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戦国時代

2018.06.28(07:00) 159

**戦国期の鎌倉

**隣国との抗争

    氏綱と房総の里見氏との戦いも激しさを増していた。  里見・足利の連合軍が国府台(千葉・市川市)に進出すると北条軍も国府台に軍をすすめ、激突した。  激戦の末に足利義明(yosiaki)は大敗して討ち死にし、里見軍も安房に敗走した。

  氏綱は、今川義元(yosimoto)との断絶という予期しなかった苦しい状況が有った。  甲斐の武田信虎(nobutora)と今川義元との間に和睦が成立し、信虎の娘を義元が正室に迎えるという事態が生まれた。  かつては積極的に義元を助けて、援軍を送り、義元を今川家当主にするうえで大きな力になった氏綱は、その義元が、事もあろうに、武田の娘と婚姻を結んだことに驚愕した。 甲駿同盟の成立である。
  今川氏輝(ujiteru)とは徹底的に戦っていた武田信虎と今川家との同盟は、まさに氏綱をも含めて、駿河をめぐる外交の急展開である。  どうしてこのような状況になったのであろうか。・・・これ以前に、氏綱と川越城をめぐって争っていた上杉朝興(tomooki)の娘と武田晴信(harunobua)(後の信玄)が婚姻した経緯が有った。   この結婚は川越城を攻められていた朝興の作戦で、武田信虎と同盟して氏綱を関東から駆逐する戦術であった。  その上に今川義元が従えば、氏綱を包囲する事が出来るわけである。 義元の真意は多分、氏綱から駿東郡・富士郡の領有を狙ったものと思われる。

**北条氏の支城支配

    北条氏綱の時代には、後の戦国大名小田原北条氏の特出した制度といわれている支城網を確立させ、その中枢が完成していた。  支城網は、本城の小田原城を中心に、南関東の北条氏領国の重用拠点であり郡代を置いた一級支城、その周りに一級支城を守備する二級支城を配置、それらの支城間、及び一級支城と小田原城を結ぶ中継城等を配置した城郭網である。
   一級支城としては、伊豆国では韮山城・加納城・、相模では田原城・玉縄城・津久井城・三崎城、武蔵では小机城・江戸城・葛西城・河越城・岩付城、そして駿河では、興国寺城等が挙げられる。  これら一級支城の城主は、信頼のおける北条一門か、それに準ずる北条氏と養子縁組による一門の重臣たち、例えば川越城の大道寺盛昌、三崎城の山中頼元(yorimoto)、小机城の笠原信為、江戸城の遠山直景(naokage)、興国寺城の垪和氏続(haga・ujitugu)などの諸氏が任命された。
彼らは、記録や文書に、「北条」 と名乗る場合があり、北条家の一門になる血縁関係を持っていた人々と思われる。
   例えば垪和氏続の父伊予守某は北条早雲の関東入国に従った美作国出身の守護代を務めた家の出身で、早雲死後は、早雲の遺領である駿河国駿東郡の郡代という重職を務めており、甲斐の武田信虎と抗争している。  この様に、初期北条氏の一級支城には北条氏一門の人たちが城主と郡代を兼務して固めていたのがその特色である。
夏・鎌倉の風景
白槇
タイサンボク
刑場址・建長寺
紫陽花浄智寺
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三つ鱗紋・はす
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   **運慶小辞典

**源実朝の持仏堂・釈迦如来像を京都から渡し、実朝の養育係「源氏大弐殿」の発願で大日愛染王大威徳三体内、千手陀羅尼奥書から法印運慶の造像と判明したが、この三体像も京都から送ったものと考えられています。
  運慶も60代となり再び鎌倉に下向したと考えています。  北条義時(yositoki)・(鎌倉幕府2代執権)が創建した大倉薬師堂(現覚園寺)の造仏はかたしてどうか。   鎌倉北条氏が初めて開いた氏寺であり、薬師三尊や十二神将からなる造像の規模も大きい。
   それに先立って神奈川県立金沢文庫の近く、瀬戸神社に所蔵される舞楽面。社伝に源頼朝または実朝の所用で、北条政子の寄進とされる。  建保7年・運慶作の朱銘は追銘とされてきたが、近年の研究で運慶に近いとされいる。

〇 舞楽面・陵王【32・4㌢木製・彩色】仏師 法印運慶  現存・重要文化財  瀬戸神社所蔵
〇 舞楽面・抜頭【32・2㌢木製・彩色)仏師 法印運慶  現存・重要文化財  瀬戸神社所蔵

