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剛勇・武略  畠山重忠

2019.06.30(07:00) 236

**畠山一族

**石橋山合戦~

   重忠にとって平家の恩は、父重能(sigeyosi)ほど直接ではない。 一身・一家を滅ぼしてまで尽くさなければならぬ事はない。  平家は一旦の恩・・・・・・。  何よりも重忠を動かしたのは、南関東を席捲する勢いで巻き起こった源氏再興の力強い息吹であろう。  青年は時代の風潮に敏感である。  十七歳の重忠がここで豹変しても不思議ではない。

   十月五日、頼朝は武蔵の国の諸雑事等を在庁官人や諸郡司に触れて沙汰させる権限を江戸重長に与えた。次の六日には重忠が三万近くの大軍の先陣を承って、相模の国に進軍した。 「源平盛衰記」によれば、重忠が帰伏した時、500騎を率い、白旗・白弓袋を差し上げて行った。 頼朝がこれを咎めた時、この白旗は先祖武綱(taketuna)が義家公(八幡太郎)から賜って先陣を勤め、清原武衛(takehira)らを攻め滅ぼした由緒ある旗で、源氏の為には縁起の良い御祝の旗である、と答え頼朝を感激させたとある。
  畠山が帰伏して先陣を命ぜられたと聞いた武蔵・相模の住人は、我先にと参加してきたという。  先陣は武士の名誉とするところであるから、重忠が喜んだ事は言うまでもないだろう・・・・。

   同じころ、木曾義仲(yosinaka)は加賀と越中の国境倶利伽羅峠で平家の大軍に壊滅的な打撃を与え、破竹の勢いで進撃し、七月の末には平家の都落ち、義仲の入京となった。
  後白河法皇は義仲に義仲に平家追討を命じる一方、頼朝を上京させようとしていたが、頼朝は動かなかった。  義仲が糧食・物資の補給に苦しみ、部下の将士の統制を失って、京都での民心を失ってゆくとき、頼朝は平家が横領した社寺や貴族の所領を、元の持ち主に還すなどの親書を京都に送り、法皇や公卿の信望を得、除目で本位を復され、宣旨で東海・東山両道の事は頼朝を通じて沙汰する事を命じた。

   頼朝はこの様な政治的折衝を進める一方、義経(yositune)を伊勢に遣わし、京都情勢を伺っていたのである。  十一月になって義仲が院の御所法住寺殿を焼き、摂政近衛基道(motomiti)以下、院の近臣の官職を解く事件が起こると、院の使いが義経に通報、頼朝の再上京が命ぜられたが、頼朝は今度も動く事は無かった。
  しかし、鎌倉殿の「侍所」 で評定があり、軍勢を派遣する事が差配されていた。

   寿永二年(1183)閏10月5日源頼朝が義仲(木曾)を討つため鎌倉を出立する。 京都に於いて義仲と対立を深めていた後白河法皇の要請に応じたもので、しかし、この上洛は途中で中止となり、代わって、大手の将軍蒲範頼(noriyori)・搦手の将軍源義経が京都に向かうことになる、総勢六万騎の大軍団である。
  十六日には京都中は大混乱である、鎌倉勢は数万騎だという情報が来て、情勢は急変した。 義仲は瀬田・宇治で防御態勢に入った。

   範頼・義経は京都に入るとすぐ、院の御所六条殿に向かった、従うものは、河越重頼・重房、佐々木高綱、畠山重忠、渋谷重国、梶原景季(kagesue)などである。 

   寿永二年(1183)7月、木曾義仲に追われて都落ちした平家は、一時九州まで下っていたが、次第に盛り返して、四国を抑え三年の初めには、旧都福原に戻り、東は生田の森、西は一の谷に城郭を築き、二月には安徳天皇も福原に到着していた。 四国・紀伊など数万の軍をもって入京する勢いを見せていた。 

