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戦国北条氏・五代

2020.06.30(08:00) 308

**戦国大名・北条一族

**北条氏邦(氏康四男)

   母は瑞溪院殿とされている。 生年は諸説あり、凡そ天文十年、十二年説などがある。 何れも後世の史料に拠るもので確定できない。 北条家の系図では天文十年生まれとしてあるのでこれを採用しよう。
  幼名は乙千代。 武蔵花園城(埼玉寄居町)を本拠とする他国衆藤田泰邦の婿養子となって、その家督を継承する。
  泰邦は、弘治元年(1555)9月に死去している。子には娘大福御前と嫡子梅王丸があったが、梅王丸は早世したという。 その為氏邦は、嫡女大福御前の婿となって家督を継承したとみられる。  時期については明確ではないが、永禄元年(1558)以前と見られ、その支配領域は藤田領と称された。   家臣秩父衆に対し本領を安堵する判物を発給しているのが史料上の初見で、時に二十一歳である。
  この間に元服したとみられ、実名氏邦を名乗った。  これは養父泰邦の「邦」に、北条氏の通字「氏」を冠したものである。 実名が確認されるのと同時に、朱印状の発給も確認される。
 名字は、初めは藤田名字を称した。  同名字は天正十年まで確認され、以降は北条名字を称しているから、その間に北条名字に復した事が知られる。 仮名は慎太郎を称した。 現在のところその初見は、永禄十二年まで確認され、受領名安房守を称しており、その間に改称したことが知れれる。 受領名安房守は、上野を本国とした山之内上杉氏歴代のものであり、氏邦は北条氏の上野支配を中心的に担った来たので、氏邦による同受領は、その政治的地位の継承を表明するものと見られている。

**氏邦の動向と上野支配

    氏邦は、永禄十一年(1568)12月までに、鉢形城(埼玉・寄居町)を再興して、本拠を移している。 ちょうど甲斐武田氏との抗争が展開され始めた時期にあたるから、これはそれへの対抗と見られる。以後、支配領域は鉢形領と称され、氏邦も在所名から「鉢形」とも称されている。 その後、甲相同盟に伴う「国分」の結果として、武蔵御嶽領が武田氏から北条氏に割譲されると、氏邦は同領を与えられて鉢形領に併合している。

   氏邦も他国衆に対する指南を多く勤めている。 武蔵の深谷上杉氏、上野の新田由良氏・館林長尾氏・小泉富岡氏・国峰小幡氏・安中氏・和田氏・白井長尾氏・不動山河田氏・深沢阿久沢氏などが確認される。
  とりわけ上野に集中しており、氏邦の主要な役割が上野に置かれていた事が解る。

   北条氏は、天正六年(1578)の越後御舘の乱で上杉方の沼田城を攻略しており、同城は氏邦に与えられ、家臣の家老富永能登守助盛、その後、重臣用土新六郎が城代として置かれている。
その後、滝川一益没落後、再び上野で支配領域を獲得する。 具体的には、国衆箕輪長野氏の支配領域に系譜をひき、武田氏、滝川氏に継承された西上野の箕輪領と、武田氏滅亡に伴って没落した西上野の三ツ山城(藤岡市)を本拠としていた国衆長井政実の支配領域を中心としたものであった。
北条氏邦系図
氏邦・氏照系図
北条氏邦・朱印
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戦国北条氏・五代

2020.06.25(08:00) 307

**戦国大名・北条一族

**氏照の動向・続

   氏照は、他国衆に対する指南(取次)を多く勤めている。  永禄五年(1562)には下野佐野氏に対して勤めているのをはじめに、上総勝浦正木氏、武蔵忍成田氏、上野厩橋北条氏・那波氏、下総関宿簗田氏、同栗橋野田氏らの古河公方家臣、下総結城氏、下野壬生氏、常陸佐竹氏、牛久岡見氏、足高岡見氏、陸奥芦名氏・白川氏、田村氏、伊達氏等が確認されている。
  古河公方勢力及び下野国衆、陸奥大名層が多くみられるのが特徴である。 受領名に陸奥守を称したのは、こうした陸奥の緒領主との関係に基づいていたかも知れない。