**陵王面は、は鶴岡八幡宮所蔵のものと極めて近く、 興福寺南円堂・広目天像と同じ作風の形式が採用されている。運慶が鎌倉に下り、制作され当初は八幡宮に奉納したものが瀬戸神社に移動した可能性もあるでしょう。
*抜頭面の裏面に朱漆による運慶の銘文があり、追銘とされてきたが、作風が極めて運慶に近いと再評価されている。


平成30年戊戌・己未‣辛卯
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戦国時代

2018.06.24(07:00) 158

**戦国期の鎌倉

**鶴岡八幡宮の再建

   なぜ氏綱は、激動の最中に鶴岡八幡宮の再建工事を強行したのであろうか。 『快元僧都記』には、氏綱が工事費用の募禄と称して、関東の武士たちにその可否の調査を行っている。  その事は、募縁に名を借りた北条方・上杉方への武士たちの去就に関する調査を兼ねていた。

その工事募縁を募りに走り廻った使者は、遠くは群馬県の三国峠や碓氷峠近くにまでにも赴いている。 このような種々の要素が絡んだ鶴岡八幡宮の工事への参画は、武士たちに合戦に参加したした時と同じような軍役を果たしたと評価された。  つまり、侍衆にとっては工事への参画は合戦に出陣したのと同じ軍役責務の奉公になったのである。

**困難な造営事業

   氏綱はこの造営事業には大変な気の入れようで、完成間近い回廊の柱の朱を自ら塗ったと伝わる。  この気の入れようは、父早雲からの継承事業であった為と、鎌倉の復興が北条氏の関東勇躍の必須条件であった為であろう。

  『快元僧都記』には北条家の侍の他に、数多くの職人集団が登場している。  その主なものは、小田原城の北条氏綱直轄の大工の他、鎌倉大工、伊豆大工、玉縄大工、奈良大工、京大工、鍛冶国安、白壁師、檜皮師、大鋸引、塗師、石切、瓦師、炭焼きの15集団で、特に重要であったのは鍛冶職人で、釘やかすがいなどの鍛造や大工道具なども誂えていた。   それら職人たち活躍と共に、材料の種類の豊富さと、その品不足によって職人や請け負った侍たちに非常な苦労を強いている様子なども記録されている。

* 注目される事は京都・奈良からの大工職人の招請である。 おそらくは優秀な宮大工を八幡宮の造営に充てる為、招請されたのであろう、当時の小田原北条氏の力量が見えてきます。
  
   例えば材木では、氏綱と駿河の今川氏との間が武田信虎の介入で途絶した以後は、駿河からの材木の搬入が滞りはじめ、材木不足は深刻化していた。
夏・鎌倉の花々・・・化粧坂・海蔵寺境内にて    (鎌倉市・扇ヶ谷)
萩・海蔵寺
桔梗海蔵寺
マツバ牡丹
凌霄花
この僧都記は、勿論、鶴岡八幡宮の造営の記録が主であるが、欄外にはその当時の氏綱を取り巻く事件や政治情勢も記録されており、その意味でも史料として貴重である。  早雲の死後に、氏綱が遭遇した他の大名との抗争は、永正十七年(1520)にも始まり、駿河の今川勢が甲斐の都留郡に侵入して、甲府の南で武田信虎(nobutora)と戦って敗退した記事がなどが残される。    このことは、氏綱もそれに同調して今川勢を助成して、武田勢との抗争を続けていた事を示している。

翌年今川氏親(ujitika)が甲斐に侵攻している。  武田氏と今川氏との第三次抗争が激化して、今川氏の重臣である福島氏が壊滅的な大敗を喫して、甲斐を撤退している。 大永三年(1523)に和睦が成立して、今川氏親の甲斐侵攻が終息すると、北条氏綱による武蔵侵攻が再開された。  大軍を率いて多摩川を超えた氏綱は、江戸城に籠る上杉朝興(tomooki)を攻略して、川越城に追った。  これ以後、川越城の朝興と氏綱の激闘は北条氏康(ujiyasu)・(氏綱嫡男)の時代まで断続的に続き、扇ヶ谷上杉氏との抗争は20回以上に亘って繰り返される戦いであった。
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 **運慶小辞典  
     **建保年間、運慶の仕事は再び鎌倉幕府、それも将軍の周辺に集中します。  
 源実朝(三代将軍)の持仏堂の本尊として釈迦如来像を造立。   京都で制作されたものを鎌倉まで搬送している事が「吾妻鑑」の記事にある、供養は東大寺大勧進職を勤めた退行行勇が行っている。
  * 同じ頃、「源氏大弐殿」発願の大日如来・愛染明王・大威徳明王像が「法印運慶」 の作で、三尊構成で造仏された事が判ってきた。  平成十九年に横浜・称名寺の子院・光明院の『大威徳明王』像の納入品の奥書から、建保四年に大日如来・愛染明王と共に三尊構成で、法印運慶が造仏した奥書が発見された。 
●釈迦如来座像【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師法印運慶 実朝持仏堂(大倉御所)消失・未再建

