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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.30(07:00) 218

**三浦一族

**幕府(鎌倉殿)との存立

  頼朝が最初の論功行賞を相模国府で行った事にある意図を感じる。   それは鎌倉幕府の核が国府で生まれたと表現したのではあるまいか?・・・・・。
  しかもこの時頼朝は三浦義澄の「三浦介」 を安堵しているのである。 介は本来律令法に定められた国司次官の地位であるから、頼朝がその地位を私的に安堵した事は、それ以後頼朝と家人の関係を律令法を超えた新しい法の下に置くことを頼朝主従が認めた事を意味するのである。
  そして相模国についていえば、国主は頼朝であり、彼の代官として三浦介義澄が正式に就任した事を意味するのであるが、これは後に関東御分国といわれた伊豆・上総・下総・武蔵などの諸国についても適用されていったのである。
   先に述べた鎌倉幕府の核の行政的発展として、頼朝による国衙在庁支配が、在庁官人である御家人武士を介して行われるようになり、頼朝の実効支配の及ぶ諸国が、幕府の中核的な政治基盤となったのである。

*鎌倉幕府の核・・・・鎌倉殿と御家人の主従関係

    相模国府における論功行賞のあと、頼朝は常陸国府(石岡市)に到着、平家方の佐竹氏討伐について作戦会議を行っている、当時の常陸国は平家寄りの左大臣・藤原経宗(tunemune)の知行国で養子で平重盛(sigemori)を父にもつ宗実(munezane)が介であり、平氏知行国に含められていた。  しかし、宗実は遥任で事実上常陸国衙の最有力者は、上総介広常の縁者とされる佐竹氏と思われる。 

   同国には「常陸大掾」を家職とする家系があり、頼朝の頃には多気氏(takesi)を名字としていた。 この多気氏は後に御家人になっている事から考えて、挙兵までは佐竹氏と対立的であったと思われ、佐竹氏攻撃軍にも加わっていたと思われる。  つまり頼朝の佐竹氏討滅行動も、国衙在庁レベルでの平家の影響力を排除する事によって、反平家方の国衙関係者の地位を安堵し、彼らを通じて一国の実効支配を完成したと考へる。

    以上の様に、国衙在庁関係者を媒介とする頼朝の地域支配の獲得は、逆に関係者である武士たちに、どのようなメリットをもたらしたのであろうか・・・。 例を三浦氏に採ると、何といっても義澄が「三浦介」を安堵された事は、代々武家棟梁により安堵されてきた家職が平家の天下になって不安定になっていたのを復活できたことを意味し、現実的にも地域(国敵)最大のライバル鎌倉党大庭景親(kagetika)を排除し、親しい関係の懐島(大庭)景義(kageyosi)との連携関係を成立させた事も、三浦介としての国衙雑事の遂行をスムーズにする要素となる事であった。

   さらに従前緊密な関係にあった房総の国衙在庁関係者(千葉氏・上総氏・安西氏)が、それぞれの国でやはり国衙機構を掌握し、その事を通じて頼朝(棟梁)との主従関係を復活した事で、三浦氏にとっては彼らとの連携自体を頼朝に安堵された事を意味し、今後展開するであろう幕府政治における三浦氏の位置が、早くも定まったと言ってよいのである。

    ただし三浦氏についてみると、先に述べた国衙レベルでの他氏族との連携を脅かすことになる要素、つまり頼朝を「ミウチ」 に取り込んだ北条氏の存在、及び惣領家とは別に論功行賞の対象になった和田義盛・岡崎義実ら庶子家の自立傾向もまた早い時期に現れており、幕府における三浦氏の位置も、必ずしも確固としたものには成らない予感を与えた。
参考系図・三浦氏
三浦氏系図
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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.25(07:00) 217

