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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.30(07:00) 260

  **千葉・上総一族

**苦闘する武士団・千葉氏

   千葉氏は下総千葉庄を本拠とする武士団で、その所領規模に於いては臼井氏等下総に割拠するほかの両総平氏一族と大差なく、下総権介職を世襲するという点ではほかに優越する地位を占め、両総平氏の中では上総氏に次ぐ武士団を構成していた。

   十二世紀前半の千葉氏の所領としては、苗字の地である千葉庄の他、平忠常が居館を構えたという大友政所台を含む立花郷、常重が伊勢神宮に寄進をして下司職を得た相馬御厨、千葉氏が在庁官人の立場を利用して所領化したとみられる国分寺(市川市・国分)があり、上総国の山辺北部にも勢力を伸ばしていたらしい。
 この段階では、千葉氏の所領はかなり大きく、国内の同族武士団に対して優越した立場に有ったと思われる。

   ところが、これらの所領のうち相馬・立花の地は、国主藤原親道に公田官物の未進を理由に没収されてしまう。 しかし、その後相馬御厨については源義朝の介入もあって実質的な支配権を一応回復できたようだが、平治の乱で義朝が滅びると、親道の次男親盛から御厨の権利を譲られたという主張する隣国常陸の佐竹義宗によって、完全に千葉氏の権益は失われることになる。

   従って、十二世紀の後半になると、千葉氏の所領は半減して、確実なものは本領千葉庄の他葛飾郡国分寺・上総郡山辺北部堺郷(東金市)に過ぎなくなる。

   当時、下総国内の武士団としては、上総氏の庶流をはじめとする両総平氏の一族の他千田庄(多古町)・匝瑳北条(匝瑳市)・橘庄(立花郷)の藤原氏、豊田郡(常総市)の豊田氏、下河辺庄の下河辺氏、葛西御厨(江戸川区)の葛西氏等の諸勢力が割拠していた。 上総権助の地位を有する千葉氏ではあったが、他を圧倒しうるような、絶対的な実力を持ち得なかった事は明白であろう。

**為光流藤原氏の下総進出

   下総国内の諸勢力の中で、むしろ東国全体においても特異な存在がある。 千田庄・匝瑳北条・橘庄、即ち下総国の東北部一帯を支配下に置いていた藤原氏である。  なぜ特異かというと、千葉氏等のような地方軍事貴族の後裔でもなく、自ら広大な耕地の開発を実現した在地領主でもなく、さらに武士の出身でもなかったからである。
  この藤原氏こそ、千葉氏の手から相馬御厨を没収した国主藤原親通の子孫、つまり、れっきとした中央貴族なのである。

   親道は太政大臣藤原為光から五代の子孫で、父の伊信は侍従・長門守に任じ正五位下に叙せられた中流貴族である。 下総守の任期切れを目前にした親道は、香取社の造営を条件に重任を申請して康治元年(1142)まで在任し、子息の親方を下総守とする事に成功している。
  このように親道が下総守の地位に執着したのは、相馬御厨や立花郷を千葉氏の手から奪い取った事に観られるように、下総国内に自分の庄園を設定するとともに、強力な在地支配権を貫徹しようとした為であろう。  かくして、国主の権力と中央貴族としての権威・政治力にものを言わせる親道・親方父子の前に、千葉氏をはじめとする在地勢力は次々と屈服を余儀なくさせられたのである。

   このように、藤原氏は中央貴族社会の一員としての立場から下総の在地勢力の上に君臨しようとしたが、平治の乱以後の平氏の台頭はさらにその立場を有利に展開させた。  というのは、次男親盛の子親正が平忠盛の女を妻に迎えて清盛と義兄弟になっていたばかりでなく、彼の姉妹の二条院内侍が重盛との間に資盛をもうけるに及んで、親正は平家と二重の婚姻関係で結ばれる事になったからである。
  下総藤原氏は、十二世紀の後半には平氏との関係を背景に、さらに在地支配権を強化していったのである。
頼朝に従った大庭景義居館跡    (神奈川・茅ヶ崎懐島)
DSCN5451.jpg
源氏が関東進出する際最初の氏神社・・・・・鶴峰八幡宮 (茅ヶ崎市)
鶴峰八幡宮
下総国・郡庄図 12世紀後半
下総国・郡庄図

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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.25(07:00) 259

