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戦国時代

2018.09.27(07:00) 181

**戦国期の北条氏

**検地と貫高制

   戦国時代の日本は農業社会であり、富の源泉は基本的に土地にあったから、、社会秩序を維持するためには土地制度の安定が不可欠であった。 所領をめぐる紛争にせよ、年貢・公事をめぐる紛争にせよ、対象となる土地に関する権利・義務関係が問題になるからである。

  北条氏が実施した検地は、土地に対する給人の年貢取得権や百姓の耕作権の所在や収穫量を確定する事を目的とするものだったと言える。                                                 北条氏は氏綱・氏康に渡って小田原周辺や鎌倉更には相模・武蔵・伊豆で、集中的に検地を実施している。 これは、国主の代替りにあたり国土支配権に基づいて行われたものであり、同時に家臣との知行関係の再確認、すなわち代替り安堵の性格を持っていた。  また北武蔵で集中的に検地が実施されているが、これは河越合戦勝利後、新たに国土に編入された地域に対する征服地検地と考えられている。

    北条氏の検地の特徴は、第一に検地結果が「検地書出」として郷村を単位に示される場合が多い事、第二に検地の内容が銭の量である貫文高によって示されている事である。
  第一の特徴が生まれるのは、北条氏が郷村単位で代官を置き支配を担当させ、郷村の百姓中に年貢・諸役の納入を請け負わせていた事に依っている。 第二の特徴が生まれるのは、諸役を賦課する時の基準数値として貫文高を使っていた事、すなわち支配制度の基本として貫高制(kandakasei)を採用していた事による。

田の面積の、貫高は反別500文、畠の面積の貫高は反別165文と設定され、ここでは1反は360歩とされた。  ここから神田(sinden)・公事免・井料・代官給・定使給の20貫文が控除され「定納」額となる。

このように検地は、田畠の面積を測った上で、それぞれの反別貫高をを掛け、その合計を郷村の貫高とするという方式で行われていた。  これは賦課基準高で、実際の年貢は様々な控除を差し引いた上で決定された。   この基準高×0・06が租税である懸銭となる。 この場合郷全体が直轄領だったが、給地があった場合は、基準高は軍役負担量決定の基準となった。  貫高制は、こうした意味で、土地と関わる百姓・給人に対する共通の基準として機能した。

次回は、支配領の編成をレポートします

**運慶小辞典・・・・今回はお休みです。

平成30年戊戌‣壬戌‣壬戌
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戦国時代

2018.09.23(07:00) 180

**戦国期の北条氏

**領国の仕組み

   長尾景虎(上杉謙信)の越山についてのレポートに移ってしまった。本題に戻る。

  北条氏は永禄十二年(1569)に「人改め」を実施し、百姓を国土防衛に動員する体制を作り出した。  その命令書では、これは「御国」の役なので、きちんと勤めなくてはならない、そもそも今のような乱世では、「その国」に住んでいる者は国土防衛戦に参加する事は義務であり、忌避したら直ちに処罰する。・・・・というものであった。

 なぜ、このような説明をしたのだろうか・・・・。中世のような身分制社会では、軍事は武士身分に属する者の役割であり、大名領国では大名から給分を与えられた侍が、その反対給付として軍役を勤めるのが原則であった。

   百姓身分の者は、軍事物資を運ぶ陣夫役や城の建設・修理を行う普請役の義務はあっても、本来は戦闘に参加する義務は無かった。  そこで北条氏は、彼らを動員する為,国家の倫理を持ち出し、正当化を図ったのである。  豊臣政権との関係が悪化しつつあった天正十五年(1587)にも、北条氏は「人改め」 を行っていいるが、侍・百姓をを問わず「御国御用」を勤めるよう命じており、「御国」に住む男は皆戦わねばならないのだとしている。  国家への忠誠は「御国」に奉仕する事によって果たされるとする。

   国家の役割が、外に向かっては国土防衛にあるとすれば、内に対しては社会秩序に維持があり、その柱は紛争解決ののための訴訟処理、すなわち裁判であった。  
  戦国期の東国社会では日本の他地域と同じように紛争が頻発し、公権力による裁判制度の充実が社会に求められていた。  北条氏は、その課題に応えるべく、様々な施策を行っている。 

