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戦国時代

2018.08.30(07:00) 174

**戦国期の北条氏(小田原)

**早雲(伊勢宗瑞)から氏綱へ

     「北条早雲」 は本名を伊勢新九郎盛時という。    盛時は伊豆侵攻の頃に出家して、「早雲庵宗瑞」(souzui)を名乗るようになり、永正十六年(1519)に亡くなるまでこれを続けた。

  苗字を伊勢から北条に改めるのは息子の氏綱の代になった大永三年(1523)の事で、盛時(宗瑞)自身が「北条」 を称した事は無い。

     小田原城を入手したころ、宗瑞はすでに60歳を越え、嫡子の氏綱は成人していた。  しかし、宗瑞はいまだ相模を制圧していない状況下で、家督を譲る事なく老骨に鞭打ち、今川氏親を助けて三河に出陣、一方で上杉方の三浦氏を追い詰めるなど、最前線で戦っていた。
   ただ、永正九年(1512)以降になると、両者が連署して制札を出したり、氏綱だ出した文書に宗瑞が袖判を加えたりするようになり、少しずつ権限を委譲して云ったようである。  そして、三浦氏最後の拠点新井城を陥落させ、相模制圧に成功した時に、正式に家督を譲ったようだ。

    宗瑞は永正十六年8月、病の為伊豆韮山城で亡くなっている(88歳)。  亡骸は箱根湯本に建立していた早雲寺に埋葬された。 後に氏綱は、早雲寺の伽藍を増築して父の冥福を祈った。  湯本に菩提寺を置いたのは、箱根路(東海道)の支配権を示す狙いがあったと思われる。

  家督を継いだ氏綱が最初に行ったことは、印判状の発給だった。   伊豆の代官に宛てた諸役賦課手続きを定めた文書が初見、「禄寿應隠」(rokujiyuouin)と云う字を四角の枠で囲み、その上に虎が伏せる絵が描かれた印章が使われ、伊勢(後に北条)氏当主「虎の印判」 として、滅亡する天正十八年(1590)まで使われる。   印判状は、花押を据える判物に比べて簡便であり、大量発給に適している。  また、その分だけ薄礼で、発給者の権威の強さを示す象徴ともなる。
  初見の文書では、今後役を賦課する時は、虎の印判を捺した文書で伝えるので、代官の命令だけなら従わなくても良いと書かれている。  実際、虎の印判状は主として民生関係文書に使われた

**代替り検地

    小田原周辺や鎌倉で大規模な検地を実施した。  検地は、年貢・軍役などの役の負担者や負担量を確定するために行われるが、往々にして増分が算出されるので、実施される側にとっては迷惑な面もある。  しかし、土地に対する年貢取得権や耕作権を保証される事にもなる。 
       瑞泉寺(鎌倉・二階堂)     (八月)
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   日本の中世では、荘園制下の代官交代時の検注のように、そうした権限を有する者が変わる際に、土地調査が広く行われてきた。   この場合は、伊勢氏の当主が替わった事によるもので、「代替り検地」 と呼ばれ、以後も歴代当主によって行われた。これも、伊勢氏の地域権力としての地位を、広く周知せしめる事績であった。

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      **運慶小辞典

**この項では運慶作品の中でも特に運慶自身による造仏という事が証明されている作品を取り上げたいと考えています。
   まずは、20代の運慶が11ヶ月をかけて制作した端麗なデビュー作。  『大日如来坐像』 (奈良県円成寺蔵)・・・です。
大正九年に旧国宝に指定され、蓮華の天板裏から墨書銘が発見され、仏師・運慶によって製作された事が判明した。  銘文には「大仏師・康慶(koukei)実弟子運慶」 とあり、父康慶の受注した仕事を運慶が造仏したと考えられる。 また銘文の末尾には運慶の花押が据えられ、仏像に制作者である仏師が明確な意思を持って署名した最初期の事例として知られる。
才気溢れる青年仏師の作品にふさわしい溌溂とした雰囲気をたたえる。 平安期の優美なニュアンスが残るものの、現実の人間の体に学んだだろう写実性が見られる。
  通常の4~5倍の制作期間をかけており、頭髪や高く結い上げた髻にほどこされた(宝冠ごしに)緻密な毛筋彫りには念入りな仕事ぶりが覗える。        2011・02・11 於・金沢文庫「運慶展」 

