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室町幕府

2018.04.26(07:00) 144

**鎌倉府

 **鎌倉公方・戦後処理

   上杉禅秀の乱の終結後、鎌倉府の主な課題は、禅秀与党の討伐、さらに、鎌倉府管轄国内の守護職に関する、幕府からの要請への対応であった。
初夏・切通し(亀ヶ谷坂切通)  山之内から扇ヶ谷に通ずる幹線道路(鎌倉時代)
DSCN3774.jpg

   まず、持氏による、禅秀与党の討伐について確認しておこう。  当初の持氏の方針は、禅秀に近い中枢部は徹底的に討伐し、その周辺については一部の所領没収で済ませるというものであった。  鎌倉府の管国支配全体に利用価値がある南関東の千葉氏や、奥州支配の要である白川結城氏を背景とする那須氏以外、禅秀の姻戚関係に対しては容赦のない対応をした。 さらに禅秀の本拠地である上総国に対しての処置も厳しかったようだ。

上総国で行われた徹底的な旧禅秀与党の排除は、単なる怨念だけではなく、その背景には、「幕府との政治的事情」と「持氏の主体的な分国支配方針」があった。

   幕府と密接な関係を有していた宇都宮持綱(motituna)の上総守護就任であった。
禅秀の乱の最中に、情報が錯綜する中、持氏方や今川方のルートとは別に、持綱は幕府と緊密に連絡を取り、関東の情勢を報告し、関東諸将への幕府の指示通達という、重要な役割を担っていたのだ。

  当初、鎌倉府は持綱の上総守護補任を強く拒否していたようであり、その後、幕府と鎌倉府との間で折衝が繰り返され、ようやく一年後に決着が為されたという。     ここで注目したいのは、交渉の結果よりも、宇都宮氏のような、禅秀の乱後に鎌倉府の牽制を目的に幕府から支援を受けた存在であり、史料上では、「京都御扶持者共」又は 「京都扶持衆」 と表現される、東国の武士たちの事である。

  実際、幕府からの「扶持」 といっても、所領などの介在は無く、軍事的な支援もなく、鎌倉府権力の増長を制御するという一点で結びついていた。  しかし、そのような彼らの存在が、幕府と鎌倉府との対立が深まる中で、京・鎌倉両府の沽券争いに油を注いでしまったのだ。

    持氏は、禅秀の乱を通じて受けた精神的な傷を克服すべく、禅秀与党を次々と討伐してきたが、初めは「報復」 というシンプルな行動であったし、鎌倉府政権内の問題でした。  ところが、討伐対象が、その回避のために京都扶持衆化していくにしたがって、幕府との外交問題となってしまったのです。

   その起点となったのは、やはり守護をめぐる問題です。   補任が強行された甲斐・常陸について、持氏が受忍した形跡はない。  実際に、甲斐では、隣国信濃の小笠原氏の支援を受けて、幕府方の武田信元(nobumoto)の入部が試みられたが、鎌倉府方・逸見氏などの抵抗に逢い失敗に終わっている。    その後、信元は没し、後継の信重(nobusige)が任命されるが、入国を怖れ、在京状態が続く事となる。

応永三十年(1423)、鎌倉公方・足利持氏(motiuji)は、京都扶持衆勢力の討伐の為自ら出陣した。  これに対して幕府は猛反発。  特に将軍・義持(yosimoti)の思惑には特別なものがあった。  それは、16歳で将軍に就任したばかりの義量(yosikazu) の存在であった。  問題は、義量の病弱の体質であった。 
息子の体質を考えると、自分の目の黒いうちに、何とか将軍家と鎌倉公方家の格式の別を確立しておきたいとの思ひである。

   義持は毅然とした態度をとるべく、宇都宮氏等の京都扶持衆に、関東の成敗には従わないようにと指示した。一方、鎌倉公方・持氏は与党討伐に軍勢を増派し、京都側の大名を次々に討ち、ついには、関東の京都扶持衆の中心的存在であった宇都宮持綱(motituna)までもが、その一族に討たれる事態となり 関東の京都扶持衆は大方滅んでしまったのである。

