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戦国時代

2018.07.30(07:00) 167

**戦国期の鎌倉

**六代玉縄城主・北条氏氏勝(ujikatu)

    北条氏勝は永禄元年(1558)は、4代城主氏繁の次男として出生。  氏勝が玉縄城主の官名である左衛門大夫を名乗った文書初見は天正十年(1582)五月のもので、天正八年から十年の間に五代城主である兄・氏舜は氏勝に家督を譲り隠居もしくは死没したものと推定されている。
玉縄北条氏歴代城主・供養塔・・・・ 【綱成・氏繁・氏勝】
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玉縄・・・・・・(鎌倉市)
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玉縄城大手門下「七曲り坂」
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天正十年は北条氏にとって激動の年であった。  二月には関東における永年の宿敵である常陸国・佐竹氏十九代義重(yosisige)の嫡男義宣(yosinobu)が元服し、常陸統一に近づく絶頂期を迎えていた。  織田信長・信忠父子が信濃から、徳川家康が駿府から甲斐に侵攻し武田勝頼は甲州大和村、田野にて自刃し武田家が滅亡。

   織田信長・信忠が明智光秀の謀反により本能寺にて殺害された。   政局は一気に羽柴秀吉による天下統一に向かう。

   北条氏勝は関東の諸情勢が大きく変化してきたこの時期に城主に付いたのである。   天正十二年(1584)にはいると羽柴秀吉と石田三成は上杉景勝・佐竹義重らと誼を通じた。 翌年、秀吉は北条氏の宿敵佐竹氏に北条方との戦を支援し、関東諸氏との通好をを促進、関東出陣の意向を宣言した。  数か月後には秀吉は従一位関白叙任となり天下統一が加速された。

   関白・豊臣秀吉は「関東奥両国惣無事令」 を発した。   これは関東・奥州における大名領主間の交戦から農民間の喧嘩刀傷沙汰に至るまでの抗争を厳禁する平和令であっが、 その目的は大名の領地拡大を阻止し、豊臣政権が全領土を掌握する事にあり、争いごとは全て関白が介入し、秀吉が裁定を下し、不服のある者は朝敵として討つという法律であった。

中央では豊臣政権が強化され、諸大名が続々と臣従を誓う中で、玉縄北条氏の本家である小田原の北条氏政(ujimasa)・氏直(ujinao)父子はこれに応じず、秀吉は北条氏を敵対者とみなし、北条氏は孤立してゆくことになる。

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**運慶小辞典

 **永福寺・二階堂の諸仏

 *建久年間前半は「吾妻鑑」に永福寺造営の記事が頻繁に記載される。  三つの仏堂を翼楼でつないだ大寺院でした。 
   建久三年(1192)に二階堂、四年に阿弥陀堂、五年に薬師堂が供養された。   しかし、『転法輪鈔』 には二階堂・阿弥陀堂にに関する記載は無いらしい・・・。 薬師堂に関しては、先にレポートした通り、詳細が記載されていたのであるが?。 
  大胆な推理をすれば二階堂、阿弥陀堂に関する『転法輪鈔』 の記載は消失または散逸してしまったのでは無かろうか?       頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺の三大寺院に列されれるこの寺院の中心、二階堂・阿弥陀堂の供養に大仏師運慶の活躍が推理される。 
 

   二階大堂、釈迦三尊像
● 釈迦如来座像 【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 騎馬踊・文殊菩薩【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 乗象・普賢菩薩 【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房  室町期焼失・未再建

*以上運慶作品と推定される消失作品を示した。  しかし、再現された永福寺のC・G映像でも明らかであるが、この二階堂の規模に対し、薬師堂17体の諸仏供養と比較しても不自然であるのだが・・・・・?。
  永福寺再現CGによる画像・中央二階堂・・・・奥が薬師堂、手前が阿弥陀堂
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永福寺・二階堂・・・・・・中尊・釈迦如来坐像(推定)・・左側
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平成30年戊戌・庚申・癸亥
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戦国時代

2018.07.26(07:00) 166

**戦国期の鎌倉

**五代玉縄城主・北条氏舜(ujitosi)

  北条左衛門大夫氏舜については残存文書がほとんどなく、不明な点が多い。  父の氏繁は玉縄衆として北条宗家の領土拡張計画の先兵として活躍し、岩村城(現・岩槻)領の支配を行ったり、下総飯沼城(茨城・猿島郡逆井)を築き、常陸の佐竹義重(yosisige)を中心とする北関東連合に対する下野・常陸への最前線基地としたりした。

