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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.29(07:00) 115

**得宗専制体制への移行期・・

その時宗が執権であった時期の幕政は、執権政治から得宗専制体制への移行期にあたり、執権・連署が評定衆を主導して、評定所に於いて幕府の重要事項を合議決定するという形態が行われなくなり、時宗の私邸に於いて行われる寄合(yoriai)の席で、政務が決定されるようになった。

「吾妻鑑」 の文永三年(1266)6月20日条によれば、「相州(時宗)の御亭に於いて神秘の沙汰あり。相州・左京亮(政村)・越後守実時・秋田城介(安達泰盛)会合す。 他の者参加に及ばず」 とあり、後に寄合衆に発展する得宗私邸での重要秘密会議が開かれ将軍宗尊(munetaka)親王廃立を審議した際、寄合に泰盛が北条一門の北条政村・金沢実時と共に出席していることが知られ、泰盛が得宗権力の中枢に関わる活動をしていることは注目されよう。

宗尊親王も10歳で六代将軍に迎えられ在職10年に及んだ頃、御家人たちとの主従関係も緊密化し、次第に彼を中心とする政治勢力が形成されていたのである。  四代将軍九条頼経(yoritune)の時もそうであったが、名越氏等を中心とする宗尊親王将軍派の勢力が、得宗家に対抗する政治勢力となりつつあり、得宗時宗を脅かす危険性を持っていた事から将軍宗尊は追放されたのであろう。・・・・

この後、宗尊親王の子で僅か三歳の維康親王(koreyasu)が将軍に就任したが、それ以後の将軍も将軍としての権力を行使できず、将軍は権力を持てない名目上の存在と化して、将軍権力は得宗が掌握し、得宗が事実上の将軍になったといわれる。

宗尊親王追放後まもない時期に、得宗権力は、安定してきたと考えられる。   泰盛が、宗尊親王追放を審議する寄合に参加している状況からして、泰盛は一般御家人の代表といわれる一方で、得宗権力の推進者の立場であったと思われ、平頼綱とは、得宗権力のが確立し始めるまでは共存していたが、以降対立の方向を強めたように思わる。

さらに、泰盛の政治的立場は、将軍の側近であったと同時に得宗家とも親密な関係を保っていた事がうかがえる。  将軍と得宗という二つの権威は、泰盛にとって相反するものでは無かったのであり、それぞれ必要な権威であった想定される。

**泰盛と平頼綱(yorituna)

得宗の被官である御内人が、着実に勢力を伸ばしていた。  御内人の勢力が強まると、一般の御家人は、御内に対して外様と呼ばれるようになり、御内と外様の対立は激化していった。   此の御内勢力の代表が、内管領(utikanrei)の平頼綱であった。
得宗私邸での寄合に頼綱が安達泰盛と共に会合している記録が残っている。

評定衆に代る寄合の席に、得宗被官の代表者が参加し、強い発言力を持って政治的主張を展開する状況は、頼綱の権勢が強大化した事を意味する。  一方、外様の中心人物である泰盛は、時宗の外戚として権勢をふるっていたのである。


安達泰盛が、御家人の誇りをもって幕府の実権を握り、御内人勢力の政治的進出を阻止しようとする方針は、頼綱側の強い反発を招いた。  特に、従来、北条氏が世襲してきた陸奥守に泰盛が任官し、北条氏と同格となりうる権勢を幕府内に形成しつつある状況に、強い危機感を覚えたようだ
こうした御内人の危機感・反発を巧に利用したのが平頼綱であった。 次回へ

円覚寺・仏牙舎利殿石塔 (鎌倉・山之内)
佛牙舎利殿・石塔a>
仏牙舎利殿(国宝建築物)  (鎌倉・山之内)
舎利殿
円覚寺・正続院・禅堂  (鎌倉・山之内)
正続院(禅堂)