●大日如来坐像【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師法印運慶 実朝持仏堂(大倉御所)消失・未再建
●愛染明王座像【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師法印運慶 実朝持仏堂(大倉御所)消失・未再建
〇大威徳明王像【サイズ21・2㌢木造割矧造り彩色・截金・玉眼】法印運慶実朝持仏堂 現存・称名寺・重文

  **これらの三尊は将軍・実朝の奥向きを束ねる「源氏大弐殿」の発願で、法印運慶により造立されたものである事が近年明らかにされた。 これらは京で作られたものを釈迦如来と同様に鎌倉に送られたものと推定されている。

平成30年戊戌・己未‣丁亥

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戦国時代

2018.06.20(07:00) 157

**戦国期の鎌倉

**快元僧都記(kaigensouzuki)

北条氏綱の生涯で最大の事業となったのが、鎌倉・鶴岡八幡宮の修造・造営工事であるが、その工事現場を相承院(soujiyouin)の供僧の快元が訪れては、その進捗状況を記録したのが『快元僧都記』である。
 この史料は書名のごとく、鶴岡八幡宮の二十五坊中、相承院の供僧である快元僧都、享禄五年(1532)5月~天文十一年(1542)5月までの11年間に渡って記録したもので、神社造営の進捗状況を正確に記録した第一級の史料。

この快元僧都記には、鶴岡八幡宮の造営に関する記事はもとより、工事に参加した職人と人足など、実際に工事を行った職人衆や人夫などの情況が詳細に記録されており、戦国時代の職人衆達の研究には欠かさない貴重なものとなっている。

  特に小田原(後北条氏)北条氏の研究上、この史料の意義は大きく、北条氏綱(早雲・嫡男)・為昌(氏綱・次男)・北条幻庵(早雲・四男)・大道寺盛昌(鎌倉代官)などの役割を解明する手掛かりとなっている。  それも確かであるが、もっと重要な内容を含んでいるように思われる。  それは、「北条氏所領役帳」 の中の北条氏家臣たちの解明の糸口となるものであるからである。

  その『快元僧都記』であるが、まず天文元年(1532)正月に鎌倉代官の大道寺盛昌と小机城主の笠原信為(nobutame)を使者として鎌倉に派遣し、八幡宮の古木の状況と、どの程度の修築・造営を必要とするかを調査させる事から記述が始まっている。以後は工事の進捗状況と参加した侍や職人の様子、部材の集積の方法、金銭の状況などが詳細に記述されている。  

  当時の関東の職人集団の有様や京都・奈良の職人とその周囲の情況、また、北条氏を取り巻く周囲の政治情勢も記述されており、同時に武蔵や相模、はたまた房総を始めとして、駿河や甲斐・遠江などの今川領の情況迄伝えている。

特に重要な情報として造営用の建築資材を調達していた房総方面の政治情報などによって部材が潤沢に調達できないような状況が記されている。  当時の北条氏領国内では、すでに鶴岡八幡宮などの大規模な神社や寺院などの造営に使える良質な材木は払底していて、遠く津久井の山中や伊豆の天城山、或は房総半島にまでも資財を求めなくてはならない状況を記録している。

現在でも、関東地方には樹齢500年を超える巨木・銘木等は、寺社の御神木以外には、見当たらないと思われる。  氏綱の時代だけでも箱根神社・伊豆山権現・三島大社・寒川神社等の修築が確認されており、その他、大小の寺社造営も地元の領主を中心に行われていたから、それらの部材の調達で周囲の山林を丸裸にしてしまったものと思われる。
そして、それにもまして氏綱や普請奉行の統括責任者であった大道寺盛昌や太田正勝(masakatu)を悩ませた事が有る。  それは周囲を取り巻く政治情勢によって、工事に参加して現場監督の責任者の役割を担っていた、とくに川越城と玉縄城に属する侍衆たちが、房総方面や駿河・甲斐などに頻繁に出陣する事が有ったからである。  工事に参加したこれらの侍衆たちは、自分の所領の役高の程度によって、どの程度の参加をするのかが決められていたようである。 職人もさる事ながら、侍衆の負担も相当なものであった事が推測される。
   鎌倉が東部にあった事から鶴岡八幡宮の造営でも玉縄城の管轄になり、その為に川越衆と玉縄衆は、主力として働かざるを得なかったのである。  後に編纂される『北条氏所領役帳』によれば、この時の造営工事に参加した為に、諸役を免除さる者もあったようだ。 それほどに、この天文初年の鶴岡八幡宮の造営工事は、玉縄城の北条為昌や川越城の北条綱成(tunasige)(三代玉縄城主)らには大きな負担であった。
玉縄城址【現・清泉女子学院中・高等部】 (鎌倉市・城廻)
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玉縄城・諏訪壇 (玉縄城址)
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後北条氏・家臣(玉縄衆・甘粕氏邸 長屋門  (鎌倉市・大船)
甘粕家・長屋門

