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戦国北条氏・五代

2020.04.30(09:00) 296

**戦国大名・北条一族

**氏政の登場

   氏康の子氏政は、その次男であった。  母は瑞渓院殿。  天文十一年(1552)に兄新九郎が夭折した為、代わって嫡子となった。 天文十年の生まれ、幼名は松千代丸。  父氏康は、室町幕府に氏政を家督継承者と定めた事をもって、将軍家相伴衆化を申請祖ている。 兄新九郎死去の二年後であるから、氏政がそれに代わって新たな嫡子として取り立たれていた事が判る。また元服もそれ以前に行われていたと考えられる。

   天文二十三年、氏政は武田晴信の娘黄梅院殿を正室に迎えた。  先に記述したように、甲相駿三国同盟の形成の一環による。 しかし、実質的な主導権は「御本城様」と称された氏康の下に置かれ、領国支配や外交関係についても引き続き氏康が中心になって行われた。

   永禄四年ころから氏政の活動が見られるが、まだ限定的である。  氏康の発給文書よりも、氏政のそれが質量ともに優越するようになるのは同八年頃からである。 氏政は当主歴代の官途名左京太夫に任官し、氏康は代わって相模守に受領している。 さらに氏康の出馬が少なくなっている。氏康は実質的に隠居状態となっていたようだ。  これによって氏政は、外交関係や家臣団の統制などの側面を中心にして、実質的に北条氏当主としての活動を始める。

**代替り政策の遂行

   元亀二年(1571)「御本城様」氏康の死去により、氏政の単独政権が誕生する事となり、家督継承から十二年が経っており、氏政は、ようやく名実ともに北条氏権力の最高実力者となった。34歳である。  氏康の死去も北条氏にとっては「代替り」と認識されており、氏政は、家臣の軍役人数の改定や検地などの「代替り」の政策を行っている。
  氏政が、氏康の死去を契機に北条氏権力の最高実力者として最初に行った政策は、外交政策の大転換であった。 すなわち、越相同盟の破棄と、甲相同盟の復活であった。  これについては、既に風聞されており、上杉謙信から詰問を受けて氏康がこれを否定している事から、氏康生前からの懸案であった事が窺われる。 又、他の史料等から氏康の死去に際して越相同盟の破棄と甲相同盟の復活を氏政に遺言されたとしている事から、この外交政策の転換は北条氏にとっては一定の既定路線であったとみられる。
  同盟締結後、度重なる援軍要請に一向に応じようとしない謙信に対して、北条氏は越相同盟の不実用性をを認識しており、氏康死去を契機に実現された。

   武田氏との同盟交渉は、極秘裏に進められ、北条氏の御一家衆・家老らにも締結寸前に知らされたという。  氏政は直ちに弟・氏邦に命じて、北条氏に従属する上野国衆に対して上杉氏方への戦略を指令した。  そして上杉氏とは互いに同盟関係の破棄を通知する「手切れの一札」を交わした。  また武田氏との同盟締結にあたっては、互いの分国の承認と不可侵を協定する「國分」が行われた。 関東については北条氏の領有権が認められ、武田氏はこれに干渉しない事、ただし武田氏が支配している西上野に関しては武田氏の領有を認め、北条氏からは干渉しないことが協定された。
  そして駿河・武蔵に於いては、国境確定が行われた。 まず駿河げは、狩野川・喜瀬川を境にして西側が武田領とされて、両河川の西側に存在した北条領は、武田氏に割譲された。 すなわち、駿東郡興国寺城(沼津市)・平山城(裾野市)である。 次に武蔵では、上野・武蔵国境がそのまま国境とされ、武蔵側に存在した武田領の御嶽城が北条氏に割譲された。

   天正五年、氏政の妹が武田勝頼(信玄の後継者)に嫁ぎ、両氏の同盟関係は再び婚姻関係が伴う強固なものとされた。
戦国北条四代当主・北条氏政・・・正室・側室
四代氏政代
小田原城天守・小田原駅新幹線口~
小田原城・天守