**千葉・上総一族

**下総の上総一族(続)

    次に、上総権助広常の軍事力を構成した武士団としては、今までレポートをしてきた上総一族の他に、臼井四朗成常・同五郎久常等の名が挙げられている。  成常は千葉常重の兄弟臼井六郎常康の孫、久常はその弟。   臼井氏は印旛沼の南に広がる臼井郡(佐倉市臼井)を所領とし、両総平氏の中で上総介・千葉介に次ぐ大族といわれ、有力な武士団であったと思われる。

   上総氏は下総各地に進出した一族の他に、血縁的には上総一族に包括しえない両総平氏の庶流をも軍事的統率下に置き、強力な勢力を誇っていた事が知られる。  十二世紀末における上総氏の支配構造は、上総国の権介としての権力もさることながら、両総平氏の族長としての権威も十分に考慮されなければならない。

   因みに、上総権介広常が頼朝に参向した際に率いて来た兵力について、「吾妻鑑」には二万騎とあるが、当時の周辺の豪族たちの状況から五千騎相当が想定される。   同じころ、頼朝を迎えた千葉氏の軍勢を「吾妻鑑」は三百騎と記しており、相模の三浦氏が衣笠城に籠った時の兵力が四百五十騎程というから、国衙を基盤とする豪族的武士団が直接掌握できた武力は三百~五百騎程度と思われる。  それは丁度、彼らの直接支配の及ぶ千葉庄とか、三浦郡と、その付近の範囲内で動員されたものであろう・・・・・。

   これに対して、頼朝を追討する側に立った相模の大庭氏や武蔵の河越氏等が、三千ないし数千の軍を率いているのは国家の権力を背後に背負っているからで、千葉氏や三浦氏とて叛乱側に組しなければ、数倍の武力を集める事が出来たはずである。 反乱者の立場に立った千葉氏や三浦氏は軍勢を集めるにあたり、その政治的・社会的権威を機能させることは出来なかったわけで、他の一郡ないし一庄規模の武士団と同程度の軍事力を持って頼朝に参向したものと考える。

   ところが広常の場合は、反乱者に荷担しようと言うのに、上総国はもとより下総国の上総氏一族以外の武士団までが広常の許に集まった。  上総氏は、小山氏や三浦氏と同じ豪族的領主と言っても、群を抜いた支配権力を確立していたと言える。
  上総国には、律令的郡でも11ある。  それに下総の一部も加えれば、少なくも五千騎は動員できたであろう。 「吾妻鑑」の二万騎は誇張だと思われる・・・・。
下総の上総権助広常軍団・・・臼井氏他
千葉氏系図
下総国・郡庄図

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.10.20(07:00) 258

**千葉・上総一族

**下総の上総一族

   上総権介広常が頼朝の許に参向した際に率いた武力について、考えてみたが、広常に従った軍勢にについて、上総国の武士の他に臼井四朗成常・五郎久常・相馬九朗常清・匝磋次郎助常・印東別当胤常・大夫太郎常信・小大夫時常といった下総国内の地名を苗字とする者を記している。

   このうち相馬常清は「吾妻鑑」に広常の弟とあり、匝瑳助常・印東頼常も広常の甥と所見される。とすれば、上総氏の一族は上総一国のみならず、隣国の下総にまで勢力を拡大していたと考える事が出来る。
  上総氏が、下総の印東庄を所領とした事について確実な史料が残っている。  京都・醍醐寺に伝わる「醍醐雑事記」の紙背に偶然に残された文書三通の断簡である。 断簡の為正確な年代は不明で内容も完全にはつかめないが、凡そ十二世紀半ばのものと思われ、それぞれ「下総国印東荘郷司村司交名」・「平常澄解」という文書名で収められている。
  ここに見える郷司・村司は、二番目の「平常澄解」によって印東司の公文とか沙汰人という下級庄官であった事が判る。印東庄の下司であった「前権介平常澄」が預所菅原定隆と貢納の事などについてトラブルを起こした時、印東庄の本家に預所の非を訴えたもので、文面から常澄が村郷司である公文・沙汰人を日常的支配のもとに於いていた事が判る。 常澄は言うまでもなく広常の父であり、上総氏直属の武力がこうした村郷領主クラスの武士団によって構成されていた事が明らかである。

