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霜月騒動・安達泰盛

2018.10.30(07:00) 188

**安達一族

**祖父・景盛

    景盛は、承久の乱に際し、北条政子の意図を受けて関東御家人を集めて京都を攻撃する意志を明確に示す演説を行い、宝治合戦にあたっては隠棲していた高野山から鎌倉に戻って時頼と相談してのち三浦泰村一族を滅ぼすよう嫡子・義景・孫泰盛に督励した。

    景盛の経歴は、丹後内侍、建久二年(1207)に右衛門尉、建保六年(1218)に出羽権介・秋田城介、翌年の実朝の死に殉じて出家、法名は大蓮房覚智、高野山で死没した。
  高野山にあった事から、高野入道と称された。  「吾妻鑑」 の初見で、安達藤九郎景盛。 父の出家後に公的な場に現れた。 将軍実朝とも関係が深かったが、一方で将軍頼家とは微妙な関係にあった。 景盛は京下りの女性と昵懇な関係にあったが、頼家はこの女性を我が元に置こうとした。  その為には景盛と引き離すことが必要であった、そこで三河国で起きた窃盗事件の対応に景盛を派遣する事にした。  景盛は固辞したものの、父以来の官国という理由で三河に出発すると、頼家は女性を御所内に囲ってしまう。  あげくのはては、景盛を謀反人にしたて暗殺を企てたが、北条政子がこれを阻み、政子の指示で景盛は頼家に謀反の意思はないと起請文を書いて一件は収まった。

  頼家の景盛への恨みは晴れる事は無かったようで、伊豆・修善寺に幽閉された頼家は、政子と実朝にあてて、腹心の者との面会を請願すると共に景盛を罰してほしいと要求している。  しかし、政子・実朝の信頼は厚く、幕府が鎌倉内の寺社の奉行人を決定すると、景盛は頼朝を祀る法華堂を担当した。

**『秋田城介』任官

    建保元年(1213)5月の和田合戦は、侍所別当・和田義盛を倒すことで、その職を北条義時が掌握し、執権体制の確立に画期をなす事件となった。  景盛と弟時長は恩賞を拝領しており、義盛追討の軍勢に加わっている。 さらに、平賀朝雅の将軍擁立に失敗した北条時政を伊豆に押し込める事を決めた時、三善康信や景盛らは義時邸に集まって決定した。  8月の宇都宮頼綱の謀反発覚の際には義時・大江広元・景盛が討伐の決定をくだしている。  梶原景時・畠山重忠らが追放される中、幕府政治を動かす主要な御家人の一員であった。

    その有力者ぶりは、将軍渡御の宴の設営にも見える。 実朝が伊豆山・箱根権現を参詣する二所参詣から帰った際、将軍御所で景盛がもてなしを差配している。  実朝は地震の為に御所から義時邸に移っていたが,改築が終わり御所に帰ると、景盛は御所の化粧直しや引き出物や供奉人への贈り物を準備している。

    実朝が右近少将に任じられると、景盛を御前に召して「出羽城介」 への任官を伝えている。  実朝の急速な官位上昇と軌を一にしている。 「吾妻鑑」には、出羽城介の職は醍醐天皇以来中絶していたが、景盛が補任したとある。

*秋田城介・・・・・出羽国主の次官で国府が秋田城だったことに由来するが、その官職は名目的なものだった。
 
   景盛の所領を見ると、和田合戦で武蔵・長井荘(埼玉)を拝領した。  元々平家方の斎藤実盛領が没官されて和田義盛になり、合戦後安達領に転じた。  弟・時長の名字「大曾禰」 は、大曾禰荘(山形)に由来する。 同地に盛長創建と伝わる毘沙門堂があり、この堂は安達氏一門が代々住持した毘沙門山・真妙寺の御堂を移設したと伝える。  大曾禰荘の年貢には水豹皮(アザラシの皮)がみえ、北方との交易が見える。   
  景盛の出家後、嫡子・義景が安達の家督を継承して以降、「大曾禰」 を名字とする分家が成立していた。
秋・鎌倉    (鎌倉・雪ノ下)  
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**承久の乱