   一方、鎌倉方は義仲滅亡の後始末をつけると、京都滞在は僅か一週間で、平家討伐軍を進発させている。  二月初めには摂津に終結している。

**摂津・一の谷合戦

   寿永三年(1184)2月7日辰の刻から巳の刻まで、二時間たらずで戦闘は終わった。
  (玉葉)
  「吾妻鑑」によると、大手の将軍は範頼で、麾下には小山朝政(tomomasa)・梶原景時以下主な部将三十二人、総勢力五万六千余騎であり、搦手将軍義経には、安田義定・土肥実平以下主な部将十七人、総勢二万余騎が参加したとある。   
  そして我が畠山重忠は大手の軍に属している、  ところが「平家物語」 では重忠は搦手の義経に属しているのである???。
畠山重忠邸があったとされる筋替橋付近・・・・・雪ノ下
筋替橋石塔
梶原一族供養塔・・・・鎌倉市山崎小学校内
梶原景時・供養塔
畠山重保邸跡(六郎・・・・・重忠子)   八幡宮一の鳥居付近
畠山重保・石塔

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剛勇・武略  畠山重忠

2019.06.25(07:00) 235

 ◆◆・・・新連載

**畠山一族

**石橋山合戦~

    畠山重忠は(1164)に生まれた。  討ち死にした(1205)に42歳という記録から計算している。  父は畠山重能(sigeyosi)であり、母は三浦介義明(yosiaki)の娘であった。

    治承四年(1180)5月、源頼政(yorimasa)の挙兵があり、平家は都を福原に移した。  この7月に畠山重能は弟の小山田有能と共に京都番役番の為に上京している。 「吾妻鑑」によると6月末に三浦義澄(yosizumi)と千葉胤頼(taneyori)が番役を済ませて京都から帰っているので、番役の交代があったと思われる。

   この時点で畠山重忠は弱冠17歳の青年で、源氏の恩恵を身をもって感じてはいなかった思われる。 ともかく「吾妻鑑」では、平氏の重恩に報いんがために、三浦氏を攻めたと言っている。
  石橋山の合戦で(治承四年)大庭景親(kagetika)属した人々は、熊谷直実(naozane)以外は相模の住人であった。  もちろん畠山重忠その他武蔵の住人にも動員令をかけているが、これは合戦に間に合わなかったらしい・・・・。

    景親は在京中から頼朝が挙兵するという情報を得ていたのに、少し油断したらしい。  しかし、8月十七日の夜中に伊豆の山木館が襲撃され山木兼隆(kanetaka)が死亡した事は十八日中には知ったであろう。  事は意外に早く進行したのである。 十八日の夜早馬が飛んだとして、大庭(藤沢)から畠山まで直線距離にして100㌔、十九日午前には重忠の所に到着したと思われる。
  重忠としては直ちに家に子・郎党を招集して出発したとしても、戦の進軍であるから、丸三日は掛かったであろう。  二十三日夜に今の平塚・花水川に陣を敷いたと記録に残る。    (源平盛衰記)

   一方、三浦の一族は頼朝に味方する為、二十二日に三浦を出発し、今の小田原・酒匂川に至るまで60㌔に二日間も掛っている。  合戦は二十三日、一日で片付き、あとは掃討戦となっていたから、三浦は間に合わず、引き返したが、途中、鎌倉の由比ヶ浜で、重忠と遭遇、  三浦は小坪の峠に三百騎、畠山は稲瀬川の辺りに五百騎で対陣したという。 (源平盛衰記)
  この一戦では双方にかなりの損害を出し、三浦勢が本拠の衣笠城に向け引き上げるのを重忠は追跡している。 道筋は小坪を超え、逗子に出、鐙摺(abuzuri)から葉山に入り、木古庭(kikoba)を通っていったと思われる。  二十六日の朝には、衣笠城で攻防戦が始まっている。  この時重忠は同族の河越重頼(sigeyori)や江戸重長(sigenaga)らに加勢を頼んでいるが、これらの武士が戦場に間に合ったのは、大庭の動員に応じていたからに相違ない。

   衣笠城は一日持たず落城寸前となり、三浦義澄以下は安房に落ちようとするが、老齢の義明(yosiaki)は、「今源氏再興の時に会い、喜びにたえない。」という言葉を残し、子孫の勲功を願い義澄以下を落として奮闘の上戦死した。

