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剛勇・武略 畠山重忠

2019.07.30(07:00) 243

**畠山一族

**畠山氏の所領

    頼朝は平氏知行国であった武蔵国を自身の手に収めた。  一門の平賀義信(yosinobu)を武蔵守に推薦して武蔵国支配を始めた。

   武士の軍事的テリトリーの中核には所領がある。 拠点となる所領があるからこそ、その周辺の武士と関わり、軍事的テリトリーを形成できるのである。 したがって、重忠世代までの畠山氏の所領を確かめる必要がある。(史料からの推断)


①   武蔵国男衾郡畠山郷
  畠山氏の名字の地であり、重能(sigeyosi)-重忠と継承された公領の郷と考えられる。
②   武蔵国男衾郡菅谷・平沢寺
   重忠の館が武蔵国菅谷館とされている事から問題ない。 平沢寺は菅谷館の北1・5㌔の位置にあり、東日本で最大級の四面堂を有する大寺院であった事が確認されている。
③   武蔵国男衾郡得茂々
   重忠が滅亡した後、畠山氏の名跡を継承した畠山義生が、父泰国から譲られた所領である。 男衾郡に所在する事からみて、重忠の旧領であったと考えられる。  
④   武蔵国埼玉郡長野 
   重忠の弟・長野三郎重清の名字の地
⑤   武蔵国橘樹郡稲毛荘
   重忠の父が立荘に関与したと推定される荘園であり、弟澁口六郎重宗の名字の地が荘内に見える。
⑥   比企郡大蔵
   秩父重綱の後継者重隆の居館のあった地、大蔵合戦の後に畠山氏の所領となる。    (大蔵・・・・比企郡嵐山町)
⑦   武蔵国男衾郡鉢形
   重忠滅亡後に、姻戚関係にあった島津氏の始祖・島津忠久が鉢形など畠山氏の所領の一部を継承したと考える
⑧   武蔵国春原荘
   重忠の旧領を与えられた新田尼が岩松時兼に、春原荘を贈与している。
⑨   武蔵国多摩郡杣保(somanoho)
   秩父江戸氏と関わりの深い三田氏が、重忠滅亡後、江戸氏の支援を受け杣保に権益を形成したと思われる。 杣保(青梅市・奥多摩氏・羽村市)には重忠伝承が多く残っている。
⑩   伊勢国治田御厨
   重忠謀反疑惑の発端となった所領。 義仲・平氏追討の勲功によって得たものと考えられる。
⑫   陸奥国長岡郡
   奥州合戦の勲功所領として拝領。  重忠が滅亡した二俣川合戦の際、弟の澁口六郎重宗が奥州にいた事が判っている。 重宗は重忠の代官として長岡郡に赴いていた可能性が高い。
⑬   信濃国某所
   重忠が滅亡した際、弟の長野三郎重清が信濃国にいた事が判っている。 重清も重宗同様、重忠の代官として信濃国に赴任していたと考えられる。

   以上、畠山一族が保持していた可能性が高い所領を列記した。  鎌倉幕府に於ける重忠の立場を考えると、重忠やその一族の所領は、列記しものよりはるかに多かったと考えられる。
畠山氏・所領  
畠山氏・所領
畠山一族・系図
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鎌倉風景・浄光明寺三門
浄光明寺三門

◆ 以上、畠山一族の所領については、 清水 亮氏 「秩父平氏の嫡流」(吉川弘文館) を参照した。

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剛勇・武略  畠山重忠

2019.07.25(07:00) 242

**畠山一族

**頼朝政権・畠山重忠

    頼朝の時代、頼朝を軍事的・経済的に支えた重臣たちは、幕府初期に「宿老}と呼ばれた。  千葉常胤(tunetane)(1118年生まれ)・上総介広常(hirotune)(1127年生まれ)・三浦義澄(1127年生まれ)・土肥実平(sanehira)(1155年生まれ)・小山朝政(tomomasa)(1155年生まれ)・三善康信(yasunobu)(1112年生まれ)・岡崎義実(yosizane)(1112年生まれ)足立遠元・安達盛長 (何れも生年不明)等が検出される。  彼らの多くは東国の有力武士である。