   この飯沼城普請には、藤沢から森杢之助(mokunosuke)配下の大鋸引衆(oogabikisixyuu)が呼び寄せられた。
   佐竹十九代義重(yosisige)は元亀元年(1571)下総岩井で北条軍二万の兵を僅か5千の兵でで打ち破り、「鬼佐竹」「坂東太郎」 と周辺の諸将に恐れられた部将である。

   天正五年、四代小田原城主・北条氏政(ujimasa)が小田原より出陣し佐竹勢と合戦するが勝負はつかず、秋口まで在陣し北進する地盤を固めた。 この合戦に北条氏舜が出陣したかは記録は無いが、おそらくは玉縄城主として合戦に参加して居ると推測する。

   越後の上杉謙信が佐竹氏と呼応して出陣命令を下すが、天正六年の3月に春日山城にて49歳で死去する。  その3か月後の6月には父、北条氏繁も飯沼城にて43歳にて病死した。 これまで父・氏繁を補佐していた嫡男・氏舜は、祖父・綱成が玉縄城にて健在であった為、飯沼城主に留まる。
玉縄城主・北条氏繁(四代)出陣の図    (三つ鱗紋の旗印)
出陣・氏繁
第三代玉縄城主・北条綱成菩提寺・曹洞宗・龍寶寺山門     (鎌倉市・植木)
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  氏舜には後の六代城主北条氏勝(ujikatu)と直重・直胤・繁広という4人の弟と妹2人がいたが、玉縄城主も氏舜が継ぎ、さらに岩月城(岩槻)の城代に就任。飯沼城は氏勝が城主となる。

氏舜文書は天正五年から八年に限られ、この4年間が氏舜の玉縄城主時代であると今は見られている。 次の玉縄城主となる氏勝の初見文書は天正十一年のものであり、天正八年から十一年の間に氏舜は弟の氏勝に家督を譲り隠居もしくは病没したものと推定される。 氏舜の死亡年・墓所・戒名等は不明で、玉縄北条氏一族の中でも不明な点が多く、子孫の存在も不明である。

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**運慶小辞典

    鎌倉・永福寺(廃寺)の造営が「吾妻鑑」 によれば文治五年(1189)12月~建久五年(1194)12月に行われた事は注目される。 
運慶はその 『空白期』 に、鎌倉幕府の重要寺院である永福寺の造像に、鎌倉に於いて従事していたのではないだろうか・・・・。    永福寺は頼朝が奥州遠征を行い、平泉で目のあたりにした諸寺院を摸して、その犠牲者を弔う事を目的に建立された。 もし、この一大事業に運慶が携わっていれば、その後の鎌倉幕府との密接な関係も了解されよう。

   「吾妻鑑」には「雲慶」(unnkei)=運慶が、奥州平泉の藤原基衡(motohira)が発願した毛越寺金堂(moutuji)(号円隆寺)の丈六薬師像と十二神将を造像したとの記述がある。   この記事については、従来運慶の活躍年代と重ならず、「吾妻鑑」の伝説的な記述、あるいは誤謬とされ、あまり重要視されなかった。  しかし、永福寺は、その毛越寺金堂を模した事が知られる。   大きく、推測すれば「吾妻鑑」の毛越寺と運慶の記事は、永福寺造像に運慶が従事したことを反映した可能性がある。
『転法輪鈔』 の記載から永福寺・薬師堂の薬師如来に両脇侍、不動・毘沙門、十二神将の運慶及び運慶工房による造像の詳細をレポート(推定)します。

● 薬師如来坐像  【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 日光菩薩立像  【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 月光菩薩立像  【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 毘沙門天立像  【180・0㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 不動明王立像  【180・0㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
 【十二神将像】
● 毘羯羅大将立像 【子神・等身・木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
             ┃  中間10神将省略しています。 (鎌倉・覚園寺    十二神将像参照)
● 宮琵羅大将立像 【亥神・等身・木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建

**永福寺・・・・・創建以降度重なる戦火・災害によって消失し、室町末期には廃寺となったようだ.。・・・近年、二階大堂、阿弥陀堂、薬師堂の基壇及び前庭池の浄土式庭園が再現され、史跡公園として市民に開放されています。
     「吾妻鑑」と『転法綸鈔』の記載から詳細が判明する薬師堂の造仏を再現(推定)。
中央に薬師三尊像
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向かって右手不動明王・6神将
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左手に毘沙門天・6神将
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(資料)   「芸術新潮」 2017・10月号より 