  石橋山の合戦に敗れた頼朝は、東京湾を安房に逃れ上総・下総を通って、一ヵ月の後には二万七千余騎を率いて武蔵の国の攻略に取り掛った。  まず、秩父の家督と言われた河越重頼(sigeyori)を差し置き、江戸重長(sigenaga)に呼びかけて、武蔵の棟梁と言い、一族を率いて帰順せよと勧告した。  重頼に対しては一種のパージをしたつもりであろう。
   重長は暫く形勢を観望していたので、頼朝はおびき出す作戦等を試みたが、 十月二日になって、いよいよ武蔵に乗り込み、豊島清元(kiyomoto)・葛西清重(kiyosige)らが帰伏するに及んで、四日、長井の渡しで、畠山重忠・河越重頼・江戸重長がそろって頼朝に帰伏する。  実はこれが頼朝にとっても、重忠たちにとっても切羽詰まった節目であった。
  頼朝の側では、この三人が、石橋山で平家方になっていたばかりでなく、三浦義明を討ち取ったもので、三浦一族の仇でもある。しかし、平維盛(koremori)らが東国に進発するという情勢の中で、こうした勢力を敵に回しては、ここまで延びてきた勢力に頓挫をきたす。  功ある三浦氏を強いて我慢させても、味方にしたいところである。
   一方、重忠にしてみれば、平家側の武将としては最初の帰伏で、どにょうに扱われるか判らない。さらに三浦一族には恨まれる事は必至で、そうかといって戦っても到底勝てる状況になかった。  そのような相手が帰順を呼びかけてきているのである。しかし、迷った重忠は一族に相談したと言う・・・・・・・・。

畠山重忠邸跡・・・八幡宮東門~筋替橋付近   (鎌倉・雪ノ下)
畠山重忠
衣笠城祉   (横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
衣笠城にて戦死・三浦大助義明公菩提寺・滿昌寺   (横須賀市・衣笠)
三浦義明公・菩提寺

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.20(07:00) 234

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    三浦惣領家の孤立とは、三浦介として相模国に君臨していた状況の崩壊、つまり相模国の一般武士が三浦介の差配にもはや従わなくなったことをも意味するのであって、現に宝治合戦初期に時頼亭の四面を警固した武士の中で、相模国の武士が警固したとある。
  宝治合戦(三浦氏の乱)自体については、三浦氏の追い落としを狙った時頼が、外家である安達景盛(kagemori)・義景(yosikage)親子と仕組んで起こし、泰村側も孤立したとはいえ、一族・親類を結集して奮戦したもののついに敗れ去った事件という見方を取るのであるが、問題はこの時点で何故時頼は三浦氏の追い落としを図ったのであろうか・・・・。
  時頼の狙いの一つは、やはり宿老三浦氏そのものの排除にあった事は疑がいない。  開幕以来三浦氏は宿老筆頭として並み居る御家人に対する影響力は大きかったし、何よりも宿老という地位は鎌倉殿(将軍)を支える事を期待され、現に泰村の父義村は将軍頼経に対し宿老として奉仕しており、泰村の弟光村(mitumura)も頼経とは幼いころから「昵近」の仲であったので、泰村自身もいつ何時将軍と組んで北条氏の築いた足場を危うくするとも限らなかったのである。

   さらに、時頼のもう一つの狙いはおそらく相模国を実質支配する三浦介の地位と権限を奪い、同国を武蔵国と並んで北条得宗家の地域支配の基盤にと考えたのではなかろうか。  宝治合戦の後に、時頼は相模守になるが、それ以降相模国は「相州御分国」と呼ばれるが、もともと将軍知行国(関東御分国)の一つであり、北条得宗家はそれを簒奪した事にもなるのであって、この点からも、いよいよ得宗専制といわれる体制が固まりつつあったことが指摘できる。

   三浦介の名称は、宝治合戦で時頼に味方した佐原盛時(moritoki)(三浦氏傍系)が継承したようだが、その後の盛時の行動は「吾妻鑑」を見る限り、将軍や北条一族に対する供奉などの奉仕ばかりで、三浦介としての権限は手にしていなかったと思われる。
  宝治合戦のあと三浦氏は相模守護の地位を失い、以後この国には守護は置かれずに、政所と侍所が権限を分掌したものと思われる。

    かくして幕府の宿老筆頭三浦惣領家は滅亡した。   それは頼朝以来の宿老体制(合議制)の解体又は変容をも意味しているのであり、幕府政治は最終段階の得宗専制体制へと移るのであった。  
  三浦氏の名跡はは傍系の佐原氏が引き継ぎその家系が生き残ったのである。 
源頼朝・法華堂跡   (鎌倉・雪ノ下)  
    宝治合戦で敗れた三浦氏一族500人がこの法華堂で自害した
頼朝・法華堂
DSCN2685.jpg
義時・法華堂跡