    小山朝政は文治二年(1186)の時点で宿老に列していたが、名門武士の家の嫡子であるために、その地位に就いていたのであろう。  重忠は朝政よりおそらく九歳若く、文治二年の時点では年少であった為「宿老」に入らなかぅたと考えられる。  しかし、重忠が「宿老」に列した事実を確認できなかった事は重要で・・・、「宿老」にには選ばれなかったと考えるのが素直な解釈であろう。

   また、重忠は、頼朝に近侍してその施策を実行する「昵近衆」(jitukonsixyuu)にも入っていない。 頼朝の信頼する御家人たちの中に加えられていなかったのである。  一方で、頼朝権力下に於ける重忠の地位自体は高かった。  頼朝は、一門とそれに準ずる門客・門葉(monyou)を幕府内の最上位とし、その下に鎌倉で出仕し供奉する御家人を位置づけた。
  重忠は鎌倉内供奉衆に位置するが、その座次は門葉である里見義成(yosisige)より高かった事が見える。  (吾妻鑑)
  さらに頼朝が重用人物と謁見する際には、重忠は「南一座}を占め、「北一座」の梶原景時と並んでおり、御家人中でも高い座次にあったと考えられる。  知られるように、頼朝出行の行列では先陣随兵を多く勤めている。   特に頼朝の鎌倉入り、奥州合戦における頼朝直轄軍の出陣、二度にわたる頼朝の上洛といった、幕府政治の重要な節目で先陣を勤めている。  

   以上の事から、畠山重忠は、頼朝と一定の距離を持ち、幕府政治の中核には参加しないものの、幕府有数の有力武士としての待遇を受けていたと言える。  頼朝と重忠の関係について研究者は、「建前では重用されながら、一定の距離があった」 との指摘をしている。
凌霄花・三題      日蓮宗・妙本寺 (大町)
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海蔵寺  (扇ヶ谷)
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剛勇・武略  畠山重忠

2019.07.20(07:00) 241

**畠山一族

**頼朝上洛

    奥州を平定し、兵馬の権を確保した頼朝は、ついに上洛を決心した。 建久元年(1190)は諸国に水害などの災害が多発し庶民の暮らしが厳しい状況にあったので、この上洛計画の延期が検討されたが、すでに法皇に約定した事であるので出発が決定された。
  上京に関する諸々の事が決定されたが、その中で、次の事が定められた。

 一、 先陣随兵の事    和田太郎義盛
 二、 後陣随兵の事    梶原平三景時
   
   と見える事である。


頼朝は重忠を呼び出し、奥州出陣に引き続き先陣を命じた。  今度の上京は、頼朝が正二位の公卿として、晴れの都入りであり、その先陣を勤める事は名誉なことであるから、多くの御家人たちが指名されることを望んだ。
随兵には譜代の勇士でである事、弓馬の達人である事、容儀が神妙であるであるという三徳を兼ね備えた者を選ぶと頼朝の意向である。 また、頼朝は御家人の八田知家(tomoie)を呼び故事を知る参謀として、相談をし決定されたらしい・・・・・。

**任官

    頼朝は上洛すると、先ずは石清水八幡宮に参詣し、後に院の御所に拝賀する。 十二月一日、頼朝が右近衛大将に任ぜられた。  その後、院からたっての勧めにより、御家人十人が、左右衛門尉・兵衛尉に補任された。  この十人は、千葉常胤・梶原景時・三浦義澄・八田知家・葛西清重・和田義盛・佐原義連・足立遠元・小山朝政・比企能員で、始めの四人は功を息子に譲っている。 頼朝の創業からの功を考えると、この十人に重忠を割り込ませるの少し無理かもしれない。 この時重忠が任官できなかったのはやむを得ないであろう。
  頼朝初の上洛を終え、鎌倉に帰った、帰途の先陣も重忠が務めたと考えられる。

**重忠の妻と子

   重忠の妻として現在明らかになっているのは、足立遠元の息女と北条時政の息女である。  畠山氏関係の諸系図によると、重忠の子息として、六郎重保・小次郎重秀・五郎清重・十郎時重・重清・重慶(tiyoukei)円耀(enyou)が見いだせる。  六郎重保の旁註に「母北条時政女」と記されている。 さらに「吾妻鑑」の記事に、実朝室となる坊門信清息女を京都に迎えに行く使者の一人として重保が起用されている事などから、重忠の嫡男は時政息女を母とする六郎重保とするのが通説となっている。