   古河公方足利氏との関係は、永禄十年に公方家宿老の簗田氏・野田氏に対して、北条氏への従属を取り次いだ事から明確に見られるようになる。 この後、野田氏は本拠栗橋城(五霞町)から退去させられ、北条氏から在城衆が置かれた。 後に氏照が管轄したとみられるので、在城衆も氏照の軍勢であったとみてよいだろう。

   さらに氏照は栗橋衆を由井城在番に充てるため、前城主野田景範にその間の栗橋在城を要請している。 しかし、北条方としての野田市の存在はこれを最後に見られなくなり、その後、妻の実家簗田氏との関係からか上杉氏に従属したようである。  これに対し北条氏は、元亀三年(1572)12月に、これを攻略し、城主野田景範を追放している。 同城とその支配領域は氏照に与えられ、城代に家老布施美作守景尊が置かれた。  

   氏照が古河公方足利義氏の後見役を務めるのは、これより後の事で、天正二年(1574)2月から確認される。 この時、義氏は古河城に、氏照も栗橋城に在城していたようである。 こうした両者の一体的関係の形成を受けて、氏照はその後見役を果たすようになったとみられる。  この後、氏照は北条氏と古河公方家の両者間における取次を一身に担い、北条領国内に所在する義氏御料所支配を管轄した。

**氏照の妻子

   天正十八年(1590)の小田原合戦において、氏照は本城小田原城に籠城した。  合戦後、その責任を問われて、兄氏政と共に自害した。  五十一歳   
  妻は養父大石綱周の娘と見られる。  大石氏関係の系図類では、前代の道俊の娘とするものが多いが、氏照とは世代が合わないうえ、それらでは通俊の子綱周の存在が脱落してしまうので、誤って伝わったとみられる。  名は「お豊」とも「比佐」ともされ、天文十六年の生まれで、文禄三年の死去、享年48歳と言う説もあるが、別の史料では天正十八年の八王子城落城と共に死亡したとの説もあるので、この説を取りたい。
 
  氏照は男子が無かったため、兄氏政の子を養子にしたが、二名が伝わる。  四男直重であり、その養子から数代は大石名字を称している事から見て、事実であった可能性は高い。  その後直重は下総千葉邦胤の婿養子として家督を継承し、そのまま小田原合戦を迎えるから、氏照の養子となったとすればそれ以前の事であったと推測される。
 もう一人は源蔵である。 「源蔵」は氏照の仮名源三と同意であるから、氏照のそれを襲用したと考えられる。 氏照の養子となったとすれば、兄直重が千葉氏の養子になった後、それに代って養子とされたと推測される。 
戦国北条氏・五代の墓  (箱根湯本・早雲寺)
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小田原城で自刃した氏政・氏照兄弟の墓 (JR小田原駅付近)
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北条氏政・氏照墓

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戦国北条氏・五代

2020.06.20(09:00) 306

**戦国大名・北条一族

**北条氏権力を支えた氏政の兄弟

   永禄年間以降の北条氏権力に於いて、当主氏政・氏直を支えた中心的な存在は、氏政の弟たちである。
  彼らは氏政の兄弟衆と称され、軍事・外交、さらに領域支配と、あらゆる側面において大きな役割を担っていた。 氏政の弟は、氏照・氏邦・氏規・景虎がいたが、このうち景虎は越後上杉氏の養子となった。 その為兄弟衆と言った場合,それは具体的には氏照・氏邦・氏規の三人であった。

ⅰ 北条氏照

   氏康の三男で、母は瑞溪院殿とされる。  生年については諸説があり、天文九年、十年、十一年の説があるが、何れも後世の史料によるもので確定は出来ない。  北条氏作成の系図類のなかで最も充実した内容の「狭山藩史料一」 所収北条家系図では、天文九年生まれとしているから、これを使う事にする。
  史料上の初見は下総葛西城で行われた古河公方足利義氏の元服式で、父氏康に従って参加している。 十六歳。後に氏照は足利義氏の後見役を勤めるが、この元服式に参加した御一家衆は氏照だけであるから、すでにこの時から予定されていたとみられる。

   続いて、相模東郡座間郷鈴鹿明神社(座間市)再造棟札銘に、大旦那として「北条藤菊丸」の名が見える。 同郷は武蔵由井城(八王子市)を本拠とする他国衆大石綱周の所領であった。 藤菊丸は、大石綱周の婿養子となってその家督を継承するが、この時点で養子となっていた事が確認される。 さらに綱周についての史料上の初見が前年までしか見られないから、この時点ですでに家督を継承していた可能性もある。

