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戦国北条氏・五代

2020.03.30(08:00) 290

**戦国大名・北条一族

**氏康反撃す‼

   氏康はそのまま松山城を攻略し、重臣垪和(haga)伊予守を在城させた。  東西両面での敵対勢力の侵攻に対し、今川氏・武田氏とは河東地域の放棄を引き換えに和睦を成立させ、両上杉氏に対してはこれを撃退して河越城の確保を遂げたのである。 それだけではなく、扇ヶ谷上杉氏を滅亡させ、かつての関東管領山之内上杉に軍事的勝利をおさめ、同氏の衰退を決定付けるという大きな成果を得た。
 その後、氏康は房総に於いて対立関係にあった里見氏の攻略を図り、その本拠地上総佐貫城(富津市)を包囲し、これを攻略。 こうして、旧扇ヶ谷上杉氏領国すべての併合を遂げた。

**管領・山之内上杉氏の没落

   氏康は続いて、山之内上杉氏領国の経略を進めていき、天文十七年(1548)には、上野国峰城(群馬・甘楽町)の小幡尾張守憲重を上杉憲政から離反させている。 さらに、武蔵花園城(埼玉寄居町)の藤田泰邦を旗下に従え、軍勢を山之内上杉氏の膝元にあたる西上野にまで進軍させている。

   天文二十年冬、氏康は山之内上杉氏攻略の為の軍備を整え、翌年二月、武蔵西北部へ進軍した。  山之内上杉氏の武蔵国唯一の拠点として御嶽城(埼玉・神川町)があった。 山之内上杉氏の当主憲政の嫡子竜若丸を擁し、城主安保全隆が拠っていた。  北条軍は、二月上旬に攻撃にかかり、三月初めに安保氏の投降によって攻略は終わった。 竜若丸は捕縛され、後に処刑される事になる。

   この御嶽城落城は山之内上杉氏に大きな動揺をもたらし、西上野の国衆や東上野の赤石城(伊勢崎市)の那波宗俊らは氏康に応じた。  さらに憲政の馬廻衆の中からも離反者が続出する事態となった。
  西上野の国衆とは、これ以前から氏康に従属していた国峰城(群馬・甘楽町)の小幡憲重をはじめ、安中城(安中市)安中長繁、箕輪城(高崎市)の長野業正らと見られる。

  憲政は平井城(藤岡市)の維持は困難と見て、退去をはじめ、新田金山(太田市)城主横瀬成繁や家宰筋の下野足利(足利市)城主長尾当長を頼ったが、彼らも氏康に応じた周辺の国衆から攻撃を受けたため両城に入ることが出来ず、重臣筋の白井長尾憲景の本拠、北上野の白井城(渋川市)に逃れた。

   天文二十一年五月、長尾景虎を頼って越後に没落した。 こうして、関東管領職を歴任してきた山之内上杉氏はついに没落を遂げた。  しかし、これによって上野の領国化が遂げられたわけではなかった。  金山城の横瀬成繁をはじめ、厩橋城(前橋市)の長野賢忠、桐生城(桐生市)の佐野直綱など、国内には山之内上杉与党勢力の抵抗があり、隣接する下野でも足利城の長尾当長、佐野城の佐野豊綱らも氏康に敵対していた。  さらに憲政も越後没落後は出家して成悦と号していたが、長尾景虎に関東復帰の支援を盛んに要請していた。 景虎はそれを容れて、越後勢を関東に侵攻している。

   景虎(後の上杉謙信)の関東在陣がいつごろまでに行われたかは、判らないが同年十月、従軍する越後の武将に陣労をねぎらう書状が見られるので、その頃までは在陣していたとみられる。
鎌倉春・三題   臨済宗・円覚寺派  錦屏山・瑞泉寺参道    
瑞泉寺参道
ムラサキ・ハナナ   (瑞泉寺)
諸葛斎(瑞泉寺)
スイセン    (瑞泉寺)
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戦国北条氏・五代