裁判を行うには、準拠すべき法が無ければならない。   戦国期の地域権力が制定した法は、「戦国家法」等と呼ばれ結城氏新制度・・・今川氏の今川仮名目録・武田氏の甲州法度之次第・伊達氏の塵芥集などの法令集がある。

    北条氏は法令集を作成することは無かったが、「御国法」として様々な単行法令を制定している。    内容は、逃亡した百姓‣下人を取り返す「人返し」、三島社の祭銭納入、検地増分の処理方法、反銭の徴収など、民政に関わるものが多い事が判る。
  訴訟手続きに関する法令は無いが、評定衆が発給する虎の印判が押された裁許印判状が多く残っており、訴訟が受理されると特定の裁判員による審理が行われ、大途(daito)の名において判決が下されたと考えられる。  こうした制度は、残っている裁許印判状の発給から、天文末~永禄初年(1550)代に確立したと思われる。

大途・・・・・北条家当主の事

2018夏・瑞泉寺
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北条氏が各郷村の百姓中に発給した虎の印判状では、代官が新たに設定した役銭以外の「公事」を賦課した場合は、「御庭」に参上して直訴することが認められていた。   こうした百姓中からの直訴に応じるため、、北条氏は目安箱を設置した。 これを氏康は、徳政の一環として行われている「雑訴興行」だと自賛している。

   北条氏が大途として個別領主の民衆支配にまで介入している事は注目されるが、こうした訴訟だけが取り扱われていたわけではないことは勿論である。 裁許印判状が発給された案件の中には、武士や寺社など領主同志の所領をめぐる論争もあった。

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     **運慶小辞典

◆◆   運慶作品・晩年作…大威徳明王像
平成19年に像内から取り出された文書の奥書から、「源氏大弐殿」の発願で「法印運慶」が制作した像である事が判明した。
 本来は三面六手六足で水牛に跨っていたはずだが、水牛と足のすべてが失われ、腕も完存するのは一本だけ。 これほど傷みが激しく、又小さな像でありながら、頬が張り目鼻が中央に寄った顔立ちや、メリハリの利いた太づくりの体躯は、運慶らしい・・・・。   2011・2・18  於・金沢文庫
 
  *大威徳明王とは・・・・・サンスクリット名のYamantakaは、「死神ヤマに打ち勝つもの」の意。 密教の尊格で五大明王の一つ。戦勝を祈願する修法「勝軍法」の本尊として単独でも祀られる。

〇 大威徳明王像【21・2㌢木造割矧造り彩色截金玉眼】 仏師・運慶 建保四年・現存(重文)    称名寺光明院所蔵  像内納入文書・作風
     大威徳明王像
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(資料) 芸術新潮2017・10月号より
◆◆ 建保年間、運慶の仕事は再び鎌倉幕府、それも将軍の周辺に集中します。  実朝は鶴岡八幡宮の愛染明王を祀る北斗堂(愛染堂)を建立しますが、仏像の作者はやはり運慶でしょう。  光明院の像は本来、大日如来・愛染明王・大威徳明王の三尊構成だった事が納入文書から知られる。   これらは京で制作されたものを鎌倉に送ったと考えられています。 

平成30年戊戌‣壬戌・戊午

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戦国時代

2018.09.19(07:00) 179

**戦国期の北条氏

**北条氏の反攻

 同じ時期に、関東でも北条氏の反攻が開始された。
北条氏康の松山城(埼玉・吉見町)の攻撃が開始された。   次にすでに上杉方に転じた三田氏の勝沼城(青梅市)攻撃に着手しており、翌年には陥落させ、三田氏の領地・家臣団ともに、息子の滝山城主(八王子市)・氏照(ujiteru)に管轄させている。  

    一方で、信玄も、時を同じくして西上野に出陣して、小幡氏の国峰城(群馬県)を攻め落とした。  さらに信玄は、氏康の松山城攻めを支援した後、両者共同で倉賀野城(高崎市)を攻略、すでに、武田ー北条間で北武蔵・西上野の支配権をめぐる合意が成立していたのだろう。

