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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.28(07:00) 212

**三浦一族

**連携する氏族

   三浦氏は「介」として、相模国衙の機能の一つであった東京湾海上交通を管理していたのであるが、その事を媒介として房総の有力な三氏と連携する様になっていたのです。  しかも上総介・千葉・安西三氏ともそれぞれの国の国衙在庁と密接な関わりを持っていたことから、三浦氏が「介」を家職とすることにより、「兵の家」を形成・確立していく上で、様々な影響を受けた氏族なのです。

   上総介・千葉両氏は桓武平氏良文(yosifumi)流の二代後、平忠常(tadatune)の子孫である事が伝わる。 その忠常以来「千葉介」・「上総介」という肩書と共に先祖高望が培った国衙在庁との結びつきを保ちつつ、それぞれの地域での有力武士として発展していったものと思われる。  一方、安西氏の系譜は同じく桓武平氏良文の次の世代村岡忠頼(tadayori)の子孫と見える。 他に三浦氏の系図に、三浦為継(tametugu)の子義継(yositugu)の兄弟に「安西四朗」と注記のある人物の名が見える、おそらくは安房の安西家に入り婿したのであろうと推定される。

   次に上総介・千葉・安西三氏と三浦氏との関係は、陸路は武蔵国、海路は東京湾を挟んでかなり隔たっていたにも関わらず、意外に緊密であった事が判ってきた。  まず上総介氏とは、広常(hirotune)の代に弟頼次の妻として三浦義明の娘を迎えるという絆を結んでおり、この絆は頼朝の挙兵直後に生じた衣笠合戦に於いて遺憾なく表れている。
  すなわち石橋山の戦いに直接参戦出来なかった三浦武士団の主力は、帰途鎌倉の西南端の小坪で、追ってきた武蔵の秩父党と一戦を交えこれを撃退したとある、その後本拠の三浦郡衣笠城に再び秩父党の来襲を受け、奮戦したが衣笠城は落ち、当主三浦義明は城と共に自害した。    しかし、子供らは父の命に従い、頼朝のいる安房に向かったのである。

*衣笠城・・・・・(横須賀市・衣笠) 「兵ノ家」 三浦氏の居城 ・城主三浦義明。  衣笠合戦当時、籠城軍に、金田(上総)頼次(娘婿)が70騎余りを引き連れ参戦している。

   千葉・三浦両氏の連携を示す「吾妻鑑」からの記事を・・・治承四年6月27日条から・・・・・。京都大番役の為に在京していた三浦義澄(yosizumi)・千葉胤頼(taneyori)の二人が、下国の途中伊豆の北条館の頼朝に面会し、余人を交えず会談したという事で、京都で以仁王(motihitoou)の挙兵が失敗したあと、自身の進退について決断を迫られていた頼朝は、両名と京都情勢について話あったと云う。・・・・注目する点は、此の両人が、京都大番役勤務による状況から下国に至る間、行動を共にしていたという点で、そこに三浦・千葉両氏の日頃の連携ぶりを見てとれる。  さらに安西氏と三浦氏との関係は、先にも述べたが義継の代での入り婿が想定出来るほど近しいものいえるが、その他に清和源氏を媒介とする両氏の緊密な関係も推量できるのである。  

   いずれにしても上総介・千葉・安西三氏と三浦氏とは、ミウチ的な関係の他に、それらをてことして国衙在庁レベルでの相互連関の絆を保っていたものと思われるが、その事が三浦氏一族の発展にとってどのような意味があったのだろうか・・・・・・? 
参考資料・上総介、千葉氏系図
上総・千葉氏
相模国・三浦氏、上総介・千葉氏関連図
千葉氏勢力圏

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平成31年乙亥・丁卯・丙申 
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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.25(07:00) 211

**三浦一族

**中村氏

    相模武士として三浦氏とは良好な関係にある中村氏は、桓武平氏村岡二郎忠頼(tadayori)の流れといわれる。 忠頼から四代下った村岡宗平(souhei)が相模国中村庄(小田原・中井町)の庄司となり、彼の息子らの世代で、東は現在の平塚市から西は湯ヶ原町に至る広大な地域を支配する様になった。 
  この中村氏一族の支配地域に入り込むようにして、対立的な関係にあった波多野氏の勢力範囲が展開していたため、両氏の関係は対立的にならざるを得なかったのだ。