2020.03.25(16:30) 289

**戦国大名・北条一族

**厳しい状況下の家督継承

   氏康は、天文十年七月、父氏綱の死去により、北条氏の家督を継承した。 二十七歳。
 氏綱の晩年には、北条氏は古川公方足利氏から関東管領に補任され、さらに同氏との婚姻関係を成立させて、足利御一家という政治的地位を獲得していた。 いわば、関東武家勢力のなかで公方足利氏に次ぐ地位にあったのである。  

   一方、領国は伊豆・相模二ヵ国に加え、小机・江戸・河越・葛西の武蔵中部・下総南西部、及び駿河河東の駿河半国にわたっていた。 さらに武蔵西部の大石氏・三田氏を旗下に従え、下総の千葉氏勢力や上総真理谷武田氏に対する指導的立場を確立させていた。 こうして、北条氏は名実共に関東における最大の政治勢力を形成していた。

   しかし、その反面、氏康は周囲を敵対勢力に囲まれていた。 特に武蔵松山・岩村(さいたま市付近)を勢力圏とする扇ヶ谷上杉氏と、とその同盟者で上野・北武蔵を領国とする山之内上杉氏とは、氏綱の武蔵への領国拡大が彼らの領国の経略によっていたため、鋭く対立していた。 また、駿河河東地域をめぐって今川氏とその同盟国である甲斐武田氏と対立し、上総の領有をめぐっては安房・上総南部を領国とする里見氏と競合関係にあった。 氏綱の死去は、それら敵対勢力にとっては反抗の好機となったと思われる。

   まず、氏綱の死去から間もなく、扇ヶ谷上杉氏がかつての本拠河越城(川越市)奪回を図り、同城を攻撃すると同時に、江戸城地域に対しても攻撃を仕掛けている。  河越城は籠城戦の末に扇ヶ谷上杉氏を撃退している。 氏康は家督継承直後の敵方の反攻をまずは撃退に成功した。 次いで荒川端でも扇ヶ谷上杉氏と戦っている。  さらに玉縄城の北条綱成の軍勢を海路から安房に侵攻させている。 これは、この後起きた上総真理谷武田氏の内訌への介入に伴うものと思われる。

   天文十四年(1545)になると、忍城(行田市)の成田氏を服属させ、真里谷武田氏における反対勢力から上総峰上城(富津市)を奪取した。 ところが駿河今川義元が河東地域に、義元の要請を受けた甲斐武田晴信が河東地域に進軍してきた為、北条軍は、最前線の吉原城(富士市)を放棄し、伊豆国境に近い長窪錠(長泉町)まで後退した。
  この今川・武田両軍の侵攻に合わせて関東では、山之内憲政・扇ヶ谷上杉朝定の両上杉氏が、叔父宗哲と義弟綱成が在城していた河越城を包囲、さらに古河公方方足利晴氏にも氏康との断交と河越への出陣を要請した。 氏康は河東と河越の両局面での対応を余儀なくされる事となり、家督継承後で最初の危機を迎えた。

   十月になって、氏康は武田晴信の調停を受けて今川義元・山之内上杉憲政との和睦を受け入れるに至った。 十一月に長窪城から軍勢を退去させ、同城を義元に引き渡した。  この和睦により、氏康は河東地域一円を義元に割譲することになった。  これは駿河からの明確な撤退であった。 
  一方、河越では足利晴氏が両上杉氏の要請を受け入れ氏康と断交して河越に向けて出陣し、同城包囲に加わってきた。  氏康は河東地域から帰陣すると、晴氏に対して翻意を促したが受け入れられる事は無かった。
  氏康は河越城の後詰の為に出陣し、河越砂窪に陣する両上杉軍を攻撃し、三千余人を討ち取るという大勝利をおさめた??。いわゆる「河越合戦」と呼ばれるものである。