平成30年戊戌・庚申・己未

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戦国時代

2018.07.22(07:00) 165

**戦国期の鎌倉

**玉縄城主・北条氏繁(第四代)

     三代玉縄城主・北条綱成嫡男として天文五年(1536)に生まれる。 名を善九郎といい、後に小田原城主・北条氏康の一字をもらい康成(yasusige)を名乗る。  綱成同様剛勇の将として各地を転戦、上野・平井城、上杉氏攻略の時、氏康の従って16歳で出陣、先鋒を務めたという。
   永禄元年(1558)父綱成と共に常陸下野方面にも出陣、綱成の補佐役として職務を代行する。  本城・氏康の許に越後の長尾景虎(kagetora)(上杉謙信)が武蔵・相模方面に出陣との情報が入り、各地の北条勢に防戦の準備が命じられ,玉縄城主の綱成は下総方面の備えとして有吉城の守備に就いた。   この時氏康は26歳の康成(yasusige)を玉縄城代とした。

   長尾景虎は3月中旬に上杉氏の名跡を受け継ぎ、上杉政虎(masatora)と名を改め、関東管領の地位と職務を名実ともに実行せんと北条攻撃を開始。 小田原本城を包囲、攻撃したが攻めきれず、鎌倉鶴岡八幡宮での関東管領就任拝賀式を行った。    (小田原城の守りも固いと思われるが、本来の目的は拝賀式だったはず?)

   景虎は拝賀式が終わり、岐路、北条康成(yasusige)の守る玉縄城を攻撃するも、小田原本城と同じく攻略できませんでした。
玉縄城・諏訪壇跡及び下     (鎌倉市・清泉女学院校内)
諏訪壇跡
諏訪壇下・堀

玉縄城近くに長尾砦が有る。 この長尾台は長尾景虎(上杉謙信)
の先祖の地。 鎌倉党長尾氏本貫地で鎌倉時代・宝治合戦で在地領主の長尾氏が討死。 その後長尾一族は越後に移った。

   元亀二年(1571)、小田原の氏康が没し、翌年に綱成より家督を譲られ、氏繁(ujisige)と改名、官名も父と同様左衛門大夫となり、第四代玉縄城主となる。
氏繁の活動はこれ以降拡大し、4代小田原城主・北条氏政(ujimasa)を援け、岩村城を支配。  天正五年(1577)には下総飯沼城を佐竹氏への備えとして築城。

    氏繁は剛勇の人だが教養人でもあり、特に絵画で、松の古木に止まる鷹の図が有名である。
氏繁は天正六年(1578)下総飯沼城で病の為43歳で没す。父綱成が63歳で健在の中の事である。 氏繁の母と妻(七曲殿)は共に岩瀬の大長寺に葬られる。
(七曲殿)菩提寺・浄土宗大長寺・山門    (鎌倉市・岩瀬)
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   **運慶小辞典

   運慶造仏事業の『空白期』と鎌倉幕府との関りについてレポートします。   
 
僅か二例の事績であるが、北条時政と和田義盛の造仏事業に運慶が携わった事は、その後の鎌倉幕府と運慶の関係の足掛かりになったと思われる。    この後、運慶は建久七年(1196)から康慶(koukei)と共に奈良・大仏殿内諸像の造仏を行い、翌年には東寺講堂諸像の修理をはじめとする東寺復興事業に一門の棟梁として従事する。
    東大寺と東寺の復興事業は、院(後鳥羽)を始めとする朝廷の依頼に、頼朝が協力して行われた。  運慶がこの事業で、造仏の中心的役割を果たせたのも、鎌倉幕府周辺の事業を行ってきた賜物であったに違いない。

    一門の棟梁として立つ以前、常楽寺の造仏(文治五年・1189)から大仏殿内の諸像再興事業(建久七年)が始まるまでの約七年間、運慶の造仏の事績は確認できず 『空白期」』 となっていた。
しかし、この 『空白期」』 を埋める作品が、近年見いだされた真如苑所蔵の大日如来像である。   京都・円城寺像と同様  『智拳印』 を結ぶ。
   同像は、既に運慶作の可能性が指摘される栃木・光得寺大日如来像との作風の比較や、有力御家人・足利義兼(yosikane)が、建久四年にに供養した旧樺崎寺下御堂像(kabazaki)にあたる可能性が高い。    この新発見は、運慶の 『空白期」』 の中間を埋めるものとなった。   そして建久四年頃、関東に運慶が拠点を持っていた可能性を高める事にもなった。
  
