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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.30(07:00) 230

◆◆ 祝・令和元年・・・・・・・・・

**三浦一族

**三浦氏・再興は(続)

    実朝暗殺事件の首謀者が、北条義時でも、三浦義村でもなければ、誰が真実の首謀者なのであろうか。  結論を先に言えば、それは後鳥羽院と、取り巻く一群の貴族たちであったと考えられる。  歴史の流れを受け止めれば、後鳥羽院と貴族たちが、幕府の崩壊を願い、実朝の生命を縮めようと企画し、調伏の呪詛をしていた事は明白な事実である。
  彼ら、公家と言われる人たちは、実朝のみでなく、北条義時の死をも願い、調伏し呪詛していた。   軍記物語 「承久記」 等も、実朝暗殺の報に接した公家たちは、我事なりと欣快の情を抑えられなかったとしている。

    後鳥羽院は、実朝と義時の同時抹殺によって、幕府が労せずして自壊する事を願っていた。そして、実朝の死を弔う為と称する使者を鎌倉の送り、同時に上皇の寵姫伊賀局の所領で地頭が領主の命令を無視しているので罷免してほしいとの要求を幕府にしてきた。  この時、幕府は皇族将軍の鎌倉下向を希望していた。 幕府側では、執権義時の弟、時房(tokifusa)が選ばれて、一千騎を率いて上洛した。  
  時房は、長江・倉橋両庄の地頭廃止の要求を拒絶し、併せて皇族将軍の東下を再要求した。 しかし、後鳥羽院側は両地頭廃止を再要求し、皇族将軍の東下を拒否している。
  対し、幕府は地頭職保証の態度を貫いた。  その代わり皇族将軍の実現を諦め、九条道家の子で、僅か二歳の三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として、迎え入れる事について、上皇の許可を取り付けた。

   上皇側も、幕府側もともに相手の強硬さに驚いていたようだ。  ともかく、表面的には交渉が平和裡に妥結したかに見えた。  しかし、上皇方は武力討伐の決意を固め、準備を開始した。

   ついに、承久三年(1221)5月上皇は諸国の兵を集め、北条義時追討の宣旨を全国に発布した。   *この項では、承久の乱の詳細については省略する。

   後鳥羽院は、実朝と義時の同時抹殺によって、幕府が労せずして自懐することを願っていたとは先にもも述べた・・・。
  実朝暗殺の直接の下手人は公暁であるが、建暦元年(1211)落飾後、近江国園城寺にて、長吏公胤から灌頂を受け同寺で修業した。 後に鎌倉に帰り、八幡宮の別当となっている。

   公暁が西国にいた六年間には、後鳥羽院側近の公家たちとも、接触することもあったであろう。 公家の中には、源氏の姻戚にあたる九条家、一条家、坊門家それに西園寺家等があり、彼らは院政内部において、複雑な人間関係を形成していた。 

   また、公暁の母は賀茂重長(sigenaga)の娘で、実家の賀茂氏は暦道をもって代々朝廷に仕える家柄であった。 したがって、公暁が後鳥羽院側近の貴族たちと深く接触を持っていたとしても不思議ではない。
  公暁が、鎌倉に帰って二年間も雌伏していたのも、院政側との打ち合わせにより、実朝・義時の同時抹殺の機を待っていたのであろう。  朝廷側では、頼朝に日本国総追捕使・総地頭職の地位を与え、軍事・警察権の行使を認めた時、それは一代限りと思っていたかも知れない。  しかし、関東に成立した武家政権は、軍事警察のみでなく。経済や民政にも強い影響力を持つ恒久的な政権にまで成長していた。

   後鳥羽院側は、昔の様に天皇を中心とした公家による権力体制が回復されるのを希望していた。  そして公家側、幕府の権威者である将軍と、事実上の権力者である執権との同時殺害を意図していたと推理すれば公家側の策謀は実朝の暗殺は成功したが、幕府の自壊は起こらず、討幕は成功しなかったことになる。
実朝の墓  鎌倉五山三位・臨済宗建長寺派 壽福寺 (鎌倉市・扇ヶ谷)
実朝墓・寿福寺
壽福寺参道(春)
寿福寺・参道
実朝・生誕八百年記念碑 (壽福寺三門)
実朝生誕800記念

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.25(14:58) 229

◆◆祝・令和元年・・・・・・・

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    実朝暗殺事件の首謀者としての、第二に考えられているのは、三浦義村である。
 三浦義村首謀説によれば、義村は最初義時を殺害しようとしたが、これが成功しないとみるや、実行を唆した公暁(kugiyou)を裏切って、義時に通報した後、実朝を暗殺した公暁を討って手柄としたという。  それは、幕閣№2の義村が、義時を殺害し、その地位に代わろうとしての謀殺未遂事件であるとしている。