   この合戦で、山之内上杉憲政や足利晴氏はそれぞれ本拠に退却し、扇ヶ谷上杉朝定やその重臣達は合戦で戦死した。残った兵士たちも本拠松山城を放棄し、これによって扇ヶ谷上杉氏は滅亡した。
戦国北条氏第三代う氏康系図
氏康・為昌
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戦国北条氏・五代

2020.03.20(11:00) 288

**戦国大名・北条一族

**北条氏康(第三代)・登場

   氏綱の嫡子氏康は、永正十二年(1515)の生まれ、母は養珠院殿と思われる。  幼名を伊豆千代丸と称し、「箱根権現宝殿造営棟札銘」に、父氏綱に次いでその名が見える。  当時、氏綱は伊勢名字を称していたため、氏康も同名字をを称していた
  氏綱は、この後伊勢名字から北条名字に改称するが、氏康は大永五年の時点で「伊勢伊豆千代丸」と見えており、まだ伊勢名字を称している。  北条名字への改称は、当初は当主氏綱のみであり、その子弟らは伊勢名字のままであったらしい。   詳しい経緯は判らないが、この後、氏綱は一族に対して順次、北条名を与えたらしい。 氏康は、おそらく元服などを機に北条名字を称する様になったのであろう・・・・・・。

   氏康の元服した時期もはっきりしないが、元服によって仮名新九郎、実名氏康を得て北条新九郎氏康と称した。 元服は氏綱の左京太夫任官と同時期であったと思われる。  氏綱は、氏康の元服にあたり、仮名新九郎を彼に譲る必要から、同官に任官したと考えられる。  元服は普通年末に行われる様なので、享禄二年(1529)末頃に行われた可能性は高い。 十五歳。
  初陣については、確認することは出来ないが、江戸時代に発刊された軍記もの「異本小田原記」などは、享禄三年の武蔵小沢原(東京・調布市、神奈川・川崎市)の合戦に出陣したと伝えられる。 元服の直後にあたるから、事実を伝えている可能性は充分に考えられる。  それによると、当時、武蔵河越城(川越市)を本拠としていた扇ヶ谷上杉朝興が、、重臣難波氏、上田氏らの軍勢を武蔵府中(府中市・調布市)に進軍させてきたため、氏綱は氏康を大将に迎撃に向かわせた。 まず上杉軍が在陣する多摩川端の小沢原に攻め懸かり、これを撃退したというものであった。 十六歳。

   この年、北条氏は扇ヶ谷上杉氏の反撃を受けて、多摩川流域の小沢城(稲城市)・世田谷城(世田谷区)を落とされ、武蔵中部支配の拠点・江戸城(千代田区)まで攻撃されている。
  こうした経緯からすると、扇ヶ谷上杉氏が再び府中に進軍して来る事は充分に考えられる。 氏康は、これを首尾よく撃退し初陣を飾る事が出来たことになる。  もっとも、これで扇ヶ谷上杉氏の反撃をくい止めたわけではなく、その後もしばらく戦いは続き、武蔵南部から相模にかけて合戦が続いた。


   続いて氏康は、駿河の戦国大名今川氏親の娘(瑞渓院殿)と婚姻している。 瑞渓院殿とは言うまでもなく出家後の法号であり、その名などは伝わっていない。  今川氏親は、祖父宗瑞の甥、父氏綱の従兄にあたるから、瑞渓院殿とは又従兄弟にあたる。 婚姻の時期も瑞渓院殿の年齢も不明である。  この時の今川家の当主は氏親の長男氏輝であり、彼は氏康より二歳年長であった。 瑞渓院殿はそれより年少と思われ、おそらく氏康よりも年少であったと推測される。

   天文五年、今川氏輝は弟彦五郎と共に小田原を訪問している。 氏康との婚姻を受けての事と考えられるから、婚姻は少なくとも天文四年以前の事と推測される。 瑞渓院殿との間に生まれた、次男で後に家督を継ぐ氏政は天文七年の生まれと伝えられ、その兄に早世した長男新九郎があったから、その婚姻は天文年間前半頃であった事は間違いない。