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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.15(07:00) 233

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

   義村は泰時の執権在任中は常に評定衆として中原師員(morokazu)に次ぐ位置を占め、泰時と時房が出席するような重要な会議には必ず参加していたようだ。
  義村は宿老としての重みが増すにつれて、幕府政治運営の責任の一端を評定衆に似つかわしくない態度をとるようになる。 
 具体的には記さないが、北条泰時の定めた御成敗式目の規定に明らかに反する行動を執っている。 目に余る義村の行動について、「吾妻鑑」にも厳しい記載が見える。
  義村がこのような態度をとって平気でいられたのも、宿老筆頭という自負があるのと執権泰時が一応三浦氏を重んずるという方針を変えなかった事によるのであろうし、もう一つは泰時執権時代に義村をはじめとする三浦一族が、将軍頼経(yoritune)に接近して、近臣御家人として重用されるようになった事も背景にあると思われるが、この事が結局幕府内での三浦氏の孤立と惣領家の没落を招く原因となったのである。

   以上のように、義村は宿老として将軍頼経に奉仕し、評定衆として執権泰時を支えてきたのであるが、もう一つの側面である三浦介としての義村にも注目しておく必要があろう・・・・・。  何となれば三浦一族が幕府を支える最有力御家人に位置づけられる基盤は、三浦介として相模一国を実質支配していた事にあるので、幕府内での三浦氏の役割の変化は、三浦介としての地位ないし権限に影響を及ぼさずには置かなかったと考えられるからである。

    このように義村の頃までは、三浦介としての地位と権限は、規制を受けつつも一応安泰と言えるのであるが、次の泰村(yasumura)の代になると、三浦惣領家存立の基盤である三浦介をはじめ、宿老・評定衆という地位が危うくなるのであった。

    延応元年(1239)、義村が死去した。 行年は不明、源平内乱の頃から名が現れるので70歳は超えていたと思われる。「吾妻鑑」によれば死因は大中風と伝えられ、泰時自ら弔問に訪れた事と、将軍頼経が使者を送った事が記されている。  義村の死は三浦一族の歴史にも、鎌倉幕府の政治にとっても一つの画期となったと言われる。

   義村の後を継いだ次男の泰村(yasumura)は、父の死の前年に評定衆に加えられており、すでに幕府内で重きをなしつつあったが、北条氏との関係は不安定な状況であった。
  仁治三年、北条泰時が60歳で死去し、経時(tunetoki)が次の執権に就任したが、泰村は変わりなく評定衆を勤めていた。  ただしこのころから評定衆による評議の在り方にも変化が見え、評定衆の下にいる奉行人の「内評定」で案件の処理を行う傾向が出てきている。 すなわち幕府の合議体勢が一層得宗主催の「寄合」へと進みつつある事がみてとれる。 したがって評定衆とはいえ、泰村の幕府内での位置はますます不安定にならざるを得なかったのである。

   病により経時が執権の座を弟の時頼(tokiyori)に譲り、33歳の若さで死去すると、前将軍頼経と結託した北条一族も名越光時(mitutoki)が時頼打倒の行動を起こそうとしたが、時頼は機敏に反応して、光時を牽制し、クーデターは不発に終わった。
  光時は越後守を罷免され伊豆に配流と決まり、前将軍も京都へ強制送還された。

   この事件を通じて三浦一族は、泰村の弟で前将軍の寵臣であった光村(mitumura)が深くかかわっていたが、光村自身もまた泰村ら兄弟にも何の咎めもなく、かえって時頼邸のおける「神秘沙汰」に泰村も呼ばれているのである。

