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戦国北条氏・五代

2020.05.30(07:30) 302

**戦国大名・北条一族

**圧倒的な織田軍の力

   北条氏は、信長からの詳しい連絡が無かったため、このころは、織田氏と武田氏の戦闘状況について情報収集に努めていが、ようやく織田氏からの連絡を得たとみえ、早々に陣触れを発し、駿河・上野への侵攻を開始した。 駿河方面へは北条氏規(氏政弟)・太田源五郎(氏政次男)を大将として、徳倉・沼津両城と深沢城(御殿場市)を相次いで攻略し、吉原(富士市)まで侵攻して河東地域一帯を制圧した。   さらに富士川沿いを北上して、甲斐に向けて進軍している。一方、上野方面では氏邦を大将として、神流川を越えて西上野に進攻し、箕輪内藤昌明・和田信業らの調略に成功している。

   勝頼は織田軍の侵攻を阻止できず、信濃から甲斐に後退し、さらに、本拠・新府城(韮崎市)からも退去して郡内方面への逃避を図った。  方や織田方では、信長がようやく出陣したのは、その翌々日の事であった。先陣の信忠は早くも甲斐に進攻し甲府に本陣を据えている。  また、信忠の弟信房らは上野に進攻し、武田方の国衆らの従属を進めている。
 追い詰められた勝頼は遂に、東郡田野(甲府市)において滝川勢の攻撃を受けて、妻桂林院殿(氏政の妹)・嫡子信勝ともども自刃している。 ここの武田氏は滅亡することになる。

   信長は信濃諏訪に陣を構え、降参衆らの出仕等を受けた。  氏政は湛山という者を使者として信長に進物を送ると共に祝儀を言上し、その後三回に渡って進物を進上している。

    北条氏は、武田氏滅亡の時点で駿河河東地域、上野中央部を制圧していたが、信長による旧武田領国の仕置きで、上野は東国への取次を担当した滝川一益に、駿河は徳川家康に与えられ、北条氏は全くその配分にあずかれなかった。むしろ、北条氏の勢力下にあった東上野も、信長の領国として確定され、北条氏は上野からの後退を強いられた。

   武田氏滅亡後、氏政は、伊豆三島社に願文を捧げている。 願文の趣旨は「信長公がかねての約束通りに、氏直への娘の輿入れを一刻も早く実現してほしい」というものである。  さらに「輿入れが実現すれば北条氏と織田氏との関係は入魂となり、氏直の関八州の領有も実現される」と述べている。  氏政が信長との婚姻関係の成立を切実に願っている事が解かる。
  北条氏が数年にわたって抗争していた武田氏を、僅か一か月で滅亡させてしまった織田氏の圧倒的な実力を目の当たりにした氏政は、信長との友好関係なくして自家の存続と発展はありえないという事を認識していた。

   天正九年3月、滝川一益は織田信長から上野一国・信濃ニ郡を与えられたが、それ以前に西上野の箕輪城(高崎市)に入城して、領国支配の拠点とした。  そして上野国衆を自身の許に出仕させ、人質を徴収するなどし、本領・新恩の知行などを行って、上野国衆の把握を進めていた。  同時に下野・上総の国衆、安房里見氏、陸奥の芦名氏、伊達氏らの関東・南奥の緒領主に対し、織田氏への従属、或は友好を呼びかけている。

   ところが、この年6月2日に京都本能寺の変によって信長が死去した為、俄かに織田分国は分裂化の様相を示した。 信長死亡の情報は同10日前後には関東の緒領主も入手し、事の真相を一益に尋ねている。 これに対し一益は緒領主の動揺を怖れてか、つとめて平静を装う返答をしている。
武田氏・印  上杉氏・印  織田氏・印(天下布武印)
名将・印判
戦国北条氏・累代朱印
虎・調の印判

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戦国北条氏・五代

2020.05.25(07:00) 301

**戦国大名・北条一族

**家督・交代と織田政権への従属

   天正八年(1580)8月、氏政が氏直に「軍配団扇」を譲渡している。  軍配団扇とは軍勢を指揮する為の団扇で、いわば軍事指揮権を象徴するものである。 軍配団扇が氏政から氏直へ譲渡されたという事は、その軍事指揮権の譲渡を意味するから、すなわち、家督の委譲を示している。  
 その時期は、氏直が伊豆に向けて出陣する直前であった可能性が高い。 「軍配団扇」の譲渡は、その出陣に際して行われたと推測される。 

