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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.30(07:00) 266

**千葉・上総一族

**本宗千葉氏の分立

   千葉氏の本宗は、鎌倉時代末期にモンゴル来襲(合戦)により、事実上、下総千葉氏と鎮西千葉氏の二流に分立し、千葉氏武士団の惣領職は千葉介胤宗の子貞胤に継承され、宗胤の子胤貞(鎮西)は一族的立場に置かれた。

   このころ、朝廷では天皇の位を大覚寺統と持明院統の二つの系統で交替で継承されていたが、大覚寺統の後醍醐天皇が位に着くと、帝は朝廷権力の回復の為二度に渡って討幕を計画したが、何れも失敗し、隠岐の島に流された。
  この時の征西軍に千葉氏は千葉介貞胤、千田胤貞、相馬左衛門四朗尉等が加わっている。  貞胤は天皇の護送の任にあたり、乱の首謀者の一人であった大納言藤原師資の身柄を預り、下総に帰還している。

   その後、元弘三年(1333)五月、新田義貞が討幕の為に挙兵すると、新田軍に呼応して出陣し、金沢貞将の軍を破り、六浦から鎌倉に侵攻した。 幕府は倒れ、建武の新政府が樹立されたが、北条高時の子時行が信濃で挙兵、鎌倉に侵攻すると、足利尊氏は鎌倉に出兵し、新政府に反旗を翻した。  これに対して朝廷は新田義貞に尊氏の討伐を命じたが、貞胤はこの軍に参戦している。

    建武二年(1335)正月、下総国では胤貞系と守護職の貞胤系との間で衝突が繰り返されていた。 新田義貞軍が箱根峠で戦闘を交えると貞胤が反足利軍、胤貞が足利軍に分かれて戦った。 しかし、翌年には後醍醐天皇と足利尊氏の和睦が成立する。

**室町幕府(関東公方)

    建武の新政府が倒れ、室町幕府が成立すると、関東には鎌倉府がおかれた。 足利尊氏の子足利基氏が関東管領に任じられた。  管領には氏滿・滿兼と続いたが、滿兼の代には京都の幕府に倣い、長官を公方といい、執事を管領と云う様になった。
  氏滿・滿兼の両者を補佐したのは関東管領の犬懸上杉朝宗であった。  公方・滿兼の死後、管領朝宗は引退。  新公方は足利持氏となり、管領には山之内上杉憲定が就任したが、病の為、犬懸上杉氏憲に交替した。  氏憲はかねてから関東公方の持氏とは不和であった事から、ある事件を契機に管領職を辞任した。

   両者の対立が深まる中、京都の政情とも連動し、「上杉禅秀の乱」が起こった。   この乱に、氏憲方と姻戚関係にある下総国千葉介兼胤、武蔵国守護代長尾氏晴、上野国の岩松滿純、下野国の那須資之、甲斐国の武田信滿等、持氏に不満のある広範囲の武士たちが従っていた。
  対立の原因は、関東公方と関東管領上杉氏との対立、守護大名と守護代層の対立等が絡んだものと言われている。

   さてこの頃、千葉氏惣領は貞胤から氏胤、満胤、兼胤と継承されたが、「上杉禅秀の乱」 には千葉介兼胤が上杉氏憲の娘を室としていた関係から兼胤と父滿胤が氏憲方として出陣したが、積極的に戦わず所領は安堵された。

    永亨九年(1437)、持氏は嫡子の賢王丸が元服の際、将軍の偏諱を受ける習慣を破って義久と命名したが、これを諌めた憲実は身の危険を感じ、上野国に退いた。  対して、将軍義教は、今川範忠、武田信繁、小笠原政康、上杉持房、朝倉孝景等の大軍を鎌倉に追討軍として派遣した。
  この時期、千葉氏惣領は千葉介兼胤から胤直に継承されていた。  胤直は「永享の乱」 に際し持氏に従って出陣し、持氏が憲実と対立した際には、和睦を勧めたが、不調に終わり下総国に帰還。  憲実に寝返って鎌倉永安寺の持氏を攻めている。

   千葉氏は室町以降も下総守護職を継承し、伝統的な権威を背景に、一定の統制力を保持していた。 しかし、その勢力は永享の乱以降、急速に衰えはじめ、実権は有力家臣であった原氏や円城寺氏に移っていった。
関東管領・上杉朝宗・氏憲鄭跡  (鎌倉市・浄明寺)
上杉朝宗・氏憲邸
千葉氏本宗家・系図  (13世紀後期)
本宗13世紀
千葉氏本宗系図