〇 大日如来坐像【61・6㌢木造寄木 漆箔 玉眼】 運慶  鎌倉初期・重文 東京・真如苑蔵
真如苑・大日如来
平成23年「運慶」中世密教と鎌倉幕府・図録より

平成30年戊戌・庚申・乙卯

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戦国時代

2018.07.18(07:00) 164

**戦国期の鎌倉

**第三代鎌倉玉縄城主・北条綱成(tunasige)

 北条氏綱(ujituna)(小田原城主)に助命された福島綱成(tunasige)は、小田原城で氏綱の娘と結婚して北条氏の娘婿となり、北条氏の一門に列した。
  氏綱には嫡男氏康(ujiyasu)の他に男子が少なく、次男が居たが夭折しており、三男・為昌(tamemasa)・四男・氏堯(ujitaka)の三人のみであった。   行く末の為に養子を採って養う事になり、福島正成の遺児綱成を養子とした。
    綱成は永正十二年(1515)の生まれと伝え、氏康と同い歳になる。  氏綱は綱成を跡を継ぐべき氏康の補佐役として登用されたと考えられている。
   幼くして勝千代、ついで孫九朗と称して後、氏綱から「綱」の一字を拝領して綱成と名乗り、北条一門に列した。
天文六年(1537)7月の河越城(武蔵)の合戦に活躍したのち、河越城城代に就任。 玉縄城への入場ははっきりしないが、北条為昌の死没後であり、大長寺(鎌倉・岩瀬)の記録では天文十四年(1545)と伝わる。  綱成31歳
浄土宗・大長寺三門   (鎌倉市・岩瀬
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   尚、当寺には北条綱成夫人の墓を始め北条一族と伝えられる墓石がある。
綱成は玉縄に入城後、為昌の家臣たちを殆どを継承したようだ。   この時期に行われた北条氏康(小田原・本城)の代替わりの検地(税制改革)と為昌の遺領検地が、大規模に、広範囲に行われ、玉縄領の配分が決定された。

●  玉縄領・三浦郡・・・・・・北条綱成    

●  三浦衆・・・・・・北条氏康 【小田原本城】

●  小机城・・・・・・北条宗哲 【早雲・四男(幻庵)】

●  河越城・・・・・・大道寺盛昌 【鎌倉代官】

    その後三浦郡・三浦衆は綱成・氏康から北条氏規(ujinori)(綱成・娘婿)にそれぞれ移管され、氏規は三崎城主として三浦郡支配を管轄した。  以後、玉縄領の範囲は固定され、綱成の子孫が代々城主を務める事になる。 
玉縄城初代城主・北条氏時墓所(未確認)?  (藤沢市渡内・二伝寺)
玉縄城主・氏時墓?
玉縄・首塚・・・里見軍・北条軍、両軍の戦死者を弔う慰霊碑   (鎌倉市・植木)
里見戦・供養碑
早雲創建・天獄院  鐘楼>
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 **運慶小辞典 

     鎌倉幕府御家人・初代侍所別当 和田義盛(yosimori)が夫人の小野氏と共に発願し、運慶が小仏師10人を率いて制作した事が、毘沙門天・不動明王像内から月輪形銘札が発見された事によって判明した。  (昭和34年) 
 運慶作品が発見された浄楽寺は三浦半島の西側、横須賀市芦名に所在する。   頼朝挙兵の時に活躍した三浦大介義明(yosiaki)の孫である和田義は三浦氏の支族で、本来は三浦の芦名とは別の和田を本拠地とする・・・・・。  そこから浄楽寺は、5㌔以上北に離れている。   それについては義盛は初代侍所別当という要職に在り、三浦一族の当主的存在であった為、三浦半島内の勝地を選んで、浄楽寺は建立されたと思われる。
浄楽寺の阿弥陀如来像は、伊豆願成就院像と同じく圧倒的量感が表され、同じく衣文も深く動きのある表現となる。 その印相は、左手を膝上に置き右手は屈臂して、共に親指と人差し指を念じて、一般的な阿弥陀仏の形式、来迎印 を結ぶ。
浄楽寺・阿弥陀如来座像     (横須賀市・芦名)
阿弥陀仏・浄楽寺
阿弥陀如来像・ 『来迎印』   (横須賀市・浄楽寺)
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(資料) 芸術新潮2017・10号図録より
  