   それに対し、畠山氏関係の諸系図で、長男の位置に重保が記されている事、「足立系図」における足立遠元息女の注記に「畠山次郎平重忠妻なり。六郎重保・小次郎重秀等の母なり」とあること等から、「時」の字を実名に冠する時重を時政息女の子息、嫡子重保・小次郎重秀らを足立遠元息女の子息とするのが妥当と思われる。

   足立遠元の本領武蔵国足立郡は、荒川と入間川に挟まれた巨大な郡である。 荒川水運・入間川水運双方にアクセスする勢力権を形成していた畠山氏にとって、足立氏との連携は重要であったであろう。 重忠と足立遠元息女の婚姻を主導したのが重忠本人であったか、父重能であったか確定する事は難しい。
  一方、重忠が北条時政の息女を娶ったのは治承四年(1180)以降と考えられ、この婚姻もまた重忠自身が関わって成立したと考えられる。

    北条時政は、重忠だけでなく、重忠の従兄弟である稲毛重成(sigenari)にも息女を嫁がせている。 時政は秩父平氏嫡流に属する畠山流との関係を密にする事で、自己の支持基盤の拡大を目指したと考えられる。  時政と重忠・重成が姻戚となる事は頼朝の望むところでもあったのではなかろうか・・・・・。  
  時政を媒介にして、畠山・稲毛は頼朝の義兄弟となったのである。 頼朝が鎌倉の後背地である武蔵国を掌握するためには、秩父平氏嫡流を掌握する事が必要であった。
重忠・嫡男・・・ 畠山重保邸跡石塔   (鎌倉市・由比ヶ浜)
畠山重保・石塔
風景・二題・・・・・・・・・・妙本寺・・・・・海蔵寺
妙本寺二天門
海蔵寺蓮

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.07.15(07:00) 239

**畠山一族

**奥州征伐

   文治四年(1188)4月、義経追討の宣旨と院の下文(kudasibun)を奥州に届ける使者が鎌倉を通過した。 奥州では義経をかばっていた藤原秀衡(hidehira)は前年に亡くなっており、あとは泰衡(yasuhira)がついでいた。
  この使者の接待が、稲毛重成(sigenari)・重忠・江戸重長(sigenaga)らに命ぜられている。

 奥州では泰衡が兵数100騎を率いて衣河の館に義経を襲い、合戦の後に自殺に追い込んでいる。 その首は酒に浸され鎌倉に届けられたという。 しかし、頼朝は泰衡が今まで義経を匿っていた事を責めて、これを征伐する事を朝廷に奏請したが、追討の宣旨が延び延びとなっていた。  しびれを切らした頼朝は軍議を急がせ、三手に分かれて進発することが決定した。
  頼朝自ら大手の大将軍となり、その先鋒を畠山重忠に命じたのであった。

   先陣を賜った重忠は、まず軍夫八十人を先頭にすすめた。  そのうちの五十人は、めいめいに雨皮に包んだ征箭(soya)を携え残りの三十人には鋤や鍬を持たせた。 さらに乗馬の予備として引馬三頭を準備、続いて重忠、その後に従軍五騎は、弟の長野三郎重清(sigekiyo)、烏帽子子の大串小次郎重親(sigetika)、郎党の本田四朗近常、乳母子の榛沢六郎成清、柏原太郎の五人であった。 

*征箭・・・・戦闘用の矢(突き矢)  

   頼朝の従えた軍勢は一千騎で、平賀義信(yosinobu)・安田義定(yosisada)・蒲範頼(noriyori)以下一門諸大名らが一斉に出陣したのである。   道筋は下野・宇都宮・新渡戸駅を通過、白川の駅を超え、陸奥の国伊達郡国見駅に着き、八月の八日に攻撃を始める事が決定された。 
  泰衡はここに前衛としての城壁を築き、幅五丈の堀を掘って阿武隈の流れをせきいれ、異母兄西木戸太郎国衛を大将軍とし、二万騎の軍勢で守りを固めていた。  

   そこで重忠は引き連れてきた八十人の軍夫に用意の鋤や鍬を使って土や石を運ばせ、堀を埋め、攻撃路を確保したようだ。工兵を使う事は当時としては珍しく、その情報収集能力と行動力を兼ね備えた重忠の先鋒としての力量を頼朝はすでに見抜いていたのかも知れない、そしてこの場面での抜擢となったと思われる・・・・。 