   その波多野氏を南北から挟むような形で大住郡岡崎に進出していた三浦氏一族との連携を保ち、あわせて三浦氏と共に相模国衙の雑事を分掌する様になったのである。

   中村氏と三浦氏の連携関係は、波多野氏を南北から封じ込めようとの意図の下で成立したのであるが、中村氏と波多野氏の直接的対立は史料には見当たらない、しかし、両氏の確執は根が深かったと想像される。 その事を垣間見る事の出来る事実は、頼朝の挙兵前後の波多野氏の複雑微妙な行動と、その後の中村氏の波多野氏領域内における動向に観られるのである。 すなわち頼朝は挙兵を決意するにあたって、使者を相模武士らに遣わし協力の約諾を取り付けるのであるが、秦野義常(yositune)と山内首藤経俊(tunetosi)は頼朝の召しに応じなかったと言う。

後に頼朝が鎌倉に入部した後、頼朝が義常の許に討手を差し向けると、彼は戦わずして領地の松田郷で自害したという。 これらの事実から、中村氏は日頃波多野氏の領域で自領に近い松田郷に関心があり、頼朝に対する義常の反抗を理由に、松田郷の領有を頼朝に願い出て、頼朝もそれを認めたようだ。 逆に波多野義常が頼朝に従わなかった理由の一つに、日頃からの中村氏との確執があったものと考えられる。

   波多野氏と三浦氏との関係も、その両氏の家系の違い、相模国とのかかわり方の前後の違い、そして支配領域の接触などを起因として鎌倉幕府までは終始対立的な関係として推移しtのであるが、実は幕府成立後も両氏の関係は必ずしも円滑ではなかったようで、例えば建保合戦の際、波多野忠綱(tadatuna)(義常弟)は当初和田義盛方に参じたが、後に幕府方に転じ、合戦終結後戦功の事で三浦義村(yosimura)と口論に及んだという。  この事は忠綱の三浦氏に対する微妙な感情のあらわれと思われる。
参考資料・中村氏、土肥氏系図
中村・土肥氏
相模国・三浦氏関係図千葉氏勢力圏

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.20(07:00) 210

**三浦一族

**鎌倉党(続)

   見てきたように、鎌倉党と三浦氏との関係は鎌倉党の内部が必ずしも一枚岩ではなかった事もあって、かなり複雑な様相を呈しているのであるが、両者の間の同盟と対立の関係は、後に幕府が置かれ中世都市として発展する鎌倉の地を巡って、とりわけ鮮明に現れているのである。
  鎌倉郡鎌倉郷は、古来郡衙が置かれ、東海道が由比ヶ浜沿いに通っていた事などから、鎌倉郡の中心的な小都市として発展していたと考えられるが、十一世紀後半に平直方(naokata)が源頼義(yoriyosi)に鎌倉の地を譲ったとされて以来、武家棟梁清和源氏の関東における拠点になっていたと考えられるのである。
  ところが、それ以前に鎌倉郡に土着した鎌倉党のうち、権五郎景政(kagemasa)の家系の者は、東海道沿いに鎌倉郷にまで勢力を伸ばし、その勢力圏は大庭氏が継承したと思われるのである。
    その根拠として、古東海道が鎌倉郷に入る辺り(鎌倉・坂の下)に、景政を祭る御霊神社がある事。  頼朝が鎌倉に入部した治承四年に、頼義が創建した鶴岡八幡社を、由井から小林郷に移した奉行人が大庭景義だった事。
   つまり、鎌倉党大庭氏は名字の地である高座郡大庭御厨の南西部、懐島から鎌倉郷に至る間の東海道地域を抑えていたと考えられるのである。

   対して三浦氏の方は、本拠地三浦郡から北方に進出し、後に都市鎌倉の有力な外港となる武蔵国久良岐郡(kuraki)六浦(mutuura)から朝夷奈(asaina)を超えて鎌倉郡に至る六浦道沿いの地域を手中に収めるようになり、義明の代にはこの地域はおおよそ長子義宗(yosimune)(和田義盛の父)に譲られていたものと思われる。
  このように三浦氏が鎌倉党の縄張りにも等しい鎌倉郡に進出できた理由の一つは、頼義以来鎌倉郷に利害を持つ様になった清和源氏の後ろ盾が有ったからであろう。 先に記述したように三浦氏による若き義朝の養育そして鎌倉館の造営も、そうした清和源氏と三浦氏の鎌倉を巡る緊密な関係を表している。