   永禄二年(1559)十一月から、氏照は由井領支配の為の朱印状を発給している。  朱印は、「如意成就」の印文を刻んだ方形の物で、この後、同十二年七月までの使用が確認されている。 ちなみに、その後の印判は、印文未詳の別朱印を使用している。

    永禄四年(1561)3月に、「大石源三氏照」と署名しており、大石名字、仮名源三、実名氏照が確認される。  大石名字は、大石氏の家督を継承した存在であることを明確に示し、元服もしくは家督継承に伴って称したとみられる。 仮名源三は、養父綱周のそれを襲用したものである。 また、在城名をとって「由井源三」と称されることもあった。
  元服は、弘治二年から永禄四年のことになるが、年齢的な事を考えると、弘治二年がからそれほど下らない時期に行われたのではないかとみられる。 名字についてはその後、越後上杉謙信に送った書状で「平氏照」と署名しており、平姓=北条名字に改称している。 仮名源三は天正三年まで確認され、受領名陸奥守を称している。  「北条陸奥守」は、鎌倉幕府執権北条氏に於いては、相模守・武蔵守に次いで北条氏の有力者が称する由緒のあるものであった。 氏照の同受領も、そうした由緒を踏まえたとみられる。

   氏照は、その本拠を二度に渡って移転している。 永禄三年に由井城が攻撃され。おそらく、上杉氏に応じた周辺の敵対勢力によるものと思われる。 氏照は上杉氏の来攻に際しては同城に在城し、支配領域の維持に努めた事が窺われる。
  北条氏は謙信方に属していた武蔵勝沼領の三田綱定を滅亡させた。その支配領域はすべて氏照に与えられ、氏照は大石氏の由井領に加え併せて領有する事となった。

   永禄六年4月から十年9月までに、滝山城(八王子市)を新築し、本拠を移した。  上杉氏との攻防に対応する為で、これにより、その支配領域は滝山領と称された。 その後、天正九年には八王子城を新築し本拠を移した。  ちょうど甲斐武田氏との抗争が展開されて時期にあたるから、それへの対応とも考えられる。
北条氏照墓 (兄氏政と共に一時この地に葬られた)
北条氏政・氏照墓
北条氏照朱印
名将・印判
玉縄北条氏・供養塔   (鎌倉市植木・龍宝寺)
玉縄北条・供養塔

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戦国北条氏・五代

2020.06.15(08:00) 305

**戦国大名・北条一族

**氏政の妻・子女

    氏政の妻は二人の存在が確認される。最初の妻は武田信玄の長女黄梅院殿、後妻は出自不明の鳳翔院殿である。
 黄梅院殿は、天文十二年(1543)生まれ。 甲相駿三国同盟形成の一環として氏政に嫁いだ。その後は「小田原南殿」と称されている。 一男一女をもうけたが、嫡男は早世し、女は千葉邦胤室の可能性が高い。  その後、永禄五年(1562)に長男氏直、三男氏房を生んでいる。 さらにその後四男直重をを生んでいる。

   しかし、信玄の駿河侵攻によって、北条氏と武田氏の同盟関係は崩壊し、おそらく黄梅院は離別され、武田氏の許に帰された。 堪忍分として甲斐南古荘内に一定の領地を与えられた。 しかし、暫くして甲府で死去している。享年二十七歳、法名は黄梅院殿春林宗芳大禅定尼。 甲府大泉寺内に菩提寺として黄梅院を建立している。

   後妻の鳳翔院殿については、具体的な事は殆ど伝わらない。  そして籠城中の天正十八年(1590)に死去、法名は鳳翔院殿寄雲宗崇大禅定尼。 これは氏政の母瑞溪院殿と同日の死去であるから、自害の可能性があろう。

   氏政の子女としては、七男三女が知られているが、実際の長男として、弘治元年に誕生している某がいるが、早世している。母は武田氏。この某の死後に長男として生まれたのが、家督を継承した氏直で、永禄五年生まれと伝わる。母は武田氏で幼名は国王丸。
  次男は源五郎で母は武田氏とみられ国益丸、後に岩付城主になる。  三男は氏房で、母は武田氏で幼名は菊王丸、その後次男の後を受け岩付城主を務めたが、文禄元年に死亡している。
 四男は直重で、母は武田氏と見られる。仮名は七郎。はじめ叔父氏照の養子になっていたらしいが、下総千葉邦胤の遺女の婿となり、その名跡を継承し、作倉城主を勤めた。  小田原合戦後は阿波蜂須賀家の家臣となった。