**三浦一族

**鎌倉殿

    頼朝に調停者という役どころを期待した三浦・千葉・上総三氏が、何れも「介」 である事、即ち各国の国衙在庁関係の有力者たちであるのは偶然であろうか。  おそらく平家の天下になって以降、具体的な事例は無いが、もともと源家累代の家人であった国衙在庁関係者と、そうではない人々(平家被官)との軋轢が多かった事は十分に考えられる。 とくに「介」の地位は、国家によって公認されたものと言うよりは、先祖代々の家職として武家棟梁から私的に安堵される性質のものであったから、その地位ないし権限を脅かすものに対しは、棟梁の権威を後ろ盾にして対抗せざるを得なかったのであり、棟梁の不在は「介」の地位を帯びる者にとって絶対に避けねばならない事態であったのではないか・・・・。

    情勢を的確に見極める事に敏い頼朝は、そうした国衙在庁関係者の自分に寄せる思いは十分に察知していたと思われる。 そして彼の側からも、関東武士の中でも特に三浦・中村・千葉・上総介といった国衙在庁関係者の大物たちを重視し、彼らの支持と武力を基盤にして、自己の支配圏を広げようとしたのである。

    ここで挙兵直後の頼朝の行動を見直して観る事にする。    挙兵緒戦に、伊豆目代・山木兼隆(kanetaka)を急襲し彼を倒したことが象徴的である。
  このころの伊豆は、平家の重鎮で清盛の義弟にあたる大納言・時忠(tokitada)の知行国であり、時忠の子時兼(tokikane)が国守であったが、彼は遥任の国守であり、兼隆が代官(目代)として事実上伊豆国衙の最高権力者になっていた。
  頼朝は初戦を山木館と定め、日頃伊豆の武士と目代との軋轢を最大限に利用したと考えられる。  武士たちにしてみれば、日頃のうっぷんを晴らすという意味もあったのであろう。  「吾妻鑑」にはこの戦いを「国敵」を討つというような表現がされているが・・・。  ここで云う「国敵」とは、日本国レベルでの敵というよりは、伊豆国レベルでの敵という事であろうから、先に述べた伊豆の武士たちの敵という事になろう。

   兼隆館襲撃に加わった武士の中に、北条時政の他に工藤成光(sigemitu)という国衙在庁関係者がいた事は、特に目代・兼隆によって「介」という地位ないし権限を抑圧された者として頼朝の挙兵=目代打倒を支持したからと思われ、この襲撃は伊豆の国衙機構掌握をめぐる闘争でもあったと考えられる。
  ただし伊豆の国衙在庁関係者がすべて頼朝に付いたわけではなく、伊藤祐親(suketika)などは兼隆の後見だったため、あくまでも平家に忠実であったのである。

    さて頼朝は緒戦に勝ったものの、石橋山の戦いで平家方の大庭景親(kagetika)・伊藤祐親(suketika)に挟撃されて惨敗し、箱根山中を逃れて真名鶴(manazuru)から船で安房に渡り、ここから上総介広常の館を目指した。
  しかし、平家方武士来襲の危険を察知し、ひとまず安房国在庁安西氏の邸宅に落ち着き、使者を介して千葉介常胤(tunetane)と上総介広常(hirotune)に来援を促す事になった。

    常胤は、一族こぞって頼朝方に付くことに決したとは言え、下総目代が「平家家人」 であり、領家判官代親政(tikamasa)という者は、平家の姻戚であったから、後顧の憂いを断つため、まずこうした勢力を倒す必要があったのである。 つまり先の伊豆の場合と似て、「介」としての常胤は日頃目代あるいは領家代官との間に確執があり、頼朝挙兵を機に一挙に排除して、下総国衙機構の掌握を達成しようと謀ったのである。

    このように挙兵直後の頼朝の軌跡をたどると、伊豆から房総にかけて諸国の国衙在庁有力者を頼るような形で進んだと言える、その仲介役を果たしたのが相模国衙関係の最有力者三浦氏であったのである。  頼朝の行動が国衙を基盤とし、あたかも国衙機構の掌握を目論んでいた事の証がこの後、鎌倉入部に現れる。