   承久三年(1221)4月、後鳥羽上皇が義時追討の挙に出ると、北条政子は御家人を集め、景盛を通じて出陣を命じた。  政子の演説は、頼朝は朝敵を倒して幕府を草創し、御家人らは頼朝から官位・棒禄を与えられた恩顧を思い出して京方を打倒せよというもので、景盛が代読した。 政子の景盛に対する信頼ぶりが判る。
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平成30年戊戌・癸亥・乙未

   
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霜月騒動・安達泰盛

2018.10.25(07:00) 187

**安達一族

**挙兵と盛長

   後白河院の第二皇子・以仁王(motohitoou)は、治承四年4月、源頼政・行家を通じて諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。  6月には三善康信の弟康清が伊豆の北条を訪れて京都の情報を伝達し、頼朝は挙兵の意思をかためる。
  頼朝は盛長を伊豆・相模に遣わした。  この時、三浦義明は一族を集めて味方する事を誓った。  また、盛長は下総の千葉常胤を訪ねて挙兵の意思を伝え、千葉氏一族が味方に加わる確約をとった。

挙兵した頼朝は、8月に伊豆目代・山木兼隆を襲撃して討ち取ったが、事前に盛長らは兼隆の居館の見取図を作成し、三島神社の祭礼に合わせるなど周到な準備をしていた。

   石橋山で大庭景親ら平家方の軍勢に敗北すると、頼朝らは真鶴から舟で安房に向かった。  北条時政らは三浦半島から逃れた三浦氏らと相模湾上で合流し、安房で頼朝と出会った。  敗れた時の行動が事前に計画されていたのであろう。
  房総に渡った頼朝は、千葉常胤の助力を得て千田親正らの平家方を破って勢力を増して武蔵・相模の武士を帰服させ鎌倉に入った。  謀反は成功し、頼朝の東国政権を生み出した。  盛長の事前交渉の成果を示すもので、盛長は幕府内で重要な宿老に列した。

**鎌倉・甘縄の邸宅

   鎌倉では甘縄に邸宅を構え、甘縄神明宮の管理に携わった。  邸宅は頼朝の渡御の場とされ、頼朝が甘縄神明宮を参詣した際に盛長邸に入っている。  建久二年(1191)3月、幕府・若宮等が焼亡した後も頼朝は盛長邸に移っており、御所の寝殿等がが完成した時には盛長邸から移っている。 盛長邸は将軍の仮御所の役割を果たしていた。 その後も、実朝誕生の御行始めでも甘縄の邸に入御するなど、たびたび盛長邸に渡っている。  

   甘縄神明宮との関係は、宝殿の修理が行われた際などには、全体の管理は盛長の管轄だったようだ。  また、将軍家御願寺社の奉行人が選定されると、盛長は大庭景能らと鶴岡八幡宮を担当した。 八幡宮の造営は、泰盛の代には安達氏累代の職とされており、安達氏の幕府内での地位に大きな権威を付与した。

 盛長邸の場所は、「新編鎌倉志」は『藤九郎盛長家敷は甘縄神明の前、東の方を云』と記すが、「吾妻鑑」等から見た甘縄邸の場所からは遠い印章を受ける。盛長邸をこの地に比定する事は難しい・・?。
甘縄神明宮・安達盛長邸旧跡  (鎌倉・長谷) 
甘縄神明宮
盛長邸・石塔

 盛長は、正治元年(1199)1月の頼朝死去を契機に出家したらしく、「吾妻鑑」 には「藤九郎入道蓮西」 とみえる。 頼家に将軍位が移ると、幕府は草創期以来の御家人13人で政を談合する事となったが、そのなかに時政らと共に連なる。  また、将軍頼家が盛長嫡子・景盛の愛妻を奪おうとして盛長邸に家臣を派遣した際、北条政子が自ら盛長邸に向かいこれを制止しているしている。  政子との親しい関係がうかがえる。  盛長は頼朝の寵臣として幕府内で重きをなしたものの、官職は受けず、生涯、無官のままであった。


