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室町幕府

2018.05.31(07:00) 152

**「戦国」の展開

 **京からやってきた男

   明応二年(1493)に伊勢新九郎(北条早雲)は、堀越公方の内紛に乗じて伊豆北部を制圧し、戦国大名化の一歩を印した。

   彼の出自については諸説があり、謎が多かったが、最近の研究で大分判ってきた。  この一族が北条を名乗るのは、二代目の氏綱が伊豆の北条(伊豆の国市)に本拠を置いてからの事で、初代は伊勢氏を称した。  それゆえ「伊勢宗瑞」という呼称が定着したようだが、子孫が「北条初代」と言っている以上、「北条早雲」で統一する。


    早雲は幕府の奉公衆であったが、姉(北川殿)が駿河守護今川義忠(yositada)に嫁いだ時に後見人として駿河に下り今川氏の家臣となった。
  文明八年(1476)に義忠が没し、今川氏の家督争いが起こった時に、子息氏親(ujitika)・(北川殿の子)の側に立って活躍した。 その功績で、駿河の所領が与えられ興国寺城(沼津市)の城主となった。

一方、伊豆の堀越公方足利政知は、享徳の乱の和睦の遺産として伊豆一国が与えられてその地位が保全されたが、延徳三年(1491)に没する。
政知の死後、その後継をめぐって紛争が発生、政知は末子を後継にと考えていたが、異母兄の茶々丸によって母と共に殺害された。
  駿河今川氏の有力家臣として駿河の興国寺城に拠していた北条早雲は、この抗争に付け込んで明応二年(1493)に伊豆の北部に侵攻し、茶々丸を南伊豆に押し出していった。  その後茶々丸は、伊豆・相模・武蔵・甲斐などを経て、山之内上杉顕定(akisada)等の支援を受け、早雲への対抗策を探った。

明応七年(1498)に鎌倉を大地震と津波が襲い大きな被害をもたらした。    (大仏殿倒壊)

 早雲は、被災した地域住民に食糧を提供するなど救済策を講じて味方に引付、茶々丸とその家臣関戸吉信を南伊豆の深根城(下田市)に討ち果たして伊豆全土を支配下に置いた。
 早雲とその子孫は伊豆を本拠地とし、さらに相模・武蔵に進出して戦国大名化の道を歩む事になる。

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   **運慶小辞典

  ** 京都・東寺南大門の金剛力士像(仁王像 阿形・吽形)は運慶工房の代表作であるとの評価を得ていが、残念ながら明治初年に焼失してしまった。 現存する奈良・東大寺の仁王像と大きさ・彩色等は同等もしくはそれ以上の出来栄えであったことが推定されている。

   〇 東寺の造像と前後して洛西・神護寺の中門に二天王と八夜叉の造像が始まったようだ。        
● 京都神護寺・中門  持国天(吽形) (二丈三尺(約7㍍)・木造寄木造り 仏師・運慶工房  消失(時期不明)再建 
● 京都神護寺・中門  増長天(阿形) (二丈三尺(約7㍍)・木造寄木造り 仏師・運慶工房  消失(時期不明)再建
● 神護寺・中門  八夜叉像(囲繞) (八鬼共・各約80㌢・木造彩色と推定) 仏師 運慶工房 消失(時期不明) 未再建

**東寺・神護寺での仕事には、共通のキーマンが居ます。 行慈(giyouji)・性我(siyouga)、そして彼らの師である文覚上人(mongaku)です。  伝説の荒法師で後白河院の怒りを買い、配流された伊豆で、同じく流人であった頼朝と出会い、頼朝挙兵後は京との連絡役を果たすなど協力関係を深め、やがては幕府の協力を得て復興事業を進めた。  なかでも東寺講堂での仏像修復作業は彼ら僧侶と仏師運慶一門の協力で完成、後世に残された。当然スポンサーは幕府(頼朝)である。 

平成30年戊戌・戊午‣癸亥
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室町幕府

2018.05.27(07:00) 151

**鎌倉府

 **享徳の乱

    成氏はこの様な立場の不利を、武力をもって解決しようとした。  幕府が重用する上杉憲忠(noritada)は、成氏にとっては父持氏を死に至らしめた仇敵憲実の子であり、憲忠に対し恨みを持っていたという。  
成氏はその憲忠を西御門の屋敷に招き謀殺したのである。 享徳の乱の始まりである。

