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幕府滅亡

2018.02.28(07:00) 130

**鎌倉幕府滅亡へ

  安東氏の乱の最中、後醍醐天皇の討幕の密計が露見し、天皇側近の日野資朝(suketomo)、日野俊基(tosimoto)らが捕えられ鎌倉に送還された。    (正中ノ乱)
後醍醐天皇側近・少納言日野俊基卿終焉の地  (鎌倉・葛原ヶ岡神社)
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正中三年(1326)3月北条高時の病状が悪化し、執権を辞し出家した。    幕府は長崎高資等の意向で連署の金沢貞顕を横滑りさせて対応した。   しかし、貞顕の執権在任は、長くはなかった。  在任10日間で執権を辞している。
高時の弟康家(yasuie)、その生母の大方殿(大室泰宗娘)及び安達時顕らが、反対したからだ。

若干の混乱の後、新体制が発足した。  新執権は赤橋流・北条守時(moritoki)、連署は常盤流・北条維貞(koresada)と決まった。 しかし、政務はこれ迄と変わらず、すべて得宗家の前執事長崎円喜の専断となっていた。

**元弘ノ変

  元弘元年(1331)4月、後醍醐天皇の再度の陰謀が発覚したとき、円喜の専断は成功した。  八月には比叡山を攻略し、九月には笠置山で天皇を捕え、楠木正成の赤坂城を陥落させた、さらに後醍醐天皇は退位して、隠岐島に配流された。  (元弘ノ変)

 後醍醐天皇の後、持明院統の量仁(kazuhito)親王が即位して光厳天皇(kougon)となり、正慶元年(siyoukiyou)と改元したが、隠岐に流された後醍醐天皇は、元弘年号を用いて、密書を諸国に送っていた。 そして護良親王・楠木正成等の宮方も動き始めていた。

**幕府の崩壊

正慶二年(1333)2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出すると、俄かに宮方の動きは活発になる。 一方、幕府側は京都の拠点・六波羅探題を中心に防御力の増強を図りつつあった。  時の六波羅探題は北方が北条仲時(nakatoki)・(執権・基時の子)28歳、南方が北条時益(tokimasu)(元北方時敦の子)であった。

幕府は京都の守りを固め、さらに船上山の後醍醐天皇を討とうと、鎌倉から名越高家(takaie)・足利高氏(takauji)を派遣した。 
4月に入って八幡・山崎辺りに陣取る宮方の武士団と戦闘になり、激しく戦ったが、幕府方の武将・名越高家が敗れ戦死。一方の高氏はその報告に接し、軍を山陰道方面に進め、山城・丹波の国境に至ったところで後醍醐天皇側に付くことを明らかにし、諸国に強力を呼びかけ宮側に付いたようだ。

足利高氏の反乱軍と宮方の軍勢が京に進軍すると、六波羅まで追い詰められた両探題は天皇・皇太子・両上皇を伴って鎌倉に下ろうとしたが、東山道番場宿で合戦となって430名が戦死ないし自害したと、付近の寺院の過去帳に記録が残される・・・・・・。

足利高氏が幕府から離反した事で、それまで幕府の統率に従っていた多くの御家人が同じく離反し始めたのだ。 
一方東国では新田義貞(yosisada)が上野(kouzuke)で挙兵し、南下して武蔵に進み、多摩川の分倍河原(bubaigahara)において幕府軍を破った。 分倍河原の戦いが転換点となって、関東においても、これまで幕府の統率下にあった御家人たちが幕府を攻撃する側に転じていったのである

鎌倉の西の端、稲村崎の守りが破られ、戦場が鎌倉中に移り、得宗高時が引き籠った葛西ヶ谷(kasaigayatu)が戦場になり、高時は自刃し近臣達はその死骸が発見されぬように折り重なって自害し火を放ったという。(東勝寺・高時腹切りやぐら)
龍刃伝説・稲村ケ崎・・・・・稲村の富士
稲村ケ崎・石塔
2018・初富士
幕府終焉の地・東勝寺跡・・・・・・北条高時腹切りやぐら  (鎌倉・小町)
高時・やぐら
高時・東勝寺

