FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書

2018.01.31(07:00) 123

**「吾妻鑑」の構想

  鎌倉幕府と呼ばれる新しい政権が誕生した。   その政権を理解するうえで注目すべき歴史書が「吾妻鑑」 だ。
「吾妻鑑」は治承四年、以仁王(motihitoou)の令旨が下されたところから始まっている。

その以仁王の令旨が伊豆国・北条館に源行家(yukiie)によって持ち込まれた、その席に北条時政(tokimasa)が同席していた事から始まる。
北条時政公・墓所    (伊豆の国市・願成就院)
北条時政公墓所(願成就院)

「令旨」 「頼朝」 「時政」 の結びつきは、正当性のシンボルと、東国に下ってきた貴種と、東国の豪族的武士の三者の組み合わせが、結合したものであって、何れを欠いても、鎌倉幕府は成立しなかったと考えられている。
しかし、令旨と頼朝はともかく、他の豪族ではなく時政がそれらと結びついている点に「吾妻鑑」 の意図がうかがえる。   北条時政から始まらなくてはならない必然性はないと思うが、・・・・他の豪族ではならなかったのだろうか。

挙兵は一旦は成功した。・・・・しかし、間もなく石橋山で敗れている。  以後その地の豪族に助けられながら房州にさらに武蔵を経て鎌倉に到着している。  その豪族とは土肥・三浦・千葉・上総・秩父の諸氏である。
土肥氏一族・墓所   (静岡湯ヶ原・成願寺)
DSCN1075.jpg

「吾妻鑑」 の中で頼朝の器量が認められる処となり、東国の主に成長していったように記述されているのだが、他の豪族の其々にとっても、令旨を帯した頼朝との出会いは重要な意味を持っていたはずである。


●  吾、源家累代の家人也、幸いにも貴種再興の時に逢うなり・・・・・。  (三浦氏)・(三浦大介)
● 源家中絶の跡を興せし給うの条、感涙眼を遮る、言語の及ぶ所に非ず・・・・・。 (千葉氏)
● その形勢,高峻の相(sou)無くんば、直ちに討ち取り平家に献ずべし・・・・・。 (上総氏)

衣笠城主・三浦大介公戦没の地     (横須賀市・衣笠)
三浦大介戦没地

 「吾妻鑑」 に記された頼朝との接触の情況は、もしそれぞれの豪族が後に滅ぼされる事無く、幕府内に於いて実権を有する立場に有ったとすれば、其々の豪族における「吾妻鑑」が存在したと推測される。

元来東国の豪族が都から下ってくる貴種を迎える事は広く行われてきた。   頼朝の父義朝(yositomo)を房総半島に迎えたのは上総氏であった。   義朝が下総国・相馬御厨(mikuriya)に乱入した時、その後ろには上総常時(tunetoki)がいたと云う、また義朝が相模国・大庭御厨に乱入した時、義朝は「上総曹司」 と呼ばれていた。  その後、相模国・鎌倉に迎えたのが三浦氏である。

*相馬御厨・大庭御厨・・・・何れも平安時代後期・伊勢神宮に帰する領地。   (地元豪族が管理)

鎌倉・亀ヶ谷に居館を構えた義朝(頼朝父)は、三浦氏との娘との間に「鎌倉・悪源太」 義平(yosihira)を設けた。
東国の豪族の「家」 が都の「貴種」 との結びつきで、起こされた事と良く関係していよう。   北条の家も頼朝を迎えた時に始まるのである。

頼朝の挙兵から南関東への進出は、多くの家々を生み出す効果があった。   またその家々が連合して貴種を擁して作り上げたものが幕府と云う「武家」 の権力なのであろう。
初期の幕府は南関東の家々だったものが、東国15ヵ国へと広がり発展してきたのだ。

 「吾妻鑑」 は、その家々の中心的存在に位置したのが北条氏であると主張している。
これまで、良く知られているように将軍家の関係者と共に、北条氏についても「北条殿」 ・「北条主」 ・「江間殿」 等の敬称を付けて現わされている。
鎌倉幕府は東国の家々を代表する北条氏と、令旨を帯した「将軍」 頼朝と共に成立したというのが「吾妻鑑」の主張だろう。 次回へ

戊戌・甲寅・癸亥
スポンサーサイト




鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書

2018.01.27(07:00) 122

**「吾妻鑑」の欠巻  (Ⅱ)

 「吾妻鑑」に欠巻がある事は既にレポートしたが、もう少し詳しく調べてみる事にした。
まずは将軍・頼朝の死亡記事の欠落から・・・・・・。
武家政治を開き、鎌倉幕府の初代将軍として活躍した源頼朝は、京都の資料によると正治元年(1199)正月五十三歳で死亡している。  死因は相模川の橋供養に臨んだ帰途、落馬した事が原因で死亡したことになっている。  これは、  「吾妻鑑」 建暦二年(1212)二月条の記事によるもので、死後13年後の記事である。
源頼朝の法華堂跡   (鎌倉・雪の下)
頼朝・法華堂