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    **運慶小辞典

 **運慶一門は続いて、承元二年(1208)に雷火で焼失した法勝寺・九重塔(hotusiyouji)の再興造像に参加します。 この寺院は白河院が創建した王家の寺ですから、再興の主体は後鳥羽院です。 
 社会の全勢力を自らの権威の許に統合しようとした上皇は、造仏にあたり正当三派を平等に起用します。 この九重塔再建にあたっては鎌倉・寿福寺の開山でもある栄西禅師(yousai)が大勧進として関わっており、頼朝との関りも推測できる。 
   造像されたのは五智如来と四天王で運慶工房が担当したのはおそらく四天王でしょう。(現存せず)   五智如来は院派・院実、円派・寛円が等が担当したものと思われる。
● 持国天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房  消失・未再建
● 増長天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房 消失・未再建
● 広目天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房  消失・未再建
● 多聞天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房  消失・未再建
  
**建暦三年(1213)法勝寺・九重塔供養の造像が完成。・・・・・湛慶、運慶の譲りによって法印となる。
この頃、運慶工房は嫡男・湛慶を中心に活動していたようだ、法勝寺の造仏供養も無事に完成したのであるが、四天王造仏のの具体的な情報がありません。  後鳥羽院・栄西禅師の勧進と門跡寺院としての風格から、奈良興福寺の南円堂・四天王像と同等もしくは、それ以上の造仏が推測されるのですが・・・・・。

平成30年戊戌・己未‣癸未

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戦国時代

2018.06.16(07:00) 156

**戦国期の鎌倉    

 **鎌倉の復興
  
    鎌倉は源頼朝が武家の都をおいてから、三百年間も関東の武家の都であった。  室町幕府は鎌倉に足利基氏を置いて幕府の関東統治の出先機関としたから、その後も武家の都として繁栄した事は変わりない。  ところが、永享の乱(1438~39)や永正の乱(1504)などで荒れ果て、かつての繁栄は見る影もなかったと伝わる。  特に、三浦義同(yosiatu)・(同寸)と早雲が鎌倉周辺で五年間も合戦を繰り返しので、その荒廃ぶりは凄まじいものであった。
     
 永正九年(1512)に早雲が堀越公方の後継者として鎌倉に入った時、その荒廃ぶりを嘆いたという。  早雲が鎌倉を再建したという記録は残されていないが、本覚寺や円覚寺に早雲の文書が見られ、鎌倉の復興に努力した形跡は認められる。

 永正十五年(1518)に鎌倉の伝統的な鍛冶職人に宛てた早雲・家臣の関時長、後藤茂義の連判書状から、初期鎌倉代官には、玉縄城の城主であった伊勢氏時(小田原北条氏)の重臣・関時長(tokinaga)が務めていたと推定されるが、早雲没後の同十七年からは、早雲の重臣で、その一門になる大道寺盛昌(morimasa)が新たに鎌倉代官に就任した。

鎌倉の初代代官は早雲の従兄弟と伝える大道寺発専(hotusen)(重時)の嫡男・盛昌である。 大道寺盛昌は早雲に初期から随伴した重臣で、早雲が今川家臣として在城していた時には、既に側近家臣として仕えていた記録が残されている。