  次回へ


** 運慶小辞典

   〇  建久年間前半は「吾妻鑑」 に永福寺(youfukuji)造営の記事が頻出します。
永福寺(廃寺)は頼朝が文治五年に奥州藤原氏を滅ぼした際に見た平泉の寺々の威容を鎌倉に移そうとした寺で、三つの仏堂を翼楼でつないだ大寺院でした。
 やはり「転法輪鈔」 の記載から詳細が判明する薬師堂の造仏だけでも、丈六(480cm)の薬師如来に両脇侍の日光、月光菩薩、六尺の不動・毘沙門天像、等身の十二神将の計17体からなる大規模なものでした。
平成30年1月~3月・運慶展開催   神奈川県立・金沢文庫 
2018運慶展
  
 〇  永福寺は幕府の迎賓館としても使われていたようですが、鎌倉後期、度重なる戦乱によって火災に逢い、焼失、再建を繰り返した。  応永12年(1405)12月の大火では主な建物は焼け落ち、再建される事無く廃寺となってしまった。
   〇  昭和58年~平成8年にかけて発掘調査が行われ、寺院の規模や配置などが明らかになりました。  発掘された物の中から仏具、飾り金具、仏像片、仏像の飾り金具等が出てきました。   まさに、この金具類が現存する運慶工房制作の諸像の物と類似している事が判ってきました。      (同引用)

平成30年戊戌・丁巳・戊子
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室町幕府

2018.04.22(07:00) 143

**鎌倉府

**関東管領・上杉禅秀(氏憲)の乱

 応永二十二年(1415)4月、18歳となっていた足利持氏(motiuji)は、鎌倉公方としての主体性を顕示するかのように、些細な理由で、禅宗配下にあった者の所領の没収を強行した。 

  これに反発した禅秀が、関東管領職を辞職すると、持氏は、即座にその後任に山之内上杉家・憲定(norisada)の子息・憲基(norimoto)を任命した。 
  これは明らかに持氏による挑発行為であり、 これ以降、禅秀周辺での蜂起の準備は、静かに、そして広範囲に進められた。

   禅秀は病気を理由に出仕を控え、代わりに嫡子の憲方(norikata)(犬懸家)を鎌倉府に出仕させて、持氏を油断させていた。
禅秀は、秘かに自邸を抜け出し、足利満隆(mitutaka)並びに持仲(motinaka)と西御門の保寿院(hojiyuin)で合流、ここで蜂起したのです。 
幕府・大倉御所  西御門跡
西御門
  禅秀軍の動きに気付いた持氏は、未明に僅かな近臣とともに山之内上杉の憲基邸に移動した。   館と隣にある国清寺(kokuseiji)の防御が固められた。  戦端は、禅秀軍による国清寺攻撃によって開かれたが、本格的な正面対決は由比ヶ浜合戦であった。

*国清寺(廃寺)・・・・・諸説あるが、鎌倉円覚寺塔頭・如意庵の前身といわれるので山之内上杉邸付近が推定される

  この争いは、圧倒的に数的不利のもと鎌倉公方・持氏と憲基は、山之内家と関係の深い扇ヶ谷上杉家(oogigayatu)の氏定(ujisada)など、多くの有力武将を失って敗北し、箱根を越えて憲基の領国・伊豆へと落ちていく。 さらに激しい追撃を受け今川氏の領国駿河へ逃れ、上杉領国の越後まで落ちたと言われる。
関東管領・扇ヶ谷家跡及びその比定地
扇ヶ谷管領屋敷跡
扇ヶ谷

**幕府の反応

   関東の乱が京都に伝わったのは、10日位後の事である。  京都の情勢を伝える数々の日記類の記事から、上杉禅秀の蜂起があり、「足利持氏(鎌倉公方)邸以下、鎌倉中が焼き払われた」 等が伝えられ、「三島で合戦があり、そこで持氏と憲基が自害して果てた」と言うような情報も伝わる。  もちろん誤報である。