さて足利軍と上杉軍(山之内・扇ヶ谷連合軍)との戦いは神奈川・平塚辺りで始まった。  成氏は埼玉・熊谷に在陣したが、上杉軍に攻められ、古河に退陣、やがて古河を拠点とした。
 
   成氏と幕府との対立は長期化し、成氏は父持氏と同様に京都の改元を無視して抵抗を続けた。 成氏は乱勃発時の享徳年号を二十七年(文明十年・1478)まで使い続けたが、京都では「康生・長禄・寛正・文正・応仁・文明」 と改元された。

鎌倉を出てからの長い戦乱の中で、成氏が本拠としたのが下総国古河であった。  (古河公方)
  もはや成氏を鎌倉公方と認めないとした幕府は、新たに鎌倉公方を決めた。  将軍・義政の庶兄を還俗させて「関東主君} とした。 足利政知(masatomo)である。
  関東下向が決まった政知であったが、鎌倉に入る事が出来ず、伊豆国・堀越に留まった。 (堀越公方)

当時鎌倉は幕府軍今川氏の勢力下にあり、相模国は上杉氏の勢力下にあった。  諸勢力の利害得失が絡み合い、政知の鎌倉入りは実現しなかった。  上杉氏の中でも山之内家と扇ヶ谷家との確執が激しくなり、関東は混沌とした戦乱状態が続いた。

   文明十二年(1480)、成氏は、越後の上杉房定(fusasada)を仲介として幕府に和睦を申し入れた。  同十四年になって和睦が成り、関東九か国を支配下に置く事になり、一応関東の主と認められることになる。

   成氏は明応六年(1497)、64歳で死亡している。  成氏の後は彼の子孫(政氏─高基─晴氏─義氏)が古河公方を継承したが、小田原北条氏台頭後の公方の勢力は次第に衰え関東支配の諸将の争いに利用され義氏の死によって古河公方は消滅した。

地震のによる津波の為鎌倉・高徳院の大仏殿が倒壊する。  以後、大仏は露座になったと言われる。  この津波によって2,000人を越える死者を出したと伝わる。 (明応七年・1498)
 長谷・高徳院露座の大仏 (鎌倉市・長谷)    
鎌倉大仏
長谷・高徳院大仏殿疎石  (鎌倉市・長谷)
 大仏建屋礎石
   その後の鎌倉は主がないまま放置され荒れるにまかせ荒廃が進んでいた、このような状況の鎌倉を観た北条早雲は鎌倉の復興に乗り出した。

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  **運慶小辞典

 〇 建久七年(1196)、12月に東大寺大仏殿の巨像群を作り終えた運慶たちは、翌年から京都・東寺講堂の二十一体の群像の修理という仕事を開始します。  (詳細は別資料にて確認)
 〇 この修理事業と並行しながら、運慶工房の仏師たちは東寺・南大門の仁王像と中門の二天王像を新造しています。 
●東寺・南大門 阿行像 【サイズ不明  木造寄木造り(推定)】仏師─運慶工房 明治初年焼失(未再建)
●東寺・南大門 吽形像 【サイズ不明 木造寄木造り(推定】 仏師─運慶工房  明治初年焼失(未再建)
●東寺・中門 広目天像 【像種・サイズ・制作時期・造りは推定】仏師─運慶工房 明治初年焼失(未再建)
●東寺・中門 持国天像 【像種・サイズ・政策時期・造りは推定】仏師─運慶工房 明治初年焼失(未再建)

** 運慶には早くから仁王像制作のの名人との評判が高く、その根拠としての仁王像は東大寺・南大門の仁王ではなくむしろ、明治初年に焼失するまで京の入り口に毅立していた東寺の仁王(金剛力士)であった事に注目しています。


平成30年戊戌・戊午・己未

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室町幕府

2018.05.23(07:00) 150

**鎌倉府

**足利成氏(sigeuji)・(持氏四男)

   永享十一年(1439)2月、鎌倉公方・足利持氏の死をもって永享の乱は終結した。   将軍専制体制の確立を意図する将軍・義教の画策は成功し、将軍自身による関東支配が行われた。
 手始めは持氏時代の鎌倉五山の住持の更迭であった。 五山住持及び鶴岡八幡宮別当の任命は、守護補任同様将軍の権限であったので当然ではあるものの、将軍自らが関東支配を行う事を宣言したのだ。