〇 大日如来坐像【90・0㌢(等身)木造寄木造り漆箔玉眼】 仏師・運慶 安元二年・現存(国宝)
    奈良・円成寺所蔵  運慶作の根拠・・・台座天板裏の銘文と花押
円成寺・大日
(資料)    【特別展】 金沢文庫80年『運慶』図録より
  **大日如来とは
 ◆ 密教に於ける中心本尊で、宇宙の真理そのものを表す。 密教とは、大衆に向かって解りやすい言葉で説かれるそれまでの仏教に対して、師から弟子への秘密の教義とシンボリックな儀礼を伝授する、7世紀にインドで成立した大乗仏教のニューウエイブである。
 ◆ 大日如来には、「大日経」 で説かれる胎蔵界大日、『金剛頂経』 で説かれる金剛界大日の別があるが、密教の正規輸入者である空海がプロデュースした東寺講堂本尊をはじめ、彫刻の違例はは後者が圧倒的に多い。 三点が残る運慶の大日如来も金剛界大日である。
 ◆ 他の如来像とは異なり、宝冠をかぶり、装身具をおびた、菩薩の姿で表現される。

平成戊戌・辛酉・甲午
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戦国時代

2018.08.26(07:00) 173

**戦国期の北条氏(小田原)

**戦国大名への径
    
    小田原北条氏は氏綱(ujituna)(小田原城主)以来、伊豆・相模から武蔵へと支配領域を広げ、更に上野・下野・下総・常陸の領主たちを傘下に収めてきた。
   鶴岡八幡宮造営事業が行われている天文六年(1537)ころ、八幡宮に対し「家門と分国の安泰」 を祈祷する様依頼している。  この「家門」 と「分国」 がセットになっている事が、実は重要であり、  戦国大名領国とは何かを考えるキーワードらしい・・・・・・。

「分国」 とは、頼朝の鎌倉時代、関東御分国のように、荘園制下の知行国、朝廷の支配権が分けられた国の意味であり、幕府の地方支配責任者である守護の管轄国という意味で使われるようになった。
  北条氏は、支配下に置いた地域の守護に任命されていなかったので、その様な意味で使われているわけでなく、もう少し多義的に使われていたようだ。

     それでは、「家門」 とは何だったのか。当然北条家の事である。 「家」 は、当主の一族と従者によって構成される血縁・主従の人的結合体で、当時の武家社会では「家中」 とも呼ばれた。 「家中」 は時代劇などでも馴染のある言葉だが、戦国大名の「家中」 には、私達が思い浮かべる近世の「家中」 とは違った性格があったようだ。
   近世大名の家臣はすべて大名の「家中」 に編成されており「家中」 は家臣団の総称である。
     それに対し戦国大名は、家臣のすべてを「家中」に含んでおらず、独自の「家中」を形成する有力国人領主【国衆(kunisixyuu)】的家臣も抱えていた。  従って、戦国大名と呼ばれる権力は、厳密にいえば戦国大名「家中」 を中核とする家の連合勢力だったと言える。

    北条氏の場合も、相模・伊豆という中核地域の周辺には武蔵の忍(osi)城主・成田氏をはじめ多くの国衆的家臣が居た。 彼らは自立的所領支配を展開しており、大名との主従関係も北条氏「家中」 メンバーに比すればずっと穏かで、離反の危険性も大きかった。 だからこそ大名「家中」は結束する必要があり、「安泰」 なしには「分国」 統治は安定しないのである。

このように、戦国大名支配の仕組みを理解するには、領国を統治する公権力的側面と、主従制によって家臣を編成する側面とを統一的に捉えるえる事が必要である。

**小田原北条・二代氏綱(ujituna)が家督を相続した前後、永正年間初期は全国的にみると、各地で内乱が繰り広げられて勝者が戦国大名となり(十六世紀前半)、さらに大名間の領土紛争が激化し、戦国争乱の時代であった、東国も例外ではなく、他地域と比べても激しい動乱の展開する時代だった。    

*この動乱の時代、新興勢力の北条氏が台頭し、古河公方足利氏や関東管領上杉氏ら伝統勢力を打ち破って関東に大領国を形成し、豊臣氏との争いに敗れ滅亡するという流れで捉えてきた。   しかし、戦国の争乱は単なる領土の争いではなく、中世に替わる新しい社会秩序を作り出す運動でありその主導権を巡り「村」 「郡」 「国」 といった単位で重なり合って抗争を展開していた。   北条氏は、そうした動きを取り込む事により、広大な領国を形成したのである。
萩の寺・鎌倉海蔵寺     (鎌倉市・扇ヶ谷)
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    **運慶小辞典

