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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.30(07:00) 249

**畠山一族

**二俣川合戦

   北条時政は、重忠を滅ぼす計画を実行に移した。   
  同族の稲毛重成の招きに応じた、畠山重保は鎌倉に入った。

  北条時政は既に畠山親子を誅殺する企てを、子息の義時・時房に打ち明けていた。  時政がこの計画を決意したのは、重保から中傷を受けた平賀朝雅からの「讒訴」 を、時政の妻牧の方が時政に伝えたからだという。   (吾妻鑑)

  稲毛重成は重忠の従兄弟であり、畠山流の一員として重忠親子とつながりを持っていた事は疑いない。  畠山重保が重成に招かれて武蔵から鎌倉にやってきたのは、彼らが実際に一族として活動していた事を示している。  しかし、以前にも述べたが重成・榛名重朝ら小山田有重の子息たちは、重忠とは微妙な関係にあったと考えている。  重成・重朝は、重忠と異なり頼朝の側近くに仕えており、彼らもそのような待遇を望んでいた節がある。  したがって、重成・重朝兄弟と重忠一党との間には、親近感と緊張感が併存していたと思われるのである。
  時政は両者のこのような関係を知っており、重成を味方に引き込んだのであろう。  重忠親子を誅殺した後に残る秩父平氏嫡流の有力者は、小山田有重の子息たちである。  重成は、重忠誅殺後に秩父平氏嫡流の族長になる事を望んで、時政の誘いに応じたと考えられ、利害が一致したのである。

   さて、計画を打ち明けられた子息義時・時房は、時政の考えに強く反対した。  
 彼らは、畠山重忠は右大将軍に忠直であった。 又、比企氏との合戦には味方に忠節を尽くしてくれた、我々との礼を重んじたからです。 しかし、何の憤懣があって叛逆を企むのでしょうか・・・・・。 
もし、度々の勲功をお捨てになり、粗忽に誅殺したならば、後悔するでしょう・・・。と反対の態度を示し別れている。 

   その後、義時の屋敷に時政の後妻 牧の方の使者が訪れ義時を説得している。  どのような説得をしたかは不明であるが、その後事態は大きく動き出したのである。  (吾妻鑑6月21条)

   まず畠山重保が謀反の知らせを受け郎党三人を率い由比ヶ浜に向かったところで、三浦義村の郎従佐久間太郎らに囲まれ、殺害されてしまった。      (謀殺である)
  三浦義村は、重忠親子が誅殺されるという情報を得て迅速に動き、重保を殺した。  義村は二十五年前、秩父平氏嫡流に率いられた軍勢に祖父三浦義明を殺害された恨みを晴らしたかったのである。

   この情勢に畠山重忠が鎌倉に入るという情報に幕府の意思が決定された。  北条義時が大手の大将軍として進発した。  北条時房は、重忠の退路を断つべく、武蔵府中と水力交通の要衝である関戸(多摩市)方面を固める大将軍として進発した。

   畠山重忠は鶴ヶ峰の麓に陣を張った。  従った者たちは、次男小次郎重秀、郎従の本田近常・榛沢成清以下の134騎であった。  この時、弟の長野重清は信濃国に、澁口重宗は陸奥国に居り、重忠の子息と側近によって軍勢が構成されていたと思われる。
  重忠はこの陣中で、当日の朝重保が誅殺された事を知り、また幕府軍が襲来することを知った。  側近たちは軍勢の多さに、本所に籠っての籠城戦を進言したが、重忠は陰謀の企みを怖れ、又、この様な推察を受ける事を恥じ、後進の戒めとしたと思われる。
武蔵国・二俣川
二俣川由来の地
鎌倉古道・二俣川付近  (中の道)
鎌倉古道・中ノ道
武蔵国・二俣川古戦場跡   (横浜旭区・二俣川)
二俣川合戦古戦場跡
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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.25(07:00) 248

**畠山一族

**北条時政との対立

    比企氏の乱の直後、建仁三年九月に千幡を従五位下征夷大将軍に叙任する位記と宣旨が鎌倉に届いた。  千幡は元服し実朝と名乗った。  鎌倉幕府三代将軍・源実朝の登場である。

