FC2ブログ

タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.01.30(08:00) 278

**戦国大名・北条一族

**宗瑞・房総進出へ

   三崎城を攻略した後、宗瑞は三浦郡と江戸湾を挟んで対岸に位置する上総国に渡海し、東上総の藻原(茂原市)に侵攻している。  さらに、上総真里谷武田氏による下総小弓原氏方の真名城(茂原市)攻略に参戦している。・・この年、宗瑞の家臣伊那盛泰が江戸湾沿いの品川妙国寺(品川)に禁制を出しているから、宗瑞は上総から江戸地域にかけて、海上から軍事行動をした事が見える。
  当時、上総国では真理谷武田氏と小弓原氏との抗争が展開されており、武田氏は真理谷城(木更津市)を本拠に、西上総一帯を領国としていた。  一方の小弓原氏は、下総千葉氏の執権で、下総国の江戸湾沿いの南端小弓城(千葉市)を本拠に、下総国の江戸湾沿いから上総国北部にわたって領国を展開していた。 両勢力は上総国北部の領有をめぐって抗争していた。 宗瑞の上総への侵攻は、いずれも真理谷武田氏を支援してのものであった。  宗瑞は相模経略後に、この抗争に介入し、そのまま対岸の上総に進出していったのであろう。

   真理谷武田氏は、当主信清の姉妹が三浦義意の妻で三浦氏の姻戚であったので本来ならば三浦氏支援の立場にあったのだが、三浦氏を滅亡させた宗瑞をその直後から味方につけて、小弓原氏との抗争に引き込むというのは、三浦氏滅亡の前後に真理谷武田氏の政治的立場に変化があったか、小弓原氏との抗争を優先させたか、いずれかであろう。
 いずれにしても宗瑞は、三浦氏を滅亡させた直後に真理谷武田氏と盟約を結び、その支援を行って上総に進出していった。  その結果として、藻原(茂原)近辺の二宮荘の領有を遂げたようである。 宗瑞が同荘を獲得したのは、そうした真理谷武田氏への援軍の結果であろう。 おそらく宗瑞は、小弓原氏から二宮荘を直接、経略したため、真理谷武田氏からも領有を承認されたのであろう。

**伊勢氏の代替

   永正十五年(1518)4月に、宗瑞のライバルともいうべき扇ヶ谷上杉建芳が死去し、その家督を養子朝興が継承した。 建芳は永正の乱における一方の主役を勤め、足利政氏・義明親子を支援していたが、死去を契機に政氏は政治的隠遁を遂げ、永正の乱そのものは終息を見せた。
  しかし、政氏の政治勢力の後継者である義明は、真理谷武田氏の要請を受け上総に入り、小弓城に入部して、小弓公方家を創出した。 これによって上総は古河公方足利氏(高基),小弓公方足利氏(義明)との抗争という、大きな政治的枠組みのなかで展開される事になった。  

   どうやら宗瑞はこの時期に隠居したらしい・・・・・、伊勢氏当主として記録に残るのは永正十五年2月が最期であり9月には、嫡子氏綱が当主として活躍しているから、その間に宗瑞の隠居が為されたと思われる。
 この時期に、上杉建芳の死去、小弓公方足利氏の成立という宗瑞をめぐる政治状況は大きく変化しているから、隠居はそうした政治状況の変化を受けて行われたと考えられる。 その契機として最も可能性の高いのは、やはり小弓公方足利氏の成立であろう。 宿敵扇ヶ谷上杉氏との和睦が成立するのも足利義明の周旋によると考えられる。 <                   
  *この時期に宗瑞─氏綱の文書発給体系の改革を行ったと考えている 