   乱後処理の急務は鎌倉公方の任命であった。  将軍・義教は自分の子を鎌倉公方として鎌倉へ下向させ、関東統治を行わせようとした。   しかし、この公方は鎌倉へ下向しなかった。 京方の上杉憲実は主を死に至らしめた自らの行為を悔い、持氏が自害した永安寺で自害を試みるなど鎌倉府から離れた存在となっており、将軍・義教は憲実のいない鎌倉へ我が子を下向させる決心が付かなかったようだ。   その憲実は伊豆国・国清寺にて隠居している。

   京都では将軍・義教が亡くなり、長子・義勝(yosikatu)が七代将軍となったが彼はまだ八歳であった。   幕政は大名たちの合議制で運営され、関東の運営は隠居を望んでいた上杉憲実に任せる旨、管領・細川持之の意向が鎌倉に届けられた。

  七代将軍となった義勝が十歳で突然死んだ。そして弟義重(yosisige)が八歳で八代将軍となった。後の義政(yosimasa)で有名な銀閣寺の創建者です。

**鎌倉府再興

  永享十一年(1439)の持氏の死後空席になっていた鎌倉公方の後継者について幕府で評議され、将軍の兄弟を鎌倉に下すか、または持氏の子にするか決めかねていた。 幕府ではその決定を憲実に一任し、かつ憲実に関東管領として公方を補佐するよう命ずる事にした。

しかし、幕府でも憲実の隠遁の意思の強いことは承知しており、それをなだめるため天皇から綸旨を賜ることまで検討されたと云う。  だが、憲実は管領就任を固辞した。  その為幕府は憲実の子憲忠(noritada)の関東管領就任(文安四年・1447)を説得。  憲実は憲忠の管領就任に反対だったらしい・・・・・・。

   足利成氏(sigeuji)を持氏の後継者とするため運動したのが越後守護・上杉房定(fusasada)と関東の大名達だ・・・。  幕府に於いては畠山氏がこれを支持したと思われる。 成氏の名乗りについては当時の将軍義成の一字を与えられたものであろう。

    前公方持氏が自害してから十年近くが経過し、この間鎌倉を支えていたのは上杉氏であった。   特に山之内家家宰長尾氏と扇ヶ谷家家宰太田氏が台頭し、実権を握っていたとみられる。  この様な鎌倉に鎌倉公方として足利成氏が君臨し、持氏遺臣を重用して鎌倉府の立て直しを図ろうとすれば、足利派と上杉派の衝突は必然であろう。 
扇ヶ谷家・関東管領屋敷跡    (鎌倉市・扇ヶ谷)
扇ヶ谷管領屋敷跡
上杉家家宰・太田氏屋敷跡    (鎌倉市・扇ヶ谷 英勝寺内)
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   この頃の成氏(公方)の支配の実態は父親の時代に比べると著しい凋落ぶりである。  公方が持っていた土地充行権や裁判権に幕府が関与しており、課税も幕府が行った。    公方・成氏がから幕府への申し入れをする場合は、管領・上杉憲忠の添状が無ければ通用しない状態であった。   幕府は上杉氏を通じて関東統治を行う姿勢を見せた。   

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  **運慶小辞典

 **  東大寺には、運慶作と推定される像がもう一点あります。  俊乗堂(siyunjiyoudou)に祀られる【重源上人坐像】です。   重源上人は鎌倉時代の僧で東大寺復興の勧進僧として知られ、重源八十賀(hatijiyuunoga)を機に、その復興活動に対する東大寺の感謝の一環として造られたものと考えられている。
 〇 重源上人坐像・・・・・ 81・8cm   木造・寄木造り  仏師─法印運慶   現存・・・・・東大寺・俊乗堂
 快慶が重源(tiyougenn)の信仰上の弟子として〈安阿弥陀仏〉の法名をもらっていた事から快慶が作者でもよさそうであるが、作風的に快慶には作れない・・・・、運慶の制作であろうというのが大方の研究者の見立である。
  この傑作はこれまで、建永元年(1206)重源が86歳で没した直後に遺徳をしのんで制作されたものとされてきました。しかし、この像の迫真性は、やはり生前、本人を前にしてで無ければ出せないものではないか・・・、常々そう思っていました。   (瀬谷氏)