建久七年(1196)正月から正治元年(1199)正月までの3年1か月間の記事が無く、頼朝死亡の翌日から再び記事が表れる。
幕府における頼朝の存在から考えると、当然記載されているべき将軍の死亡記事が「吾妻鑑」 に無いのかは、素人目にも不自然であるが・・・。

現存の写本の体歳から考えると、巻45(建長七年・1255)の様に1巻分の記事が脱落(紛失)してしまった場合とは異なり、巻15(建久六年条)・・巻16(正治元年条)となっており、建久七年正月~正治元年正月条は原本に在ったものが写本の時点で脱落したものではなく、明らかに原本が無かったことになる。

建久三年(1192)に後白河法皇が崩じて院政の中心が失われ、名実ともに廟堂の首班となった九条家(兼実)は、頼朝の為に征夷大将軍の宣下を取り計らった。   これは頼朝が望んでいたにも関わらず、後白河法皇の勅裁が下りなかった為である。

建久六年(1195)頼朝は奈良東大寺再興の落慶供養に臨むため、二度目の上洛を行った。 頼朝と朝廷・九条兼実が両軸となってその全盛を誇っていた。    兼実は既に女(娘)任子を入内させていたが、頼朝も丹後の局(tango)に接近・連携し大姫入内運動をしたような見解が最近承認されつつある。 (結果的に大姫の入内は実現しなかった)
一方、故後白河法皇の近臣たちは土御門通親(mititika)を中心に権勢回復策を進めていた。

兼実が期待をかけた女「中宮・任子」 の妊娠・出産は皇女であったのに対し、「後宮・桂子」 ・(土御門通親の女)は第一皇子を生んだ。   これに勢力を得た通親は後白河の寵妃・丹後局等と謀り、兼実の排除策を講じ、建久七年(1196) 関白・九条兼実 を解任したのである。  同時に弟の太政大臣・兼房や天台座主慈円(jienn)の地位も奪った。    

建久八年(1197)に譲位の事を幕府へ通告し、その不賛成を廃して準備を進め、翌九年正月に土御門天皇が誕生したのである。
この様な時期に頼朝は三度目の上洛を計画し、朝幕間の諸問題打開を図るべく準備をしたが、その途中での事故(?)であり、目的を達することなくの死亡である。 「吾妻鑑」の欠落時期にあたる建久七年から正治元年正月の頼朝の死に至る三年一か月間は幕府は、最大の危機に直面していたわけである。   「吾妻鑑」の編纂者が、この時期を故意に記述しなかったのか、記述できなかったのか、或は編纂後に何等かの理由で削除したのか、そして頼朝の死因は何であったのか、真相は謎のままである。
   次回へ

戊戌・甲寅・己未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書

2018.01.23(07:00) 121

**「吾妻鑑」 の写本

「吾妻鑑」 は和風の漢文で書かれた鎌倉幕府の記録で、治承四年(1180)の源頼政(yorimasa)の挙兵から文永三年(1266)の将軍宗尊親王(munetaka)の帰洛までの87年間を記録した歴史書である。
幕府や武士の家に伝わる文書記録・公家の日記等が原史料だ。   その様な史料を月日を追って編纂したものです。   しかし、87年のうちの10年に及ぶ欠巻がある事は既にレポート済である。

 「吾妻鑑」 の原本は現存しないが、写本、木版本、研究書などの形で伝来され現在に至っています。 

●  写本 
   
〇  吉川家伝来(kitukawake)で大永二年(1522)書写の奥書を持つ・・「吉川家本」 (重要文化財・岩国市の吉川重喜蔵)
〇  小田原北条氏伝来と云われる・・「北条本」 (内閣文庫蔵)
〇  前田家伝来で僅か一巻(寿永三年~元暦元年・1184) 改元年、ではあるが、最古の写本とされる「前田家本」 (重要    文化財・尊経閣文庫蔵・鎌倉時代末写)
〇  「島津家本」 (原本紛失)
〇  毛利家伝来と伝える「毛利家本」 


など数種類の古写本が現存するが、いずれも金沢文庫伝来本・関西伝来本が典拠とされている。

1   紙本墨書      吾妻鑑    51冊    内閣文庫所蔵  
  
  本書は北条本の原本である。  金沢文庫本を応永11年(1404)に書写した古写本ををもと写したと考えられるもので、書写年代は文亀年間(1501~1503)と推定されている。   (伝) 小田原北条氏に伝来したもので、秀吉の小田原攻めの時に北条氏より黒田孝高に贈られ、それが黒田長政によって徳川秀忠に献上されたものと伝わる。
以後の木版本はみなこの北条本が典拠。