   こうした清和源氏・三浦氏連合の鎌倉郷への進出は、鎌倉党大庭氏との利害の対立を生んだものと想像される。  いわゆる大庭御厨「乱入」事件の背景にも、両者の利害の対立が有った事は十分に考えられる。さらに、大庭御厨「乱入」事件当時、大庭氏の内部で景宗・景親(kagetika)父子と景義(kageyosi)との間に対応の相違が生じ、後者が源義朝(yositomo)・三浦義明(yosiaki)連合に妥協的な態度をとった結果、鎌倉については大庭氏の権益は景義が掌握し、義朝・義明の側とも勢力均衡を保つことが出来たと思われる。
  なお鎌倉に関する三浦氏と鎌倉党との均衡状態は、後に源頼朝により保証されるところとなり、その結果、鎌倉市中の警察的役割をも担った侍所首脳として別当和田義盛(三浦)・所司梶原景時(鎌倉党)が並んで任命されている。

   また、鎌倉党は三浦氏と支配地域が隣接していた事もあって、終始ライバル関係にあったが、鎌倉党自体は内部的に一枚岩とはいいがたい状況にあった為、三浦氏との関係も、清和源氏や他の氏族との関係も複雑なものにならざるを得なかった。  逆に三浦氏の側から見ると「介」の地位を家職として「国衙雑事」に交わる事によって「兵ノ家」としての自己の存立を確固たるものにしようとしていた三浦氏にとって、鎌倉郡から国府のある大住郡(oosumigun)までを鎌倉党に抑えられることは容易ならざる事態であり、そうした事態を打開するために、清和源氏と結んだり、相模西部の武士中村氏との連携を深めたりして、鎌倉党を牽制する一方、陸路交通にのみ頼らず、海上交通を手段として大住国府との連絡を密にする事を図ったと思われる。
関係資料・鎌倉党系図
鎌倉党3流
資料・三浦一族系図
三浦氏系図

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.15(07:00) 209

**三浦一族

**周辺氏族
   
 三浦氏は相模国・三浦郡に本拠を置く武士であるが、姻戚関係を含めた勢力範囲は、ほぼ南関東を覆っていた。  具体的にには、東は房総の上総氏・安西氏(安房)、西は相模国大住郡の岡崎氏・土屋氏、北は武蔵の畠山氏・横山党の諸地域・諸氏である。
   こうした関係とは裏腹に、相模武士である鎌倉党や波多野氏とは、必ずしも円滑な関係にあったとは思われない、これら周辺諸氏との様様な関係が、三浦一族のみならず関係諸氏、ひいては鎌倉幕府に結集した関東武士全般の動向に多大な影響を与えた事は、まぎれもない事実である。

**鎌倉党

    三浦郡に隣接する鎌倉郡に本拠を置いた鎌倉党は、三浦氏にとって歴史的に最も因縁のある武士集団である。  鎌倉党に関しても諸系図が確定しない部分もあるが、三浦氏と同祖という点は疑いようがないところである
 鎌倉党の系図を見て注意を惹かれるのは、忠通の子らが何れも「権大夫」「大夫」「権頭(守)」を称している事で、これらは何れも国衙関係の在庁職を手中にし、その権限を背景に三浦郡・鎌倉郡・高座郡、さらには大住郡へと発展していったのである。 後三年の役の活躍で有名な鎌倉景正の「権五郎」という名乗りも、父にあたる人物(景成)が「権守」のような国衙在庁の職名を帯びていたのであろう・・・・・・。
 このように鎌倉党と三浦氏は系図上は極めて近い関係にあり、しかも相模国衙の関係からも似たような立場に有ったと言えるが、両者の関係は当初から思わしいものではなかったようである。 三浦氏と鎌倉党のライバル関係について、史料から解明できる事件がある。
  