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.25(07:00) 265

**千葉・上総一族

**族長の継承

   頼朝の信任を得た下総権介常胤は、下総国内や上総国内を中心に東北地方から九州地方など広大な所領を獲得し、幕府屈指の大豪族に成長する。  新たに上総国内に得た所領は、上総介広常が頼朝に誅殺された後に獲得したのであるが、千葉氏が広常の遺領を継承した事で上総氏系武士団を併合し、常胤は事実上、両総武士団の族長としての立場を確立した。
  その後、頼朝の命により東大寺戒壇院の造作を行ったり、鎌倉・永福寺薬師堂の供養奉行人等を歴任。 鎌倉幕府の安定に力を尽くし、 正治三年(1201)に没している。

**胤正流千葉氏

   常胤の嫡男・胤正は所領の殆どを継承したようで、千葉氏の拠点とされた下総国の千葉庄、千田庄など下総国の本宗家の所領や北九州の小城などや上総国内の広常の所領を伝達し、千葉介及び上総介を称し、両総の族長としての立場を継承した
  
この所領は子の成胤、常秀、観秀、胤忠、胤朝、胤広、師胤、胤時などに安定的に継承されたと考えられる。  このうち、成胤は胤正の遺領の下総国の千葉庄、千田庄、葛飾郡菅田郷、吉橋郷など下総国の本宗家と北九州の所領を伝領し、千葉介を称した。 一方、常秀は上総国内の上総氏の遺領や下総の埴生庄、薩摩の寄郡などの所領を継承し、上総介を称した。  また、建久元年(1190)、佐兵衛尉に任官している。

なお、成胤は「小次郎」と称され、「・・・養子たるゆえ・・・」 の記録がのこされる。

   これに対し常秀は父胤正から上総介の称号と上総国全域、南九州の島津庄寄郡等の広大な所領を継承しており、成胤の継承したものと比べ、多くの所領が常秀に継承された事から、鎌倉初期の千葉氏武士団を代表していたのは常秀であった可能性が大きい。

    本宗家を伝領し、千葉氏を称した成胤が没した後、この所領は子の胤綱に継承されたが、胤綱が早世した為、家督は弟の時胤が継いだ。  さらに時胤が早世すると僅か三歳の時胤の子頼胤が千葉介を継承しなければならなくなった。  この為成胤系千葉氏(下総千葉氏)は頼胤が成長するまで、当主の叔父泰胤を代表とする一族の寄合によって運営されたと考えられる。

  一方、胤正の子で上総介を継承した堺氏(上総千葉氏)は常秀の子秀胤の代には幕府の評定衆を勤め、幕府創設の功臣であった三浦氏と婚姻関係を結び、幕府内で勢力を振るった。  この時、千葉氏武士団を総体として考えた場合、上総氏が千葉氏を代表する時代だと考えられる。

   しかし、上総千葉氏は宝治元年(1247)秀胤の時に三浦氏の乱(宝治合戦)に連座、幕府から追討され滅亡すると、下総・千葉頼胤の叔父泰胤は動揺した千葉氏武士団を建て直し、新たな武士団の再編成に着手した。  泰胤は成胤の次男で、千葉次郎と称した。
  妹の千田尼を北条時頼の後室とし、娘の一人を北条氏の一門である金沢顕時に嫁がせ、もう一人の娘を千葉介頼胤の室としており、主君である頼胤と幕府の実権を掌握していた北条氏との関係を密接にし、そこで形成された権力を利用して千葉氏武士団の再編成を推進したものと考えられる。

   泰胤による再編成の内容は「吾妻鑑」などの歴史書には伝わっていないが、その地域の「尊光院の六院六坊体制」・「妙見宮御番の事」などの尊光院内の組織の確立には泰胤の所領のあった千田庄周辺の武士団である原、円城寺、椎名、鏑木、池内などの武士団が深く関わっている事から泰胤の主導によって行われた可能性が高い。  これらの泰胤の千葉氏武士団の編成で最も注目されるのは、「千葉御家御元服の儀式」 である。
  その内容は惣領の嫡子の元服を妙見宮の神前で行う事によって、嫡子の地位の確立を図ったものである。 このように祭政一致の武士団編成は、千葉氏の守護神である妙見信仰を利用して武士団結合の要とする惣領の嫡宗権確立を図ったものと考えられる。

