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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.30(07:00) 194

**安達一族

    守護国には上野国と泰盛が新たに拝領した肥後国がある。  上野国は弘安八年の霜月騒動迄泰盛が守護をつとめ、乱後に得宗分国に編入されて守護代は平頼綱がつとめた。  一方、肥後国は名越時章の守護国であったが、時章が死去すると泰盛が守護となり、霜月騒動後には上野と同様に得宗の所管する国となった。   他に三河国・遠江国・豊後国等の内に、地頭職であった事が史料的に見える。

**泰盛の家臣

「蒙古襲来絵詞」には建治元年(1275)頃の甘縄邸につめる泰盛の家臣が見える。  居間には芦名判官らがいて「秋田城介殿の侍、諸人出仕の体」とある。  玉村右馬太郎が取次をし、奥の居間には泰盛と長景、泰盛が季長に馬を贈るに際しての馬の引き役に佐枝五郎の名がみえる。  玉村氏は上野国玉村御厨にその名字を得たものなので、書き物に「執事玉村」などと見え、家政を取りまとめる執事であった。  玉村氏には、蒙古襲来で鎮西に下向した盛宗の家臣に玉村三郎盛清もいる。  芦名氏は三浦氏の一族で宝治合戦を契機に被官化したものであろう。 佐枝五郎は、玉村・芦名ほどの立場ではない。  その他、武蔵・上野・を中心に関係を築いただろうが、詳細は不明である、いずれにしても霜月騒動に連座して滅亡している。

**泰盛と一族の政治的位置

    政務への御家人の参加は、評定衆・引付衆が重要である。  評定衆は北条泰時が設置した。 政所・門柱所をその下部に従え、主要な御家人十人ほどが合議し裁断する組織であった。   引付衆は北条時頼が設置した。 訴訟を裁断するする引付は、番グループ編成をとり各番は評定衆のなかの有力者が頭人となり、頭人の許に数名の評定衆と引付衆に編成され、引付衆には有力御家人や北条氏一族の若年の者が編成され、これに奉行人が加わっていた。

  泰盛の時代、引付衆は評定衆への一階梯とされ、身分の微表となっていた。  この頃の幕府内の組織から安達氏の配置を見てみよう。 建長三年(1251)、引付は五番編成に改められ、安達義景と大曾禰長泰の二名が加わった。 さらに翌年二階堂行盛が加わった。  建長五年(1253)の引付の人事変更では義景の死去を受けて泰盛が一番引付となり、三番に頼景と大曾禰長泰が入った。  

   康元元年(1256)には泰盛が評定衆で五番引付頭人を兼ねるなどその地位を上げた。 この関係はその後も継承される。  大曾禰長泰が死去すると泰盛は五番引付頭人、引付衆に頼景が入る。

  弘安五年(1282)には、泰盛は五番引付頭人・評定衆、陸奥守となり、嫡男・宗景も評定衆に上った。 引付衆には長景と共に宗景の欠を補う形で泰盛の弟の時景が加わる。  泰盛は五番引付頭人でもあったが、他の四人の引付頭人はいずれも北条氏である。一方、引付衆には長景・時景が入り、大曾禰氏からは宗長が加わった。 一族・庶家合わせて五名。 さらに大曾禰氏から一名加わり六名になっていた。  弘安七年(1284)の評定衆・引付衆の総数は30名であり、全体の20%を安達氏一門が占めた。 北条氏は一族合わせて八名であるから、霜月騒動の直前、安達氏は北条一族と肩を並べるほどの勢力となっていた。
奈良・元興寺三門 (ならまち)
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元興寺(極楽房)
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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.25(07:00) 193

**安達一族

**屋敷と別邸

   泰盛邸は、正嘉二年(1258)の鎌倉大火の記事から、父義景の屋敷を継承したものと思われる。
  時宗の婚儀にあたって堀内殿はこの甘縄邸から出御しており、この泰盛の邸宅を指う。 泰盛は甘縄屋敷を保持していた。

   甘縄邸の様子は「蒙古襲来絵詞」に描かれ「あまなわの館」と呼ばれた。  館は居間が二つに区切られていた。道と邸宅の間に溝があり、溝に土留めの板が張られ、板橋がかかっている。 門は板葺きで塀は練り塀、門口には樹木が植えられている。  建物内や庭先には家臣が控え、屋敷内には空間を仕切る板塀があった。  塀につけられた門の奥に泰盛がおり、ここで季長は泰盛と面会した。  絵巻がどれほど真実を伝えているかは不明だが、博多の石築地などは現状とよく似ており、溝の土留めなども発掘成果と見合う部分が多い。