   以前にもレポートした大庭御厨「乱入事件」である。  義朝側(三浦氏側)からは先に述べたので、ここでは「乱入」された御厨側(鎌倉党・大庭氏側)の対応をレポートすると、義朝側の在庁官人らが御厨の範囲を示す牓示を抜き取り、御厨内の作田95町分の稲穂を勝手に刈り取り持ち帰り、下級の神官数人を殺害するに至ったとある。  事に対した荘官「平景宗(kagemune)」らは、何ら有効な反撃をしないで上司にあたる担当者に言上するだけであった。
   ここに名を残す下司「平景宗」とは、鎌倉党系図で、大庭景義・影親兄弟の父とされる大庭太郎権守景宗と同一人物であろう。


 乱入事件に於いて、事件の張本在庁官人=義朝=三浦氏と御厨下司大庭氏(鎌倉党)との敵対関係の構図が明瞭に浮き出てきているのであるが、注目すべき事は、大庭氏が自身も「権守」として国衙在庁に多少とも関係していたはずであるのに、在庁官人らに対して直接行動をとっていない点で、それこそ大庭氏(鎌倉党)がこの時点では、武家棟梁清和源氏との主従関係から外れていたからに他ならない。

    この御厨乱入事件の過程で、大庭氏(鎌倉党)内に対立が有り、その事が治承四年(1180)、頼朝挙兵の際に、景義(kageyosi)は源氏側、景親(kagetika)は平氏側という分裂行動にまで尾を引いたとの説があるが、大庭景義と景親・景久との間に内紛が生じたとしても、それは乱入事件の後、大庭氏(鎌倉党)の立て直しが必要になった頃の事と考えるべきで、景義は清和源氏に臣従するとともに、大庭御厨の西端で国衙に比較的近い懐島(futokorosima)(現在の茅ケ崎市)に本拠を移し、自らも「権守」として国衙在庁=三浦氏に接近するようになったのであろう・・・・・。
参考資料・鎌倉党関係系図
鎌倉党3流
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図


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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.10(07:00) 208

**三浦一族

**三浦氏と清和源氏(続)

    源義平(yosihira)の母が三浦義明の娘であったかどうかは確たる証拠は残念ながら見当たらないが、義明と義朝の濃密な関係については、いくつか傍証になりうる点がある。   義朝が「鎌倉之楯」に居住していたという事である。 この楯(館)は現在鎌倉市の臨済宗・寿福寺境内である事はほぼ確定している。   この地に寿福寺(当初は亀谷寺)を建立する事を記した『吾妻鑑』正治二年(1180)2月12日条に、「尼御台所の御願として、伽藍を建立せんがため、土屋次郎が亀谷の地を点ぜらる。 これ下野国司(義朝)御旧居なり」と記される。

   これより以前治承四年(1180)10月に初めて鎌倉に入った源頼朝(yoritomo)が、父義朝(yositomo)の「亀谷御旧跡」に自分の屋敷を構えるため現地視察を行ったが、地形はそれほど広くなく、しかも岡崎義実(yosizane)が主君義朝の菩提を弔うため堂宇を建築中という事もあって、計画を断念して、大蔵の地に屋敷を新築する事になった。
   注目すべき事は、義朝の館の地を彼の没落後家臣である岡崎義実さらにその実子土屋義清(yosikiyo)が伝領していたという点である。  史料によれば、義朝は「鎌倉之楯」を「伝得」したとされ、あたかも清和源氏源氏代々が伝えてきた場所と受け取れるが、逆に本来は三浦氏に縁のある地を、何らかの切っ掛けで義朝が獲得したものと考えられるのである。 
   鎌倉の北部、すなわち横大路から六浦道へと続くルート沿いの地は、荏柄前、杉本、朝夷奈といづれも三浦一族和田氏関係の地である所から、横大路を西から抑える位置にある。「鎌倉之楯」の地も、早くから三浦一族の支配圏に入っていたと考えて良いでしょう。  その地を義朝に「伝得」させた当事者は義明であり、女婿(ミウチ)としての義朝に鎌倉の地を与え、そこに住まわせたのだろう。
  つぎに、義朝が「上総曹司」と呼ばれていた事についてであるが、義朝と上総国とを結び付ける手掛かりは無い、本人が直接関係ないとすると、父為義か母方の祖父藤原忠清が上総の関係者かと思われるが、この点についても記録はない。  ところが、幼いころの義朝がある時期、上総国内に住んでいた可能性も僅かではあるが考えられるのである。  義朝が父為義から安房国丸御厨を譲られたという記事と上総介広常(hirotune)と三浦義明の間の密接な関係の存在を前提とするもので、前者の弟金田頼次(yoritugu)は後者の女婿とされ、衣笠合戦では、頼次は義明親子が籠る衣笠城の守備の一角を担っているのである。
  安房国にいたと思われる若い義朝を養育する立場にあった義明が、膝元の相模に招くより安全な上総の広常に義朝を託したのではなかろうか。