   しかし、こうして再編成された千葉市武士団も二度のモンゴル来襲によって下総と九州の千葉氏に大きく分裂する。 鎮西に所領のあった千葉介頼胤は一族を率いて九州に出陣した。 また、頼胤が文永の役で傷つき翌年、小城で没すると子の宗胤が代わって出陣(弘安の役)した。  その後もモンゴルの来襲を危惧した幕府によって小城にとどめ置かれた。  この為千葉氏の本宗は下総に残って千葉氏全体を統括していた頼胤の次男・胤宗が継承することになり、鎮西千葉氏(宗胤)との二流に分立した。
千葉氏本宗系図 (12・13世紀)
千葉氏本宗系図
千葉氏胤正流(堺氏) 系図
胤正流・堺氏
幕府草創期・常胤と並ぶ三浦氏惣領・三浦義澄公の墓
三浦義澄公・墓所

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.20(07:00) 264

**千葉・上総一族

**前章(続)

   坂東における有力平氏勢力の一角が崩れたという事である。   
 親正の軍事動員力は坂東屈指で、藤原氏の貴種性は他の追随を許さぬものがあった。 親正が平家と二重の姻戚関係を結んでいた事は、前述した通りである。 親正の敗北は都の平家にとって大きな衝撃であったに違いない。

   この戦いは、千葉氏と藤原氏との約半世紀にわたる相克に終止符を打つものであった。  下総守藤原親道による相馬御厨・立花郷の収公以来、千葉氏は藤原氏に絶えず在地領主としての発展のみならず、その存在すらも脅かされ続けてきたのである。
  この戦いの勝利は単に藤原氏の存在を消滅させたばかりでなく、下総国内の同族武士団に対する族長権の確立を意味するものでもあった。  千葉氏は、親正及びこれに同調した同族武士団の遺領を継承する事で、ようやく名実ともに下総国第一の勢力を確立したのである。

**頼朝参向・・・・

      千葉氏の頼朝参向の時期と場所について「吾妻鑑」は、「九月十七日、下総国府に於いて」 とするが、それでは千葉氏の本拠千葉庄を千葉氏一族との参会なしに通過した事になってしまう・・・・・。 当時の状況からみて、藤原親正の千葉庄襲撃の際、成胤がこれに対処している事から見ても、上総国で参会した方が自然であろう。  

   千葉庄襲撃(結城浜合戦)の後、上総から千葉館へ頼朝を迎え入れたと思われるが・・・、あるいは、頼朝は合戦を避けて上総から海路北上し、千葉庄の外港でである結城浦に着いたのであろうか・・・・?
  結城浜合戦で千葉館が焼亡していたとしても、頼朝が千葉庄に立ち寄らずに、直接下総国府に赴いたとは考え難い、「吾妻鑑」の記述に国府より千葉に近い鷺沼(習志野)に宿泊し、逗留したと記されている。

   ところで、千葉氏と同様に上総介広常の頼朝参向についても「吾妻鑑」の記述は、九月十九日に広常は隅田河辺に陣営を構えた頼朝の許に二万の大軍を率いて参上し、頼朝が大喜びすると予想していたところ、思いのほか遅参を咎められた事で広常が心服したという話が伝わる。

   広常の人物については「吾妻鑑」などによると 「大勢力を率いての、不遜な態度」 が強く表れ尊大であったらしい。  たしかにそういう面は有ったかも知れないが、これは寿永二年(1183)の暮れ、頼朝が梶原景時に命じて広常を誅殺した事を正当化するための曲筆が、かなり働いていると思われる。 「吾妻鑑」は幕府の公的歴史書とは言っても、編纂物である。  他の史料に拠れば、頼朝に参向した広常は下総に出陣する際し、頼朝の前に跪いて先陣を所望している。

   頼朝が広常を誅殺したのは、変な言い方だが、広常が頼朝に思い入れすぎた為であろう・・・。 広常はその強大な武力によって鎌倉政権樹立に大きく貢献した。  その事から政権樹立後も、自分がいなければ鎌倉政権の存続は無いかの如く思い込み、自分が常に頼朝の家人中のナンバー・ワンとして振る舞いかかったのではなかろうか?