    実朝が討たれ、義時の暗殺が未遂に終わってから五年後の元仁元年(1224)、義時は急死した。 世情には、義時の正室伊賀局による毒殺の噂が流れた。   そして次期執権には、尼将軍政子らによって擁立された嫡子泰時(yasutoki)であった。 その他に候補者として三浦義村を挙げたものは、当然ながら皆無であっつた。
  それは御外戚たる北条氏と他の御家人たちの間には、歴然たる階級差のようなものが存在していたからである。  そのとき、伊賀局が生んだ政村(masamura)、伊賀一族などの支持を受けて対立候補として挙げられた。  政村の背後には、烏帽子親である三浦義村がいると噂され、義時が卒去した翌日には義村宅へ、伊賀局の兄弟である伊賀光宗(mitumune)及び朝行(tomoyuki)などがしばしば参集したという。

   伊賀兄弟は、執権が泰時(yasutoki)に決まりつつあるのを憤り、伊賀局の婿である一条實雅(sanemasa)を将軍に立て、また子息の政村(masamura)を執権としての擁立を企てた。  謀議の風潮は泰時に伝えられたが、取り合わなかったという。
  数日後、北条政子は密かに三浦義村宅を訪ね、義村は恐縮して出迎え、二位(政子)の詰問を受けた。 「何か世の中が騒がしい、政村並びに伊賀光宗等が頻りに、義村邸に出入りし、密談との風聞がある。これは何事であるか、納得のいかないところである。 これは泰時に対して謀反の志があるのか否かお尋ねしたい」・・・・。  対し義村は困惑し、返答できなかった。

   さらに政子は、去る承久の乱に関東が勝利した事は、天命であるが、なかば泰時の功績である。  執権義時が幾たびかの戦火をかい潜って、世の中を平定したが、その義時の跡を継いで幕府の棟梁たるべきものは泰時である。  泰時、政村の両人が平和であることが一番望ましい・・・・・。  
  事件の後、伊賀局と婿の一条實政及び伊賀兄弟は流刑に処せられたが、政村や三浦義村には咎めは無かった。

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.20(07:00) 228

◆◆ 祝・令和元年・・・・・・・・

 **三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    1219(承久元年)正月実朝は暗殺された。 直接の加害者は頼家の遺児であり、実朝の甥にあたる公暁(kugiyou)であるが、その背後にいる首謀者が誰かについて、多くの議論がされてきた。  これについて、容疑者の一番目には北条義時が挙げられているが・・・、その二番目には三浦義村が考えられている。

   まずは第一容疑者北条義時にについてレポートする事に・・・。  以前からこの説は有力であったが、その代表的な論拠は「鎌倉市史」などに記されている。  「実朝が幼い時は、義時の操り人形として、実朝を自由に操れたが、成長するにつれ青年政治家として、種々の要求を拒む事態が起きてきた。  義時としては、多くの豪族を滅ぼしてまでも築いてきた北条の将来が、実朝の成長によって妨げられるのを怖れて、これを葬ったとされている。

   確かに、実朝は青年政治家として、多くの事を決裁する様になっていた。  しかし、義時にとって将軍を亡き者にする事が、彼の立場を有利にしたのであろうか。  
  実朝と義時の間には殺人に至るまでの恨みは存在しなかったし、また、政治上の意見が異なる場合があっても、それはある意味では些細なものであった。 もし義時が、青年となった実朝が邪魔であったなら、殺さずとも引退させれば目的は達成できたはずである。

   事実、四代目の将軍頼経(yoritune)も幼時に位に付き、成人に達し政治的動きをするようになると、引退を余儀なくされ、幼い嫡子、頼嗣(yoritugu)に将軍職を譲らされた。
  政子の目的としたところは多々あったが、そのうちでも重要事項は実朝の後継者として、鳥羽上皇の御子を関東へ下すよう頼む事であり兼子も内々これを約束していたらしい・・・。 当時実朝は二十七歳、子が出来ない年齢ではないのだが、早くも後継者の準備をしているのも理解しがたい話である。
   おそらくは、政子は義時との間が険悪になるのを避けるため、次の将軍を探していたのであろう。

   つぎに、将軍が居なくなれば、幕府も倒壊し執権職もなくなる怖れがあったので、義時は将軍の後継者が確定しない時期に、実朝を失う事は大変危険な立場に立つことになるので敢えてこの策は取らないはずである。
条義時・法華堂北跡  大蔵御所付近 (鎌倉市・雪ノ下)
義時・法華堂跡
北条政子墓 (鎌倉・安養院)  (鎌倉・大町)
北条政子・墓
三浦氏居城址 (横須賀市・衣笠)
衣笠城址