*神秘沙汰・・・・・政村・実時・安達義景 参会の上級会議

   時頼には、三浦一族に対する警戒心が萌していたのであろう。   泰村を時頼邸に招いた折に、当時六波羅探題を勤めていた泰時の弟の重時(sigetoki)を鎌倉に呼び戻したいとの時頼の意見を、泰村が即座に反対したことで、泰村と時頼の関係は微妙になったと考えている。
「吾妻鑑」から泰村に関する記事をピックアップすると、何と、上下関係なく争いが耐えなかったようだ、宿老としての立場・家格を守るために起こしたらしい、 しかし、この様な泰村の尊大な態度は、周囲の人々の批判の的となり、やがて泰村の惣領家が幕府内で孤立せざるを得ない状況を招く事になったのである。
幕府・第三代執権 北条泰時公菩提寺・・・・・粟舩山・常楽寺 (鎌倉市・大船)
常楽禅寺
泰時公墓・・・・・常楽寺 (鎌倉市・大船)
北条泰時墓
幕府・第5代執権・・北条時頼公墓所・・・・・北鎌倉・明月院 (鎌倉市・山之内)
北条時頼墓

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.10(15:00) 232

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    嘉禄元年(1225)6月に大江広元、7月に北条政子が死去し、前年に死去した北条義時とあわせ、頼朝亡き後の幕府政治(執権政治)を主導してきた三人が相次いで世を去ってしまったのである。  
  執権になったばかりの北条泰時(yasutoki)にとって、それは大きな衝撃であったに違いないし、幕府関係者の間にも動揺が広がったと思われる。 しかしここで後世優れた政治家と評される泰時の手腕が遺憾なく発揮されることになった。

   執権泰時の施策の原点は、頼家の代の初めに設けられた13人の「談合」衆による合議態勢への復帰であり、伯母・北条政子の論理である頼朝時代(北条はミウチ)への回帰を体制化しようとするものであり、 かれの最も重要な施策は、評定衆による政務処理であった。
  その評定衆のメンバーを参考のために記しておく

〇 中原師員(morokazu) (吏僚)
〇 三浦義村        (宿老)
〇 二階堂行村       (吏僚)
〇 中条家長        (宿老
〇 三善康俊        (吏僚)
〇 二階堂行盛      (吏僚)
〇 矢野倫重(mitisige)  (吏僚)
〇 後藤基綱(mototuna)(御家人)
〇 太田康連(yasutura) (吏僚)
〇 佐藤業時(naritoki)  (吏僚)
〇 斎藤長定(nagasada)(御家人)


以上11人の構成であるが、印象としては、解るように、あの「十三人合議」体制とは随分違っている。
  例えばメンバーの中に北条一族は一人も入っていないし、宿老は僅か二人、御家人二人を加えても武士は四人にすぎず、残りの七名は政所や問注所の幹部である。
  そして「十三人合議」体制との大きな違いは、評定衆の権限は単なる「談合」ではなく、政務に関する裁断権を持った事、従って真の意味で合議が制度化した事であり、また北条一族は泰時が執権、時房が連署(rensixyo)として、合議体である評定衆を指導する立場に付いたのであって、いわゆる執権政治はここに確立した事になる。

   こうした評定衆設置を見ると、執権泰時はかつての頼朝のように・・・、その後の政子のように宿老の地位を復活させ、とりわけ義村を宿老として重用しようとしたと考えられるのである。 彼の宿老義村重視の姿勢は、彼の最初の妻が義村の娘であったという繋がりによるところも大きいであろうが、泰時が頼朝時代の宿老義澄(yosizumi)の働きぶりと、義村が三浦介として相模を実質支配していることを十分に理解していたからであろう。  そして宿老義村の幕府に於ける地位の上昇を端的に示す例がある。

    それは、嘉禄二年、安貞元年正月にそれぞれ椀飯(oubann)を奉仕した事で、前者は一日が泰時、二日が弟朝時(tomotoki)、三日に義村、後者は一日に泰時、二日に時房、そして三日に義村と、いずれの場合も北条氏の次位という事になるが、宿老としての義村の株が挙がったことを表している。   ちなみにこれ以前にも義村をはじめ三浦一族が椀飯奉仕に加わる例はあったのだが、何れも北条一族が主役で、義村らは脇役(剣や調度の貢進役人)に過ぎなかったのである。
 しかし、強大な権力を握った執権泰時の下で、宿老義村はいかなる動きを見せたのであろうか。評定衆としての働きぶりは次回で・・・・・・。
義村父・三浦義澄公墓所   (横須賀市・衣笠)
三浦義澄公・墓所
鎌倉幕府・執権邸跡・・現宝戒寺  (鎌倉市・雪ノ下) 
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一の鳥居付近より八幡宮を望む
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令和元年乙亥・辛未・戊寅