   女子は、千葉邦胤室(芳桂院殿)・里見義頼室(竜寿院殿)・庭田重貞室である。  他に養女が三人あり、皆川広照室(実は中御門宣綱の娘)・小山秀綱室(実は成田氏長の娘か)・上杉氏憲室(実は北条氏重の娘)である。
功徳山早雲禅寺天嶽院・中雀門
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天嶽院・中雀門参道
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天獄院・真言密教の古寺「不動院」から始まる
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戦国北条氏・五代

2020.06.10(07:00) 304

**戦国大名・北条一族

**北条氏・関東統治へ

   ここに北条氏は、徳川氏との同盟締結、それによる国分により上野一円の領有権を確保した。しかし徳川氏から割譲を約された真田氏領の帰属問題は、この後直ちには解決されず、やがて訪れる小田原合戦への伏線を成す。

   家康との和睦により、氏直は天正十年11月に武蔵に退陣し、さらに小田原に帰陣した。 その一方で、離反した真田氏と味方の白井長尾氏らとの抗争が北上野に於いて展開され、北条氏は再び北上野に出陣した。 ここで上野国衆に参陣を要請したが、厩橋北条氏はこれに応じずさらに離反した為、北条氏はこれを攻略の為、利根川西岸の石倉城・惣社城を攻略。 次いで利根川を越え厩橋領侵攻した。 厩橋北条氏はこれに対して、越後上杉氏に服属を表明して、その援軍派遣を要請するとともに、佐竹氏、宇都宮氏らの反北条諸将とも連携を図った。
 佐竹氏等は、要請を受けて下野の皆川領と佐野領の中間迄出陣してきた。  その為北条氏は、厩橋領への侵攻を諦め一旦帰陣している。


   このような時期に、徳川家康の娘、督姫が小田原に着輿して、氏直との祝言が行われている。  この婚姻の成立により、徳川氏と真田氏領の沼田・吾妻二領の北条氏への割譲が正式に成立した。

    そして祝言の後、北条氏は厩橋北条氏の本格的な攻略に掛かり、秋口迄には攻略を完了している。  
  北条氏は圧倒的な実力を背景に、上野・下野にたいして本格的な攻略戦を展開したのである。 こうした状況に対し、吾妻・沼田領の真田氏は上杉氏と、また、佐竹氏・宇都宮氏・結城氏らの北関東の反北条方諸将も上杉氏との連携を遂げた。 さらに上杉氏を通じて京都の羽柴秀吉との結びつきを図っていた。 いわば広範な外交活動を展開する事によって北条氏の攻勢に対抗しようとした。

 北条氏の北関東への本格的な進出に際して、北条氏の権力的性格に大きな変化をもたらす事となったのが、関東の「将軍」である古河公方足利氏の断絶である。 古河公方足利義氏は死去したが、嫡子が無く、僅かに二人の娘が存在していたにすぎなかった。 その為に後継者を直ちに立てられなかったのである。
  義氏の葬儀は北条氏の主導の下に行われ、古河公方権力は完全に北条氏に包摂された。 さらにこの後、古河公方領国そのものを北条氏の直接的な支配下に治められて、名実ともに公方領国は北条氏の領国に併合された。

**関東領支配

   関東領支配は「御隠居様」が担い、同時に、同領に隣接する武蔵の江戸地域と岩付領の支配も管掌して領域支配体制の整備を図った。 そしてそれらの領域に対する一体的な支配体制を確立することになる。
  氏政によるこの三領支配の掌握は、同時に利根川水系と常陸川水系の掌握をもたらし、関東の流通・交通体系に決定的な影響力を与えるものであった。  その為北関東の反北条勢力は、北条氏に対する従属か、徹底抗戦かの選択を迫られる事となった。

   古河公方の事実上の断絶により、北条氏に実質的に包摂された事で、それまで有していた権力も次第に北条氏に移っていった。 例えば関東の国衆に対する官途補任は古河公方の権限であったが、以後、北条氏がこれを行っている。 国衆に対する官途補任権の事実上の掌握は、北条氏が関東における身分秩序体系のの頂点に位置し、構築者としての地位にたった事を示している。
  これにより、北条氏が「関東管領」という政治的地位をこえて、実質的な「関東将軍」化を遂げたことを示していよう。