鎌倉北条氏の得宗政権はここに滅亡した。

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幕府滅亡

2018.02.24(07:00) 129

**鎌倉幕府・滅亡へ

**北条高時執権となる

正和五年(1316)七月、従五位上佐馬権頭・北条高時は、第十四代・執権の座についた。   連署には前年に就任した金沢貞顕が、そのまま留任。
執権高時、連署貞顕という体制は、その後10年間も続く。 
横浜市金沢・称名寺   金沢貞顕公廟所
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しかし政務の実権は、執権・連署ではなく長崎円喜と安達時顕の二人が握っていた。   因みに時顕の子高景(takakage)は、円喜の娘と結婚していたから、円喜と時顕は姻戚関係となっていた。

高時が執権になった頃、円喜は高齢を理由として、得宗家執事という職を息子の高資(takasuke)に譲ったが、実権は残された。
若い執権に若い得宗家執事という体制を表に出して、政務の実権は円喜が握っていたのである。
五山第二位・円覚寺(北条氏三つ鱗紋瓦)方丈
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国宝・舎利殿特別朱印 (鎌倉・円覚寺)
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**奥州安東(andou)氏の乱

  後醍醐天皇に討幕を決意させた契機は、奥州安東氏の乱だったかもしれない。
かつて北条義時(二代)は、得宗領の多かった陸奥国北半支配の為に御内人の安東氏を代官に任じて津軽に置き、奥羽両国及び渡島(osima)の蝦夷支配にあたらせた。  (蝦夷管領)

 その後、安東氏はこの職を世襲したが、鎌倉末期に至って、二系に分流した。   嫡系の貞季(sadasue)は十三湊(tosaminato)に福島城(青森)を築いて津軽安東氏と称した。  庶系の宗季(munesue)・季久(suehisa)兄弟は出羽国に勢力を置き秋田安東氏と称した。

 必然的に両安東氏の間に、家督と蝦夷管領の職とを巡って対立が生じた。  ともに得宗家公文所に訴訟して出た。
この時得宗家執事であった長崎高資は、双方から賄賂ををとって事件を解決しなかったで、対立は激化してしまった。
この状況を見て蝦夷が叛乱したのである。   両安東氏と蝦夷との三勢力の間に、三つ巴の合戦となった。  奥州安東氏の乱である。

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幕府滅亡

2018.02.20(07:00) 128

**鎌倉幕府・滅亡へ

**北条高時元服

 永年の幕政改革の努力に疲れ果てたのか、夭折する子らの不運続きにヤケを起したのか、原因は判らないが、政務を放棄し、連日酒宴を催し、贅沢をして暮らすようになった。

いずれにしても世情は、すでに騒然たる状況を呈しつつあった。   天下に悪党が横行し、天皇家は持明院・大覚寺両党に分立して争っていた。

延慶二年(1309)正月、ようやく生き残った四男成寿丸(seijixyumaru)が、七歳で元服して高時(takatoki)と名乗った。  
この時までに兄三人はみな夭折していたのである。
一見、政務を放棄してしまったかのような貞時であったが、幼息高時の為にには、それなりの布石は打っていたようである。  高時の乳母夫の長崎高綱(takatuna)を重用して、早くから得宗家執事に登用した上に、幕府の公職である侍所の所司にも任じている。
また高時を早くに結婚させたのも、布石の一つだったかも知れない。 元服した直後に、高時は結婚したらしいのである。  高時の岳父として高時を支える任を与えられたのは、安達時顕(tokiaki)だった。