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.15(07:00) 227

■■  祝・令和元年・・・・・・・・。

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)・・・・・

   和田義盛(yosimori)は三浦義村(yosimori)の主人ではない。 当時の記録などには義盛は三浦の長者などと記しているので、三浦義村は事実上義盛を三浦党の惣領と仰いでいたらしい。 しかし、北条義時は、この事件に於いては、義村を勲功第一と称賛した。
  「三浦犬は友を喰らう也」 と多数の御家人の間では、裏切り行為をした義村への非難の感情があった。 しかし、このようなエピソードは「吾妻鑑」には全く記載されておらず、北条氏が義村について、御家人たちと異なった評価をしていたからだと思われる。

   かつて、梶原景時追放の時には、義村は北条氏との連携プレーの許に、推定年齢二十九歳という若さで、宿老他60数人の面々に対して、オピニオンリーダーとなって、事件を進展させ、さらに寒川に赴き、梶原館襲撃の先遣部隊長の役も果たした。 つぎに、畠山討伐にあたっては、北条方の密命を受けて、畠山の嫡子重保を由比ヶ浜に誘い出し、これをだまし討ちする事により、重忠討伐の口火を付けたのである。

   今度の事件に於いて、和田義盛(yosimori)は将軍からのお使いを再度にわたり受けていて、忍耐して恩赦を待つべきことを諭されていた。  それに、北条と和田の勢力の差は歴然としており、和田側にはとても勝つ見込みはなく、義盛には合戦に及ぶ決心がつかなかった。  しかし、三浦の盟約違反と密告によって、決起を余儀なくされた。

   三浦義村の行動は、北条の謀略にとっては、功績第一と評されるものであった。  おそらくは、義村は囮ととなって、和田義盛の蹶起を誘発したのであろう。   この時、義村の推定年齢は四十三才、和田義盛は六十九歳であって、対等に盟約を交わすには、経歴や貫禄に違いがあり過ぎた。

   猛虎と称された和田義盛も、150人ばかりの勇者を率いて、鎌倉在住の北条方に立ち向かい壊滅した。
  挑発と謀略それに連係プレー、これが北条の常套手段である。
鎌倉権五郎景正を祀る御霊神社 (梶原景時祖先) 鎌倉市・梶原
梶原・御霊神社
梶原景季(景時嫡男)腕塚・仏行寺のツツジ    (鎌倉市・笛田)
仏行寺
名越切通・曼荼羅堂やぐら群 (鎌倉市・逗子市堺)
曼荼羅堂

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.10(07:00) 226

◆◆ 祝・令和元年・・・・・・・・。

**三浦一族

**三浦氏再興は・・・・・

   三代将軍実朝の時代となり幕府は史上で特筆される激動を経験した。  建保元年の和田氏の乱と承久元年の実朝暗殺事件である。

   前者は北条氏の桎梏から抜け出したくなった実朝が、和田義盛(三浦一族)を抱き込み反北条の態度を示すようになったので、北条義時が三浦義村の協力を取り付けた上で義盛を挑発し、敗死させたという事件である
  後者はその様な実朝を将軍の座から退け、代わりに調教可能の将軍を位に付けるために義時が仕組んだとされる陰謀事件である。   この二つの事件で際立つのは、義時・広元協調路線の事件処理の鮮やかさと反対に義村の北条氏の走狗となった憐れな姿である

   義盛には謀反の意志は無かったと思われる、頼朝の時代から重用されてきた自分が、今まさにいわれのない処遇を受け退く覚悟をしていたと思われるのである。  しかし、義盛の三男・朝比奈義秀以下の身内から抗戦の声が上がり武具の備えも物々しく、不穏な空気が流れた。  
  その動きを察した義時は、謀反に備えて、鎌倉中の御家人を集めたが、甲冑は付けないように命じた。

   この時の義盛の心境を察するに、相模守義時の行いは傍若無人なものがある、これについて兵を挙げるべきと、若い者たちが群議しているが、私は諌めている、既に彼らは同心しており止める力は自分にはない・・・・・・・。 と言って決起はしなかった。

   この間、北条義時亭に三浦義村・胤義の兄弟が向かい、和田義盛の出陣を告げた。 しかし、この時点では和田勢はまだ決起していなかったはずである。その兄弟は先祖の為継(tametugu)が八幡殿(義家)に属して以来、源家に恩禄を受けている身であり、今、親族である和田義盛の勧めに応じて、累代の主君に反すれば、天罰を受けるのは必定であると後悔し、北条義時の館へと事の次第を告げたのである。