   鎌倉入りを果たした後、平家の正規軍を富士川に迎え、これを打ち破り、その帰途相模国府(大磯町)にて最初の論功行賞を行ったのである。  そして北条時政・千葉常胤・三浦義澄・上総介広常・和田義盛と云った面々が本領を安堵され、あるいは新恩に浴したのである。
  ここで頼朝は後に鎌倉殿と言われる武家棟梁としての源家の再興を正式に宣言したのである。 鎌倉幕府が主君鎌倉殿と御家人との間の主従関係を軸として成り立つ軍事政権であると規定すると、まさに新しい政権が歴史上に出現したことになる。
古東海道・三浦半島側口  走水の海岸
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走水神社からの遠景
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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.20(07:00) 216

**三浦一族

**頼朝挙兵

    伊豆流人時代の頼朝は源家再興をを胸中に秘め雌伏していたのか、それとも源家再興など念頭になく念仏三昧の日々を過ごしていたのかは意見の分かれるところであるが、レポーターとしては雌伏20年説を取りたい、流人でありながら京都の情勢に明るい、とりわけ平家の情報には関心を持っていたらしい、また伊豆や相模の武士たちと狩猟などを通じて交流していた形跡がある。 そしてこの先は全くの推測になるのだが政子を通じて北条氏に接近したのではあるまいか・・・・・・?
 これは将来の決起に備えた布石であったと思われるのだが・・・・・。

   一方で伊豆や相模・房総の武士たちが頼朝に寄せる思いはどうだったのか考えてみたい。 一致した思いは、先にも引用した三浦大介義明の言葉、「吾源家累代の家臣として、幸いにその再興の時に逢ふなり」 に端的に凝縮していると思われるのであるが?・・・・・。
  義明に限らず常胤(千葉介)等、源家累代の家人をもって任じる武士らは、頼朝に対し源家再興を 心から期待していたのである。 流人時代の頼朝が武士たちと狩猟を通じての交流を持っていた事は先に記したが、おそらくそのような機会に、頼朝は義明や常胤に代表される源家家人の熱い思いを聞くことがあったのではなかろうか。 

   ところで義明らが源家再興を切実に願ったのは何故だろうか。  「平家にあらずんば人にあらず」といった風潮になった世に、源家累代の家人らは平家の催促により番役勤仕の為上京しなければならなかったが、それよりも迷惑に感じた事は、平家方の国守ないし留守所目代(mokudai)や平家被官になってしまった武士たちの日常的な圧力ではなかったろうか。
  例えば三浦氏にとっては、隣接する鎌倉郡・高座郡を領する鎌倉党では大庭景親(kagetika)が「平家重恩ノ者」 になってしまい、三浦氏とは国衙在庁レベルでの親交があったと思われる兄の景義(kageyosi)の存在感が薄れてしまった事、三浦義澄(yosizumi)の岳父である伊藤祐親(suketika)が在庁の立場で平家に対し律儀に忠節をつくした事、或は武蔵秩父党の最有力者で義明の女婿である畠山重忠(sigetada)が、一族の河越氏が平家側に付いたため党内での地位が逆転してしまった事など、四面楚歌とは言えぬまでもかなり不利な状況となっていた事は確かである。
    
    このような状況を打開するため、三浦氏は源家再興を期待したのであろうが、それは即平家打倒というよりは、より現実的な手法・・・、平家方の国司や武士との紛争を調停する役どころを期待したのであろう。  こうした調停者という立場を一般武士が武家棟梁に期待するのは、今に始まった事ではなく、源頼信(yorinobu)・頼義(yoriyosi)・義家(yosiie)(八幡太郎)三代以来の伝統と言っても良いのでしょう。
  その頼朝は挙兵直後に調停者の役割を早速演じて見せたのである。