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.25(07:00) 114

**安達泰盛の政治活動

安達泰盛は、寛喜三年(1231)、安達義景(yusikage)の三男として生まれた。  泰盛の出自である安達氏は、泰盛の曾祖父藤九郎盛長(toukurou・morinaga)。鎌倉の甘縄神明神社前に安達盛長邸跡がある。
安達盛長邸
この甘縄が安達氏の拠点であった。   頼朝の乳母比企尼(hikini)の娘を妻とした関係で、幕府創業以前から頼朝に仕えた功臣であり、また信任を得ていた有力御家人であった。
祖父景盛(kagemori)・父義景(yosikage)は、北条氏の執権政治の確立に力を尽くし、宝治元年(1247)の宝治(houji)合戦では北条時頼と結んでライバル三浦氏討滅の正面に立ち、時頼政権の確立に貢献するとともに、自家勢力を大きく躍進させた。

その為、幕府内で安達氏に対抗する勢力を持つ御家人は見られなくなった。

*安達景盛・・・・源実朝の死を悲しみ、高野山で出家し高野入道と呼ばれた

こうした父祖の権勢を受け継いだ泰盛は、十七歳の時、父祖と共に宝治合戦(houji)に参加したが、政治活動の最初は、宝治二年(1248)に番帳丼御文清書役を務めたのがその始まりと言われる。
また早くから将軍・頼嗣の近習となり、建長五年(1253)六月、父の死後、安達一族の惣領となった。  その後引付衆に加えられ、父の跡を受けて武門の名誉とされる秋田城介に任じられ、康元元年(1256)には五番引付頭人兼評定衆に列し、以後長くこの地位にあった。
さらに文永元年(1264)十月から同四年(1256)四月まで、金沢(北条)実時と共に越訴奉行(oxtuso)を兼務した。

安達泰盛の政治活動で注目される点の一つは「吾妻鑑」 によると、泰盛は近習・格子番・廂衆(hisasisixyuu)などの将軍側近の一員としてしばしば名を連ね、鶴岡社参などの将軍の外出には常に供奉するなど、将軍の側近としての活動である。

またモンゴル襲来の際、肥後国の御家人・竹崎季長(suenaga)が、自らの戦闘活動を描かせた「蒙古襲来絵詞」 によると、建治元年(1275)、季長が恩賞獲得の為鎌倉へ出訴した時、幕府で恩賞奉行にあったのは安達泰盛であり、季長などの行賞に当たっていることが知られる。
この時の、季長の訴えが泰盛に認可され、勲功の賞として肥後国海東郷の地頭に任ずるという将軍下文と馬まで賜った様子が覗え、無足の御家人に対する泰盛の人間的な一面を知ることが出来る。

*無足の御家人・・・・様々な理由で所領を失った御家人

御恩奉行は、幕府でも重要な職で、実質的な権勢を握りうる地位にあり、泰盛がこの職を勤めていた事から見て、幕府における泰盛の実力者としての位置がうかがい知れよう。  

しかし一方において、泰盛は北条氏得宗家との姻戚を通じて得宗権力の中枢に関わる活動をしている事も注目しておく必要があろう。
そもそも安達氏の勢力が強固なものになった理由として、安達氏が、代々得宗家との密接な婚姻関係で結ばれていた事があげられる。  父義景(yosikage)の妹で泰盛の叔母にあたる松下禅尼(matusita・zenni)は、北条泰時の嫡男・時氏(tokiuji)に嫁して経時(tunetoki)(4代執権)・時頼(tokiyori)(5代執権)らの母であり、泰盛の妹堀内殿(horiuti)が時宗の正室となり貞時(sadatoki)を生んでいる。  安達氏が、いかに北条氏とのつながりが深いか理解できよう。


*松下禅尼・・・・執権時頼を甘縄邸に迎えた際、自ら障子の切り貼りをして倹約を教えたという挿話は有名 (徒然草)

*堀内殿・・・・父義景の死後は、泰盛の養女となった。 覚山尼(gakusanni)と称し、縁切寺として有名な鎌倉東慶寺の開基として知られる

鎌倉東慶寺・5代住職 用堂尼(後醍醐天皇皇女)・墓所・・・・東慶寺
五代用堂尼墓
東慶寺・本堂裏の岩絡み (毎年6月上旬に開花)  (鎌倉・山之内)
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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.21(07:00) 113