   宗瑞から氏綱への代替りは、小弓公方足利氏の成立に伴うものであったと考えて間違いないであろう。  宗瑞は長年にわたって扇ヶ谷上杉氏と抗争をしており、しかも相模一国を経略したという経緯を有していた。  小弓公方足利氏を中心とした新たな政治勢力の形成にあたって、そうした経緯を有する宗瑞がそのまま参加する事は、扇ヶ谷上杉氏からは受け入れられず、障害になっていたのではないだろうか。 そのため、扇ヶ谷上杉氏と激しく抗争した宗瑞は後景に退き、新たな当主のもとで小弓公方足利氏の勢力参加し、同時に扇ヶ谷上杉氏との和睦を成立させたのではないか、伊勢氏と扇ヶ谷上杉氏の和睦は、互いに新たな当主同仕によって結ぶ事が出来たのであろう。
関東管領・扇ヶ谷上杉氏邸宅跡     鎌倉・扇ヶ谷
扇ヶ谷管領屋敷跡
小田原城・掘割 大手門     小田原市
DSCN5650.jpg
小田原城天守    城内より
DSCN5669.jpg

次回へ

令和二年・庚子・戊寅・壬申
スポンサーサイト




鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.01.25(07:00) 277

**戦国大名・北条一族

**相模一国・経略

 永正九年(1511)になると、山之内上杉氏において可諄の家督をめぐる内訌が勃発し、これが古河公方足利氏の内訌とも結びつき永正の乱は大きく展開した。 そして再び、山之内上杉氏(憲房)と扇ヶ谷上杉氏(建芳)との抗争が始まった。  宗瑞はこの内訌の隙をついて建芳との和睦を破棄し、再び建芳の領国への侵攻を展開した。
  最初の標的は、建芳方の中郡における最大の軍事拠点である、三浦道寸の領有する岡崎城(伊勢原・平塚市)であった。  前々年の道寸による中郡住吉要害攻略から、建芳方の軍事拠点として道寸の所領内に置かれた城と見られる。  それは宗瑞に対する押さえの意味があって、同城が道寸の持城である事から、建芳の中で道寸が宗瑞への押さえの役割を担うようになっていた。  岡崎城には道寸の嫡子義意が在城していたとみられるが、宗瑞は八月の初めには攻撃を開始している。 その結果、敗れた義意以下は、三浦郡西端にある住吉要害(逗子市)に後退した。 宗瑞はこれを追って鎌倉に進出している。

   これにより宗瑞は、中郡・東郡の経略に成功した。  さらに、その年の暮れには武蔵国久良岐群本目(横浜市・本牧)の領主平子牛房長に、軍勢の狼藉禁止などを保証しているから、久良岐群迄その勢力を広げていたと思われる。
  翌年には鎌倉近辺で三浦道寸と激しく戦い、その兵火によって藤沢の遊行寺が焼失している。 合戦は宗瑞が勝利したようで、道寸を住吉要害から追い、本拠の三浦郡三崎城に後退させたらしく、宗瑞は間もなく三崎城を攻撃している。  住吉要害は道寸の弟道香が守備をしていたが、宗瑞は同要害の攻略に成功し、城主道香は自害したという。

   こうした状況に対して上杉建芳による反撃を行い宗瑞に圧力を掛けようとしたが、余り効果は無かったようだ。  しかし、三浦氏の頑強な抵抗と扇ヶ谷上杉氏の反抗によって、三崎城の攻略は簡単ではなかったようだ。  さらに、三浦氏支援のために建芳の養子上杉朝興が大軍を率いて中郡に侵攻したが、宗瑞はこれを迎撃し、江戸城に撃退させた。  宗瑞は余勢をかって、そのまま三崎城攻撃に転じ、ついには三浦氏を滅亡させた。  ここに宗瑞は三浦郡を奪い、相模一国の経略を果たした。
北鎌倉・明月院付近・・・・当時関東管領・山之内上杉氏の邸宅跡
明月院前

次回へ

令和二年・庚子・戊寅・丁卯

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.01.20(08:00) 276

**戦国大名・北条一族

**宗瑞・相武へ侵攻

   永正五年(1508)までの軍事行動は、ほぼ今川氏の軍事行動の一環であったとみられるが、そうした性格が一変されるのが、翌六年からの相模国守護・扇ヶ谷上杉健芳と関東管領・山之内上杉顕定への敵対を契機としていた。 これがこの後、宗瑞が相模経略を推進していく契機となった。 

   独自の軍事行動を展開し、両上杉氏領国への侵攻に専念していき、もはや今川氏の軍事行動への参加は見られなくなる。 この両上杉氏への敵対も、当時の関東の内乱状態と密接に関連した行動であったと思われる。