   この婚姻は宗瑞以来、一体的な関係にあった今川氏との関係を確認し、さらに強化しようとするものであった。 氏輝兄弟は、小田原訪問から帰着後まもなく死去してしまい、間もなく家督をめぐって内訌が起こり、弟の義元が継承した。  その義元が翌年外交政策を転換し、敵対関係にあった武田氏との同盟を推進した。  これによって氏綱は今川氏と敵対する事になる。
戦国北条氏五代・墓石   (箱根湯本・早雲寺)
後北条氏五代の墓
北条氏三代当主・氏康兄弟
氏康・為昌

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戦国北条氏・五代

2020.03.15(09:00) 287

**戦国大名・北条一族

**玉縄北条氏と玉縄城(鎌倉市・大船)

   明応三年(1494)、扇ヶ谷上杉氏と山之内上杉氏が対立している頃、扇ヶ谷上杉氏は、玉縄要害(大船)を攻略。 同城には山之内上杉氏の家宰・長尾忠景の重臣矢野右馬助が在城していたが、落とされている。  代わって扇ヶ谷上杉氏家老で相模守護代の上田正忠が在所したが在城せず放置されたらしい・・・・。 同じ頃、相模東郡に大庭要害(藤沢)を構築、当主弟の朝昌が在城している。

   永正九年(1512)伊勢宗瑞は扇ヶ谷上杉氏に再び敵対し三浦氏の相模中郡岡崎城を攻略、次いで東郡鎌倉を占領し、相模中部・東郡を経略、三浦道寸は三浦郡住吉に撤退する。  宗瑞はこの時有名な「和歌」を詠んで鎌倉に入っている。
  宗瑞はこの年、三浦氏(住吉要害)に対する向かい城として、玉縄城を再興したとみられる。  玉縄城の歴代城主は、必ずしも親子関係にあったわけでもないが、北条氏の一族が務めており、玉縄北条氏として把握されている。

   玉縄城は、その成立以降、関東への進出及び本拠小田原の防衛の要として、北条氏の重要拠点であった。  その為城主には、宗瑞の子である初代氏時、氏綱の子である二代為昌、と北条氏当主の子息が配置され、防衛の要としての役割を担っている。  為昌は、天文元年(1532)に僅か十二歳で城主となり、玉縄に加えて三浦郡、武蔵小机城を管轄し、相模川東部から多摩川までに至る広い地域を支配しました。 当時、北条領は江戸地域が最前線であった為、玉縄城は北条領支配に於いて重要な役割を果たしていた。
 為昌は幼い城主であった為、氏綱の娘婿の福島綱成が後見した様だ・・・・・。 また、為昌には一族の大部分が襲名している「氏」の通字が無いが、それは元服して城主に就く際、早雲の従兄弟にあたる大道寺盛昌(鎌倉代官)が烏帽子親となった事からと言われている。
  為昌元服の六年前、安房の里見氏が東京湾を渡って鎌倉に侵入、北条の軍と鶴岡八幡宮付近に於いて戦闘となり、一帯が兵火により焼失したと伝えられる。 鶴岡八幡宮の再建は氏綱により始められたが、「快元僧都記」の記述の中に「為昌彦九郎殿、築地十二軒請け取る」の記述が見られ、為昌が北条一門として工事に参加し、奈良、京都、伊豆、鎌倉番匠と一緒に工事に携わった事が判る。

   その後、為昌は数々の戦闘に、父氏綱、兄氏康、叔父宗哲と並んで一軍の将を務め、軍事、外交、行政のあらゆる側面において、氏綱、氏康を支える存在となっていたが、天文十一年(1542)、弱冠23歳で死去している。 実子がなかった為、北条綱成が養子となり、三代玉縄城主となりました。


