**鎌倉府
**足利成氏(sigeuji)・(持氏四男)
永享十一年(1439)2月、鎌倉公方・足利持氏の死をもって永享の乱は終結した。 将軍専制体制の確立を意図する将軍・義教の画策は成功し、将軍自身による関東支配が行われた。
手始めは持氏時代の鎌倉五山の住持の更迭であった。 五山住持及び鶴岡八幡宮別当の任命は、守護補任同様将軍の権限であったので当然ではあるものの、将軍自らが関東支配を行う事を宣言したのだ。
乱後処理の急務は鎌倉公方の任命であった。 将軍・義教は自分の子を鎌倉公方として鎌倉へ下向させ、関東統治を行わせようとした。 しかし、この公方は鎌倉へ下向しなかった。 京方の上杉憲実は主を死に至らしめた自らの行為を悔い、持氏が自害した永安寺で自害を試みるなど鎌倉府から離れた存在となっており、将軍・義教は憲実のいない鎌倉へ我が子を下向させる決心が付かなかったようだ。 その憲実は伊豆国・国清寺にて隠居している。
京都では将軍・義教が亡くなり、長子・義勝(yosikatu)が七代将軍となったが彼はまだ八歳であった。 幕政は大名たちの合議制で運営され、関東の運営は隠居を望んでいた上杉憲実に任せる旨、管領・細川持之の意向が鎌倉に届けられた。
七代将軍となった義勝が十歳で突然死んだ。そして弟義重(yosisige)が八歳で八代将軍となった。後の義政(yosimasa)で有名な銀閣寺の創建者です。
**鎌倉府再興
永享十一年(1439)の持氏の死後空席になっていた鎌倉公方の後継者について幕府で評議され、将軍の兄弟を鎌倉に下すか、または持氏の子にするか決めかねていた。 幕府ではその決定を憲実に一任し、かつ憲実に関東管領として公方を補佐するよう命ずる事にした。
しかし、幕府でも憲実の隠遁の意思の強いことは承知しており、それをなだめるため天皇から綸旨を賜ることまで検討されたと云う。 だが、憲実は管領就任を固辞した。 その為幕府は憲実の子憲忠(noritada)の関東管領就任(文安四年・1447)を説得。 憲実は憲忠の管領就任に反対だったらしい・・・・・・。
足利成氏(sigeuji)を持氏の後継者とするため運動したのが越後守護・上杉房定(fusasada)と関東の大名達だ・・・。 幕府に於いては畠山氏がこれを支持したと思われる。 成氏の名乗りについては当時の将軍義成の一字を与えられたものであろう。
前公方持氏が自害してから十年近くが経過し、この間鎌倉を支えていたのは上杉氏であった。 特に山之内家家宰長尾氏と扇ヶ谷家家宰太田氏が台頭し、実権を握っていたとみられる。 この様な鎌倉に鎌倉公方として足利成氏が君臨し、持氏遺臣を重用して鎌倉府の立て直しを図ろうとすれば、足利派と上杉派の衝突は必然であろう。
扇ヶ谷家・関東管領屋敷跡 (鎌倉市・扇ヶ谷)
上杉家家宰・太田氏屋敷跡 (鎌倉市・扇ヶ谷 英勝寺内)
この頃の成氏(公方)の支配の実態は父親の時代に比べると著しい凋落ぶりである。 公方が持っていた土地充行権や裁判権に幕府が関与しており、課税も幕府が行った。 公方・成氏がから幕府への申し入れをする場合は、管領・上杉憲忠の添状が無ければ通用しない状態であった。 幕府は上杉氏を通じて関東統治を行う姿勢を見せた。
次回へ
**運慶小辞典
** 東大寺には、運慶作と推定される像がもう一点あります。 俊乗堂(siyunjiyoudou)に祀られる【重源上人坐像】です。 重源上人は鎌倉時代の僧で東大寺復興の勧進僧として知られ、重源八十賀(hatijiyuunoga)を機に、その復興活動に対する東大寺の感謝の一環として造られたものと考えられている。
〇 重源上人坐像・・・・・ 81・8cm 木造・寄木造り 仏師─法印運慶 現存・・・・・東大寺・俊乗堂
快慶が重源(tiyougenn)の信仰上の弟子として〈安阿弥陀仏〉の法名をもらっていた事から快慶が作者でもよさそうであるが、作風的に快慶には作れない・・・・、運慶の制作であろうというのが大方の研究者の見立である。
この傑作はこれまで、建永元年(1206)重源が86歳で没した直後に遺徳をしのんで制作されたものとされてきました。しかし、この像の迫真性は、やはり生前、本人を前にしてで無ければ出せないものではないか・・・、常々そう思っていました。 (瀬谷氏)
平成30年戊戌・戊午・乙卯