関東には上杉謙信を後ろ盾と頼む諸将が救援を待っており、謙信は毎年のように「越山」を繰り返す事になる。   謙信は、太田資正の救援依頼をうけて、越後府中を出馬、上越国境を越えて沼田に到着。  随分と難行だったようである。  松山城は城兵の奮闘により持ちこたえていたが、なぜか謙信の進軍も遅かった、城付近10㌔ほどに到着したが、籠城軍は力尽き降伏してしまった。    憤懣収まらない謙信は、若い兵隊の鬱憤を晴らすとして、近くの騎西城(kisai)(加須市)を攻撃した。    謙信に遺恨を抱き、北条方に転じた成田長泰の実弟小田朝興が城主だったため、この挙に出たのである。

 「謙信の越山」・・・・関東方面への国境超え支援  
   夏・鎌倉瑞泉寺 「芙蓉」・「曼殊沙華」
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松山城落城後、北条方による岩村城への圧力が強まり資正は再び謙信に援軍を要請した。しかし、多方面に課題を抱える謙信は直ちに応じることが出来ず、房総の里見氏に出陣を要請した。   里見氏は、北条方による久留里城(君津市)包囲という危機を、謙信の越山により切り抜けた後、急速に勢力を拡大していた。
   まず、北条軍の撤退した上総の旧武田領を取り戻し、さらに下総に進出して、千葉方の本拠中島城(銚子市)を攻撃している。 これに対し千葉氏は、北条氏との連携を強化して武力抗争に及んでいた。

   里見氏の勢力拡大による侵攻に対し、氏康・氏政父子が陣頭指揮を執り、遠山綱景(tunakage)率いる江戸衆を主力に、北条氏照(ujiteru)率いる滝山衆や北条綱成(tunasige)・氏繁(ujisige)の玉縄衆など、武蔵・相模の軍勢が迎え撃った。 戦いは二日間に及ぶ撃戦となり、北条方は千余人が戦死したというが、北条方の勝利で終わったという・・・・・・・・。
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      **運慶小辞典

 ◆◆ 今回の運慶作品は東大寺再建を成し遂げた勧進僧・重源上人の風姿「重源上人坐像」です
銘文や文献の裏付けを欠き、作者や制作時期は正確には判らない。 しかし、東大寺再建事業での重源との関りや作風から、運慶を作者と考える研究者は多い。
    制作時期は従来、建永元年(1206)に重源が86歳で没した直後とする意見が多かった。  この項では重源生前の正治二年(1200)説をとる。 (理由は後述する)

〇 重源上人坐像【81・8㌢木造寄木造り彩色彫眼】 仏師・運慶 正治二年・現存(国宝) 俊乗堂蔵   重源周辺の状況と作風
     重源上人坐像
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(資料)2013・11「東大寺展図録」より 於・金沢文庫

◆ 老いの様相を迫真的にとらえた顔貌の描写に息をのむ、皮がたるみ筋が浮いた首、そげた頬にたたまれた皺、左右で開き方が違う目、その下に垂れた肉、頑固者らしく結ばれたくちもと・・・・・・。  H23・11・17 於・金沢文庫東大寺展    
    写実的な彫刻は偉大な行動人の風貌を生々しく伝えられ、唐招提寺の【鑑真和上坐像】とならぶ肖像彫刻の最高傑作とされる。
◆ 重源は別当在任中に80歳に達した。これは釈迦の享年ですから仏者にとって単なる長寿で愛でたいという以上の意味を持ちます。 重源像は重源の八十賀(hatijiyuuga)を機に、その復興活動に対する東大寺の感謝の意を込めて造られたものというシナリオです。正治二年(1200)制作説 金沢文庫・瀬谷貴之氏

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戦国時代

2018.09.15(07:00) 178

**戦国期の北条氏

   **越後国主・長尾景虎

  長尾景虎は、関東管領・山之内上杉憲政(norimasa)の祖父である上杉顕定(akisada)を討った越後守護代長尾為景(tamekage)の子として、越後で生まれている。
  そのころの越後は、天文の乱が始まった頃で複雑な性格を帯びていた。  きっかけは、父為景の守護上杉房能(fusayosi)からの奪権に反発する上杉氏一族上条定憲(sadanori)の挙兵だったが、国人領主たちは為景の統制強化を快く思っておらず、大半が潘為景方となった。 その為、乱は20年に渡って続き、為景は引退に追い込まれた。しかし、強力な広域統治者が必要だったのは越後でも同じで、その地位を巡って長尾氏一族内部の主導権争いに転化していた。 (府内・長尾氏と上田・長尾氏)
鎌倉幕府執権邸跡・宝戒寺の萩     (鎌倉・雪ノ下)
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海蔵寺の萩と彼岸花  (鎌倉・扇ヶ谷)
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そのなかで、国人領主や上杉方の抵抗を鎮圧し、父の跡を兄晴景(harukage)や上田長尾政景(masakage)との抗争に勝利した景虎が国王の座に就くことにより、ようやく乱は鎮まったのである。   (景虎22歳)