   それではなぜ、この時期に家督の交代が為されたのか。 直接の理由を示す史料は見当たらないが、おそらく信長に派遣していた使者が帰国し、氏政の申し入れに対する返答が伝えられ、これを受けて、信長の娘婿となるべき氏直を一刻も早く家督に据える必要が生じたのであろう。 その為氏直の出陣にともない、実質的な家督の交代が為されたのではないかと考えられる。
  北条氏は、織田政権への従属の道を選択した事で、その実現の為家督の交代が為されたとみられる。  この後、氏政は「御隠居様」と称され、「截流斎」の斎号を称した。
  一方の氏直は「御屋形様」、その陣中は「大手」と称されることになる。 氏政は四十三歳、氏直は十九歳であった。  翌年には軍役改定、検地に代わる増反銭の設定などの、「代替り」政策が行われた。  もっとも、隠居とは言っても立場は当主と同等であり、権力から離れたわけではない。 事実、氏康がそうであったように、氏政においても実質的な北条氏権力の最高指導者として君臨し、当主氏直を立てつつ、実質的には北条氏権力を主導していくのである。

   天正九年3月、徳川家康は遠江における武田方の最大拠点である高天神城(静岡・大東町)の攻略に成功し、これにより武田氏は遠江からの実質的な撤退を余儀なくされ、その衰勢は決定的となった。 これを受けてか、氏政は相模津久井衆・武蔵滝山衆らを甲斐郡内に進攻させている。
  さらに、武田方の西上野国衆の宇津木下総守を凋落し、、白井長尾氏の凋落にも成功している。  他方、佐竹氏等は榎本城を攻撃するなど、小競り合いが続いている。

   北条氏は八月、沼津城に対する向かい城として新たに徳倉城(清水町)を構築。  同じころ、伊豆在陣と見られる大藤式部少輔政信が天神ヶ尾城を攻撃し、さらに徳倉在城衆が沼津城を攻撃している。  徳倉城には伊豆郡代笠原新六郎政晴が在城した。 彼は宿老・松田憲秀の長男であったが、笠原姓を継いでいる。詳しいことは不明である。
  ところが天正九年10月、その笠原政晴が武田方の沼津城将曽根河内守の調略によって、武田氏に寝返るという事態が生じた。 これを受けて勝頼は、その支援の為援軍を派遣し、さらに自身も駿河に出陣した。  又氏政・氏直も伊豆に出陣し、両軍は再び国境に於いて対陣した。 しかし、ここでも双方ともに決定的な動きは無く、冬を向かえ帰国している。

    北条・武田両軍がそれぞれ退陣した頃、織田信長からからの死者が徳川家康の許にもたされ、来春における武田氏攻めが通知されていた。 明けて天正十年(1582)、信濃の木曾義昌が武田氏から離叛して信長に従属した。 これを皮切りに、信長の嫡子信忠、重臣滝川一益らを先陣とする織田軍の武田領国への侵攻が開始された。 続いて家康も駿河に進攻した。
戦国北条氏・五代氏直系図
五代氏直代
北条氏政・氏直の朱印
虎・武栄朱印
小田原城・銅門
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戦国北条氏・五代

2020.05.20(09:30) 300

**戦国大名・北条一族

**徳川家康と結ぶ

   天正七年(1579)8月、武田勝頼は、駿河に出陣し、伊豆国境に沼津城(沼津市)を構築して北条氏に対して公然と敵対行動を執った。  さらに佐竹氏ら反北条方諸将との連携を図り、両者間に同盟が成立していた。  佐竹氏等は、小山・榎本への攻撃を断続的に継続しており、勝頼との盟約成立を受けて、さらに常陸土浦(土浦市)森屋(守谷市)・古川を攻撃した。
  こうした勝頼の敵対行動に対して、氏政は遠州徳川家康と盟約し、軍事行動を連携して勝頼の挟撃を狙った。  そして下野・下総に進攻してきた佐竹氏等に対しては、嫡子氏直を出陣させ、氏政自身は伊豆に出陣し、同時に泉頭城(静岡・清水町)等を構築して防御を固めた。
  そして両軍は伊豆・駿河国境の黄瀬川を挟んで対陣した。 ここに、北条氏と武田氏は、本格的な抗争を開始した。 北条氏は徳川氏と武田氏は佐竹氏等とそれぞれ盟約関係を結び、互いに遠交近攻策を取って対抗したのである。 氏政は家康と盟約したうえで、さらにその同盟者である織田信長への接近も図った。