**伊豆の古刹・修善寺の本尊・大日如来坐像。    保存修理の際、像内の銘文が確認され、治承四年(1210)大仏師・実慶の制作と判った。 同時に像内から落飾した女性の頭髪とかもじ(かつら)が発見された。

〇 大日如来坐像【103・6㌢木造寄木造り漆箔玉眼】 仏師・実慶 治承四年・現存(重文) 修善寺蔵

  【伊豆・修善寺 大日如来坐像】
修善寺・大日
(資料)   平成30年 金沢文庫・特別展 「運慶」より

* 「吾妻鑑」 によれば、本像が造立される四十日前には、頼家の妻である辻殿が落飾している。  このことから、本像は、二代将軍・頼家の供養の為に、辻殿が最晩年に発願し、間もなく没して、造立されたもので、髪やかもじは、辻殿のものと推定されている。

平成30年戊戌・辛酉・庚寅

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戦国時代

2018.08.22(07:00) 172

**戦国期の鎌倉

**玉縄北条氏・家名断絶

   氏勝没後、慶長十七年(1612)6月氏勝の弟北条常陸介新左衛門繁広が没した。    遺骸は岩瀬・大長寺の墓所に送られ、母の七曲殿、祖母の綱成夫人・大頂院と同じ墓所に葬られた。  嫡男・北条安房守氏長(ujinaga)は、将軍家旗本として家禄の継承を許された。

    岩富城で没した氏勝の、玉縄北条宗家は、家康・秀忠の命により氏重(ujisige)・(保科正直(masatada)の四男、母は家康の異父妹、文禄四年生まれ十七歳)が養子となり、北条氏を継ぎ、従五位下出羽守に叙任された。その年の末に下野・富田(栃木・大平町)転封され、下総岩富城は廃城とされた。 

    大阪冬の陣で氏重は、和泉岸和田城を守り、夏の陣にも出陣している。  さらに駿河久能山城に転封、大番頭となる。
寛永十七年(1640)、下総関宿城(野田市)に二万石にて転封。 さらに遠州・掛川城に三万石で転封となった。


    万治元年(1660)、六十四歳で没する。  嗣子なきため、玉縄城築城以来脈々と続いた玉縄北条家もついに家名断絶となった。   北条氏重が掛川城に転封になった時、龍寶寺の玉縄北条氏の墓所を掛川城下に移転して檀家を離れた。  間もなく城下に氏勝法号の上獄寺を創建して菩提寺とした。   しかし、ここに氏重の墓はあるが、龍寶寺から移したと言われる玉縄北条家三代の墓は無い。

   完


    **運慶小辞典

**次の居残り組の作者は康慶(koukei)(運慶・父)の弟子と言われている宗慶(soukei)です。  埼玉県加須市の保寧寺(honeiji)に伝わる【不動明王および二童子像】ですが、現在は保寧寺にはなく個人の所蔵となっているそうです。
    保寧寺にはやはり建久年間に造られた阿弥陀三尊像(重文)(作者は不明)が伝わり寺宝となっている。   加須の地は武士団・武蔵七党の根拠地だったので、仏師たちへの造仏の依頼は多かったに違いない。

〇 不動明王坐像【76・4㌢木造寄木造り彩色・玉眼】 仏師・宗慶 建久年間・現存(重文) 個人蔵
〇 矜羯羅童子像【60㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 仏師・宗慶 建久年間・現存(重文) 個人蔵
〇 制吒迦童子像【60㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 仏師・宗慶 建久年間・現存(重文) 個人蔵

 【不動明王及び二童子像】
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(資料)       芸術新潮 2017・10月号より

*【運慶願経】の奥書・結縁者の名を眺めると、快慶や宗慶・実慶など慶派の仏師たちに続いて「阿古」 「岩」 「千歳」 など女性らしい名が記載されている、工房に女性の名前が・・・・地味な裏方の存在が見えてきます、工房に共に働く制作現場を連想させてくれます。

平成30年戊戌・辛酉・丙戌

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戦国時代

2018.08.18(07:00) 171

**戦国期の鎌倉

**譜代大名の列

    天正十八年8月に、岩富城(佐倉市)に入り、翌年には秀吉の太閤検地に伴い、岩富領の検地をおこなっている。 氏勝はこのころ、家督を嫡男・善九郎氏明(ujiaki)に譲っているが、豊臣秀吉は朝鮮出兵を諸大名に伝え、文禄の役が始まった。