   つぎに、広常が頼朝に対して不遜と思われるような態度をとる事が出来た事情として考えられるのは、広常の父常澄が頼朝の父義朝の庇護者であったという事である。  義朝が少年期を上総で過ごし、「上総曹司」と呼ばれていた事は先にレポートした。 義朝が上総氏の元で養育され始めた頃、まだ、常澄の父常晴も健在だったのであろう。 そうすると、広常が源氏に対して「公私ともに三代の間、下馬の礼を取った事が無い」 と言ったというのも頷ける。
  弟でさえ家人の枠に閉じ込め、武家社会に於ける自己の絶対的権威の確立を大きな政治課題とする頼朝にとって、広常はどうしても抹殺しなければならない存在だったのである。

  上総氏の滅亡は頼朝の意図した通り、彼を頂点とする鎌倉政権の家人組織に一応の安定をもたらした。  そして坂東武士団の前途には、この鎌倉の政権を支えながら、その方向を模索していくという新しい局面がなされる事になる。

 上総権介広常誅殺の地とされる朝夷奈切通し大刀洗付近
切通し・石塔
朝夷奈切通し
梶原神社・景時供養塔  (鎌倉市・梶原)
梶原・御霊神社
梶原景時・供養塔

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.15(07:00) 263

**千葉・上総一族

**千葉氏の決断

    石橋山合戦に敗れ安房に上陸した頼朝は、従者・藤九郎盛長を千葉庄の常胤の許に遣わし参向を求めた。  
  「吾妻鑑」によると、常胤は盛長の口述を聞くばかりで、暫くは言葉を発しなかった。  傍らにいた嫡子胤正と胤頼が業を煮やして 「 このような義挙に最前の召しを受けたからには、猶予に及ぶこともありますまい。 早速、了承なさるべきでしょう 」 と異口同音に述べると、常胤はようやく 「 召しをお受けする事に、もちろん異議があるものか、源家中絶の跡を興しになられる事に感涙があふれ、言葉に詰まっただけのことよ 」 と答えたという。

   在地の危機的状況からみて、千葉氏の頼朝参向は予定の行動と見るべきだろう。  常胤が敗残の謀反人である頼朝に参向した事は、確かに大きな賭けかも知れないが、これはかつて義朝の家人であったから源氏に忠節を尽くそうとしたという単純な理由ではなく、千葉氏自身の直面する深刻な在地の状況を打開するための、主体的な行動として捉えなければならない。

   というわけで、千葉氏は形として頼朝の挙兵に呼応したが、実は自ら蹶起したという方が正しいのかも知れない。
  治承四年九月十三日、胤頼と常胤の嫡孫成胤が、平家方人として大きな勢力を持っていた下総目代を急襲したしたのは、まさにそのあらわれにほかならない。  常胤は国衙を掌握する事によって、下総国内に割拠する同族に対して千葉氏の絶対的優位を主張し、同時に国内の親平氏勢力に公然と挑発をしたのである。
  翌日には、匝瑳北条の内山館にいた藤原親正は配下の武士団に檄を飛ばし、すぐさま千葉氏討伐に向かった。  平忠盛の婿として平氏の権力を背景に在地支配を進めてきた親正にとって、千葉氏の反乱は放置できない。  親正の軍一千余騎を構成したのは、前述した通りすべて千田庄及び操作北条に分立した両総平氏の一族であった。

   内山館を出発した親正の軍は武射の横路を越え臼井の馬渡を渡り、電光石火の勢いで千葉庄に向かった。  これを迎え撃っのは、常胤の嫡孫・加曾利冠者成胤である。  常胤をはじめとする千葉氏武士団の本隊は、頼朝を迎えるために上総に行っていたからである。  藤原親正が、千葉氏討伐の軍を起こすのは常胤の予想するところであったろうが、目代を討った翌日に親正の軍が早くも攻撃を仕掛けたのは、大きな誤算であったと思う。

   千葉氏の館は、現在の中央区亥鼻辺りの高台に想定されている。   台地上からは千葉市街と東京湾が一望できる交通の要衝に位置する。

   千葉氏の所領規模については先に述べたが、千葉庄内の各地に常胤の庶子や孫が分立しして未墾地の開発を進めていたようで、三男の胤盛は武石郷(花見川区)、四男の胤信は田辺田郷(若葉区)、嫡孫成胤は加曾利郷に館を構えていた。 また、常胤の弟の椎名五郎胤光も千葉庄椎名郷(緑区)にいて、千葉氏の武士団に属していた。 しかし、成胤が千葉館の留守に残ったほかは、すべて上総に出払っていたらしい。 そこを親正の一千余騎の軍が襲い、千葉庄は蹂躙されるに至ったのである。  成胤は、使者を上総に送って常胤に来援を請うとと共に、僅かの手勢を率いて親正に合戦をを挑んだ。  弱冠十七歳の成胤は敵中を駆け抜け、親正軍を上総方面に引きずる形で力戦したという・・・・。しかし、劣勢の成胤の軍は敗色濃厚となったが、折よく頼朝を迎えに出だ上総介広常の軍が合流し難を逃れたが、重代相伝の堀之内を敵軍に蹂躙されてしまったのである。 

