳重に要塞化し、三別抄をもって守り固めていた。  さしもの蒙古兵も、これに手を焼いていた。  高麗が降伏して以降、何度となく開京に還都するよう要求され、王・元宗は、ついに承諾せざるを得なくなったのです。

元宗の十一年(文永七年・1270)五月、還都が決まった当日、これに反対した三別抄が決起。  しかし王族一行は予定どうりに江都を発って、開京に向かった。  そして三別抄の解体を決したが、三別抄は、将軍・裴仲孫(hai・tiyuson),夜別抄の指諭・盧永禧(ro・eiki)の二人を頭領として、ついに反乱を決起した。  江華島に残っていた王族の温(on)を国王に擁立し、官府を設けて官吏を配置したのである。    「三別抄の乱」 

しかし、三別抄は、至元八年(文永八年・1271)五月、珍島(tindo)で大敗し、本拠を移したが、なお抗戦態勢は維持されていた。

直後の九月、京都では事件が起こった。  鎌倉からの使者が上洛し、新着の高麗からの牒状だとして、関東申し次の西園寺実兼(sanekane)に一通の書状を提出」したのである。
高麗の船が、いつ、どこに着岸したのか、日本側にも蒙古の高麗側にも記録はない。  今までの例で考えれば八月上旬に博多に入港したものと思われる。 つまり、蒙古・高麗の使節一行ではない。  別の使節、実は三別抄からの牒状だったのである。

院の評定が続けて開催され、牒状の解釈を検討したが、誰にも意味は理解されなかった。  三別抄の存在を知らなかった公卿たちは、これを蒙古に従っている高麗からの牒状と考えていたから、とにかく文意が通じなかったのも、当然であった。

現在その牒状の写しを含めて残念ながら残っていないが、当時の日記などからその断片が引用されています。

蒙古の辮髪などの風習は、聖賢の憎むところなり。  また蒙古兵、必ずや貴国を攻めるべし。  されど我ら、蒙古の成戦の思いに従わず。  よって我ら、珍島に遷都す。 なれば我ら、米を求む。  また救援の兵員求むること、はなはだ切なり。

この牒状を日本側は、「これから貴国を攻めるぞ。 だから米を売ってくれ」 と解釈してしまった。  これでは理解できなったのも当然である。  ちなみに牒状は、まだ三別抄が珍島にいたときに書かれたものだった。 そして米を求めていたという事は、珍島陥落の一因に兵糧不足があったと思われる。

一方、京都朝廷では、三別抄の牒状を巡り議論が続いていた。  そしてしだいに返牒論に傾いていった。  これを知って激怒したのが、正伝寺の東厳慧安である。  その願文の末筆に 「すえのよの末の末まで我が国は、よろずのくにに、すぐれたり国」 ・・・。   そして三別抄の牒状を持ってきた船は、返牒を得ることなく、要領を得ぬまま帰ったと思われる。

奈良・正倉院展に行ってきました
正倉院2017
近いので東大寺へ
華厳宗・東大寺
閉門寸前の東大寺・戒壇院
戒壇院
紅葉の猿沢池  (奈良ホテル)
猿沢池
ならまち・蚊帳の街
蚊帳の街
次回へ

丁酉・壬子・丙午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.11(07:00) 103

**蒙古の牒状と朝鮮半島情勢

**再度の牒状

朝廷では、返牒せずと決定したが、そのことは使節(藩阜)一行には、まったく知らされ無かった。  結局、何も知らされることなく、やがて藩阜一行は帰国した。  藩阜が高麗に帰り着いたのは、元宗九年(文永五年・1268)、七月だった。

帰国した藩阜の報告に、高麗王・元宗(gensou)を不安に陥れた。 五ヵ月も日本に滞在していたのに、返牒を得られず、なぜ返牒を得られなかったのかもわからず、要領を得られなかったからである。
そのままフビライに報告すれば、必ずフビライは激怒するに違いない。