    氏勝は家康配下の先兵として、九州肥前国(佐賀松浦郡)の名護屋城(nagoya)に着陣。 松浦半島波戸岬先端に近い位置に陣営を構えたが、渡海はしなかった。  その後一年余りの参陣であったが、自国の領国経営が充分にできない状況であった。

 慶長元年(1596)に、嫡男氏明が病没したため、氏勝が再度当主となった。  家康が太閤の命により会津・上杉景勝を攻撃するため下野国(栃木)小山に出陣した。 その時も氏勝は弟の繁広と共に参陣し、関ヶ原の戦いには家康に従って三河岡崎城、尾張犬山城を守備、中山道を進軍する徳川秀忠(徳川二代将軍)に御前(食事)を饗応し、馬を献上して、羽織を賜り、合戦後家康の入洛にあたり丹波亀山城の守備に就いている。

慶長十三年(1608)、このころ氏勝は病を患っていたようだが、領内の真言宗・寶金剛寺(佐倉市)に袈裟を寄進した記録が残される。  十六年には病は回復せず岩富城内にて帰らぬ人となった。 波乱万丈の53年間であった。 遺骸は寶金剛寺に葬られ、法号は『清覚院殿恵公居士』・・・・・寶金剛寺     『上獄院殿角翁良牛大居士』・・・・・龍寶寺     『法輪院殿窓雲常観大居士』・・・・・北条家過去帳  の三種の位牌が残される。 
鎌倉・玉縄 龍寶寺山門     (鎌倉市・植木)
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伝・北条綱成・氏繁・氏勝三代城主の墓石     (鎌倉市・植木龍寶寺】
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     **運慶小辞典

**次の東国居残り組の遺産は、「運慶願経」 にも結縁者として名を連ねる仏師・実慶(jitukei)の作、『阿弥陀三尊像』です。

〇 阿弥陀如来坐像【89・1㌢木造割矧造り漆箔玉眼】仏師・実慶 建久年間・現存(重文)かんなみ美術館蔵  
〇 観音菩薩立像 【110㌢木造割矧造り漆箔玉眼】 仏師・実慶建久年間・現存(重文)かんなみ美術館蔵
〇 勢至菩薩立像 【110㌢木造割矧造り漆箔玉眼】 仏師・実慶建久年間・現存(重文)かんなみ美術館蔵
   【阿弥陀三尊像】
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 (資料)          芸術新潮2017・10月号から 

*この三尊像が伝わる静岡・桑原の地には、頼朝挙兵直後に戦死した北条時政の嫡子・宗時(munetoki)、(政子・義時の兄)の墳墓堂があった事から時政発願の像である可能性を見る。   尚中尊・阿弥陀如来像は来迎印を結ぶ。
  仏師・実慶は康慶(koukei)・(運慶・父)の弟子と考えられ、運慶から見て兄弟子と位置づけられ、慶派に属する仏師と思われる。(私見)

平成30年戊戌・辛酉・壬午

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戦国時代

2018.08.14(07:00) 170

**戦国期の鎌倉

**玉縄城無血開城

    鎌倉市岩瀬の大長寺に伝わる「大長寺由緒書御調文書」 によると、大長寺・4世住職の源栄上人は、大長寺とと同じく玉縄城三代城主・北条綱成開基の玉縄山居にある大応寺の住僧・良達(了達)上人と図り、北条氏勝に玉縄城の不戦開城を説得し、氏勝は徳川家康の要請を受け入れ、無血開城を承諾した。

 氏勝は天正十八年(1590)、源栄上人と良達上人に伴われ、小田原・酒匂口の家康陣所に行き、開城の旨を伝え、家康の仲介で豊臣秀吉本陣(石垣山城)・(一夜城)に伺候した。

   六代78年続いた鎌倉・玉縄城は無血開城し、氏勝は薙髪して恭順を誓った。  これによって秀吉より助命され、家康の配下に属する事になった。  玉縄城は家康の家臣・水野織部正忠守の預かりとなる。  氏勝は昨日まで味方、北条軍武蔵方面に点在する支城攻撃に参陣する事になる(氏勝32歳)の再出発である。
後北条氏(小田原北条氏)ゆかりの寺院 曹洞宗・天獄院 山門・参道
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   石田三成(秀吉軍)の軍勢が、武蔵の忍城(行田市)攻略に着陣。 北条氏勝も昨日までの宿敵大谷吉継・佐竹義宣・長束正家・宇都宮国綱・真田昌幸らの武蔵・上総・下総衆、二万三千の攻めての中に、忍城大宮口に参陣した。 
一方で、忍城側は城主・成田氏長が小田原城に籠城しており、氏長の叔父・成田泰季が城代を務め4,000の守備兵であった。