   この千葉成胤と藤原親正の合戦は「吾妻鑑」に詳しい記述がないために、ほとんど注目されなかった事実であるが、その意義は鎌倉政権樹立にとって大きな出来事であった。
藤九郎盛長(安達)邸旧跡   (鎌倉・長谷)  甘縄神明社付近? 
盛長邸・石塔
下総国・郡庄図  12世紀後期頃
下総国・郡庄図
千葉氏系図 12世紀後期
千葉氏系図

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.08(19:00) 262

**千葉・上総一族

**千葉常胤の子息 (続)

    日胤は千葉常胤の何番目の子息か不明であるが、他の六人の男子はすべて常胤の正室の子である事が判っている。  常胤が大番役などの為に上洛した際に、京都の女性との間にもうけた子と思われる。
 
    胤頼は常胤の六男で、弱冠の頃から京都に上り滝口の武者となって御所の警備にあたった。  滝口に仕えるには、皇族とか有力貴族の推挙が必要である。  千葉常胤は、佐竹氏と相馬御厨の領有を争った時、右大臣の藤原公能に伊勢神宮の祭主に口をきいてもらった事実があるので、胤頼の滝口勤仕も公能の子の徳大寺実定あたりが挙申したのではないかと考えられている。
 滝口に祇候した胤頼は、ここで遠藤左近将監持遠という武士と面識を得たらしい。  遠藤氏は摂津国渡辺党の武士団で、この当時、代々が滝口の武者として都に出仕しており、一族の若者が胤頼と同輩というような関係が成立する・・・・・。
   胤頼の人となりを見込んだのであろうか、持遠は自分の仕える上西門院(鳥羽天皇皇女・統子内親王)に胤頼を推挙した。

    上西門院の母障子(待賢門院)は、千葉氏の中央における庇護者である徳大寺家の出であり、そんな事も幸いして胤頼は上西門院の侍となり、その御給によって従五位に下に叙せられたのである。

**怪僧・文覚

   高雄の神護寺再興の為庄園の寄進を後白河に迫って伊豆に配流され、そこで頼朝に平家討滅を進めたという文覚は、遠藤持遠の子で、出家する前は遠藤武者盛遠といって上西門院に仕える侍であった。   胤頼は、持遠や上西門院との関係から文覚とも親しくなり、やがて師と仰ぐようになった。  平氏を仏敵と見る文覚と、下総で平氏の威を借りる目代や藤原氏等の在地勢力に存在を脅かされている千葉氏の一員としての現実的体験とが、平氏討滅という共通の意思で結ばれた側面も認められると思う。

   配流中の文覚が度々蛭ヶ小島の頼朝を訪ねて挙兵を促したが、頼朝は慎重であった。  当時の政情に詳しい慈円の書に、正式な院宣は出ていなくとも、文覚の行動の背景には院や藤原光能の意思が働いている可能性が強いことを認め、頼朝に挙兵を踏み切らせたのは以仁王の令旨よりも、むしろ文覚の勧告が大きかったという説もある。

   「吾妻鑑」に、京都大番役を果たした後、以仁王の挙兵の為官兵として動員され、帰京が遅れていた千葉胤頼と三浦義澄が伊豆北条の頼朝の許を訪れて余人を交えず密談したという記事があるが、この内容は早速、胤頼から文覚の許に知らされたと思われる。
  それが文覚の奔走に結びつく行動だとすれば、鎌倉政権樹立における胤頼の功績はかなり大きかった事になる。 それは平治の乱以後の千葉氏の置かれた切迫した状況を背景とするものであった。

