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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.30(07:00) 200

**霜月騒動とは・・・・?

**霜月騒動の勃発

   弘安八年(1285)11月、得宗御内人平頼綱の軍勢は、鎌倉で安達泰盛を急襲し、これを滅ぼした。世にいう「霜月騒動」である。
  霜月騒動はことのほか史料が少なく、その原因としては、「保暦間記」の記述によると、  泰盛の子宗景が源氏姓を名乗った事を、平頼綱が、安達宗景が将軍になろうと目論んでいる、と北条貞時に讒言した事に端を発する、という説である。 一見すると些細な讒言かも知れないが、弘安改革が骨抜きにされ、将軍維康の権威の盛り立てにも失敗しつつあった泰盛陣営が、自ら将軍を作り出そうとしていた、という見方はありえなくもない。  やはり将軍問題が焦点の一つであったことだけは間違いないのか?・・・・。  

  安達泰盛の打倒殲滅は周到に練られた計画のもとに進められた。  実際の戦闘は、11月17日に起こった。  泰盛は巳の刻まで甘縄の安達邸(奥の松谷の別邸)に居たが、辺りの騒然とした気配にきずき、塔の辻の屋敷に出向いた。  そして貞時邸を訪ねんと外出したところで敵の軍勢と遭遇、合戦となった。  死者30人、負傷者10人ばかりがあったという。
  戦闘はその後も拡大し、将軍御所も延焼し申の刻頃には大勢が決した。  泰盛・宗景親子をはじめ、安達一族のほか総勢500人余りが滅亡した。 泰盛の弟重景は常陸で、甥にあたる宗顕は遠江で自害して果てた。  その他、泰盛の賛同者と見られる藤原相範・三浦頼連・二階堂行景・伴野長泰・武藤景泰・大曾根宗長・吉良滿氏・南部孫次郎らが討たれた。彼らの他にも多くの御家人が戦死を遂げたが、特に武蔵・上野の御家人に多くの自害者出たが、正確には判らない。
   また、西国でも騒動が起こっており、美作・播磨でも安達氏の親族が逃亡し、渋谷氏の一族によって捕縛され、尼崎の沖に沈められた事が判っている。  そして九州でも合戦になり、宗景の兄弟で肥後守護代の安達盛宗がが博多で討たれ、筑前小弐景資が岩戸で敗死した。   (岩戸合戦)

   安達泰盛方の多くは一族と御家人や幕府史僚の有力者だが、一方で頼綱に従い泰盛を攻撃した多くの武士たちもまた御家人であった。  その意味で、この戦闘は、得宗御内人勢力と御家人代表の安達氏との対決というよりも、御家人を新たに編成しようとした二つの勢力のせめぎ合いとその路線の相違がもたらしたもの、と見るべきという・・・・・。

   安達泰盛を滅ぼした得宗御内人・平頼綱とは、そもそもどのような人物であったのか。  御内人とは北条得宗家に仕える私的従者の事で、本来は御家人の身分を持つ者であり、平(長崎)・諏訪・尾藤・工藤・安東などの家が有る。  このうち平(長崎)・諏訪・尾藤の嫡流は得宗公文所の執事(長官)・幕府侍所所司となることが出来、寄合集でもあった。
  頼綱は、祖父盛綱以来の権勢を受け継いで公文所執事・侍所所司に就き、貞時の乳母夫でもあった。  安達泰盛と平頼綱は、幼い北条貞時に向かって相手の讒言を言い合ったという。  その頼綱が泰盛を倒すと、まず着手したのは、泰盛の政策の否定であった。

    騒動の直後からおよそ一年半にわたり、弘安徳政ににも似た法令が矢継ぎ早に出された。  異国警固や訴訟の迅速化、鎮西の訴訟、悪党禁圧などである。  特に蒙古襲来の戦後処理に対処するため、弘安九年(1286)7月、鎮西談議所を博多に設置して、鎮西の訴訟へ対処し統治を進めた事は特筆される。頼綱政権もそれなりに徳政を進めたのである。
高輪・泉岳寺
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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.25(07:00) 199

**霜月騒動とは・・・・?

**弘安徳政

    泰盛の政策の主眼は、将軍権力へのテコ入れに置かれていた。  泰盛は空洞化していた将軍権力を建て直し、そのもとにおける幕府の刷新を目指したのである。  その為の経済基盤として関東御領(幕府直轄地)を立て直そうとした。