   関東では、長享元年(1487)以来、長享の乱が展開されていたが、永正二年(1505)、扇ヶ谷上杉氏の事実上の敗北で終息した。  しかし、翌年三月、今度は古河公方足利氏の内訌(政氏と高基の抗争)を中核とする永正の乱。  翌年、越後守護代長尾為景の下克上によって守護上杉房能は敗死し、越後においても内乱が展開された。 しかも敗死した上杉房能は、関東管領山之内上杉可諄の実弟であった為、可諄がそれに介入し、関東の内乱は越後の内乱とも連動して展開されていった。 そして永正六年、上杉可諄は長尾為景追討のため越後に出陣するが、対する長尾為景は関東の与同勢力に蜂起を促し、これに呼応したのが宗瑞と長尾景春であった。

   宗瑞がなぜ両上杉氏に敵対するに至ったかは定かではないが、室町幕府は長尾為景とそれに擁立された守護上杉定実による越後支配を公認し、出羽の伊達尚宗に定実の救援を命じているように、可諄の越後出陣を認めていなかった。  宗瑞は、幕府関係者と密接な関係を有していたから、こうした幕府の意向もその背景にあったとみられ、幕府の態度を見極めたうえで、両上杉氏への敵対を遂げたと思われる。

   伊豆に乱入してからすでに十六年が経過し、宗瑞は伊豆・相模西部を分国とする伊豆国主として、関東政界のなかに確実な位置付けられていたものと見られる。  分国をめぐる甲斐武田氏・山之内上杉氏との対立も、そうした関東における政治的対抗関係に規制されていたのであり、、関東の内乱状態の激化を受けて、宗瑞は分国周辺の政治的対抗関係の解決の延長として、自らの領国拡大というかたちに打ってでたとみられる。  そして、以後における相模経略の推進は、同時に今川氏からの実質的な政治的自立をもたらし、まさに関東における政治勢力の一員として、自己を確立していった。

   永正六年(1509)、上杉建芳に敵対した宗瑞は同寺にその領国に侵攻し、中郡において高麗寺要害(大磯町)と住吉要害(平塚市)を攻略して武蔵に進出、建芳の宿老上田蔵人を味方に引き入れ、その本拠、武蔵神奈川の権現山城(横浜)に蜂起させ、さらに建芳の本拠武蔵江戸城近辺まで侵攻している。
関東管領・山之内上杉氏邸跡     (鎌倉・山之内明月谷)
明月谷・山之内
亀ヶ谷坂切通し    山ノ内と扇ヶ谷を結ぶ・・・・・・
山之内~扇ヶ谷切通し

次回へ

令和二年・庚子・戊寅・壬戌

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.01.15(13:00) 275

**戦国大名・北条一族

**(続)戦国大名による検地(日本初)

   北条氏による検地の史料もう一点は、永正三年正月の遠山直景寄進状の中に見える。  宿老の遠山直景が、本領の西郡松田郷惣領に所在した延命寺に、同郷内の土地を寺領として寄進したもので、田畠の面積とそれに対する貫高が明記されており、それは田一反につき500文、畠一反につき176文となっている。  この数値は、その後に於いて北条氏が検地の際に採用している貫高数値(田一反五百文・畠一反百六十七文)にほぼ一致する事から、この寺領寄進は、検地の施行の結果をもとに行われたと考える事が出来る。

   このように、永正三年の検地の施行が確認されるのは、宮地・松田郷と何れも西郡の地であり、同郡の検地はおよそ西郡一帯にわたって施行されたと考えられる。  検地は、郷村の田畠面積を調査して、田畠ごとに基準貫高を乗じてこれを貫高で表示し、郷村の高を決定するものであった。 
  この高から、様様な控除分などが差し引かれ、郷村の年貢高や公事高が決定され、あるいは家臣の知行高が決定される事から、検地は、郷村の年貢高・公事高、家臣の知行高を決定する為の基準となる政策であった。