**氏綱の妻・子女

    氏綱には二人の妻の存在が確認されている。前妻の出自は不明で、法名を養珠院殿春花宗栄大禅定尼といった。 忌日は大永七年七月であることが、十三回忌法要が行われた事から判っているが、それ以外のことは判っていない。

   後妻は関白近衛尚道の娘と思われる、婚姻の時期は明らかでないが、氏綱と近衛尚道の交流の推移から享禄四年(1532)頃の事と推測される。  彼女の弟の年齢などから当時の彼女の年齢は35歳前後と推定される事から、この婚姻は多分に名目的なものであぅた事が窺われる。  氏綱としては京都政界への強力なパイプを形成すること、摂関家と婚姻関係を結びうる程の家格の上昇を図って行われたのであろう。

  氏綱の子女は、四男六女が確認される。  嫡男は氏康で永正十二年(1515)生まれ、母は養珠院殿であろうか。  幼名伊豆千代丸、仮名は氏綱と同じ新九郎を称した。 北条氏三代当主となる。 次男は早世したようである。  三男が為昌で、永正十七年生まれ、仮名は彦九郎。 相模玉縄城主・武蔵河越城代を勤め、天文十一年に死去している。享年23歳。  玉縄城主は義兄の綱成に継承された。  四男は氏堯といい、大永二年の生まれ、武蔵小机城主を務めた。
   他に養子的存在として娘婿の綱成がいる。 これ迄綱成は氏綱の婿養子になったと考えられてきたが、娘婿となった事を基に北条氏御一家衆に加えられた可能性が高い。  駿河今川氏の宿老福島氏の出身。 氏康と同年齢で、後に為昌の遺跡を継承して玉縄城主を務めている。 その子孫は代々に渡って同城主を務めた。
  女子は、太田資孝室、北条綱成室、吉良順康室、足利晴氏室、堀越六郎室、葛山氏室である。 成年などの詳しいことは不明であり長幼の順は明らかではない。
玉縄城址石塔    (鎌倉市・玉縄)
玉縄城址
現在も地名として残る  「玉縄」
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鎌倉・玉縄城主(第二代) 北条為昌・・・・小田原本城・北条氏康弟の系図
氏康・為昌

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戦国北条氏・五代

2020.03.10(07:30) 286

**戦国大名・北条一族

**氏綱・今川義元と戦う

   天文五年(1536)、ひと月ほど小田原に滞在していた今川氏輝は、駿河に帰国後、弟彦五郎と共に突然死去してしまった。 氏輝兄弟の死去により、今川氏では善徳寺殿承芳(義元)と花蔵殿恵探の二人の弟によって家督をめぐる内乱が生じた。 この今川氏の内乱に対して、氏綱は義元を全面的に支援し、氏綱の支援を受けた義元が勝利し、今川の家督は義元が継承した。

   しかし、義元は、氏綱の全面的な支援によって家督を継承出来たにも関わらず、その後、父氏親以来、長く対立関係にあった甲斐武田氏との同盟関係の成立へと、外交政策を一変させた。  そして翌年に、義元は武田信虎の娘を正妻に向かえた。  義元の行為に怒った氏綱は、駿河に向けて出陣、富士川以東の河東地域に侵攻した。  同時に氏綱は、実弟にあたる駿東郡の国衆葛山氏広をはじめ、富士郡の富士氏、遠江堀越氏・井伊氏、三河戸田氏・奥平氏らの有力国衆を味方につけて、義元に対し蜂起させた。

   これにより、北条氏と今川氏の抗争は、「河東一乱」と呼ばれる。  両氏は、宗瑞・氏親の代以来、長きに渡って密接な政治的関係を築いてきたが、ここに至って全面的に抗争を展開することになった。  直接の原因は、義元が外交政策の転換にあたって、氏綱からの了解を取らずに行った事、氏綱はそれを阻止しようとしたが、成功しなかった事による。  氏綱にとって義元の行動は名誉を侵害するものであり、義元への攻撃は、その回復のためと認識されていたのであろう。