   上総権助広常の兄に印東次郎常茂があり、その子が印東別当頼常である。  常茂は父常澄から印東庄を伝領して印東氏を称したのであろう。  「吾妻鑑」治承四年十月条によると、頼朝追討の為、東下してきた平家軍の中に印東次郎常義なる者がいて、富士川の合戦で富士・鮫川にて源氏の軍に討たれている。 この常義は系図の常茂と同一人物と思われる。  

   相馬九朗常清の苗字地である相馬御厨は、上総氏の初代常晴が千葉常重に譲った土地である。  常重はこの私領を伊勢神宮に寄進して御厨としたが、国主藤原親通から官物の未進を理由に収公されるなど、支配権は安定しなかった。
  以前から、常重に相馬郡が譲渡された事に不満を持っていた常晴の嫡子常澄は、これに目を付け、上総で育ち鎌倉を本拠にして南坂東の武士団の統合を進めようとしていた源義朝と結託し、武威に物を言わせて常重に相馬御厨の譲渡証を強引に書かせて、自分の名をもって御厨を伊勢神宮に寄進している。
   しかし、義朝はこれによって御厨の下司職を得たのだが、彼は千葉氏の服属を達成すればそれでよかったわけで、相馬御厨の実際上の支配権はこれを機に義朝の従者となった千葉氏と、代官的立場を得た上総常澄の手に帰する事となった。

   その後、平治の乱で義朝が滅びると、今度は中央の権力と結びつきの強い隣国常陸の佐竹義宗が、相馬御厨はかつて下総守藤原親通が収公して以後、正当な所有権は親通の次男親盛に伝えられ、それを自分が継承したと主張して、御厨を千葉氏よりも有利な条件で伊勢神宮に寄進する事で、その在地支配権を奪取してしまった。
 これによって、千葉氏は相馬御厨に対する正当な支配権を失う事となり、上総氏の方は佐竹氏と婚姻関係を結ぶ事によって従来からの権益を確保していたのである。

   こうしてみてくると、匝瑳助常が下総国匝瑳郡に進出していた事も事実と考えられる。   さらに、広常の兄弟埴生六郎常益の苗字地が下総国埴生庄(成田市)であった事は、後に上総氏の遺領を継承した千葉常秀がこの地を所領としていた事実から明らかである。

下総国・郡庄図  (主に千葉氏所領)
下総国・郡庄図
上総国・郡庄図  (主に上総氏所領)
上総国・郡庄図
頼朝落馬伝説・自害した警固役10名の墓・・・・・・・懐島山龍前院 (神奈川・茅ヶ崎市)
頼朝警護の10名い

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.10.15(07:00) 257

***今回の台風により被害に遭われた方々・・・お見舞い申し上げます。

**千葉・上総一族

**頼朝挙兵と上総氏・千葉氏

    千葉常胤が頼朝に参上を決意したのは、常胤は頼朝の父源義朝と主従関係にあり、平治の乱後、相馬御厨が平氏と関係の深い源義宗(佐竹)に奪われるなど相伝の所領が侵奪された事。 また、常胤の六男胤頼は頼朝の流人時代からたびたび伊豆の蛭ヶ小島を訪れ、頼朝と会談している事。  また、七男の日胤も頼朝の祈祷僧といわれ、以仁王や源頼政の挙兵に参加し、戦いで戦死しているなど頼朝と縁が深かったと考えられる。

   しかし、最大の理由は蔵人所や上西門院などに仕え、歌道を通じて京都の知識人たちと親交を深めていた胤頼や園城寺の僧となっていた日胤から中央の詳しい情報がもたらされていた事により、平家の勢力が次第に衰退しつつあり、その動揺は全国に広がっていたなどの情報を得ており、その内容を的確に判断していた事によるものと考えられる。
   
   こうして、頼朝の信任を得た常胤は治承四年十月二十三日、相模国府で行われた論功行賞で下総国内における本領の安堵と新恩が給与された。 そしてこの後、源平の争乱や文治五年(1189)、奥州合戦の功績によって下総国内や上総国内を中心に東北地方から九州地方等に広大な所領を獲得し、幕府屈指の大豪族に成長した。

   なお、上総国内の所領は寿永二年(1183)十二月、上総介広常が頼朝によって誅殺された後に獲得した所領であったが、千葉氏が広常の遺領を継承した事で上総氏系の武士団を併合し、常胤は事実上、両総平氏の族長としての立場を獲得した。