2   重要文化財   紙本墨書   吾妻鑑   1巻    尊経閣文庫所蔵

  本書は僅かに1巻、紙数24枚(寿永三年四月八日~十二月十六日)のみが、残される。
「吾妻鑑」の現存最古の写本とされる。   本巻は仁和寺・心連院旧蔵で、紙背は霊山実厳僧正作の山密往来である。   奥書に応永13年(1406)書写とある。

3    重要文化財    紙本墨書    吾妻鑑    抄録1冊   尊経閣文庫所蔵

  本書は吾妻鑑の抄録で文治三年(1187)から嘉禄二年(1226)までの記事の中から40数日間を抜き出したものである。 記事の半数は弓・狩猟に関するもので、他に曽我兄弟の仇討の記事などもある。   包紙に文治以来記録と書かれている、しかし不明な点が多かったが、前田綱紀公によって「吾妻鑑」の抄録であることが突き止められた。
現在では室町時代の写本と伝わる。

4   重要美術品   紙本墨書   吾妻鑑寛元二年記断簡  1軸   称名寺所蔵     (金沢文庫保管)

  本書は断簡七葉から成る巻子装の資料でで、「吾妻鑑断簡」 の題箋が付されており、古くは「吾妻鑑」の断簡であると考えられていたが、現在では前三葉が「二条教定卿記」 の寛元二年(1244)の断簡とされ、後四葉は藤原頼嗣が覚書(oboegaki)風に書き留めた「藤原頼嗣元服行始等書簡」である事が査定されている。   
筆跡も前後では異なっており、明らかに別のものと判断された。   「吾妻鑑」編纂時に補助的な史料として使われたのではと考えられている。   (鎌倉時代) 

5   (参考資料)   重要文化財    紙本墨書   建治三年記  1巻    前田家尊経閣文庫所蔵

   建治三年記は鎌倉幕府の問注所執事・三善康有(yasuari)の記した日記で、その職務に関係している幕府の重要な記録が伝わる。  特に建治三年(1277)は文永・弘安両役のほぼ中間にあたり、この日記にも緊迫した国際情勢の一端が覗える。
尊経閣本は金沢文庫に伝わったもので、三善康有が抄録した建治三年日記の原本に当たるものである。   したがって「吾妻鑑」 断筆後の鎌倉時代研究の基礎的な資料となるものとされる。

●  木版本

 江戸幕府は慶長十年(1605)に北条本を底本として「吾妻鑑」 を木活字で刊行した。    その後次第に校訂が加えられ、四種類の版本が神奈川県立博物館に所蔵されている。

〇  「慶長古活字本」・・・・・慶長10年(1605)刊     25冊

  同本は慶長10年に徳川家康が西笑承兌(seisiyou・siyoudai)・(相国寺92世住持で家康の政治顧問)に命じて木活字で刊行したもの。  本文には「吾妻鑑」 とあるが、表紙では「東鑑」 と中国風に改めている。
木活字を組んだものなので、刷りの濃淡やずれがみられる。

〇  「寛永木版本」  (初版) (再販)・・・・・寛永3年(1626)刊    25冊

  寛永本は慶長版を校訂して木版で刊行したもので、仮名や訓点が付けられている。    初版・再版本ともに巻末に林羅山(razan)の奥書がある。

〇  「寛文木版本」・・・・・寛文元年(1661)刊   25冊

  寛文本は寛永本を基にして刊行したもので、巻末には承兌や羅山の奥書を載せている。   内容に大差はないが、前三版に比較して紙質・刷り共に粗雑である。

「吾妻鑑」・ 版本には以上四種の他に寛文八年(1668)の平仮名版84冊がある。  これは、徳川家綱の命によって北条本を基にして、仮名本に訳したもので内閣文庫所蔵の物はその原本である。   巻末に「東鑑全部改丁仮名・・総合八十一冊也   他目録弐冊」 とあり、版行して世に流布させた。

●  研究書

  「吾妻鑑」 は武家の記録として重要な資料であったので、江戸時代以来多くの研究が為されている。  徳川家康が「吾妻鑑」に多大な関心を示したことは、良く知られている。  徳川三代に仕え幕政の中枢に関与した林羅山(razan)は、慶長12年に家康の命に奉じて「東鑑綱要」 を著した。
吾妻鑑を精読して記事の重要なものを抜き出して目録としたものである。  その子、鷲峯(siyuuhou)も研究を続け慶安四年(1651)に酒井忠勝(tadakatu)の求めに応じて「東鑑末記」 を著した。   これは「吾妻鑑」 断筆以降の文永三年(1266)から鎌倉幕府滅亡直前の元弘元年(1333)までの歴史を、仮名交じり文で著したものである。  
近年に「吾妻鑑」を研究した学者に大塚嘉樹(yosiki)がいる。  「東鑑別注」等を著し吾妻鑑全般にわたる注釈評論を加えているが、編纂時期について泰時・時頼時代と考証し、編纂者が北条氏の為に曲筆している事などを指摘している事は注目される。     次回へ
鶴岡八幡宮・一之鳥居   (鎌倉・由比ヶ浜)
一の鳥居
かいひん荘   (鎌倉・稲瀬川)
かいひん荘
2018・稲村の富士     (鎌倉・稲村ケ崎)
2018・初富士