    その小田原城は天正十八年七月に開城した。 秀吉が小田原城に入ったその時期に家康の関東移封が伝えられたようだ。
   氏勝が参陣している忍城は、小田原開城後に開城家康は江戸に入り、氏勝も共に江戸に入った。  間もなく、北条氏勝は下総岩富領一万石を与えられ、譜代の列に加えられた。     

次回へ


   **運慶小辞典

**次の東国居残り組運慶工房の造仏作品は藤沢市・養命寺に伝わる、薬師如来坐像です。  引き締まった顔立ちと量感のある体躯から運慶工房の作とされる。 御家人・大庭景義(kageyosi)の息子景兼(kagekane)の守護仏で、近くの薬師堂の本尊だったらしい・・・。   12年に一度の寅年御開帳の秘仏として鎮座する。 日光・月光の脇侍は消失してしまったのか不明だ。

〇 薬師如来坐像 【88・5㌢木造寄木造り・漆箔・玉眼】 運慶工房 建久8年現存 (重文) 養命寺蔵
   【養命寺・薬師如来坐像】
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(資料)           芸術新潮・2017・10月号から

*作者は具体的には不明であるが、工房のうち東国に留まった仏師達の作であると考えられている。   少なくとも、兄弟子?・実慶 は残留組であり、その周辺の作品であろう・・・・。

平成30年戊戌・辛酉・戊寅

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戦国時代

2018.08.07(07:00) 169

**戦国期の鎌倉

**続・小田原北条攻め(秀吉)

   玉縄城が不戦開城を決した説として一般的に伝わっているのは、徳川家康の家臣本多忠勝配下の、都築弥左衛門(tuzuki)、松下三郎左衛門の両名が城主の北条氏勝と知人であったから、この二人を使者として降伏を説得したのだが、当然承知をしなかった。
  しからばと、三郎左衛門と同族で、龍寶寺の住職をしている龍達(了達)和尚が、氏勝と師弟の関係にあったので、三郎左衛門は、この龍達和尚に相談し、氏勝を説得したという説である。

曹洞宗・龍寶寺山門・本堂  (鎌倉市・植木)
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ところが曹洞宗・龍寶寺は、玉縄城開城の35年後の寛永二年(1625)に寺号変更し現在地に移転したのであり、開城時点では玉縄・山居の地に大応寺として存在していた。  この寛永二年には、徳川家光より松平正綱(masatuna)が玉縄領22,200石を拝領し、大名として玉縄に陣屋を構えている。
   この説に基づき玉縄城開城82年後の寛文12年(1672)に江戸神田鍛冶町・木屋作兵衛の「軍記物語」・(北条盛衰記)の根拠となっている。   一方、鎌倉市岩瀬にある大長寺・由緒書御調文書によると、氏勝が不戦開城を決意したのには、次のような事が根底にある。

*大長寺・・・・・綱成夫人の大頂院・4代城主氏繁夫人の七曲殿他一族の墓所がある

氏繁夫人・七曲殿縁の七曲曲輪・曲輪門
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徳川家康は、徳川家菩提寺・三河国岡崎の大樹寺の住職・登誉上人の話から、相州玉縄北条氏鎮護国家祈願所であり、菩提寺でもある浄土宗・大頂寺(大長寺)四世住職源栄上人の存在を知る。  源栄上人は徳川家檀縁の浄土宗・観智国師の弟子にして俊才の学匠であると聞いた事から、本田忠勝を通じて家康の氏勝説得の内命が下った。

*大樹寺・・・・・松平家代々の墓所であり、家康の父・松平広忠(hirotada)の墓所もある

次回の更新8月14日予定





**運慶小辞典
   
**鎌倉・永福寺の造仏作業を終えた、運慶と運慶工房の仏師たちは、奈良東大寺の造仏に携わるため建久六年(1195)の春までには西上している。  一方で工房の仏師の中には、その後も東国に留まった者がいる事は遺作から明らかです。
 運慶と工房の人たちは10年に渡って東国にあり、将軍、大御家人から中小御家人まで、幅広い需要にこたえて造仏に励みました。  そこで勝ち得た信頼が故地南都で大きく実を結ぶ事になるのです。