    治承四年(1180)8月の挙兵の時、三浦義明・義澄ら一族の本隊は海路・陸路とも難航して頼朝の緒戦に合流する事が出来ず、衣笠城に引き返している。 帰途鎌倉の由比ヶ浜ないし小坪あたりで、武蔵秩父党と一戦を交え、更に衣笠城にたて籠ったところを再度秩父党の攻撃を受けて落城そして城主・義明の討ち死にと云う事態となった。
  そしてこの年10月、畠山重忠・河越頼重・江戸重長ら秩父党の主だった者が頼朝に帰服を求めて来た折に、頼朝は三浦一族をなだめ、一族もそれを了承したのである。   
    しかし、義明の息子・兄弟にとってこの措置は憤まんやるかたない事であったろうが、長い目で見れば大国武蔵の国衙を握る秩父党との連携関係は、三浦氏が以前から求めていた事であり、双方にとって利のある所となったのである。 

    頼朝の次の調停者としての仕事は、常陸や房総の源家方武士と佐竹氏の確執であった。   治承四年10月、富士川の戦いで勝利した頼朝が、逃げる平氏を追って上洛しようと意気ごむのに対し、常胤・義澄・広常らはそれを諌めて、次は常陸の平家方佐竹氏を討つべしと進言し、頼朝もそれを受け入れたと云う。   そして、その確執の解決が先決と考えたのであろう。   
参考系図・三浦系
三浦氏系図
参考系図・秩父党
秩父党
鎌倉・六国見山(ミツマタ)
ミツマタ
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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.15(07:00) 215

**三浦一族

**流人頼朝(続)

 伊豆の頼朝と言へば、在庁官人の監視下に置かれていたとはいえ、かなり自由な境遇にあったようである。  乳母の身内である三善康信(yasunobu)・(後年幕府問注所執事)からは、月に三度も京からの使者が蛭ヶ島に来て、京都情勢を伝えていたらしい。 何よりも乳母の一人である比企尼(hikini)が武蔵比企郡に住んでおり、女婿の安達盛長(morinaga)を通じて、日常生活に不自由の無い生活を送っていたようだ。  しかし源家棟梁として「流人」 という立場は全く不安定であり、その分義朝の家臣であった三浦氏ら関東武士に対する期待・依存の念は大きかったと思われる。
   対して平家側の人間として身近にある伊東・北条に対する警戒心も強かったであろう。
  こうした中で伊豆に比較的近い相模・三浦郡に居た三浦氏は、流人頼朝とどの様な関係を保とうとしていたのだろうか。  三浦氏が平家に気兼ねをして番役を務めたりしながらも、本主である源家に対する忠誠心を失わなかった事は、衣笠落城の時、義明が語ったされる有名な言葉を紹介する。

***「吾れ源家累代の家人として、幸ひにその貴種再興の時に逢ふなり。けだし喜びとすべき哉」

   直接伊豆の頼朝にどのような奉仕をしたか知る由もないが、注目すべきは三浦嫡流の義澄(yosizumi)が頼朝の監視役のひとり伊藤祐親(suketika)の女婿であるという点である。  伊東氏と三浦氏は在庁官人レベルでの緊密な関係で結ばれていたと思われ、姻戚関係はそれを一層強固なものにしたであろう。 したがって三浦義明─義澄父子は、流人頼朝に対して表立っての支援を避け、伊藤祐親を通じてそれを行っていたのではないかと想像する。

*この姻戚関係は少々意外な関係という・・・・・・印象を持つ   (mituurokoⅡ)

   流人時代の頼朝にまつわる最大の出来事は、何と言っても北条政子との結婚、すなわち、伊豆の「豪傑」北条氏とのミウチ関係の成立である。  この事は当事者である頼朝と北条一族だけでなく、のちに頼朝の下に結集して幕府を形成する三浦氏等の武士たち、ひいては日本の歴史に大きな影響をもたらす事になるのであるが、差し当たりは伊豆や関東の武士仲間に、多少の波紋を起こしたと思われる。 お互い平家の鼻息に気兼ねをしなければならない在庁仲間の伊東氏にとっては、少なからぬ驚きであったろうが、先ずは静観という立場をとったのであろう。