    この乱を勝ち抜いた景虎が、優れた軍事・政治手腕を持っていた事は疑いあるまい。  だからこそ、その声望が関東にまで及んでいたのである。  上杉憲政が過去の経緯を捨てて越後に逃げ込んだのはその直後の事で、意気上がる青年景虎は、次の目標が出来たと大歓迎した事だろう。

  しかしながら、服属したとはいえ、国主の統制への国人領主たちの反発は依然強かった。 それに対し、景虎は、国王の座を降りて遠国に赴く意思を表明するという思い切った行動に出た。 越後の争乱を終息させ、統治に励もうと考えていたが、家臣たちは考えがまとまらず云う事を聞かず、家臣間の所領紛争が解決できないなど、問題は山積していた。 この様な状況に景虎は嫌気がさしたのではなかろうか。   また景虎がどの程度本気であったかは疑わしく、内部引き締めの演技であったのかどうか?。
   何れにしても、家臣たちはライバル政景を筆頭に慰留工作に乗り出した。 景虎ももそれを受ける形で引退表明を撤回し、家臣たちが一同忠義を尽くす旨の起請文を提出し、一件落着となった。

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**運慶小辞典

◆◆ 治承四年(1180)暮れの平家軍の攻撃により焼亡してしまった東大寺・興福寺の復興が本格化するのは翌年になってからです。 後白河法皇の命により造東大寺の担当官に真言僧・俊乗房重源(tiyougen)が,造興福寺の担当官には藤原兼光(kanemitu)が指名されて始まった。   
    文治二年(1186)、興福寺・西金堂に丈六の釈迦如来像を造っていた事が10年前に判りました。 興福寺僧の信円(sinen)の日記から、運慶が像を堂内に搬入し、設置した記述があるのを歴史学者が紹介したものです。  これまで作者が確定していなかった『仏頭』を運慶が造仏した事がはっきりしました。 

〇 仏頭【98・0㌢丈六仏頭部 木造寄木造り漆箔彫眼】 仏師・運慶 文治二年現存(重文) 興福寺国宝館蔵 伝来と文献

     奈良興福寺釈迦如来・仏頭
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  (資料)  芸術新潮2017・10月号より

◆  西金堂とは・・・・
  光明皇后(聖武天皇妃)が、母 ・県犬養三千代の菩提を弔うため、天平六年(734)に建立。 平安時代に羅災したが本尊は救出されたらしく、運慶は天平の釈迦如来像を見知っていたはずだ。
  南都焼き討ちによって焼失してしまった釈迦如来像は法皇の命のより興福寺・西金堂と共に再建されたが、江戸時代に講堂からの出火によって他の御堂と共に焼失、頭部の他一部が焼け残った。西金堂は資金難の為再建されず、基壇のみが残る。

平成30年戊戌‣壬戌‣庚戌

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戦国時代

2018.09.11(07:00) 177

**戦国期の北条氏

    **北条氏の発展

河越合戦の勝利は、北条氏の関東制覇の大きな画期となった。  関東での覇権を争う扇ヶ谷上杉は滅亡し、山之内上杉も事実上没落した。  

   この時期、氏康は内政面でも積極政策を展開している。   天文十九年(1550)には、それまであった雑多な税を廃し、土地の価値を表した貫高(kandaka)の6%の「懸銭」(kakesen)に統一する税制改革を実施した。
 
*懸銭(kakesen)・・・・・「諸点役」 と呼ばれる雑多な税制が、この時代に存在したが、「懸銭」という税制はシンプルな税制で、在地の領主たちの収奪に近い税制に比べ、大きな改革であった。  