**北条時宗の死

モンゴル襲来という難局は、武士たちの奮闘と大暴風によって乗り切ることが出来たが、時宗はなおも三度目の襲来を予想し、警備体制は緩めなかった。  一方で幕府は、戦後の恩賞問題に追われていた。  武士を戦場に駆りたてるのが恩賞であってみれば、戦功に応じた恩賞を与える必要があり、公平さを欠かさぬよう厳密に審議が続けられていた。

この時期、幕府の首脳部にあって、慎重にこの恩賞問題を主導していたのは、時宗の舅に当たり、時宗政権下での最大の実力者・安達泰盛であったと思われます。

時宗の時代は、鎌倉幕府政治の流れからいえば、執権政治から北条氏の得宗(北条氏嫡流家の当主)が権力を持つ得宗専制体制が確立された時期と言われる。
その為この時期は、得宗の被官(家臣)である御内人(miutibito)が、得宗権力を背景にその勢力を拡大していた。  時宗政権下ににおいて、得宗時宗を支えた御内人の代表が、平頼綱(yorituna)であり、頼綱もまた安達泰盛(yasumori)と並び大きな権勢を有していたのである。

泰盛と頼綱は、それぞれ得宗の外戚、御内という立場で、宗尊親王(munetaka)の追放後、時宗が目指す得宗権力が確立されるまでは、ある程度同一の歩調をとっていたように思われるが、しかし、その後得宗権力が確立されたころから次第に対立の方向を強めていったようだ。

安達泰盛が、この平頼綱と幕政の主導権を巡って対立しつつ、恩賞問題や新たな政治改革に取り組んでいた弘安五年(1282)ころ、禅宗に心酔していた時宗は、中国からの渡来僧・無学祖元(mugaku・sogen)の為に円覚寺(engakuji)の建立に力を注いでいた。  十二月に円覚寺は完成し、時宗は祖元を開山として迎えた。

国内外にわたって難問題を抱えていた時宗は、このころ、そうした場所で座禅をすることで、心の平穏を保っていたのかも知れない。
円覚寺・禅道場  「居士林」
禅道場・居士林
円覚寺・国宝舎利殿山門
舎利殿・門

その時宗が、弘安七年(1284)三月末に突然倒れ、4~5日、床に就いたきり神仏の加護もむなしく。四月四日に34歳の若さで多事多難な生涯を閉じた。  父時頼よりも三歳若死にであり、その死因も不明であるが、その背景には、僅か18歳にして執権になって以来、外敵の重圧や繰り返される北条氏一門の陰謀と誅殺、幕閣内の対立が激しく繰り広げられる状況の中で、時宗の心身は共に疲れ切っていたのではなかろうか?。

何れにしても、二十年にわたり鎌倉幕府政権の頂点に立ち、かつ北条氏の最盛期を果敢に生き抜いた時宗の突然の死は、幕府はもちろん朝廷にも大きな衝撃を与えた事と思われる。  朝廷は時宗の死による「天下触穢」・(siyokue)を30日間として、諸社の祭礼を中止し、また4か月に及ぶ殺生禁断を定めたという。

幕府では外戚安達泰盛を始め、評定衆・引付衆など重職にある者の大半が出家して弔ったという。  大きな衝撃を受けながらも、幕府政界では時宗死後の政局に向けて、泰盛を中心に早速対策が講じられた。    時宗には十四歳になる嫡子貞時(sadatoki)がいたが、様々な思惑がある中で、七月七日に泰盛の外孫にあたる貞時が順調に執権を継いだ。   この為、泰盛の権勢がさらに高まったことは言うまでもない。

それから約1年半、幕府の政治は、年若い得宗・執権の貞時を擁し、幕府の最有力者安達泰盛の主導の下で、弘安徳政と呼ばれる画期的な政治改革が行われた。      次回はこの政治改革についてレポートします。

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.17(07:00) 112

**鎌倉中・末期の社会変動

**安達泰盛と得宗被官

二度の蒙古襲来は、何とか終わった。   しかし、三度目が予想された。  とにかくフビライは、負けたと思っていなかった。 その様な事から、再度の高麗遠征論が台頭してきた。  信濃国に籠居していた塩田義政ら北条一門が、勢力の挽回を図って主張し始めた。  元寇は一部の幕閣にとっては国内問題であった。  時宗が鎌倉を離れることが出来なかった理由の一つはそれであろうか?・・・・・。
また一部には、元寇という危機を時宗は巧く処理できなかったのではないか?・・・と見る向きもある。   これが現地に時宗が行かなかった事を根拠にしているとすれば、それは違うであろう。