    さらに、義朝と相模国衙との関係については、義朝側に立って大庭御厨に「乱入」したとされる人物の中に明らかに国衙の人間と判るのは「田所目代散位源朝臣頼清」である。  まず田所というのは国衙の機能を分掌する部局の一つで、文字通り国内の田地の管理を行っていたところである。  なかでも徴税事務を扱う税所と田所は重要な部局であった。  その田所の目代と云うのは、おそらく国守の代官で田所の責任者になっていた者の事であろうが、源頼清は散位ではあるが「朝臣」と称される国守クラスの中級貴族であるから、事実上相模国衙の筆頭者として在庁官人らを直接指揮する立場にあったと思われる。
  また義朝の名代とされる清大夫安行なる人物は「大夫」という称号から推しても、国衙に関係する地元の有力者であったと思われ、その様な人物が義朝の名代、すなわち私的な代官を勤めていることは注目される。  おそらく義朝は田所目代頼清と連携しつつ、相模国衙の有力者と個別に私的な主従関係を結んでいたのであろう。

   一方、三浦義継(yositugu)・義明(yosiaki)父子と義朝との関係は、義継の肩書が「庄司」であるが、すでに家職となっていた「介」の称号も持っていたはずである。  それが「庄司」という肩書で、清原安行と併記された理由は、義継・義明も国衙関係の有力者であったにもかかわらず、田所目代頼清の配下ではなく、義朝との私的な関係にもとづいて行動していたからに他ならない。
この点からも義朝と三浦氏との濃密な関係が浮かび上がってくる。

  このように見てくると、三浦氏と清和源氏は、他の関東武士と比べても格段に堅い絆で結ばれていると言えるのである。  両者間に姻戚関係があったとすれば、それは頼義室(義家母)の父平直方以来であり、義朝の世代では他に次男朝長(tomonaga)の母の実家である相模武士・波多野氏がいるだけで、後年三浦氏のライバルとなる伊豆の北条氏は、頼朝の世代でようやく、しかも偶然のきっかけで清和源氏との姻戚関係が出来たのである。  このような三浦氏と武家棟梁家との濃密な関係は、三浦氏が周辺の有力武士と同盟と対立の関係をとり結びながら中世武士へと発展してゆくうえで大きな意味を持ったのである。
参考資料・清和源氏(系図)
清和源氏・系図
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.05(07:00) 206

**三浦一族

**前九年役・後三年役

    前九年役とは、陸奥の「俘囚の長」の系譜を引く有力者安倍氏(abesi)が国守に反抗した事をきっかけに、中央政府は源頼信(yorinobu)の子頼義(yoriyosi)に安倍氏追討を命じた。  頼義は苦戦を強いられながらも最後は出羽の有力者清原氏の支援を得て鎮定に成功するという経過をたどる兵乱で、足掛け十二年も続いたので「十二年合戦」とも言われた。

    次の後三年役は、前九年役で源頼義(yoriyosi)を支援した清原氏の内紛を陸奥守源義家(yosiie)・(八幡太郎)が介入し、一方の当事者清原清衡(kiyohira)・(後に藤原姓)を助けて、清原氏の後継者に据える事に成功するという経過をたどる兵乱である。

   この時の陸奥守・義家の家人(郎党)としては、三河国住人・兵藤太夫正経(masatune)および「将軍のつわもの」相模国住人・鎌倉権五郎景政(kagemasa)・三浦平太郎為継のほか後に山之内首藤氏を名乗るようになる藤原資道(sukemiti)等が登場するが、ごく少数の名がみえるのみである。 しかし、寛治元年(1087)の金沢柵攻防戦では、義家軍の兵力は既に数万騎の規模であったという、鎌倉権五郎景政、三浦平太郎為継、も既に出身地では勇名をとどろかせ、有力な「つわもの」だったのである。 つまり、義家の代で清和源氏は真に武家棟梁と言える存在となったのであり、彼の四代後の頼朝(yoritomo)が東国武士を中核とする政権の基を築いたという事である。