 願成就院では失われてしまった観音・勢至の両脇侍菩薩が残るのは貴重である。  量感豊かに表され、鬢をを高く結い上げ、腰を捻って立つ。  願成就院の両脇侍像も同様の姿だったのだろうか・・・・。
   浄楽寺の諸像は、その量感や衣文、面貌などに運慶の特色が発揮されるが、総じて願成就院像と比べるとおとなしく、保守的要素が見られる。  この違いは、運慶工房の置かれた状況の違いによるものと思われるが、一方でこの諸像が、近世の伝承だが追納の銘文や地誌類で、勝長寿院の諸像を移座したものとされる事に注目する。
    浄楽寺の諸像は銘札により運慶作で、一方、「吾妻鑑」 から勝長寿院像は 成朝(seitiyou)  作の皆金色阿弥陀仏であった事が判明している。 従って移座の可能性は全くないのだが、なぜこのような伝承が生まれたのであろうか・・・・・・。 

平成30年戊戌・庚申・辛亥

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2018.07.14(07:00) 163

**戦国期の鎌倉

**玉縄城主・北条綱成(第三代)

   北条綱成(tunasige)の治政の様子をレポートする予定でしたが、都合により今回は中止です。
   今週、撮影してきました玉縄城周辺の新しい映像をアップしますので、ご参考に!
長尾景虎(上杉謙信公)祖・長尾定景一族の墓    (鎌倉・日蓮宗久成寺)
長尾定景一族
長尾砦付近
長尾砦
大船観音寺  (鎌倉市・岡本)   
観音寺
城下・平井家住宅長屋門   (鎌倉市・城廻)
長屋門
早雲創建  曹洞宗・天獄院参道   (藤沢市・渡内)
天獄院・夏

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**運慶小辞典

    【北条政子の寺】・・・・伊豆・願成就院
阿弥陀如来坐像の、それまでの平安時代後期の作例にはあまり見られない「説法印」の形式に注目したい。   その形式は南都を中心に、奈良時代後半から平安初期に多く造られた、その初例として想定されるものに法華寺阿弥陀浄土院本尊がある。
 同院は天平年間に光明皇太后(聖武天皇妃)により発願され、我が国の阿弥陀浄土信仰を考えるうえで画期となる。  残念ながら本尊・建物は現存しない。 しかし、法華寺に残される阿弥陀如来の画像(国宝)は、阿弥陀浄土院本尊に由来するものと考えられている。
   その像容は、説法印を結び、頭の大きい堂々とした姿で描かれ、願成就院像を彷彿とさせる。  この阿弥陀浄土院像の説法印を結ぶ形式は、後に宮廷女性関係の造仏の規範となった。  桓武天皇の乙牟漏皇后一周忌像にも採用され、興福寺講堂の本尊として安置された。  
   その後、興福寺講堂は平安時代から鎌倉時代にかけて、南都の最重要法会の会場となった。  これに伴って同像も、南都を代表する阿弥陀如来像として認知されたらしい。  つまり、伊豆・願成就院阿弥陀如来像の形式や表現は、興福寺の僧でもあった運慶により、平安時代初期に発願された興福寺講堂像が参考にされた蓋然性が高い。  (瀬谷貴之氏)
  【説法印・願成就院阿弥陀如来坐像】 参考
説法印
阿弥陀如来坐像
                                                       資料・・・・・芸術新潮 2017・10号より

平成30年戊戌・庚申・丁未

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戦国時代

2018.07.10(07:00) 162

**戦国期の鎌倉

**福島(九島)正成の出自

    今川家の家督争いに敗れ、今川義元に駿河を追われた福島正成は、家臣らと共に相模の北条氏綱を頼ったようだ。 しかし、北条家の侍大将・福島九朗の子という説もある。
  若いころから武勇に優れ、氏綱に気に入られ、氏綱の娘を娘を妻として迎え、北条姓を与えられるだけでなく、氏綱の「綱」 の字をもらい「北条綱成」 と改め、北条一門衆として活躍する。