   このころ北条氏と三浦氏がどのような関係にあったは不明であるが、伊東氏との結びつきが、単に在庁という共通項だけでなく、ともに海上交通に携わる者という面では連携関係を基盤にしていたと思われるのに対し、伊豆時代の北条氏が海上交通に関係していたとは言えないので、北条氏・三浦氏関係は伊東氏・三浦氏関係に比べれば希薄であったのではなかろうか。

   何れにしても三浦氏にとって流人頼朝が北条氏のミウチに取り込まれるという事態は、予想外の展開であったろうが、しかし彼の貴種性、すなわち源家棟梁の嫡男という立場が損なわれたわけではなく、相変わらず忠誠を心掛けたのである。

   そうした三浦氏を頼朝の方もいかに信頼していたかは、治承四年挙兵直前の頼朝に関する「吾妻鑑」の記事がある。

 **「兼隆(山木)を征らるべき事、来る日をもってその期と定める。 就いては岡崎四朗義実(三浦義明弟)、同与一義忠を頼みにしているが、さらに土肥次郎実平を相伴いて参向するとの伝、義実の許に仰せ遣わされた。」  (mituurokoⅡ説)

参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図
参考資料・中村氏・土肥氏系図
中村・土肥氏

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.10(07:00) 214

**三浦一族

**流人頼朝

   平治元年(1159)12月、京は異様な雰囲気に包まれた。  数百騎の軍兵が後白河上皇の御所を襲撃、上皇の身柄を拘束した後、御所に放火し、さらに上皇の寵臣・藤原信西(sinnzei)の屋敷を襲撃した。 信西は事前にこの襲撃を察知していたらしく一旦は脱出したものの、逃亡途中首を取られた。   (平治物語)

   後に平治の乱と呼ばれるこの事件の発端をなしたあの軍兵は、藤原信頼(nobuyori)と源義朝(yositomo)に率いられていた。
  保元の乱の時は、崇徳上皇方を倒した後白河天皇(当時)方に、義朝は平清盛(kiyomori)と共に付き、勝利の立役者となったが、源家は義朝の父為義(tameyosi)と弟たちが、天皇の命で義朝の手で処刑され、その結果源家全体の権威は大きく減じてしまった。  対し清盛の方は一気に上昇気流に乗って中央政界に進出する機運が高まりつつあった。
  対する義朝は、後白河上皇の近臣・信西が清盛に近いことから、信西のライバルである藤原信頼を支援し、まず上皇を抑えてから信西を倒し、その勢いで清盛を圧倒する作戦を立て、清盛が紀伊の熊野神社参詣に行った隙を突くという作戦を実行した。

   この時義朝軍として作戦に参加した兵は、義朝の子悪源太義平・朝長・頼朝、一族として叔父義高・義盛(後に行家)・平賀善宣がおり、郎党として関東武士の相模波多野義道・三浦義澄(yosizumi)・山之内首藤俊道・同俊綱、武蔵長井斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・足立遠元・上総介広常等であり、他に常陸・上野の武士も加わっていたようだ。  また関東以外でも近江・尾張・三河・信濃・甲斐の武士の名も見える、義朝の武家棟梁としての地盤が東国にあった事を示している。   (平治物語)