    それにしても以仁王の挙兵に際し、官兵として宇治合戦に動員された胤頼の心中は察するに余りある。 自分の意思とは正反対の行動をとらざるを得ない状況である、しかも敵の中には、兄弟の日胤がいる。  在京することの多かった胤頼にとって三井寺にいた日胤は心強い存在であり、日頃から密かに連絡を取り合っていたと思われる。
 日胤の戦死を聞いた胤頼は、さらにはっきりと平氏打倒の意思を固めたに違いない。  伊豆北条における頼朝との密談の際、胤頼の弁舌は相当に熱のこもったものであったろう・・・・・。

   下総に戻った胤頼は、父常胤に都の状況や後白河院の意思を述べ、頼朝の挙兵への参画をを求めたはずである。  日胤の死は常胤の心を大きく動かした事であろう。 千葉氏にとってこの胤頼と日胤の存在は、在地における危機的状況とともに、頼朝挙兵への加担を決する上で大きな背景をなしたのである。
千葉氏略系図 12世紀~
千葉氏系図
下総国・郡庄図  12世紀
下総国・郡庄図
神護寺再興・尽力 文覚上人鎌倉邸跡  鎌倉大御堂付近
文覚上人邸

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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.05(07:00) 261

**千葉・上総一族

**千葉氏の展開

    治承四年(1180)九月、頼朝への参向を決定した千葉氏が手始めに、平家方で在地に大きな勢力をもつ下総国の目代を国府に討った事を聞いた藤原親正は、匝瑳北条の内山館から一千騎余りの軍を率いて千葉氏追討に向かった。  この時親正に従った武士は、すべて鴨根三郎常房および原四朗常宗の子孫で、千田庄・匝瑳北条に苗字地を持つ武士団であった。

   当時の東国の庄園は、都から遠いために在地領主である下司の権利が強く、荘園領主である中央の貴族や寺社は、年貢さえ挙げてくれればそれで満足し、現地に直接的な支配を及ぼすことは殆どなかった。 親正の場合は、祖父親道以来、着実に築き上げた在地支配権と国家の兵馬の権を掌握した平氏の力を背景に、在地武士団を直接自己の軍事統率下に組織していたのである。

   こうした状況の下で、千葉氏の立場はますます悪化していったと思われる。  千葉氏が源義朝に相馬御厨の下司職を奪われたにもかかわらず、その配下に属したのも、直接的には藤原氏の勢力拡張の動きに対する為であったと見られるのである。  しかし、それも義朝が反逆者として逃亡すると、かえってマイナスに作用する事になる。
   平家と結び、下総藤原氏とも親しい関係にあったとみられる常陸の佐竹氏が、藤原親盛から相馬御厨の権利を公に譲られたとして、その在地支配権を主張するに際して、千葉常胤を 「大謀反人源義朝の年来の郎党」とあげつらっている事に現れている。

**千葉常胤の子息

   頼朝の挙兵に際し、千葉氏が積極的にこれに荷担した背景には、これ迄レポートしてきたような下総の在地状況を最も重視しなければならないが、その他に直接的・具体的契機として、常胤の子息で近江園城寺の僧となっていた日胤と六男胤頼の行動を挙げる事が出来る。

   治承四年(1180)五月、謀反の企ての発覚を知った高倉宮以仁王は、三条高倉の館を脱出して三井寺に逃げ込み、反平家の衆徒たちはこれを迎えて守護した。  その衆徒の数は七十人ばかりで、律上房と尊上房の両人がリーダー格であった。 この律上房こそ、千葉常胤の子日胤なのである。
  日胤はその後、興福寺の大衆を頼んで南都に逃れた以仁王に従っていたのだが、宮が平氏の追討軍のために加幡河原(京都・山城)で討たれた後、敵の中に入り戦死したと伝わる。

    日胤は、伊豆配流中の頼朝とも密かに連絡を取っていたらしい。  (吾妻鑑)
 頼朝は治承四年五月、平家追討の祈願所を日胤に送り、これを受けた日胤は一千日を目標に石清水宮寺に参籠していたところに、以仁王の三井寺入りの情報を得て、頼朝の祈願書を以仁王に届け、ついに討ち死にを遂げたという。

   この記述は、日胤が石清水宮寺に参籠した日数に疑問が残るが、日胤が後に述べる胤頼などを通じて頼朝に中央の情勢、特に寺社勢力の反平家的状況を伝える事で頼朝を挙兵に踏み切らせる大きな力となった事は想像できる。
石清水八幡宮本殿 (京都・八幡市)
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石清水八幡宮・一の鳥居
石清水八幡宮
下総国・郡庄図
下総国・郡庄図

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