しかし元宗は、すぐに藩阜を蒙古に送った。  新たに二人の使節が同行、二人はフビライの怒りをなだめるために、「来たるべき日本遠征ののため、既に高麗は、兵の徴発を準備し、軍船の建造に着手しあり」  という元宗の奏状を所持していた。 どうせ命じられるなら、先手を打った方が良いだろうと、元宋は考えたのである。

蒙古使一行が、対馬の豊岐浦に着岸したのは、文永六年(1269)二月であった。 しかし一行は、そこで抑留された。  島主の宗資国(sou sukekuni)が、それ以上の渡航を阻止したのである。 鎌倉の幕府から指令があったと思われる。  資国は、一行を抑留したまま、早舟を出して大宰府に急報した。

大宰府の小弐資能(sukeyosi)も、直ちに六波羅に急報。 要した日数は十六日間であった。  すでに、山陽道の宿駅・伝馬あるいは早船の設備が、為されていたのだろう。  もちろん、これも幕府(時宗)の下知があったからに違いない。

いずれにしても六波羅探題の北条時茂と時輔(時宗・異母兄)は、鎌倉に急報を発すると同時に、参内して事の次第を朝廷に報告した。  

四月になって、朝廷では院の評定を開き、幕府の意見(返牒せず)に従って決定された。
いずれにしても、今回の院の評定での決定は、極めて重大だった。  承久三年(1221)の乱で、朝廷は多くの権限を失ったが、今回の決定は外交権をも失ったという事を証明するものだった。

同時期に、鎌倉で一つの改革が行われれていた。  文永三年(1266)に廃止されていた引付衆制度が三年ぶりに復活したのである。  廃止時の引付番は、三番編成だった。  そして復活したのは、五番編成だった。  各番の頭人は、次のようだった。

一番頭人・・・・名越流北条時章
二番頭人・・・・金沢流北条実時
三番頭人・・・・塩田流北条義政
四番頭人・・・・佐助流北条時広
五番頭人・・・・安達泰盛

五人のうち四人までが、北条一門であった。  そして一門ではない安達泰盛も、妹堀内殿が時宗の妻だったから、准北条一門ということになる。  引付衆制度を復活させたことと、新しい頭人の顔ぶれから、時宗の決意の程が覗われる。  鎌倉幕閣の枢要に北条一門の血縁原理を導入して、得宗として君臨する事によって、その陣容をさらに堅固にしたのである。  「蒙古よ、来るなら来てみよ」 まさに万全の決意が、少なくとも鎌倉幕閣では、さらに固まった。
円覚寺・宝物風入れ  
DSCN3335.jpg
円覚寺・方丈・三ッ鱗紋鬼瓦(江戸期以前)  北条氏・家紋
DSCN3349.jpg
円覚寺・塔頭 続橙庵
DSCN3346.jpg
円覚寺・塔頭 黄梅院  (夢窓国師・塔所)
DSCN3347.jpg
次回へ

丁酉・壬子・壬寅

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.07(07:00) 102

**蒙古の牒状と朝鮮半島情勢

**幕府・朝廷の対応

永年、高麗とは戦ってきた。  しかし高麗の国民が疲弊しきっているのが憐れであったので、高麗の降伏を認めて、属国にしてやった。  形式的には属国であるが、実際には父と子のように仲が良い。  だいたい我が祖父ジンギスカンの頃から、、蒙古の周辺の国々は、蒙古の威を怖れ徳を慕って、続々と服従してきている。  そして日本は、中国・高麗とは、修好があったという。  それなのにまだ日本は蒙古に使者を一人だって、送ってきたことが無い。  この辺で付き合いを始めよう。  いやだと言えば、軍隊を送ることになる。  とにかく付き合おう。

南宋では、この種の書式には決まりがあった。  身分の上の者が下に対する時は 「不具」 で、下から上へは 「不備」、そして同位ならば 「不宣」 である。  そして蒙古の牒状の書き止めは、「不宣」 だった。  「大蒙古国皇帝」 と 「日本国王」 とを、同格と見做した訳である。