  この永正三年に西部において行われた検地は、先に述べたように北条氏の検地施行の事例としては初見のものであるが、実際に最初の検地であったわけではない。  しかし、この時の検地は、宗瑞にとっては新領土である西郡に対し、獲得してから数年後に全域に渡って一斉に行われたものとされる。  その意味で、新領地に対して一斉的に施行された領域検地としての性格を持っている。  別の言い方をすれば、宗瑞は新領地における郷村の貫高を統一的に決定して年貢高や税額を決定する必要があり、検地はそのために行われた。
  宗瑞は、これによって西郡の諸郷村を完全に把握し、名実ともに領国下に納めるに至ったのである。 この時の検地は、北条氏にとって、一定地域を対象にした領域的な一斉検地として、最初のものと見ていい。  これは戦国大名全体を見渡しても、最も早い事例となる。 少し大げさにいえば、現時点においては日本で最初に戦国大名による統一的な検地が行われたのが、この西郡であった事になる。
早雲禅寺山門    箱根湯本  門の外・旧東海道  
DSCN5516.jpg
早雲禅寺・本堂(三つ鱗紋)    箱根湯本
DSCN5525.jpg
早雲禅寺付近を流れる早川・・・・・台風後の速い流れ     箱根湯本
台風後の早川

次回へ

令和二年庚子・戊寅・丁己

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.01.10(07:00) 274

**戦国大名・北条一族

**日本初の検地

   宗瑞は大森氏より獲得した小田原城を拠点に西郡支配を行ったことは間違いない。  おそらく、小田原城は本城韮山城に対する支城とされ、そして西郡の領域支配や軍事力を担う在城衆が編成されたとみられる。  これにより宗瑞の家臣団は、本城韮山城を拠点とする韮山衆というべきものと、支城小田原城を拠点とする小田原衆というべきものと、宗瑞の側近家臣から構成される御馬廻衆などに編成されたとみられる。

   当時の小田原衆などの構成についての詳細は判らないが、家臣中最も高い家格を有し、西郡の中では卓越して高い知行高にある苅野荘を一円的な所領としていた松田氏が、在城衆の筆頭として存在していた事は間違いないだろう。 さらに、「役帳」 段階においても小田原衆として編成されている家臣のうち、西郡に本領を有する板部岡氏・南条氏等の譜代家臣、国人系松田氏・篠窪氏などの西郡出身の家臣らをはじめとして、伊豆・西郡に本領を有する家臣らも、すでに宗瑞の段階から小田原衆に編成されていた可能性が高い。

   さらに「役帳」の段階では、他の衆に編成されているもので西部に本領を有する、遠山氏・島津氏・小幡氏(以上江戸衆)・太田市(松山衆)など譜代の有力者も、やはり宗瑞の時期に小田原衆に編成されていた可能性が高い。  このうち遠山氏は、西郡の北部に本領松田郷惣領分を中心に所領を有する事から考えると、かなりその可能性は高いとみられる。 おそらく当時の小田原衆は、松田氏、遠山氏といった宿老が城将の地位にあって、在城衆を軍事的に指揮していたと考えられている。

   この後、宗瑞は相模の中部・東部などを相次いで攻略していくが、そうした宗瑞の領国の拡大とともに、小田原衆構成者もその都度変化していくことになる。 とくに中部については、在城衆の編成をともなう支城が取り立てられなかった事から、中部出身の家臣、中部に本領を与えられた家臣などは、当初、小田原衆として編成されたとみられる。  次代氏綱によって小田原城が北条氏の本城とされると、さらにその構成は大きな変化を遂げる事になる。

   宗瑞の領国支配において特筆されるのは、永正三年(1506)における検地であろう。 これは北条氏の検地として、最初に確認される事例である。 この検地に関する史料は、わずか二点が見られるに過ぎないので貴重である。
  一点は、「役帳」における記載であり、小田原衆南条右京亮綱長の本領西郡宮地(湯ヶ原町)81貫900文について、「此内廿三貫三百文有物、丙寅検地辻」 という注記がみられている。  「役帳」 が作成された永禄二年(1559)以前の「丙寅」 年は永正三年にあたり、「有物」は増分の意味である。  この注記は、宮地における南条氏の知行高81貫文余りのうち、23貫300文は増分で、検地によって打ち出された「辻」(合計)である事を示している。