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平成30年戊戌・癸亥・庚寅

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霜月騒動・安達泰盛

2018.10.20(07:00) 186

**安達一族

   安達氏の祖・盛長(morinaga)は、流人頼朝の当初からの従者だった。 「吾妻鑑」 には「藤九朗盛長」 と現われ、正治元年(1199)以降は出家していて「藤九郎入道蓮西」 と見える。  幕府創設に貢献しながらも、官職に就くことは無かったようだ。

   名字について「吾妻鑑」 には幕臣会議で梶原景時追放が決定されたとき「和田左衛門尉・足立藤九郎入道ら入り来たり、義村これに対す」とあり、名字は「足立」。  同じく別条に「安達藤九郎入道」 と「安達」 と見える。  前者は日記などの記録、後者は連署した起請文とみられ、盛長は晩年になって「安達」 の名字を使う事になったようだ。

   頼朝の乳母は武蔵武士・比企掃部允の妻で、比企尼と呼ばれた。  比企尼には三人の娘がおり、嫡女は在京し二条院に仕えて丹後内侍と称し、在京中に惟宗広言との間に忠久を生んだ(後の島津忠久)。
  関東に下向して後に藤九郎盛長に嫁し、源範頼室となる女性を生む。  次女は河越重頼の妻、三女は伊東佑清の妻。

   盛長は「武州足立郡」 を知行し、娘は頼朝の異母弟・範頼に嫁いだ。  盛長は武蔵国の有力武士比企氏の娘婿で、「安達」の名字は比企氏所緑の武蔵国足立郡に由来すると伝える。  盛長の妻が丹後内侍だった事は、「吾妻鑑」の記述から、景盛の死後に際して「母は丹後内侍」とある事から確認できる。
  丹後内侍のが仕えた二条院には、源頼政の娘も女房として仕え、讃岐と呼ばれた。  盛長は京都・源氏と身近な接点を持っていた。  丹後内侍は、後白河院の愛妾丹波内侍と同一人物かともみられている。

   霜月騒動の前夜、泰盛嫡子・宗景は源氏の子孫と主張したと伝えるが、類似の事は島津忠久を頼朝の子とする伝承を生む島津氏にも共通し、安達氏の源氏子孫説の背景の一つには丹後内侍の存在が考えられる。

   盛長と平家の関係は虚構なのだろうか・・・・。盛長の娘は源範頼室となった。  範頼は、源義朝が遠江池田宿の遊女との間にもうけた子で、後白河院の近臣で右大臣九条兼実の家司でもあった藤原範季に養育されたと伝える。  範季は、上野介や陸奥国の国守などを経歴し、後白河院による奥州平泉の藤原氏との交渉の窓口ともなった。  その子範資は後白河院の異母妹・八条院の蔵人となって仕えたと伝わる。
   盛長は実際にも平家と関係があった。  奥州平泉への出陣の盛長の手勢には囚人の身ながら筑前房良心がいた。  良心は忠盛四代の孫で時房の子であった。 屋島合戦で捕えられて盛長に預けられたが、武勇の人物として奥州遠征にも随従している。

**頼朝の側近

  頼朝の流人時代の盛長の動向は、僅かながら確認される。  頼朝の御前で佐々木秀綱の元服の加冠役を勤め、秀綱は盛綱と改名したとあり、盛綱の「盛」は盛長が烏帽子親によると伝えている。
  盛綱の父秀義は平治の乱で敗北し、藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びる途上、相模国・渋谷重国に保護されていた。  隣地・大庭御厨の大庭景親は、平氏方の東国領主を統括する立場であった。  平家方の動向は、渋谷館の重国・秀義から盛綱等を通じて盛長に伝えられ、頼朝の耳に入っていた。
  