かつて源平合戦のとき、一の谷、屋島。壇之浦は弟に任せて、頼朝は鎌倉を動かなかった。  承久の乱でも、北条義時は鎌倉にいた。  将に将たる者は、陣頭に立って指揮を執るというのではいけないとされる。  大局を見ていなければいけないと考えられている。

何れにしても高麗遠征論が再び昂まった弘安四年(1281)十一月、塩田義政が40歳で死んだ。  お陰で基本方針は、安達泰盛が主張していたように、専守防衛という事になった。  結果、泰盛の権勢は鰻登りになった。  普通ではあり得ない陸奥守に泰盛が任官した事などである。

弘安五年(1282)十月、他国の侵攻を予言した、日蓮が武蔵国・池上で死んだ。  61歳であった。
鎌倉では円覚寺が完成して、無学祖元が開山となった。 もちろん、北条時宗が開基である。  元寇での両軍の戦没者の供養が目的であった。  しかし、円覚寺は、すぐに時宗の廟所となってしまった。   とにかく時宗は多忙であった。  蒙古の三度目の襲来に備える事、戦功の有った者を行賞する事、そして幕閣の人事などを管掌する事、更には両統にに分立している朝廷の問題などが山積していた。  弘安七年(1283)四月四日、34歳で死んでいる。  法名は法光寺殿道果大禅定門。円覚寺奥の仏日庵に葬られた。

直後、一子貞時(sadatoki)が嗣立した。 十四歳。  安達泰盛と平頼綱(yorituna)との対立が激化する。  泰盛は貞時の外戚で頼綱は貞時の乳母夫(menoto)だった。

両者の対立は、日ごとに激しくなり火を噴いた。 弘安合戦、或は霜月騒動(simotuki・soudou)という。  泰盛ら外様御家人は倒され、頼綱ら得宗被官が実権を握った。  得宗専制は終り、御内専制(miuti)が始まった。

そして平頼綱も、永仁元年(1293)四月、得宗貞時(sadatoki)に倒されている。  一見、得宗専制が復活したようだった。  しかし、貞時の幕政改革も短期だった。 応長元年(1311)十月、貞時が41歳で死ぬと、また御内専制だった。

鎌倉幕府にも、末期症状が現れていた。  恐怖政治・弾圧政治・密偵政治、そして賄賂・讒言・密告・拷問が当然のように行われる。  最後の得宗・高時(takatoki)も一時は幕政改革に着手したが、所詮、時勢の流れには抵抗できなかった。  こうして幕府の混迷の度合いは、益々増していく。  討幕派が挙兵する以前に、事実上、鎌倉幕府は内部から崩壊していたのだろう。・・・・・・      あとがき      次回へ
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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.13(07:00) 111

**弘安の役

**日本軍の奮戦

炎が燃え上がると、他の軍船の反応は早かった。  各兵船ごとに船首・船尾・両船側などにかがり火が燃やされて、周囲の海面を照らし出して夜討ちを封じるとともに、各船相互に助け合えるように、兵船と兵船とを鎖でつなぎ合わせた。
この為経永(tunenaga)に続いて河野六郎道有(mitiari)が夜襲を敢行した時には、すでに奇襲にはならなかった。  それでもその夜、博多湾の海上では、あちこちに火の手が上がった。  夜襲から諸将が帰ってくると、浜辺で凱歌が挙がった。 夜が白みかけるまで、夜襲は続き、日本軍の優勢のうちに終わった。

翌日は、両軍ともに機を覗いながら、互いに睨み合っていたが、合戦は無かった。
しかし、日本側では、志賀島・能古島が占領されているのが、気がかりになっていた。  その志賀島と能古島の奪還作戦が敢行されたのである。  干上がった「海の中道」 を通って志賀島に攻め込んだのは、大友頼泰(yoriyasu)の郎党30騎だった。  しかし、敵方の防戦に、結局は撃退された。