功徳山早雲禅寺・天嶽院 山門   (藤沢市・渡内)
天獄院山門
天嶽院・参道・・・・・(伊勢新九朗盛時創建) 

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天嶽院・本堂・・・・・座禅道場が隣設されている
天獄院本堂

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戦国北条氏・五代

2020.06.05(08:30) 303

**戦国大名・北条一族

**織田信長の死~

    氏政も信長死去とその後に情勢については、徳川家康から連絡を受けていたようであり、滝川一益に書状を送り、「京都の様子」について実儀を尋ねている。  さらに氏政は、当方に対して少しも疑心を抱く必要のないこと、氏政父子に相談してくれたなら何事も精一杯協力する事を伝えている。

    おそらく、信長死去により北条氏・滝川氏ともに互いに「疑心」を抱き、武蔵国境地域の情勢が不安定になったのであろう。  その為北条氏は深谷に軍勢を派遣し、滝川氏も同様の動きをみせたと見られる。
  しかし、氏政が協力を申し出ているのはあくまでも社交辞令といえ、すでに武蔵国境に軍勢を派遣していることから見ても、両者の政治的対立は決定的であった。  そもそも北条氏は、上野半国の領国化を遂げていたにもかかわらず、それらが従属する国衆領であった事から、織田氏の東国進出に伴って、事実上の撤退を強いられていた。
  信長死去を契機に領国の回復を図った事は十分に考えられる。  根底には一益に従わざるを得ない状態にいた、国衆の思惑もあったとみられる。 そして数日後に両者は手切れとなり、氏直を大将とする北条軍が上野倉賀野を攻撃し、戦いは始まった。
  初戦では先陣を務める北条氏邦勢と上野国衆勢が激突して滝川方が勝利したが、続いた、氏直軍と一益軍との本軍同士が激突し、此処では氏直軍が大勝する。  敗れた一益は小諸城まで後退し、態勢の立て直しを図ったが、すでに上野国衆や東信濃の国衆のほとんどが北条氏の調略に応じた為、本国伊勢へ後退した。

**徳川家康との同盟

   滝川一益が上野・東信濃から没落すると同時に、信濃に配置されていた他の織田氏諸将も没落し、甲斐や信濃における織田分国はたちまち崩壊した。  そして俄かに空白地となったそれら旧織田分国に対しては、東信濃へは一益を追撃する形で北条氏が、北信濃へは越後上杉景勝が、甲斐・南信濃へは遠江徳川家康が進軍し、それら周辺大名の草刈り場となった。

   滝川軍を追撃しつつ信濃に侵攻した氏直は、真田昌幸ら小県・佐久両郡の国衆から出仕を受け、同時に諏訪郡の諏訪頼忠の従属に成功している。  一方、徳川家康は甲斐を制圧した後、信濃の経略を進め、先陣の酒井忠次が諏訪に侵攻するが、諏訪氏が徳川氏に従属しないため同氏を攻撃する。   諏訪氏は援軍を氏直に要請し、その為氏直は諏訪郡に向けて南進した。  さらに、先鋒の上野国衆小幡信真の軍勢が、諏訪高島城をする徳川軍に迫っている。
  ここに信濃領有をめぐり、北条氏は徳川氏との抗争を展開することになった。 氏直の進軍を受けて、諏訪在陣の徳川軍は甲斐に後退した。 氏直はこれを追って甲斐に侵攻し、新府城に在陣する家康と対陣した。

   ところが、信濃の真田昌幸が徳川方に寝返り、家康と連携した佐竹氏ら北関東諸将による上野・下野への侵攻がみられた。 また、家康も北信濃をめぐる上杉氏との攻防があり、織田信長の遺子信雄の勧めもあり、北条・徳川両氏は和睦を結ぶことになった。  さらに、家康の娘が氏直に嫁すという婚姻関係も約され、両氏間の和睦は同盟関係へと転換した。
信長の死後・・・上野での初戦で先鋒を務めた氏邦(氏政弟)
四代氏政兄弟
北条氏政・氏照兄弟・墓所・・・・・JR小田原駅付近
北条氏政・氏照墓

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