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戦国北条氏・五代

2020.02.29(10:30) 284

**戦国大名・北条一族

**北条への改姓

   氏綱は、大永三年(1523)に、名字を「伊勢氏」から「北条氏」に改めている。  北条名字は、言うまでもなく鎌倉幕府執権北条氏に由来するものであり、北条氏は代々相模守に任官されて「相模太守」と称された。  氏綱が着目したのは、この「相模太守」北条氏としての政治的立場であった。

   宗瑞は、関東の政治勢力からは「他国の逆徒」と称されて、関東に於いては、よそ者の侵略者として扱われていた。  伊勢氏は小田原への本拠移転に伴って、伊豆国主から相模国守へと転換したが、正当な相模国守として同国守護職を継承する扇ヶ谷上杉氏が存在したため、氏綱の相模国守としての政治的立場は、周囲からは容易に承認されなかったのである。
  その為氏綱は、国内の領主・民衆の精神世界を支配する有力寺社の造営事業を進め、外護者としての立場を確立して、実質的な相模国守としての政治的立場を獲得した。 さらに、それを踏まえて北条への改姓を行い、前代における相模の正統な支配者であった鎌倉北条氏に、自らを擬した。

   上杉の名字は関東「副将軍」の名字であり、その名字に対抗しうるのは、前代における日本の「副将軍」の名字である北条の名跡であった。  氏綱はその名跡を継承する事によって、扇ヶ谷上杉氏に対抗し、「他国の逆徒」  論に対抗しうる、自らの相模支配の正当性を図ったとみられる。  こうして、伊豆国主伊勢氏は、相模国守北条氏へと転換を遂げ、戦国大名小田原北条氏が成立したのである。

   その後、従五位下に叙任され、室町将軍家の相伴衆にも列せられ、国家の身分秩序体系の中にも明確に位置づけられた事を示している。 さらに、氏綱の領国支配権は、国家的にも承認され、周辺の今川・武田・上杉らと対等の「大名」としての家格・身分を獲得したのである。

**武蔵をめぐる攻防

   大永年間(1521~28)に入ると、氏綱はいよいよ両上杉氏領国への進出を開始した。   そこで武蔵小机領(横浜・川崎)小山田荘(町田市)を経略し、相模・津久井地域の内藤氏、武蔵由井領(府中市)の大石氏等を服従させていた。   
  これに対し、当時は武蔵江戸城を本拠としていた扇ヶ谷上杉朝興は、対立関係にあった古河公方足利高基方の山之内上杉憲房に和睦の締結を申し入れ、同時に今川・北条両氏と対立関係にあった、甲斐の武田信虎との結びつきを画策していた。
  しかし、氏綱は上杉朝興が以前の本拠であった武蔵川越城に着陣していた隙をついて、多摩川を超えて江戸地域に侵攻し、朝興の重臣で江戸城の留守を守っていた太田資高を内応させ、同城を攻略した。
 


    江戸城は、関東の流通における主要幹線とも云うべき、隅田川・荒川・入間川の出口の一角に立地する要地にであった。 その為、同城の攻略は、内海支配にもつながる性格を有していた。 この後、氏綱はこの城を拠点として武蔵北部・下総への侵攻を進めた。

   江戸城の攻略により、氏綱の勢力は一気に入間川まで北上し、さらに入間川を越えて、扇ヶ谷上杉氏の重臣であったが氏綱に内応した太田資朝が、古河公方足利氏奉公衆の渋江氏が立て籠もる岩付城(岩槻)を攻略。  さらに氏綱は関東足利氏一門の渋川氏の本拠蕨城(戸田市)を攻略し、上杉方の城主を降伏させている。
 こうした氏綱の鋭い進撃を受け、河越城に在陣していた上杉朝興は、上杉憲房が在陣する藤田陣(埼玉・寄居)に移り、憲房・信虎の援軍を得て反撃に転じ、まず河越城を奪還、続いて岩付城の太田資頼を破るなど反撃すると、氏綱は一時的に和睦を提案している。 
太田資頼祖・太田道灌邸跡・・・・現英勝寺(始祖英勝院)
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関東管領・扇ヶ谷上杉氏邸跡     鎌倉市・扇ヶ谷
扇ヶ谷