海上を能古島目指した日本軍については、途中で敵戦団に阻止されて能古島には到達できなかったと思われる。  激戦が続く中鎮西武士の間で、九州の武士ばかりが戦っている、関東の武士も戦ったらというささやきが聞こえてきた。
時宗がかねてから気にしていた不和が起こりそうだった。  しかし、翌日には安達泰盛の子盛宗(morimune)の出撃が、合戦に転機をもたらした。  この攻撃に合わせるように東路軍の各船が一斉に錨を上げて、博多湾外に出て行ったのである。

この東路軍の退却は、かつては日本軍の激しい抵抗に手を焼いて、東路軍が退却したのだと思われていたが、現在では真相が判明している。  東路軍内に疫病が流行し、すでに病死が3,000人に及んでいた様だ。   東路軍の兵士は、三十五日間も海上にいたのである。

東路軍が博多湾を出て行った理由は、補給を求めての事だった。  そして壱岐島を目指した。  江南軍との合流を図ったのである。

**神風意識の萌芽

六月、壱岐島付近の海上で、東路軍の軍会議が行われた。  壱岐島で合流し博多を攻撃する予定であった江南軍と合流できなかったからである。  都元帥の忻都(kinto)、右副元帥の洪茶丘(kou・sakiyuu)は、撤退帰国を主張した。  しかし、左副元帥の金方慶(kin・houkei)は何も言わなかった。

かって洪茶丘は、金方慶が蒙古に謀反を起そうとしていると訴えた事があり、洪茶丘へ強い憎悪を持っていたと思われる。  会議の決定は帰国となった。   しかし、この時江南軍からの使船が到着し、 「大宰府の西方、平戸にて会合せん」 と伝達してきた。

江南軍は、出撃前から兵糧の積み込みが遅れたり、都元帥が重病になり、代わって右副元帥の阿塔海(a・toukai)が都元帥に就任するなどで出撃が遅れていた。  この為兵船3,500艘、兵員十万という江南軍の出撃は十日以上の遅れとなった。

江南軍と連絡が付いた東路軍は、その指示に従って、日本の攻撃をかわしつつ肥前国・鷹島に向かって移動しつつあった。 一方の江南軍は、やや西方の平戸島の東北方の海上に集結しつつあった。 そして七月上旬には合流したようだ。

蒙古軍の上陸作戦が開始された・・・・・。  しかし日本軍の松浦党がすでに防備を固めており、さらに薩摩の御家人を率いた島津長久(nagahisa)が馳せ参じ、交戦し、東路軍の上陸作戦は失敗に終わった。
一方、江南軍は三方から鷹島に上陸作戦を敢行したが、松浦党を中心とした日本軍がこれを撃退し、江南軍の上陸作戦も失敗に終わった。  さらに両軍ともに日本軍の逆襲に備えて各船を鎖でつなぎ、甲板と甲板との間に厚板を敷いた。

七月三十日の夜、九州方面を大暴風雨が襲った。  翌日には京都でも暴風雨があったというので、台風だったかもしれません。
翌朝、東路・江南両軍の兵船の大部分は、すでに転覆していた。  各船が鎖で結ばれていたからなおさら風雨に弱かったのかも知れない。 近くの岩礁や小島に多数の敵兵が避難していた。  風雨が凪ぐのを待って日本軍は、兵船数百艘で、一大掃討作戦を展開。・・・この作戦は三日間続いたという。   多数の兵士が死亡し、生け捕られ博多に護送され、斬首された。  だが、将領たちは全員生還したとされる。


詳報が朝廷に入ったのは、閏七月十一日。    中納言勘解由小路兼仲(kanenaka)の「勘仲記」 に、

去んぬる朔日、大風、動き、かの賊船、多く漂没す。 誅戮ならびに正慮は数千人。  ・・・中略 ・・・  この度の事、神鑑、明らかなり   

とありますが、すでにこの時点で「神風」 という意識があったことが判ります。

文永・弘安の役・・・終わり  (次回へ)