平成30年戊戌・戊午・乙卯

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室町幕府

2018.05.19(07:00) 149

**鎌倉府

 **永享の乱

   鎌倉府の持氏と幕府の義教という東西両主の厳しい冷戦も、永享八年(1436)、となるといよいよ一触即発の様相を呈し、それは、永享の乱へと展開していく。
鎌倉(関東)公方・足利持氏 供養塔     (鎌倉市・大町 別願寺)
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  永享十年(1438)6月、永享の乱の大きな要因ともなった若君元服事件が起こる。  この事件は、持氏の嫡子・賢王丸(kenoumaru)が元服の儀を迎えるに際し、その作法やしきたりに対し、憲実が厳しく諫言した事によるものであり、その還元とは次のようなものである。
鎌倉公方家の嫡子が元服する際には、まず、当代将軍の偏諱(henki)、つまりその名の一字を拝領すべく使者を上京させるのであるが、年来の将軍への対抗心から、公方・持氏はあえてそれを行わずに、将軍家の通字である「義」 を用いて義久と名付けた。

身の危険を感じていた憲実は上野へ退避していた。  しかし、持氏が憲実を討とうとするに至って、幕府は持氏討伐を決定する。 後花園天皇に治罰(tibatu)の綸旨と錦旗を要請し、駿河守護・今川憲忠・陸奥篠川御所・滿直らに出兵を命じた。    (永享の乱)

持氏出陣に際し、鎌倉の警固を託されたのは三浦時高(tokitaka)だが、時高は兵力に問題があるので辞退を申し出たが許されず、やむなく引き受けた。・・・・・・・この三浦氏の衰退が応永後期の相模守護改替にあった事と思われる。
  三浦氏は南北朝期以降代々相模守護に任じられていたが、持氏の時代に近臣・一色氏と交代している。  三浦氏は面目を失い反発していたのは確かであろう。 三浦時高は持氏出陣後一時鎌倉を放棄して三浦に退き、再度鎌倉に攻め入り火を放った。ここで持氏は鎌倉を失い、この合戦での敗戦を決意したと思われる。

   主だった鎌倉府の要職者に完全に見捨てられた存在となり、一旦は鎌倉に戻りまず浄智寺に入ったが、もはや鎌倉の主としての力は失っていた。  次に武蔵国・金沢称名寺に入る。 ここで持氏近臣の多くが切腹した、さらに鎌倉の永安寺に移って近臣二十数名と共に自害したという。
鎌倉・浄智寺山門   (鎌倉市・山之内)
浄智寺山門
武蔵・称名寺 山門&三門    (横浜市・金沢区六浦)
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  **運慶小辞典

**  大仏殿の大作群6体は残念ながら戦火によって焼失しているが、四天王についてはかなり具体的に像容を知る事ができる。 その姿を縮模した大仏殿様と呼ばれるタイプの四天王像が少なからず残っており、特に高野山・金剛峯寺の像がその雛形として制作された可能性は高いとされる。(10分の1サイズ)
**  大仏殿での仕事から程なく康慶(運慶・父)は世を去ったようだ。  間もなく運慶は建仁三年(1203)棟梁として定覚・快慶そして長子の湛慶(tankei)と共に南大門の金剛力士立像を造立。  完成後、後鳥羽院により東大寺供養が営まれ、運慶が法印、快慶が法橋に補任される。
**  康慶は既に亡く、院尊・法印(院派)は建久九年に、明円・法印(円派)もその翌年に没していました。  名実ともに運慶が第一人者である時代がやってきたのです。

〇  阿形像(agiyou) 836・3cm  木造・寄木造り   仏師─快慶      現存 (東大寺・南大門)
〇  吽形像(ungiyou)838・0cm  木造・寄木造り  仏師─定覚・湛慶   現存 (東大寺・南大門

  *慶派一門の総力を集め、製作開始からわずか69日で完成したと残される。 (10数名の小仏師が作業を分担した)

平成30年戊戌・戊午・辛亥

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室町幕府

2018.05.15(07:00) 148

**鎌倉府

**持氏・改元を無視する  

   正長二年(1429)9月京都で改元が行われ、元号が永享(eikiyou)と改められた。
前年に即位した後花園天皇による改元であるが、義教(足利)にとっても将軍になって初めての改元である。   数日後には鎌倉にも通達された筈であるが、持氏はこの改元を無視して正長を使い続けた。

    朝廷が行う改元もその後ろには幕府があるとして、義教の代になってからの改元を認めない態度をとり続け、義教への抵抗の意思表示をしたのである。

   永享四年(1432)、将軍・義教の富士下向が幕府内で協議されていた。   それを知った管領・上杉憲実は、来年への延期を幕府に要請した。   理由は将軍の富士(関東)下向は主・持氏も「畏怖」 しており、近隣の武士たちが万一の行動に出た場合取り返しがつかないと訴えた。
  しかし、将軍・義教は京都を発ち、富士遊覧を無事終了し帰京した。  義教としては持氏を威圧するために必要な政治的行為であったと言えよう。