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戦国北条氏・五代

2020.04.25(09:30) 295

**戦国大名・北条一族

**武田信玄との戦い

   永禄十二年(1569)、北条氏政は薩埵山(静岡市)在陣の武田勢を撃退し、その地に布陣した。 その後、興津城(静岡市)に在陣する信玄と対峙したが、退路を断たれるのを嫌った信玄は甲斐に帰国した。  氏政は、今川氏真が籠城する懸川城を包囲してた三河徳川家康と交渉して、氏真の救出を工作し、和睦が成立し、氏真は同城を開城して北条氏に引き取られた。

  その後、信玄は武蔵に進軍し、北条方の国衆平沢政実の籠る御嶽城(神川町)を攻撃、さらに氏邦(氏政・弟)の居城・鉢形城(寄居町)を攻撃した。  次に、南進して氏輝(氏政・弟)の居城・滝山城(八王子市)を包囲、さらに小田原に進軍して小田原城攻撃の機会をうかがった。 しかし、小田原城の構えは固く、過去に上杉謙信も攻め倦んだ経緯もあり、小田原から退却し、相模津久井に後退した。 氏輝・氏邦らは三増峠(愛川町)に待ち受けしたが、信玄はこれを突破して甲斐に帰国した。

   信玄は次に駿河に侵攻し、蒲原城を攻略。 守将北条氏信をはじめとする在城衆は戦死した。 北条方の最前線であった薩埵陣も崩壊し、信玄は駿府の再占領を果たした。さらに駿東郡・伊豆に侵攻し、韮山城・興国寺城を攻撃。  これに対し氏政は、小田原を出陣、箱根を超えて敵方と交戦、しかし、守将北条綱成は支えきれずに同城を開城した。
  これにより北条氏は御厨地域を失い、駿河における勢力は駿東郡南部に限定された。

   武蔵北部では、御嶽城の平沢政実が武田氏に帰属。  武田氏との抗争は全体的には劣勢の展開であった。  駿河では薩埵陣・蒲原城・大宮城・深沢城が攻略され、河東地域の大半はその勢力下とされた。 北条氏が確保したのは興国寺城と平山城にすぎず、その勢力は駿東郡南部に限定された。 武蔵においても御嶽城が攻略され、武田氏の勢力が武蔵にも及ぶようになっている。

   北条氏が越相同盟を締結したのは、武田氏との抗争に於いて謙信から援軍を得るためであった。 しかし、謙信からは、越中出陣を理由に援軍は殆ど得られなかった。 その為、北条氏では謙信との同盟の有効性について疑問が出されるようになっていた。 そのような状況の中、北条氏は武田氏と同盟を結ぶのではないかと噂されていた。 これについて、謙信から詰問され、氏康はこれを否定しているが、実際には武田氏との同盟締結も模索されていたとみられる。

   そうした中、氏康は元亀元年8月、重病に襲われた。  どうやら認知症も患っていたと思われ、重要事項も知らず、信玄の伊豆侵攻も知らない様子であったらしい・・・・・? しかし、翌年には謙信に書状を出しているので病状は持ち直したとみられるが、そこには花押を据えず、朱印を押捺しているので自署は出来ない状態であったらしい。 同年十月に、57年の生涯を終えた。 法名は大聖寺殿東陽宗岱大居士といい、菩提寺早雲寺に祀られた。

**氏康の妻・子女

   氏康の正室は今川氏親の娘瑞渓院殿で、長男新九郎・次男氏政・三男氏照・四男氏邦・五男氏規・今川氏真室早川殿・足利義氏室浄光院殿らの母である。
 氏康には側室が何人かおり、六男景虎の母は、重臣遠山左衛門尉康光室の妹であったとみられる。  康光は景虎には母方の叔父にあたり、景虎が越後上杉謙信の養子となって越後に赴くと、それに付されて越後に移るのも、そうした関係に基づくものであろう、以後、康光は景虎の家老となっている。

    氏康の子女は、現在の所八男八女の存在が確認されている。  長男は早世した嫡子新九郎で、天文二十一年に死去、次男が家督を継いだ氏政以降五男氏規まではこの後取り上げる。 六男は景虎で、幼名は西堂丸。 北条宗哲(早雲四男)の婿養子となる。  元服して久野北条氏(宗哲)の当主となり、三郎を称した。   次いで越後上杉謙信の養子となり越後に移り、謙信から前名を与えられて景虎を名乗る。  天正六年(1578)検診の死去により、義兄弟の景勝と家督をめぐって抗争したが敗北、死去した。26歳。
戦国北条氏・墓所  中央が三代氏康墓     (箱根湯本・早雲寺)
後北条氏五代の墓
氏康正室・瑞渓院殿
三代氏康代2
御館の乱に敗れた上杉景虎
上杉景虎