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.09(07:00) 110

**弘安の役
**日本軍の奮戦

弘安三年(1280)八月、大都のフビライの面前で、日本遠征軍の序列と基本戦略が策定された。  遠征軍は、大きく二軍に分かれていた。
高麗の合浦から出撃する東路軍と、中国・江南から出撃する江南軍とである。  東路軍の都元帥は、文永の役と同じく蒙古人の忻都(kinto)、右副元帥は高麗人の洪茶丘(kou・sakiyuu)、左副元帥は高麗人の金方慶(kin・houkei)。 蒙古人、旧北宋系の漢人、高麗人等合計四万、兵船は900艘。  

江南軍の都元帥は蒙古人の阿刺菅(arakan)、右副元帥も蒙古人の阿塔海(atahai)、佐副元帥は旧南宋の将軍范文虎(hanbunko)。  旧南宋兵十万、兵船は3500艘。

両軍は翌年五月に出撃し、壱岐島で合流し、全軍で一気に博多を攻撃すると決まった。  もちろん軍事機密で、一般には知らされなかった。  ところが日本側の情報収集の能力は意外にも優れていた。  攻撃の前年十二月に、時宗は次のような下知を、豊後国守護の大友頼泰(yoriyasu)に下している。

蒙古の異賊ら、明年四月中、襲来すべしと云々。  早々と分担の所に向い、厳密に用心を致すべし。  なお御家人ら、自身の宿意をさしはさみ、天下の大難を還り見ざる事の無きよう、充分に配慮すべし。

蒙古側の予定は「明年五月」 であった。  時宗の下知では、「明年四月」 であった。  この一か月のズレは、時宗がサバを読んだのであろう。  一か月遅れたら大変な事になるが、一か月早いのであれば問題はないからである。
いずれにしても時宗は、蒙古の関する情報を、早くから入手していたのである。  

時宗、フビライ共に不安を覚えていたのは、内部分裂であった。   無学祖元が時宗に次のように語っている。

本年の春・夏の間、博多が騒擾せんも、一風、わずかに起こり、万艦、掃蕩せん

先に時宗も大友頼泰に対して、「不和の事無く同心すべし」 と云い送っているが、同じことをフビライも気にしていたのである。  日本側では現地出身者と東国の武者、蒙古側では蒙古人・漢人・南宋人・高麗人、そして女真族など、それぞれ混成軍だった。

五月、東路軍は合浦を出撃したが、江南軍の出撃は遅れていた(元帥・阿刺管の発病)。  五月二十一日、東路軍の一部である高麗兵が、対馬に上陸した。  上陸地点は峰町佐賀の大明神ノ浦に比定される。    
高麗軍は日本側に降伏を迫ったが、日本側は降伏するはずは無く合戦となった。  高麗軍は朗将等若干が戦死したが、やがて日本軍は敗れて山中に逃げ込んだ。

二十六日、東路軍は対馬を去って、壱岐島・勝本に向かった。  壱岐島では合戦は無かった。  対馬の狼煙台の通報で、島民たちは山中に避難していた。   対馬・壱岐、そして大宰府と狼煙で伝わった警報は、やがて六波羅探題館に入った。

異国の兵船500余艘、対馬沖に襲来せり

急報は鎌倉に入り、朝廷にも伝わった。   六月に入り、東路軍が、博多湾に侵入した。  再度博多湾は、蒙古の兵船で埋め尽くされた。  しかし、すぐには上陸してこなかった。

玄海島・志賀島・能古島は、すでに占領されていたが、住民は本土に疎開していたから、人的被害は無かった。   九州の武士たちが割り当てられていた守備範囲は、石築地築造を分担した地域と同じであった。  全軍の指揮を執る小弐景資(kagesuke)は、博多地区に本陣を置いていた。

東国から馳せ参じた武士がその麾下にあった。  戦闘の展開如何では危険な場所に向かう事になっているから、いわば予備隊のようだった。

そして、日本軍の夜討ちが展開された。  先陣を切ったのは筑後の草野次郎経永(tunenaga)だった。  郎党らと小舟に分乗し、知り尽くしている塩の流れに乗って、夜討ちをかけ高麗船に乗り移った。  油断していた高麗兵と戦闘になり、これを破り、船に火を放って凱陣してきたのである。
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八代執権・北条時宗公菩提寺・鎌倉・円覚寺山門
円覚寺山門
円覚寺遠景(横須賀線)