   黄瀬川での対陣は双方に決定的な動きは無く、年末には氏政が対陣し、これを受けて勝頼は伊豆に進攻に進攻したうえで、甲斐に帰国している。
  しかしその間に、勝頼は厩橋北条高広・那波顕宗・河田重親・白井長尾憲景ら北条氏に属す旧上杉方の国衆の調略に成功し、彼らをもって氏邦の家臣が在城していた沼田城を攻撃させている。 これにより上野において北条氏に従属する国衆は、御館の乱以前からの由良國繁・館林長尾顕長・富岡六郎四朗のみとなった。  また佐竹氏等の侵攻は、下野小山から下総古河・森屋に至る広い範囲に渡って断続的に行われており、さらに上野・武蔵国境地域でも北条・武田両軍の抗争が展開され、北武蔵最大の拠点である氏邦の居城鉢形城が武田の攻撃にさらされた。

   武田氏との抗争は、氏政にとっては劣勢の展開であったと言える。その為天正八年(1580)、氏政は織田信長に再び使者を派遣した。  この時の使者派遣の趣旨は、「御縁辺相調え、関東八州御分国に参る」というものであった。  織田氏側の認識ではあるが、氏政は北条氏と織田氏との婚姻関係の成立を要請し、これをもって北条氏はその領国を信長の領国のうちに参じる事を申し出た。 言うまでもなく、これは北条氏の信長への従属の表明を意味した。

   氏政は勝頼の攻勢の前に、ついに中央政権織田氏の麾下に属す道を選択したのである。 因みに、両氏の婚姻関係については、嫡子氏直に信長の娘を娶るという約束が為された。 また、北条氏の領国は「関東八州」と称されているが、北条氏が現実に関東全域を領国化しえていないことは言うまでもない。 これは北条氏の関東全域の領有を信長が承認した事を意味していると捉えられている。

   信長への使者派遣ののち、氏政は再び家康と軍事行動を連携し、伊豆に出陣して六月初めまで伊豆・駿河国境で勝頼と対陣していた。一方、武田勢の伊豆方面への侵攻を受けて、再び家康との連携の上で氏直が伊豆に出陣している。
JR小田原駅~小田原城
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小田原城~JR小田原駅
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戦国北条氏・五代

2020.05.15(09:00) 299

**戦国大名・北条一族

**「御館の乱」

   天正六年(1578)3月、上杉謙信が死去した。 上杉では謙信の家督をめぐる景虎と景勝による家中を二分する激しい抗争が展開された。    「御館の乱」という。 景虎は、かって越相同盟の際に謙信の養子とされて越後に赴いていた氏政の弟であり、その為景虎は兄氏政に援軍の派遣を求めた。
 しかし氏政は、当時下総・常陸国境の絹川に在陣中であった為、直ちに本格的な支援は行えなかった。 その為同盟者の武田勝頼に援軍の派遣を要請するとともに、弟氏邦や新田由良國繁など上野の他国衆を通じて、厩橋北条高広・白井長尾憲景・沼田河田重親らの上野在国の上杉方諸将を凋落し、彼らをもって景虎支援の為の先鋒の役割を担わせた。
  景虎方諸将は、沼田城を攻略そのまま越後上田荘に進攻し、蒲沢城(南魚沼市)等を攻略した。 さらに上田荘の拠点である坂戸城(南魚沼市)まで攻撃を進めた。  氏政は厩橋北条氏・河田氏に蒲沢城の守備を委ね、翌年の氏政自身の進軍を約して、それまでの維持を命じた。
  一方、氏政から景虎支援の要請を受けた武田勝頼は、越後国境まで先鋒を進軍させていたが、上杉景勝と和議を結んだ。 勝頼は景虎と景勝との和睦の斡旋を図ると共に、景勝と正式に同盟(甲越同盟)を締結し、甲斐に帰国してしまった。  ここで勝頼は北条氏との同盟を破棄したわけではなく、氏政・景勝双方との同盟関係の構築を図りあわせて景虎・景勝の和睦成立をも図ったのである。  しかし景虎と景勝との和睦成立は不調に終わり、その為逆に、勝頼と景勝の同盟は景勝方に極めて有利に作用し、景虎方の劣勢を決定づける事となった。
   翌年になると、景勝方の攻撃は強まり、厩橋北条氏・河田氏らの守る蒲沢城は攻撃され、上野に後退した。その後景虎も善戦したが敗れ、滅亡した。 御館の乱は景勝の勝利に終わった。