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戦国北条氏・五代

2020.04.20(08:30) 294

**戦国大名・北条一族

**三国同盟破棄~越相同盟へ

   永禄十一年(1568)武田信玄によって三国同盟は破棄された。 
 情勢は急展開し、駿河に侵攻する信玄に対し、北条氏はすかさず今川氏への援軍を派遣し、氏政は小田原を出陣して伊豆三島に着陣している。

   今川氏真は本拠駿府館を攻略されて遠州懸川城(掛川市)に後退するが、北条氏の先陣は富士川を超えて蒲原城(静岡市)に入城している。 そして、北条氏信(宗哲の子)が同城の守将として入城し、河東地域一帯の制圧を遂げている。

   北条氏は外交政策を転換させて謙信との同盟を図り、氏康の三男氏照が書状を送っている。また四男氏邦も書状を送った。 上杉氏からは、同盟成立の為の条件が提示されてきたようで、翌年には小田原在城の氏康が条件の受諾の旨を記した書状を上杉方の沼田在城衆に宛てて送った。
 これ以後、両氏の同盟交渉が順調に進み同盟の成立を見た様だ。  この同盟は、越後(上杉氏)・相模(北条氏)から「越相同盟」と言われた。 さらに氏康は、安房里見氏との同盟成立を模索したが、里見氏から拒絶されている。
  同盟成立の条件は、次のようになる・・・・。

 1  関東管領の譲渡
 2  領土割譲
 3  養子縁組

   
   関東管領の譲渡とは、北条氏のその地位を謙信に譲る事である。 これは両氏間の身分関係にも変化を生じさせた。  北条氏は謙信を「上杉弾正小弼殿」とあて名書きしていたが、その後「山之内殿」とあて名書きを改め、関東管領として目上の扱いをしている。
  領土問題の割譲に関しては、現状で北条氏領国となっている東上野・北武蔵が焦点であり、上野は上杉氏本国という事で謙信に割譲されることになった。 武蔵は基本的には北条氏の領国とされたが、かって上杉氏の勢力下にあった藤田・秩父・成田・岩下・松山・深谷・羽生の各国衆の帰属が問題となり、北条氏は基本的に割譲に応じるが、藤田・秩父領は氏邦の支配領域、岩付領は直接的支配領域となっていたように、現実的には難しかった。
  結局、これ以前から謙信に従っていた羽生領、この同盟を機に謙信に従属した深谷上杉憲盛の深谷領だけが謙信方に帰属した。

   養子縁組は、氏政の子が謙信の養子となってその名跡を継承するというものであった。  養子には次男の国増丸が予定されていたが、余りにも幼少の為氏政が難色を示した。  結局、養子は氏政の末弟三郎に変更され、謙信の本拠春日山城(上越市)で養子縁組を遂げて、謙信から初名景虎を与えられ、上杉三郎景虎と名乗った。
  養子縁組は、この同盟に於いて実現された関東管領職や領土の譲渡を保証するものであった。 その為後に同盟が破綻しても、謙信は景虎を離縁しなかった。 景虎が存在していれば北条氏もそれを尊重せざるを得ず、それらの契約内容が維持されたからである。 後の越後御館の乱による景虎の滅亡をうけて、初めて北条氏は契約の破綻を宣言して上野支配権を主張するようになる。
氏政次男・源五郎(国増丸) 上杉氏への養子予定が景虎に変更
五代氏直代
上杉輝虎(謙信)養子・景虎   ・・・・氏政末弟
上杉景虎
上杉(北条)景虎・・・・・兄・氏照、氏邦
四代氏政兄弟

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戦国北条氏・五代

2020.04.15(08:00) 293

**戦国大名・北条一族

**二人の関東管領!!

   この後、北条氏は謙信を「長尾」と、謙信も北条氏を「伊勢」と、互いに旧名字で呼び続け、「上杉」「北条」とは呼び合っていない。 これは「上杉」「北条」がともに関東管領職と一体の名字として認識されていたため、相手の旧名字で呼ぶことにより正統性を否定し、自らが唯一の関東管領である事を主張するものであった。