   問題は、なぜ義元は、氏綱に無断で武田氏との同盟を進めたのか、という事になるが、それについてよくわかっていない。  その後の両氏は全く対等な戦国大名として、互いを認識している。  疑問は残るが仕方がない。  その意味において、この抗争は北条氏にとっては今川氏からの精神的な自立を遂げた戦いでもあった、とも云えるのだが・・・・・・・。

**氏綱・関東管領に就任

   氏綱は、扇ヶ谷上杉氏との抗争、以降の房総における内乱での対応をめぐって、小弓公方足利義明とは、対立と妥協を繰り返すという状況にあった。  こうした状況のなか、古河公方足利高基、その子晴氏と義明との抗争は、継続して展開されていた。

   天文七年(1538)、足利義明は下総西部に進出し、国府台(野田市)に着陣した。  同時期に氏綱が扇ヶ谷上杉氏方の葛西城を攻撃しているから、義明は扇ヶ谷上杉氏の支援の為に進軍してきたものと見られる。  これに対して氏綱は、義明に古河公方足利晴氏との和睦の周旋を持ちかけたが、義明はこれを拒否したとみられる。  その後、関宿城攻撃の為か、北上の姿勢を見せ、先陣を相模台(松戸市)に進めた。  これに対し晴氏は、氏綱に義明討伐の「上意」を伝えた。
  氏綱はこの晴氏からの「上意」をうけ小田原を出陣、江戸城で装備を加えて、相模台と国府台との中間に着陣した。  後に第一次国府台合戦と言われた合戦は、氏綱の勝利に帰し、義明はじめ嫡子義純、弟基頼らを討ち取り、大勝利であった。  小弓公方足利氏は滅亡した。 

   ここに氏綱は、関東足利氏の軍事的保護者としての立場を確立し、それを踏まえて同合戦の勲功として、晴氏からその御内書をもって、関東管領職に補任された。  本来、同職は鎌倉公方が補任するのではなく、室町幕府が補任するものだったが、戦国時代になると同職の本質は失われ、関東武家勢力における政治的地位を示すものとして、同職を家職としていた山之内上杉氏の家督と一体化したものとなっていた。  その為、晴氏が御内書をもって氏綱を同職に補任した事は、先例の無い全く異例な事態であった。  しかし、当時、関東管領の地位にあったのは山之内上杉憲政であるが、氏綱が補任されたことによって、二人の管領職が存在する事になった。その後北条氏は代々管領の地位を認められ、「管領家」として存在していく。 
  さらに、氏綱は娘(芳春院殿)を晴氏に入嫁させて、古河公方足利氏との婚姻関係を成立させた。 晴氏に正室は無く、側室との間に嫡子・藤氏以下の男子があった。  これに対して、氏康の娘を正室として迎えた為、氏綱は古河公方足利氏の外戚として存在する事になった。  ここに至って、関東制社会のなかで事実上の頂点に位置する様になり、その政治的立場を著しく伸長させたのである。  
実弟・葛山氏広氏系図 ・・・・葛山氏へ養子としての国衆
戦国北条氏初代期
小田原城天守
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常盤木門
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戦国北条氏・五代

2020.03.05(08:00) 285

**戦国大名・北条一族

**氏綱苦戦を強いられる

   扇ヶ谷上杉朝興は山之内上杉憲房・武田信虎と共同して軍事行動を展開し、活発な外交活動を展開し、小弓公方足利氏の擁立主体である真理谷武田氏をを氏綱と断行させて、小弓公方勢を味方につける事に成功している。
  これらの朝興の行動により、氏綱は周辺の政治勢力によって包囲網を形成された格好となり、さらに朝興が、江戸城奪回の為江戸地域に向けて軍事行動を展開し、白子原(和光市)辺りで合戦となり、蕨城まで攻略している。 この展開に小弓公方勢力の有力武将である真理谷武田氏と安房里見氏の軍勢が、海路江戸湾に侵攻して、朝興勢力を支援している。 その後、里見氏に相模玉縄城まで進撃され鎌倉を攻撃されている。
  このように、氏綱と朝興方との抗争は、朝興方の諸勢力が連携しての軍事行動によって、合戦は主として江戸城地域以南のに於いて展開され、氏綱は劣勢を余儀なくされた。