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戦国北条氏・五代

2020.02.25(07:00) 283

**戦国大名・北条一族

**鶴岡八幡宮の造営  

   氏綱の生涯の中で、領国拡大を別とすれば、その一大事業として挙げられるのは、鶴岡八幡宮の造営事業であろう。  造営は天文元年(1532)から始められ、同社別当職を管掌していた小弓公方足利義明の了承を得て進められた。
  造営にあたっては、両上杉氏をはじめ武蔵・上野や房総三ヵ国の諸領主にも、造営のための奉加が求められたが、当然の事ながら両上杉氏はこれを拒否している。 翌年四月から実際に造営工事が着手され、その費用の多くは、北条氏の領国内の領主や郷村から役として徴収された。 いわゆる臨時の税金によって賄われた。 また、造営には領国内の職人等が大量に動員されたほか、京都・奈良からも職人が招かれている。

   工事は上宮仮殿の造営から始められ、次いで上宮回廊やその他の諸宮の造営が進められた。 天文五年に仮殿への遷宮が行われて、いよいよ上宮正殿の造営が開始され、同九年に正殿遷宮、すなわち落慶式が行われた。  そして当日には下宮で、翌日には上宮で、氏綱をはじめ北条氏の一門・部将、京都下りの人々の隣席の許に、種々の神事が盛大に挙行された。 なお造営事業そのものはその後も続けられ、最終的に終了するのは、子の氏康の時代の事である。

   鶴岡八幡宮は言うまでもなく頼朝以来の東国の守護神であり、聖都鎌倉のシンボルであった。 八幡宮の造営は、同宮の外護者となる事を意味し、単に相模国守としての事業に止まるものではなかった。  氏綱が小弓公方足利義明から了承を得たり、領国外の諸領主に奉加を求めたのはその為である。

   また、本来これ等の造営を行うべき関東公方足利氏、関東管領山之内上杉氏、さらに相模国守護扇ヶ谷上杉氏等は、すでに何れもその力を持ち得なかった、両上杉氏と対決を続け、両氏にとって代わる事を意図していた氏綱は、この造営を主宰し、ほぼ独力で遂行する事によって、自らの行動とその立場の正統性の確立を図った。

   造営事業の最中に、氏綱は関東管領職に就任して、名実ともに両上杉氏との対決にあたっての正統性を獲得していたが。、造営の成就は、それを精神的世界からも補強したと思われる。
  氏綱は、上宮正遷宮から約半年後の天文十年夏ごろから体調を崩して、出家していたが七月十七日に死去した。 五十五歳の生涯であった。 箱根湯本・早雲寺に葬られ、鶴岡八幡宮の造営という一大事業を成し遂げた上での往生であった。
鶴岡八幡宮参道・「段葛」   鎌倉・雪ノ下
段葛
氏綱造営の基礎となる現在の本殿
八幡宮本殿
八幡宮・若宮
八幡宮・若宮