  すなわち、同地における南条氏の元来の知行高は58貫600文であったが、永正三年検地により、増分23貫300文を加えられて、81貫900文になった事が判る。  この事から、元来の知行高が確定されたときに一度目の検地があり、今回の検地は少なくとも二度目以上の検地であった事が推定される。  因みに一度目の検地は、おそらく同地が宗瑞の支配に帰し、南条氏に所領として与えられた際に行われたのではと考えられる。
戦国北条氏・初代・次代系図
戦国北条氏初代期
早雲(宗瑞)禅寺三門   箱根湯本   
早雲禅寺
伊勢宗瑞(北条早雲)墓所   箱根湯本・早雲寺
早雲・墓石

次回へ

令和二年・庚子‣戊寅・壬子

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.01.05(09:00) 273

**戦国大名・北条一族

**変化する相模西部の領主

   相模西部における、長享の乱以降の動向については明確ではないが、おそらくは内乱の過程で多くは没落し、所領は扇ヶ谷上杉氏や大森氏の支配に帰し、さらに大森氏の没落後は、宗瑞の支配に帰したとみられる。
 「役帳」 において、松田氏の本領・松田郷・惣領分138貫文が遠山綱景の本領で、他に庶子分30貫文が北条宗哲、西分14貫文が松田康隆の所領となっている。  また、河村氏の本領であった河村郷(山北町)は、219貫文が松田康隆の本領で、他に50貫文が田中助八郎の所領となっている。   

*松田康隆については後述する

   遠山氏に付いては明らかではないが、室町幕府奉公衆の美濃遠山氏の一族の出身で、それが堀越公方奉公衆を経て宗瑞に仕えた、という経緯が推測される。  宗瑞の家臣として最初に確認されるのは、永正三年にみえる遠山隼人佐直景である。  宗瑞の伊豆乱入以来から十年も経たない事であるから、彼が北条家臣・遠山氏の初代にあたると考えている。
   一方の松田康隆は、宗瑞の西郡進出にあたって、大きな役割を果たしたことは、軍記類で広く伝えられている。 松田氏はその功績によって宗瑞から河村郡を与えられ、同所を本領としたとみられる。 いずれにせよ、他の知行人をみても、同郷が大森氏没落後に宗瑞によって収公され、改めて家臣らに配分された事は間違いないと思われる。

   宗瑞の西郡進出以前から同郡に本領を有していた家臣、すなわち西郡進出に伴って宗瑞に家臣化した、いわゆる旧勢力出身の家臣と見られるのは、松田康隆の他に篠窪(大井町)を本領とする篠窪氏、加茂宮郷(小田原氏)を本領とする加茂宮氏が確認される程度である。 
  松田康隆の総知行高は289貫文余、篠窪一族の総知行高は268貫文余という具合に、西郡全体の知行関係から見ると、その比率は極めて低い。このことは宗瑞の西郡進出以降、そのまま存続した領主は殆どいなかったことが推される。

   これに対し、板部岡・南条・藤田・石巻・桑原・遠山・島津・小幡・太田・笠原氏など、西郡進出以前からの譜代家臣の本領の存在が多く確認される。  すなわち、宗瑞は群域の大半を収公して多くを直轄領としたほか、伊豆進出以前からの譜代家臣、伊豆進出以後に家臣化した堀越公方奉公衆や伊豆出身の家臣らに、新恩地として与えたとみられる。   
  大森氏の没落、宗瑞の西郡進出は、西郡における領主層の総入れ替えともいうべき、大規模な変革をもたらしたと言えよう。
関東管領・扇ヶ谷上杉邸跡・・・・(鎌倉市・扇ヶ谷)
扇ヶ谷管領屋敷跡
小田原城・天守・・・JR小田原駅付近より
小田原城・天守
旧東海道・箱根登山鉄道・東海道並走地点・・風祭付近
旧街道・登山鉄道・東海道の三線

次回へ

令和二年庚子・戊寅・丁未

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
2020年01月
  1. 戦国北条氏・五代(01/30)
  2. 戦国北条氏・五代(01/25)
  3. 戦国北条氏・五代(01/20)
  4. 戦国北条氏・五代(01/15)
  5. 戦国北条氏・五代(01/10)
  6. 戦国北条氏・五代(01/05)