戊戌・甲寅・乙卯

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書

2018.01.19(07:00) 120

**「吾妻鑑」の編纂者は?

「吾妻鑑」 はいつ、どの様な人によって編纂されたのでしょうか。  正確には不明である。  多くの研究者が論文を発表しているが、決定的な結論はまだ出ていない。
ただ北条氏一族周辺の関係者が関わっている事は、まず間違いないようだ、それに金沢文庫周辺の関与も疑いのない所だ。

「吾妻鑑」 のⅡ期に分かれての二段階編纂説は定説となっている。    源氏三代の将軍記(1264~1275)とそれ以後の将軍記は(1290~1304)頃の成立と考えられている。 この二段階変遷説の根拠は、源氏三代記の記事と藤原将軍・宗尊将軍の記事とを比較して、記録の態度が大きく異なっている点にあるらしいが、それを裏付ける根拠はあまり無いようだ。

「吾妻鑑」は50巻を超える長編の書物であって、編纂には相当の年月がかかったように思われ、成立の時期を特定する事は難しいとされてきましたが、前後の史料から推定して大体同じような時期の成立と見られています。

編纂時期に関する様々な資料・情報を得るために「吾妻鑑」の原資料と思われる「明月記」 の記事などが関係者の手にあった時期を考えてみると、 「明月記」 を藤原為家(tameie)から伝えられた冷泉為相(tamesuke)は所領の紛争などで鎌倉に滞在することが多く、訴訟関係、または和歌や蹴鞠の関係で、幕府の奉行人とも関りは深かったと思われる。
その為相が幕府に二条為世との所領訴訟を起して裁許を得たのは正応二年(1289)、さらに正和二年(1313)にも再度の裁許を獲得している。 先に推定した編纂の時期はここに含まれている。

こうして編纂の時期は十四世紀初頭と特定されてきたが、・・・それでは編纂者は誰だったのでしょうか。
すでに「明月記」の利用などで三善康信(yasunobu)・康連(yasutura)の子孫は間違いなく関与していると考えられている、その子孫で該当するのは太田時連(tokitura)と思われる。
時連は弘安六年(1283)に父の跡を継いで問注所執事に十五歳で就任、途中交代した時期もあったが元亨元年(1321)まで執事の任にあったようだ。   その活動で注目されるのは、永仁元年の評定衆、同四年の寺社奉行、正安二年(1300)の引付頭人、延慶二年(1309)の寄合衆への就任である。
寺社関係の文書や六波羅関係の文書を入手・閲覧する機会は充分にあったと考えられる。父の太田康有には「建治三年記」 と呼ばれる日記の抄録があり、さらに自身も「永仁三年記」 を記していて、室町幕府にも仕えている。 「吾妻鑑」の編纂には近い人物と言える。
太田時連・15歳で就任した問注所旧蹟  (鎌倉市・御成町)
問注所石塔
次に注目したいのは二階堂氏である。  「吾妻鑑」 が二階堂行光(yukimitu)について特筆した記事が多く見られ、そうした顕彰記事の作成に関わった子孫も編纂に関係したと考えられる。    承久三年(1219)行光が死亡した後を検証していくと、代わって伊賀光宗(mitumune)が政所執事に任じられたが解任され、行光の子行盛(yukimori)が執事に補任されている。  以後政所執事は二階堂氏に継承されていった。
正安年代の政所執事の職にあったのは二階堂行貞〈yukisada〉(正応三年・1300就任)であり、この頃が「吾妻鑑」 の編纂に最も相応しい時期という事になる。
次に大江広元について調べてみた、先ずはその子孫を探ってゆくと長井宗秀(munehide)という人物の存在が注目された。  永仁三年に寄合衆・評定衆、正安年間(1299~1302)に引付頭人等を歴任している。そして宗秀の子・貞秀(sadahide)には、京都の金沢貞顕(sadaaki)に宛てた「鎌倉治記」・「六代勝事記」 の借用についての書状が残っている。   この両書は「吾妻鑑」 の原型となる書物とされており、金沢貞顕との関係が見えてくる。
長井宗秀の始祖・大江広元邸旧跡    (鎌倉・浄明寺)
大江広元邸跡
長井貞秀は延慶二年(1309)に死亡しているので、貞顕の六波羅探題在任期間から「吾妻鑑」 はその頃には完成(終了)したと考えられている。
15代執権・北条貞顕公墓所     (横浜市金沢区・称名寺)
DSCN2386.jpg
延慶二年(1309)の寄合衆メンバーが「金沢文庫古文書」 に残る書状から判明しているので列記する。   
〇 北条師時(morotoki)      (10代執権)
〇 大仏宗宣(munenobu)     (11代執権)
〇 北条煕時(hirotoki) (12代執権)
〇 金沢貞顕(sadaaki)       (15代執権)
〇 安達時顕(tokiaki)       (外様)
〇 長井宗秀(munehide)     (官僚)
〇 太田時連(tokitura)      (官僚)
〇 長崎高綱(円喜)        (得宗被官)