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戦国北条氏・五代

2020.02.20(08:00) 282

**戦国大名・北条一族

**(続)・虎の朱印状

   不当な公事賦課を行う者について、伊勢氏への直訴を認めているのは、この対策を実効性のあるものとする為の措置である。  それまでは、そうした家来たちの不正を訴える先は、彼らの主人であった。 しかし、主人たちは、自らの家来の処罰を十分に行わない事が多かったとみられる。
  伊勢氏は、それらの不正についての訴訟を直接に受付、対処したのである。 当然、それらは彼らの主人の頭越しに行われるから、これは結果として、彼らの家来に対する主人権を大きく制約することになる。
 これらの事に関わって重要なのが、伊勢氏が郷村に直接、文書を発給するという事である。 これまで戦国大名が在地の郷村・百姓に対して、直接に文書を発給する事は無く、その場合には家臣らが文書を発給していた。
    伊勢氏においても、公事賦課の命令が直接的には郡代や代官の文書によって行われていたのは、その為である。 それは文書発給における書札礼という文書の出し方についての作法に依拠していた。
  それまで大名の発給文書は、すべて大名の花押が据えられていたものしかなく、その場合、大名が目下の者に文書を出すのは、自らの家臣らに限定されていたからである。そうした書札礼における障壁を乗り越えるために、大名の人格を示す花押を用いず、その意思を示す印判を用いる事で、新たに郷村・百姓を受給対象とした文書様式が生み出されたのである。

    また、氏綱は「虎の印判」とほぼ同時に、「調の印判」という別の印判も使用し始めている。 これは「調」の一字を刻んだ2・5㌢の方形の朱印であり、主に職人‣商人からの公事徴発にあたって用いられたようだ。
  いわば「虎の印判」の職人・商人版と言えよう。

   氏綱は家督継承と同時に、こうした領国支配のための文書様式を整備したが、それは新しい領国支配体制が整えられたことを示すものであった。  そして「虎の印判」「調の印判」ともに、以後の歴代を通じてその滅亡まで使用される事になる。  特に「虎の印判」は、次第にその機能を拡大させて、禁制や家臣・寺社宛ての宛行状・安堵状・寄進状等にも用いられるようになり、まさに伊勢氏=北条氏の権力を象徴するものとなっていった。

   一方の「調の印判」は、次第にその機能を虎の印判状等に吸収されて、後には虎の印判状の紙継ぎ目印や、当主の花押代用印として使われるようになり、その性格が変化していく。
小田原城・銅門(あかがね)
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「虎の印判」・「調の印判」 氏綱期
虎・調の印判

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戦国北条氏・五代

2020.02.15(08:00) 281

**戦国大名・北条一族

**氏綱の登場

    宗瑞の嫡子氏綱は、長享元年(1487)の生まれで、母は正室小笠原政清の娘である。  元服の時期は不明であるが、凡そ文亀年間(1501~4)と推定されている。 当時、父宗瑞はいまだ今川氏の姻戚として、その政治力を構成する立場にあったから、実名のうち「氏」は、今川氏の当主で従兄弟の氏親から偏諱として与えられたとみられる。  仮名は、父宗瑞と同じく新九郎を称した。

   氏綱が、史料上に初めて現れるのは、永正九年(1512)8月で、家臣伊東氏に対し岡崎台(伊勢原市・平塚市)合戦の戦功を賞した感状であり、そこに宗瑞と共に連署している。  さらに、武蔵久良岐郡本目(横浜市本牧)の領主平子氏に与えたその本領についての制札でも宗瑞と連署している。
  この年は宗瑞の相模経略が本格的に展開された年であり、氏綱が両文書に宗瑞と連署している事は、相模経略において、氏綱が宗瑞の嫡子として宗瑞と並ぶ中心的な役割を果たしたことを示している。  氏綱は相模経略の展開に伴って歴史上に登場してきたのであった。  当時二十六歳である。

   次に、鎌倉三ヵ寺(建長寺・円覚寺・東慶寺)に対し諸公事を免除している(永正12年)。ここには氏綱の署判があり、宗瑞の花押が袖に据えられている。  これは氏綱が発給した文書内容に、宗瑞が保証を与えた事を意味している。  同文書の本来の発給者は氏綱であった事が判る。 それまで氏綱の署判は何れも宗瑞との連署でしか見られなかったが、ここで単独で文書発給が行われたいる。
  しかし、宗瑞が氏綱の発給文書の内容を保証している事は、氏綱単独の発給文書ではその効力が薄いと認識されていたと思われる。 これは、氏綱が宗瑞の嫡子として代理的に発給したものであった為と考えられる。  後に氏綱の家督継承によって本拠が小田原城に移される事を考えると、家督継承以前より同城に在城し、相模支配の一部を担っていた可能性は高い。