*「蒙古襲来絵詞」・・・・「竹崎季長絵詞」ともいわれる。

 ほかには、松谷別荘と塔ノ辻屋形があった。  弘安八年(1285)11月の霜月騒動の際の安達泰盛乱聞書に見える。騒動の朝、松谷におり、貞時に出仕する為に「塔ノ辻屋形」に出向き、やがて貞時邸に参向するに及んで乱にあった。 松谷は佐助谷の一支谷であり、塔の辻は御成小学校近辺になる。  松谷別荘は泰盛の隠居後の居住の場で、塔辻屋形は幕府出仕用の邸宅であったとみられる。  他にも義景から受け継いだ別邸があった様だが、史料が不鮮明である。

**泰盛の経済力・所領

    将軍・宗尊親王の慶事に際して進物が届けられた際、北条時宗献上の砂金は100両、泰盛献上の砂金は30両。  幕府行事などでの砂金献上者は、安達義景・泰盛、北条政村、名越時章、名越公時、塩田義政、北条実時、北条時村といった人物に限られていた。
   建治元年(1275)、幕府は京都六条八幡宮を造営した。 六条八幡宮は源義家の邸内に設けられた鎮守社で、頼朝の時代には源氏の宗廟の一つとなっていた。 一方、寺社の造営は鎌倉中期までは御家人がそれぞれの工事を分担する仕組みだったが、この頃には金銭を拠出しての請負に変わっていた。  負担額は所領規模に相応したものと考えられ、御家人の経済力や一族編成の在り方を比較できる。
   六条八幡宮の役料を見ると安達義景分は、150貫文の負担を示しているが実態は泰盛の役料である。 北条時宗が500貫文、北条氏一門では塩田義政が300貫文、北条政村が200貫文、北条実時が80貫文、有力御家人では足利義氏が200貫文、長井泰秀が180貫文、千葉頼胤が100貫文、泰盛の守護国の上野国では筆頭が佐貫右衛門尉で20貫文、他は5~8貫文、である。 泰盛は北条氏一門と肩を並べ、千葉氏、足利氏、長井氏らと同格であった。  他に大曽禰長泰の25貫文が見える。 安達氏は義景・泰盛流と庶家大曾禰の二家に分かれ、それぞれ別の家産を維持していた。
奈良・元興寺  (古代瓦)他
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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.20(07:00) 192

**安達一族

**安達泰盛の妻と子女

   泰盛の正妻は北条重時の娘、重時は義時の子で、兄泰時が執権の時に六波羅探題をつとめ、宝治合戦後は執権時頼のもとで連署を務めた。

 その別荘に営まれたのが極楽寺で、鎌倉の宗教・文化人に大きな影響を与えた。   重時の娘について「泰盛妻、離別。時盛妻、離別。出家」の記述あり。 泰盛との離別後、政村の子時村に嫁したが、これとも離別して出家したとある。  離別した相手は霜月騒動・嘉元の乱で滅ぼされており、離別の背景には得宗による両者の排除があったようだ。

   子弟には盛宗・宗景の二名があった。 母は不明。盛宗は越前守となり、霜月騒動が鎮西(九州)の波及した岩門合戦で没し、宗景は秋田城介をついで家督を継承したが、霜月騒動で死亡した。   建治三年(1277)、検非違使に任官、城九朗判官と見える、弘安四年(1281)に引付衆、翌年には評定衆で秋田城介に任官した。

  盛宗・宗景共に「吾妻鑑」には見えない・・・・・。  宗景は、泰盛が弘安五年に陸奥守に任官するのを機に評定衆、翌年には秋田城介に任官した。  その翌年泰盛は出家しており、この時に宗景が家督を継承したとみられる。    

   娘には、北条(金沢)顕時に嫁した無着がいる。  夫の顕時が霜月騒動に縁座したのはその関係か・・・、下総国埴生荘に籠居する。 出家の事情は、泰盛と北条(金沢)実時ら金沢一門との所縁を示している。

   時宗に嫁した義景の娘・堀内殿は、建長四年(1252)の生まれ、弘長元年に結婚している。  時宗は十一歳、堀内殿は十歳。   父義景は建長五年に没しており、泰盛は堀内殿を親代わりとして養育しており、猶子としていたとみられる。 文永八年(1271)に貞時を生み、弘安七年(1284)に時宗が死去して後出家し、無学祖元に師事して潮音院覚山志道と号し、東慶寺(北鎌倉)の開山となった。
奈良・元興寺 (ならまち)
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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.15(07:00) 191