秋・鎌倉・・・・・報国寺(竹の寺)
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平成30年戊戌・癸亥・乙酉

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戦国時代

2018.10.15(07:00) 185

**戦国期の北条氏

   田は反別500文‣畠は反別165文と定められた基準高に、郷村の田畠それぞれの総面積を掛けた合計として算出されるものだった。
  この反別高が何を根拠といて決められたかは不明だが、たとえば荘園制下では、田年貢は反別米三斗が標準で、畠には年貢がかからなかった。  これをそのまま戦国期に適用する事は出来ないが、戦国期の関東でも、以前に比べてかなりの増収となると考えて間違いないだろう。  加えて、「隠田」 が把握されて面積が増加しているから、大幅な増分が出されたのは当然である。
  そうは言っても、郷村側に余剰が残らなかったわけではない。  実際に、本年貢に付随した「内所務」(内徳)が存在しており、北条氏は、それには手を付けなかった。  そもそも田一反の収穫高が一律であるわけはないので、郷村貫高と現実の剰余量との間に差がある事は織り込み済みで、収納にゆとりを持たせたと見た方が良いだろう。

  もう一つ大事なのは、決められた郷村貫高から差し引かれる様々な控除分があった事である。  これらは、広い意味で農業生産・郷村の運営に必要な費用であり、それを領主が負担する事は中世日本の伝統でもあった。  これらの責任を領主が果たす限りにおいて、百姓側も年貢負担に同意したのであり、それを超えて収奪強化を図る領主に対しては、「非分」 として糾弾に立ち上がり、北条氏も大途として個別領主の行き過ぎを取り締まったのである。  ただし、これらの控除分の運用は、郷村運営の中心を担う代官が主導権を握っていいたと思われる。 年貢納入と関り、代官の地位を巡る土豪間の紛争が頻発していたのである。

   年貢と並んで百姓が「公事」 と呼ばれる諸役は、直轄領・給人領を問わず領国全体に賦課された。  雑税を整理・一本化した懸銭(貫高の6%)、田に対して賦課される反銭(反別40~80文)・屋敷の間口に対して賦課される棟別銭がある。
  これらは、特に使途を指定しない一般税だが、軍事に関しては、合戦の際に40貫文あたり一人・馬一匹の割合でかかる陣夫役、郷村が順番に銭を支出する廻陣夫役、20貫文あたり一人で年に10日城の普請を勤める普請役がかけられた。   日数が余った場合は城普請以外にも用水・堤などの普請に動員された。    これらは貫高に対応していたが、その他に雑公事として竹木・萱・縄・炭などの供出があった。  かなりの負担であるが、軍事や公共事業への国家的義務として正当化されていたと思われる。

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平成30年戊戌・癸亥・庚辰

お知らせ
***戦国時代・・・・・「戦国期の後北条氏」は都合により終了します。

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戦国時代

2018.10.10(07:00) 184

**戦国期の北条氏

   後に編成された滝山衆では、滝山領に編入された三田領(東京・青梅市)の三田氏旧臣の土豪41人が「清戸三番衆」 に編成され「清戸番所」 に交替で勤務している。  同じく鉢形衆では、秩父孫次郎を筆頭とする139人が秩父衆として編成され、合戦の単位となっただけでなく、鉢形城内にある「秩父曲輪」 の維持・管理を命じられていた。   この様に、支城衆は地域性を強く帯びた単位で編成され、地域の秩序維持にも大きな役割を果たしていたのである。