**三浦氏と清和源氏

   後三年役の鎌倉党梶原氏(kajihara)・大庭氏(ooba)らの祖とされる権五郎景政と共に参軍した三浦平太郎為継は、「将軍(義家)のつわもの」であり「相模のつわもの」であった。  為継の父とされる為通(tamemiti) ・・・系図参照・・・の注記に源頼義より相模国三浦郷を宛がわれ衣笠城を居城としたとある。  (諸説あり)
   さらに清和源氏と三浦氏の先祖との主従関係の成立を、さらに一世代ずつ前に遡らせる事も考えられるのである。 どういうことかというと、三浦氏の先祖が相模国に縁をもつのは、為通の一世代ないし二世代前と考えられ、一方清和源氏の側が同国と縁を持つのは頼義が初めてではなく、頼義の父頼信が相模守に任じられたことがあり、頼信─忠通の世代での主従関係の形成もあったと言えよう。

   三浦氏と清和源氏との関係は、為通の子為継の代の後三年の役の際、為継が「将軍(義家)のつわもの」として参戦している事を見ても、頼義─為通の主従関係を継承・発展させている事が判る。  なお後三年役には為継と共に鎌倉景政も同じく「将軍のつわもの」として参戦している。
   鎌倉党の祖も三浦氏と同じ村岡小五郎忠通とされるので、忠通の世代までに鎌倉党と清和源氏との主従関係が成立した可能性、及び鎌倉党と桓武平氏の家系との関係が成立した可能性が考えられるのである。  従って鎌倉党と三浦氏との間の清和源氏を頂点とする同盟と対立の起源も、十一世紀初めごろに遡って考える必要がありそうだ。   

   三浦為継の子義継(yositugu)の世代になると、清和源氏との関係は義家の子義親(yositika)、孫の為義を飛び越えて曾孫義朝(yositomo)の家臣としての登場となる。  折しも政治情勢は摂関家を抑えた院(上皇)の実権が強まり、清和源氏に代わって桓武平氏の末の伊勢平氏が、院政の常備軍である北面武士の筆頭として頭角を現しつつあったという事で、武家棟梁としての清和源氏の存在感は薄くなったいた。  当然為義(tameyosi)の棟梁としての重みの低下と裏腹に、子の源義朝(yositomo)は若年期に東国に根拠を置いて、その地の武士たちとの主従関係を再構築していた。

   三浦義継と源義朝(yositomo)の二人が同時に歴史上に名を連ねるのは、大庭御厨「乱入」事件においてである。  天養元年(1144)「鎌倉之楯」(現・寿福寺) に居住していた義朝が、大庭御厨の一部鵠沼郷は自分の支配圏内である鎌倉郡に入ると称して、俣野川を越えて御厨内に「乱入」したとされる。  記録によれば「田所目代散位源朝臣頼清ならびに在庁官人・上総曹司義朝名代清太夫安行・三浦義継・義明・中村宗平・和田助広、所従千余騎」が御厨内に押し入ったとある。   

   この記録と云うのは、大庭御厨の領家である伊勢神宮側の訴え状を引用し、それらを支持する裁定を示達したものであるから、かなり一方的内容である点を考慮しなければならないが、それにしても三浦義継・義明親子が源義朝側に立って行動していた事は明白である。   義朝が「鎌倉之楯」に住んでおり、字を「上総曹司」と称ししていた事、さらに彼が相模国田所目代や在庁官人など国衙関係者を動かせる立場に有った事など、実に注目すべき点が多い・・・・・・・。

   三浦氏と清和源氏との濃密な関係は、義継の子義明の世代に一段と顕著になる。  すなわち、十二世紀後半、都では保元の乱(1156)、平治の乱(1159)と二度にわたって大きな兵乱が起きたが、後者を題材にした「平治物語」に「義朝の嫡子鎌倉の悪源太義平(yosihira)の母方は「三浦大介義明女」とある。   この事は三浦義明と源義朝は姻戚関係をとり結んでいたと思われるのである。
参考資料・清和源氏系図
清和源氏・系図
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図


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平成31年乙亥・丁卯・癸酉

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2019年02月
  1. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(02/28)
  2. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(02/25)
  3. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(02/20)
  4. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(02/15)
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  6. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(02/05)