**安達一族

**排除された兄弟
 
   執権・時頼が亡くなると、長兄・頼景は名越時章・武藤景頼・二階堂行氏らと共に出家した。  北条時輔・名越時章らが殺害された二月騒動に連座して関東に召しくだされ、所領二か所を没収され、後に64歳で没している。

  時盛は、泰盛より十歳年下である。 「吾妻鑑」の初見で、将軍に贈られる馬の引き役として四朗時盛と見える。頼景同様の幕府行事の供奉人に見え、四朗左衛門尉時盛と見える。  時頼が没すると出家して法名は道洪。  文永三年(1266)、将軍を追われた宗尊親王を京都に送るに際し、幕府の使者を務めた。  
   建治二年(1276)突然、遁世して寿福寺にはいり、所領をすべて没収された。  遁世の事情は不明であるが、罪を着せられての出家で、追放されている。  追放は一門合意の上で、決定を下したのは泰盛に他ならない。  両人は、泰盛の立場を強化するにあたって排除されたと思われる。  弘安八年(1285)、高野山で没している。

**信頼した兄弟

   重用したり違和感を持たなかった兄弟には顕盛・長景・時景ら年少の兄弟たちである。
   顕盛は、寛元三年(1245)の生まれ、引付衆、加賀守、弘安元年(1278)に評定衆に加わったが、この年に死亡している、夫人は北条政村の娘だった。

   長景は弥九朗長景といい、妻は評定衆の二階堂行忠の娘。「蒙古襲来絵詞」 に、竹崎季長が泰盛邸を訪ねた際に奥の間で泰盛と同室している場面があり、泰盛と親しかった様子がうかがえる。

   引付衆・美濃守を拝領、弘安六年(1283)、比叡山の僧や日吉祇園社の神職が入京して朝廷に無理な要求をするも、六波羅の武士がこれを咎められなかった事件が発生した際、使者として二階堂行忠と共に上洛し,鎌倉武士は異国防御で手一杯として赦免を求めている。  具体的に記述すると、延暦寺・衆徒の禁中乱入事件を解決する使者として上洛した事については、関東申次・西園寺実兼の代理を務めた公衛と面会しており、延暦寺側の神輿入京の張本人を差し出すことや、六波羅探題や篝屋役の御家人がこれに対処しなかった失策を詫びながら、鎌倉側は蒙古襲来の風聞によってこれに備えていると弁明した。

   その後、馬・砂金を実兼に献上し、朝廷側から使者観証(勅書)を拝領している。  長景は幕府の使者としての役目を充分に果たす働きであった。
奈良・正倉院
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奈良・興福寺中金堂復興
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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.10(07:00) 190

**安達一族

**泰盛(yasumori)とその一族

    安達泰盛は、義景と小笠原時長の娘との間に寛喜三年(1231)に生まれ、弘安八年に霜月騒動で没した。 55歳の生涯を検証しよう。  

義景の男子に次郎頼景・三郎景村・泰盛・四朗時盛・五郎重景・顕盛・長景・時景があった。  四朗時盛は23歳で出家、45歳で没している。   泰盛は「吾妻鑑」によれば、寛元二年(1244)に上野国の御家人らが京都大番役を務めるに際して番頭として上洛した事が初めて見え、上野守護義景の代役であった。  泰盛は15歳。当初から「九朗」を名乗りとしていた。
   次郎頼景は正応四年、64歳で没し、た。  泰盛より二歳年長、泰盛は、年長の兄がいるにもかかわらず「九朗」を名乗っており、当初から安達家の嫡子と周知されていた。

   建長二年(1250)正月の垸飯で初日の調度役を義景が務めた際は、献上する馬の引き役を泰盛と四朗時盛が務めた。
   泰盛は、年長の二人の兄と十歳以上はなれた五人の弟を抱える惣領の地位にあった。 なお、泰盛自身は武芸にも優れていたとみえ、将軍興行の笠懸・犬追物などの射手として頻繁に見える。

   建長五年(1253)には宗尊親王の鶴岡八幡宮での花見に時頼・実時らと共に安達一族の代表として参加している。
  六月に義景が死去すると、八月の放生会の行列に安達氏一門は見えない。 喪に服したのであろう。  翌年の放生会には、泰盛をはじめ頼景、大曾禰長泰・盛経・景経と一門が参加しており、一斉に復帰した。