    ここで少しさかのぼって、上総氏の動きについてレポートします。
   
  治承四年(1180)九月の段階で、頼朝が国家に対する謀反人であった事は言うまでもない。  いくら上総介広常が上総権介という国衙最有力の地位にあったと言っても、謀反人への加担にこれだけの地域から武力の結集が実現されているから、上総氏は国衙権力を超えて、既にほぼ一国規模で封建的軍事態勢を確立しつつあった事は疑いない。  それに対応する様に、上総国に於ける郡・庄規模の在地領主は、殆ど上総氏の一族で占められていた。

    まず、「吾妻鑑」の情報から上総氏一族としては、天羽庄の天羽庄司直胤、伊南・伊北の伊南新介常景・伊北庄司常仲、周西郡の周西次郎助忠、長南郡の長南太郎、金田郷の金田小太夫頼次等が挙げられ、上総氏一族が郡司・郷司‣庄司などの在地領主として発展を遂げていた事は明らかであろう。  しかし、上総国における上総氏の所領はこれだけに留まらない。
  市東・市西の両郡が上総氏の所領である事が判ってきた。 ,国衙を権力基盤とする豪族的領主の所領は国衙の所在する郡に集中するのが一般的であり、上総氏の場合も同様の状況が想定される。 また、上総権助広常滅亡の後、その所領は千葉常秀(常胤の孫)・和田義盛らの手に帰したと考えられるが、鎌倉中期頃の史料から常秀が年貢の徴収を行っていた事が確認されている事から、この両郡がかつて広常の支配下にあった事はほぼ間違いないと思われる。 

   熊野山領畔蒜庄(安房国境付近)は「吾妻鑑」の記述によると文治二年(1186)には、相馬常清・和田義盛が地頭となっており、しかも庄内の横田、大金、麻里の諸郡にそれぞれの郷名を苗字とする上総氏の一族があった事を示す史料から知ることが出来る。
  因みに、この庄園は熊野神社の別当家と婚姻関係をもった源為義が立庄の仲介にあたったとみられ、為義の子義朝は上総氏の庇護を得て上総国で成長し、「上総曹司」と称されているが、義朝は預所のような立場でこの地に居住していたのかも知れない・・・・。


   十二世紀の末、上総国の公領・庄園は国衙所在の旧市原郡、国一ノ宮所在の玉崎庄を中心として、上総氏一族がそのほとんどを支配下に治めていた事はほぼ疑いのないところである。
源頼朝・落馬伝説(相模川の橋脚復元)  神奈川・茅ヶ崎市
史跡・橋脚
相模川橋脚
千葉氏・上総氏系図 (11~12世紀)
千葉氏系図
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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.10(07:00) 255

**千葉・上総一族

  **頼朝挙兵と千葉氏・上総氏

    平安時代の末に下総の千葉に移住し、武士団を形成した千葉氏は下総国司や源義朝などから侵奪を受け、平安時代末期までには、相馬、、立花での権利を完全に失い、次第に平家方から圧迫を受けていた。
  一方、上総に於いて武士団を形成した上総系の武士団は常晴の子常澄が源氏の棟梁として関東地方に勢力を伸ばしていた源義朝と結んで国内の武士団を統合し、下総に進出を図っていた。
  さらに常澄の子広常は平治合戦後も、上総国の全域にわたる所領や下総の埴生庄、木内庄などや千葉氏の所領であった相馬領迄勢力を拡大していた。

    このように千葉氏が所領の経営に苦しんでいる頃、平治の乱で敗れ、伊豆蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝は、治承四年(1180)8月17日、三島大社の祭礼に紛れて、伊豆の目代館を奇襲し、目代の山木兼隆を討ち取る事に成功。  相模の石橋山に軍を進めた。  対して相模の豪族大庭景親は3000騎の兵を集めて石橋山に陣取る頼朝を急襲する・・・・・。
  軍勢の差は如何ともしがたく、敗れた頼朝は海路安房に逃れた。  安房に上陸した頼朝は、安西景益の館に入り、ここから上総介広常と千葉介常胤に使いを送って参上を命じた。
  使者に対し広常は「常胤と談合の上で参上する」と回答・・・・。 常胤は、その場で参上を回答したと言われる。  そして参上を決意した常胤は、六男胤頼と孫の成胤に命じて下総目代を討ち、平家方の千田親政を生け捕りにするなど下総国内の平家方の掃討を行った後、兵300騎を率いて下総国府で頼朝と参会した。
  二日ほど遅れて広常は兵2万騎(???)を率いて下総国府に隣接する隅田川に於いて頼朝軍に参入した。 
  下総国府で千葉氏や上総氏などの房総の武士の参集を得た頼朝は、隅田川を渡って武蔵国に侵入して武蔵の葛西・豊島・江戸・河越・畠山などの豪族を従え、鎌倉入りしたとされている。