  「神領興行令」・「名主職安堵令」や悪党禁圧のために、特使を派遣し強力な政策の遂行を目指した。  そして流通経済の統制については河手・津泊市津料・沽酒・押買の禁止を諸国一同に命じている。  次に訴訟の興行は、裁判を迅速・公正に行う事で御家人制度の立て直しを狙ったものである。  さらに寺社領の興行は、諸国の一ノ宮・国分寺の興行や主に鎮西神領の興行であり、モンゴル襲来戦での恩賞を強く意識したものであった。

   これらの政策は、内容的には霜月騒動後の得宗権力のそれに引き継がれるものが意外に多い。 しかし、泰盛の徳政は、維康親王のもと将軍権力を建て直し、幕府の基盤を従来の御家人のみではなくすべての武士階級にまで拡大し、その事によって当時の国制に占める幕府の地位を一気に飛躍させる、という狙いを持っていた。  これは安達泰盛という稀有な人格だからこそ可能であったのかも知れません。

   こうした弘安徳政をさらに具体的にレポートして置こう・・・・・。  「神領興行令」と「名主職安堵令」である。  いずれも鎮西を対象として弘安七年(1284)6月に発布されたものである。  その主旨は、モンゴル襲来戦に勲功のある鎮西の神領と御家人以外の武士、つまり本所一円地の住人の所領のうち、不当に占拠されているものを、強制的に幕府の名において安堵するものであった。 その意味で、これはモンゴル襲来戦での恩賞としての意味を必然的に持つものであった。

 「神領興行令」は、徹底した神領保護の法で、幕府は神領に対する第三者の権利関係という、本来は管轄外の領域で強力な裁定を行う事で、神領をその統制下に置こうという方向性を持っていたといえる。
  一方の「名主職安堵令」は、これも本来幕府の管轄外である本所一円地の住人について法令だが、幕府はモンゴル戦において既に彼らを動員する権利を行使していた。

    この法令はモンゴル戦の戦後処理を旗印として、軍役を務めた鎮西の武士の所領・所職を下文(kudasibunn)で安堵するものであり、その内容は多様で「名主職」は象徴に過ぎない。  本所一円地住人で安堵を受けたものは、この時点で御家人となる。 もちろんその範囲は九州に限定されるが、泰盛はこれを全国に展開する意図を持っていた。  そこに、将軍を推戴した新生幕府の方向性を見据えていたのである。  その意味で、モンゴル襲来後の九州とは、従来の幕府の枠組み・国制の枠組みを突き破る試みであったのかも知れません。

    だが、立法以後の幕府中枢の動きを追うと、 泰盛の政策が実行されるには相当の困難があった事が判ってきた。  先に発布された、「両令」は泰盛の徳政の焦点となるものであるが、貞時が執権となり幕府の体制が固まると、揺り戻しがみられ、「名主職安堵令」の下文は、通常の御成敗と同じ効力を認められない修正法が発布され、同法の骨抜きを狙ったもので、御家人制の拡大に抵抗する勢力の動きがあり、その実行は遅々として進まずにいた。
  そして霜月騒動後の鎮西談議所は、この法令の白紙撤回から仕事を始める事になる。 霜月騒動で泰盛の徳政が頓挫した後、「神領興行令」・「名主職安堵令」ともに停止される。  しかし興味深いことに、「神領興行令」は復活してその後も発令されるが、「名主職安堵令」は継承されていない。  この事実にこそ、かえって泰盛の目指すものの意味が明瞭に現れている・・。
奈良・中宮寺
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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.20(07:00) 198

**霜月騒動とは?・・・・・。

   さて、これまで霜月騒動(事件)に巻き込まれる事になる安達氏一族をレポートしてきましたが、愈々、この事件を出来る限り詳細にレポートします。

**戦後処理

   モンゴルとの合戦直後の弘安七年(1284)4月、執権・北条時宗が急逝した。 合戦の疲労が深かったのか、発病して程なくの急死であった。  34歳の早世である。 時宗の死は武家・公家共に不穏な空気をもたらした。  時宗には貞時一人しか子が無く、すぐに貞時が跡を継ぐべきところ、なぜか父の死後四か月を過ぎた7月にようやく第九代の執権が誕生した。  この間、六波羅探題南方北条時国や叔父の時光が誅されたり配流にされたりしており、背後に権力闘争があった可能性がある。