    北条時政は大江広元と共に政所別当に就任。 時政の立場は、複数の政所別当中の実務責任者である執権別当であった。
  時政の権勢が大きくなった背景には、外戚の実朝が建仁三年当時十二歳の少年であったという事情があった。  時政は外戚としての立場を根拠として、政所の実質的な責任者になったのである。  時政の権勢は、幕府発する文書の形式にも現れた。 この時期、時政が単独で実朝の意思を奉じる下知状を発給していた事が知られる。

    侍所別当・和田義盛の奉行により、「武蔵国諸家の者たちは、遠州(時政)に対して二心を抱いては成らない」 という命令が鎌倉殿実朝から出された。  (吾妻鑑)
  この命令は、鎌倉殿に代わって、北条時政が秩父一族を含む武蔵国の武士を指揮する事を命じたものと考えられる。

    この処置は、比企氏の乱直後の武蔵国に関わる事案である以上、北条時政が武蔵国守護・平賀朝雅(時政・女婿)と連携して主導した比企氏乱後の戦後処理と言われる・・・・・。  
  そしてこの戦後処理が、今度は北条氏と畠山氏の対立を招くことになる。  時政が武蔵国への関与を強める動きは、武蔵国惣追捕使であり、北西部に本領と軍事的テリトリーを保持する重忠の利害に反するからである。
  とにかく、北条時政に従う事を命じられた「武蔵国諸家」の中に重忠も入っていたであろうから、この命令によって重忠は時政の下位に位置づけられた見られる。  頼朝以来、本領所在の武蔵国で、重忠が鎌倉殿以外の武士の指揮下に入る事は無かった。
  この命令によって、両者の関係は悪化をもたらしたと見るべきである。  

    「関東で争乱が起こった。 北条時政が畠山重忠に敗れ山中に逃げ延び、大江広元は既に殺された」 という 誤情報が、京都の藤原定家の許に届いた。  (明月記)

    さらに、畠山氏は、平賀朝雅とも対立していた。  元久元年十月、実朝の正室となる坊門信清の息女を迎えるため、幕府は、北条時政の子息政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保らを使者として上洛させた。  この任務中に事件は起きたのである。 現任の武蔵守で北条時政のシンパである朝雅と、武蔵国惣追捕使畠山重忠の嫡子重保の口論は、おそらく武蔵国支配に関わる話題を含んでいたと考えられる。
  この後、両家間の緊張は元久二年正月まで続くのである・・・・・・・。 そして、その両家の対立を仲裁したのが、千葉氏の当主成胤であった。  千葉氏と畠山氏との間には、先祖以来変わらぬ親交があったのであろう・・・。
源実朝生誕800年記念碑・・・・・(扇ヶ谷・寿福寺三門付近)
実朝生誕800記念

白旗神社・・源頼朝・実朝 祀られる (鎌倉鶴岡八幡宮)
白旗神社
政所別当・大江広元邸跡石塔 (鎌倉・十二所)
大江広元邸跡

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.20(07:00) 247

**畠山一族

**重臣・権力闘争

    梶原景時の失脚後、頼家の舅である比企能員(yosikazu)とその一党との競合が想定される。
  比企氏の出自は定かでないが、藤原氏の武士か京都の下級官人の出身者が武蔵国比企郡に権益を得て、比企氏を名乗るようになった可能性が高い。 能員の伯母が比企尼で頼朝の乳母であり、平治の乱後、伊豆国に流された頼朝の支援を20年に渡り欠かさなかったという。  
   比企能員は比企尼の姉妹の子息で、安房国の住人とされる。  能員が信濃・上野の守護に相当する職権を行使する一方、比企掃部允の弟と思われる比企藤内朝宗(tomomune)は木曾義仲滅亡後に北陸諸国を管轄し、治承・寿永の内乱以後も比企一族・縁者が北陸道の守護を占めていた。 比企一族は武蔵国北部から上野・信濃・北陸道に至る巨大な勢力圏を形成していたのである。