   九月になって、奥州二国の平定が完了し、頼朝は論功行賞を行い、多くの御家人たちが新恩に浴したが、先鋒として活躍した重忠は葛岡郡の惣領地頭職に補任された。  この郡は狭いところであったが、重忠の不満は聞こえてこなかった。
源義経公・首洗い井戸・・・・鎌倉に送られた義経の首はこの地に葬られた。
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義経公首塚碑・・・・・藤沢市・白旗神社付近
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義経公を祀る白旗神社境内・・・「義経藤棚」
白旗神社・義経フジ

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.07.10(07:00) 238

**畠山一族

**静御前

   文治二年(1186)3月、頼朝は義経の行方を尋問する為に、静御前を鎌倉に呼び寄せた。 鎌倉での尋問に対する静の返答は京都での供述と大分違ったようで、厳重に取り調べられたらしいが、静は義経と別れる処までの供述に終始したらしい・・・・。
  尋問の結果は不問となったらしいが、静は白拍子として天下のの名人と言われていたので、頼朝や政子はその舞を是非見たいと言ったが、静は病気だと称して応じなかったという。   
  じつのところ、義経の妾としての自分が、その様な事をするのは恥辱であるといって、しぶっていたのである。 しかし、政子が静はたまたま鎌倉に来ていて、近く帰京するので、その舞を見ないのは残念だ、是非見たいと頻りに頼朝にねだったという・・・・・・。 
  頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣する日を選んで静を回廊に召し出し、これは自分たちが見るのではなく、八幡大菩薩に奉納するという名目で舞ったのである。 伴奏の鼓は、京都に長く滞在し歌曲に堪能であった工藤祐経(suketune)がうち、畠山重忠は銅拍子をうった。
  京都で一流とされる静の伴奏を務めたという事は、重忠の音楽的才能が鎌倉で高く評価されたという事になる。 ともかく重忠が、歌舞のの点で頼朝のお気に入りであったと思われる。

**梶原景時の讒言

   「吾妻鑑」、文治元年(1185)4月の記事、和田義盛が侍所の別当で梶原景時は同所司である所から。 御家人統制の担当者であって、軍時には戦目付として、平時にも御家人の非違を糺弾する職にあったとして良い。  従って義経の事をとやかく頼朝に報告したのも、また、壇ノ浦で夜須行宗の功名についてかれこれ言ったのも、その職務を実行したものと考えられる。
  それは、必ずしも従来言われる程の悪人ではなかったのではないかと思う。 景時は石橋山の合戦では箱根山中で頼朝に有情のおもんばかりがあったと思われ、鎌倉にて始めて頼朝に見参した時、文筆に頼らず、言語に巧みな士であって、初対面で頼朝に気に入られたという。 

   そして頼朝の寵をよい事に、少々傲慢であった事は確かだったらしいが、また俊敏な人であって、頼朝の心底に潜めた願望、それは頼朝自身が意識していない様な願望を抉り出し、その意を迎える様な言動をしたと考えられる。 
  というのは、沼田の御厨事件に際しての重忠に対する処分であって、重忠に対する頼朝の気持ちは複雑なものがあった思われる。 一面では確かに頼朝は重忠を信用していた。しかし、頼朝が最も不安定な時期、三浦を脱出した時というよりも、むしろ千葉常胤が味方に付き、安心してから鎌倉に入るまでの時期であると思うが、この時期に素直に頼朝に従軍しなかった者に対する頼朝の不信感は、長くに渡ってあったのではなかろうか。 これに相当する主な者は上総介広常・江戸重長・河越重頼・畠山重忠である。   
  江戸重長は頼朝より呼びかけた者で、実際には秩父の庶流で、後に活躍した様子もなく、問題にされなかったようだ。 だが上総介広常は、寿永二年に頼朝は梶原景時に命じ、朝夷奈切通付近でだまし討ちされている。  
  広常は頼朝の政策に対し、考え方の違いをストレートに進言したらしい・・・・、朝廷に対しても、軽視した態度を示し、頼朝は彼を安心の出来ない者であると思って殺害した事は明らかであろう。
鎌倉の風景  三題・・・・妙本寺・日連上人
日蓮上人凌霄花
半夏生・鎌倉中央公園 
2019半夏生
妙本寺・二天門
凌霄花妙本寺