   しかし、この治承四年の九月上旬の「吾妻鑑」の記事では、上総国の国守は平家一門の藤原忠清であった。
  この為上総国府を中心に国境地帯や国内の国衙領などの主要な地域には有力な平家軍が駐留していた可能性は高く、広常の参入以前に、少数の頼朝軍が、上総国境を突破し、上総国内を通過することは困難であり、千葉氏がこの時、頼朝の援軍の為に上総に進撃する事はあっても、千葉庄に隣接した上総国府に優勢な平家の上総目代軍がいた状態で、下総国府を攻撃したとは考え難い。

   一方、「玉葉」等他の史料には、広常の参入は頼朝の安房到着後の早い時期と推定され、千葉介常胤の参入も安房での頼朝の動向や上総における広常の動きを注視し、それらと連携を保ちつつ作戦を遂行していた可能性は高い。
  この為頼朝は上総侵攻の準備が整い次第、安房と上総の国境を突破し上総国に侵攻し、同時に広常・常胤らに命じて上総国府の攻撃を行った可能性は高い。 この時の上総目代は平家一門の平重国であったと考えられ、内容から、この戦闘は頼朝方の素早い行動によって、あっけなく終了したと推察される。

   こうして頼朝は安房国から上総国府に進出し、さらに、常胤に命じて下総国府の攻撃と下総の平家方を掃討し、下総国府を陥落させた。  この後、頼朝は安房や両総の兵を率いて下総国府に入城したとする事が、史実に近いと思われる。
下総国・郡庄図  (12・13世紀)
下総国・郡庄図
上総国・郡庄図 (12・13世紀)   
上総国・郡庄図
鎌倉初期・千葉氏(下総)系図
千葉氏系図
鎌倉初期・上総氏系図
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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.05(07:00) 240

◆◆・・・新連載 **千葉・上総一族

**高望王の下向と関東平氏

   千葉氏は、三浦氏・畠山氏と同じ祖を持つ平安時代の武士団である。  桓武天皇の曾孫高望王(takamotiou)は寛平元年(889)、臣籍に下り、平姓を賜り、上総介に任じられて関東に下向した。  皇族であった高望が関東に下向したのは、当時、中央において皇族にあてがわれる官職が不足しており、朝廷から支給された僅かな給付では皇族としての体面を保つのは困難な状況であった。
  高望が国司の職を選んだのは中央の官人には原則として認められていない「職分田」や労働力としての「事力」を与えられた事。さらに国内の空閑地を耕して私利を得たり、元来、赤字補填として配分されたものの分配を受ける事によって莫大な利益が得られたからと考えられる。 さらに、新しい耕田の開発に成功すれば広大な私営田を獲得する可能性があった。

   高望が上総介に補任されたのは、中央政府の政策と高望のニーズが一致した事から実現したものと考えられる。 当時、東国では世情が不安定であり、朝廷の威光が届きにくい状況であった。 その東国に皇孫である高望が下れば、古来、皇室の直轄領の多いこの地方では貴種として尊ばれ、その権威は絶大な影響力を持っていた。

   さて、上総国に赴任した高望王は、在任中、国司の地位を利用して多くの耕地を開墾し、広大な私営田を獲得したと考えられているが、任期が終わった後も、そのまま関東に残り、新たな耕田の拡大を図った。  また、関東地方に古くから勢力を持っていた在地の豪族と婚姻関係を持つ事で高望の子孫の子孫である関東平氏の一門は東関東を中心に各地に勢力の拡大を図った。

    こうして、高望の子や孫は上総国、相模国、武蔵国、下総国、常陸国などに広く分布することになった。
  高望が没した後、子の国香(kunika)・良兼(yosikane)・良将(yosimasa)・良文(yosifumi)・良正(yosimasa)等は、その所領を継承した。 また新たな墾田の開発によって多くの私営田を獲得し、強大な私有田領主として成長していった。