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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.05(07:00) 109

**弘安の役

**専守防衛の徹底

積極攻勢論が棚上げされると、代わって浮上してきたのが専守防衛論だった。
具体的には博多湾の沿岸に沿って、要害石築地(isituiji)・(元寇防塁)を築くことである。  九州の九か国に、それぞれ分担する地域が、次のように割り当てられた。

〇  香椎地区・・・・・豊後国
〇  筥崎地区・・・・・肥前国のち薩摩国
〇  博多地区・・・・・筑前・筑後両国
〇  姪浜地区・・・・・肥前国
〇  生ノ松原・・・・・豊前国
〇  青木横浜・・・・・豊前国
〇  今津地区・・・・・日向・大隅両国


分担地区を割り当てられた各国は、これをさらに細分化して、その工事を御家人に割り当てた。  その基準は、所領一町に付き一尺、一反に付き一寸だった。  こうして遅くとも建治三年(1277)頃には、博多湾の沿岸地帯に要害石築地が完成した。

積極攻勢論が棚上げになり、専守防衛論に決定したという事は、北条一門の勢力が大きく後退し、代わって安達泰盛を代表とする外様御家人の勢力が大きくなってきた事を示す。
泰盛の子宗景(munekage)が検非違使の判官になったのも、その一例である。  そして泰盛自身は幕府の御恩奉行に就任、その権限には御家人の朝官推挙権まで含まれていた。
しかし、泰盛は、気を緩める事は出来なかった。

北条一門の勢力が後退した後、その穴を埋めるかたちで得宗被官勢力の代表、 内管領(naikanrei)の平頼綱(yorituna)が台頭してきたからである。  頼綱は、時宗の一子貞時(sadatoki)の乳母夫(menoto)でもあった。

専守防衛論政策が進む中、弘安二年には、対馬に異国船が来着した。  蒙古に降伏した南宋から、日本に降伏を勧めるため使節を送ってきたのである。  幕府は一行を博多に送って斬刑にしている。  すでに日・蒙間に和親などある筈が無かった。

この時期、無学祖元(mugaku・sogenn)が、時宗に招かれ日本に来ている。   祖元は「臨刃偈」(rinjinge)で知られる。
それは、蒙古兵が中国雁山の能仁寺に乱入した時、一人端然と座し、微動だにせず、兵が剣を振り上げて首を斬ろうとした瞬間、偈を唱え、、これを聞いた兵が感心して斬るのを止めそのまま立ち去ったという挿話として日本にも伝わっていた。  祖元の来日は、二度目の国難に立ち向かう時宗に、精神的に、大きな力を与えることになった。  反蒙古という形で、強い愛国心と決断力とを、祖元は時宗に与えたのである。

西国に飛び領地を持つ東国武士に、西国移住を奨励或は命令することは、文永の役以前から行われていた。  しかし、二度目の国難が迫る中、専守防衛論に立つ幕府の命令は、更に強化された。

博多湾近辺に東国武士が駐屯するようになったが、中には勝手に出撃して高麗の沿岸を襲う輩が出始めた。   これを「高麗史」は、「倭賊」・(wazoku)と呼んだ。   しかし、この襲撃は略奪、放火、殺人等は少なく、高麗側の損害は軽微であった。   「倭賊」の狙いは、明らかに偵察であり、情報収集であったと思われる。 次回へ               
日蓮上人・立正安国論撰述の地  鎌倉・安国論寺 (鎌倉・名越)の銀杏
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中世・鎌倉時代の墓(武士・貴族) 鎌倉では「やぐら」と呼ばれる (鎌倉・名越)
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現在発掘調査中
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丁酉・癸丑・丙寅

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.01(07:00) 108

**弘安の役

**攻勢か防衛か・・・・・

文永の役に対する幕府側の最初の対応は、既に蒙古勢が博多湾から去った頃だった。
幕府はこの事実を知らず、安芸国守護・武田信時(nobutoki)に安芸国の防備を命じた。  危機が迫っていた九州防衛に向かわせなかった点が注目される。 北九州を占領した蒙古勢が本州に侵入して来る事に備えたのである。 瀬戸内海を東進すれば天皇家のいる京都はすでに目前だったからである。
同時に、これまでは幕府の指揮下にには無かった 「本所領家一円地の住人」 を糾合しようとした点も重要である。