**鶴岡八幡宮の再興

   天文元年(1532)から九年にかけて、北条氏綱(小田原城主)の鶴岡八幡宮の再建工事が行われた。  巨額の費用と大量の職人や人夫を使った、小田原北条家挙げての大工事であった。
氏綱は相模守護職として、鶴岡八幡宮が源頼朝の東国統治における守護神であり、また、関東武士の信仰の心の拠り所である神社と捉え、はたまた、鎌倉北条家を政治的に継承する立場として、その再建には全勢力を投入して工事を貫徹させた。
鶴岡八幡宮・一の鳥居  (鎌倉市・由比ヶ浜)
一の鳥居
妻・政子の安産を願って建立  八幡宮・参道(段葛)    (鎌倉市・雪ノ下) 
段葛
小田原城は鎌倉とは違って伊豆・相模・武蔵を統括する戦国大名北条氏の本拠で、後に「相府」と北条氏が自ら称する様に、相模 国の国府としての位置づけであった。 それに対し鎌倉は、氏綱配下の侍衆はもちろん、旧来の武士たちの心の故郷であり、政治的にも政治的にも重要拠点であった。

北条早雲は足利義澄を将軍に擁立せんとした細川政元(masamoto)の計画によって行動した結果、伊豆にいた堀越公方・足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国守護を継承した。
 これは義澄にしてみれば、実の母と弟を殺害された事への復讐戦の勝利であり、政元からすれば、室町幕府から独立しつつある関東統治の拠点の鎌倉府への早雲によるテコ入れであった。
  早雲が伊豆平定後も韮山城(nirayama)を動かなかったのは、堀越御所の近くにあった韮山城を伊豆の国府と捉え、堀越公方の代行者としての政治的な意味合いが存在したものと推測される。

    相模へ進出した早雲は鎌倉に本拠を据える事無く、西の端に位置する小田原城をを本拠地と定めた。  その子氏綱が、小田原城を拠点として本城の移転を行わなかったのも、父早雲の鎌倉公方再興の為の使命を継承する者として、その事業を貫徹するための処置であったと考えられる。
 
   氏綱が、武蔵に進撃するに際してあえて鎌倉の北部に位置する玉縄城を拠点として軍勢を出撃させているのも、鎌倉府の代行者としての位置付けを守っての行動と捉えると、説明が付く。   武蔵へ進撃して勝利したその直後に、鎌倉公方を継承する古河公方・足利高基(takamoto)に恭順の意を表して、江戸城主・遠山直景(naokage)にその旨の起請文を提出させているのも納得がいく・・・・。

次回へ  

    **運慶小辞典

   **つづく時期の運慶作品で今に残るのが、奈良・興福寺北円堂の諸像です。 興福寺の復興は建久五年(1194)の供養で一段落したのですが、主要堂宇の中では北円堂の再建だけが手つかずで、工事が再開されたのが治承四年(1180)の焼失から27年もたった承元元年(1207)の事。 造仏のスタートはさらに翌年にの事でした。
   * 本尊の台座に残された墨書などからこの時の造像は9体を11人の大仏師で作る体制で分担された事が判っています。
〇 弥勒如来坐像 【141・9㌢木造寄木造り 漆箔】 仏師・源慶、静慶、運慶  現存・国宝
● 法苑林菩薩 【サイズ不明・脇侍坐像】 仏師  運慶工房  焼失、平安時代 未再建
● 大妙相菩薩 【サイズ不明・脇侍坐像】 仏師 運慶工房  焼失、平安時代  未再建
〇 無著菩薩立像 【194・7㌢木造一木造り彩色・玉眼】 仏師・五男運賀  現存・国宝
〇 世親菩薩立像 【191・6㌢木造寄木造り彩色・玉眼】 仏師・六男運助  現存・国宝
〇 持国天 【206・6㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・長男湛慶  現存・国宝(南円堂安置)
〇 増長天 【197・5㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・次男康運  現存・国宝(南円堂安置)
〇 広目天 【200・0㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・三男康弁  現存・国宝(南円堂安置)
〇 多聞天 【197・2㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・四男康勝  現存・国宝(南円堂安置)

  ** 養老五年(721)、藤原不比等の一周忌に創建された興福寺・北円堂は、平安時代に2度焼失。再建された現在の建物は3代目。 弥勒如来・無著・世親は現存、如来の両脇侍は平安時代に焼失、四天王は平安時代の作で木造乾漆造りです。  運慶をめぐる近年の動きは、現在南円堂に安置されている四天王こそが本来の四天王なり、との新説が定着した事です。
 *現在の北円堂・四天王は南円堂のものよりやや小ぶりで木造乾漆造りの四体です。 どの時代かは不明であるが何らかの事情で入れ替わった?・・・・ものと推定されます。 もちろんこの四天王も国宝に指定されています。