    そして、比企氏は、武蔵北部の権益をめぐって畠山氏と競合する関係にあった。  比企氏の本領比企郡は、畠山重忠の本拠畠山館・菅谷館がある男衾郡(obusuma)と隣接している。  また、畠山重忠は児玉党を影響下に置いていたが、比企能員も息女を児玉党の某に嫁がせている。 畠山氏の勢力圏と比企氏の勢力圏は重なり合っていたのである。
  武蔵から北関東に至る主要な道であった鎌倉街道上道下野線に入るルートとして、鎌倉街道上道の本道から埼玉県比企郡で分かれ、足利方面に向かう経路があったと考えられる。 これらのルートを巡っても両氏は競合関係にあった事が推測される。

    幕府政治をめって将軍頼家の外祖父・北条時政と舅の比企能員が権勢を争う状況下、時政の女婿であり、比企氏と競合する重忠が、時政に近い政治的立場をとるのは自然な成り行きあっただろう。

    そのような時期に頼家が病を発症、重病であった。 幕府重臣たちは源氏将軍家の家督相続について評議が為され、弟の千幡(実朝)に関西三十八ヵ国の地頭職を、長子(一幡)に関東二十八ヵ国の地頭職と惣守護職が譲渡された。  この決定は、弟の実朝に多くの権益を引き渡すもので、頼家の舅としては不満の残る裁定であったと思われる。
  「吾妻鑑」の記述によれば、裁定に不満のあった比企氏一門に、北条氏一門を陥れる謀略が計画されたという、この記述には疑問が残るが、比企氏と北条氏の対立が顕在化した事は事実であろう。

   そして、比企氏は北条時政によって謀殺され、一党は滅亡に追い込まれた。  比企氏一党も激しく防戦したが、合戦の趨勢を決めたのは畠山重忠とその配下であった。  この戦いで頼家の嫡子・一幡は命を落としている。
  重忠は、比企氏を滅ぼそうとする北条時政の策動に積極的に加担した。  その動機は、武蔵北西部における比企氏との勢力争いである。 此の地には、重忠の本領と軍事的テリトリーが形成されており、比企氏の勢力拡大は自身の本領・勢力圏の維持に直接関わる事であった。
  重忠は、一幡の御所を襲撃するにあたって、一幡の安全に配慮した形跡が見あたらない。 比企氏と結びつく頼家よりも時政を選んだのであり、小御所攻撃にもためらいが無かった様である。

    その後、頼家は回復の兆しを見せた。  この時に比企氏の滅亡を知り、和田義盛と仁田忠常に北条時政の討伐を命じたが、賛同されなかった。 頼家の反撃は未遂に終わり、伊豆修善寺に幽閉、配所で斬殺された。

妙本寺山門
妙本寺山門
幕府重臣・比企能員邸跡  (現妙本寺)
比企能員碑

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.15(07:00) 246

**畠山一族

**重臣の失脚

   先にレポートしたように、頼家の政治は有力御家人たちと衝突しうる要素を持っていた。  頼家と有力御家人たちがすぐに対立関係になった訳ではない。  しかし、彼が若かった事から、頼朝時代に潜在していた有力御家人の不満が表に出てくようになった。  その顕著なものが、梶原景時の失脚である。  景時は頼朝に重用されて侍所の所司に就任し、またさまざまな人々を讒言して破滅や窮地に追い込み、御家人たちの反感を買っていた。

   景時は、十三人合議制のメンバーであり、他の有力御家人・実務官僚と共に頼家の政治を支える立場であったが、一方で景時は、頼家自身にも近しく仕えていた。  頼家が有力御家人の利害と衝突しうる政治を行うにあたって、頼朝以来の将軍側近である景時の存在は重要であったと考えられる。  彼の立場は、結城朝光を讒訴したとみられる事件をきっかけに悪くなったと思われる。
  