  そこで今回は、その東国に残った、居残り組運慶工房の造仏作品を紹介します。  
   【横須賀市・満願寺】
〇観音菩薩立像【224・2㌢木造・彩色・玉眼】運慶工房鎌倉初期・現存(重文)萬願寺蔵  浄楽寺諸像と造形近い
〇地蔵菩薩立像【203・7㌢木造・彩色・玉眼】運慶工房鎌倉初期・現存(重文) 々         々
満願寺・観音・地蔵の両菩薩像
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(資料)・・・・・・・・芸術新潮・・2017・10月号より

*三浦半島の豪族・三浦義明の子息佐原(三浦)義連(yositura)の発願によって創建され、同時に観音・地蔵の両菩薩が供養された。  高く結い上げた宝鬢、男性的な面相、量感に富んだ体躯は武芸で鍛えた義連の力強さを表現しています。

平成30年戊戌・辛酉・辛未

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戦国時代

2018.08.03(07:00) 168

**戦国期の鎌倉

**山中城籠城戦・城普請

    豊臣秀吉による二回目の惣無事令が、関東及び奥羽の諸大名に発せられて以降、秀吉は完全に北条氏を敵対者とみなす。  小河原城主・北条氏直(ujinao)は秀吉の九州平定の次の目標は関東である事を見極め、緊張の極みに達していた。
   天正十七年(1589)の10月、の名胡桃城(nagurumi)奪取事件で合戦必至となり、総動員令が発せられた
   11月になって秀吉は北条氏直に対し宣戦布告を出し、諸大名に小田原(関東北条領)への出陣命令を発し、た。  北条方では秀吉軍の侵攻に対する策として箱根外輪山山麓の山中に(標高500㍍の地点)、北条流築城術で新たに城を構え、城主に松田右衛門太夫康長(yasunaga)を配置したが、松田氏は小勢の為、北条宗家の常に最前線にあった六代玉縄城主・北条氏勝を添えた。
   氏勝は与力侍の玉縄衆、間宮豊前、朝倉能登ら四千の城兵と共に山中城籠城戦のための準備と城普請にかかり、玉縄城留守役は堀内日向守勝光に託す。

   天正十八年(1590)3月、秀吉は沼津に着陣し、豊臣秀次を大将とした中村一氏(kazuuji)・山之内一豊(kazutoyo)ら圧倒的に優勢な五万余騎で攻め上った。
  激戦の中で松田康長と間宮豊前(buzenn)ら主だった玉縄衆は一歩も引かず討ち死。  日も暮れて氏勝は、戦いの習いで一度や二度負ける事は恥ではないが、城が落ちては面目が無い、このまま小田原に帰参するのは無念であると考え、間宮豊前の孫、彦四郎(十五歳、後に家康に認められ旗本に取り立てられた)を始め氏勝の弟、新八郎直重(naosige)・新蔵繁広ら一族郎党十八名すべて髻(motodori)を切り、箱根山中間道を通り、小田原の久野にぬけ、玉縄城に帰城、城では山中城落城の報を耳にした直後、氏勝が帰還した事で喜びに包まれたという。 
玉縄城・長尾砦跡    (横浜市栄区・長尾台)
長尾砦2
長尾砦跡付近を流れる・外堀柏尾川     (横浜市栄区長尾台)  
 柏尾川
柏尾川の更に外側を東海道・横須賀・根岸・貨物線の各線が走り、玉縄城は難攻不落の城であった。??
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氏勝は玉縄領内の寺社に対し、兵糧米の徴発や、敵が見えたら加勢する事を厳命し、玉縄城守備兵七百騎にて籠城戦を覚悟する。

次回へ

**運慶小辞典

*永福寺・阿弥陀堂の諸仏

   *二階堂の項でも記述したが、やはり、阿弥陀堂についても『転法輪鈔は何も残していない・・・・・・。   例によって瀬谷貴之氏推測による運慶の造仏供養の推定を試みる。

  【阿弥陀三尊像】
● 中尊・阿弥陀如来座像【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 左脇侍・観音菩薩立像【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 右脇侍・勢至菩薩立像【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建

**廃寺となった永福寺は池を配した浄土庭園を備えた壮大な寺院であった事が発掘調査から覗える。  残念ながら度重なる火災や災害によって、室町期の後半には廃寺となったようだ。   現在は基壇と苑池が再現され史跡公園として公開が始まりました。

【永福寺・阿弥陀堂中尊・阿弥陀如来坐像】  向かって右側

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平成30年戊戌・辛酉・丁卯

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2018年08月
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