   正元二年(1260)正月の将軍・宗尊親王の出御の行列では、五位の者の列に泰盛と大曾禰長泰、六位に四朗時盛・六郎顕盛と並んでいる。  本家と大曾禰家、嫡庶の関係が固定している。  泰盛を頂点とした家格秩序を表している。

**泰盛に排除された兄弟

    泰盛は、頼景・時盛という年齢の近い兄弟は排除した。  頼景は笠懸の射手として見えるのが初見で寛喜元年(1229)の生まれ、泰時の二歳年長である。  幕府行事には供奉人や将軍警護などを勤め、宗尊親王の鎌倉入りをを伝える使節等を勤めて、泰盛と共に引付衆に列した。  家督継承者の候補の一人だったのだろう。 しかし、正嘉元年(1257)には丹後守となり、秋田城介の継承候補から外れた。また、将軍・宗尊親王との関係から六波羅評定衆に転出している。当時の六波羅探題は時宗の兄時輔で、宗尊親王に近い人物を追放する意図があった。
北条時宗・産湯の井戸・・・・・・安達一族邸宅跡    (鎌倉・長谷)
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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.05(07:00) 189

**安達一族

**高野山参籠

   嘉禄元年(1225)、北条政子が没し、高野山に籠る。  高野山では実朝らの菩提を弔うために政子が後援し、景盛が本願となった金剛三昧院にあった。
  金剛三昧院の初代長老・退耕行勇(toikou・giyouyuu)は栄西の門下で、政子の信頼厚く入寺した。  その入寺は景盛の推薦とある。
 景盛と高野山の関係は在鎌倉の頃からのようで、承久元年に高野山と吉野金峰山に相論が発生した時、東寺長者・道尊は退耕行勇を媒介に幕府に具申して解決を見た。  景盛は解決に関わったとみられる。

    高野山にあった景盛は、宝治元年(1247)4月、突如として鎌倉に下る。  下向と同時に北条時頼邸に参じ、三浦一族を倒す事を子息らに督励した。  政敵を倒して時頼政権の安定を見届け、翌年五月に没した。
景盛は宝治合戦の首謀者と目された。 高野にあっても鎌倉の情報は逐一掌握していた事の証拠であろう。  その淵源には、政子の意思を代表する人物としての評価もあったろう。

    安達義景(yosikage)は景盛の嫡子、母は武藤頼佐の娘、官職は従五位下、「秋田城介」 義景の秋田城介就任は、父景盛の出家から17年ばかり経過しており、二十九歳である。 任官の年には将軍・頼経が上洛しており、これと関係があろう。

    義景の「義」 の一字は、執権・義時からの一字拝領であろう。  義時は既に没しており、義景は十五歳。  当時の元服の年齢は十四歳前後であり、義時晩年に元服したのであろう。 義景の時代は、将軍が源家将軍から藤原頼経・頼嗣・宗尊親王と摂家将軍・親王将軍にかわり、執権は義時・泰時・経時・時頼と執権政治の確立期にあたる。

    承久の乱ご、義時は西国の訴訟に対応して六波羅探題を設置し、泰時は嘉禄元年(1225)に評定衆を設置して御家人の合議を制度的に確立し、「御成敗式目」 をを制定して幕府の法秩序の規範を示した。   時頼は引付衆を設置して裁判制度を充実させた。 この間、義景は執権政治を支える立場に有った。

    幕府の動向を反映して、義景の職歴は、評定衆・五番引付頭人などを歴任。  宮騒動では時頼らと図って名越光時の追放に関与し、三浦氏を滅ぼした宝治合戦の主力であった事である。

    義景一族は、北条氏では得宗を中心に政村流・大仏流・金沢流、引付頭人の長井氏、幕府政所の二階堂氏、守護クラスに宇都宮氏・小笠原、武藤氏といった面々と縁を結んだ。

**時宗誕生

    時頼の下で義景が格別の地位を保ったことは、時頼正室・北条重時の娘が男子(時宗)を出産する「吾妻鑑」の一連の記事に窺われる。  甘縄の松下禅尼邸で祈祷が行われ、5月15日に無事出産した。
  時宗の出生は時頼の待ち望んだもので、産所は時頼の母である松下禅尼の邸宅とされた。 

鎌倉文学館の秋
鎌倉・文学館
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