    この景虎の滅亡を受けて、氏政は上野支配権の掌握を表明し、旧上杉領国と上杉方諸将を領国下に収めた。  かつて越相同盟に際して、北条氏は上杉氏に上野支配権を譲渡したが、それは景虎の上杉への養子入りと一体のものとして認識されていたらしい。 氏政にとって、景虎が滅亡した以上は支配権譲渡も消滅し、再び北条氏が掌握するものと認識していたと考えられる。 こうした経緯から、氏政と勝頼の関係は次第に悪化していった。  甲越同盟の締結にあたって、勝頼の妹が景勝に嫁ぐという両者間の婚姻関係が成立し、景勝は東上野支配権を勝頼に譲渡したとされる。
 ここに、北条氏と武田氏は、共に東上野支配権の掌握を主張する事となった。 北条氏は武田氏に対して警戒心を高め、小田原城の整備を行っている。 これは武田氏との対決を想定したものと見られ、両者の衝突は避けられない状況となっていた。  
上杉輝虎養子・北条景虎(氏政異母弟)
上杉景虎
景虎兄弟・北条氏照・氏邦(異母兄)
四代氏政兄弟
小田原城・堀端
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戦国北条氏・五代

2020.05.10(10:00) 298

**戦国大名・北条一族

**氏政・関東諸将との対決

   まさに、戦国だ。・・・・・・天正三年(1575)、北条氏の経略の標的は下野小山氏、安房里見氏らに向けられた。 こうした状況に対して、佐竹氏、・宇都宮氏は再び謙信と盟約したのをはじめ、謙信と里見氏との盟約、佐竹氏と里見氏の盟約が相次いで成立され、謙信と佐竹氏・里見氏との政治的連携関係が成立した。

   謙信は里見氏からの要請を受けて、九月下旬頃に、「越山」したが、大きな成果を得られずに、十一月初めに帰国した。 もはや謙信の「越山」も大きな効果をもたらさなくなっていた。  そして北条氏は、小山氏の本拠小山城の攻略を遂げ、小山秀綱を佐竹氏のもとえ追った。氏政は小山城を弟氏照に与えている。

   天正四年(1576)、北条氏は再び上総に侵攻した。酒井氏を服属させ、有木城(市原市)を取り立てて里見氏を圧迫した。 翌年、再び房総に出陣し里見方の長南武田氏を従属させた。 さらに里見氏の本拠佐貫城(富津市)を攻撃した末に、里見氏と和睦を結び、同盟関係を成立させた。 さらにその帰路に、常陸小田城(つくば市)攻略の為、下総相馬郡に進軍している。
  これによって以後、里見氏との抗争は見られなくなり、房総半島の情勢は一応の安定を見る事になる。 因みに、この房総への遠征では嫡子・氏直の初陣が遂げられている。

   こうした北条氏の下野進出、房総平定により、佐竹氏らの関東諸将は危機感を強め、上杉氏に頼りに「越山」を要請した。
 そのころ、佐竹氏と結城氏との和睦が成立し、結城氏は北条氏から離反した。  彼らは互いに婚姻関係を結び、佐竹氏を中心に「一統」する状況が生まれ、反北条連合が形成された。  結城氏の離反に対して北条氏は、公方領国防衛の為に新たに飯沼城(坂東市)を築城し、北条氏繁(玉縄四代)を城代として派遣した。