**土豪層の編成

   こうしてみると、北条氏は地域社会の有力者である土豪層の掌握に力を入れていた事が窺われる。 彼らは直轄領代官にも任命されており、この面でも重要な役割を果たしていた。  
  土豪にとっても、大名とのあいだで主従関係を結ぶ事には、積極的な意味があった。  検地を契機として代官に任命されたが、検地が行われる前提には「隠田」 に関する彼らからの訴訟があった。 おそらくは以前の代官が開発等による耕地の増加を申告せず、そこから上がる収益を自分のものにしていたのだろう。  それを知った彼らは、年貢を増納するので代官にしてほしいと訴え出たのである。  それでも彼らは年具収増を上回る収量を見込めたのである。  年貢の増納を通じた得分の獲得をめぐる土豪間の争いは、訴訟を有利に導くために、裁判権者である大名と主従という強い関係を結ぶ事が有効だった。  土豪の大名家臣化は、当時の社会状況と密接に関わっていたのである。

 こうして家臣となった土豪を、大名が「衆」 あるいは有力家臣の寄子・同心として編成したのにも意味があった。  北条氏は当主氏政の直臣として取り立てた、寄子・同心は、軍事指揮や訴訟の取次という役割に止まるのであって、あくまで主人は大名なのである。 これには、彼らを直接掌握する事により、寄親となる有力家臣の力が過度に強化されるのを防ぐ目的があった。  寄親寄子制は、軍事力強化と有力家臣規制という、二律背反になりかねない課題達成のための、戦国大名独自の家臣団編成方式だったのである。

   後になると、北条氏はさらに土豪の取り立てを強化しようとするが、与えるべき給分に事欠くようになった。  そのような時、北条氏は百姓の負担である棟別役を免除する事で、彼らの軍事動員を図った。  棟別赦免により「大途の御被官」 に取り立てるので、「諸道具よく嗜み走り廻るべき事」 を命じられた。  このような場合でも、あくまで「大途」 の直臣として編成する原則を貫徹しようとしたのである。
北鎌倉・東慶寺 「秋」 
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**百姓の編成と年貢・公事収取体制

    北条氏は領国を支配領単位で編成し、支城主に支配を担当させていた。  支城主は、さらに領域を郷村単位で編成し、代官に支配を担当させた。  
  百姓中は、検地を通じて定められた貫高に基づき、郷村単位で年貢・公事などの役を負担する事になる。  田は反別500文・畠は反別165文と定められた基準高に、郷村の田畠それぞれの総面積を掛けた合計として算出されるものだった。

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平成30年戊戌・癸亥・乙亥
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戦国時代

2018.10.05(07:00) 183

**戦国期の北条氏

**知行役帳(北条氏・家臣)

     北条氏は、永禄二年(1559)に家臣の知行貫高を記載した帳簿を作成している。
  冒頭に「小田原衆所領役帳」 と書かれている事から、普通ははその様に呼ばれているが、実際には、小田原衆だけでなく各地の支城衆についても書かれており、また「御蔵出」 という俸禄も知行に含まれているので、「北条氏家臣知行役帳」 とした方が正確である。

なぜ、この時点でこのような帳簿を作成したかといえば、丁度氏康から氏政への代替りの時期にあたり(とはいっても、氏康はその後も隠居の立場から実権をふるっているが)、それまでの領国拡大・検地・税制改革等の成果をまとめ、あらためて軍役などの諸役の賦課体制を整備することが目的だったと考えられている。    予想される謙信の越山に備えるためでもあったかも知れない。

  「役帳」 には家臣ごとに、知行貫高・所在地と、対応する役に関する「御免」 「除役」 「半役」 などの控除分を差し引いた「知行役」 高が書かれている。 知行地の所在は伊豆・相模・武蔵三ヵ国の825ヵ村におよび、合計貫高は72,000貫となっている。また、家臣数は560人で、最大の知行高は氏康の叔父・北条幻庵(genan)の5,442貫文だが、寄子クラスになると数貫文の者もおり、過半は100貫文未満の中小家臣だった。  尚、武士以外にも職人や寺社が登録されている。  職人には職能に応じた役、寺社には普請役が賦課されていた。  