こうした事からも 「吾妻鑑」は十四世紀の初めに太田時連などの得宗周辺が編纂した幕府の歴史書であるとの認識でよいと思われる。
「吾妻鑑」 は文永三年に、将軍・宗尊親王が京に追われた事で終わっているが、これを契機にして幕府の体制は新しい段階を迎え、文永・弘安の蒙古襲来に見舞われ、幕府内部に抗争が起こり、政治が迷走することになり、それを記録する事は困難だったに違いない。     次回へ

戊戌・甲寅・辛亥

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」

2018.01.15(07:00) 119

**「吾妻鑑」 欠巻・・・(散失)?

鎌倉幕府創成期以来の歴史を知るための最も根本的な史料「吾妻鑑」に関する研究の歴史は長いが、未だ未解決の問題は至る所に残される。    通計して前後十年間に及ぶ欠巻と散失の部分をどのように理解するかだ。・・・
「吾妻鑑」通読本・建久六年・・・正治元年
DSCN3001.jpg
たしかに一度は散失して多くの欠巻を生じてしまった事には何の疑問もない。   しかし、北条本系統の巻首にある目録に載せられている全五十二巻中、「第四十五巻・建長七年」 を、私たちが現在すでに見ることが出来ない。  「吾妻鑑」 は系統別に何系統かの書写本が存在する。

しかし、他の欠巻部分もこれと同じであったとして良いのだろうか。・・・?
幕府の創始者・源頼朝の死にまつわる、建久七・八・九年(1196~1198)の、三年間の空白。   次に京の院政政権との外交交渉、その成果である十月宣旨、挙兵以来の有力者・上総介広常(hirotune)の誅殺に見られるように幕府成立期の最も波乱にとんだ時期として重要な寿永二年(1183)の欠巻は見逃せない。
源頼朝像(青年期)・・・・鎌倉・源氏山公園
DSCN2877.jpg
頼朝・挙兵の碑・・・・伊豆の国市・願成就院
源頼朝挙兵の碑


そして北条氏執権政治の盛時を創りあげた指導的政治家・北条泰時の死亡年である仁治三年(1242)の欠巻。・・・・・
確かに原因のはっきりしない僧徒の乱闘や殺害が多発する騒動が鎌倉中に起り、幕府はその騒動を鎮圧したと記録に残される。

以上のような欠巻がはたして単なる偶然的な散失なのか、他に何等かの隠された理由があったかは、全くの謎である。    北条氏の執権政治を擁護する立場から「吾妻鑑」 を編纂する編纂者の作業は、真実の歪曲、美化、或は隠蔽という極めて困難な作業で有ったかは、容易に想像できる。

結果的に未完成のまま終わってしまい、欠巻となった事が大体想像できるが、もう少し欠巻部を調べて見る必要がありそうだ。  まずは建長元年(1249)の欠巻についてはどうであろうか、・・・特に大きな事件もなかったようだが、、強いて探せば、執権・北条時頼による訴訟制度の改革、幕府による引付の設置が挙げられるが・・・・・・。

次に正元元年(1259)、この正元という年号は単年で改元されている、なぜ単年で改元されたかは疑問である、推測してみると、前前年に起きた大地震により神社や仏閣,人家に大きな被害を受けていた。  その翌年には大洪水が起こり、家屋が流され溺死者が出るなど自然災害が頻発した。   年号を単年で改元した事と、自然災害が多発した事ととの因果関係はどの様に解釈するべきか?    
さらに「吾妻鑑」の欠巻との関りは・・・・・・。

弘長二年(1262)~文永元年(1264)  文永元年に執権・北条長時(nagatoki)が死亡している、代わって政村・時宗が執権・連署に就任した。   「吾妻鑑」の編纂と密接な関係があったとされる両者が、執権・連署就任に際して、将軍宗尊親王の廃立事件へと結びつく何等かの政治的権力闘争が想像されるが・・・・・・。

文永三年(1266) になり宗尊親王が廃され、宗尊の子、惟義親王(koreyosi)が任官した。     北条時宗・政村・金沢実時(sanetoki)・安達泰盛(yasumori)による「神秘の御沙汰」 が行われた。