   公家政権は、先例に従い洛中30日の穢とし、6月を期限として五畿七道に殺生禁止令を布告した。 朝廷にとっても時宗の急死は一大事であった。

   弘安の蒙古合戦の戦後処理も滞っていた。  その最大の問題は恩賞問題である。 幕府は恩賞に充てる土地などをひねり出すのに苦慮していた。 しかも今回は神仏や非御家人にも恩賞を与える必要があった。 実質それが実行されるのは、弘安九年十月に入ってからであった。 また、モンゴルへの不安から異国警固番役は継続しており、それをめぐり一族の対立や所領経営の問題が九州を中心に噴出していた。

   この様な時に執権となった貞時は、まだ14歳の若者である。 貞時の背後にあり、幕府を実質的に動かしていたのは、叔父の有力者安達泰盛であった。  しかし泰盛のみが唯一実権を握っていたわけではない。 幕府の中枢を構成する寄合衆には、得宗の御内人筆頭の平頼綱がいた。 しかし当初、やはり幕府の政策と方向性を主導したのは安達泰盛であった。

   泰盛は得宗のみならず、将軍とも密接な関係を維持していた。 対面した将軍は、宗尊親王と維康親王と二代にわたり、将軍の親衛軍や側近の名簿には必ず泰盛の名がみえ、彼は将軍御所の近辺に宿所を構えていた。
  将軍の側に仕える者には文化的な素養が要求されたが、そのあたりの能力も持っており、京の政界や文化人との関係も深かったようだ。 また、彼は世尊寺流を汲む書道の達人であり、高野山奥院に卒塔婆を奉納し、町石の建立を行い、真言密教への造詣も深い教養人でもあった。  その泰盛がおのが政治生命を賭して率先して行った幕府の改革が『弘安徳政』と呼ばれる政策であった。

**弘安徳政

   弘安七年(1284)5月から翌年11月の霜月騒動までの間に、幕府は90ヶ条に及ぶ法令を矢継ぎ早に発布している。  幕府が発布した追加法の全体が750ヶ条であることから考えれば、いかに集中的に発布されたかが判るであろう。
 しかし、それらは全体として、幕府による徳政の名にふさわしい内容を備えていた。  この場合徳政とは、言葉本来の意味での恩徳ある政治、仁政を意味している。 しかし、発布の直後、霜月騒動で安達泰盛が失脚する事を考えると、これらの法令の発布の中心人物は泰盛その人をおいては考えられない。・・・・・その全体像は次回に・・・・・。
奈良・法隆寺  境内
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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.15(07:00) 197

**安達一族

**得宗被官(御内人)の台頭

   六波羅探題が北条時国と北条時村に代わるに際して、時宗は泰盛と康有を召して寄合を招集、六波羅評定衆の人員14名の選出担当事務、寺社・関東御教書・問状・差符など実務手続きの在り方、在京人の綱紀粛正などを決定した。  その内容を記した事書や御教書は、秘密裏に泰盛が保管していた。  その六波羅評定衆の職務分担が改めて検討された。  構成メンバーは泰盛・三善康有・平頼綱・諏訪真性である。 頼綱と真性は得宗御内人の有力者。 御家人は泰盛ただ一人。

    泰盛の対抗勢力となる御内人は、北条泰時の時代、屋敷内に尾藤景綱・関実忠の家が有ったように、本来は北条家の家人である。  得宗家の地位上昇にしたがい侍所の所司に就くなどして得宗の意を体現し、平頼綱らが寄合の中枢に入ってきた。
  得宗被官の台頭を如実に示すのに、文永八年に日蓮が浄土・律を批判して捕縛され、龍ノ口で処刑される寸前に停止されて佐渡に流された龍口法難がある。  このころ、北条氏は浄土宗の然阿良忠や西大寺律宗の忍性を保護し、長時は浄光明寺、業時らは極楽寺、実時は称名寺を建立し、極楽寺の忍性は蒙古襲来の兆候に異国降伏の祈祷を行うなど幕府と密着して教線を拡大していた。