    国香の子孫は貞盛流(sadamori)と繁盛流(sigemori)に分かれたが、貞盛流からは平清盛に代表される伊勢平氏や相模の北条氏が出ており、良文の子孫は三浦氏や和田、長尾、大庭、梶原、鎌倉氏、千葉氏、上総、畠山、河越、葛西、江戸、秩父、土肥氏などの有力武士団があり、これらは東関東各地に割拠した。
    │国香─貞盛流─伊勢平氏(清盛)、北条氏など。
*高望──
    │良文─────千葉氏、上総氏、畠山氏、河越氏、葛西氏、江戸氏、秩父氏、三浦氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏など。


    高望の子は、常陸大掾や下総介・上総介・武蔵守などの国司や在庁の官人に任じられ、伝領の土地の他に、その地位を利用して新たに墾田を開発し、広大な私営田を獲得して勢力を拡大した。
  また、その強大な勢力を背景に武装化し、鎮守府将軍などの地方軍事官僚となったり、中央の有力貴族の私兵となって次第に実力を付けて行った。   こうして関東平氏の諸氏は中央政府、貴族と関係を結び、その軍事的要請に応じる事によって、絆を強くすると同時に、その拠点とされた関東地方では新たな耕田の開発や武装組織の育成に努めていた。

**千葉・上総両氏武士団の成立

   千葉介常重(経繁)は保延元年(1135)、家督を常胤に譲るが、その所領は常胤、胤隆、胤光の三人に継承された。
  このうち、常胤は千葉庄、相馬御厨、立花郷などの常重の所領の大部分を継承した。  「吾妻鑑」等の諸本には千葉氏の武士団には常胤の子や孫の名前は登場するが、常胤の兄弟や祖父常兼から分かれた海上氏、白井氏、臼井氏等の諸氏は含まれていない。  治承期の千葉氏武士団に常胤の兄弟や叔父たちの出陣の記録が無い事は、常重の形成した武士団が家督の継承に伴って、一旦解体したものと考えざるを得ない。 これが事実であれば厳密には千葉氏武士団の成立は常重の代ではなく、常胤の代に成立した事になる・・・・。

   大椎権助常兼(経兼)の子常重(経繁)(常胤父)は大治元年(1126)、千葉に移住し、相伝の私有地である千葉郷や相馬郷を八条院や伊勢神宮に寄進して新しい武士団形成と所領の経営を進めた。  
  しかし、常重の獲得した相馬・立花郷などの所領は本拠地の千葉からは遠く離れており、軍事的、経済的の弱い成立時の千葉氏では、その経営を円滑に進める事は困難であった事が推定される。

    長承四年(1135)、常重は相馬御厨の下司職を嫡子の常胤に譲ったが、下総国司・藤原親通は常重を公田官物の未納を理由に捕え、これを理由に相馬郷と立花郷を親通に譲るという証文をつくらせた。   その後、康治二年(1142)になると東関東で武士団の再編・強化を図っていた源義朝は常重から相馬郷の譲渡状を書かせた。 義朝は、この土地を改めて伊勢神宮に寄進している。

*相馬御厨・・・・・現在の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市辺りの広大な寄進型荘園の一つ。
  
これに対して、常胤は公田官物の未納分を納入して相馬郡司に任じられた後、再度、相馬郷を伊勢神宮に寄進した。  この為相馬御厨の下司職は義朝と常胤が競合し、争う事となった。  ただ、常胤は保元の乱(1156)には義朝軍に参戦している事から両者の間には何らかの主従関係が成立し、義朝を領家とした相馬御厨の下司職は常胤が確保したものと思われる。

   しかし、義朝が平治の乱に平清盛に敗れると相馬御厨は国衙に吸収された。 常胤はこれに対して御厨の領有を主張したが、今度は佐竹昌義の子源義宗が、常胤の父常重の譲渡状を盾に相馬御厨の在地支配権を主張した。
  この譲状は、以前、下総国司藤原親道が常重の公田官物の未納を理由に攻め取ったもので、常胤はこれを弁済した為既に文書の効力は無かったが、義宗は平氏の権力を背景にして、相馬御厨の領有権を主張し、侵奪を実行したのである。  平家を憚った伊勢神宮は義宗の主張を認めた為千葉氏は相馬御厨の領有権をすべて失ったのである。  
千葉氏・上総氏関係・・・・系図
上総・千葉氏
千葉氏・勢力圏
千葉氏勢力圏

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