この文永三年の記事で「吾妻鑑」 は終わっている。         次回へ

戊戌・甲寅・丁未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」

2018.01.11(07:00) 118

●  今年も宜しくお願い致します。
●  鎌倉幕府五代執権・時頼から八代執権・時宗まで・・・・・・・。 宝治合戦・元寇の襲来等をレポートしてきました。  九代貞時以降~幕府滅亡~鎌倉府~関東管領以降戦国時代までの鎌倉は又別の機会に・・・・・・・・・。
昨年6月に中断しました「吾妻鑑」 をまた違った角度からレポートする予定です。
前回までのレポートと重複・矛盾等がある事と思いますが、悪しからず、ご容赦願います。    



**「吾妻鑑」 と金沢文庫との関係

鎌倉時代の歴史を調べるのにまず挙げられるのは、幕府創設以来の歴史を日記体で記された歴史書「吾妻鑑」であろう。
この歴史書は色々の意味で興味深い本なのであるが、残念ながら文永三年(1266)で終わっている。

文永三年に絶筆になってしまった「吾妻鑑」 に代る貴重な資料として、横浜市・金沢区にある金沢文庫「金沢文庫古文書」 は有望である。    (既に解析され研究が進んでいる)

金沢文庫は鎌倉時代の中期、700年前の北条氏執権政治の盛期を作り上げた、幕府三代執権・北条泰時(yasutoki)の弟・実泰(saneyasu)は、鎌倉の東にあった武蔵国六浦荘(muturasou)を与えられた。   実泰の子、実時(sanetoki)の時代に六浦荘内の金沢村に別邸を建てたのが始まりで、蔵書を納める文庫を邸内に造ったのがその起源とされる。
金沢・称名寺に併設される  県立・金沢文庫
DSCN2389.jpg
金沢(北条)実時は幕府の要職を歴任しただけでなく、学芸を好み、京都から下った学者に付いて学び、学問の修得に熱心であったようだ。  また、邸内に称名寺(siyoumiyouji)を建立するなど、当時としてはかなりのインテリだったと思われる。   以後、金沢文庫と称名寺は同じ邸内にあって、歴代の顕時(akitoku)・貞顕(sadaaki)らの庇護を受けつつ相互に関係を保って発展していった。
金沢称名寺・山門
DSCN2368.jpg
称名寺庭園
称名寺庭園
DSCN2375.jpg

「金沢文庫・古文書」 は、文庫に伝わる総計四千通にもなる文書の総称である。   その多くは紙が貴重品であった当時、手紙などに使用された後、再び手紙の裏を使って別の書物などを書写した為に残された,「紙背文書」(sihai・monjiyo)である。
差出人が誰か不明なものが多いが、実時の子孫の金沢氏の一族や称名寺の僧侶たちの往復書簡が多くを占めている。   金沢氏が北条氏の一族として幕府内の重要な地位に有り、特に貞顕は後に執権に就任する程の活躍を示したので、自然幕府内の重要な文書・政局の機微に触れたものが多い。

貞顕から子の貞将(sadamasa)に宛てた手紙に当時の鎌倉の様子を伝えた「田楽之他事無く候」 などと述べて「太平記」 等にも伝わる北条高時(takatoki)(14代執権)の田楽への熱中ぶりを伝えた手紙なども有名である。   その高時が執権を辞任した後、執権の座に就いた貞顕だが、幕府内部の複雑な政争のあおりの中で、就任一か月で辞職、出家するまでの事情の一端をもたらした書状なども貴重なものだ。
断片的ではあっても正に事態の真実が表れているわけで、「吾妻鑑」のような編纂された歴史書では無いだけに鎌倉末期の、特に幕府内部の政情は、この「金沢文庫古文書」 無しには語れない貴重な史料である。

現存する「吾妻鑑」 諸本の多くは「金沢文庫御本」 を書写した古写本の系統を引くものであり、「吾妻鑑」 の編纂と金沢氏一族、金沢文庫との間には緊密な関係が有ったと言って良いだろう。・・・

「吾妻鑑」 叙述の基調があくまでも北条氏執権政治の立場の上に置かれている事は、金沢氏の性格上当然と言えるが、御家人のうち特に安達氏の行動に多くの焦点があたっている感があり、当時の幕府内にあって、御家人を代表する安達泰盛と金沢氏とは婚姻関係においても深く結ばれている関係から、金沢氏を主体とする「吾妻鑑」 の編纂説によって容易に解釈できる。

少し、詳しく検証しますと、「吾妻鑑」 の編纂された年代は大きくⅡ期に分けられている様だ。
前半は、文永年間(1264~75)までに編まれ、後半は正応三年(1290)~嘉元二年(1304)までに編纂された。   (定説)
前半部と後半部の編纂年代の間には、かつての幕府実力者・安達泰盛の派閥が討伐された弘安八年(1285)の霜月騒動があり、金沢顕時もこれに連座、下総国に配流されたが、十年足らずで赦免され、政界に復帰している。
この事件こそが、前半部と後半部の編纂年代の問題を説明していると思われる。   このように考えると金沢氏一門の「吾妻鑑」 編纂説は有力と思われるが、どうであろうか、・・・・・とにかく金沢文庫と金沢・称名寺の歴史的意義は大きい。
この問題はまだ不明な点が多く、さらなる研究と、新しい発見が待たれる。  次回へ