   家臣たちは、「知行役」 に関して「御免」 「除役」 「半役」 など従来の免除特権が認められたが、一方で多くの検地増分が知行高に繰り入れられ、役負担はその分だけ増加している。  また、知行高の大きい家臣ほど給地が分散している傾向がある。 これは、領国の拡大に伴い戦功などによる恩給地が増えたためだが、その都度個別的に与えられたのがそのままになっていた結果と見られる。  こうした場合、家臣は本拠地から離れた小規模な給地を直接支配することは難しく、既にみたように、郷村単位で置かれた北条氏の代官に依頼して年貢を取得せざるを得なくなる。  その分だけ、家臣の給地に対する支配力は弱まり、大名権力に対する依存度が高くなる。  領国の拡大に伴い家臣の給地は増えたが、有力家臣の給地支配に対する規制も強まり、全体としてみるならば北条氏の支配は強化されたのである。

**衆の編成

   「役帳」 では、家臣は基本的に「衆」 ごとにまとめ記載されている。  北条氏とは主従関係が無かったが、北条領国内に所領があるために記載された他国衆などの例外を除くと、大きく、小田原衆・御馬廻衆・諸足軽衆という当主直属軍団と、玉縄衆・江戸衆・河越衆・松山衆・伊豆衆・津久井衆・小机衆という支城衆に分けられる。
2018かまくら・秋     (鎌倉・扇ヶ谷)
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支城衆は、支城主を指揮官とする軍団だった。  その内容を見ると、小田原から派遣された伊豆・相模出身の譜代的家臣と、地元出身の家臣とが組み合わさり、それに彼らの同心衆(寄子)が付けられる構成となっている。

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**運慶小辞典

◆◆  建保年間、運慶は再び鎌倉に戻り、将軍周辺の仕事に集中する。   実朝の持仏堂に祀る釈迦如来像が京都の運慶の許から送られたのは、建保四年(1216)。 実朝は同じころ鶴岡八幡宮に愛染明王を祀る北斗堂(愛染堂)を建立するが仏像の作者は運慶でしょう・・・・・。三尊構成だった事が光明院の大威徳明王像の納入文書から判明している事から、大日如来・愛染明王像と共に造られ、京都から鎌倉に送られたと考えられている。
  再び鎌倉に戻った運慶は「吾妻鑑」等の記述から、建保六年(1218)に執権・北条義時が創建した大倉薬師堂(現・覚園寺)の造仏が、記されている。  北条氏が鎌倉に初めて開いた氏寺であり、薬師三尊や十二神将からなる造仏の規模も大きい。    運慶も既に60代の晩年。この後、瀬戸神社に伝来する舞楽面を制作すると年代はつながる。  
   さらに、「吾妻鑑」の記録から、承久元年(1219)勝長寿院五仏堂・五大明王供養の記述が残されるが、勝長寿院は消失しており、五大尊像も今は残らない・・・・・。

貞応二年(1223)、北条政子・新御所、持仏堂に(実朝平生時本尊・運慶作)安置供養。(吾妻鑑)

  貞応二年12月11、運慶没

◆◆  運慶小辞典を連載してきましたが、今回で終了です。   今後、また新しい発見等が在りましたら報告します。

平成30年戊戌‣癸亥・庚午

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戦国時代

2018.10.01(07:00) 182

**戦国期の北条氏

**支城領の編成

    北条氏は、領国全体を小田原の当主が直接支配するのではなく、各地に置いた支城を中心とする支城領を設定し、支城主に支配を担当させた。

     主な支城を列挙する。

相模

  玉縄城(神奈川・鎌倉市)・・・・・北条氏最初の支城で鎌倉の守り、城主が早雲の次男・氏時(ujitoki)に始まり、氏綱の次男・為昌(tamemasa)、為昌の女婿・綱成(tunasige)の家系へと引き継がれた。