  これ等の報に大きく動揺したのは将軍・義持(yosimoti)だけではなかった。 全国諸大名の乱への関与の事情などが論議されたようだが・・・・・・・。
積極的な意見交換などは無く、結局、持氏救援の方向で決着した、「持氏は義持の烏帽子子(ebosigo)であるというのに、なぜ見放しておかれようか」 という、義持の叔父である足利満詮(mituakira)の強い提言によって決着したと言う。

  幕府は事態の打開のため、後に京都扶持衆(futisiyuu)と称される関東の親幕府派の武将を通じて、関東の正確な情報を確保したうえで、関東諸将に対して、持氏方への支援要請を発した。
こうした幕府の方策は、一旦は鎌倉を制した禅秀方の足元を次第に崩して行く・・・・、決定的だったのが、鎌倉防衛の雌雄を決する筈であった武蔵勢力の寝返りであった。

禅秀は、この大きな危機に際して、背後の持氏軍に反撃を加えた上で鎌倉に帰り、そこで態勢を挽回する事に賭けたのだが、いざ鎌倉に帰ってみると、危機的な情勢を察した鎌倉守備軍の多くが既に寝返っていた。

  いよいよ最期を悟った禅秀は、子息で八幡宮別当の快尊(kaison)の雪ノ下御坊に籠り、子息の憲方(犬懸家)及び快尊、そして足利満隆、満仲らと共に自害して乱は終結した。

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**運慶小辞典
 
  ●事績不明の空白期、伊豆・願成就院の堂供養と前後して文治五年(1189)6月に供養された鎌倉・鶴岡八幡宮の五重塔の造仏がもっとも早い例と思われます。  その内容が昨年三月に紹介された「転法輪鈔」 の研究報告書で明らかにされました。
それによれば、「両部大日=金剛界・胎蔵界の大日如来」と「四智如来」 を加えた6体からなる郡像も運慶工房の制作と推察される。 しかし、五重塔は建久二年(1191)に焼失しているので、その諸像も残念ながら現存しておりません。・・・・宝治二年(1248)、源実朝追善の為に大弐の局が高野山金剛三昧院の多宝塔に奉納した「五智如来」 等は慶派の秀作と言われていますので、その面影を窺い知る事が出来る。
 ●源頼朝と仏師・運慶の関わりは、この五重塔・仏像の造仏依頼が最初であると思われます。  運慶はおそらく頼朝が東大寺供養に参列するため西上した建久六年(1195)春までには奈良に帰ったでしょうが、工房の仏師の中には、その後も東国に残った者がいる事は遺作からも明らかです。
 
  ともかく運慶とその集団は10年近くにわたって東国にあり、将軍、大御家人、中小御家人まで、幅広い注文にこたえて造仏に励みました。  (運慶造仏の詳細は後述予定)   そこで勝ち得た信頼が、故地南都で大きく実を結ぶ事になるのです。     (同引用)

平成30年戊戌・丁巳・甲申

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室町幕府

2018.04.18(07:00) 142

**鎌倉府

**関東管領家

  その政治抗争とは具体的にどのようなものであり、いかなる歴史的背景が存在したのであろうか。 関東管領家を形成していた上杉氏一門内における、山之内家と犬懸家との関係から検証してみよう。

   そもそも上杉氏とは、藤原北家(fujihara・hotuke)の中流公家の家柄であったが、鎌倉後期に天皇の皇子・宗尊親王(munetaka)に従って鎌倉に下向し、その後、有力御家人の足利氏と姻戚関係を結んだ事を機に、足利家の一族的家臣として重きをなしていった。

 特に重房の孫である上杉憲房(norifusa)の妹清子が、足利尊氏・直義兄弟を生んだ事から、南北朝期以降は、ますます重用されるようになってゆく。  そして、憲房の戦死と観応の擾乱での挫折を超えて、その子の憲顕(noriaki)は山之内家を、憲藤(norifuji)は犬懸家をそれぞれ擁立し、前者は越後・上野・伊豆、そして後者は上総・信濃などの守護職を得て、おおむね山之内家が優位な形で互いに勢力を張る事になる。  
因みに、この二家の他に上杉氏には宅間家(takuma)と扇ヶ谷上杉家(oogigayatu)が立てられた。