しかし、きわめて尊大かつ無礼な字句も、多く見られる。  「大蒙古国皇帝」 と片や大があり、日本国王は、「小国の君」 とするなどが、それである。   因みに中国・朝鮮・日本などでは、敬意を相手に示すときの書式が、早くから成立している。

この様な調子を打ち出している蒙古と付き合う事となれば、高麗の様に属国の扱いを受けることになるだろう。  「とにかく付き合おう」 と言われても、平等対等の付き合いではない。  和親と云っても、一方では 「兵を用いるに至っては・・・・」 とあるように、従わなければ、武力を行使する云々は威嚇に他ならない。

「返牒せず」 と朝議が決したことは、すぐに鎌倉に伝えられた。  これを受けて幕府は、すぐに西国の守護達に、下知を発した。

蒙古人、凶心をさしはさみ、本朝を伺うべしとの由、近日、牒使を進むところなり。  されば、「早々と用心すべし」 との由、管国の御家人らに相触れらるべしとの状、将軍家の仰せによって執達すること、件の如し。

現存する守護宛ての下知であるが、当然、九州の諸国や瀬戸尚海沿岸の諸国、また日本海側の諸国にも同様の下知が発せられたものと思われる。  そして、その頃鎌倉の幕閣で人事異動が行われた。  幕府・連署であった北条時宗が執権に、執権であった北条政村が連署に、職務の交代があった。

北条得宗家・嫡流の執権就任である、対蒙古に対して徹底抗戦の決意を日本中に知らせる意味もあったと思われる。  十五歳という気鋭の時宗を先頭に立て、六十四歳という老練の政村が、これを補佐するという態勢が、成立したのである。
鎌倉五山第二位・臨済宗円覚寺山門
DSCN3336.jpg
北条時宗公・墓所   仏日庵
DSCN3342.jpg
DSCN3343.jpg

一方、京都では「返牒あるべきや否や」 という議題で、再度の会議が開かれている。  先の会議で敗れた老人たちが、事を蒸し返したのである。  しかし老人派の期待は、すべて外れた。 むしろ結果的には、 「返牒せず」 という事の理由付けが、逆になされることになったのである。

「蒙古の牒状、その言葉無礼になるによって、敢えて返牒に及ばず」

こうして、やっと事は決着した。


蒙古からの牒状が来たという事は、ようやく世上にも知らされていた。  しかし、多くの人にとって、あまりにも蒙古は遠かった。  従って無関心の者が、圧倒的の多かったと考えられる。 その様な世上にあって一人、際立ったのは、日蓮(nitiren)だった。 九年前に予言した他国侵略の難、が的中したのではないか、という事である。   次回へ

丁酉・壬子・戊戌

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.03(07:00) 101

**モンゴルの牒状

**困惑する高麗

数回にわたって、北条時宗が立ち向かわなければならなかった、周辺(東アジア)諸国の動向を見てきた。
扨て、本題に戻るる事にする。    鎌倉で将軍が宗尊(munetaka)から維康王(koreyasu)へと更迭された頃、遥か遠くのモンゴル帝国では皇帝フビライが、高麗人の商人から、日本に関する様々な情報を得ていた。

日本は、文化・政治ともに、見るべき在り。 金を大量に産出し、これを南宋に輸出す。 今の南宋の富裕は、もって日本のおかげ也。その日本と我が高麗とは、通交の歴史は古い。

高麗の商人から得ていた日本観である。

二人の国使が高麗に旅立った。 高麗に国使を派遣するための仲介の労をとってほしいという事であった。  高麗政府は困惑した。  国使の使命は、 「蒙古に服属せよ」 と日本に伝える事である。 当然日本は拒絶するであろう、そうなればフビライは、日本に遠征軍を送ることになる。 必然的に高麗は、日本遠征軍の根拠地にされる。兵糧の徴発、軍船の建造、兵員の提供等が、要求されることになるからであった。