つまり、長崎高綱と安達時顕の二人が、来たるべき高時政権のブレーンたるべく、貞時は手を打っていたのである。

この頃の、寄合衆の構成は次のような顔ぶれであった。

〇 得宗・北条貞時
〇 執権・北条師時
〇 連署・北条宗宣
〇     北条煕時(hirotoki)
〇     北条貞顕(sadaaki)・(金沢)
〇     長井宗秀
〇     安達時顕      
 以上七名

時頼の頃の寄合衆は、四人程度であったが、七人に増加している。   また奉行が一人、合奉行が二人いて、組織も整ってきたことが解る。
七人のうち一人は得宗であり、四人は北条一門で、一人は高時の岳父である。 これは北条一族の支配原理がそのまま幕閣に導入されたに等しい。  しかも合奉行二人というのは長崎高綱と尾藤時綱、共に御内人であった。

*長崎高綱・・・・延慶年間(1308~10)には出家して法名を円喜(enki)と名乗り世間は「長入道・長禅門」等と呼んだらしい。

しかし、高綱(円喜)が幕政に関与し続けた事はもちろんである。

何れにしても、貞時が連日酒宴に耽ったとしても、幕政が充分機能するだけの体制は出来挙がっていた。  この体制は、そのまま次期政権・高時の時期に引き継がれる事になる。

 応長元年(1311)十月、北条貞時は死んだ。   41歳。 廟所は父時宗と同じで、鎌倉・円覚寺の仏日庵(butunitiann)である.。
鎌倉五山第二位円覚寺・仏日庵(北条時宗・貞時父子の廟所)
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死に臨んで、貞時は長崎円喜と安達時顕の二人に高時や世事を二人に託したという。   得宗の座を嗣立した高時は未だ九歳、政務の実権は得宗家執事の長崎円喜、高時の岳父である安達時顕とが、北条一門で固められた寄合衆を領導して、幕政を運営する事になる。

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幕府滅亡

2018.02.16(07:00) 127

**権力の空洞化

**最後の幕政改革

 いかに平頼綱の権勢が強大だったにせよ、それは得宗・貞時を擁していたからに他ならない、貞時が若年だったからだ。
得宗になった時14歳だった貞時も、九年たった永仁元年(1293)には23歳の青年になっていた。
 当然、自分の身分や立場も理解出来る存在になっていた、自分なりの幕政改革の理想も心に描いていたでしょう。  その理想を実現しようとすれば、必然的に頼綱と衝突する事になる。

そして永仁元年4月、事件が起きた。   頼綱の長男・宗綱(munetuna)が、父頼綱と弟飯沼資宗(sukemune)との陰謀を密告してきたのである。
頼綱は資宗を将軍にしようと謀ったようだ・・・・・。

何れにしても貞時は、果敢であった。   謀議が発覚すると同時に北条一門の武蔵七郎などの討手を、頼綱父子の邸宅(経師ヶ谷)・(材木座二丁目)に差し向けた。  頼綱‣資宗父子は邸宅で自害して果てたという。
また、一族郎党九十三人が、燃え盛る邸宅と共に討ち死にした、中には貞時の娘二人も含まれている。       (平禅門の乱)

*平禅門(heizenmon)・・・・平頼綱の法名

父と弟とを密告して出た平宗綱は、佐渡に配流になったが、後に許されて鎌倉に戻っている。

頼綱を倒して実権を回復した貞時は、青年らしい潔癖さで、幕政の改革に着手した。  直後に出された法令は、頼綱執政期の失政を匡事を狙ったものであった。

まず評定衆、引付衆、奉行などに収賄を禁じて綱紀の粛清を図り、裁許の迅速化を目指し、領家・地頭間の中分を勧めて寺社や公卿との矛盾の減少に努め、無足になっていても三代以前に御家人であれば、御家人として認めようとした決定だ。