   こうした氏綱劣勢の状況を変化させたのは、房総における里見氏に内訌が生じた事からであろう。  これは当主義豊と、その従弟の庶家義堯との抗争で、氏綱はこの内訌に介入し、鎌倉から海路援軍を派遣している。
  これに対して義豊を支援する上杉朝興は、武田信虎に相模への支援を要請したとみられ、武田勢は津久井に侵攻し、朝興自身も相模中部まで侵攻した、 しかし義豊はそのころ既に没落しており、天文三年四月には滅亡している。 これにより、里見氏は氏綱が支援する義堯が継承し、朝興方勢力から離脱した。 

   さらに、今度は真理谷武田氏に内訌が生じた。 当主信隆と叔父の信秋の抗争とみられ、ここでは氏綱は信隆を支援した。 これら小弓公方足利氏方の有力武将間の相次ぐ承継争いの展開は、義明方勢力、さらに朝興方勢力を大きく減退させた。 

   一方で、氏綱は駿河今川氏輝(氏親の子)から援軍の要請を受け、甲斐に進軍し、武田勢と交戦したが、逆に信虎の要請を受けたとみられる朝興が、その留守を突くかのように相模・中郡に侵攻してきている。  甲斐からの帰還後、氏綱は直ちにその報復のため、河越に向けて出陣し、武蔵入間川の合戦に勝利した。 ここにきて氏綱は、朝興の本拠周辺までの進軍が可能となっていた。 朝興方勢力の減退が、両者間の軍事的均衡関係を崩したのである。

**苦戦脱却へ

   天文六年上杉朝興が死去し、家督は嫡子朝定に継承された。  氏綱は真理谷武田氏の内訌に大規模な介入を行ったが、小弓公方足利義昭の攻撃の為に敗北を喫し氏綱の房総における政治的影響力はおおきく減退していた。
  そうした状況の中、朝定が武蔵府中に進出して、深大寺要害(調布市)を取り立てている。 これに対して氏綱は、武蔵に向けて出陣し、深大寺要害を攻略し、さらに河越城に向けて進撃した。
  河越城近くの三木で扇ヶ谷上杉軍と合戦となり激戦の末、勝利している。 上杉軍はそのまま敗走し、朝定も河越城を維持する事は困難と判断、同城を放棄したと思われる。  ここに氏綱は、享徳の乱以来、扇ヶ谷上杉氏の本拠であった河越城の攻略に成功した。  それはまた、扇ヶ谷上杉氏の政治的勢力の衰退を決定的とした。

   翌年、朝定が山之内上杉憲政(憲房の子)と共に反撃したが、氏綱はこれを一蹴し、その余勢ををかって、扇ヶ谷上杉氏方の大石石見守が籠る下総葛西城(板橋区)の攻撃して、攻略に成功している。 この葛西城は江戸地域とは隅田川を挟んで対岸に位置し同城の攻略は、江戸地域の確保の為にも大きな意味を持ち下総における橋頭保の確保伴った。
JR大船駅からの大船観音・・・・・・玉縄城の砦跡
観音寺
房総里見氏による鎌倉攻撃の激戦地跡  玉縄城柏尾川付近
里見戦・供養碑

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2020年03月
  1. 戦国北条氏・五代(03/30)
  2. 戦国北条氏・五代(03/25)
  3. 戦国北条氏・五代(03/20)
  4. 戦国北条氏・五代(03/15)
  5. 戦国北条氏・五代(03/10)
  6. 戦国北条氏・五代(03/05)