 山之内家と犬懸家は、ともに関東管領家を家職として引き継いで行くこととなるのだが、その立場は対照的である。  まず、憲方─憲定─憲基といった山之内家は、越後守護家と連携しつつ、幕府権力を背景として鎌倉府内に勢力を繁殖し、それを基盤に鎌倉公方の増長を制御しながら、幕府と鎌倉府との対立の危険性を低減する方向性を有していた。
山之内家・・・・北鎌倉・明月院付近明月ヶ谷に所在した   (鎌倉・山之内)
 明月谷・山之内
明月院前
DSCN3762.jpg
それに対して犬懸家は、不用意な両府の対立はもちろん避けたいものの、公方と密着する事によって、朝宗期に急速に勢力を伸ばしたこともあり、その後も公方権力を背景に、鎌倉府管轄内諸国に勢力を張っていったのである。
犬懸家・・・・・管領屋敷跡   (鎌倉市・浄明寺)
上杉朝宗・氏憲邸
上杉」

  では、山之内上杉と犬懸上杉の両関東管領家は、鎌倉府管轄内及びその周辺にどのような形で覇権を争っていたのであろうか。・・・・・山之内家は、守護国の上野・伊豆両国を基盤に、幕府との関係から、幕府・鎌倉府の両府の境目の国となる越後の上杉宗家や信濃の小笠原氏、そして駿河の今川氏と連携するるとともに、北の常陸佐竹氏とは姻戚関係を結び、さらに幕府に通ずる下野の宇都宮氏とも友好関係を築いていた。

 一方の犬懸家は、これに対抗する様に、守護国の上総を基盤に、下総の千葉氏、甲斐の武田氏、東上野の岩松氏、下野の那須氏と姻戚関係を結ぶとともに、対佐竹家の関係で、常陸の山入氏とも連携していた。

  つまり、上杉禅秀の乱(zensiyuu・no・ran)勃発前の関東周辺の権力関係は、鎌倉公方の影響下にある、武蔵・相模・安房以外の鎌倉府管国および周辺の国々が、官僚家の両派に分かれ、辛うじて均衡を保っていたのである。
 しかし、この様な状況に異変が起きていた。  鎌倉公方に密着して勢力を形成してきた上杉朝宗による犬懸家中心の支配体制が、あまりに長く続いたために、滿兼期の末期には、公方勢力にとって、犬懸家が煙たい存在となってきていたのである。

  ところが、滿兼の死によって世代交代が起こったにもかかわらず、この体制下で、その権力継承を当然のように振る舞う子息・氏憲(ujinori)後の禅秀(zensiyuu)と、新公方を支える勢力との関係は、さらに難しいものとなっていった。 結果、かって犬懸家与党の公方勢力が、逆に山之内家に接近する様になって行った。

その為、12歳にして新鎌倉公方となった足利持氏(motiuji)に対して、犬懸家・氏憲(ujinori)は山之内家への対抗上、持氏の叔父・滿兼と弟の持仲(motinaka)を手中にせざるを得なかった。   しかし、こうした状況が安定したものとなる事は困難であった。 関東管領家における山之内家と犬懸家の対立は、周囲の多くを巻き込んでいたために、衝突は避けられない状況となっていた。

次回へ


**運慶小辞典

  「転法輪鈔」・・・・・鎌倉時代の天台僧・澄憲(tiyouken)が残した「唱道」(siyoudou)資料です。  「唱道」 とは、仏教の布教のために説教・説法などを行う事。
昨年春に国立歴史民俗博物館所蔵の「転法輪鈔」 の全容が紹介されました。 転法輪鈔は、法会の際に読み上げられる「表白類」 をまとめた唱道書であるが、今まで知られていなかった同館所蔵の「転法輪鈔」に収録される「表白類」 には、四篇の鎌倉幕府関係の仏事に関するものが発見されました。 その四篇は「伊豆堂供養表白」・「鎌倉薬師堂供養表白」・「鎌倉塔供養表白」・「不動尊表白」であり、その研究から、運慶の造仏とも密接な関係を持っていると推測されている。   