  津久井城(神奈川・相模原市)・・・・相・甲・武の境目に位置し、いち早く北条方についた国人領主・内藤氏が代々の城主である。

武蔵

小机城(横浜・港北区)・・・・・江戸城攻略後、多摩川以南の支配拠点となり、城主は北条氏綱の甥・三郎から三男氏堯(ujitaka)の家系へと引き継がれた。

江戸城(東京・千代田区)・・・武蔵支配の重要拠点で、最初は家臣の遠山直景(naokage)・綱景(tunakage)父子が城代を勤めていたが、第二次国府台合戦で綱景が戦死したのち、北条綱成のの子氏秀(ujihide)が入り、最後は隠居した氏政が城主となった。

滝山城(東京・八王子市)・・・小田原─上野(kouzuke)間の交通を押さえる要衝に位置し、山之内上杉氏の重臣大石家に養子に入った氏康の三男・氏照(ujiteru)が城主となった。

鉢形城(埼玉・寄居町)・・・・滝山城と同じく武蔵・上野を押さえる要衝に位置し山之内上杉氏の重臣・藤田家に養子に入った氏康の四男・氏邦(ujikuni)が城主。

河越城(埼玉・川越市)・・・・・激烈な攻防戦が展開された後、家臣の大道寺氏が城代となった。

松山城(埼玉・吉見町)・・・・・河越城と同様、激烈な攻防戦が展開された後、扇ヶ谷上杉の家臣だった上田氏が城主となった。

岩付城(さいたま市・岩槻区)・・・北条氏に頑強に抵抗した太田資正(sukemasa)が追放され息子・資房が三船山合戦で戦死した後北条氏政の四男・氏房が城主となった。
鎌倉海蔵寺・夏     (鎌倉市・扇ヶ谷)
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この様に支城主には、基本的に北条一族が派遣された。  支城主は、領域内の北条氏家臣を支城衆という軍団に編成し軍事指揮に当たっていたが、それだけではなく、城下に河越宿・松山宿などの町場を抱えており、独自に法度を制定するなど、流通支配にも重要な役割を果たしていた。  また、検地や相論の裁許も独自に行い、自らの立場を「公儀」と称する事もあった。   しかし、それはあくまで本城主である「大途」に任せられた限りの事であり、北条氏の「公儀」は当主を頂点とする複合的な構造となっていた。

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**運慶小辞典

◆◆  鎌倉初期の優れた舞楽面としてかねてから知られるもの。  抜頭の裏側の朱銘には、建保七年(1219)に運慶が制作したとある。  これ迄この銘文は後入れとされてきたが作風はまさに当該期のものと評価される。
他方、陵王の頭上に跨る龍は、身を低く構えて前脚の両肘を左右に突き出し、下げおろした後脚の先を強くそらせる独特のスタイル。  鶴岡八幡宮や奈良・興福寺北円堂に同形式のものがある。  横浜・金沢区、瀬戸神社所蔵のこの両面を運慶作と専門家は比定する。

〇 舞楽面・陵王【32・4㌢木造彩色】 仏師・運慶 建保7年現存(重文) 瀬戸神社所蔵     作風・伝来・銘文
〇 舞楽面・抜頭【32・2㌢木造彩色】 仏師・運慶 建保7年現存(重文) 瀬戸神社所蔵     作風・伝来・銘文
**パソコン不調の為、画像はありません。  (修復工事中)

  ◆◆ 陵王・抜頭とは

  陵王は、北斉(中国)の蘭陵王が優美な顔を獰猛な面で隠して戦場に臨み、見事勝利を収めた故事に由来する舞楽。  抜頭は、猛獣に親を殺された息子が仇を討って歓喜するさまを描く舞楽で、面は胡人(中国西域の民族)の顔をかたどる。

平成30年戊戌‣癸亥・丙寅

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2018年10月
  1. 霜月騒動・安達泰盛(10/30)
  2. 霜月騒動・安達泰盛(10/25)
  3. 霜月騒動・安達泰盛(10/20)
  4. 戦国時代(10/15)
  5. 戦国時代(10/10)
  6. 戦国時代(10/05)
  7. 戦国時代(10/01)