   同時期に、北武蔵を中心とする広汎な地域で検地を実施し、新たな貫高を確定した。 その結果も踏まえて、家臣への軍役などの諸賦課の基本台帳である、いわゆる「小田原衆所領役帳」 が作成されている。
鎌倉・覚園寺黒地蔵盆  (鎌倉・二階堂)
黒地蔵・縁日
覚園寺・山門
覚園寺・薬師堂
   **「三国同盟」の成立

外交面で特筆すべきは、「三国同盟」 が成立した事である。 相模・駿河・甲斐の三国である。      北条氏の主敵は両上杉氏であったが、周辺の有力大名である駿河今川氏と甲斐武田氏が彼らと連携する事により、北条氏は窮地に追い込まれる事がしばしばあった。 この同盟によってそれが解消されたのである。
   この同盟は、当時の習慣により、三者間で婚姻関係が結ばれる事で成立した。   義元の娘が信玄の嫡子義信(yosinobu)に嫁いだ。  次いで震源の娘が氏康の嫡子氏政(ujimasa)に嫁いだ。  そして氏康の娘が義元の嫡子氏真(ujizane)に嫁ぐ事により同盟は成立した。    これにより、三者の境界に安定がもたらされた。  その後北条氏が北関東へ、武田氏が北信濃へ、今川氏が三河・尾張へと軍事行動を展開した事は良く知られている。
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    **運慶小辞典

◆◆ 次なる運慶作品はお地蔵さんです。・・・・・明治まで六波羅蜜寺の境内にあった十輪院(jiyuurinin)の旧本尊で、近世の地誌類に運慶・湛慶の合作と記される。    十輪院は運慶が洛中の八条高倉に構えた私寺・地蔵十輪院の由緒を引くと考えられ、また六波羅蜜寺には他にも運慶四男・康勝(kousixyou)作『空也上人立像』や運慶・湛慶とされる肖像彫刻が伝わる。
   こうした状況から、専門家は著しい運慶様式を根拠として、戦前から運慶作品と目されてきた。   問題は制作年代で文治年間前半とする派と、建久から正治にかけてとする派と大きく二つに分かれる。
  後者の場合、建久7年を最後に消息が途絶える(おそらく死亡)康慶の追善像であったと考えられる。

〇 地蔵菩薩坐像【89・7㌢(等身)木造一木造り彩色截金玉眼】 仏師・運慶 12世紀末現存(重文) 六波羅蜜寺(宝物館安置)  作風と伝来
     六波羅蜜寺・地蔵菩薩坐像
六波羅蜜寺地蔵菩薩
 (資料)    「芸術新潮」 2017・10月図録より
    
   ◆ 地蔵菩薩とは・・・・・
   阿弥陀や薬師の様に浄土に住むのではなく、六道輪廻の世界に現れてそこで苦しむ一切衆生を救済する。地蔵信仰は平安後期以降、浄土教の広まりと共に発展した。  特に、貴族の様に極楽往生の為の作善を成し得ず「地獄は必定」の思いを抱く庶民の間で、地獄迄下って人々を救済してくれる地蔵への信仰が高まった。 図像的には僧侶の姿で表され、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ事が多い。

平成30年戊戌‣壬戌‣丙午

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戦国時代

2018.09.07(07:00) 176

**戦国期の北条氏

**国府台合戦(kounodai)

    北条氏綱は江戸城奪取に成功したものの、南関東の情勢は必ずしも北条氏に有利には展開していなかった。
  江戸城奪回・相模回復を目指す扇ヶ谷上杉朝興は、甲斐武田氏との連携を強化するため、娘を武田信虎の嫡男晴信(harunobu)に嫁がせた。  この婚姻は娘が嫁ぎ先で亡くなった為充分な成果を挙げる事が出来なかったが、氏綱が連携する今川氏輝の援軍として甲斐に出陣した隙を突いて、朝興は相模に乱入し、大磯・平塚・二宮などを放火して回った。しかし、氏綱はただちに帰国し、反撃に移り、逆に河越城まで攻め寄せた。