   謙信の帰国後、北条氏は早速反撃を展開して勢力の回復を始めた。  まず勝沼三田綱定を滅ぼし、藤田衆の天神山城(埼玉長瀞町)を開城させた。 さらに、小金高城胤吉・忍成田長康・崎西小田伊賀守・深谷上杉憲盛・桐生佐野昌綱等を従属させた。
 同盟者武田信玄にも支援を要請。  信玄は西上野への侵攻を展開し、吾妻郡・甘楽郡らを勢力下に収め、その中で謙信の侵攻で没落していた小幡憲重を本拠国峰城(群馬・甘楽郡)に復帰させている。

   次に、武田氏は白井長尾憲景と惣社長尾景総を相次いで没落させ、ついに西上野一円の領国化を達成した。  北条氏は、里見氏の本拠佐貫城攻撃を図ったが、三船台合戦(富津市)で、敗北を喫している。  その頃、下野佐野昌綱が謙信から離反し、佐野城から出城して攻略を図った。 その為謙信は同城に着陣して昌綱を撃退するが、その維持を諦めて自ら佐野城から撤退した。 佐野昌綱は同城に復帰と共に北条氏に帰属した。

   これによって、謙信の関東における勢力は、上野沼田領、武蔵羽生領(羽生市)のみとなった。 同じ頃に、佐竹氏・宇都宮氏・小山氏・簗田氏らが再び味方となってきたが、その勢力の後退は明らかであった。 これ迄謙信は、ほぼ毎年のように関東に越山してきていたが、翌年には越山せずその動向は窺えなくなった。 ここに謙信の関東支配はおおきく頓挫する事となった。
  こうして北条氏は、武田氏との連携によって謙信方によって攻略された諸城の奪回、謙信方に従属した国衆の再従属を進めていった。 謙信との関東支配をめぐる攻防では、その優勢を決定的とした。

**氏康・相模守受領

   この頃、氏康は官途名左京太夫から受領名相模守に、同時に氏政は仮名新九郎から官途名左京太夫にそれぞれ改称している。  氏康の受領名は相模国守の政治的表現であると共に、何よりも鎌倉幕府執権北条氏のそれを踏襲するものであった。  同受領によって、北条氏が自らを鎌倉幕府執権北条氏に擬する過程は、最終的な完成を見たといっていい。
  この改称に対応する様ににして、対外的に北条氏の代表として、氏政の姿が顕著となっている。  例えば謙信が北条氏を非難する場合、永禄九年までは氏康の名を挙げているが、翌年からは氏政の名を挙げている。 次に、永禄八年から軍事行動の中心は氏政に移され、氏康の出陣は殆ど見られなくなる。  これは実質的な隠居に近い状態といえ、対外的にも氏政を代表として認識されることになった。 出陣が見られなくことと関わるが、「武栄」朱印の使用である。これは「武栄」の印文を刻んだ方形の朱印で、氏康個人が使用したものである。
  現在のところ、これを押捺した朱印状は、永禄九年五月、伊豆狩野牧百姓中に宛てたものが初見である。  注目されるのは、追而書に「虎御判御陣被分候、御本城御印判也」と、虎朱印は戦陣にあるから、「御本城様」氏康の印判で出された事が示されている。 これは本来なら虎朱印で出されるべきものだが、虎朱印は当主氏政の出陣に伴ってその陣中にあるので、代わって氏康の印判で出された事が判る。 以後、「武栄」朱印状は50点以上に及び、主に氏政の出陣に伴って戦場にある虎朱印に替り、領域支配において用いられた。
戦国北条氏三代・氏康「虎・武栄朱印」
虎・武栄朱印
戦国北条氏三代・四代系図
三代氏康代2
四代氏政代