   ちなみに、小田原城下に伝心院という寺院があり、これは死去した宗瑞の妻南陽院殿を開基としている。  建立の経緯などは全く不明で推測の域を出ないのPだが、南陽院殿は氏綱の母と考えられており、その死去は、宗瑞の菩提寺として早雲寺が建立される以前の事であるから、早雲寺の建立以前に、すなわち家督相続以前に氏綱によって建立されたのでなかろうか。  そう考えると、宗瑞妻の菩提寺が早雲寺とは別に小田原に所在している事にも納得がいく。  その事が氏綱の家督相続以前の小田原在城の傍証となる。

**虎の印判

   氏綱は、永正十五年に宗瑞から家督を譲られたと考えられているが、その家督継承と共に登場してきたのが、「虎の印判」である。 この「虎の印判」は、上部にうずくまった虎を据え、「禄寿応穏」の印文を刻んだ朱印である。  初見は同年九月に発給された伊豆の代官山角某宛ての文書である。  ここでは年紀の上部に印判の右端がかかる程度に押捺されている。
 以後のほとんどは、印判の中央が年紀にかかって押捺されるが、新たに支配下に入った地域に対して初期に出されたものには、このように印影がよく見えるように押捺されているものが見られる。 同文書も印影がよくわかるように配慮されて押捺されているから、同文書は、同所に対して初めて出された「虎の印判」であったとみられる。
 このように印判が押捺されて出された文書を印判状という。

   郷村から直接に公事を徴発するのは郡代・代官の家来であり、おそらくそれらの中には、伊勢氏が命令した以上の徴発を行ったり、伊勢氏が命令していないにもかかわらず、その命令によると言って徴発する場合があったのであろう。  こうした状況に対し、負担する郷村側から強い不満が出されていた事は間違いない。
 伊勢氏はこうした事態を重く受け止め、役人による不当な公事賦課の排除を図り、その命令を直接、郷村に示す事としたと考えれる。

伊勢宗瑞(盛時)の妻小笠原氏娘(南陽院殿)の系図
戦国北条氏初代期
緒公事免除の対象となった円覚寺・東慶寺
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東慶寺第五代庵主・用堂尼墓所    鎌倉・山之内
五代用堂尼墓

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戦国北条氏・五代

2020.02.10(09:00) 280

**戦国大名・北条一族

**宗瑞の妻・子女つづき

   続いて、駿河・駿東郡の有力国衆の葛山氏の娘も妻の一人と伝わる。 彼女についての詳細は判らないが、宗瑞の子の一人に氏広があり、彼はのちに葛山氏を継承しているから、葛山氏の娘が宗瑞に嫁いだ事は事実とみていいだろう。 その彼が母の実家を継承することになったと考えられる。

   宗瑞の子女は、四男二女の存在が確認される。  男子は、氏綱・氏時・氏広・宗哲、女子は三浦氏員室(長松院殿)・青松院殿である。  長幼の順ははっきりしておらず、確かと見られるのは、長男が氏綱、四男が宗哲で、宗哲の姉に長松院殿、妹が青松院殿という事までである。  氏時と氏広の長幼の関係は不明である。

   長男の氏綱は、長享元年(1487)の生まれ、母は小笠原氏。 仮名は宗瑞と同じ新九郎を称し、北条氏二代当主となる。 氏時は相模東郡の拠点玉縄城(鎌倉市)の城主を務めた。  氏広は駿河国駿東郡の国衆葛山氏を養子継承した。 四男宗哲は、明応二年(1493)生まれと云われているが、はっきりしない。 幼少から僧界に身を置き箱根権現別当職を継承する。