   結城朝光は頼朝の死後、周囲の者に「忠臣は二君に仕えずという、遺言の為出家遁世しなかった事を後悔している」 と漏らしている。 この発言を、景時は頼家に対する批判とみなして、彼に報告したらしい。
 翌日、幕府の女房阿波局(北条時政娘)は、朝光に「景時の讒訴により貴方は誅殺されそうになっている」 と告げた。 朝光は、親友の三浦義村に相談、義村は事態を重く見て、和田義盛・足立遠元らと共に同心の連判状を記し、翌日には、千葉常胤・三浦義澄・重忠らの有力御家人が鶴岡八幡宮に参集し、併せて66名の梶原景時糾弾の訴状が大江広元を介して頼家の上覧に供され、景時は陳弁できなかったという。

   鎌倉を追放された景時は上洛を試みたが、駿河国清美関で同国の御家人に襲われ戦死している。  景時と重忠の関係はあまり良くなかったようだ。 重忠は景時の失脚を進める立場をとり、頼家の政治を抑制する側として行動したことになる。 頼家の意欲的な政治は有力御家人と衝突しうる要素を持っていた。 頼家が自身の政治力を発揮しようとした時、将軍側近である景時の存在は重要であった。しかし、頼家は重忠を含む有力御家人の意向を入れ、景時を見捨てたのである。  (吾妻鑑)

   景時の失脚後も、重忠が頼家を積極的に支援した形跡は見いだせない。 その要因として、頼家の舅である比企能員とその一党との競合が想定された。
風景三題・・・・・・・鎌倉大仏 (鎌倉市・長谷)
鎌倉大仏
鎌倉大仏殿礎石・・・・・・・(鎌倉市・長谷)大仏建屋礎石
段葛石塔・・・・・・鎌倉八幡宮二の鳥居 (鎌倉市・雪ノ下)
段葛

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.09(07:00) 245

**畠山一族

**二代将軍と畠山重忠

     頼朝は建久十年正月十三日に死去した。
  その死因については落馬がもとであったとも、糖尿病であったとも、暗殺説もあるが、確定は難しい・・・・。  
  頼朝死去の情報を得た源道親(mititika)は、臨時の任官儀式を行い、自らの右大将兼任と頼朝の嫡子源頼家の左近衛中条任官を実現させた。 さらに、その五日後の正月二十五日付けで、朝廷は、頼朝の家人は中将頼家に従い、諸国の守護を奉仕せよ、という趣旨の宣旨を出した。
  朝廷は、頼朝の死によって鎌倉幕府が混乱・解体するのではなく、幕府権力が頼家に円滑に移行することを望んだのである。

  頼家の政治については、相次ぐ失政や京都の政治勢力の動きと結びついた政争によって、源氏将軍の凋落と北条氏の台頭を許したという否定的な評価が通説であった。 しかし、近年では、頼家期の政治の具体的な研究が進み、彼の政治は父頼朝の路線を踏襲する基本方針に沿っており、実朝期にも継承されたものもあった。

   さて、重忠であるが頼家との関りが「吾妻鑑」の訴訟に関する記事に認められる。  重忠が地頭であった陸奥国長岡郡内の新熊野社の僧が坊領の境界について紛争を起こし、証拠文書を持って重忠に裁定を求めた。
 「当社は、今私の領内にあるが、藤原秀衡が管理していた時、朝廷の御祈祷を致し、今はまた武門の繁栄を祈り奉っている以上は、独自に判断し難い」 として、三善善信に訴訟をゆだね、善信が頼家にこれを取り次いだ。 
  頼家は、重忠が進上した境界絵図を取り寄せ閲覧した後、自ら筆を執り、絵図の中央に墨を引いた。
  この逸話は、理非を無視した頼家の暗君ぶりを示すものとして著名である。 しかし、この逸話の直後に、頼家の側近の僧源性が陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向している記事が見える事などから、この逸話の信頼性に疑問が残る。  (吾妻鑑)

   一方、頼家が有力御家人の利害に反する政治を行っていた事も事実であろう・・・・・。 よく知られている事例で、諸国の大きな土地を召し出し、「治承・養和」の新恩地の中で500町を超える分については没収し、所領の無い側近に与えようとして、宿老の反対を招き、一旦撤回したという。 (吾妻鑑)