*「本所領家一円地の住人」・・・・非御家人であって、鎌倉殿と直接主従関係のない武士の事

蒙古軍撤退後も現地の警戒態勢は、ゆるむ事は無かった。

同時期の南宋は滅亡の寸前にあった。  蒙古軍の総攻撃が始まったのである。 この攻撃に並行してフビライは、日本に向けて使節を送っている。
文永の役で敗れたとは、当然思っていなかった。  正使は礼部侍郎の杜世忠(to・seitiyuu)、副使は兵部朗中の何文著(ka・buntiyo)だった。  二月には南宋の首都臨安(rinan)が陥落している。  三百年続いた宋帝国が滅亡したのだ。

その様な状況下、杜世忠一行が到着した。  しかし博多ではなかった。  意外にも長門国・室津(murotu)だった。
まだ戦火の余尽が残る博多を避けたものと思われる。  しかし、蒙古に対する怒りや憎しみは、室津でもでも強かった。 一向はすぐに捕らえられ次々と斬殺された。 しかし、主だった五人と水夫数人が殺されずに、鎌倉に送られた。

弘安三年(1280)、時宗は、蒙古の攻撃対象と予想される国々の守護の更迭を行っている。
〇  肥前国・・・少弐資能➡北条為時
〇  豊前国・・・少弐資能➡金沢(北条)実時
〇  筑後国・・・大友頼泰➡北条宗政
〇  周防国・・・長井泰重➡北条宗頼
〇  播磨国・・・小山宗長➡北条時宗
〇  備中国・・・長井泰重➡北条時宗
〇  越前国・・・後藤基頼➡吉良満氏
〇  伯耆国・・・不明  ➡芦名頼連
〇  肥後国・・・不明  ➡安達泰盛

時頼本人を含め、北条一門が多く進出していることが注目される。  鎌倉からの下知がいち早く細部にまで浸透するようにと考えての処置だったのであろう。

文永の役の終了直後、今後の対応を巡って幕閣では、蒙古の再度の襲来を待っているより、逆に高麗を攻めようという積極攻撃論が台頭していた。   金沢実時・塩田義政ら北条一門の主張である。

これに反対したのが、専守防衛論を主張した外様御家人代表の安達泰盛らだった。  しかし、建治元年(1275)11月、攻撃論が勝った。  実時の三男・実政(sanemasa)が異賊征伐軍の指揮を執り、鎌倉を発って九州に向かったのである。
西海の諸国に水手梶取や兵船および兵員の調査が下知され、これに参陣する御家人の番役が免除されることになった。  さらに実政は名目上の指揮者で、実際は少弐経資(tunesuke)が指揮を執ることも内定した。

朝廷側は反対したが、久しく空席であった六波羅探題南方に佐助流北条時国(tokikuni)が任じられ、朝廷の反対論を封じ込めようとした。  翌年には時宗の弟・宗頼(muneyori)が初代の長門探題として着任している。   周防・長門の守護でもある金沢実政が高麗に出陣した後、その背後の兵站を守るという意味もあったと思われる。

この様に高麗遠征が具体化しつつあった時、先頭に立ってこれを主張していた金沢実時(sanetoki)が53歳で死んだ。  途端に積極攻勢論は、棚上げとなった。  そして熱心な攻勢論者だった赤橋義宗(yosimune)は、六波羅探題北方の任を解かれて鎌倉に帰っている。  専守防衛論を主張する安達泰盛の弟・時盛(tokimori)や塩田義政(yosimasa)も熱心な攻勢論者だったが、出家している。

時宗は、妻・堀内殿(horiutidono)の兄・安達泰盛の主張に従ったことになる・・・・・。
次回へ
安達泰盛・曾祖父盛長邸旧跡 (鎌倉・甘縄) 現・甘縄神明宮
安達盛長邸
北条時宗・産湯の井戸 (鎌倉・甘縄神明宮内)
時宗産湯井戸

丁酉・癸丑・壬戌

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2017年12月
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