*無足・・・・領地を失った御家人

貞時が次にとった政策は引付を廃して七人の執奏を置き貞時自身が政務を直談する事になった。
●  政村流・北条時村(tokimura)
●  名越流・北条公時(kimitoki)
●  金沢流・北条顕時(akitoki)
●  大仏流・北条宗宣(munenobu)
●      北条師時(morotoki)・・・・時宗弟・宗政(munemasa)の嫡男
●       宇都宮景綱(kagetuna)
●  大江氏・長井宗秀(munehide)


かつて弘安合戦直後に下総に配流されていた金沢顕時が返り咲いているように、北条氏一門の勢力が回復しているのが目立っている。

何れにしても得宗の政務直断は、先例の無い事だった。  さすがに引付制度は翌年には復活するが、貞時の重要政務直断制には、変わりはなかった。 貞時の独裁と言う事である。

貞時の実権回復と幕政改革とは、一般からは評価を得たらしい。  頼綱の恐怖政治下で出されなかった訴えが続出した様だ。
何れにしても貞時の政治は、御家人保護を基調としていた。 永仁五年(1298)に出された徳政令が有名な「永仁の徳政令」 である。
弱小御家人が売却、或は質入れした所領を、無償で取り返しても良いとした条文を根幹としたものであり、さらに御家人所領の売買質入れの禁止、及び利息関係訴訟の不受理なども定められた。

ちなみに蒙古襲来前の文永年間、北条時宗は、借りた額だけ返済すれば利息無しに質流れした所領を取り返してよいとし、さらに文永の役前には、借金を返済せずとも質流れした所領を取り返してよいと定めている。
貞時の出した徳政令は、以上の二例の延長上に位置するもので、質流れ所領の取り返しを御家人のみに認めて、貧窮御家人の救済を図ったのである。
八幡宮参道・段葛石塔  (鎌倉・雪ノ下)
段葛
八幡宮・二の鳥居 (鎌倉・雪ノ下)
二の鳥居

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幕府滅亡

2018.02.12(07:00) 124

**権力の空洞化

  全国に波及した霜月騒動(弘安合戦)の結果、幕府は御内人(miutibito)集団の手中に転じた。
弘安合戦は、惨烈を極めた。    指揮したのは若年得宗・貞時(sadatoki)を擁した得宗家執事の平頼綱(yorituna)だった。  後に出家して平禅門(zenmon)と称した。
その政治は極めて惨烈だった。  頼綱が布いた恐怖政治は徹底していた様だ。
 その頼綱が意外な事をしたのは、弘安十年(1287)だった。  さきに臣籍に降って源惟康(koreyasu)となっていた将軍を、皇籍に戻すよう朝廷に願い出たのである。  もちろん、すぐに勅許が下り、七代将軍は二品親王となった。
自分が戴く将軍が皇族という事で、頼綱は自分の権威付けを図ったのかも知れない。

 正応二年(1289)突然、将軍惟康親王が更迭され京都に追却されたのである。   代わって持明院統・後深草上皇の第六皇子、久明親王(hisaakira)が、八代将軍として下向してきた。  これも頼綱を首班とする御内専制政権に、何ほどかの権威を与えたかもしれない。 

 同じように頼綱は、主君・貞時(sadatoki)にも、箔をつけようとしている。  将軍の代替わりの前、既に19歳で正五位下となっていたが、半年後には従四位下に昇叙されている。  これは破格の事で、かつての義時(yositoki)の従四位下、泰時(yasutoki)の正四位下を除いて歴代の得宗は正五位下であった。
頼綱は貞時に、この壁を超えさせたのである。
北条義時公(第二代執権)法華堂跡   (鎌倉・雪ノ下)
義時・法華堂跡
北条泰時公(第三代執権)墓碑    (鎌倉・大船常楽寺)
泰時公‣墓石

*御内人による恐怖政治

外様御家人たちを怖れさせたのは、頼綱が御内人に彼らを指揮監督させた事だった。
九州統括の為博多に置かれた鎮西談議所は、少弐(siyouni)、大友、宇都宮、渋谷など、外様の御家人が奉行であった。  その奉行たちが密告され、実情調査の為、御内人が九州に派遣されるような事態になっていた。