**足利成氏(sigeuji)・(持氏四男)
永享十一年(1439)2月、鎌倉公方・足利持氏の死をもって永享の乱は終結した。 将軍専制体制の確立を意図する将軍・義教の画策は成功し、将軍自身による関東支配が行われた。
手始めは持氏時代の鎌倉五山の住持の更迭であった。 五山住持及び鶴岡八幡宮別当の任命は、守護補任同様将軍の権限であったので当然ではあるものの、将軍自らが関東支配を行う事を宣言したのだ。
乱後処理の急務は鎌倉公方の任命であった。 将軍・義教は自分の子を鎌倉公方として鎌倉へ下向させ、関東統治を行わせようとした。 しかし、この公方は鎌倉へ下向しなかった。 京方の上杉憲実は主を死に至らしめた自らの行為を悔い、持氏が自害した永安寺で自害を試みるなど鎌倉府から離れた存在となっており、将軍・義教は憲実のいない鎌倉へ我が子を下向させる決心が付かなかったようだ。 その憲実は伊豆国・国清寺にて隠居している。
京都では将軍・義教が亡くなり、長子・義勝(yosikatu)が七代将軍となったが彼はまだ八歳であった。 幕政は大名たちの合議制で運営され、関東の運営は隠居を望んでいた上杉憲実に任せる旨、管領・細川持之の意向が鎌倉に届けられた。
七代将軍となった義勝が十歳で突然死んだ。そして弟義重(yosisige)が八歳で八代将軍となった。後の義政(yosimasa)で有名な銀閣寺の創建者です。
**鎌倉府再興
永享十一年(1439)の持氏の死後空席になっていた鎌倉公方の後継者について幕府で評議され、将軍の兄弟を鎌倉に下すか、または持氏の子にするか決めかねていた。 幕府ではその決定を憲実に一任し、かつ憲実に関東管領として公方を補佐するよう命ずる事にした。
しかし、幕府でも憲実の隠遁の意思の強いことは承知しており、それをなだめるため天皇から綸旨を賜ることまで検討されたと云う。 だが、憲実は管領就任を固辞した。 その為幕府は憲実の子憲忠(noritada)の関東管領就任(文安四年・1447)を説得。 憲実は憲忠の管領就任に反対だったらしい・・・・・・。
足利成氏(sigeuji)を持氏の後継者とするため運動したのが越後守護・上杉房定(fusasada)と関東の大名達だ・・・。 幕府に於いては畠山氏がこれを支持したと思われる。 成氏の名乗りについては当時の将軍義成の一字を与えられたものであろう。
前公方持氏が自害してから十年近くが経過し、この間鎌倉を支えていたのは上杉氏であった。 特に山之内家家宰長尾氏と扇ヶ谷家家宰太田氏が台頭し、実権を握っていたとみられる。 この様な鎌倉に鎌倉公方として足利成氏が君臨し、持氏遺臣を重用して鎌倉府の立て直しを図ろうとすれば、足利派と上杉派の衝突は必然であろう。
扇ヶ谷家・関東管領屋敷跡 (鎌倉市・扇ヶ谷)
上杉家家宰・太田氏屋敷跡 (鎌倉市・扇ヶ谷 英勝寺内)
この頃の成氏(公方)の支配の実態は父親の時代に比べると著しい凋落ぶりである。 公方が持っていた土地充行権や裁判権に幕府が関与しており、課税も幕府が行った。 公方・成氏がから幕府への申し入れをする場合は、管領・上杉憲忠の添状が無ければ通用しない状態であった。 幕府は上杉氏を通じて関東統治を行う姿勢を見せた。
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**運慶小辞典
** 東大寺には、運慶作と推定される像がもう一点あります。 俊乗堂(siyunjiyoudou)に祀られる【重源上人坐像】です。 重源上人は鎌倉時代の僧で東大寺復興の勧進僧として知られ、重源八十賀(hatijiyuunoga)を機に、その復興活動に対する東大寺の感謝の一環として造られたものと考えられている。
〇 重源上人坐像・・・・・ 81・8cm 木造・寄木造り 仏師─法印運慶 現存・・・・・東大寺・俊乗堂
快慶が重源(tiyougenn)の信仰上の弟子として〈安阿弥陀仏〉の法名をもらっていた事から快慶が作者でもよさそうであるが、作風的に快慶には作れない・・・・、運慶の制作であろうというのが大方の研究者の見立である。
この傑作はこれまで、建永元年(1206)重源が86歳で没した直後に遺徳をしのんで制作されたものとされてきました。しかし、この像の迫真性は、やはり生前、本人を前にしてで無ければ出せないものではないか・・・、常々そう思っていました。 (瀬谷氏)
平成30年戊戌・戊午・乙卯
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