   同じ頃、駿河今川氏輝が24歳で急死し、内紛が起きたが氏綱は承芳(siyouhou)(義元)に援軍を送り、義元の家督相続に貢献した。    ところが、義元は敵対していた武田信虎の娘と婚姻し、「駿甲同盟」 を成立させた。 それは、北条氏と敵対関係になる事を意味していた。
何故義元が外交路線を転換させたのかは定かでなないが、対外的には、関東の山之内・扇ヶ谷上杉がとった、甲斐武田・駿河今川との連携による北条氏包囲網の形成という外交戦略に乗ったものと考えられる。 また、氏綱が義元の家督相続に大きな力となった事、富士川以東に早雲時代の旧領が存在した事、氏綱の弟が駿河の有力国人葛山氏(katurayama)の当主となっていた事などから、今川氏が駿河支配を確立するためには北条氏の影響力を排除する必要があると、義元が判断したためと考えられる。

   しかし、北条氏にとっては、今川は元々主筋あたるとして、さまざまに貢献してきた相手であり、裏切られた事への氏綱の怒りは大きかった。「駿甲同盟」 成立後、直ちに軍勢を派遣し、数日間で富士川一帯を占領した。  このこと自体、この地域への北条氏の影響力の強さを示すものといえる。  重要なのは、これを通じて北条氏が今川家に対する主家意識を払拭し、早雲が駿河に下向して以来とってきた「親幕府」の立場を断ち、まさに東国に根差した戦国大名としての意識を確立した事である。

    それを端的に示すのが、関東管領就任と鶴岡八幡宮造営である。   国府台合戦を契機に北条氏と古河公方との関係は親密となり、合戦を勝利に導いた勲功により、氏綱は古河公方・足利晴氏から関東管領に任命された。  また氏綱の娘が晴氏に嫁ぎ、北条氏は足利氏「御一家」 の地位を獲得した。
  北条氏は、山之内上杉に替り、古河公方を支える管領の立場から、関東に覇を唱える事になるのである。     
  鶴岡八幡宮は頼朝以来、関東武士の崇敬を集める信仰の中心だったが、相次ぐ戦乱により鎌倉は荒廃し、社殿の破損も進んでいた。  早雲が鎌倉に入った時、「枯るる木に、また花の木を 植え添えて 木の都に 成りてこそ見め」 と、鎌倉復興の意思を和歌に託したとされている。   氏綱は、父の遺志を受け継ぎ、さらに里見軍乱入で本殿以下が焼失したのを受け、八幡宮の大造営事業に着手した。
 この事業をほぼ独力で遂行した北条氏は、まさに関東の覇者としての立場を広く世に知らしめたのである。 その後氏綱は病を得て天文十年(11542)7月出家して死去、55歳であった。
金沢・称名寺の風景
称名寺山門
称名寺
称名寺唐橋
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■ 北海道の皆様、大地震(胆振)お見舞い申し上げます。 一日も早い復興を願っております。
    

      **運慶小辞典

◆◆ 今回の運慶作品の真作は厨子に入った30㎝の小像ながら、制作当初の荘厳が完存するのは驚異的だ。
この厨子入の大日如来坐像は、前回記載した東京・真如苑の大日如来と同じく鑁阿寺(hannaji)の縁起に記述のある足利義兼(尊氏6代祖)造立の金剛界大日に当たる。
  真如苑の大日と同じく樺崎寺の赤御堂に伝来し、同寺が明治初年に廃寺となった際に付近の光得寺(koutokuji)(足利市)に移された。 一見して円成寺・真如苑の大日如来によく似ているが、キャリア的にも円熟期に入った運慶作品だけに専門家は両像を凌ぐと評価する。

〇 大日如来坐像【31・3㌢・厨子83・7㌢木造割矧造り漆箔】仏師・運慶 建久10年・現存(重文) 光得寺所蔵 作風、像内納入品の形式、文献
  足利・ 光得寺・厨子入り大日如来坐像
光得寺・大日如来坐像
(資料)   芸術新潮 2017・10月号より
◆ 足利義兼の妻は北条政子の妹。 つまり義兼は頼朝の義弟に当たる。源平の合戦で活躍し、源氏一門として幕府内でも高い待遇を与えられた。  しかし、源範頼、義経や甲斐源氏の面々の粛清から判る通り、かなり慎重は処世を要する立場でもあった。