   緒戦は信頼・義朝の筋書きどうりに進行したが、清盛の素早い反撃がそれを打ち砕いた。  熊野への途中で清盛邸からの急報を受け、直ちに京に戻り、信頼・義朝の軍勢を破り、後白河上皇の身を取り戻した。  敗れた信頼は六条ヶ原で斬首され、義朝は本拠の鎌倉に戻って再起を図ろうとしたが、尾張辺りで家臣に裏切られ謀殺されてしまった。嫡男・義平、次男・朝長も平家方に捕らえられ六条ヶ原で斬首されている。
   一方三男頼朝は乱では十三歳で初陣し、郁芳門(ikuhou)の合戦で活躍し、、華々しい初陣であったが、父の敗戦でやはり東国に落ちる途中、関ヶ原で平家の追手に捕えられて、六波羅の清盛の前に引き据えられた。  そして兄義平と同じ運命をたどる筈の所、清盛の継母・池ノ禅尼(ikenozenni)に助けられ伊豆への流罪となった。

   平治二年三月、伊豆蛭ヶ島(hirugasima)に到着。  流人の受け取りと以後の監視の役目は、土地の国衙在庁の手にあり、伊藤祐親(suketika)と北条時政(tokimasa)の二人は、まさしく在庁官人としての職務を果たすべく頼朝を出迎えた。

 ところで、乱の最中義朝と共に戦った関東武士たちは、その後どうしたのだろうか。 「平治物語」 には、義朝が近江・坂本から瀬田辺りを落ちていたころ、同道した波多野・三浦・熊谷・足立・上総介等に、義朝は皆一緒には落ちられないので暇を取らすとの命を下したそうだ。  三浦義澄はじめ前記の関東武士たちは、本領地に落ち着く間もなく、主君義朝および、義平・朝長の死と、頼朝の伊豆配流という知らせを聞くことになった。

   棟梁・清和源氏の没落は、かれら関東武士の生き方にも影響を与える事は必定であった。  平治の乱には参戦しなかったと思われる相模鎌倉党では、義朝─三浦ラインに近かった大庭景義(kageyosi)に代わって、弟の大庭景親(kagetika)が「平家被官」となって鎌倉党を牛耳るようになり、武蔵秩父党でも一旦源家と組んで惣領の地位を得たらしい畠山氏が落ち目となり、代わって河越氏が平家の後ろ盾を得て再び惣領権を獲得した模様である。  そして三浦氏にしても平家の催促に応じて、はるばる京都に上り番役を努めなければならない状況だ。
参考資料・清和源氏系図
清和源氏・系図
相模鎌倉党・系図
鎌倉党3流
武蔵・秩父党系図
秩父党


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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.05(07:00) 213

**三浦一族

**周辺氏族・・・秩父党

    三浦氏と関連のある関東武士の中でも、最有力といえるのが武蔵国秩父党(畠山氏・河越氏・江戸氏・渋谷氏等)である。
  秩父党も桓武平氏良文(yosifumi)の子忠頼(tadayori)を祖とする事で、上総介・千葉二氏に近いという事になり、子孫の名字を手掛かりに地域的発展を追うと、本拠武蔵国秩父郡から南へ男衾郡(obusuma)畠山庄、入間郡河越庄、豊島郡江戸、橘樹郡稲毛庄、さらに相模国高座郡渋谷庄、下総郡葛西御厨、にかけて、広大な地域を支配下に治めるまでに発展していて、東南は上総介・千葉両氏、西南では鎌倉党と勢力を接する様になるのである。

   秩父党が祖・忠頼から数えて六世代ほどで、関東の広い範囲に進出できた理由は忠頼の子将常(masatune)(秩父六郎)が「武蔵権守」という肩書を既に持っていたらしい(秩父系図)、彼らが早い時期に武蔵国衙の在庁職を取得し、その公権力によって公領の私領化を進める事が出来たからであろう。  彼らが先祖代々培っていた強大な武力が物を言ったのは間違いない。
   秩父六郎(平将常) の子武基(takemoto)が「秩父別当」の肩書を持つのは、関東でも有数の官牧(国営牧場)である秩父牧の管理責任者の地位を得ていたからと思われ、秩父党が大規模な武士団を運営していくために必要だった馬の供給源を抑えていた事を意味する。