小田原本城では北条氏康(ujiyasu)が、父・氏綱の後継者として政務に携わっていた。  氏綱は天文十年7月に亡くなるが、病中にあった4月頃には家督を氏康に譲っていた。

   天文十一年(1542)に北条為昌が没したあとは正式に玉縄城主となり玉縄衆を率いる。 3000の兵で川越城(武蔵)を上杉勢80000の大軍から守り通したとの記録が残る。  上杉勢は北条綱成の勇名を怖れ、力攻めせず兵糧攻めにしたと考えられる。 6ヶ月に渡る籠城を耐え抜き、援軍の夜襲に応じて古河公方・足利晴氏の陣を攻め、古河へと退却させている。

    玉縄城の地理的条件からも、下総の結城政勝(masakatu)や奥州の白川氏等と連絡を取るなど、北条氏康(ujiyasu)(小田原本城)の名代として外交手腕も発揮している。   さらに、氏康の命によって鎌倉の検地を実施している。  諸寺社に対しても所領の安堵や寄進などが行われている。 なお、先代の氏綱も検地をおこなっており、その時の決定がこの検地の基礎になっている。

   本城の氏康、古河公方足利晴氏の子で鎌倉の葛西ヶ谷に居た義氏(yosiuji)を元服させ、家督を安堵しするが、その後晴氏・義氏親子は、氏康に対して謀反を起こした。  氏康と玉縄衆の綱成は下総の古河城を攻略し、晴氏・義氏親子を相模の波多野(秦野)に幽閉した。    義氏は氏綱の娘(氏康・妹)と晴氏の間に生まれた子である。

**上杉謙信・玉縄城を攻める

    永禄四年(1561)3月、長尾景虎(上杉謙信)、関東管領・上杉憲政(norimasa)から管領職と上杉の名跡を継ぎ、鎌倉鶴岡八幡宮で、拝賀の式をおこなう。 天文二十一年(1552)正月、上杉憲政は古河公方足利晴氏を奉じて北条氏康と戦闘状態ににあったが、敗れて越後守護代・長尾景虎(kagetora)を頼った。  景虎は憲政を奉じて上野に出陣し、上野から相模に入って小田原城に迫ったが攻め切らず、軍勢を返し鎌倉に入った。  鶴岡八幡宮社頭での関東管領就任拝賀式後、玉縄城長尾砦を本陣に玉縄城攻略にかかった。  しかし、北条康成(yasusige)(綱成・嫡男)は玉縄城代として父の留守を預かり防ぎ切り、上杉政虎(景虎)は玉縄城の大規模な外郭や各砦に囲まれた防塁の守りの固さ、越後からの遠征による兵士たちの疲れや食料の問題で、決戦はせずに、春日山に帰城している。
上杉謙信・出身の地 (現横浜市栄区・長尾台)・長尾砦跡
長尾砦2
長尾砦付近・柏尾川に架かる鷹匠橋  (横浜市栄区・長尾台町)   
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  **運慶小辞典

**東国武士と奈良仏師の係わりは、いかなる機縁が有ったのだろうか・・・・?  勝長寿院や願成就院の造仏は如何に携わったのだろうか。  これについては、京都の院派や円派の仏師たちが、それまでの院や平氏政権と強く結びついていたため、頼朝の鎌倉幕府に退けられたという説がある。 また定朝正系と称した成朝を、嫡流意識の強い頼朝が採用したなど云う説もある。
   この奈良仏師と東国武士や鎌倉幕府との初期の接点で注目すべき作品に、静岡・瑞林寺の地蔵菩薩坐像がある。 最近の研究から同像の銘文中に、頼朝の側近として活躍した義勝房成尋と見られる名前が確認されたのである。  同像は治承元年(1177)に造立されているので、頼朝の挙兵(治承四年)以前には既に東国武士周辺に於いて奈良仏師が関係を持っていた事になります。    (神奈川県立金沢文庫・瀬谷貴之氏)
  奈良仏師の成朝や運慶の関東での採用は、鎌倉幕府成立以前から東国武士たちと康慶や興福寺との関係に伏線を求めることが出来る。 特に北条時政自身の興福寺との近しい関係は、従兄弟または甥とも考えられる人物に興福寺の有力関係者が存在したと思われる。  勝長寿院と願成就院の相次ぐ創建は、これ等との係わりが推測できる。 なぜなら、鎌倉幕府の成朝や運慶ら奈良仏師の積極的な採用の背景に、北条時政・政子周辺による頼朝への推挙が充分に考えられるからである。  (瀬谷氏)