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戦国北条氏・五代

2020.04.10(08:00) 292

**戦国大名・北条一族

**上杉謙信登場

    この三国同盟は来たるべき越後長尾景虎との対決に備えたものであった。  既に武田氏は長尾氏との全面的な抗争を展開しつつあった。 そして北条氏も、山之内上杉氏への支援というかたちで長尾景虎の関東進軍を受けており、逆に武田氏への援軍として信濃上田(上田市)に進軍するというように、すでに直接的な交戦を行っていた。  さらに上野経略を進める過程で、山之内上杉憲政を庇護する長尾景虎との対決は必至の状況となっていた。

   永禄二年(1559)6月に、景虎(上杉謙信)は将軍足利義輝から憲政の「進退」について一任され、関東侵攻にあたっての名分を調えている。  こうしてその関東侵攻は、時間の問題となりつつあった。

   永禄二年12月、氏康は家督を嫡子氏政に譲り隠居した。 氏康45歳、氏政22歳であった。  隠居とは言っても、氏康は決して政治の第一線から退いたわけではなく、小田原城の本城に居住し、実質的に北条氏権力を主導し続けるのである。
  氏康隠居の背景には、天候不順を原因とする飢饉と疫病の流行で、領国内に死者が続出するという深刻な領国危機があった。氏康はこの危機に十分に対処できなかったために、餓死者を続出させた責任をとり、「天道思想」に基づき、社会的危機に対する民衆の世直しへの期待に従って、先ずは自ら北条氏当主の地位から退位して、新当首の下で社会状況の再建を図ったのである。  そして翌年に、新当主氏政の名により領国全域にわたり徳政令が発布され、領民の債務の一部を破棄し、彼に対する救済が行われる。

   永禄三年(1560)5月から、北条氏は上総里見氏の本拠久留里城を包囲したが、これに対して里見氏は長尾景虎に越山(関東入り)を要請した。  景虎はこれに応えるかたちで八月末に山之内上杉光哲(憲政)を擁して出陣し、九月には上野に進攻している。ついに越山を遂げたのである。
  吾妻郡の明間城・岩下城、利根郡の沼田城が攻略され、岩下斎藤氏は景虎に服属し、沼田城主の沼田(北条)康元は退去し、沼田城は景虎に接収された。  さらに、白井長尾憲景・惣社(前橋市)長尾景総・箕輪(高崎市)足利長尾禅昌らの上野・下野国衆が景虎に服属した。

   この進軍に参加した関東の国衆は、先に記述した他に、武蔵では忍成田長康・崎西(加須市)小田伊賀守・羽生衆・藤田衆・深谷上杉憲盛・岩付太田資正・勝沼(青梅市)、上総では東金・酒井胤敏・里見義堯、常陸では真壁久幹等であった。  それまで北条氏に従属していた上野・武蔵の国衆のほとんどが、北条氏から離反して景虎に従属した。
    北条氏の勢力圏は、一気に河越城あたりまで後退した。 北条氏方に立って抵抗し続けたのは上野では館林・赤井文六、武蔵では松山・上田宗調、下野では那須資胤、下総では結城晴朝・千葉胤富・臼井(佐倉市)原胤定、上総では土気(千葉市)酒井胤晴、常陸では大拠貞国らであった。 

   景虎の南下に伴い、岩付太田資正によって松山城、里見義堯によって葛西城が攻略された。  そして景虎は相模に侵攻し小田原城を包囲した。 しかし攻略しきれず帰陣している。 景虎(謙信)の今回の越山の目的は、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣し、その社前で山之内上杉氏の名跡を継承し、上杉憲政のうち「政」字の偏諱をえて、上杉政虎と改名した。 その後、政虎は将軍足利義輝から偏諱を得て実名を輝虎と改名し、さらに、元亀元年(1570)に出家して法名謙信を称する。

   上杉謙信の来攻は、氏康にとって初めて本拠への攻撃を許すという最大の試練となった。しかも謙信は山之内上杉氏の名跡を継承した。  同氏は関東管領職を家職としていたから、名跡の継承は同時に関東管領職の継承を意味していた。  これにより謙信は関東の「大名」層に対しては関東管領「山之内殿」としえ、山之内上杉氏家臣に対しては「御屋形様」として、俄かに君臨する事になった。
「一条恵・観山荘」 (重文)  コロナ休館中    (鎌倉・浄明寺)
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日蓮宗・長勝寺   日蓮大聖人と桜    (鎌倉市・大町)
長勝寺・日蓮像
臨済宗・建長寺  三門と桜   (鎌倉市・山之内)
建長寺三門