また、寺社と京下りの訴訟事務が渋滞しているとの訴えに、引付衆や奉行は急ぎ判断する様に命じられた。  この時、長崎光綱(mitutuna)等5人の御内人に勤怠を監督する権限が与えられた。
このような例は、泰時(yasutoki)の巡察使、時頼・時宗の廻国使に連なるものだろう。   引付衆や奉行ですら指揮監督されたのだから、一般の外様御家人に対しては、さらに厳しかったと思われる。

この様な強権を振るう御内専制の首班が、得宗貞時を擁する平頼綱だった。   当然のことながら彼の権力は、極めて強大であった。   彼の権勢について「平左衛門(頼綱)入道、驕りのあまりに、(略)今は更に貞時は代に無きが如く成りて」 と噂された。

しかし、頼綱の執政期に施行された法令などから、頼綱が得宗貞時の権力強化に尽力した事は明白である。

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鎌倉幕府の歴史書

2018.02.08(07:00) 126

**「吾妻鑑」・「鎌倉北条氏」

  *吾妻鑑が伝えた「鎌倉北条氏」・まとめ

  鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」 は鎌倉北条氏あるいはそれに近い人たちによって編纂された考えられています。   編纂された時期は13世紀中頃~14世紀初頭と言われています。   原本は未発見である。

現在私たちが観られるのは数系統ある「写本」またはその写しである。  (該当ヵ所参照)

 先祖の系譜すら明らかでない伊豆の土豪的武士団・北条氏は、婿に取った流人頼朝が鎌倉幕府の創始者となった事から、武家政権の権力の座を目指すレースへの参加資格を獲得した。

北条氏の庶子北条(江間)義時(yositoki)は気付いた時には戦いの渦中に身を置いていた。  頼朝没後に始まる熾烈な御家人間抗争は剥き出しの権力闘争以外のなにものではなく、義時は押し寄せる災難を振りはいながら戦い続けた。
結果として義時は勝ち続け義時の地位は押し上げられていった。  父や義母すらも打倒し、多くの人々を殺害し、義時はこの抗争の勝利者となった。  さらに承久の乱に勝利したのである。

追討宣旨を蒙りながらも、勝利した義時は後鳥羽上皇以下、三上皇を配流し天皇を廃位するという空前絶後の処置を断行する。
これもまた現実の権力闘争の結果であった。    この結果は義時に頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を与え、義時の直系である北条氏得宗(tokusou)を鎌倉幕府の支配者たらしむ正統性の源泉となった。

頼朝没後の内部抗争は、源氏将軍家断絶という結末をもたらした。  これによって源氏将軍家の世襲という道は閉ざされ、将軍家を摂関家・藤原氏、さらに皇族へと変遷させていった。

その事は、将軍に代って幕府の政務をとる執権という役職を生み出した。   将軍と執権は幕府の権力を巡って対立を繰り返したが、やがて執権を世襲する北条氏の家督「得宗」 (tokusou)が、将軍を装飾的な存在に祀り上げ、幕府の実権を握るに至ったのです。

この様な政治体制が倫理化され、正当性が完全に付与されたのは、義時の玄孫・時宗(tokimune)の時代になってからである。 
時宗は生まれながらの得宗なるがゆえに、蒙古帝国と対峙する運命を背負ったのである。

父祖が築き上げた得宗への権力集中を成し遂げ、「将軍権力代行者」 となった時宗は、自身の権力を保証し、自己の必勝を確信させてくれる拠り所となる倫理を求めた。  すなわち、北条得宗家は、鎌倉将軍の「御後見」として幕府と天下を支配したのである。 (つじつまを合わせる事)

「鎌倉北条氏は、なぜ将軍に成らなかったのか?」という質問に答えるならば、北条得宗家は将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、又成りたくもなかったのではあるまいか。?