   翌天正六年に入ると、北条氏は陸奥の伊達氏・芦名氏と連絡を取って、いよいよ佐竹氏攻略を実行に移した。  宇都宮氏が北条方の壬生氏を攻撃し、佐竹氏・那須氏らがその援軍として出陣したのを受けて、北条氏は芦名氏・田村氏等、南奥勢力と連携して佐竹氏の挟撃を謀ると共に、壬生氏救援、結城氏攻略のために北下総に出陣した。
  次に、北条氏は結城・山川両城を攻撃、これに対し佐竹氏等北関東諸将は、結城氏救援の為南下してきた。 そして北条氏は結城陣に、佐竹氏らは常陸小川台(下館市)にそれぞれ陣して、両軍は絹川を挟んで対陣することになった。 この両軍の対陣は、双方とも決定的な作戦を遂行することが出来ず、ひと月以上の対陣の末、ようやく停戦となってそれぞれが退陣した。 北条氏は、北関東諸将の連合の前に、立ち往生することになる。
玉縄城(鎌倉市・大船)三代城主・北条綱成  同四代・氏繁(飯沼城代)を拝命
綱成・室・氏繁
大船観音(JR大船駅~) 玉縄城砦跡に造営された
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玉縄城全景(鳥瞰イラスト)
玉縄城鳥観図

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令和二年・庚子・壬午・癸丑

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戦国北条氏・五代

2020.05.05(09:30) 297

**戦国大名・北条一族

**上杉謙信との攻防へ・再度

   甲相同盟の締結により、再び北条氏・武田氏と上杉氏との抗争が始まる。  元亀元年(1572)、関東在陣中の上杉氏によって武田方の西上野・石倉城(前橋市)の攻略、倉賀野城(高崎市)における両軍の合戦が始まった。
  一方、それまで武田方とよしみを通じていた常陸・佐竹氏・安房里見氏らが上杉方に属し、下野宇都宮氏らが佐竹氏と和睦し、或は上杉方の常陸・小田氏が北条氏に属すなど、緒勢力の結びつきにも変化が見られた。  それらは何よりも互いの領主間抗争に重点を置いていたため、北条氏や上杉氏といった上級権力の動向が変化すると、連動する様にそれぞれの帰属関係が変化させていた。
  そして北武蔵では、羽生城(羽生市)の木戸氏、深谷城(深谷市)の深谷上杉氏、北下総では関宿城(野田市)の簗田氏が上杉氏勢力の最前線に位置しており、氏政はまずこれらの勢力に対して本格的な経略を進め、秋には氏政が出陣して攻撃を増している。 又、佐竹氏等の北関東の反北条勢力との抗争も展開され、年末までには下野まで進出している。

   天正二年(1574)に入っても、北条氏の関宿・水海両城に対する攻撃は続き、武蔵岩付城代北条氏繁が深谷・羽生両城への攻撃を行っている。 こうして北条氏の攻撃が強まる中、関東諸将の要請に応じて上杉謙信が「越山」し、利根川を越えて武蔵に侵攻、関東諸城を攻撃し下野小山城(小山市)に進み、宇都宮に在陣の佐竹氏の参陣を待った。
  しかし、佐竹氏は、謙信の要請を受けて出陣してきたのだが、謙信に対する不信感から同陣を拒否し、さらには関宿城の扱いについて一任される事を要求した。   この頃、上杉方であった結城氏が再び北条氏に従属している。 
  「越山」をして来たものの、一進一退の戦いに終始、冬を迎えるため越後に帰国している。

   その後、北条氏と佐竹氏の間に和議が成立し、佐竹氏等の仲介により簗田氏は北条氏に従属した、簗田氏は北条氏から赦免を受け、関宿城から退去して水海城に後退し、関宿城は北条氏に接収された。  こうして北武蔵・北下総をめぐる北条氏と上杉氏の攻防は、北条氏の関宿城攻略、上杉氏による羽生城からの撤退により一応の決着が付けられ、武蔵・下総ともに北条氏の勢力下に帰した。

   簗田氏の従属により、もはや公方奉公衆のなかで公方足利義氏=北条氏に敵対する者は無くなり、公方勢力は完全に義氏の下に統一された。 同時に、公方領国全域が完全に北条氏の勢力下に収められた。
氏政弟・・・・氏照・氏邦の正室
四代氏政兄弟
北条氏政夫人墓(右手)・ 氏政・氏照墓    JR小田原駅前
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氏政夫人墓

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2020年05月
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