    鎌倉・鶴岡八幡宮に足利持氏が奉納した願文が伝来している。  一見朱墨で書いたと思われるほど鮮やかな赤い文字であり、朱墨に血を混ぜて認めたものと考えられている。
八幡宮は源氏の氏神であり、源氏である足利氏も、武家の棟梁となった尊氏以来厚く信仰した。  鎌倉公方・足利氏の鶴岡八幡宮に対する帰依も所領寄進などに窺え、天下安全・武運長久を祈らせている。

   持氏がこの願文を血書で認めた本意は「呪詛怨敵」、つまり呪いたいほど恨みのある敵とは、将軍・義教を指していると考えられ、持氏は義教打倒の決意を固めて、血書の願文を鶴岡に納めたのである。
   
    同時期に延暦寺が義教に叛く動きをみせ、延暦寺と鎌倉の持氏が同心しているとの風説が京都に流れた。  延暦寺が義教を呪詛し、持氏に上洛を勧めたという。   しかし、京都と鎌倉の平和な関係を望む管領・上杉憲実は、持氏の意向を極力抑える考えでおり、持氏と憲実の溝は一層深まってしまった。

永享六年から七年にかけて時氏は味方獲得に奔走している。  前述の延暦寺との同心の他、駿河国の国人を味方に入れ、さらに三河国の国人等も勧誘している。  分国外の与党造りに加えて、分国内では京都扶持衆を征伐したりの努力は怠らなかった。   一方、義教も関東分国を包囲する形で、隣接する越後・信濃・駿河諸国に鎌倉府への制圧準備を要請した。
  公方持氏四代祖・足利尊氏屋敷跡    鎌倉山之内・長寿寺
長寿寺庭園
長寿寺1
長寿寺・庭園      鎌倉・山之内
長寿寺
  


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   **運慶小辞典   

   ** 慶派による奈良・東大寺の巨像制作の流れを簡単に追ってみよう。  まず、建久五年(1194)12月26日快慶及び運慶の弟と目される定覚(jiyoukaku)が中門二天の造立を開始。 像高は二丈三尺(7メートル)です。   まさに同日、鎌倉では永福寺薬師堂の供養が行われていた。  運慶はまだ鎌倉にいて、二天の造像には参加して居なかったのでしょう。

   ** 翌建久六年春には、源頼朝・政子夫妻が嫡男・頼家(yoriie)を連れて上洛、大仏殿の落慶供養に臨みます。  これが運慶が奈良に戻る一つのタイミングであったと思われるが、はっきりしたことは判りません。

   *  建久七年(1196)、運慶を含めた総力を挙げて、康慶一門(運慶・父)は東大寺・大仏殿の6体の巨像の造立に取り組みます。  大仏師は、総師の康慶、後継者の運慶、そして定覚と快慶の4人。   この6体の像には頼朝の厳命により有力御家人がスポンサーとして付きました。  制作者とスポンサーは次の通りです。

●  観音菩薩 (大仏の脇侍)‣(六丈の坐像で約9㍍)仏師─快慶・定覚・・・援助─宇都宮朝綱  消失 
●  虚空蔵菩薩 (大仏の脇侍)・(六丈の坐像で約9㍍)仏師─運慶・康慶・・・援助─中原親能  消失 
●  持国天 (四天王・四丈三尺の立像で約13㍍) 仏師─運慶・・・援助─武田信義    消失
●  増長天 (四天王・四丈三尺の立像で約13㍍) 仏師─康慶・・・援助─畠山重忠   消失
●  広目天 (四天王・四丈三尺の立像で約13㍍) 仏師─快慶・・・援助─梶原景時  消失
●  多聞天 (四天王・四丈三尺の立像で約13㍍) 仏師─定覚・・・援助─小笠原長清 消失

  以上が大分殿の造仏であるが、そのスケールの大きさは破格である。 又、その製作日数が半年足らずと云うのですから驚きです。 しかし残念ながらこの仏様たち戦国時代の兵火で焼失してしまっていますので、拝観する事は出来ません。  現在の私たちは修復が施された大仏様のみが拝観可能です。

平成30年戊戌・戊午・丁未

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室町幕府

2018.05.11(07:00) 147

**鎌倉府

**鎌倉公方─関東管領との関係

   四ヶ国を押さえ、内海の海上交通全体を政治的に掌握することは、当時の鎌倉公方にとっては、外様大名に対してだけの問題ではなく、鎌倉公方─関東管領体制という鎌倉府政権内の権力構造や関東分国支配の在り方にも極めて大きな意味を持っていた。
 乃ち公方権力の管領権力からの自立であり、管領・上杉氏主導の分国支配方式から、公方主導の分国主導方式へと転換する事である。