   惣領氏綱については、本題として後述するとして、先ずは氏時からレポートする事にする。  仮名は新六郎を称し、兄氏綱の下で相模東部の玉縄城(鎌倉・大船)の城主を務めた。  享禄二年(1529)からその活躍が確認され、先ずは伊豆三島社護摩堂に、陣僧・飛脚役の免除や茶園等の領有について安堵している。 氏時がこれをどのような立場で発給したかははっきりしないが、こうした内容は、少なくも三島社支配を担当する立場にあったとみられ、具体的には伊豆郡代ないし韮山城主が考えられるが、そうとすれば、氏時は兄氏綱が小田原城を本拠とした後、宗瑞の本拠であった韮山城を継承し伊豆支配を担当した事が推定される。 こうした立場を考えると、氏時は宗瑞の次男で、氏綱とは同腹の兄弟であった可能性がある。 
  次いで玉縄城下の二伝寺(藤沢市)に対し、諸公事等の免除や竹木伐採禁止を保証している。 さらに鎌倉圓光寺の毘沙門天立像に、檀那として「北条新六郎氏時」の名が見える。  これらは、玉縄城主としての動向とみる事が出来る。 氏時が城主となった時期は不明だが、先の三島社への文書の発給時期などから、享禄二年の八月頃と推定される。  この頃、氏綱は扇ヶ谷上杉氏と抗争を展開していたが、多摩川から鎌倉が主たる戦場となっていたから、氏綱にとってはやや劣勢の展開にあった。  こうした状況を考えると、氏綱は、相模と武蔵の国境地域における重要な軍事拠点である玉縄城に弟氏時配置して、武蔵南部の防衛体制を強化したのであろう。  

   北条氏が玉縄城を築城したのは、鎌倉進出直後の永正九年(1512)頃、同城は、長享の乱の際に、山之内上杉氏が東郡における軍事拠点として構築した玉縄要害を再築城したものである。 そのころ、扇ヶ谷上杉氏の東部における拠点として、大庭要害(藤沢市)が存在しており、玉縄要害はこれに対抗して構築されたものであろうか。  同要害は明応三年(1493)に扇ヶ谷上杉氏方の攻撃によって落城している。 なお、大庭要害がどの時期まで存在したのかは明らかではないが、永正九年の宗瑞の鎌倉進出に際しては、軍事拠点としての同城の存在は見られないので、既に破壊されていたものと思われる。 玉縄要害の再築城は三浦氏の住吉要害に対抗してのものであるが、東郡周辺における軍事拠点としても機能した。   
  玉縄城主・北条氏時は享禄四年(1531)8月に死去している。  次代城主の為正の登場でその時期が推定される、氏時に実子が無かったようで、、城主の地位は、兄氏綱の三男為正に継承された。

    次に葛山氏広は駿河葛山氏の養子となり、その家督を継承した。  この事から、その母は葛山氏の娘であったと推測される。いわば母方の実家を継承したことになる。 宗瑞の子が葛山氏を継承した事は江戸時代から知られていたが、それが誰かはは判っていなかった。  各北条氏系図に宗瑞の子は氏綱、氏時、宗哲の三人しか記載されていなかったからで、氏時とする説や宗哲と説が長らく提示されてきた。 最近になって、それまで葛山氏ととして知られていた氏広が、北条氏出身であるという所伝が確認され、氏時や宗哲の動向から彼らによる葛山氏継承は想定できないとされ、葛山氏を継承した宗瑞の子とはこの氏広に推定できる。

   終りに、長松院殿・青松院殿は、先に触れたが、「幻庵姉」‣「幻庵妹」と記載されているから宗哲の同母の姉妹であった事が判っている。 姉の長松院殿は今川氏の宿老・三浦氏員に嫁いでいたが、今川氏の滅亡で離散したが、弟宗哲によって引き取られ余生を宗哲の許でで送っている。  また妹青松院殿については現在の所殆ど判っていない。
宗瑞の妻・子女系図  (伊勢新九郎盛時)
戦国北条氏初代期
玉縄城主・北条氏時より諸公事の免除等を受けた二伝寺  (藤沢市)
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玉縄城・鳥瞰図 (鎌倉市・玉縄)玉縄城鳥観図