  真如苑真澄寺・大日如来像の造像が建久四年(1193)である可能性が明らかになった。 それは運慶の空白期、すなわち文治五年(1189)の常楽寺諸像の造立から、建久七年の東大寺大仏殿諸像の造立まで7年間のちょうど真ん中となる。  そしてこの時期に運慶は、鎌倉にに於いて鶴岡八幡宮寺の御塔(五重塔)及び永福寺の造仏に従事していた可能性は高いと考えられている。

   *芸術新潮2017・10より

平成30年戊戌・丁巳・康辰

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室町幕府

2018.04.14(08:00) 141

**鎌倉府

*鎌倉公方&関東管領

   「守護」 というと守護大名をイメージすると思いますが、此の国単位での軍事指揮権を中心に、多くの権限をして領域支配を展開する様になるのは、ようやく室町期になってのものと思われる。

   諸説はあるが、守護という職制が明確になったのは鎌倉の初期からと考えられ、   頼朝が源平合戦の過程で、必要に応じて有力御家人を任じたものが始まりと思われる。  当初は呼称も「惣追捕使」 であり、任務は戦時の兵糧米徴収や兵士の動員とその指揮に限られた。  

   しかし、南北朝内乱を経ると様相は一変する。  戦乱が続くなかで室町幕府は、前代迄の所有秩序がが乱れ、紛争が頻発していた在地の治安と兵力獲得のために、守護に次々と権限を与え始める。

  それでは、鎌倉府(東国)での守護の情況を見てみよう。  一つは、伝統的外様大名の守護国早期固定化である。
甲斐の武田氏、相模の三浦氏、下総の千葉氏、常陸の佐竹氏、下野の小山氏等が、それに該当しょう。
   彼らは、前代の鎌倉幕府草創期からその地に根を張って、守護または有力御家人として支配していたと思われ、  実際に、武田・千葉・小山等三氏は当初から守護であったし、三浦氏は、途中までは相模守護であったが、途中から守護不設置国となった関係で守護職は失ったものの、得宗との良好な関係を結びながら、有力御家人として同地に存在し続けたのだ。

  二つ目は、鎌倉防衛に重要な南関東諸国の守護国を、上杉氏が占有する率が高い事である。
鎌倉膝下の三浦氏を除き、武蔵(国守は鎌倉公方)・伊豆・上野・安房・上総の守護は、関東管領家上杉氏の山之内・犬懸(inukake)両家が独占的に任じている。  これは、京都幕府でも細川・斯波・畠山の三管領家のほか、一色氏などの足利一族が、畿内近国に於いて、守護職の大半を占めていた事と類似した現象であり、上杉氏が関東に於いて、足利氏一族に次ぐ待遇を得ていた事を意味していた。
初夏の鎌倉・・・・シャガ群生  北鎌倉・浄智寺(鎌倉五山・第四位)山門付近 
DSCN3743.jpg
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シャガ群生
 応永十六年(1409)鎌倉では、公方・足利滿兼が没した。  体調を崩し、医師の秘術や陰陽師の祈祷も甲斐なく、32年の生涯を終えた。  前年には大きな重石となっていた義満が世を去り、まさにこれからという時の急遽であった。
父・氏滿の死に伴い、鎌倉公方となって以来、父と同様にして、義満に抗らい乍ら、奥羽支配の進展と京への野望を追い続けた十一年であった。   幼少から滿兼を支え続けた、犬懸家の上杉朝宗(tomomune)が、これを機に出家を遂げている。

   滿兼には、二人の遺児がいた。  一人は正室の一色女を母とする、嫡男・幸王丸。もう一人は名ははっきりしないが、山之内上杉氏の本拠である上野に預けられていた。   後に、前者は持氏(motiuji)、後者は持仲(motinaka)となった。  家督は当然持氏が継ぐわけだが、持仲の存在は、当人の意思とは関係なく、鎌倉府体制にとって不安定要素の一つとなる。