   それまでの公方と管領との関係は、管領・上杉氏が、公方の権威を背景に、上野・伊豆・武蔵・相模・安房・上総を中心に実力を養い、鎌倉公方は、その上杉氏の実力を盾に、前掲の六ヵ国に加えて他の分国、特に関東の伝統的雄族が蟠踞する常陸・下野・上総への影響力を強めるというもので、上杉氏主導の分国支配方式であった。

   その為公方─管領間の秩序関係が順調である場合は良いが、関係が悪化した場合は、上杉禅秀の乱のときの様に命さえ危険にさらされたのであり、公方持氏としても自己基盤の弱さを痛感したに違いない。

   そこで持氏は、禅秀の乱という一大危機を逆に大きな好機ととらえ、上野・伊豆という確固とした管領・上杉分国は除いて、それまで公方と上杉氏が錯綜した形で支配に臨んできた武蔵・相模・安房に加えて、禅秀の乱後に闕所国となった上総国のあわせて四ヵ国を公方の「御料国」 化する事によって、公方独自の基盤構築を目指したと考える。 

**将軍になりたかった公方

  室町幕府の将軍になりたかった鎌倉公方がいた。 
鶴岡八幡宮に血書の願文を奉納してその意思を表したのは、四代鎌倉公方の足利持氏であった。 
  将軍への野望は持氏に始まった事ではなく、父・滿兼、祖父・氏滿 からの野望であった。  事あらばと挑戦を試みるが、その度に管領の諫言によって阻止されている。
  持氏による京都扶持衆の討伐をめぐる京・鎌倉の対立は応永三十一年(1424)には終息した。  翌年には、一転して持氏は、四代室町将軍・足利義持の後継者となる環境を整備するべく、猶子となる事を望んで、京に使者を送る。   しかしその企ては、義持の門前払いで挫折するに至った。

   将軍・義持には実子が無く、後継の対象となる者は、出家している四人の弟となったが、義持の臨終の病床では後継者の決定は為されず、「宿老会議」 へ託された様だ。

*宿老会議メンバー

●  管領・畠山滿家、 斯波義敦、 細川持元、 山名時煕、 畠山滿則。   以上5名

    しかし、この宿老会議で決定することが出来ずに、義持の枕元に臨み、くじびきの話を持ち出し承諾を得たという。
そして義持が逝き、結果は、青蓮院・義円(gien)であった。(後の足利義教)  

そのような中、鎌倉の持氏が上洛するとの情報が京都に伝わった。     今回の将軍家後継者選びに不満であった持氏が兵を率いて上洛すると受け取られたはずである。  この持氏の上洛を思いとどまらせたのは、関東管領・上杉憲実(norizane)であった。  

    諫言だけでは効き目がないとみた憲実(norizane)は、新田氏が鎌倉に攻め上ってくると上野国(憲実の領国)から注進があったと持氏に言上した。   これに驚いた持氏は上洛を止めたという。  
新田氏挙兵が憲実の虚言であったこと、なおも憲実が持氏を諫言し続けたことは、京都に伝わっていた。  ここに鎌倉府における公方持氏と関東管領・憲実の考え方に隔たを垣間見る事が出来る。  将軍家に執拗に対抗する持氏、京都との関係が平穏無事にと考える憲実、この二人の溝は徐々に広がってゆくのである。
関東管領・上杉山之内家付近  (北鎌倉・明月院界隈) 
明月院・方丈
山之内・明月谷やぐら
明月院・やぐら
北鎌倉山之内・明月院(菖蒲園)
明月院・花ショウブ

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   **運慶小辞典

〇  永福寺(廃寺)諸堂の運慶・造仏供養は建久四年(1193)頃までには完成に至ったと推定されています。
〇  その後、奈良・東大寺の復興支援を積極的に行う源頼朝の推挙により、奈良仏師──康慶(koukei)の一門(慶派)に委ねられた。
〇  慶派(運慶)の起用には幕府(頼朝)の強力な後押しがあったと思われる。その起用には理由がありました。 八幡宮寺や永福寺の造仏を一手に引き受けた運慶は幕府仏師のようなもの、運慶に箔が付けば、運慶が東国に残した仏像の価値も上がるわけですから・・・・。
〇  運慶がまだ鎌倉で造仏を行っている頃、東大寺では中門の二天(持国・多聞)の造像が始まっていた。  持国天は定覚(jiyoukaku)が多聞天は快慶(kaikei)が担当、何れも像高二丈三尺(約7メートル)の巨像です。  (兵火により焼失)