平成30年戊戌・己未‣己卯

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戦国時代

2018.06.12(07:00) 155

**戦国期の鎌倉

  **上杉勢を相模から駆逐

   時に早雲は60歳を越えており、伊豆・相模平定に二十四年間を費やした事になる。  鎌倉制圧から三浦氏攻略の間にも、早雲は今川氏親(ujitika)を助けて遠江(toutoumi)・三河方面に出陣しており、永正十二年(1515)から再び激化した今川氏親と武田信虎(nobutora)との抗争を鎮めんと甲斐に出陣している。

  さらに、伊豆・相模の両国をほぼ平定し、鎌倉を制圧して支配下に置いた早雲は、上杉氏勢力を駆逐した。  このころ、早雲はおそらく、将軍足利義澄(yosizumi)から、伊豆平定と鎌倉制圧の功績として堀越公方の支配圏であった伊豆国の守護職に補任され、堀越公方の後継者を自認したものと思われ、同時に主家の今川家からも独立する動きを見せている。
    
    永正五年(1518)に家督を譲られた嫡男氏綱(ujituna(32歳))は、武蔵への侵攻を開始し、戦国大名として完全に独立していた。 この氏綱の時代に伊勢家(小田原北条氏)の文書の象徴的な存在となる虎印印判を制定して、郷村支配を遂行する事になる。 
  小田原北条氏は小田原城の当主が変わるた毎に「代替り検地」を行っている。  その初めは、早雲が永正十六年(1519)に死没して、二代目の氏綱が継いだ翌十七年に、小田原市周辺及び鎌倉周辺での大規模な検地がそれである。
  
   早雲の施策には以前から幕府の領地支配や、後の今川家の在地支配の方法を学んでいた形跡があり、先に戦国大名化への道を進んでいた今川氏親の斬新な施策を関東に持ち込んできたようだ。

**郡代制の施行

既に伊豆では郡代制を施行している事も、早雲の統治の初期からの特徴であろう。  郡代は守護に代って郡域内の統治を行う権限を持つ役職であるから、最も信頼のおける重臣が任命された。  相模でも郡代が任命され、西郡・中郡・東郡が、特別区である鎌倉代官は早雲の一族と伝える大道寺盛昌(morimasa)が就いていた。
 東郡(鎌倉郡・高座両郡)の郡代には伊勢氏時(ujitoki)・(早雲・次男)が就任していた。  しかし、氏時に関しては、ほとんど解明されていない。  北条早雲(伊勢氏)には嫡男、氏綱(ujituna)・次男、氏時(ujitoki)・三男、氏広(ujihiro)・四男、長綱(nagatuna)(幻庵)の四人の男子と娘二人がいた事が判明している。

  伊勢氏時の関係文書は早雲の死後、十年も経った享禄二年(1529)に二通存在している。  伊豆の三島大社護摩堂に宛てた免除状。 相模・東部の二伝寺の公事を免除したものである。  これらの文書に「佐馬助氏時」と署名している。  最初は伊豆で、次に三か月後には相模に文書が残されているので、この僅かな間に初代玉縄城の城主に就任したものと思われる。
玉縄城の防御砦としての役目もあった二伝寺の紫陽花   (藤沢市)
二伝寺・あじさい
北条早雲の建立・・・・曹洞宗・天巌院三門・参道  (藤沢市)
天獄院・山門
天獄院・参道

  しかし、氏時には男子がなく、兄氏綱(小田原本城)の次男為昌(tamemasa)が、二代目の東郡郡代・玉縄城主となる。    次回へ



    **運慶小辞典

   建久十年に急死した源頼朝の三回忌を機に、頼朝の母方の従兄弟にあたる三河・瀧山寺(takizanji)の僧・寛伝(kanden)が寺内に惣持禅院(souji)を建立する。 その本尊として造立されたのが、聖観音・梵天・帝釈天からなる三尊像。
 彫刻としても抜群と評価されているが、中尊の聖観音を頼朝と等身とし、内部にその遺髪(あごひげ)と歯が納められているなど、頼朝追善像にふさわしい配慮がなされている。(X線写真)    瀧山寺・宝物殿蔵

〇 聖観音菩薩 【174・4㌢(等身)彩色木造寄木造り】 仏師 運慶・湛慶  現存・重要文化財
〇 梵天立像 【106・5㌢彩色‣截金・木造割矧造り】 仏師 運慶・湛慶  現存・重要文化財
〇 帝釈天 【104・9㌢彩色・截金・木造割矧造り】 仏師 運慶・湛慶  現存・重要文化財

**源頼朝とかかわる制作背景や、運慶・湛慶の合作である事を記した鎌倉末期成立の「瀧山寺縁起」 が紹介され、瀧山寺の三尊像が運慶作品として認知された。 現在も鮮やかな彩色は後世の補(江戸期?)  中尊が聖観音なのは、頼朝が熱烈な観音信者だった事の反映だろう。
*梵天・帝釈天と組み合わせるのはきわめて珍しいとされています。