 それが端的に現れたのが、翌年・応永十七年に起きた「滿隆騒動」 である。  持氏の叔父足利滿隆による謀反の噂が流れた事によるが、それを怖れた持氏が管領・上杉憲定(norisada)の山之内邸に避難するという事件があった。
同時期には、管領職が、山之内家の憲定から犬懸家の上杉氏憲(ujinori)(法名・禅宗)に交替している事、これ以後暫くの間、滿隆が、持仲を猶子としたうえで、持氏が十八歳になるまで後見役を勤めている事からすると、公方家内及び管領家内の、それぞれの複雑な権力抗争の存在が見えてくる。

*次回へ

**運慶小辞典

〇  願成就院と浄楽寺の造仏を終えた運慶はその後どうしたか。  実はこれ以後、建久七年(1196)に東大寺大仏殿の巨像群の造立に携わるまでの約七年間は、長らく事績不明の空白期だった。
〇  建久四年に足利義兼(yosikane)の注文による制作した像が発見されたのがようやく14年前の事。現在、真如苑が所蔵する大日如来像です。 ただ三尺の小像であり、七年の間にこれだけの造仏は考えられません。
〇  では何をしていたかと言へば、源頼朝の依頼で、鎌倉・鶴岡八幡宮寺や永福寺(youfukuji)の造仏に従事していた可能性が大きい。   

 **神奈川県立金沢文庫・・・瀬谷貴之氏の研究と推理から  「芸術新潮2017・10」 運慶特集より 


平成30年戊戌・丁巳・丙子

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室町幕府

2018.04.10(07:00) 140

**鎌倉府

**関東管領

  幕府との協議の結果、明徳三年(1392)鎌倉府の管轄が次のように決定した。  従前の関東分国(関東八ヵ国と伊豆・甲斐)に陸奥と出羽の二か国が加わる。
この頃、都では南朝・後亀山天皇から北朝・後小松天皇に「三種の神器」 が譲られ両朝の講和が成った。 (南北朝・統一)

  応永元年(1394) 関東管領・上杉憲方(norikata)没す。    一方、京都では足利義満(yosimitu)が将軍職を子の義持(yosimoti)に譲り、太政大臣となる。

応永五年(1398)11月、二代公方・氏滿が没すると、満兼(mitukane)は21歳で三代鎌倉公方となった。 
既に青年期に達していた彼は、前代から引き継いで関東管領である上杉朝宗(tomomune)に補佐され、就任当初から精力的に活動を始めた。

しかし、船出は波乱含みであり、幕府との関係は多難であった。  特に所領争いは激しく、前代の氏滿時より対立していた伊豆・密厳院(mitugonin)をめぐる京・醍醐寺と鎌倉・鶴岡八幡宮は激しく争っていた。 義満は当然だが、鎌倉公方としての沽券がある若き滿兼も、一歩も引かなかったようだ。

  三代鎌倉公方・足利滿兼の特出すべき政策は二人の弟、滿直(mitunao)・滿貞(mitusada)を奥州に下向させ、奥州支配を確かなものとする積極策である。
兄の滿貞が岩瀬郡稲村に、弟の滿直は、安積郡篠川にそれぞれ下向した。 後に稲村公方・篠川公方と称される事になる。

 二人の弟の奥州下向が、単なる行政組織の設置だけでなく、直接的には、幕府に対抗する際には、これまで鎌倉府勢力の背後に常に不安定要因として存在してきた奥羽勢力の動きを牽制する、幕府への対抗措置という性格が強かったと考えられる。

その後、大内義弘(yosihiro)の反乱(応永の乱) に滿兼が呼応して出兵しようとしたが、上杉憲定(norisada)(関東管領)の諫言によって思いとどまった。
幸いにして、補佐・憲定の和睦第一の政策によって、今度の行軍を止める事が出来た。  その後の彼は、堅実な鎌倉公方・としての役割をしっかり果たしたと言える。

  鎌倉公方に就任して早々につまづいてしまった滿兼であったが、彼も次の持氏(motiuji)の代まで、比較的安定して機能してゆくものを残している。

*関東・八屋形(hatiyakata)