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令和二年・庚子・辛巳・癸未

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戦国北条氏・五代

2020.04.05(11:00) 291

**戦国大名・北条一族

**氏康・関東武家勢力の頂点を・・・・

   永禄元年(1558)、上野最北端の国衆である沼田城の沼田氏に内訌が生じた。  内実は山之内上杉氏派と、北条氏派の抗争であり、敗れた山之内上杉氏派は越後に退き、長尾景虎を頼った。  この結果、沼田氏の名称を義弟北条綱成の次男康元が継承している。 こうしてこの頃には、上野の国衆はすべて氏康に従属し、氏康はほぼ上野一国を勢力下に納めた。  

   関東武力勢力の支柱の一つであった山之内上杉氏の没落は、これまでの関東の政治秩序そのものを大きく動揺させた。 関東武家勢力の頂点に位置する古河公方足利晴氏は、氏康の妹芳春院殿を正室に迎えていたが、河越合戦から氏康との関係は良好ではなかった。 氏康は徐々に晴氏に圧力をかけ、公方宿老の梁田晴助と起請文を交換した。 
  晴氏の長男ですでに嫡子に位置付けられていた藤氏を廃嫡、芳春院殿所生の末子で、僅か10歳の梅千代王丸(義氏)に公方家督の地位を継承させた。 ここに、氏康の外甥が古河公方を継承した。  以後、氏康はこの公方を前面に立てながら、関東の武家勢力全体に対峙していく。 梅千代王丸は氏康支配下の下総葛西城(葛飾区)に入城して、同城を御座所とした。

   ところが、隠居したはずの晴氏と廃嫡された藤氏は、葛西城から元の本拠である下総古河城(古河市)に強引に入部し、氏康に反旗を翻すという事件が起きた。  晴氏には下野小山氏や下総相馬氏が支援に廻っている。 さらに上野桐生の佐野氏も晴氏を支援していた。 いまだ上野では、旧山之内上杉氏勢力との抗争が続いており、桐生佐野氏もその一人であった。  晴氏は謀反にあたり、そうした上野における旧山之内上杉勢力の支援も当てにしていたと考えられる。
  これに対して氏康は、公方御一家の一色氏、宿老梁田氏、野田氏等を味方につけ、野田氏や松山衆をもって古河城を攻撃し、攻略に成功。 氏康は、降伏した晴氏を捕えて相模秦野に幽閉した。

   晴氏の挙兵を鎮圧したあと、公方権力は梅千代王丸に一本化され、梅千代王丸は氏康の計らいで元服し。足利義氏を称して従四位下・右兵衛佐に叙位・任官され、鎌倉八幡宮への参詣を遂げた。   これは武家政権の始祖源頼朝を強く意識した行動とみられる。
 
   北条氏康は、天文二十年(1551)に元服、仮名新九郎を称したとみられ、それに伴って左京太夫に任官したと推測される。 この官途は鎌倉幕府執権北条氏歴代のものであった。  ここに頼朝に凝された公方義氏と、執権北条氏に擬された管領氏康による新しい政治秩序が形成された。

   このように、関東における勢力をほぼ順調に拡張してきた状況の一方、天文二十年からは駿河今川氏・甲斐武田氏との三国同盟交渉を開始している。  氏康の娘早川殿が今川義元の嫡子氏真に嫁ぎ、氏康の嫡子氏政が武田晴信の娘黄梅院殿を娶って、互いに婚姻関係によって結ばれた強固な攻守軍事同盟が成立された。  この同盟形成により、氏康は今川・武田両氏をバックとする事で、関東経略に専心できたのである。
鎌倉・風景 Ⅲ    瑞泉寺山門
瑞泉寺山門
瑞泉寺道・桜
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六国見山~富士を望む
六国見山~富士

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令和二年・庚子・辛巳・戊寅

鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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2020年04月
  1. 戦国北条氏・五代(04/30)
  2. 戦国北条氏・五代(04/25)
  3. 戦国北条氏・五代(04/20)
  4. 戦国北条氏・五代(04/15)
  5. 戦国北条氏・五代(04/10)
  6. 戦国北条氏・五代(04/05)