疲弊しきっている高麗に、そんな余力はない。  だが蒙古の属国になっている高麗に、フビライの命令を拒絶する事は出来ない、とにかく高麗は、進退窮まった。
高麗政府の副使、侍御史の二人が、フビライの国使を案内して、朝鮮半島南端に浮かぶ巨済島に到着した。 冬の玄界灘は、荒れに荒れていた、荒れ狂う風浪を見て、二人の国使は日本への渡海を諦めた。

その、玄界灘を使節に見せつけたのは、高麗宰相の李蔵用(ri・zouyou)の作戦であったと言われている。  しかし、国使二人も、それを知っていてわざと李蔵用の作戦に乗ったふしがあり、さらには作戦を立てたのは国使当人だった可能性を指摘されている。 日本に到着しても、日本に対して 「蒙古に服従せよ」 などと言ったら、日本で誅殺される危険も有ったからである。

再度の高麗への命令は、激怒したフビライが発しただけに、更に苛酷になっていた。 理由を付けて命令に従わなかった事を責めると同時に、 「日本への牒状伝達のこと、蒙古使二人を煩わせる事無く、もっぱら高麗国の責任においてなせ」 と、命じてきたのである。  蒙古使二人の安否を気にかけたとした高麗の言い分を、逆手に取ったのである。

黒的・殷弘の二人は日本には行かず、日本への牒状は、高麗が日本に届ける事なった訳である。
高麗政府の潘阜(hanpu)を正使とする日本招諭使一行が、対馬あるいは壱岐を経由し日本を目指したらしいが、そのルートは不明である。  いずれにしても博多湾に現れるまでに、三か月以上も要している。

蒙古からの牒状の現物は、残念ながら残っていない。   東大寺の尊勝院の僧・宗性(sousiyou)が書き写したものが、東大寺に伝わっている。 宗性は法性寺(hotusiyouji)の称願房(siyouganbou)という僧から、写本を借りて書き写したものである。

*大蒙古国の皇帝・書

日本国王に奉ず。  朕、思うに、古より小国の君、境土、相接すれば、なお努めて信を講じ、睦みを修む。
いわんや我が祖宗(ジンギスカン)、天の明命を受け、区夏(世界)を奄有(領有)す。 遠方の異域、威を怖れ徳に懐く者、悉くは数うるべからず。
朕、即位の始め、高麗の無辜の民、久しく鋒鏑(合戦)につかれしをもって、すなわち兵を罷め、その境域に還し、その家族に帰せしむ。 高麗の君臣、感戴して来朝す。  義は君臣といえども、歓は父子の如し。 計るに王の君臣、またすでにこれを知らん。  

高麗は、朕の東藩なり。  日本は高麗に密邇(隣接)し、開国以来、また時に中国に通ず。  朕が躬にいたっては、一乗の使も、もって和好を通ずるなし。  なお王の国、これを知ること、いまだ審らかならざるを恐る。  
故に特に使を遣わし書を持し、朕の志を布告す。  願わくば今より以往、通問して好みを結び、もって相親睦せん。  かつ聖人は、四海をもって家となす。  相通好せずんば、あに一家の理ならんや。  兵を用いるにいたっては、それ、いずくんぞ好むところぞ。  王、それ、これを図れ、不宣

至元三年(文永三年・1266)八月  日

朝廷は大騒動となった。  しかし蒙古が申し入れてきた和親という事を、受け入れるか否かという事は、最初から問題にはされなかった。  寛平六年(894)に遣唐使を廃止して以来、朝廷は正式な国交をどことも結ぶ事無く、一種の鎖国が祖法になっていたからである。  和親は、最初から拒絶という事だった。  しかし問題は、拒絶という事を文書にして渡すか否かであった。  つまり辺牒するか否かである。    次回へ

丁酉・壬子・甲午

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
2017年11月
  1. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/27)
  2. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/23)
  3. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/19)
  4. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/15)
  5. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/11)
  6. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/07)
  7. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(11/03)