  千葉・小山・小田・佐竹・那須・結城・宇都宮・長沼の八家などを「守護級」家として待遇する代わりに、鎌倉公方家への忠誠を誓わせ、在鎌倉を義務づけたものである。
また、上杉朝宗(tomomune)の関東管領在任期を通じて徐々に確立したこの体制は、犬懸(inukake)・山之内(yamanouti)両管領家、特に前者を媒体とした八者相互間の婚姻関係の構築をもって安定させられて行き、後に、上杉禅秀(zensiyuu)の乱で激突する。

参考・・・・・上杉家系図    足利家系図
上杉氏
足利氏

次回へ

*運慶・小辞典

  運慶の今に伝わる次の作品・・・・・・鎌倉幕府・初代侍所別当  和田義盛夫妻の願いにより制作。  
 〇  阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩 (阿弥陀三尊像)  運慶の唯一現存する「如来+菩薩トリオ」
 〇  不動明王立像・毘沙門天立像     像内から小仏師10人と共に制作した旨の銘札が出現

平成30年戊戌・丁巳・壬申

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室町幕府

2018.04.06(07:00) 139

**鎌倉府

  *鎌倉公方

  基氏が鎌倉に下ったのは、幕府の内紛が関東の政治状況に直接的な影響を及ぼしていた時がった。
基氏の着任以前から、鎌倉府執事としては上杉憲顕(noriaki)が居り、この執事の補佐の上に、幼年の管領・基氏が独自の政治を行う事は困難であろう、鎌倉府の政治はこの憲顕(noriaki)が代行したと思われる。

 ここで鎌倉府の職制についてレポートしておこう、鎌倉府の主、その補佐役(執事)の呼称だが、元来、足利義詮が「関東管領」 と呼ばれていた事は事実で、交替に下向した足利基氏が「関東管領」 は当然であるが、基氏の自筆書状(上杉文書)では、上杉憲顕が「関東管領」と称されている。

 これ以降主を鎌倉公方とし、執事を関東管領と称するようになったのであろう・・・・・・。  (足利基氏・初代鎌倉公方)

 これ以降「関東管領」の職は上杉氏の家系に独占して伝えられていく事になる。  憲顕の関東管領就任に反対の宇都宮氏綱(ujituna)等が兵を挙げるが基氏自らが出陣して収めたと言う。

  佐馬頭から佐兵衛督になった基氏は、直状を東国の武士たちに発して南朝方の追討を命じて、東国の平定に尽くしている。「太平記」 の記録に依れば彼を関東の柱石と評した。
二十八歳で没するまでに、多方面にわたる多数の直状形式の御教書を発して、東国経営に全精力をを注いでいる。  鎌倉の古刹・瑞泉寺を中興、鎌倉公方代々の菩提寺とした。  基氏はこの寺に葬られている。
臨済宗・円覚寺派 瑞泉寺山門 (鎌倉公方菩提寺)
瑞泉寺・三門
瑞泉寺やぐら
瑞泉寺・やぐら
  永和三年(1377) 鎌倉公方は基氏の子・氏滿(ujimitu)が二代目公方を世襲。  上杉能憲(yosinori)の弟憲春(noriharu)が 関東管領となる、
上杉氏のうち、憲顕から憲方(norikata)へと継承された家系を山之内上杉家と言い、他に犬懸家(inukake)・扇ヶ谷家(oogigayatu)・宅間家(takuma)と継承され、いわゆる「上杉四家」 といわれ、関東管領を世襲してきました。
其々が鎌倉に構えた邸宅の所在地に由来する家名であった。

  康暦元年(1379)関東管領・上杉憲春が自害する。    都では、三代将軍足利義満(yosimitu)の下で管領・細川頼之(yoriyuki)と斯波義将(yosimasa)の軋轢が高じ、頼之が管領を辞任するという騒動が起きていた。   (康暦の政変)

 鎌倉公方・足利氏滿はこの政治的混乱に乗じて幕府に叛こうとしていた、憲春の自害は、氏滿の謀反を制止するための諌死であったと言われる。  その後、弟の上杉憲方(norikata)が関東管領となる。