平成30年戊戌・己未‣乙亥

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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戦国時代

2018.06.08(07:00) 154

**戦国期の鎌倉

**北条早雲・戦国大名化への道

    相模国に侵攻した北条早雲は、永正九年(1512)にようやく鎌倉に到達した。  伊豆・相模に侵攻してから十九年を擁した。  この頃の早雲の家臣で、特に事績の判る越智弾正忠・関時長・後藤繁能を特筆しておこう。  
越智弾正忠は早雲の相模国侵攻の過程で家臣となり、様々な戦闘で戦功をあげ、嫡男も官職を得ている。  関時長は早雲の一族と思われ、伊勢国の出身という。  天文元年(1532)から北条氏綱によって始められた鎌倉・鶴岡八幡宮の修築工事に、工事の監督奉行として時長が活躍しており、工事現場では鎌倉番匠(大工)奉行を務めた。
 後藤繁能は関時長の同僚として鎌倉鍛冶職の福本氏文書に初見する。 後藤氏は鎌倉の豪族で、鎌倉初期に鎌倉の寺院で仏像制作をしていた大仏師・運慶の流れを受けた仏師の末裔と伝わる。  天文元年からの氏綱による鶴岡八幡宮の造営工事には、工事現場の監督奉行を勤めた。

**三浦氏との激闘

永正九年~十年頃の、三浦半島は三浦氏の支配地であり、鎌倉周辺も三浦氏の勢力下にあった。 早雲は鎌倉から武蔵・本牧(横浜市・中区)方面に進撃したが、それ以上進めなかった。

  その頃、今川氏親(ujitika)が遠江国に侵攻し、早雲は先手として参戦しており、早雲は一時期は鎌倉攻撃を放棄したらしいが、再び三浦攻撃を始めた。  三浦氏の住吉要害(逗子市)に籠る三浦道香(doukou)・(道寸弟)を攻撃、攻め滅ぼした。
三浦道香・主従墓所    (逗子市・延命寺)
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  永正十三年(1516)、扇ヶ谷上杉朝興(asaoki)が三浦氏救援の為相模中郡に侵攻したが、北条軍に撃退された。 これを機に早雲は、再び三浦道寸攻略の軍を起こし、新井城を攻囲した。 新井城では兵糧も尽き、援軍もない状況で、上総に落ち延びる事を進言したが道寸は新井城を死守する覚悟をし、最期の突撃を敢行して全滅した。  ここに鎌倉期以来の名族・三浦氏は滅亡した。     次回へ




**運慶小辞典

**運慶工房の仏師たちは、京都・東寺講堂の21体の諸像の修理と共に、それと並行しながら南大門の仁王像(金剛力士像)の新造、更に中門・二天の造立も行うなど大車輪の仕事ぶりであったが、さらに同時期、高野山の行勝上人(giyousiyou)の依頼で、不動明王に従う八大童子像を造立している。建久八年ないし九年といわれている。  (金剛峯寺・一心院不動堂)通常非公開、数年に一度公開。

〇 恵光童子(ekou)(菩提心門)【96・6㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師・運慶工房現存・国宝
〇 恵喜童子(eki)(福徳門)【98・8㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師・運慶工房現存・国宝
〇 鳥俱婆誐童子(ugubaga)(菩提心行)【95・1㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房現存・国宝
〇 清浄比丘(seijiyou)(福徳心行)【97・1㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房現存・国宝
〇 矜羯羅童子(kongara)(慈悲心行・知恵)【95・6㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶法印現存国宝
〇 制吒迦童子(seitaka)(方便心行・精進)【103㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶法印現存国宝
〇 阿耨達童子(anokuta) 【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房 焼失 再建・国宝付属
〇 指徳童子(sitoku)【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房 焼失 再建・国宝付属

**矜羯羅童子・制吒迦童子の二体の像は出来栄えがひときわ優れ運慶法印の作とされる。 焼失した阿耨達童子・指徳童子の二体は鎌倉後期あるいは南北朝時代の補作で伝来、国宝付属となっている。

平成30年戊戌・己未‣辛未

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戦国時代

2018.06.04(07:00) 153

**戦国期の鎌倉

 **北条早雲・相模侵攻

   伊豆国から相模西部にに侵攻した北条早雲は、相模国で抗争していた扇ヶ谷上杉氏と山之内上杉氏との争乱に介入する形で、扇ヶ谷上杉定正(sadamasa)に味方して、山之内上杉と戦いつつ相模国へと侵攻した。   伊豆国に接する相模国西部の中心勢力は小田原城の大森氏頼(ujiyori)で、早雲とは同盟関係にあり、相模国侵攻を協働したようだ。
この地域には大森氏の他松田氏と河村氏が勢力を持っており、松田氏と河村氏は、ともに後には早雲の家臣となり、特に松田氏は北条氏の重臣として活躍する事になる。