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戦国時代

2018.09.03(07:00) 175

**戦国期の北条氏

**北条改称

北条氏綱は、家督相続直後から支配体制整備のための施策を打ち出していたが、さらに支配の正当性を主張するための銘文作りに務めた。
   まず大永二年(1522)に、相模一之宮の寒川神社(samukawa)や箱根権現の宝殿など、寺社の造営事業を行っている。  箱根権現に納められた棟札には「相州太守伊勢平氏綱新造」 と書かれ、相模国守の地位が強調される。  その立場から、国内の寺社の保護に努めている事をアピールしている。

  その後に、名字を「伊勢」 から「北条」 に改めている。  北条は宗瑞が居城としていた韮山城近辺の地名であるが、重要なのは鎌倉幕府・執権北条氏の名字を継承する事であった。   鎌倉幕府が関東を支配していた事はもちろんだが、北条氏の当主は代々「相模守」 に任官していた事もあり、「相模太守」 に相応しい家柄と考えられたのである。

**江戸城・奪取

北条氏綱は、こうして体制を固めつつ、相模津久井城(相模原市)の内藤氏、武蔵滝山城(八王子市)の大石氏、武蔵勝沼城(青梅市)の三田氏らを味方につけ、武蔵への進出を開始した。
  氏綱が狙いを付けたのは、江戸湾に面し隅田川・荒川の河口に位置する交通の要所江戸城(千代田区)である。  江戸城を守る扇ヶ谷上杉の宿老太田資高(suketaka)(道灌の孫)と密かに結び、軍勢を率いて多摩川を越えた。 扇ヶ谷上杉朝興(tomooki)は、高縄原(takanawagahara)(港区)で迎え撃ったが敗れ、江戸城を守ることが出来ずに河越城に敗走した
  江戸城には、北条氏の重臣の遠山直景(naokage)が置かれ、太田資高と共に支配に当たった。
さらに氏綱は、勢いをかって岩付城(岩槻)・蕨城(戸田)毛呂城(毛呂山)を次々と攻略、朝興は河越城からの退却を余儀なくされた。   しかし、山之内上杉憲房(norifusa)の援軍を得た扇ヶ谷上杉朝興は岩付城、毛呂城、を奪回、武田信虎(nobutora)も津久井城を攻めて援護した。
  その後も一進一退を続く。  翌年には安房の里見氏と上総の真理谷(mariyatu)武田氏が海上から江戸に攻め込み、朝興が蕨城を奪回するのを助けた。
   新興勢力の北条氏の台頭に対抗すべく、朝興の要請に応じたと言えよう。 こうして南関東では、古河公方・両上杉氏・上総真理谷武田氏・安房里見氏による反北条氏包囲網が形成され、甲斐武田氏もこれに加わったのである。  この年、里見軍が鎌倉に乱入して鎌倉八幡宮を焼く一方で朝興は蕨城の奪回に成功し、相模玉縄城まで進撃している。

再現された・鎌倉二階堂・永福寺基壇2景
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     **運慶小辞典  

**さて、仏師・運慶の次の証明作品は東京・真如苑真澄寺の大日如来坐像です。
   精密な毛筋彫り、充実した体の張りと胸前の空間にきりりと結ばれた智拳印、顕著な運慶風を示す出来栄えに加え、像内納入品の形式が共通する事もX線撮影で確認されている。    2011・2・18   於・金沢文庫・「運慶展」
*この像は平成20年、当時の所有者によってNYクリスティーズのオークションにかけられ、東京・真如苑によって落札された。「運慶 米で競売へ  海外流出の怖れ」 との二ユースにも流れた事もあり、大きな話題を呼んだこともある。

〇 大日如来坐像【61・6㌢木造割矧造り 漆箔玉眼】 仏師・運慶 建久4年・現存(重文)    作風、像内納入品の形式、文献   真如苑真澄寺蔵
     真如苑・大日如来坐像
真如苑・大日如来
(資料) 「特別展」 金沢文庫80年記念「運慶」図録より
 
**栃木県・鍐阿寺(hannaji)(足利氏の氏寺)の縁起「鍐阿寺樺崎縁起幷仏事次第」 によれば、足利義兼(yosikane)(尊氏6代祖)が開いた樺崎寺の下御堂では、建久4年11月6日付けの願文が納められた厨子に「三尺皆金色」の金剛界大日が祀られていたという文献史料が存在し、研究者の論考からこの像が文献にある足利義兼発願像である蓋然性は高いと言われる。

平成30年戊戌・壬戌・戊戌

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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