*運慶・小辞典

  運慶の今に伝わる次の作品・・・・・北条時政発願、伊豆・願成就院   阿弥陀三尊・不動二童子・毘沙門天
(真作証明)  (毘沙門天像内から出た銘札)
  時政は頼朝の命により京都守護の任に有った。 任務が明け鎌倉へ戻る時政が運慶を帯同したと考えられており、運慶と東国との関りの始まりと思われます。

  例によって映像はありません。

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平成30年戊戌・丁巳・戊辰

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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室町幕府

2018.04.02(07:00) 138

**鎌倉府

**観応の擾乱

  鎌倉府内部での確執は直義派の勝利で終わったが、中央では尊氏の巻き返しが激しく、両党の抗争は激しくなっていった。
この戦いは、都の鹿ケ谷・北白川・阿弥陀ヶ峰・紫野辺辺りで繰り返し戦ったと「太平記」 は書いている。 しかし、此の戦いによって直義方は大きく敗れた様だ。  直義は中央政界で実権を失い政務を辞して、都から脱出している。  
直義はこれを最後に再び京都に帰る事は無かった。  直義は自分の勢力範囲の北陸を経て関東に下った。 鎌倉には最も信頼のおける上杉憲顕(noriaki)が居たのである。

一方、尊氏は南朝と講和し、軍勢を率いて京都を出発して関東に下向し、各地で直義軍と戦い、それを破り、直義を屈服させた。 
翌年、直義は死亡しているが、尊氏によって毒殺されたと言われている。

観応の擾乱にによって中央の幕府は、権力が分散していた二頭政治から、権力機構を一本化した将軍─管領制が成立し、まがりなりにも将軍専制体制が確立したのであるが、東国・奥羽地域はどの様に・・・・・・。
関東に於いては一時擾乱に乗じて一部蜂起があったが尊氏軍に鎮圧され、その後二年余りに渡って鎌倉に居座り、東国の安定に努めるのである。 そして、引き続き基氏(motouji)(尊氏・三男)を鎌倉に置き、畠山国清(kunikiyo)・高南宗(namimune)らを執事として補佐させて、尊氏は上洛した。

*足利基氏(motouji)・・・・父・足利尊氏・・(三男)(鎌倉三郎)

  足利基氏・・・あまり知名度は無いが鎌倉の歴史には欠かせない、鎌倉の主が北条氏から足利、上杉、後北条氏と移る過程での重要な時代を担う事になる・・・・・・。
兄義詮(yosiakira)と同じ母・登真院・平登子(北条守時・16代執権の娘)で、鎌倉三郎と号した。
鎌倉府・公方邸旧跡  (鎌倉市・浄明寺)
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足利氏代々菩提寺・臨済宗建長寺派浄妙寺山門   (鎌倉市・浄明寺)
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 「 太平記」等によれば基氏は高師冬(morofuyu)と共に関東に下向し、鎌倉の上杉憲顕(noriaki)と共に「東国の管領」と呼ばれたと言う。  この基氏の鎌倉下向は10歳で、元服前に行われた事になる、 関東管領を勤めた兄・義詮と交代する形で成された。
この記事は足利義詮上洛後の関東統治の仕方を巡って、尊氏・直義の談合による結果と考えられるが・・・。この人事について直義は受け身であったが、かなり抵抗したようだ。 義詮の上洛・執政は既定事項で、この状況下で直義の思考を憶測すれば、既定事項は受け入れるが、関東を自分の支配下に置くことが最大の目標だろう。   それが基氏の鎌倉下向であろう、基氏に関東8ヵ国を支配させてほしい・・・・・。尊氏に強く申し入れた。

基氏は関東下向に際して、直義の養子になったような記録もあり、養子・基氏をして関東を支配させ、京都の政権から独立した政権、東国政権を作ろうと考えたに違いない。

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**運慶・小辞典

  運慶の今に伝わる最初の作品(真作証明)・(台座銘) 20代の作・・・・・奈良・円城寺蔵・大日如来坐像
この像は現存する最古の仏師署名を伴う作品だが、その銘文から製作期間や代価についての詳細が記録されている。
  大日如来像の映像を記載できませんので他の資料等でご確認ください。

平成30年戊戌・丁巳・甲子

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