  さて次に秩父党諸氏と三浦氏との関係を見ていくなかで、源平内乱初期の相模国小坪と衣笠城における合戦をレポートし、いずれも秩父党と三浦氏が敵味方に分かれて戦ったもので、特に衣笠合戦では本城を秩父党畠山・河越・江戸諸氏に攻められた三浦氏側が、城主三浦義明の自害など屈辱的な敗戦を喫した事は述べた。  
  当時の秩父党と三浦氏の関係は敵対関係にあった。  その原因は久寿二年(1155)の大蔵合戦である。   源義朝の嫡子義平(yosihira)(頼朝兄)が、武蔵国比企郡大蔵の叔父・源義賢(yosikata)を攻撃し、敗死させた事件である。
  この合戦は表面上は清和源氏内の棟梁権をめぐる争い見えるが、実はそれに留まらず秩父党内の惣領権をめぐる紛争、さらには秩父党と三浦氏との対立という関東の有力武士間の対立という構図も描ける複雑な要因が重なった事件であることが見えてくる。

    源平内乱緒戦に一旦は平家方に立って三浦軍を攻撃した畠山重忠(sigetada)が、源頼朝(yoritomo)の許に推参してきた際、重忠が白旗(源氏の旗)を持っていた事に不審を抱いた頼朝の詰問に対する重忠の返答は、「白旗は先祖・秩父武綱(taketuna)が後三年の役に従軍した際、義家から拝領したもの」 と説明し、大蔵合戦の際、父重能(sigeyosi)がその旗をかかげて義平(頼朝兄)に味方して戦ったことを述べている。
  大蔵合戦の時の敵と味方を整理すると、源義平─畠山重能対源義堅─河越重隆(sigetaka)が浮かび上がってくる、この事から大蔵合戦は秩父党内の内紛でもあったとも云える。  因みに合戦の時の畠山重能は先祖武綱(taketuna)から伝わる「白旗」を掲げて戦い明らかに自分(畠山氏)を秩父党の嫡流と意識していたことになり、そこに秩父二郎太夫を名乗る重隆と、党内の惣領権をめぐる争いがあった事が推測できる。

   大蔵合戦に於ける三浦氏は義平─重能側に味方していたと推則する。  源義平の母を三浦義明の娘とする説と実際に父義朝と義明との間の主従の立場を超える様な濃密な関係を考えれば、義平の後見的な立場に義明がいた事は十分考えられる。
  畠山重能についても嫡男・重忠の「母三浦大介義明女」とある事からすると、畠山・三浦両氏の姻戚関係が見てとれるので、ここに源義平─三浦義明─畠山重能の同盟の成立と三浦氏の大蔵合戦への介入が推測できる。  しかし、三浦氏が大蔵合戦に直接参戦した形跡はない。

    平治の乱(1159)の敗戦で義朝が没落した事による情勢の変化を考えねばならないが、頼朝挙兵当時、重忠の父重能と叔父の小山田有重(arisige)が共に在京していたため重忠としては祖父の代以来三浦氏に対して怨念を抱いていた重頼(sigeyori)(河越)や重長(sigenaga)(江戸)に従わざるを得なかったと思われるのだ。  つまり、三浦義明と畠山重能との緊密な関係は、平治の乱後も続いていたであろうが、頼朝挙兵時にはその関係が有効に働かなかったという事ではないかと推測する。

   以上の様に三浦氏と周辺の有力武士との相互関係を見てきた。・・・・
    この他にも三浦氏と関係の深かった周辺の有力武士として、一族の和田義盛と姻戚関係にあった武蔵七党の一つ横山党、三浦義澄(yosizumi)を婿とした伊豆の伊藤祐親(suketika)、比企能員(yosikazu)等はまた、別の機会にレポートする。
参考資料・武蔵秩父党系図
秩父党
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図

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2019年03月
  1. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(03/30)
  2. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(03/25)
  3. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(03/20)
  4. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(03/15)
  5. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(03/10)
  6. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(03/05)