北条早雲が小田原城を攻略して、相模国西郡を領有すると、古くから西郡の郷村を基盤として大森氏に仕えていた豪族たちは、大森氏と共に没落し、その多くはその地を去っていった。 早雲はこれら旧族の知行地を収公し、その多くを伊豆平定戦で活躍した家臣たちの知行として宛行った。

  小田原城は韮山城の支城となり、相模国への進撃の発信地となり、その周辺には信頼のおける家臣が配置されたのである。  その代表が松田氏であった。
松田氏は、鎌倉期から御家人として神奈川の松田町の地を本拠として活躍していた国衆であった。

**北条早雲・鎌倉へ進撃

   頼朝が幕府を置いた鎌倉は戦国期でも、全国有数の都市として存続していた。  小田原城周辺の相模国西郡を領有した早雲は永正六年(1509)頃には相模国を鎌倉方面に向かって東進していった。
扇ヶ谷上杉方の三浦郡を基盤とする三浦道寸(dousun)とも抗争に入っていた。 当時、津久井郡は道寸の勢力が強く及んだところで、相模川の中間部抑える岡崎城(伊勢原・平塚)を本拠地としていた。
その本拠地の高麗山要害・住吉要害を攻撃するも、上杉軍の反撃にあい敗走している。

   しかし、再び早雲の相模国進撃の機会が訪れた。  山之内上杉憲房と養子顕実とが抗争し始めた為、古河公方足利政氏にも内紛が起こり、これが両上杉の抗争に発展した。  ここに再び早雲に相模国東進を許す事になってしまったのである。
 早雲の最初の攻撃目標は、相模川流域を抑える岡崎城の三浦道寸であった。 激戦の末陥落させ、三浦道寸は鎌倉方面にに撤退し、逗子市との境の住吉城に本拠を移している。

   岡崎城の攻略に成功した北条早雲は、鎌倉方面に敗走する三浦道寸を追撃する勢いで鎌倉に入った。  鎌倉の周辺には、三浦道寸の勢力が残っていたし、三浦半島の突端の新井城(三浦市)には三浦義意(yosioki)が籠って三浦郡を領有していた。
  この時点での鎌倉領有は困難と判断、相模国東部への進出の足掛かりの拠点として、鎌倉の北に位置する玉縄城(鎌倉市・大船)を整備し、城主に北条氏時(早雲次男)をいれた。
玉縄城全景(想定図) (鎌倉市・大船城廻)
玉縄城全景
大手門(再建図)
大手門再建
玉縄城址・石塔
玉縄城址
玉縄北条氏・歴代供養塔  (龍宝寺・・・鎌倉市・植木)
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**運慶小辞典

 **文覚上人の側近恵眼房性我(siyouga)は、文覚の代理で頼朝にその父・義朝(yositomo)の遺骨を届けた僧侶だ、また鎌倉・勝長寿院や永福寺の初代別当に抜擢された事でも知られます。
東寺・神護寺の復興事業が頼朝(鎌倉幕府)の資金援助で進められたのは、文覚・性我・行慈等の僧侶と大仏師・運慶との協働によって行われ引き継がれたのであるが残念ながら大半は消失している。
 〇 神護寺略記・講堂条・・・・中尊三体造立の事
● 神護寺・講堂  金色大日如来 【丈六(約2・4㍍金色木造寄木造り】 仏師─運慶法印   消失時期不明  未再建
● 神護寺・講堂  金剛薩埵菩薩 【半丈六(約1・2㍍金色木造寄木造り】 仏師─運慶法印 消失時期不明  未再建 
● 神護寺・講堂  彩色不動明王 【半丈六(約1・2㍍彩色木造寄木造り】 仏師─運慶法印 消失時期不明  未再建
   
 **京都・東寺や神護寺の復興事業にあたって性我・運慶は仏師たちを引き連れ奈良・元興寺などに出向き、典拠となる二天王像や八夜叉像などの調査を行い、こうした霊験像のレプリカ制作はそれに携わる仏師をも霊験化する効果が期待されていたようです。

平成30年戊戌・己未‣丁卯

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