  『法華経』を唯一の根拠とする日蓮はこれらを批判し、信奉者らは武具をおびて抵抗した。  日蓮の批判は北条氏の政策批判につながるとされ、時宗は侍所の所司・平頼綱に命じて日蓮を捕縛して市中を引き回し、 さらに龍ノ口で処刑しようとした。
  日蓮は、泰盛の配慮で危うく難を逃れたが、この事件は、得宗被官の力が増した事を示す事件だった。

    泰盛は公安五年(1282)に陸奥守に任官。  それまでは、六波羅探題北方の北条時村が補任されており、泰村が任官した事が驚きを持って見られていた。 一方、時村は武蔵守に転じ、以後も六波羅探題に留まった。  幕府成立後の陸奥守は、大江広元・北条義時・足利義氏に北条重時・政村・宣時・時成・時村と推移した。
  時村は文永八年から弘安五年まで在任し、これを継承した泰村は弘安七年の出家迄在任し、宗景らの秋田城介・検非違使補任とほぼ重なり、泰盛の陸奥守任官の背景には成功銭の拠出などがあった筈である。

 当時、泰盛は高野山の修造事業等を行い、弘安三年に焼失した鶴岡八幡宮の造営が企画され泰盛が奉行となり社家を指揮している。  中枢の上宮・下宮は時宗や北条一門が担当し、境内に勧請された末社は一般御家人、楼門・神宮寺・拝殿・弊殿・鐘楼といった部分は安達・足利・長井氏に北条実時ら北条氏庶流の諸氏が担当している。
奈良・法隆寺
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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.10(07:00) 196

**安達一族

**二月騒動

   将軍・維康親王が五歳となった文永五年(1268)、執権に北条時宗が付いた。  時宗は十八歳、連署政村は六十四歳。  青年の得宗を長老が補佐する体制に代った。  
   
  維康親王は文永七年に元服、加冠は政村が務めた。  元服後には泰盛邸に入った。その後鶴岡八幡宮に参詣している。 この記録から時宗を支えたのは政村と泰盛の両人であると確認できる。

   時宗の政権は文永九年(1274)2月、京都で時宗の兄で六波羅探題南方・北条時輔を、鎌倉では名越時章・教時らを殺害した。 時章殺害の討手の御内人は恩賞はおろか、誤殺として殺害される非常なものであった。  将軍宗尊に近い名越氏、鎌倉の意向に合わない兄の時輔を倒し、得宗時宗に叛逆する勢力を排除して得宗への権力の集中を高めた。   (二月騒動)
   泰盛は、当時高野山の町石塔婆を整備しており、文永九年(1272)整備の町石には二月騒動の亡者への供養の願文を刻んでいる。  二月騒動の首謀者として率直に供養をし、自らの行為の正当化を試みたのではなかろうか。

    北条政村が死去すると、連署には重時の子義政がついたが間もなく退任し、それ以降重時の子業時がその職に就くまで7年余り連署は置かれていない。  得宗・時宗が執権として単独で幕府の命を伝える体制が整えられた。
   この間、蒙古襲来など重事が続く。  将軍と北条氏との関係を見ると、建治二年に将軍御所が焼失すると、将軍の臨時御所は時宗邸となる。  維康親王はその後,宗政邸(時宗・弟)に移っている。 将軍・維康親王はこのように得宗関係者の厳重な監視下にあったと考えられる。
   翌建治三年になって将軍維康親王の新しい御所の造営が行われた。  御所の造営には御家人に所課分の銭を供出させており、六条八幡宮の造営と同じ手続きであった。  

**第九代執権・貞時の烏帽子親

    幕府政治での泰盛の位置を見てみよう。  評定始めの招集は泰盛が奉行している。  建治三年、泰盛は五番引付頭人、泰盛の地位を背景にしたものであろう。 泰盛の松谷別荘に問注所執事・三善康有が呼び出され、肥後国安富荘地頭職を時宗が拝領する意思のある事を内々に将軍に伝達したという事で、泰盛の指示に従って下文を康有が書いた。泰盛は御恩奉行で、得宗といえども将軍が恩賞を与える下文の拝領は御恩奉行を通して行われた。 泰盛は、将軍の安堵の実務を代行する立場に有った。
  また、泰盛の息盛宗が検非違使に任官されて武家の装束白襖で出仕した。  泰盛一族は特別な視線で見られていた。
    