   三浦義村の寝返りもあって、すべての味方の動きが悟られたと知った和田義盛は、一族郎党を率いて、幕府へと進撃を始めた。  その兵力は僅か150名程度であったが、それを三隊に分けて、御所の南門と相模守義時の館(現宝戒寺付近)、さらには西北の門をも包囲した。  義盛はあえて勝敗を度が壊死していた。 彼が目指したのはただひとつ執権義時の首だけであった。
  義盛が将軍家に対して遺恨は無いと大義名分を振りかざしても、実朝が法華堂に逃げ惑う姿を見た鎌倉武士たちは、和田の謀反と見て、北条方に付いたのである。 

   果たして、「吾妻鑑」の伝えるように、三浦義村は和田義盛との盟約を裏切って、北条方に密告したのであろうか。
  義村の行動は、執権義時との連係プレーによって、和田義盛を心理的に追い詰め、決起せざるを得ないような状況に陥れるためのものであったと思われる。  
  北条義時は、冷酷なまでの政略化であったとされ、義村が本心から和田と盟約を結び、それを裏切って執権邸に駆け込んだのであれば、義時はこの密告に対して忠義とは思わず、裏切り者三浦義村として、決して許さなかったでしょう。   
初代侍所別当・和田義盛一族墓所 (鎌倉市・由比ヶ浜)・・・・・・・。 江ノ電和田塚駅付近
和田一族墓所
源実朝・頼朝を祭神とする白旗神社 (鎌倉八幡宮境内)
白旗神社
安養院(北条政子菩提寺)のツツジ   (鎌倉市大町)
安養院

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.05(07:00) 225

     ●● 祝・令和改元・・・・・・・・・・

**三浦一族

**三浦一族の動き

    つぎに北条氏の標的となったのは、これも武蔵の有力武士秩父党畠山重忠であった。  その重忠の排除のきっかけは、重忠の子重保(sigeyasu)によってもたらされた・・・。 上洛中の息子重保と前武蔵守平賀朝雅(tomomasa)とが口論となった事が発端で、これを聞いた朝雅を女婿とする時政の妻牧ノ方が時政に訴え、反対する義時と時房を抑え、まず重保を謀殺、ついで鎌倉に進軍してきた重忠を武蔵二俣川に迎え撃って一族郎従百三十四騎を滅亡させてしまった。

   この事件の際の三浦氏の動向も、頼朝時代に宿老を四人も輩出したあの勢いはほとんど感じられない、まず重忠の息子重保が従兄弟の稲毛重成(sigenari)に呼び出され鎌倉に滞在中、時政(北条)の指示により義村(三浦)が重保を由比ヶ浜でだまし討ちにしており、更に重忠迎撃軍の大手大将軍義時(北条)の麾下として義村・胤義(taneyosi)の兄弟が従い、義盛(和田)は時房(北条)と共に関戸大将軍に任じられているものの、その任務は不明である。
  他の有力御家人も時政・義時の命令のまま動いているので、三浦氏のみを攻めるのは酷であるが、それにしても重忠は義明の娘を妻としているいわばミウチである。 重忠の謀殺を防ぐ手立ては無かったのであろうか・・・・・・?
  どうもこのころの三浦一族は、比企能員謀殺の時と同じように、宿老家の誇りを捨て去ったように見えるのである。   更に十年後には、三浦氏惣領家との対立があったとはいえ、和田義盛があえなく北条氏の挑発に乗って敗死してしまう運命にあったのである。

   こうして北条氏は三代将軍実朝時代の初め頃には、将軍を自家薬籠中に納め、宿老連中を排除又は籠絡し、吏僚大江広元の協力を得て、後世に執権政治と言われるようになる形で、幕府の主導権を握る事に成功したのである。  執権政治とは北条氏と大江広元の協議体制で始まったと言った方が真相に近いのではなかろうか・・・。

   そしてこの間の三浦一族の動向はと言えば、かつての宿老筆頭と位置づけられた勢いはどこえやら、義澄の後継者義村も宿老義盛もおしなべて北条氏と広元の協調関係を支援する、という役回りに甘んじていたのであるが、ただ一つ維持していた三浦介として相模一国を事実上支配していたという事である。

   さすが北条氏でもまだそこに手を伸ばすのは時期尚早と判断した節がある。  かつて頼朝より下された「守護職補任下文」により、三浦氏をはじめ千葉・小山氏と共にこの時点では見送られたと思われる。
北条氏の標的となってしまった畠山重保供養石塔   (八幡宮・一の鳥居付近)
畠山重保・石塔
同じく重保の父畠山重忠邸跡石塔   (鶴岡八幡宮東門付近)
畠山重忠
幕府宿老・大江広元邸跡   (鎌倉・十二所)
大江広元邸跡

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