平成30年戊戌・庚申・癸卯

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戦国時代

2018.07.06(11:00) 161

**戦国期の鎌倉

**二代玉縄城主・北条為昌

    元服式は加冠親を鎌倉代官の大道寺盛昌が務め、盛昌の昌の一字を偏諱(一時拝領)として与えられた。

   為昌は玉縄に加えて三浦郡、武蔵小机領を管轄し、相模川東部から多摩川までに渡る広い地域を支配する様になった。 この当時、北条領は江戸地域が最前線であった為、玉縄城は北条領支配において重要な役割を果たしていた。

   為昌は幼い城主であった為に、氏綱の娘婿の福島綱成(kusima・tunasige)が後見役を務めた。  為昌には北条一族の大部分が襲名している「氏」の通字がありませんが、理由は「元服式」の項で述べたので省略します。

  為昌六歳の頃(小田原城)、安房の里見氏が鎌倉に侵攻、北条軍と鎌倉八幡宮の周辺で戦となり、八幡宮一帯が焼けたと伝わります。  (里見記)

  鶴岡八幡の再建は氏綱によって天文二年(1533)に始まったが、『快元僧都記』に 「為昌彦九郎殿、築地十二間請け取る」 の記録があり、為昌が北条一門として工事に参加し、奈良・京都の宮大工から、伊豆・鎌倉の大工等と共に造営に携わった事が判る。

   天文四年(1535)、甲斐・山中合戦、翌年の入間川合戦などに、父・氏綱、兄・氏康(ujiyasu)(後の3代小田原城主)、叔父の宗哲と並んで一軍の将を務めた。  翌年には扇ヶ谷上杉氏の武蔵川越城(川崎)を攻略して武蔵中央部に進出、城代となる。 

天文五年9月、鎌倉周辺に大雨が続き、大洪水が頻発した為に、為昌は鶴岡八幡宮に祈祷を依頼し、その為に三浦郡大多和村を八幡宮領として寄進した文書が残される。  (鶴岡八幡宮文書)
  それにしても、初期北条氏時代には、『快元僧都記』などの史料に見える様な大地震や津波、大雨の洪水、落雷の被害、あるいは飢饉等が南関東地域に集中して頻発している。 郷村にとっては、戦乱と度重なる天災の襲来した、まさに地獄のような世相であったと思われる。 そのような中、新領主の北条氏に民衆が期待したのも無理からぬ事で有った。
   関東には縁もゆかりも無かった、いわば他国者である北条氏が強大な戦国大名に成長出来たのは、これらの天災や戦乱の後始末を見事に処理し、民衆の心を掌握した結果であると思われる。
 その中で為昌は、軍事・外交・行政のあらゆる側面において、氏綱。氏康父子を支える存在になっていたが、天文十一年(1542)5月、弱冠二十三歳で死去した。    (原因は不明) 

  為昌には実子が無かった為、北条綱成(tunasige)(福島氏)が為昌の養子となって、三代玉縄城主を継承しました。
玉縄城の外堀・・・・柏尾川
DSCN4050.jpg
玉縄城・鳥瞰図
玉縄城鳥観図
大手門付近・石塔
玉縄城址

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  **運慶小辞典

**承久元年(1219)正月に八幡宮にて暗殺された実朝供養の為に北条政子の発願による五大尊像を造仏する。 勝長寿院の傍らに創建された「五仏堂」 に安置された。
晩年期の運慶の造仏は将軍実朝や北条政子、北条義時、高野山の貞暁(頼朝・庶子)など、将軍家周辺の関係に特化している。 運慶の仏師としての地位が高まったからにほかならない。 頼朝周辺の支援による東大寺や東寺復興の造仏・修理への参加、その結果として、霊験性の高まりと、仏師としての最高位である法印への叙任などが反映していったのであろう。
 【勝長寿院・五仏堂(廃寺)】
● 不動明王坐像【120㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失・未再建
● 隆三世明王像【170㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失・未再建
● 軍茶利明王像【200㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失・未再建
● 大威徳明王座像【140㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失 ・未再建
● 金剛夜叉明王像【170㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期消失・未再建
  **運慶は貞応2年(1223)12月11日に没します。  工房は湛慶によって引き継がれ、運慶を祖と仰ぐ仏師たちの活動は近世に至るまで続きます。  奈良・京都の大寺院での赫赫たる事績、鎌倉での活躍。  東寺での舎利出現によって付与された霊験性・・・・・・これらによって運慶の名は仏師の代名詞となり、現在に至るのです。