  さて、頼家が鎌倉殿になってからの重忠の幕府内での立場は、頼朝期と基本的には変わらない、重忠は「十三人の合議制」 を担うメンバーに入っていない。 重忠の年齢は彼らの世代より少し下るので、政治経験の面からも選ばれなかったのでしょう・・・。ともかく、幕府の意思決定には関与していないという、草創時代からの位置づけは変わっていないのである。
   一方、有力御家人としての地位を保ち続けた事も確かである。 頼家の妹三幡(sanman)が病の為十四歳で死亡した。 この三幡の葬儀に参列した有力御家人たちの中に重忠の名が見える。   北条義時・大江広元・小山朝政・三浦義澄・結城朝光・八田知家・足立遠元・梶原景時・宇都宮頼綱・佐々木盛季・二階堂行政らと共に参列している。  (吾妻鑑)

   重忠の立場は有力御家人の一角にあるが、幕府内の意思決定には関与しないという立場は継続していたのである。
  頼家は彼らを抑え込んででも幕府権力の基盤を固めようとしたのである。  しかし、重忠は頼家の政治には批判的であった可能性が高い。
風景三題・・・・・  建長寺・刑場址   (鎌倉市・山之内)
刑場址・建長寺
明月院やぐら・ 明月院  (鎌倉市・山之内) 
明月院・やぐら
亀ヶ谷坂切通  (鎌倉市・扇ヶ谷)
山之内~扇ヶ谷切通し

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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.05(07:00) 244

**畠山一族

**幕府内政争と畠山一族

   頼朝期の武蔵国支配は、知行国主の地位に基づいて国衙・国務を掌握する行政的支配、国内武士の御家人化による主従制的支配によって構成されていた。 そして、それらを補完したのが、秩父平氏・畠山流、秩父平氏・河越流、横山党嫡流が形成した軍事的テリトリーであった。

   頼朝は、畠山重忠・稲毛重成・榛谷重朝(hangaya)(秩父平氏・畠山流)、河越重頼・師岡重恒(秩父平氏・河越流)、横山時広(横山党嫡流)らの軍事的テリトリーを承認しつつ、彼らの影響下にあった中小武士の多くも御家人化した。

    頼朝による国内武士の広範な御家人化は平氏の武蔵国支配には見られない新たな支配方式であるが、知行国主の地位に基づく国務執行、有力武士の軍事的テリトリーを介した地域支配は平氏段階との連続性を持っている。  頼朝は秩父平氏嫡流に緊張をもたらす政治を行ったが、彼らの家格を相対化したり、本領の没収や軍事的テリトリーの解体を進める事はしていないのである。
  さらに、畠山重忠・稲毛重成・榛谷重朝・横山時広は頼朝に重用された。

   重忠は幕府内で高い地位を与えられ、秩父平氏の族長として武蔵国惣追捕使の地位に就任したとみられる。  他の者も頼朝の近くに仕え、秩父平氏の中では葛西清重とともに、重忠に次ぐ地位を得たとみられる。
  彼らの中で、特に畠山重忠・横山時広は秩父平氏嫡流・横山党嫡流の族長であり、幕府の武蔵国支配成否のカギを握っていた。 彼らは頼朝を力量ある主君として認めその統制に服した。  豪族的武士団の長たちが、頼朝という傑出した指導者と結びつくことによって、武蔵国を含む幕府の東国支配は成り立っていた面があったのである。  

   従って、頼朝が死去すると彼らは自身の所領や権益を守る事を自覚するのである。  頼朝の死後に幕府内で政争が起こった一因には、所領・権益を維持しようとする東国武士たちの自己運動があったのである。 
  重忠もまた幕府内部の政争で主導的に動き、結果として滅亡したのである。
鎌倉風景・三題・・・・・・・瑞泉寺・フヨウ(白のフヨウはまだでした)
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鶴岡八幡宮・源氏池  (ハスは終わりました。?)
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