だが、時宗によって完成され頂点に達した得宗権力は、自身の死によって形骸化の道を歩みだし、以後の鎌倉政権は迷走と混乱の果てに沈滞に陥り、やがて瓦解の時を迎えました。



運慶展・開催中 (金沢文庫)金沢文庫
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中世・トンネル (金沢文庫と邸宅をトンネルで遮断)
中世・隧道
中世トンネル

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鎌倉幕府の歴史書

2018.02.04(07:00) 125

**「曽我物語」と「吾妻鑑」

  成立年代は共に鎌倉末期。   一方は曽我兄弟の敵討ちを題材にした物語、もう一方は鎌倉幕府を取材した実録である。
このように同時代に創作、編纂された歴史書であるが、「曽我物語」は「吾妻鑑」の前史を記述すると共に、将軍頼朝のほぼ全時代を物語っている。  さらに幕府成立時代の「吾妻鑑」には記述の無い事柄までを語っている。
 「吾妻鑑」の欠落を補う事が出来るのだが、はたしてこの二つの作品は全く別々に作られたものなのか疑問が残る。

「曽我物語」について見てみよう、全十巻のうち第一巻は日本国の始まりを記して、平氏の流れ、源氏の流れを述べて、頼朝の時代となった事を語り、次いで伊豆国伊東氏一族の内紛を述べて、曽我兄弟の敵討ちの発端となった事件を描いている。

第二・三巻は、伊豆に流された頼朝が伊東から北条に移り、やがて鎌倉に入り関東の主となるまでを詳しく描いている。    第二巻の終りの部分で、頼朝と時政の接触があり、続く第三巻の全体で時政と頼朝が如何に結びついて、どの様に天下統一を成し遂げたかが描かれている。
まさにこれは、頼朝挙兵前史を正面から扱ったもので、「吾妻鑑」 の欠落部分を補完するものである。


四巻以後になると、曽我兄弟が工藤祐経(suketune)を敵と狙う中、三原・那須・富士野の狩場での関東の武士集団の活躍する姿が鮮やかに描かれ、そうした武士団の交流が描かれている。

さらに興味深いのは、曽我兄弟の成長と共に、鎌倉幕府が成長し、その成長に合わせて「曽我物語」 の記述も膨らんでゆく構成である。
兄弟の足取りは、上野・下野へと広がり、やがて富士野に勢揃いする武士は四ヵ国のほか、安房・上総・下総・常陸・下野・上野・信濃の御家人(豪族)たちである。

「曽我物語」と「吾妻鑑」との緊密な関係が明らかになってきた、「曽我物語」と「吾妻鑑」とは、北条氏を共通の基盤としているのである。
「曽我物語」もまた、北条氏の側から構想された物語の様だ・・・・・・・。

一方「吾妻鑑」の編纂にも金沢北条氏周辺の関係が関わった可能性がある事は、既にレポート済みである。
金沢氏は北条氏一門きっての文人武士であり、学問に精通する金沢実時(sanetoki)から顕時(akitoki)・貞顕(sadaaki)と続く文人一族が「吾妻鑑」を編纂する立場に近い・・・・・・。 
編纂に関わる記事が金沢氏周辺と結びつく。    同時代に創作された「曽我物語」も北条氏周辺の構想となるとその関連性は・・・・・・・・・・・。
金沢(北条)実時公・墓所  (横浜市金沢区・称名寺)
金沢実時墓
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金沢明時公・禎顕公墓所  (称名寺内・金沢氏邸宅跡)
金沢顕時・貞顕墓

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  1. 幕府滅亡(02/28)
  2. 幕府滅亡(02/24)
  3. 幕府滅亡(02/20)
  4. 幕府滅亡(02/16)
  5. 幕府滅亡(02/12)
  6. 鎌倉幕府の歴史書(02/08)
  7. 鎌倉幕府の歴史書(02/04)