平成30年戊戌・庚申・己亥

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戦国時代

2018.07.02(07:00) 160

**戦国期の鎌倉

**初期玉縄城の城主

   北条氏綱(ujituna)の時世では、領国の支配拠点として小田原城にもまして重要であったのは、相模川の東部から武蔵との国境にいたる広大な地域を統括する玉縄城の支配権の確立であった。
  玉縄城は現在のJR大船駅の北側に位置し、相模野台地の先端の丘陵地上に、東から南に流れる柏尾川を堀として築城された大城郭である。

   江戸方面と相模を結ぶ交通の要衝に位置しており、三浦方面への首部を抑える要地に当たっていた。  相模侵攻の初期、早雲が三浦半島に勢力を持つ三浦義同(yosiatu)(同寸)を封じるには格好の場所であった。

     玉縄城の城跡は昭和中期までは、かなりの土塁や曲輪等が残っていたが、その後の開発で、それらは大方消滅してしまい、いまでは僅かに本丸周辺の土塁が清泉女学院の敷地の周囲として残されている。

   この城は北条早雲の築城といわれてきたが、史料調査からは、それ以前、扇ヶ谷上杉氏と山之内上杉氏との激しい攻防戦がこの城をめぐって繰り返されており、早雲によって玉縄城は大城郭として補修がなされ、相模東部の抑えとして整備された事が判ってきた。
  推測するに、両上杉氏の攻防戦の間に玉縄城は一部破壊され、早雲が三浦氏からの鎌倉の防御拠点とし、修築して再興したものと思われる。

    玉縄城の初代城主には早雲の次男氏時(ujitoki)が就任した。  しかし、北条氏時に関する史料はほとんど残っていない。
その軌跡はあまりわからない・・・・。 渡内(藤沢市)・二伝寺に残される位牌によると享禄四年(1531)8月に死没し、同寺に墓所がある(未確認)。

二伝寺山門 (藤沢市・渡内)
二伝寺・あじさい
北条早雲禅寺・天獄院山門 (藤沢市渡内)
早雲禅寺
天獄院
DSCN3108.jpg
**二代・為昌(tamemasa)

二代目城主には、小田原本城・氏綱の次男・彦九郎為昌(北条為昌)が継いだ。 為昌の母は兄氏康(ujiyasu)と同様、養珠院殿である。 氏綱の正室であった事は確実で二人の男子を生んでいる。
  為昌は、永正十七年(1520)に、小田原城で生まれている。  叔父の氏時が鎌倉の玉縄城で死没したが、嫡男がおらず本城の氏綱は急遽次男彦九郎を元服させ為昌と名乗らせ氏時の跡を継がせ第二代目の玉縄城主に就任させた。(12歳)
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**運慶小辞典
   
    **幕府第二代執権北条義時発願の運慶作・大倉新御堂薬師如来像を供養。 『吾妻鑑』・(建保6年)の記述から・・・・。
大倉薬師堂は鎌倉末期に真言宗・覚園寺として現在の場所に移っている。  北条義時建立の薬師堂は消失しており、その時に運慶によって造立された薬師三尊・十二神将も当然焼失している。  室町期に再建された薬師堂(茅葺き)は現存しており、薬師三尊・十二神将も再建されている。

 【薬師三尊】
●薬師如来坐像【180㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●日光菩薩立像【150㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●学校菩薩立像【150㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
 【十二神将】
●毘羯羅大将(子神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●招杜羅大将(丑神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●真達羅大将(虎神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●摩虎羅大将(卯神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●波夷羅大将(辰神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●因達羅大将(巳神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●珊底羅大将(午神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●頞儞羅大将(未神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●安底羅大将(申神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●迷企羅大将(酉神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●伐折羅大将(戌神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●宮琵羅大将(亥神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)

**十二神将は薬師如来の守護神。 室町期に再建された神将は150㌢~190㌢でほぼ等身大、すべてが異なった姿勢をとる。 仏師は朝祐(tiyouyuu)。 像内に残された銘文から1401~1411にかけて毎年一体ずつ造られた事が残される。 すべてが国の重要文化財に指定されている。

平成30年戊戌・庚申・乙未

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