戊戌・甲寅・癸卯

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2018.01.07(07:00) 117

**霜月騒動

弘安七年(1284)4月、泰盛と頼綱の対立を押さえてきた時宗の死は、政治権力の主導権を巡っての対立が激化するきっかけとなり、泰盛の政治改革の失敗を契機に、ついに弘安八年(1285)11月、鎌倉幕府の政治史上画期的事件と云われる「霜月騒動」 が起こった。

翌年には、互いに自身の立場を主張、貞時(若い執権)に讒言し合ったという。    そうした中泰盛の嫡男宗景(munekage)が、曾祖父の景盛(kagemori)は実は右大将源頼朝の子であると主張し、その事を理由に源姓に改姓したと云う。   頼綱はこれをとらえ、「宗景は謀反を起し自分が将軍になろうとしていると、貞時に訴えた」 事が知られる。

これによれば、安達氏が少なからず現将軍にとって代わろうとする意志があった事を推測させる。 これに関して頼朝が所持していた名剣「鬢切」・(binkiri)を安達泰盛が密かに所蔵していた事が伝わる。
安達氏が日頃からいかに源家将軍に深い関心を寄せていたかを思わせる事柄である。

一方、頼綱の言葉巧みな訴えは、若い執権貞時の心を動かし、貞時が泰盛誅殺を許可した為、頼綱の動きは早く、軍勢指揮権のある侍所所司の地位を利用して、軍勢を整え始めた。

弘安八年(1285)11月、鎌倉中に異変が起こったようだ。・・・・・不穏な動きを感じた泰盛が、貞時館に向かった時に、御内人たちの襲撃を受けた事から衝突が起こり死傷者がでた。    これをきっかけにして戦火は鎌倉中に拡大し、将軍御所も炎上するという激戦になったが、午後には泰盛方が敗れ、泰盛以下嫡男宗景・弟長景・時景ら安達一族は、そのほとんどが討滅された。

*この事件は、11月。霜月にに生じたので、普通、霜月騒動、或は弘安合戦、秋田城介の乱と呼ばれる

この事件で、権勢を誇った安達泰盛は、弘安の改革に反発した平頼綱を中心とする御内人勢力に滅ぼされて五十五歳の生涯を終えるが、事件に関連して泰盛と共に滅ぼされたのは、どの様な人々であったか検証した。

安達一族の他、安達氏同族の大曽禰宗長(munenaga)、泰盛の母の実家甲斐源氏小笠原氏や足利(吉良)満氏(mituuji)、三浦氏一族の佐原頼連(yoritura)、さらに引付衆の二階堂行景(yukikage)や武藤景泰(kageyasu)、大江泰広(yasuhiro)・盛広(morihiro)らの大江一族、そのほか田中・小早川・天野・伊賀などそうそうたる有力御家人の名が連なっている。   その他の御家人を含め合わせると500余人が討伐されたり、自害した。

通説は、大多数の御家人が泰盛派に付いたと思われ、霜月騒動は泰盛を代表とする御家人層と、頼綱を代表とする御内人層との対立であると考えられてきた。・・・・・当然、この中には泰盛を深く信頼していた泰盛派の御家人も多くいたに違いない。  しかし近年、通説に対し、それだけの御家人が泰盛派であるならば、騒動の勝敗は逆転していたのではとの疑問が出ている。

弘安の改革は、御家人層を分裂させたこともあり、御内人代表の頼綱に味方した御家人もいたと考えられ、大多数の御家人が泰盛派とすることには問題がある。   御内人の代表頼綱に味方した御家人も多数いた事が、泰盛派が滅ぼされた要因と見るべきだろう。

この事件は、鎌倉で起こった事件にとどまらず、戦火は全国に及んでおり、特に九州では激しい戦いが行われた。  騒動の余波は全国に波及した点から見ると、泰盛の権勢はなかなか強大であり、泰盛がかなりの外様御家人から支持を得ていた事が推測される。
事件後の鎌倉では、北条一門で評定衆の金沢顕時(akitoki)が、泰盛に連座していた事から下総国に流された。 他に宇都宮景綱(kagetuna)、長井時秀(tokihide)など計五人の評定衆と七人の引付衆が排除された。

霜月騒動の結果、泰盛派勢力は没落し、北条氏得宗とこれを支える御内人勢力によって行われる得宗専制政治の体制が確立された。  その後御内人代表の頼綱に依って幕府の実権は約七年間にわたって掌握された。          (内管領の専権)