平成30年戊戌・戊午・癸卯

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室町幕府

2018.05.07(07:00) 146

**鎌倉府

 **足利持氏(鎌倉公方)の自立

   鎌倉公方・持氏の評価には、感情的で当座的な対応に終始した人物であったイメージであるが、彼と管領・上杉憲実(norizane)との対立に端を発した永享の乱で将軍・義教(yosinori)に敗れて自害して果てた敗者という歴史的な事実がそのイメージであろう。

   前関東管領であった上杉氏憲(禅秀)(zensiyuu)が持氏に対して起した上杉禅秀の乱は、持氏側に不信感をもたらした。  その為当初は、禅秀与党に対する討伐の勢いは並々ならぬものがあったし、幕府側からの多様な要請に振り回される事も数多くあった様だ・・・・・。  

   しかし、応永~永亨期にかけては、鎌倉府は最も安定した時期であったと考えられており、 それは持氏が、東国の支配者としての自覚の下、一定の計画性をもって統治し、成し得たものであった。   この後、持氏の分国支配についてレポートします。

   それが象徴的にみられるのが守護政策であった。
禅秀の乱後、室町幕府から押し付けられて、宇都宮持綱(motituna)を上総守護に任命した持氏であったが、近臣・上杉定頼(sadayori)(扇ヶ谷)はその持氏の意思に基づいて、徐々に持綱に取って替わる形で、上総で主導的な行動をとっていた。
  こうした上杉定頼の行動は、上総に限った事ではなかった。 同時期に相模と安房でも同様な行動をとっている。  これはどういう事を意味しているのであろうか。・・・・

 武蔵・相模・安房・上総の四ヵ国に対して、鎌倉府の中枢機関である政所(mandokoro)の経常経費を充当するための極めて重要な課税が、一国単位で割り当てられている。 武蔵国は、南北朝のある時期から鎌倉府の御料国(goriyoukoku)となっていた。   という事は、他の三国も御料国に準じた扱いであったと考えてよいだろう。
    
   当時の上杉定頼は、持氏の方針に従って、武蔵国同様に、三国を御料国化する為に活動していた事は充分に考えられる。

    では、上杉禅秀の乱後に、鎌倉公方であった持氏が、上杉定頼らの近臣を駆使して、これら四か国の御料国化を目指した事には、一体どのような意義があったのだろうか・・。
まず思い浮かぶのは、各国の地政学的な位置関係である。    この四か国は、歴史的にみても、長く鎌倉の防衛という極めて軍事的な意味合いを有していた。

   実際、鎌倉の所在地である相模国はもとより、武蔵国も鎌倉防衛のために最重用な要塞国である。  鎌倉を攻撃するには、箱根峠などの難所を越えなければならない東海道からの攻撃よりも、北陸道経由での武蔵側からの攻撃の方が比較的容易であるらしい・・・・。
  そして何よりも、武蔵の武士団の帰趨が、鎌倉防衛に決定的な意味を持っていた。   このことは歴史的な事実として問題はないと考えられている。
一方、上総・安房両国は、海上からの攻撃に対する防御にとっても、いざ鎌倉から海上に落ちる場合にも大きな意味を持っていた。  また、この様な軍事的な重要性に勝るとも劣らないのが、経済的な要因が大きかったと思われる。
そのため、現在の東京湾を挟んで、首都鎌倉を包囲する武蔵・相模・安房・上総の諸国に渡る広域的な連携が必要であったのではなかろうか・・・・。

   更に、代々の鎌倉公方は、関東管領・上杉氏の実力を盾に、鎌倉街道を中心とした主要幹線道や、河川交通の要所に常に注目してきた。  その周囲に御料所を設定していき、御料所と幹線道及び河川という点と線の支配を目指し周辺の諸勢力を巻き込みながら、関東分国全域への公方権力の浸透を果たしてきたと思われる。
御台所・北条政子菩提寺・・・安養院のツツジ     (鎌倉・大町)
安養院・ツツジ
安養院・ツツジ