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剛勇・武略 畠山重保

2019.07.05(07:00) 237

**畠山一族

**石橋山合戦~

    「源平盛衰記」 にはこの事情を説明して、もと鎌倉での評定では、梶原景時は義経の軍の侍大将、土肥実平は範頼の軍の侍大将と定められたが、実平は範頼を捨てて義経につき、景時は義経を離れて、500騎を引き連れ範頼についたとされる。
  そして、重忠は宇治川の合戦で義経に属したが、京都では範頼についている。  今度、一の谷に進軍するについて、範頼から分かれ、500騎でまた義経に属したと記されている。
 「吾妻鑑」は京都での軍勢の手配を材料とし、、「平家物語」はそれ以外の史料に拠ったのであろうか・・・・・。このころの軍勢の交名には両者の間に出入りが多いところに「源平盛衰記」が気が付いて、説明したものと考えている。
  
   一の谷の合戦については、ここでは省略する、畠山重保が活躍した記録が無いのである。  一の谷と言えば「ひよどりごえの逆落とし」という逸話が、重忠の代表的逸話となっているが・・・・・・・、重忠はたしかに、一の谷の手前の三草山の合戦までは義経の指揮下にあったが、この時点で軍は二手に分けられ、本隊は義経が、搦手の大将軍に安田義定(甲斐源氏)に預けられた。 重忠はここで義定の指揮下に入り、一の谷の西の手攻撃に向かっているので、ひよどりごえに向かった別働隊にはいなかったことになる。 ここにアリバイが成立する。 従って、ひよどりごえで、馬を背負って崖を降りる事など出来ないのである。 

   一の谷の合戦に大勝した範頼(noriyori)・義経(yositune)は、京都に凱旋したが、 頼朝は山陽道に土肥実平(sanehira)らを遣わして軍政を掌らせ、義経を京都に残し、一旦は平家追討の大将軍とした。  一方、範頼はじめ諸将士の多くは関東に帰還、梶原景時が平重衡(sigehira)を護送して関東に凱旋している。   

   頼朝は平治の乱の後、自分の助命に尽くしてくれた池ノ禅尼(zennni)の子、平頼盛(yorimori)の所領を安堵させ、鎌倉に招待し歓待した。  頼盛帰洛の餞別の宴に、小山朝政・三浦義澄・畠山重忠等が参列したとある。    (平家物語)

   文治元年(1185)3月、壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡する。 そして御家人たちが四月の中ごろまでには鎌倉に凱旋している。
ところが、関東の御家人のなかに、頼朝の推挙を受けずに兵衛尉(hiyouejiyou)等に任官した者たち二十三人が、墨俣(sunomata)以東に入る事を禁じている。  その中には、義経の郎党の佐藤忠信もあり、後藤基清・梶原朝景・平山季重・八田友家・小山朝政などもみえ、口汚く罵倒されている。

  しかし、これらの人は大部分がすぐに許されたらしく、この後鎌倉に帰還し、頼朝に仕えている記事が見えている。 だが、義経は許されず、二人の仲は険悪な状況になる一方で、義経もまた院に申し出て、頼朝追討の院宣を受けたのである。

   同年10月頼朝の父義朝の首を葬って、その菩提を弔うために建立された南御堂・勝長寿院の開堂供養が行われ、畠山重忠は先の隋兵の筆頭に列している。  供養の後、頼朝は侍所別当、和田義盛と所司の梶原景時を召し、義経討伐軍の選抜を命じている。
  この時の先陣は土肥実平、後陣は千葉常胤と決したが、重忠の名は無い。
鎌倉・紫陽花・・・・・長谷寺 (六月十日)
長谷寺紫陽花
鶴岡八幡宮一の鳥居・・・・・
一の鳥居
大御堂・勝長寿院跡石塔
勝長寿院石塔

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令和元年乙亥・壬申・癸卯   

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2019年07月
  1. 剛勇・武略 畠山重忠(07/30)
  2. 剛勇・武略  畠山重忠(07/25)
  3. 剛勇・武略  畠山重忠(07/20)
  4. 剛勇・武略 畠山重忠(07/15)
  5. 剛勇・武略 畠山重忠(07/10)
  6. 剛勇・武略 畠山重保(07/05)