時宗の死後約十年の間に、泰盛が滅び、頼綱も滅び去って、時宗の時代に権勢を有した実力者のほとんどが消え去った。   その後、得宗専制体制の完成を目指して、得宗・貞時の新しい政治が始動したのです。   

鎌倉幕府八代執権・北条時宗公・廟所   円覚寺・佛日庵      
DSCN3342.jpg
鎌倉・北条氏家紋 三つ鱗鬼瓦  (前代・円覚寺方丈)×2   
DSCN3349.jpg
円覚寺方丈・白槇〈ビャクシン)    創建当初?
DSCN3348.jpg
円覚寺・舎利殿(国宝)・特別御朱印
DSCN3341.jpg


 終り

戊戌・甲寅・乙亥

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2018.01.03(07:00) 116

***明けましておめでとうございます。  今年も宜しくお願い申し上げます。    mituuroko***

**弘安徳政

幕府は貞時(九代)が執権についていた。  その後、外様と御内の対立が激化し霜月騒動に至る間、幕府は貞時の外祖父という立場から、安達泰盛が主導して「弘安の徳政」 と呼ばれた政治改革を断行した。

時宗の死後半年もたたずに、改革の綱領ともいうべき新式目三十八ヵ条が制定された。   制定者は安達泰盛と推定されるが、泰盛は時宗没後の政治的動揺に対処することを主眼に制定したのであろう。 

その内容だが、鎮西九国社領の売買の停止、鎮西九国の名主への御下文の発給、諸国国分寺一宮の興行、越訴奉行の設置等、政策的要素が多い。   これらの政策を実現するための具体的法令が次々に立法化されたのである。

新式目制定の目的について、研究者は前半十八ヵ条と後半二十ヵ条は奏上対象を異にしており、前半は得宗・北条貞時(sadatoki)、後半は将軍・源惟泰(koreyasu)を奏上対象とし、「得宗の地位を将軍に準じるものとして法的・公的に確立するとともに、将軍権威を再確認する事にあった」 との新たな見解を示され、さらに、安達泰盛の構想した政治体制は、源氏将軍の下で北条氏得宗が実権を掌握する体制であったと推定している。  

さて、安達泰盛が目指した弘安の徳政改革は多方面にわたるが、(1)一宮・国分寺興行令 (2) 関東御領興行令 (3) 悪党禁止令 (4) 倹約令  等10項目で、他に臨時の公事は御家人に課税してはならない、鎌倉を始め寺社の修造を行うなどの政策も発令されたとし、御家人を保護するものであるとされた。

モンゴル襲来を契機にこれまで弱体であった西国の本所一円地(honsixyo・itienti)に対する支配を強化させ、飛躍的に拡大した幕府の権限をどう定着させるかにあったからである。  具体的のは、戦闘に加わった九州の非御家人と寺社への恩賞問題の対応であったと考えられる。  

そのため幕府は、三人の引付奉行を九州に派遣し、九州の有力御家人大友頼泰(yoriyasu)等と組み合わせ「徳政御使」 として任務を実行させた。

対モンゴル戦に擁した戦費の調達の為に売却・質入れされた神領をすべて無償で神社が取り戻すというもので、モンゴル襲来時の祈祷という行為への恩賞の意味を持つものであり、関東下文により安堵するというものであった。  また、その時に新たに幕府の支配下に入った本所一円地住人たちの戦闘への恩賞の意味をもつものであった。   これにより幕府は、彼らの恩賞要求に応じながら、主従制──人的支配を拡大し、鎌倉政権の基盤を御家人のみならず、すべての武士階級へと拡大しようとしたのであろう。

こうした政策に端的に示されるように、泰盛が主導した弘安の徳政は、モンゴル襲来という脅威ののもとで、東国御家人中心の政権に過ぎなかった鎌倉幕府を、全国統治権力へと発展させる事をめざしたものと思われる。   しかし、こうした御家人制の拡大は旧御家人層の反発を招き、御家人層の分裂をもたらした。
さらに泰盛が主導した政治改革は、御内人、御家人の両方からの反発に逢って、ついに挫折し、泰盛の理想とした政策は実現しなかった。    次回へ
鶴岡八幡宮・一の鳥居  (鎌倉・由比ヶ浜)~本殿
DSCN2886.jpg
一の鳥居~本殿
DSCN2888.jpg
八幡宮・若宮大路~本殿
DSCN2885.jpg

戊戌・甲寅・乙未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


時宗の政治その後 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
2018年01月
  1. 鎌倉幕府の歴史書(01/31)
  2. 鎌倉幕府の歴史書(01/27)
  3. 鎌倉幕府の歴史書(01/23)
  4. 鎌倉幕府の歴史書(01/19)
  5. 鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」(01/15)
  6. 鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」(01/11)
  7. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(01/07)
  8. 鎌倉幕府八代執権・北条時宗(01/03)