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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.05(07:00) 231

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

   元仁元年(1224)、北条義時が卒去している。 承久の乱より僅か三年後であり、また、実朝暗殺事件から数えても、五年しか経っていなかった。
  義時は、日頃病にかかった事は無かったが、六月十二日に突然病を発し、十三日に臨終が近づき、午前十時ごろ卒去した。六十二歳であった。 日頃は脚気を患っていたが、この日は激しい嘔吐と下痢を併発していた。 鎌倉府内には、義時の死は毒殺であるとの噂が流れた。

  義時の死因が毒殺であったかどうかは、正確には判らない。しかし、これらの連続した事件の推移を見てみると、毒殺説にはかなりの蓋然性がありそうである。・・・・レポータも肯定する。   さらに「伊賀の変」と呼ばれるこの事件には後日談がある。  この事件に関与したとみられていた北条政村(masamura)と三浦義村には、なんのお咎めが無かった事。そして、義時の正室伊賀局はその後どうなったかよくわかっていないが、同じ流罪になった伊賀光宗(mitumune)は後に許され、評定衆の一員に任じられている。

   京都の貴族達の眼には、和田氏滅亡後に、北条氏と対抗しうる豪族は、三浦氏以外にないと映っていた。実朝の暗殺される前に三浦義村は駿河守に就任していた。
  京都の貴族にとって、官位をもって武人を懐柔するのは常套手段であり、当時としては源氏一門や御外戚たる北条氏以外の御家人階級に、国司の長たる「守」を許す事は稀有の事であった。  この時期に義村を叙任したのは、三浦氏を抱き込み幕府を自壊させるための陽動作戦のにおいがする。 さらに義村の弟、胤義(taneyosi)が和田合戦後の論功行賞に不満を持っていて、新任地の京都で貴族たちと接触し、反北条の策謀に加わるなどしていた。
  承久の乱の折に、胤義は言った。  「天皇の仰せに日本国の武士が何で叛くでありましょう。特に兄の三浦義村は総追捕使にしてやると言えば、必ずお味方に参るに違いありません」     三浦義村の妻は、公暁の乳母でもあった。そして、義村の息子、駒若丸は公暁の門弟でもあった。

    1219年の実朝暗殺のとき、公暁の背後に京都の謀略者が存在した居たならば、その策士は公暁を兼ねてから懇意の三浦義村の許に走らせ、北条・三浦を相戦わせて、幕府の自壊を画策したとしても不思議ではない。
  それ以前に、弟、胤義(taneyosi)から義村への誘いはあった筈である。  しかし、義村は心を動かさず、公暁からの連絡をすべて北条義時に伝え、その命を受けて、長尾定景(sadakage)に公暁を討ち取らせた。
  

*長尾定景・・・・鎌倉権五郎景正を祖とする鎌倉党。 三浦氏に仕え家臣となったが宝治合戦で滅亡。 その後生き残った一族が上杉氏に仕え、上杉謙信はその内の越後上杉氏から出た武将。

   二年後の承久の乱でも、後鳥羽上皇側は、北条義時追討の宣旨を関東の有力豪族に発し、「宣旨に従えば恩賞は思いのまま」との添え書きを付している。  京都側の三浦義村に対する期待は大きかったようだ。
  しかし、胤義(taneyosi)から密書を受け取った義村は実朝事件同様に幕府に通報、京都への軍勢派遣のきっかけとなった。 義村は、幕府が自滅する同士討ちという愚かな道を選択しなかったのである。  
長尾定景一族供養塔  (鎌倉市大船・久成寺)  上杉謙信公祖
長尾定景一族
長尾一族・館跡  (横浜市栄区・長尾台)
長尾砦2
戦国時代・長尾一族の館は後北条氏の玉縄城の一廓となり大船観音のある処と共に砦となっていた(大船駅付近)
観音寺

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令和元年乙亥・辛未・癸酉

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2019年06月
  1. 剛勇・武略  畠山重忠(06/30)
  2. 剛勇・武略  畠山重忠(06/25)
  3. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(06/20)
  4. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(06/15)
  5. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(06/10)
  6. もののふ(兵)ノ家・三浦氏(06/05)