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戦国北条氏・五代

2020.02.05(07:00) 279

**戦国大名・北条一族

**伊勢宗瑞死す

   氏綱の家督継承によって伊勢氏の本拠は小田原城に移されるが、宗瑞はそのまま韮山城に在存したとみられるが、一年後の永正十六年八月同城で死去し、波瀾に満ちた生涯を終えた。  享年は64歳であったと推測される。  ・・・法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門・・・とおくられた。

   遺骸は伊豆修善寺で葬送して荼毘に付され、遺言により箱根湯本に菩提寺として早雲寺が創建されて埋葬されたという。  死去の一か月後には、氏綱を施主として無遮会が営まれた。  導師を務めた芳林乾幢が詠んだ祭文のなかで、宗瑞は「豆・相州」の「賢太夫」「天下の英物」と評されている。 一代で伊豆・相模にヵ国の戦国大名にのし上がった英物の死去であったと言えよう。

   宗瑞が制定されたとする 「早雲寺殿廿一箇条」 は戦国大名の家訓の典型として広く知られている。 そかし、制定者や時期についての確証はなく、本家訓を宗瑞が制定したというのは、あくまでも所伝の域を出ない。 本家訓の内容は、武家奉公における様々な心得について、具体的かつ多岐にわたって説いたものである。
  しかし、その内容の多くは、中世から近世にかけて一般的に行われていた武家奉公の在り方を説く社会思想が反映されたものであった、その意味で家訓の制定者は北条氏関係者とは限らない・・・・・。

**宗瑞の妻・子女について

   宗瑞の妻については、三人ほどの存在が確認されている。  正室は京都小笠原備前守の娘と伝わる。 備前守は室町幕府奉公衆小笠原政清の事で、その次男六郎元続が、後に氏綱を頼って下向している。 また、宗瑞の「後御前」と注記される南陽院殿華渓宗智大禅定尼が死去しているが、彼女がこの小笠原氏の可能性が高く、嫡子氏綱は彼女の所生である。  

   四男宗哲の母は法名を善修寺殿梅嶺と言った人である。 宗哲の菩提寺である修善寺町金龍院の位牌に、彼女について「幻庵(宗哲)母と記されている。 おそらく宗瑞の側室であろう。
  なお宗哲の母は、これまでの研究では、天文二十三年(1554)死去した栖徳寺殿と考えられていた。  しかし、彼女について「放生家過去帳」には、「北条新三郎殿老母」と、宗哲の子新三郎氏信の母と記されている。 一方、「伝心庵過去帳」には宗哲の母と記されていること、善修寺殿よりも早い死去であるという両者の死去年の前後性などから、宗哲の母が栖徳寺殿で、善修寺殿は宗哲の妻であり、各過去帳の記事は誤記であると考えられたのである。
  「金龍院位牌」は善修寺殿を筆頭に宗哲と姉妹が合わせて記載されており、これは善修寺殿とその子たちを記載していると考えられるので、それらの所伝通り、善修寺殿が宗哲の母で、栖徳寺殿はその妻であったと考えるのが正しいのであろう。 善修寺殿所生の子は三浦氏員室(長松院殿)、宗哲、青松院殿の一男二女である。
伊勢宗瑞盛時(北条早雲)墓所 ・・・・・・ 箱根湯本・早雲寺
早雲・墓石
宗瑞・四男宗哲(幻庵)系図       次男氏時は鎌倉玉縄城主
初代期兄弟
宗瑞・・・嫡男氏綱、次男氏時、三男氏広・・・・四男宗哲(幻庵)
戦国北条氏初代期

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  1. 戦国北条氏・五代(02/29)
  2. 戦国北条氏・五代(02/25)
  3. 戦国北条氏・五代(02/20)
  4. 戦国北条氏・五代(02/15)
  5. 戦国北条氏・五代(02/10)
  6. 戦国北条氏・五代(02/05)