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  **運慶小辞典

〇  さて、次に文献により運慶制作として知られる、又は推定される消失作品を研究者の推理を基に彼が生涯に成し遂げた仕事を追ってみる事にする・・・・・。  
〇  鎌倉大御堂・勝長寿院五仏堂・・・・・五大明王像五体(大きさなどは不明)・仏師運慶法印(吾妻鑑) 消失
〇  将軍・実朝持仏堂(大蔵御所内比定)・・・・・釈迦如来像(大きさ不明)・・運慶奉造之(吾妻鑑)  消失
〇  大弐局念持仏 (大倉御所内比定)・・・・・金剛界大日如来(消失)・愛染明王(消失)・大威徳明王(称名寺光明院蔵)…像内納入品のうち尼奥書・源氏大弐殿、大日愛染王大威徳三躰内、大威徳也、法印運慶也、  

平成30年戊戌・戊午・己亥

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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室町幕府

2018.05.03(07:00) 145

**鎌倉府

**京・鎌倉の和睦

   その後、幕府側と鎌倉府は一進一退の状態が続いていたが、関東より和平の使者として、建長寺の勝西堂(siyousaidou)が上京するが、将軍・義持はすぐには合う事は無く、幕府側の諸大名と対応策を協議し続けていた。

  それでも翌年には、度重なる関東からの誓文状(降伏状)が提出された事もあり、ようやく義持(足利将軍)も鎌倉との和睦に許可を与え、勝西堂(建長寺・僧侶)との対面が実現した。  その後、何度かの使者が京・鎌倉を往来し、持氏(鎌倉公方)も在陣中の武蔵府中から鎌倉に戻って、一応の和平が実現した。
鎌倉公方邸跡・足利氏    (鎌倉・浄明寺) 
DSCN3722.jpg
足利氏菩提寺・浄妙寺 ・・・・鎌倉五山第五位  (鎌倉・浄明寺)
DSCN3718.jpg
 しかし、それは臨戦状況が緩和されただけの事であって、その根本要因である常陸と甲斐の守護問題は、そのまま積み残されていた。    この二国間の交渉は鎌倉公方・持氏方の提案によって開始された様だ。
その提案については、詳細は省略しますが、将軍も納得する内容であったと思われ、和睦が成立した。

**稲村公方・篠川公方

   一方この時期、南奥州の情況も変化を見せる。   その象徴が、稲村公方・足利滿貞(mitusada)の鎌倉帰還であろう。
滿貞と言へば、前述したように、鎌倉府による奥州支配のかなめとして、兄である滿兼の公方就任に伴って、滿直(mitutada)と共に南奥州に下向し、彼は稲村、そして満直は篠川に拠り所求めるのであるが、下向当初は滿貞が主な活動を行い、満直は補佐的な立場であったようだ、処が、例の上杉禅秀の乱を契機に、満直の方が圧倒する様になっており、北関東から南奥州にかけての京都扶持衆の取りまとめ役として、幕府と交渉を持っていたのは満直であった。
 
  それまで鎌倉府に忠実な滿貞の風下に立っていた満直が、幕府と結ぶ事によって、南奥州統制の実権を奪取した事になる。
滿貞の鎌倉下向も、野心を持った満直に、南奥州から追い落とされたというのが実情であろう・・・・。

連休の関係で更新が遅れました。・・・・・・次回へ     



**運慶小辞典

    鎌倉・永福寺薬師堂の運慶による造仏(推測)について述べてきました・・・・・・。 
〇  永福寺は建久三年(1192)に二階大堂、四年に阿弥陀堂、五年に薬師堂が建立されている。    では他の御堂はどうなのでしょうか、現在までの研究で、二階大堂には、釈迦如来坐像(丈六・2🅼40cm)の存在がが推定されています。  
 当然であるが、釈迦如来も両脇侍が伴って、釈迦三尊像として供養するのが通常であるのだが、これ以上の存在は解っていない。
〇  建久四年に出来上がった阿弥陀堂には、阿弥陀如来坐像(丈六・2🅼40cm)の存在が推定されているが、同じように阿弥陀三尊像以上の存在は不明である。 

〇  次に大倉薬師堂(現・覚園寺の前身寺院)の薬師三尊像や十二神将の戊神が、「吾妻鑑」 等によれば運慶が制作した安置像の一つで、北条義時を公暁の暗殺から救った霊験像である事に着目する。
  現・覚園寺は鎌倉末期、北条貞時の創建。 供養されている諸像の配置は変わらないが、場所も移動しており諸像も当時の像では無いようです。  しかし、運慶の製作した仏像が、霊験仏化する事例として重視されている。

平成30年戊戌・戊午・乙未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2018年05月
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