    安達氏の守護国上野国の一般人の訴訟を担当する雑人奉行に北条義宗が補任された。  義宗は北条時輔暗殺の首謀者で、時宗・泰盛の信任の許での補任であろう。  泰盛は、奉行や問注所の人員などの人事を掌握する立場にあったと思われる。

   建治三年12月、時宗の子貞時の元服に儀が行われ、理髪は北条宗政、烏帽子は泰盛。  貞時の母は泰盛の養女(堀内殿)。 泰盛は孫貞時の後見役となる。
奈良・興福寺
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奈良・興福寺  (新落慶・中金堂)
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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.05(07:00) 195

**安達一族

**将軍・宗尊の追放

    時宗は、十四歳になった文永元年(1264)、執権・北条政村のもと連署の地位に付き、同五年までその職にあった。  時頼政権を支えていた大仏朝直が死去したのを受けて、引付の新人事が行われている。  一番引付頭人に名越時章が朝直の欠を補う形で補任され、二番引付頭人に北条実時、三番引付頭人に泰盛が補任された。  同時に実時と泰盛は新設の越訴奉行に就任した。  将軍周辺の行事などを司る小侍所別当は時宗と実時が同時に就任していたが、時宗の連署就任を契機に実時もこの職を辞し、後継には塩田宗政・北条業時という重時の子弟が継承している。

  時宗・実時が小侍所別当の職にあった時期に、宗尊親王は将軍出行を供奉する御家人を直接に差配しており、本来これを担当すべき小侍所別当である両者との間には大きな軋轢が形成されてしまった。

   文永三年(1266)、宗尊親王の正妻であった近衛基経の娘宰子と僧良基との間で密通事件が発覚した。  良基は、藤原基房の孫で曹洞宗を開いた道元と従兄弟にあたる。 幕府の祈雨や日蝕の祈祷をはじめ時頼の病気平癒の祈祷などを行った。  密通の発覚後、時宗邸で北条政村・北条実時・安達泰盛が「神秘の沙汰」を行うと、良基は御所から逃亡した。  その後、鎌倉に武士が終結する騒ぎが起こり、将軍謀反を理由に東使が派遣され、宗尊親王は帰洛する事になる。(将軍の追放)

   この事件の沙汰が連署・時宗邸で行われたのは、執権政村が時宗の得宗としての地位を配慮したもので、泰盛は将軍への求心性を持ちつつも時宗を支持したとみられている。  その後、東使・二階堂行忠と安達時盛が新将軍に三歳の維康親王を着ける事を朝廷に申請し、宣下が行われたのである。  年少の維康親王を将軍に着ける事で、時宗の権力を高める意図の下に行われた追放であった。

  泰盛と北条氏の立場は、弘長三年(1263)の時頼の死去を前後に異なる。  この年以前は、北条氏嫡流の家督である得宗が時頼、幕府の公権をになう執権は時頼ー長時、同年以降は得宗が時宗、執権が長時―政村―時宗と推移する。  泰盛は時宗とは義理の親子関係にあり立場が異なってくる。

   時頼存世中の泰盛をみよう。  泰盛は時宗の元服にあたって烏帽子を持参する役をになった。 時頼が没すると、名越時章・安達頼景・武藤景頼・二階堂行氏・安達時盛らが出家したが、泰盛はそのままで後嵯峨院の聴聞の勅使に源頼方と共に面会している。   当時、御家人の出家が相次いだが、大仏朝直は執権の長時や業時によって禁止を勧告され出家を思いとどまっている。  これは得宗の死を契機に出家する御家人を掣肘する意味があったと思われる。 
東大寺・二月堂回廊 (お水取り)
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二月堂より大仏殿を望む
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平成30年戊戌・乙丑・辛未

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2018年12月
  1. 霜月騒動・安達泰盛(12/30)
  2. 霜月騒動・安達泰盛(12/25)
  3. 霜月騒動・安達泰盛(12/20)
  4. 霜月騒動・安達泰盛(12/15)
  5. 霜月騒動・安達泰盛(12/10)
  6. 霜月騒動・安達泰盛(12/05)